6話『見守るスフィ/どうたぬき+3』
──月の明るい夜だった。
江戸の夜景を楽しむ、という行動は当時存在しなかった。
特に理由もなく夜をぶらぶらと歩いていたら殆どの場所では不審者扱いであるし、多くの通りには門があって番人がいる。自由気ままに夜中を遊び歩く者は少ないだろう。
それでもその晩、九郎はスフィのみを連れて江戸の夜景を見物に出かけた。
敢えて一望できる場所となれば、庶民ならば愛宕山を選ぶだろうか。山頂近くには長椅子のある公園めいた作りになっていて、昼間は屋台も多い。
しかし、九郎は。
疫病風装の能力で空を自在に飛べる彼は、江戸の中心にある天守閣の屋根にスフィと共に座っていた。
落下防止の安全ザイルも無く、夜に風が吹いている中で、手すりもない城の屋根に乗るなど恐ろしいかもしれないがそこは年を百五十以上も重ねた少女だ。さほど恐れる様子も無く、座り風を浴びて酒で火照った顔を冷やし、気持ちよさそうにしていた。
酔って城の上に登るのは初めてではない。
スフィと、九郎は異世界で傭兵をやっていた頃に酔っ払った団長に連れられて、他の連中と共に城の屋根で宴会を開いたこともある。イートゥエなど落ちて頭をグシャグシャに潰していた。
(それにもし落ちたとしても、九郎が確実に地面までに助けに入るじゃろー)
と、云う信頼もあったからだ。
「ううむ、絶景絶景──えくしっ!」
「さすがにこの高さで夜は寒いかのう? どれ」
九郎はそう云うと、[起風符]を取り出して出力を調整し発動させた。
吹き付ける風が緩やかになり、過ごしやすい爽やかで涼しい風に感じるようになった。
並んで座った二人の間に、大きめの五合徳利を置く。
程よく温めてある、[鹿屋]から買ってきた芋焼酎だ。
薩摩で焼酎といえば、近年芋が入ってくるまでは雑穀で作られていたのだが、急激に増作している芋でも作られ始めて、その香りの良さに次々と蔵が芋へと切り替えていくという。
それでもまだ作って間もない時期なので江戸まではそう多くの量が入ってこない。そのうちの一つを貰ってきたのだ。
「ん」
「ほれ」
酒盃に注いでスフィに渡し、自分は手酌で汲んだ。
ぐ、と温い焼酎を口に入れると、まさに芋を頬張ったような濃厚な味わいと、口の中を刺す酒精の痛みがする。
九郎が貰ってきた焼酎はほぼ原酒で度数が強い。何せ薩摩から船で運んでくるので、度数の濃い原酒を運び江戸で薄めて販売した方が荷が少なくて済むのである。普通の江戸庶民が呑むのは二人が呑んでいるそれを、八分の一に薄めたぐらいのものだろう。
「ぷはー……中々旨いのー」
「ちょいと強いが大丈夫かえ?」
「なんのこれしき。お主らの飲み会に参加して、延々と介抱役をしていたけれど私も呑んでおったのじゃ。これぐらいヘーキヘーキ」
カラカラと笑うスフィに、九郎も頬を緩めて再び酒を口にした。
「良い景色じゃのう。月明かりが眩くて星が見えぬのが残念じゃが。おお、クロー。あそこの街だけ明るいぞ。お祭りか?」
「あっちは……吉原だのう」
「後で行くか」
「いや、やめとこう」
「なんでじゃ。夜遊びー」
不満気に云う彼女に九郎は苦々しく首を振った。
「あそこは風俗街でのう。女と同伴で行く場所ではない」
「あー……クローの好きな」
「己れを幾つだと思うておるのだ」
「冗談じゃよー」
スフィは舌を出して肩を竦めた。
「ところでクロー、なにか話があるから連れてきたのかえ?」
「うむ……」
「長い付き合いじゃ。見当もついとる。気にせずに云え」
笑いながら手を振りつつスフィは告げると、九郎はため息混じりに応えた。
「なんというか、お主をペナルカンドから江戸に連れて来て、己れとしてはそれでゴールのつもりだったのだな。
ダンジョンの探索やら悪魔の契約やらを終えて後は余生という日常を、スフィと江戸でのんびり送っていくような。
しかし当然だが人の立場や気持ちは変わっていくもので、久しぶりに戻ってきたら思ってもみないことになったというか……」
「まだるっこしいのう。早く要点を云うのじゃ」
「その……連れて来ていきなり、お主の頼りにならねばならぬ立場の己れが、結婚だの婚約だのを迫られては居心地が悪くなったのではないか、と思ってな。とてもすまぬことだが……申し訳がない」
申し訳無さそうに九郎は頭を片手で掻きながら云った。
江戸に帰ってきて数日。僅かな期間で、九郎が残していった縁と因果はせき止められた水門をこじ開けたかのように殺到してきた。
その中にはお八と豊房の結婚問題もあり、このままでは来年にでも祝言をあげん勢いだ。
五年。
という約束で前に結婚相手を探す約束を引き受けた時は軽い気持ちだったのだが、四年ほどふっ飛ばして残り一年で探すとなると──そして二人にその気がないとなれば──難しいことだろう。
その問題だけだったならばまだしも
