8話『三年の喪/晃之介道場』
天爵堂老人が死去して三年目になるらしい。
ひっそりと行われた法要は浅草寺内の報恩寺にある墓にて読経され、終わった後はその近くの草庵にて茶を呑んでいる。
三回忌は去年に済んだが、なんとなしに彼の家族は集まり今年も法要を行ったようである。儒者として亡くなった新井白石故に、手厚く祖霊を大事にしているのだろう。
集まったのは養子となった雨次こと新井靂卿と、同居しているお遊に茨。そして生徒として世話になった小唄。
そこまでは九郎も見知った顔だったのだが。
草庵にて茶を囲んでいる遺族の面々と自己紹介をし合って、彼はひそひそと靂に確認した。
「なんというかアレだな。普通に嫁や子供が居たのだな、天爵堂のやつ」
「ええ……僕も葬式のときに初めて知ったんですけど」
「そもそもあの老人、嫁は死んで息子は養子に放り出したとか言ってなかったか」
確か初期設定だとそうだった気がした九郎は、何か妙な気分で恐る恐る確認をした。
間違って覚えたことを本当のように信じ込んでいては大変である。
靂は苦笑いで云う。
「なんでも、息子さんの一人が亡くなって気分が落ち込んで一人になりたいとばかりに隠棲してたから、他人にはそう言っていたとか。嫁さんは嫡子な明卿さんの家に住まわせていたとかで」
「偏屈な爺さんだ」
「家族に会うのも外で会ってたみたいで、全然同じ家で生活していてもわからなかったですからね」
「騙されても仕方ない、というわけだのう。狸爺の妖怪に化かされていたようなものだ」
たとえ以前の記述で色々と違ったということがあってもそれは隠居した老人の虚言によってである。
地の文からして設定が違ったとか書籍版すらアレだったとかも情報操作か妖怪の仕業だ。過去に戻ってツッコミを入れてはいけない。
「なんか微妙に誤魔化してませんか、九郎先生……」
「ほんとに仕方ないー?」
「……」
小唄、お遊、茨の三人娘からの追求も無視した。
以前に小唄は出会っていたが、久しぶりにお遊に茨も見ればしっかりと成長しているようであった。二人共、少女時代は無頓着でやや粗末な服を巻きつけるように着ていたのに今はしっかりと着物をつけている。
ともあれ九郎と石燕は法要に来た面々を改めて見た。
まずは嫡子の新井明卿。三十代半ばで無役の儒者であるが、父親である天爵堂は実のところ隠居浪人なのに幕府より与えられた知行地を千石も持っており、彼はそれを受け継いでいる。
武蔵国野牛村というのが新井家の領地で、天爵堂手ずから治水工事に手を貸したり凶作時に施したりする仁政もあって実質千五百石程度の収穫を得て幕末まで管理していたという。
そして吉宗の命を受けて新井白石の書いた文書や政治論を纏めて上奏したのも嫡子の明卿である。彼も儒学者で父の書を纏めることを己に課していた。
「時々気の向いた本を書いておるだけで、よく収入があるなと思ったが土地持ちだったのかあの爺さん」
次に娘が二人、伝と長。それぞれ武家へと嫁に行っているが末娘の長などはまだ二十過ぎほどの年齢で、新井白石50歳のときに生まれたという。
そして妻の[妻子]。
「いかにも妻な名だのう」
「よく云われますよ」
品の良い老婦人と云った印象の妻子は、口元を隠して小さくと笑った。
天爵堂老人より12歳年下で、16のときに彼に嫁入りしてずっと支えてきた連れ合いである。新井白石が堀田家に仕えていた二十代後半から三十代前半の時期に婚姻をし、困窮した時も浪人であった時も側用人になった時も変わらぬ家族であった。
生まれは堀田家の家臣、朝倉万次郎の娘であり朝倉家は書物を多く持っていたので、書痴であった新井白石はその家に入り浸り書を漁っていたらそのうち流れで結婚することになったという。
明卿は茶を飲み干して云う。
「しかし、いきなりこちらにも相談せずに養子ができていたことは驚いたが──養父のために三年の喪に服してくれるとは大した孝行者だ。靂、改めて弟として困ったことがあれば何でも相談してくれ」
その顔は何やら感心しているようで、他人行儀さは見えるがそれよりも親しみを感じているようだ。
確かにまったく知らない子供がいきなり弟になっていたら少しばかり対応に困るが。
靂はしっかりとその養父の喪に服したのだ。碌に飯を食わずに三年も蟄居するなど、このご時世でも非常に珍しいぐらいであった。
それだけ、自分が見ていなかったときに父親と良い関係だったのだと思うと受け入れるのも吝かではない。もとより嫡子は明卿と決まっているし、明卿には息子も居るのでお家は安泰なのだ。ならば父の居た屋敷を受け継いで管理してくれる弟が出来たとて困るようなことは無い。
「あ、はい。ええと、その時はよろしくお願いします」
受け答えする靂は微妙に歯切れの悪い。
彼からしてみれば、一応で始めた喪が案外気分的にも肉体的にも楽だということに気づいての期間だったのだ。
厳粛にしていた、とは口が裂けても云えないので褒められると後ろめたくもあった。
老婦人は上品に頭を下げて告げる。
「三人も、靂ちゃんのことをよろしくね」
靂ちゃん。
と、不意にできた末の息子への呼び名に、靂は戸惑うように視線を彷徨わせる。
慌てて三人娘は頭を下げ返した。
「いえ、そんな。昔からの付き合いですから」
「だいじょーぶだよー。なー雨次、わたしと茨が居て助かってるよなー?」
「……」
「返事しにくいことを云うなよ……」
気まずそうに靂は頭を掻いた。
妻子は頷いて告げる。
「あの人が、宣卿を亡くして溜息ばかりになっていたのに養子として靂ちゃんを迎えたのには、大事な意味があると思うから……しっかり生きるのですよ」
「ええと、頑張ります」
「まずは引きこもり解消からだのう」
「ううう」
運動には道場に連れていくのが一番だが。
三年ほど鈍らせた体で六天流の鍛錬を再開したらゲロを吐くかもしれない。九郎は一応ついてやろうと思った。
「天爵堂の爺さんに似るにしても、隠居時に似なくてもよかろうになあ」
苦笑いをする九郎であった。
「天爵堂……そういえば、あの人は周りにそう名乗っていたのですね」
妻子がふと気づいたように云うので九郎は頷いた。
「ああ。基本的に誰にでもそう名乗っていたが……そういえばどういう意味の名前なのだ? 何かの号か?」
「それはね、書斎の名前なんですよ」
思い出に浸るような遠い目で妻子は云う。