スフィの立場になれば、と九郎は思う。
見ず知らずの土地に、たった一人の友人を頼って二度と帰れぬであろう覚悟でやってきたのに。
その友人は連れてきた者の世話どころか、痴情のもつれに発展しそうな問題を抱えている。この際、頼ったはずの相手が家族でもない女の屋敷に当然のように住み着いたのも微妙な感じであろう。
先行き不安になるのも当然だと思って九郎はとりあえず謝ることにした。
だが、スフィは呆れたような顔をした。
「なんじゃ。そんなことか。うーみゅ、微妙な感覚のズレじゃのう」
「うむ?」
「……なんと説明したらいいやら」
スフィはやや考えこんでから九郎に説くように云う。
「このあたりは種族的な意識の違いが関係しているのじゃがな。よいかクロー。私は長命の種族で、あの娘たちは短命の種族じゃな」
「まあ……そうなるな」
「短命種と違って長命種はあまり結婚に憧れを持たぬものじゃよ。寿命が長いから急いで子を作る必要も無く、人間などの何倍もの期間結婚生活が続くとなると尻込みしたりのう」
「そうなのか? ……確かに、スフィとお見合いから結婚式に突入したときはお主かなり微妙そうな顔をしておったな」
「いやまあそれはそれとして色々理由があったのじゃが」
「オーク紳士など長命だが嫁を何人も貰っておったぞ」
「それも結婚への憧れが少ないから、義務的に嫁ぎ遅れを貰っていたのじゃろう」
例外はあるようだが、大体の傾向として長命種族は結婚をあまりしないのだという。
そもそも結婚は互助的な意味合いもある。老いて独り身ではつらいので、家族を作り助けて貰う。そういうシステムの側面もあった。
しかしエルフは死ぬまでほぼ健康で一人暮らしも苦痛ではない。歯も何回も生え変わる。両親兄弟がそれぞれ別居していて暮らしている例も少なくない。
「よいか、あの娘らは幾ら長生きしたとて、私の五分の一も生きられぬのだ。生き急いで何が悪いというのか。私から見ればなクロー。ほんの人生の一時期、お主らにすれば数年ぐらいの感覚をのんびりと過ごすだけで人は老いていくのじゃぞ。クローと出会って、こやつと一緒に居るのは楽しいなあと思っておったらお主は老人になってしまっていた。寂しいもんじゃぞ」
思い出しながらスフィは「はう……」と息を吐いた。
長命種であるエルフの平均寿命は五百歳。一方で、ペナルカンドの人間は平均七十ぐらいだ。その差は約七倍。
人間がある時期気まぐれに、十年生きるぐらいの犬猫と共に過ごすのと同じ程度の感覚で、エルフからすれば知り合いの人間は老いて死ぬ。老人の一年と子供の一年が過ぎる体感的な早さは違うとはよく聞くが、寿命が遥かなエルフではそれがもっと顕著である。
だから種族的な意識として、やたら気長だったりするのだ。
「あの娘たちも、私がこれから見ているとあっという間に老いていくだろう。その一時にて、クローの嫁になるのもよかろう。短い人生を謳歌するなとは私は云えぬよ」
「むう……」
「というわけでクロー。私に迷惑が掛かるからなどという理由であの娘たちを振るなよ」
「そんなつもりではないのだが」
「大体お主は私に遠慮しすぎなのじゃ。クローが気にかけなければ私はこの世界で寄る辺もなく右往左往すると思っておるようじゃが、エルフはもともと適応能力の高い種族じゃぞ。単独で何処かのエルフがこの世界に放り出されたとしても、なんとなく生きていく術を見つけるじゃろう」
まあこの世界にエルフは居ないんじゃったが、とスフィは残念そうに付け加えた。
デカイくしゃみが屋根の下から聞こえた気がしたが、それはともかく。
「よいかクロー。私は別に結婚を強制したりはせぬ。嫌なら止めろ。嫌じゃなければ受けろ。全ては自由じゃ。それしきで愛想を尽かしたりはせんよ。ただ私が願うのは──」
「……わかっておる。スフィ。今後誰とどうなろうが、お主とは最後まで一緒に居るよ」
「うみゅ。危ないことをするなとも、人に色目を使うなとも云わぬ。ただ死ぬときは私の目に付くところに居ておくれ。どこかに消えて、骨も残らぬような死に方をしないで欲しいのじゃよ」
ゆっくりと。
願うようにそう云うスフィの言葉を、九郎は強く心に刻みこんだ。
もう二度と彼女に墓守をさせたくはなかった。だからこれから何百年過ぎようが、スフィが生きている限り生き続けようと決めた。
「……そうだな。とにかく、一つ一つやれることをやっていこう。目の前の問題から解決していくか。先は長いのだからな」
「それがいいのじゃよー。エルフが気長なのも、あまり難しくは考えぬようにしておるからじゃ。こういうエルフ民謡もある」
スフィはそう云うと酒盃を置いて、息を吸い込み歌へと変えた。
「出来ることからこなしていこう(Nihil est quod fieri non potest)
歌える歌から口ずさもう(Nihil non paris decanta laudem et cani non potest,)
つまりは自分にやれることがあるということ(Nihil possis dicere, sed non potestis scire lascivio venatus)
どんなに簡単なことだろうと……♪(Suus 'securus)」
それは異世界のエルフに伝わる歌であった。マイペースに長生きする彼らの言葉だ。
涼しい夜風を浴びる月の下、天守閣の上に登って歌を聞きながら飲む酒は旨かった。
スフィの歌うそれが心に滲み、九郎は気分が軽くなるのを感じる。
「クロー。あまり気負いすぎるな。そして遠慮しすぎるな。それが人生の先達からのアドバイスじゃ」
「お主は本当に良い奴だよ、スフィ。ありがとうな。お主とまた出会えて、連れて来て良かったと思うよ」
「え、えへへ」
感謝の気持ちで九郎は微笑むと、スフィも照れたように笑った。
(本当にスフィには助けられてばかりだ……人生の恩人だな)
そう思うと同時に、
(エルフは結婚とかせんのか……じゃあ止めておくか)
とも考えた。
他所から女性を連れ帰ってきて、その相手を違和感なく周囲に認知させるのに都合のいい関係をと考えたところで。
歌麿などから冷やかされたように、スフィを嫁と紹介するのが一番無難であったことを九郎は思いついていたのである。
ついでに云えばスフィを嫁とすることで、豊房やお八を諦めさせる感じにもなるかと考えたがその言い訳はスフィ自身に釘を刺されてしまった。
なので、スフィを嫁にする作戦は彼女が望んでいなそうなので止めておくことにした九郎である。
九郎からスフィへ向ける好感度と信頼の量は恐らく誰よりも多くて、カウントが最大値に達しているぐらいなのだが。
微妙なすれ違いで恋人とか夫婦にはならない関係が、まだ継続するようだ。
それでもスフィは近くに居られる満足度の低燃費さと、持ち前の気長さでそれなりに幸せである。
それから暫く夜景を見て静かに過ごしていると。
カン、と乾いた音がした。
九郎が視線を向けると、下の方から木製のハシゴが屋根の縁に掛けられたようである。
「んもー……上様ったら。屋根の上に誰か居るわけないでしょう? そりゃあ、なんか聞き覚えのある歌が聞こえた気がするって云ったのは僕だけど……怪談じゃないんだから……」
愚痴りながら誰かが登ってくる気配がする。
見られたら面倒なことになると九郎は察して、スフィに手を伸ばした。
当然のように彼女はその手を掴んで九郎に抱きつき、そして二人は風に乗って去っていった。
屋根の縁に、手が掛かる。
大きくて太い、フランクフルトのような指が並んだごつい手で重い体を支えて、豚のような猪のような顔をした巨漢が屋根の上にあがり、見回す。その姿は江戸城に現れたモンスターの如くだったが、立場は不審者を見回りに来た方だ。
江戸城に住まう秘密の側近、大奥のオーク──名をシンと云う者であった。
「やっぱり誰も居ない──か。聞き間違いかなあ……」
シンはそう云って、江戸城の中奥へと戻っていった。
そこは将軍徳川吉宗の寝室であり、大奥に入らない日の夜はそこで仕事の決済を済ますか、暇ならば酒を飲みつつ小姓やシンを呼んで将棋や碁を差したりしていた。
蒸し暑い夜だったので障子を開けて外から風を入れていたら、その風に乗って歌が天守閣の上から聞こえたとシンが告げたところ見てくるようにと指示をされたのだ。
小姓らに頭を下げながら吉宗の元へ戻る。将軍の寝室では不寝番として数人の警護が居るが、皆は一様にシンが出入りすることを咎める様子はなかった。
身分のあやふやなところがあるシンだったが、城中の者からは吉宗が紀伊から御庭番として連れてきた者らの親族か何かだと思われている。何より象を押し留めた怪力無双の男として一目置かれていた。
寝着姿だというのに肩が張り背筋が伸びている壮年の男が、太い眉を動かしてシンの姿を見た。
将軍、吉宗である。この警護についている小姓の誰よりも見た目が強そうに見えるのは、恐らく間違っていないだろう。
「誰ぞ居たのか」
「い、いえ。聞き間違いだったみたいです」
シンが汗を手で拭いつつ答える。吉宗の話し相手になっていた小姓らが、緊張していた面持ちを崩して云う。
「さもあらん。そのような不届き者など居ようはずもない」
「大奥殿が聞かれたのは、恐らく夜鳥の歌であろう」
「市中では近頃、珍しき鳴き声をする鳥を集めては競う遊びが流行っているとのこと。それが逃げ出したのではないか?」
などと安心した様子で言い合った。
もし天守閣に侵入者が居たとあれば、警備の不全があり江戸城内に曲者が紛れ込んでいるということになり大騒動に発展していただろう。
一方で吉宗は慎重そうな表情で、重々しく告げる。