「浪人だった頃、草庵を出て最初に建てた小さな家。その、窓から梅の木が見える小さな書斎のことをあの人は大げさに[天爵堂]と名づけて、人を呼んで議論をしたり勉強をしたりとしていたのです。一人になって、それを改めて名乗ったということには……深い思いがあったのでしょうね」
「ふむ……そういえば、千駄ヶ谷の屋敷にも梅の木があるな。いや、あったな」
「あった?」
「庭で宴会をしていたら酔っ払った影兵衛が切り倒して、マジギレした天爵堂が刀を持ちだして来たことが」
「酷い」
明卿がげんなりとした顔になる。三人の生徒らは、そういえばそんなことがあったなあと思いだした。年甲斐もなく殺人同心に真剣勝負を挑もうとする老人を三人で必死に止めたものだ。
咳払いをして九郎は話を逸らした。
「ところで[堂]はともかく[天爵]とはなんだ? 靂よ」
「それは……仁・義・忠・信を合わせて人が内に持つべき資質を[天爵]と呼び、公・卿・大夫など人が与えられる称号を[人爵]と呼ぶのだったかな。孟子で読んだことがある」
「仁義忠信を学ぶ場だから天爵堂か。まあ、大層な名付けではあるが儒学者ならばそうあるべきかのう」
九郎がそう云うと、妻子は口元を隠して軽く笑った。
「学者としては正しくても、女はいろいろ気苦労するかもしれないけれど……靂ちゃんを見捨てないで上げてね。あの人の若いころにそっくりですから」
「云われているぞ、靂」
「なんでだよ」
小唄に指摘されて否定するように返すが、説得力を彼女は感じなかった。
現在進行形で気苦労はしているのだが、諦める気になれないのが地味に厭らしい大変さである。
明卿が仲の良さそうな様子に笑いをこぼした。
「はっはっは。頑張れよ弟よ。言っちゃなんだが、父上はかなり母上に苦労掛けっぱなしだったからな。ああいう、偉大な人でも案外だらしないのだと思えば励みか反面教師になる」
「そうなのかー?」
首を傾げるお遊に妻子は懐かしそうに応えた。
「そうですねえ。昔話をすると───」
天爵堂の若かりし頃の話に、九郎も含めて静聴する姿勢を見せる。
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新井白石、堀田家に仕えていた頃。
妻を娶り数年。明卿が生まれたばかりの頃だ。白石35歳にして嫡男の誕生とあり、妻子も喜んで赤子をあやしていた。
『これから大変だけど、男児も生まれたんだから頑張らなきゃ! 家も貧乏だけどお父さんが一生懸命働いてくれるからね……!』
まだ言葉も通じない赤子にそう語りかけるぐらい家は困窮していた。
『ただいま。今戻ったよ。ところで貧乏だから堀田家にお暇を貰ってきた。明日から無職だけど頑張ろう』
『お父さぁ───ん!?』
嫡男が生まれたというのに同じ月に仕事を辞めて浪人になる新井白石。
その後、江戸で浪人生活をしている新井白石は、私塾などを開いて日々の糧を得ていた。
しかしながら白石的には私塾で教えるなど不本意で日がな一日、本人が勉強をしたがっていたぐらいである。
ただその知識と知恵は同じ学者仲間には非常に勿体無く感じられ、彼の師である木下順庵が手を回して仕官先を探してくれた。
『やったね明ちゃん! お父さん、なんとあの加賀藩に仕官が決まったんだって! 百万石の藩に迎えられてようやく生活が楽になるからね……!』
まだ一歳の子供にそう言い聞かせて、どうにか未来への希望へ胸を輝かせていた。
『ただいま。今戻ったよ。加賀藩への仕官の話だけど、友人がどうしても譲ってくれというので彼に譲ってきたよ』
『駄亭主ゥ───!?』
割のいい大大名への就職口を躊躇わず友人に譲る新井白石。
更にその後。どうにかこうにか、新井白石は名門の甲府徳川家に仕官することに成功した。
ただしその俸禄はかなり低く、仲介した木下順庵がどうにか禄を上げようと交渉したのだが白石自身が別に低くていいと受けたので貧しい生活は続いた。
それはともかく甲府藩藩主徳川綱豊からの覚えは非常に良くて白石は教師のようなことをしており、困窮ぶりを気にした彼から50両が下賜されることになった。
『やったね明ちゃん! お金が入るよ! いや本当はあの人が本を買い漁らなければ普通に暮らしていけるんだけど、それでも50両があれば新しいお家ができるよ!』
この時、火災で屋敷まで無くなり仮宿生活という物哀しい状態であった。
『ただいま。今戻ったよ。ところで下賜された50両全部使って鎧を買ってきたんだ。これでいざというときに忠を尽くせるというものだね』
『腐儒が───!』
家は燃えるから鎧なら燃えないと思った。by新井白石。
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「……」
靂は無言で頭を抱えていると、同じく無言な茨がぽんと肩を叩いてくれた。
知らなかった養父にして学問の師、隠居老人と妻子が語るフリーダムな行動が脳内で一致しないような、限りなく似合っているような不思議な気分であった。
九郎と他の二人の生徒も意外だったようだ。
「……あの爺さん、相当、その……変わり者だったんだな」
「天下に名高き儒学者、新井白石先生の図が……」
「あははは!」
にこにこと妻子もそんな皆の反応を面白がっているようだった。
「偏屈なのに自信家で、面白い人でしたわ。他にも、松尾芭蕉と俳句の勝負をしたりとか、自分は康煕帝と並び立つ政治家になるとか……」
「こーきてー?」
「清……唐国のひとつ前の皇帝だのう。天爵堂とは同世代だったか。ただ、長い中国史の中で多分三本の指に入る万能型皇帝だからのう……」
九郎はざっくりとした世界史の知識で応えた。康煕帝はライバル視するにはかなりランクが高い相手である。
なお彼も詳しくは知らなかったのだが、以前に石燕と将翁に教えてもらったのを鵜呑みにしている。彼が確かめる術など無いが、名君なのは確かだ。
松尾芭蕉相手に俳句を挑むのもかなりのものだが、ただ天爵堂は俳句よりも詩の方が多く残っていて、上方では評価が高かった。
「なんというか、割りと大変だったのだな。最後の数年は一人暮らししておったようだが……」
「父上は、祖父のような暮らしをしようと思ったのではないかな」
「祖父……というと、天爵堂の父か?」
明卿の言葉に九郎は問い返すと、彼は頷いた。
「祖父の新井正済は、父が記録にも残している文によれば厳格で、耐え忍ぶことを尊ぶ古き武士だったそうです。禄を食んでいるときも自分のことは自分でやり、浪人となってこの報恩寺の草庵で暮らした晩年も父とは別居して暮らしていたといいます」
「ふむ……」