「ふむ……だが天守に登る不届き者が、おらぬとも限らぬからな」
「そうなんですか?」
シンの率直な疑問に彼は応える。
「奥から聞いた話だが、奥に仕える娘が行方知らずになった際に何故か天守閣より落ちてきたとか、五年程前に起きた火事の際には屋根から血が滴り落ちてきたとか……噂、であるが」
「怖い! 怪談はやめてくださいよ上様!」
「ふっ……今日よりその怪談に、誰もおらぬはずの天守閣から歌が聞こえる、が追加されることだろう」
「なんてことだ……」
まさに怪談の生まれたその場に居合わせたシンは、軽い気持ちで屋根を見に行ったのを今更ながら背筋が寒くなる思いであった。
「ところでシンよ。お主が聞いた歌とはどのような歌だ?」
シンを拾ってきた吉宗からしても、彼の素性を詳しくは知らない。
ただまったく別の国から来たようだということだけは知れた。だとすれば鎖国をしている江戸の、その制度を出した家康を神君と崇める将軍家からすれば追放するのが正しいように思えるが……
どうもシンの話を聞いていても、それが唐の国や阿蘭陀とは違う気もしていた上に、世捨て人として放浪していたらいつの間にかたどり着いた、ということなので送り返す場所もなかった。
言葉は問題なく通じるばかりか阿蘭陀人との会話も可能なのは、稀有な才能である。阿蘭陀からの書籍輸入を許可した吉宗としても、辞書を作ることを部下に命じているぐらいなのでシンの存在は大奥の番だけではなく必要なものなのである。
そんな彼が、「聞いたことのある歌が聞こえた」というので。
彼の故郷の歌というのはどのようなものなのかと気になったのである。
「聞き間違いだから多分全然違うと思うんですけど……僕の国の民謡で」
「歌ってみよ」
「僕、歌が下手なんだけどなあ……確かこう続くんだっけ」
寝室なので声を張らずに、読み上げるようにシンは歌の続きを口にした。
「築けないものが築けず(Nihil est quod fieri non potest)
救えないことが救えず(Non potestis salvi fieri non potest salvum facere)
自分だけにやれることがある(Nil potes gloriari, nisi in tempore)
それが容易いものであっても……(Suus 'securus)」
それを聞き終えて、吉宗は頷いた。
無言で周りの小姓を見回すと、意を得たとばかりに皆も頷く。
そして吉宗は冗談めかしもせずに、真顔で感想を告げた。
「……シン。お主、歌が下手」
「ひどおおお!!」
小姓がフォローに入る。
「上様! あまりに率直過ぎます! ……大奥殿はほら、筋肉があるからいいじゃないですか」
「慰め雑!?」
********
天守閣の屋根から飛行して神楽坂へ戻る。空を滑るように移動すれば、さほど速度を出さずとも数分で屋敷までたどり着いた。
音を立てぬよう雨戸を開けて中に入る。夏場には蒸し暑いが、防犯のために戸を締め切るのは仕方ないことだった。酷いときなど週間盗賊とばかりに影兵衛の手伝いに追われていたことを思い出す。
(本格的に暑くなれば[氷結符]で冷房をつけるか)
などと考えながら、屋敷の廊下でスフィと別れた。雨戸も閉めているのだから屋敷の中は暗く、すぐ近くのスフィの顔も見れないぐらいなので手探りで移動する。
「それじゃあ、また朝な」
「うみゅ。お休みクロー」
眠そうな声で彼女はそう云って、己に割り振られた部屋へと入っていった。
屋敷の部屋は幾つか分かれていて全員で雑魚寝というのも変なので割り振られている。
六畳の間に豊房と石燕が、八畳の間にお八と夕鶴とスフィが寝ることになっていて、九郎は一人部屋だった。部屋割りはざっと豊房がすぐに決めたがおよそ妥当なところだろう。屋敷の持ち主である豊房と、一人で寝かすことに不安のある前の持ち主石燕。そして居候三人。男は隔離。そんなところだ。
理屈は完璧なので不満も出なかった。石燕が幼女のふりをして九郎と寝たがったが気味の悪そうな目線で見たら泣いた。あと小便を漏らすアラサーとはあまり一緒に寝たくないと九郎も思っている。
余談だが女のする寝小便は結婚詐欺の常套手段とも江戸では云われた。主に妾がやっていたことだが、身請け金を貰って金持ちの妾になり小遣いなどもせびったあとで、寝小便を何度もやらかして離縁されるのを狙うという。
そんなのと同じ扱いになるのはさすがに石燕も避けたいだろう。
(さて、寝るか……)
部屋に入り、疫病風装を脱いで衝立に引っ掛けてから布団に入った。
綿を抜いた薄い布団を被る。ぬるかった。
「……むう? おい。誰だ」
何か居る。が、暗くてよく見えない。夜目が利く方とはいえ、真っ暗では意味を為さないだろう。
呼びかけるが返事はない。
(寝ているのか……?)