子供の世話にはなるまい、と思っていたのか。
九郎はその気持ちがわかるような、自分ならば寂しくなるだろうなと思う心があった。
新井正済が死んだのはここに居る天爵堂の妻も子もできる前であったが、死ぬ前に白石は仕官が決まったことで安心をして逝ったようだと白石の記録には残っている。
まあその仕官先は給料が安くなったので妻と生まれたばかりの子を連れて辞めたのだが。
妻子が付け加えて云う。
「あの人は正直、隠者とか賢者とかそういう響きに憧れてましたからねえ……」
「いやそうぶっちゃけてやるなよ」
「特に貪欲で自発的な上昇志向も無いのに、自然とお上から見出されて出世し、天下に一石を投じる名政策をした後に誰からも惜しまれて後進に立場を譲るとか……そういうのが漠然とした目標だったみたいで」
「どこかで聞いたことのある前向きなのか後ろ向きなのかわからぬ生き方だのう……それで本当に一時はほぼ最高位にまでなったのだから凄いのだろうが」
恐らくは、多くの困難や苦境もあったのだろうが。
最後にはそれなりに満足した人生だったのではないかと、九郎は顰めっ面をしていた老人のことを思いだしていた。
死後にもこれだけ家族が偲んでくれるのだ。本人も、傍から見れば気難しい男だが周りからはそれなりに好かれていたのだろう。
「そうだ。靂卿。これを渡そう」
明卿が風呂敷に包んで草庵に置いていた、棒状のものを目の前に広げた。
「我が家の家宝、銘刀[猿引]だ。父の息子で生きているのはお前と私の二人故に、お前はこの脇差しを受け継ぐがよい」
本来ならば他に兄弟が二人居たのだが、いずれも早くして亡くなっている。
家宝、と云われた高そうな刀を渡されて靂は慌てて手を振った。
「ええっ!? いや、そんな家宝を養子の僕にだなんて……」
「安心しろ。私には父から、銘刀[蛇太刀]と国清作の脇差しの二本を頂戴している。ならば三本目はお前が貰うべきだろう」
「そ、そういうものですか……?」
「いいか、新井君美の息子よ」
明卿は静かに彼に云う。新井君美──天爵堂の本名だ。靂は厳かな雰囲気に、息を呑んだ。
「お前がこれからどのような人生を送るかは、お前の選択次第だ。家に縛られずとも良い。お前の選んだ道を止めぬし、困ったことがあれば支援もしよう。だが、刀は捨てるな。それを使うときが来なかったとしても、心には新井家の教えを留めておけ」
「……はい」
「多くを望め。人の一生は短く、道は険しい。十を目指してようやく一つ掴み取れるか、取れぬかだろう。棒のように太く生きようと試み、針のように細くなるものだ。己の信じた通りに生きろよ。お前はもう大人だ。己の足で先へと進める」
「はい!」
大きく返事をして、靂は猿引を握った。
脇差しだというのに重い刀だ。単に鋼と木の重さではない。一人の老人が抱えた何かの残滓を感じさせる、ずしりとした鈍い感覚が手から伝わってくるようだった。
彼と天爵堂は多くの会話があったわけではない。お互いに、他人と仲良くなるには難儀する性格だった。
養子になったことだって、情によるものではなかった。
『君の母親から頼まれていたのだけれど、僕の養子になるかい? 死んだ後で屋敷と蔵書の管理を任せるけれど、それ以外は求めないし求められても困る』
『本が貰えるなら構わないよ』
という、義理で聞かれて利点で応えたような関係であり、元服名を付けて貰ったぐらいしか父親らしいことはされなかった。なお蔵書は一部の天爵堂本人の随筆以外は息子の明卿は読んだことがあるので、そのまま靂に預けられている。
それでも──刀を持ち、重たく感じるものがあった。
「……靂や。持ってる腕が下がっておるぞ」
「すみませんこれ実際重い。腰につけたら体が傾きそう」
「脇差しがか!?」
靂の腕がプルプルしていた。袖から見える手首は骨が浮き出るほど細く、額には脂汗を掻いている。
決して猿引は特別に重量のある作りというわけではないのだが。九郎の持つどうたぬき+3の方が倍近くも重たいだろう。
変わらぬ笑い顔のままお遊が云う。
「雨次はここ三年、手には本と食器しか持ってないからなー。体が弱ってるんじゃないかー?」
しかも外には殆ど出歩かず、食事は粥。野菜を米と煮込んで出していたので、顎などは問題無いだろうが力や体力は大きく落ちているだろう。
何度も連れだそうと頑張っていた小唄は、細い靂の肩を掴んで主張する。
「なに!? それはいかんぞ靂! 私と特訓をしよう! 庭に植えた麻とかを飛び越えなくては!」
「そんなことしたら転んで死ぬじゃーん。ネズちゃんみたいにコウモリめいて飛び回れるわけないんだから」
「誰がコウモリだお遊ちゃん!」
「この前、雨次の部屋の天井にぶら下がってたし」
「あ、あれは……それにぶら下がってたからって包丁を投げなくても……いや待て! 顔は隠していたはず……はっ!?」
「……」
「ううっ茨ちゃんの視線が痛い……!」
語るに落ちている小唄をお遊と茨の連合軍が睨んでいる。
多少危うい均衡があったようだが、今ではストーカー気味なお節介幼馴染から守る同居幼馴染二人という形に落ち着いているようだ。
ストーカーに落ち着くのもどうかと思うが、九郎は苦笑する。
「まずはしっかり体を直さねばならぬのう……やれやれ、考というのも中々に大変なものだ」
天爵堂の家族も心配した目で、養父のために三年引きこもった子を見ていた……。
********
翌日のこと。
六天流道場へ向かう道中にて。
ひとまず三年の喪を終えた靂が再び通うことにして、その付き添いで小唄もやってきていた。
その間に茨は家事があるし、お遊は畑仕事に精を出している。暇というか、時間を割いても食うに困らぬ立場なのが彼女だけなのである。
「ふふーん。[付き添い]……いい言葉だな九郎先生! まるで付き合って添い遂げるみたいだ」
「そう解釈するやつは初めて見たが。靂は大丈夫か」
「はあ、はあ……すみません。歩くの早いので……そこらの貸本屋で休憩しませんか」
ついでに九郎も晃之介のところへ行きがてら、千駄ヶ谷に寄って靂を連れてきたのである。
しかしながらやはり体力が落ち込んでいて、腰に下げた脇差しも重ければ袴すら重たそうにしていた。家に居る時は白の単衣だけで喪に服していたのだ。
カンカン照りの日差しを受けて、吸血鬼が弱点を食らっているように弱っている靂は出かけたことを早くも後悔している。
「確実に一刻は出てこぬであろう。貸本屋で休憩するやつがあるか」