手探りで体を確認するが、女だということしかわからなかった。少なくとも石燕ではないことはわかったが。
九郎も眠かったので探り方が雑であった。ここまで暗ければ探ったところでわからないというのに、適当に撫でる。
すると。
何かに触れた感覚があった。
「んっ……」
女の声が漏れた。九郎は白目を剥いて動きを止める。マズイところに手が当たった気がした。
だが、その声から相手が知れた。
「……フサ子?」
「……」
「寝ておる?」
「……」
「ううむ、便所に立った際に部屋を間違えたのかのう」
九郎の部屋は他の部屋と違って布団が一つなので、よく確かめれば間違えることはないのだが。
暗ければそう云うこともあるだろうか。
さて、と九郎は思った。
この豊房が、九歳や十歳の子供ならまだしも、もう嫁に行ってもおかしくはない年頃というか、このままだと嫁に自分が貰うことになる相手である。
とにかく、年頃の女になった彼女と同じ布団で寝るのはよくないだろうと判断した。
布団を被らずに畳の上で寝ても問題ない季節だ。
(そうしよう)
ということになり、抜けだそうとしたが──
がしり、と。
九郎の体を、豊房が掴んで逃げられなかった。
「……」
「……」
「あのー……フサ子? お主、まだ一人で寝るのが──」
「……子供扱いしないの」
ぼそり、と声が返ってきた。
子供扱い。
つまり、娘が親に甘えるようにそうしているのだと──
九郎が考えていることを見抜いて、告げた。
「……別に何もしないわ。一緒に寝るだけよ」
「う、ううむ……まあなにもせんなら構わんが……」
九郎は妥協点を作られるのに弱い。
ということを豊房が学習しているかはともかく、彼は出るのを止めて仕方なく布団に留まり、仰向けになって寝ることにした。
豊房もそれ以上喋らずに控えめに同じ布団の中で休んでいる。九郎は欠伸をして目を閉じた。
(恐らくはフサ子も不安なところがあるのだろうな。親からは嫁にいけと持参金を渡され、言い方は悪いが家を出て行ったようなものだ。だがまだこの娘は嫁のなり方もよくわかっていない。だから聞き齧りでひとまず練習をしているのだろう)
──そう納得することにした。
どうせこんな日が続くのだと割り切れば悩みも後回しにでき、九郎はゆっくりと寝息の呼吸になって眠りに入った。
隣で寝ることで久しく忘れていた、九郎の暖かさと匂いを感じている豊房は頭を少しだけ彼に寄せて、安らいだ気持ちで目を閉じていた。
彼女は夫婦になるということは同じ布団で寝ることだと単純に考えていて。
『もしそうなら、寝にくい相手とは嫌よね。臭かったり寝相が悪かったりおねしょしたり。相手もきっとそう思うわよね』
などとしたり顔で歌麿などに話していたりした。今思い返せば『プフー! そうマロねぇ~豊房ちゃんは賢いマロねぇ~』という彼の笑い混じりの肯定が腹立たしいが。
だがしかし。
こうして九郎と改めて寝ていると。
「……」
寝苦しいこともなく、もやもやとすることもない。
とても安らいだ──少なくとも、石燕が死に九郎が旅に出て以来の心地よい眠りが訪れそうであった。
彼女からしてみれば、
(相性いいんじゃないかしら。絶対いいはずよね。だっていいもの)
と、満足する結果であった。
そして九郎の体を確かめるように、起こさない程度に彼に触れる。
腹から脇腹、肩、二の腕に触り、九郎の指先まで撫でた。
(指先を……)
──に触れられた先ほど、変な声が出てしまったことを思い出して。
「……」
豊房は、かっと体が汗ばんだ気がして。
意識しないようにしながら、九郎の指先に己の指を僅かに絡めた。
しかしながら彼女。
お八を三人部屋に閉じ込め早々にこさせないようにしつつ。
同室を眠気に弱い幼女石燕と一緒にすることで、抜け駆けを容易にするという配置にしたことは。
誰にも気づかれなかったと、安心して眠った。
*******
「おーっす九郎ー盗賊殺しに行こうぜー」
「何だその朝っぱらから気軽で物騒な誘いは」
「磯野ー焼き討ち行こうぜー」
「誰だよ磯野。行かねえよ焼き討ち」
翌朝。九郎の目が覚める頃には豊房は布団には居なかったので特に気にすることもなく、一番遅くにのそのそと這い出てきて飯などを食っている。
彼が最後である。女はそれぞれ、着替えの整理をしたり洗濯をしたりと起きてこない九郎の飯準備を済ませて家事などを行っていた。いかにも、九郎が養われている感じである。
すると爽やかな朝に爽やかな表情で、おおよそ江戸で直接人を殺した数なら山田浅右衛門と一位、二位を争う殺人者がやってきた。
中山影兵衛は今日は珍しく同心の黒袴を着ている正装で、後ろにおつきのゴロツキを控えさせている。
「こいつは引越し祝いだ。酒と干し魚たんまり持ってきたぜ」
「それは貰うが……」
ごとり、と影兵衛の手先は柄樽と笊いっぱいに並べられた鯵の干物を縁側に置いて、一礼をして去っていった。引越し祝い運びに連れてこられたらしい。
塩の効いていそうな干物が、炙っても居ないのに旨そうな匂いを出しているようだ。九郎は飯碗を持ちながら一枚掴んだ。
「というわけでまずはサクッとその辺で盗賊探して斬り殺そうぜ! 人間狩りだァ~!」
「お主、ふらりとやってきた旅の救世主にぶっ殺されそうなことを口にしておるのう……」
干物を[炎熱符]でじゅっと高熱で炙って飯の上に載せ、頭から齧り食べる。幾らでも飯がいけそうだ。
「……ところで、己れがおらぬ間ハチ子が仕事を何度か手伝っていたようだが、そんな悪夢のようなことに付きあわせておらぬだろうな」
「安心しろって。幾ら拙者でもあの嬢ちゃんを斬り合いの現場に引っ張ってったりしねえよ。ちょいと女中のフリをして潜入してもらったり尾行してもらったりする仕事だ」
「それなら良いが……」
「ま、あの道場の兄ちゃんとこで鍛錬してるだけあってそこらのゴロツキよりよっぽど筋がいいんだがな」
特にお八は体格が江戸時代の標準では小さいわけではない(胸は小さい)ので、男が相手でも十分に格闘で勝てるのであった。
複数人に囲まれれば危ういが、とにかく全力疾走から練習が始まる六天流だ。まずそこらの侍でもお八に走って追いつく者は居ない。
「とにかく。長い旅から帰ってきた九郎には是非とも江戸名物の悪人殺しの快感を思い出して欲しい」
「己れが以前はそれを愉しんでやっていたみたいな言い方はよせ。というかやってたのはお主だけだ。この江戸でお主だけだ」
「でも思うわけだ。実際に悪人殺しが流行って老いも若きも悪人をぶっ殺す街に江戸がなったら……」
「どこの末世だ」
「拙者が斬る分が無くなってつまんねェじゃねえか! 来るな! そんな流行! 頼むからくるんじゃねえ!」
「こねえよ!」
「これは拙者と九郎だけの楽しみなんだから……な!」
「巻き込むな!」
言い合う九郎と影兵衛を見て、お八と石燕は呆れたような目線を送っている。
二人はお八の実家から持ってきた着物を広げて、石燕とスフィ用に直しをすれば着れるものを選んでいるようだ。
「なんか本当に仲いいよな九郎と影兵衛のおっさん」
「まったくだ。全然羨ましくない仲の良さだがね。ところで房はどこに行ったのかな?」
「スフィと買い物に行ったみたいだぜ。甘いお菓子を買うとかで連れて」
「ふむ。なら何も問題はないね」
「ああ」
九郎とは切っても切り離せない、姑のような存在になり得るスフィを懐柔しに行っている。
とは、さすがに誰も情報が無いので思いもしないようだった。
「あ゛~!」
胴間声が響き渡り、うるさそうに九郎が耳を塞いだ。
影兵衛が周囲を見回しながら九郎に尋ねた。
「おい九郎、そういえば手前──腰の物が無えじゃねェか! どうしたんだよ!」
「腰の物? ああ、刀か。壊れて失くした」
江戸を離れるすぐ前までは、アカシック村雨キャリバーンⅢを持っていたのだが。
それは隕石を破壊するために力を使い果たし、消滅したのであった。
その後江戸から異世界に行った際には、漆黒の刀身を持つ魔剣を手にして戦っていたがそれも異世界のダンジョンに置いてきたので、九郎は得物を持っていない。
とはいえ大抵の相手は素手か、術符でどうにかなるのだが……
「馬鹿野郎手前ェ、刀持ってないでどうやって悪党を斬り殺すんだ!」
「なんで斬り殺すのが前提条件になっておるのだ」
「大体、もし拙者が幸運なことに手前を殺す事態になったときに無手じゃつまんねェだろ! ちゃんと刀持ってろ!」
「幸運なことに、とか云うたか?」
「あーもう白けた! まずは刀を用意してくれないとおじさん困るんだからね君。仕事やる気あるの?」