「靂。なんならさっき通った船宿で休憩していくか?」
「お主は休憩の意味が違う。まったく、他の娘から離した途端にこれだ」
「なんですか九郎先生。久しぶりに帰ってきたと思えば人を卑しいみたいに扱って」
「びっくりするぐらい卑しいわい」
引っ込み思案系ストーカーには十年以上も対処していた記憶があるので、九郎の小唄に対する扱いもぞんざいだ。
靂がよろよろと後からついてくるのを見返しながら、ひそひそと小唄は九郎に云う。
「屋敷ではお遊ちゃんも茨ちゃんも居て中々ふたりきりにはなれないので考えました。私も録山先生の道場に通えばいい、と」
「う、ううむ……まあ門弟が増える分にはあやつも喜ぶとは思うが」
「それに武芸の嗜みは損はしませんからね。実際、お遊ちゃん躊躇いもなく包丁とか鎌とか投げてきますし。茨ちゃんに腕掴まれたら痣が五日は残りましたし」
「普段から鎌を投げられたり捕まえられたりすることをしておるのか」
「物騒ですよね」
「お主がな……っておい靂! 木陰に座って本を読むな! というか本を持ってくるな!」
ついにそこら辺の道端で休憩を初めた、不健康不良少年を九郎は仕方なく引っ張っていくことにした。
「はあ……ところで九郎さんは先生に何の用事が?」
「刀を新調したのでな。ちょいと扱いについて相談を」
「前も使っていたときの扱いは……」
「棍棒のように振るっても折れないアレは便利だったのう……今思えば」
いざ使うまでは部屋の物干し竿にしていたアカシック村雨キャリバーンⅢだったが、刀の腹の部分でフルスイングして相手をぶん殴っても平気だった。
それに比べれば、いかに十三人の胴をぶった切ったという頑丈さを持つどうたぬきとは言え、下手な扱いをすれば折れるだろう。九郎は異世界で三十代から剣を使う仕事をしていたが、鋳造した分厚い剣でぶん殴るという使用方法が多かったのでそれほど剣術達者というわけではない。
本来ならば何十両もする刀を無料で貰ったのだ。それを無碍に扱ってへし折ったり、質に出したりしては道義に悖る。
(まあ、刀は脅し程度にして普段は素手で殴った方がよいか)
それでもいざという時のために、刀を抜いて素振り程度はした方がよいと思っての道場行きであった。影兵衛に突然斬りかかられた場合などが懸念される。
しかしながらさすがにこの歳になって、女子供も住んでいるのに家の庭でブンブンと刀を振るうのはどうも恥ずかしい気がして道場へ向かうことにしたのだ。
六天流の寂れ道場に到着した。
門弟が増えたり減ったりしながらもギリギリやりくりをしているここは、現在のところマトモな門弟がお八一人であった。
晃之介の武名を挙げる機会は江戸の剣術他流試合などで何度かあり、そうすると新たな弟子が入ってくることもあるのだが厳しい鍛錬によっておよそひと月以内に全て辞めてしまうのだ。
また、以前はあった柳河藩の弓術稽古だったが藩主が変わってしまった際に、晃之介への稽古依頼も無くなった。新しい藩主は武芸よりも建築や美食などに興味があるという。
そんなわけで、
「入門者は大歓迎だ」
嬉しそうな顔で晃之介は小唄の入門を受け入れた。彼の手には弟子入りの際に渡す包金として一両が握られている。金額や道場によって渡す場合渡さない場合はあるが、晃之介は基本的に貰えるものは貰う方だ。
しずしずと小唄が道場の床へと頭を下げる。
「よろしくお願いします」
「ああ。確か何度か、雨次……っと今は靂か。あいつについて見学しに来ていたな。だから知っているかもしれないが、うちの流派は良く動く。走ったことは?」
「得意な方です」
迷わず頷く小唄に、晃之介も肯定されることは予想していたが満足そうに頷いた。
現代からすると妙に思えるかもしれないが、江戸時代となると余程小さい頃にした遊びなど以外は走ったことが無いという者も少なくない。現代人だとしても、学校の体育や部活で走る以外で考えればそう全力疾走しなければならない機会は日常に少ないことが想像できるだろうが、当時は更に少なかった。
特に一般庶民の着物は走りにくいことこの上なく、履物も下駄や草鞋では難しい。それだけ悪条件が揃っていてそれでも町中を疾走している者が居れば飛脚や捕物以外では不審者扱いでしょっ引かれかねない。
そしてそれが、とにかく武器を何種類も持って野山を走り回る六天流の流行らぬ原因の一つでもあった。
一方で晃之介は小唄の体重移動などの仕方からある程度の運動経験がありそうだと判断していたのである。実際、小唄の実家は忍びの巣のようなものだ。護身術代わりに走ったり跳んだりすることは教えられていた。
「ともあれ、最初はある程度の体力を測ってみるか……お八!」
「うーい。聞いてるぜー」
裏で薪を割っていたお八が返事をして窓から顔を出した。
「彼女を走りこみに連れて行ってみてくれ」
「わーった。着物は大丈夫か?」
「とりあえずはこのままで。一応、この格好でも走れるようにしていますから」
「音を上げんなよ。いくぜ!」
と、お八に連れられてロードワークへと出て行った。
道場に座り込んでいた靂はどうにか立ち上がろうとしながら手を伸ばす。
「ああ……僕も体力を戻さないと……」
「いや止めておけよ。ここに来るまでに死にそうなのに、走るとか無理だぞ」
「随分と体が弱っているな……ひとまず、肉を食ってまず体調を良くしろ。太った鹿を仕留めた肉があるから帰るときに持っていけ」
傍目に見ても靂は半病人といった風で、厳しい稽古を今すぐ再開というわけにはいかないようだ。
それでもギリギリでやる気はあるのは、やはり脇差しとはいえ刀を受け継いだからだろう。
屋敷に住むように、本を読むように、刀を使えるようにならなくてはならない。
最低限、それが義務のようにも靂は感じている。
「む、いや待てよ。栄養不足と疲労ならばある程度補えるかもしれん」
九郎はそう思いついて腰の術符フォルダから[快癒符]を取り出し、靂の首筋に触れさせて術式を発動させた。
体力の回復効果のあるその魔法の道具は、体内に注入した魔力を不足しがちな栄養素に変換させて吸収させる作用を生む。
栄養失調な者には効果覿面なはずである。
「……なんか動けそうな気がしてきました」
回復してきた靂はどうにか床から立ち上がり、呼吸を整えている。
晃之介は指を向けて彼への鍛錬を指示する。
「便利な妖術だな……だが倒れると怖いから、靂。刀を抜いて構えを変えながら道場の入り口から奥まで百往復してみろ」
「……こう、微妙に容赦あるようで無いよな先生って」
勿論百往復は全力疾走だ。長距離を走る鍛錬と短距離を走る鍛錬で分かれていて、短距離の場合は戦闘を意識しているので得物を抜くのが普通である。
萎えた足をよろめかせながらも靂は必死に走って道場の奥の壁に手を触れ戻ってきて、入り口と往復をし始めた。
九郎と晃之介はじっと観察をしていると三往復目で倒れた。
幾ら一時的に元気になったとはいえ、筋肉は衰え内臓機能も弱っている。注入された栄養分は砂漠に撒いた水のように一時的に靂の体を潤しただけで、全て吸い込み蒸発してしまったようだ。
目配せをして頷き、九郎が靂に近づいて術符で触れて再び体力を回復させる。
「よし、続きだ」
「は、ふ、はい……」
八往復目で倒れた。
九郎は再度回復させて送り出す。
十五往復目で倒れた。
九郎はまた回復させた。
今度は十七往復で転び動けなくなる。
足が小刻みに震えているようだ。筋肉の損傷までは九郎の手が及ばない。ただ体力を戻して起き上がらせ、進ませた。
二十往復目で転んだ拍子に、持っていた脇差しで腕を僅かに切った。
晃之介が慌てて近づき、傷を見る。そして安心した。こんなかすり傷、ションベンでも掛けていれば治る、と笑いながら断言して包帯で巻く。受け継いだ銘刀が最初に切ったのは靂自身だった。そして九郎がまた体力を復活させる。
この辺りでお八と小唄が戻ってきたが、案外走れる小唄に意地になったお八が重たい背負い物を道場から二つ借りて行き、それを担いだまま走りこみを再開させたようだ。身軽な動きは得意だが、重量物は経験の少ない小唄の顔から余裕が消えた。
二十五往復目。靂は気絶した。
九郎が氷水を作って顔に掛けてやると息を吹き返した。快癒符を使って強制復活。
二十六往復目。無理だった。転んだまま這いずってどうにか進んでいる。可哀想なので九郎ヒールを掛けた。涼しい風も吹かせてやった。靂はゲロを吐いたが水しか出てこなかった。
二十七───
「ちょっと二人共!! やり過ぎ! 死ぬから雨次くん! っていうか普通なら死んでるから!」
奥から子興が出てきて凄い怒られる九郎と晃之介であった。
*******
「強制的に体力を回復させながらだったらどれだけ鍛錬の効率がよくなるかと、つい限界まで挑んでしまったのう……」
「子興殿に怒られて困るのは俺じゃないか。だが靂のやつもやはり根性はそれなりにあるからな。病み上がりであれだけ動けたんだ。そう遠くないうちに体力も戻るだろう」
「それにしてもハチ子と小唄は遅いのう。どこまで走っておるのやら」
動けなくなった靂は、道場の奥にある住居に運び込んで布団に寝かせ、重湯を用意されている。
運動不足な少年の体力という謎の概念だけ注入して動かした結論としては倒れるからあまりやらない方がいいということだった。九郎や晃之介からしても、起こしてやったものの本人が止めると云わなかったので続行させていたのだから案外イケるかと思ったのだ。
恐らくは急な運動と豊富な栄養で脳内麻薬がドバドバと分泌され、靂本人もよくわからない状態で走っていたのだろう。ちゃんと無理だと自己申告されれば九郎と晃之介も止めていたはずである。多分。
「さて、九郎の方の用事を済ませるか。刀を新調したということだったな」
「うむ。どうたぬき+3だ。強そうだろう」
「ぷらすさんの意味はわからんが……良い刀に思える」
晃之介は美術品の価値は知らないが、実直な戦作りで信頼性が置けそうな刀だと見た。鎧ごと相手を叩き切るのに適している。
「だが確かに前の刀とは使い勝手もかなり違うだろう。以前のは、あんなもの持ち歩いている者など見ない傾奇者の大太刀だったからな」
アカシック村雨キャリバーンⅢは刃長が150cm程もあるという南北朝時代かと思うような長さであったのだ。例えば、愛媛県大山祇神社に奉納されている国宝の大太刀が刃長135.7cmのものと、刃長180cmのものがあるがそれを持ち歩いているような異様さである。
一方新たな刀、どうたぬき+3は刃長78.1cm、反りが2.2cmと反りがやや緩い立派な太刀であるが、普通といえば普通だ。
製作年代は浅右衛門の鑑定によると鎌倉幕府の頃。ただ特色に山城・備前・備中などの名工の技法が組み合わさって投影されているような奇妙さを覚えるので誰が作ったかよくわからないらしい。
「その名工たちが集まって作ったらこうなるかも」とは浅右衛門が云うが、刀鍛冶の技術は門外不出であったりするのでまず仲良く技術交換をして一本作るなどあり得ないのだから、ますます謎が深まるばかりなのであった。
余談だが、徳川吉宗の頃に[享保名物帳]という名刀の図鑑が作られていて、その中には失われた刀の記録もあるが明暦の大火で六十九本もの名刀が失われているので、出処のわからぬ刀が持ち込まれることも多かったという。
「とにかく、いざという時に使い勝手がわからぬでは恐ろしいだろう」
「間合いが変わるからな。そうだな、とりあえず俺と真剣で構えて向かい合い、様々な型をしてみて慣れてみればいいんじゃないか?」
「その辺りはお主が専門だからのう。やってみよう」
と、二人は道場で相対して刀を抜き構える。身長差を無くすために、九郎も大人の体に変化した。
「九郎は上段の構えが得意だったな。だが長さを測るために真っ直ぐ構えてみろ」
「こうか」
それこそ振りかぶって近づき、一気に力押しで斬りつけるという示現流を原始的にしたような剣術を九郎は基本にしている。
そこで剣道などの見よう見まねで両手で刀を中段に構えてみた。
(最初に傭兵をしていたとき、こうして構えたら団長に怒られたものだ。素人はこうすると腰が引けるから上に構えろと)
そうして構えると、同じく真剣を持った晃之介が剣先を合わせるようにして動きを止めた。
「大体、これがお互い刀を持っていたときの間合いだな。わかるか?」
「うむ」
「前の刀は知らんが、普通の刀はあまり刃同士を打ち合うなよ。折れるのもそうだが刃を滑らせて切り込んできたり、当たった瞬間に飛び散った鉄片が目に突き刺さって不意の危険を招く」
「時代劇では打ち合うものだったがのう……確かに影兵衛などとはやってられぬな。打ち合い」
刀自体を切り落とされそうだ。非常に頑丈で鉄でも切れるアカシック略と、真正面から打ち合えていた影兵衛の剣術を思い出してぞっとした。刀自体の硬さというより、妖しさすら感じる剣の気といったものが彼の刀には纏っているのだ。
「では俺が一歩踏み込んで首筋に打ち込む。ゆっくりだし寸止めだ。対応してみろ」