「上司風に説教するな」
「とにかく、買ってこい」
と、影兵衛は云うので九郎は食い終わった飯碗に茶を注ぎ入れながら顰めっ面をした。
後から石燕が声をかけてくる。
「まあ、確かに刀があると便利なこともあるね」
「石燕」
「九郎くんは喧嘩が強いから要らないと思うかもしれないけれど、例えば商売の交渉をするにしても何にしても、浪人身分であろうと元武士であったという圧力が勝手に発生するものだよ。考えてもみたまえ。一般の商人は商売話をするのに、相手が武士だと話の場に凶器を持ち込まれるのを拒めないのだよ? 対等な交渉は難しいと思ってくれるだろう」
「むう……」
「それに九郎くんは武士を相手に話を持ちかけることもあるだろう。そのときに、なんとも知れない九郎くんと堂々と刀を持っている九郎くんでは相手の対応も違ってくるというものだ」
と、偽の身分であるというのに石燕はそう主張した。
江戸時代になり浪人や数えきれないほど存在し、その一々にどこの生まれで何時どの藩から放逐され浪人になったと尋ねることなどそう無いし、藩に問い合わせが行くことも無い。
浪人など名乗りたい放題であったのだ。
しかし、普通は浪人になって得をすることなど無い。九郎のような儲け話の種を幾つも持っていたり、新井白石のように知恵一本で食っていける浪人など殆ど居ないのだ。
それに身分社会は徹底していて、生まれて幼いときより身分を生活に密着して叩きこまれていると、町人や農民が侍と騙るなど思いつきもしないことであった。浪人としての振る舞いなど知らないし、そもそも農民は土地を離れられない。
九郎はそんな根強い常識を知らずに、気楽に名乗っているので周りが勝手に勘違いしてくれるのであった。
「しかしのう……刀はお高いのだろう?」
「ま、普通の数打ちモノで二十五両(約200万円)はするな」
「むう……お高い。お主のくれよ」
「馬鹿! 拙者のは二百両(約1600万円)はするっつーの! 実家からギってきたやつなんだから」
「超高い……無理だな」
影兵衛の本家はれっきとした高禄の大身旗本で、江戸城勤めの直参武士をしているのだ。そこにあった刀ならばそれぐらいするだろう。
お八が手を上げて九郎に呼びかける。
「あたしの持参金使えばいいぜ」
「そうだ九郎それがいい。それにするべきだ」
「馬鹿を云え。持参金を突っ込むぐらいならそこらの橋で通り魔をして刀を奪うわ」
「おいおい、弁慶じゃなくて九郎判官殿が刀狩りか? ……いいじゃん、やれよ」
「あっ駄目だ。一人目に成功した瞬間、どこぞの人斬り同心が現行犯を見つけたと喜び勇んで斬りかかってくる未来が見えた」
「ちぇーっ」
「君ら本当に仲がいいね」
打てば響くようなやり取りに石燕が近づいてきてそう云った。
影兵衛はじろじろと幼女石燕を見遣る。
「おうこれが石燕の姉ちゃんが縮んだ姿か。九郎から聞いてるぜ」
「なんと説明を?」
「黒ずくめの男二人が仲良く両国で遊んでるのを不審に思って追跡をしたら気づかれて、子供になる薬を飲まされたとか」
「なんでそんな説明になっているのだね!?」
「いったいどういうことや工藤」
「九郎だ」
「示し合わせたように危ないネタは止めたまえ!」
何故か関西弁になる影兵衛と九郎のやり取りに石燕は頭が痛くなる。
再会してすぐだというのに、十年来の悪友のようであった。、
「ま、細けえことは別にいいさ。でも利悟の前に単独で姿を見せねえようにな。多分気持ち悪い思いをするぜ」
「気持ち悪いというと……」
「『拙者、前から石燕先生のこと可愛いなって思ってたんです』とか手のひら返して言い出す」
「それは気持ち悪い!」
なよっとした声真似までする影兵衛の予想に身震いをする。
咳払いをひとつ。石燕は話を戻した。
「刀のことだが、安くで譲ってくれそうか或いはそういう店に詳しい人に聞けばいいのではないかね」
「誰か居たか?」
「山田浅右衛門氏だよ。彼ならば伝手があるだろう」
*******
そう云うわけで九郎は一人、江戸の首切り役人である山田浅右衛門を訪ねに向かっていった。
影兵衛は「拙者ァ仕事行ってくるから刀手に入れたら教えろよ」と言い残して火盗改メの役宅へと向かっていったので、とりあえずは一人である。