「む」
云うが早いか、晃之介が自然な動きで間合いを詰めた。
ゆっくりとは云ったがびしりとした迷いの無い速さで刀が振るわれる。九郎は刀を動かしてそれを止めようとし──直前の晃之介から云われたこと思い出して止めた。
(いや、しかし)
来るとわかっていても既に来ている一撃を、止めないのならばどうすればいいのか。
九郎の回避は大回りか疫病風装を使った風まかせだ。剣術使いのように、最小の体捌きで避けることは難しい。
しかしここで疫病風装を使っても練習の意味が無い。
ここまで思考をして、九郎は刀から片手を外した。
拳を握り指を二本、やや曲げて立てる。その指の先で。
近づく刀の腹を、弾いた。
小銭を石に叩きつけたような音と共に、首筋を狙った一振りは狙いを大きく外して止まる。
「──ふう、いや思ったより怖いなこれ」
「そういえば使えるんだったな、六山派の技」
刃物を持った相手と素手で打ち合うための技術である。刃には必ず触れても大丈夫なところがあり、そこを狙って相対速度を合わせた手の振りで弾くことで軌道を逸らさせる。
とてつもない見切りが必要になり、持ち手のねばりの少ない得物ならば指でつまみとって奪うことも可能だ。
「面白くなってきた。様々な構えから打ってみよう」
「いや待て待て。ちゃんとした受け方も教えろよ。今見たく打たれたらどう避けるのが正解なのだ」
「では交互に打っていくことにしよう。九郎が打ち込んでいいぞ」
次に九郎が、同じように正眼の構えから小さく振り上げ、踏み込みつつ腕を伸ばして晃之介の首筋を狙う。
すると晃之介は半身になり同じく前に踏み込み、片手で九郎の持ち手を押さえて振れないようにしたまま左足を引く動作と一緒に腕を引っ張り、その場に転ばせた。
一瞬の動きであった。転んだ九郎も、前に進んだと思ったら転んでいたとしか感じなかった。
「ううむ……」
「六天流は相手が攻撃してきたら、間合いを詰めるか離すかして武器の得意な距離のに持ち込む。刀より近づけば素手で投げるか短剣で刺すかだな」
九郎は立ち上がり、再びお互いに構えて繰り返す。
様々な構えと距離から刀を使った攻撃とその対応手をしてみる。
真剣でやっていても恐れずに鍛錬をしていた。
すると、
「あ゛~~!」
以前も聞いたな、と九郎が思って顔を顰める酒やけした胴間声。
晃之介も似たような嫌そうな表情をして、道場の入り口を見ると──わなわなと震えている中年の男が居た。
「手前らッ! ずりィ! 拙者がいねェところでそんな、そんな真剣で斬り合いなんて……九郎もでっけえし……こんな、ここは殺戮の浄土かッ!」
「いや呼んでおらぬのに出てくるなよお主」
「ふひっふひひひっ、たまらねェぜ!! 滾ってきた!! 拙者も混ぜやがれ──!」
「いかん! 来るぞ!」
「こんなときに……!」
九郎と晃之介。
影兵衛が認める二人の強者が、斬り合いをしているという事実に興奮した男はおもむろに刀を抜き放ち道場に駆け込んできた。
彼らと殺しあうに適したときが来るのか? 家庭を持ち自分は日和ってしまったのではないか? 時折そんなことが脳裏にかすめることもあったけれど、その悩みは今まさに解消される。
狂乱した笑顔で彼は人殺しの道具を持って、道場の床板を踏み抜くような踏み込みの強さで接近する。
「真剣で拙者に来い!しなさいってんだ馬鹿野郎めェ──!!」
床に撒き散らされた靂のゲロを踏んで滑った。
「ぐえェ──!!」
盛大に転んで頭を打つ影兵衛。
沈黙。警戒に構えた九郎と晃之介は、床に倒れている影兵衛にそっと近づいた。
「……今のうちに埋めるか」
影兵衛への金銭的被害の大きい晃之介が提案する。
「かなりそうしたいところだが……こんな殺人狂でも一応は江戸の治安を守っておる」
「そうだが」
「突発性健忘症でさっきのことを忘れさせよう」
後遺症の出ない、不意に直前のことを忘れるという病気をブラスレイターゼンゼから感染させてから、両肩に気合を入れて目覚めさせた。
「はっ!? 九郎に道場のあんちゃん……拙者はいったい何を……」
「おいおい忘れたのかえ影兵衛。今、お主の手伝いを一仕事終えたから、報酬を払いに来たところではないか……! なあ晃之介」
「ああ。五十両とか言ってたな」
記憶の捏造を試みつつ騙し取ろうとするが、影兵衛は懐を漁って酒代も出てこなかったので嘘と気づいたらしい。
「嘘吐け! っていうかそうだよ手前らに仕事の手伝い頼みに来たんだった」
「己れと……晃之介にもか?」
影兵衛は「おうよ」と小さく頷き、
「実は押し込みやらかそうとしてる悪党が用心棒を探していてな。そこで拙者が賭場で調査をしているときに、潜ませてる手下から話が来たってわけだ。拙者らはその悪党に雇われたセンセイとして押し込みに参加し、その場で現行犯逮捕するって寸法よ」
「用心棒を雇う押し込みとは、理由があるのか?」
「さて……まだどこに押しこむか聞いて無えから逮捕にも踏み切れねえんだけどよ、押しこむ相手もチンピラやらヤクザやらを雇ってるって話だからその対策だろう。で、腕利きのやつを三人ばかりと云うことでな。手前二人は髪の毛もボサボサだから食い詰め浪人っぽくて似合ってるし」
「ふむ……己れは別に良いが」
もとより影兵衛の仕事を手伝っている九郎は受けるが、晃之介は然程関係が無い。
しかし、
「いや……俺も参加する」
「いいのか?」
「ああ。実戦に怯えていては勘が鈍るからな。それに、これも世のため人のためだろう」
「ちなみに九郎が居ねえ間に何度か手伝って貰ってんの。もうマブなダチだぜ? 拙者ら」
「それは断じて違う……! 大体、俺を呼ぶときは盗賊と乱戦になったかと思ったら俺の方にも凶刃が飛んでくるんだぞ! 嫌でも勘が冴える……!」
「修行も大変だのう……」
なお、お八と小唄は半刻後に疲れきった小唄を担いでお八が戻ってきて、姉弟子としての意地を見せた。
しかし小唄は復活した靂に背負って貰い千駄ヶ谷まで送ってもらったので、気分的には大勝利だったという。
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火付盗賊改方が使う十手は役目にもよるが戦闘部隊となれば固い鉄性のものを使っている。
目明かしや手先に渡されるのは稀だが、その場合は同心与力が使うものよりも大きいものが使われたようだ。
これは刀持ちならば十手はサブウェポンだが、刀を持たない目明かしからすればメインウェポンになるからだろう。
とはいえ実際の捕物では刺又や突き棒などを使って取り押さえる。突き棒はトゲ付き刺又といったようなもので、これで突かれると痛いのもあるが服に食い込んで離れなくなる。
九郎は影兵衛から受け取った黒くくすんだ色に磨かれた十手を、懐に入れた。
持ち手まで鉄で作られた刀も受け止められる打撃武器は、刀を新調した今となっては頼りになりそうだ。
一旦、住まいに戻った九郎は皆に仕事の手伝いで出る旨を伝えてから出発をすることにした。
「では、行ってくる。帰りは明日になると思うから戸締まりをしっかりな」
「そ。頑張って来てね」
豊房が玄関先で火打ち石を鳴らして云う。
誰もまったく心配はしていないようだったが、唯一あまり晃之介や影兵衛と関係の薄い夕鶴が他の女衆に聞いてきた。
「危なくないのでありますか?」
「いやあ……九郎と師匠と影兵衛のおっさんだもんなあ……」
「江戸城を攻め落としに行くような戦力だね」
「あの三人が危ないのは、せいぜい影兵衛さんが暴走して仲間割れするぐらいよ。でも九郎なら止めれるもの」
「濃い仲間を作るのが得意じゃのークローは」
荒事に関する信頼感はやたら高い九郎であった。
──そして影兵衛に云われた通り、高輪の街道沿いにある飯屋の二階にひとまず集合していた。
盗賊の用心棒として信頼されるために、九郎は体を大人にしている。
晃之介も含めて身の丈六尺ほどの大男が二人である。目立つことは目立つが、迫力としては満点だろう。
飯屋の二階で酒を飲みながら、影兵衛の手下が渡りを付けて盗賊を呼んでくるのを待っている。
「鱸は塩焼きが一番だろう。簡単に出来て皮まで美味い」
「いや、洗いだ。臭みが少なく身が綺麗だからのう」
「いやいや煮物だろうぜ。白身なんだから味を染み込ませてやれば一番輝くんだって」
「塩焼き!」
「洗い!」
「煮物!」
「あ、あのう……親分。例のお方を連れて参りましたので……」
三人が肴で出てきた鱸の調理法で言い合いをしているところで、手下がやってきたようだ。
論争でやや険しくなった顔を一同が入り口に向けると、入って来た盗賊らしい男が僅かに怯む。ずんぐりとした体型をしているどこにでも居そうな男だが、目つきはやはり盗賊特有の暗さを感じる。
影兵衛は既に面通ししているのだろう。軽く手を上げて云う。
「おーう。盗賊のお頭。あんたに云われたとおり、知り合いの金さえあれば哀れな老人だろうが頑是ないガキだろうが妊婦だろうが殺す食い詰め浪人どもを連れてきたぜ?」
(そんな条件で呼ばれたと思っておるのか)
九郎と晃之介は顔を見合わせた。設定とはいえ嫌な気分だ。
その間にもペラペラと影兵衛は嘘八百を盗賊の頭に告げて信じこませようとしていた。
「ほら去年から鎌倉あたりで起きてる連続辻斬り騒動ってあるだろ? あれは何を隠そうこのお二人がどちらが多くを切れるかという勝負をしたっつーはた迷惑な話なんだ。で、さすがに事件が大きくなりすぎてそろそろ上方にでも身を隠してえから、この仕事を終えたらさっさとおさらばするらしいぜ」
「それは良いですな。仕事も、用心棒が見つかり次第行えるので今から代人を探すのも、これ以上はおらんでしょう。宜しく頼めますかな? ええと……」
「斬九郎」
「方之介」
できるだけ凶悪っぽい顔つきで二人は偽名を名乗った。あまりに偽名が本名からかけ離れていると、いざ呼ばれるときにすぐに反応できないこともあるので呼び名が本名に近くしたのである。
「で、お頭さんよ。どこを襲えばいいんだぁ~い」
ニヤニヤしながら影兵衛が尋ねる。
お頭も部屋に座り、間取りの描いた紙を広げながら云う。
「標的は品川にある、悪どい薬種問屋兼、金貸しをしている清水屋吉右衛門の店だ」
「悪どい?」
九郎が聞き返すと頷き、
「高い薬を売りつけたり、証文を書き換えて大金を高利で貸したことにして、その借金で女子供を奪い取り女郎宿に売りつける。女郎宿には何かしら弱みを握っているらしく、効きもしねえ薬を高値で売って上がりを奪う。耳かき一匙ぐらいの薬に女郎宿は百両も払うんだぞ。それを取り返すために女郎にはより長く働かせて、近頃じゃ品川宿から抜けた女郎は居ないってぐらいだ」
「ふむ……悪いやつだのう」
「そう。金蔵には千両箱がごろごろしてるって話だ。悪党の持っている金を悪党が奪うだけだな。だがその金で土地のやくざ者を護衛として屋敷に住ませてるって話でな。あんたらの出番ってわけだ。なんならついでに清水屋もぶっ殺しても構わねえ」
「俺ら以外の仲間はどれだけ居るんだ?」
「二十人ってところだな」
「かなり多いのう」
「それだけ分け目のある仕事って話だ。千両箱を五つ運べば、一人二百両は軽くある」
そして、盗賊の頭は付け加えた。
「もう一つだが、こういうのは本来前金後金で分けて渡すものだが……いきなり仕事が始まるってんで先生方の前金は用意できてないんだ。後金で一人三百両でどうだ」
「チッ」
「クソ」
「そ、そんなに怒らないでくれ! わかった。終わったら三百五十両出す!」
九郎と晃之介が悪態をついたので慌てて金額を上乗せした。
が、勿論金額の問題ではなく、後金になると途中で盗賊は捕縛するのだから確実に支払われないことが判明しているので舌打ちをしたのだ。前金で貰っていれば、しれっと事件後に持ち逃げしても──証人が居なければ──そう追求はされないというのに。
「まあまあいいじゃねえかお二人さん。ここは一つ、善いことをすると思ってこのお頭に手助けしてやろうじゃねえの」
愉快そうに影兵衛が云う。彼は斬殺できれば基本的にどうでもいいのだ。
そうして、盗賊が予め用意していた濃い納戸色の闇夜で目立たぬ手ぬぐいで顔を隠し、品川の畑にある小屋に集合している盗賊らの元へ向かった。
品川とはいえ、街道から外れるとすぐ田畑になっている。御殿山から北西側は殆ど店や屋敷も無い。
その一つに、盗賊らは居た。
全員顔を隠していて、もし集団で歩いているところを見つかったら「顔を隠して夜に江戸を歩こう会の活動です」では誤魔化されなさそうである。
三人の用心棒が紹介されたが、馴れ馴れしさは無くほぼ無言だ。目つきも、
(堅気のものではない……)
雰囲気を感じた。
盗みのためならば殺すことも厭わない。いや、むしろ面倒がないように盗み先は皆殺しにしようとか、そういうことをやりかねない男たちだった。
相手がバチがあたっても良い悪徳商人であろうとも、こういう奴らをのさばらせてはおけない。
ただ、今すぐこの場で召し捕るわけにはいかないのだ。
法的手続きというか。
まず同心である影兵衛が一人で先走って大捕り物を始めるのは普通行えない。いや、時々やってはいるが、もっと相手の人数が少ない状況だったり、緊急性があったりする場合だ。
まずは既にここに来るまでの間で、影兵衛の手下が火付盗賊改方に援軍を要請している。現場の指揮を取る与力がいなければ勝手に動くわけには原則いかない。
そして与力らは品川の清水屋へ向かっているのでこんな畑の真ん中にある小屋で捕物を始めても包囲などできていない。
幾ら九郎と晃之介が居ようが、逃げに徹すれば何人か取り逃がすだろう。
なのでこのまま用心棒のフリをして時間を稼ぎ、目的の屋敷近くで捕物をするのが普通なのだが……
(微妙にこやつと一緒の場合、間に合った試しが無いのだよなあ)
手下にそう命じているのか、斬り合いが始まってから援軍が駆けつけてくる場合が多いのだった。
そして静かに速やかに、一行は盗みへ清水屋を目指して走りだした。
既に街の灯りは消えている。女郎宿は営業をしているだろうが、清水屋は寺社の多い地域にその店を構えている。
天竜寺近くにある大店は外から見ても立派な土蔵が二つも立っていた。
お頭の導きで裏口へ周り、用意していた梯子を掛けて塀を登り中へと入っていく。皆もそれに続いた。
すると──どさりと中に降りた音に気づいたのか、犬がけたたましく吠えたくりながら庭を走ってきた。
「なんだぁ?」
その鳴き声につられて、やくざ者が一人近づいてくる。そして次々に中に入って来ている集団を見て、息を吸い込んだ。
「止めろ!」
と、お頭が指示をするが叫びのほうが早い。
「盗賊だァ────げぼァ」
ひとまず接近した九郎が当身を腹に入れて黙らせた。
襲い掛かってくる店の者は殺さないように無力化しなければならない。
「なんだ盗賊か!?」
「旦那様を逃がせ!」
「お前ら出てこいッ! こっちに居るぞ!」
蜂の巣を突付いたような騒ぎになった。屋敷の中から大勢が右往左往する音が聞こえる。
金がある土蔵は中庭。盗賊らが入ったところからは建物を迂回しなければ近づけない。
「ええい! こうなりゃ邪魔する店の奴ら全員殺して金を奪うぞ! いざとなれば、寺に逃げ込めばいいんだ!」
「おう!」
盗賊も刃物を取り出して覚悟を決める。幸い、近くは寺が多い。盗賊とはいえ寺の敷地内に入れば火盗改メや町奉行所は追うことができず、改めるにも寺社奉行の許可が必要なので実質逃げきれたも同然なのだ。
九郎と晃之介は影兵衛にちらちらと目線を送る。いつ裏切ればいいのか。
彼はじっと塀の外を見越して、提灯の灯りが多く照らしているのを確認した。
「よっしゃいいぜ! 盗賊ども! 火付盗賊改方の手入れだ! 神妙に刀の錆になりやがれ!」
「なにィ!? 幕府の犬か! ええい血祭りにあげてくれ──」
一人目が血祭りに上がった。噴水のように首から血が吹き出て、ぴちゃぴちゃと盗賊らの体を濡らして全員が目を疑う。
「よくわかんねえけど侵入者をぶっ殺せ!」
長ドスや薪棍棒を持ったやくざが住居からぞろぞろと現れて、龕灯で照らすよりも先に盗賊の集団に突っ込んできた。
「いかんな晃之介よ。やくざと盗賊が入り乱れてどっちがどっちかわからん」
「……とりあえず俺らは殺さないように、両方叩きのめせばいいんじゃないか? 誰に殴られたかもわからないだろう。多分」
「あとは逃げようとするものをとっ捕まえておくか」
とりあえず二人は乱闘を起こしているところへ向かい両方共倒すという方法で犠牲者を減らしていく。
十手で手足を殴りつければ骨がへし折れて戦闘不能になる。晃之介も奪った薪を使って目につく相手を殴り倒していった。お互いに乱戦になり混乱している状況では、九郎や晃之介がひょいと近づいて一撃で倒していくのを避けることもできない。
それでも不幸な盗賊ややくざ者は、不幸な犠牲として血の海に沈んでいくのであったが。
悪党が悪党の金を奪いに来て、横合いから切りつけてきた悪党に殺される。
それでも江戸の治安に寄与しているというのだから、
「なんとも平和というものは、作るのが大変なものだのう」
「そうは云うが……あれは特殊な例だと思うぞ」
「己れもそう思う」
血潮を撒き散らす暴風雨の目になっている正義の味方を見て、染み染みと二人はそう言い合うのであった。
「ひゃはははははは!! キヒィッ! イっちまいなァ!!」
*******
命すら奪う凶悪な盗賊により、店の用心棒数名はその職務を全うして命を失った。
ということになり、九郎と晃之介は影兵衛から報酬の飲み代を貰って儲けにならない仕事を終えて帰宅した。
家を持つ身としては、江戸から押し込み強盗が一つ減っただけでも良しということにして置いたのだが。
その日の昼間。九郎は歌麿に呼び出されて緑のむじな亭二階へとやってきた。
店は昼休みで、そこには神妙な顔をした六科が座っている。
「どうしたのだ? 六科よ。己れだけ呼び出すとは……」
「九郎殿は五年前、お房が病気で倒れて腹を切り開いたのを覚えているか?」
暫し九郎は腕を組んで思い返し、
「ああ。腸捻転でな。確か将翁がやってくれたのだったか。麻酔薬も使って」
「それだ」
「うむ?」
六科の額にはうっすらと汗が浮かんでいる。
「あの時の医療代、五年後のツケにしていたのを昨日将翁殿が請求に来た」
「い、幾らだったか……」
九郎もうろ覚えだったので確認のために聞くと、
「百両。もしくは美味い蕎麦を作ること。もしこれが支払われない場合は──」
「場合は?」
「……来月産まれる、お雪の子を貰っていくと云った。子供の命を救ったのだから、子供の人生で支払って貰うと。だがそれは渡せない。だから九郎殿……こんなことを頼むのも気が引けるが」
彼は頭を下げて、頼んだ。
「百両貸してくれ」
「美味い蕎麦を作れ美味い蕎麦を!」
ひとまず、アダマンハリセンでツッコミをいれるしかなかった。
六科と九郎は果たして百両を用意するのか、納得される美味い蕎麦を作るのか……或いは別の解決法を探すか。
続く。
妻子さんの名前がつまこなのはオリ設定です。だってどの文献にも妻としか書かれてないもの
新井ホワイトロックさんはそのうち単品主人公で書きたい
九郎のどうたぬき+3のモデルというか設定は[菊御作]です
[大魔王]の二つ名を持つ後鳥羽上皇が自ら槌を振るって打った刀の一振り。茎に菊マークがついていましたが潰れています
魔王の力と天皇の力が組み合わさり最強に見える