大きい買い物をする際には男というものはどこか後ろめたさを感じるものがあり、誰も連れて来なかった面もあった。
(あまり要らぬがあると便利……というか、素手で影兵衛に斬りかかられたく無いのう)
安くて頑丈ならばナマクラでも構わないという気分で浅右衛門の屋敷へと向かった。
首切り二代目山田浅右衛門の屋敷は案外に立派な所にある。桜田門からほど近い、大名の屋敷が立ち並ぶ外桜田に隣接した平川町だ。
浪人の身分でありながら、首を切った後の死体を解体して薬などに加工し販売した利益や、刀の試し切り、鑑定で得られる収入はそこらの侍より遥かに大きいがゆえの屋敷だろう。
刀の鑑定、という点を頼りにして九郎は安い刀の流通などを聞きにやってきた。
立派な門がある屋敷だが開け放たれている。庭で腑分けをするときなどは閉められているので、
(今日は仕事日ではないようだ)
と、少し安心した。
九郎も死体の片付けを手伝ったことはあるが、あまり気持ちの良いことではない。誰かがやらねばならぬとはいえ。
浅右衛門の屋敷は、屋敷の大きさ、格などに比べて使用人の数が非常に少ない。
武士は石高や格によって家来として雇わねばならない人数が決まっているのであるが、その点浅右衛門は裕福な武士という立場こそあれ、格は浪人だ。使用人の数などは決められていない。
だから年老いた下男を何人か、そして時々剣術の弟子を泊めているぐらいで彼の屋敷はがらんとしたものである。
生活に必要な最低限以外は厄が溜まるというので持たず、首切りで儲けた金の多くは弟子の育成や寺への寄進に使っているという。
門をくぐると、箒を持って掃いていた下男の老人が頭を下げた。
「浅右衛門はいるかえ?」
「へえ。先生でしたら、庭の方で何やら七輪を出してるようで」
「わかった。ありがとうよ」
玄関から入らずに直接庭へと足を向けた。
するとそこでは、小さい七輪に炭を熾して何やら網の上で焼いている、ひょろりとしたイタチか貂のような印象を覚える男が居る。
数年経っても変わらず、そして独り身であるようだと九郎は苦笑し声を掛けた。
「おい、浅右衛門や。元気にしておったか?」
「九郎氏じゃないか。やは。おひさ」
彼はぷらりと手を上げて、ゆるすぎて感情が読めぬ笑みでそう云った。
近づいていくと、彼の焼いているものが茸だとわかる。ぷっくりとした平べったい茸の傘に、べったりと山椒味噌を塗って焼いているようでいい匂いがした。
「む、旨そうだな。なんの茸だ?」
「榎茸。貰ってきたんだ」
「ほう……そういえばエノキというと、モヤシみたいに生えたものしか食ったこと無いのう」
現代日本に居た頃に店で売っていたエノキとは違う、しっかりと茸らしい形をしたそれを見たのは初めてであった。
傘の色は赤茶色で丸く広がり、焼き茸に適した形をしている。
「食べる?」
「食べる」
まだ昼前だったが、酒を用意して焼き茸で軽く酌み交わす。
そういうことになった。
「うむ。よく焼けて美味いのう。幾つでもいける」
「たくさんあるから良ければお土産に持って帰るといいよ」
「ほう。こんなにどこに生えていたのだ?」
「うーん、どういうわけか町奉行所の牢屋敷に大量発生してね」
「……え?」
「これを生で食べた囚人が死んだもので、駆除されたんだけど縁起が悪いってんで誰も欲しがらなかったから、たまたま通りかかった某が貰ってきたんだ」
「……」
「榎茸は生だと毒があるからねえ……ってどうしたの? 九郎氏」
「……まあ、いいか」
少し味が落ちた気がしたが、九郎は色々諦めてもう一つ茸を口にいれた。
囚人が食って死んだ牢屋の茸=プライスレス。
そんな図式が頭に浮かんだが、縁起が悪さで云えばそれよりも格上な首切り役人浅右衛門は気にせずにパクパクと食べている。
「ところで九郎氏。今日はどんな要件? 跡継ぎ志願?」
「なんでだ」
「もうね、某は嫁を諦めて養子でも取ろうかと思うんだ。弟子も結構居て腕の立つのも何人か居るんだけど、首を切って体を腑分けして煮たり焙じたりするってのはどうも抵抗があるって弟子ばかりでね」
「それはそうだろう」
「はあ……若い人も老いた人も喜んで悪人を腑分けする世の中にならないかな」
「どんな末世だそれは」
「なれ~」
「なるか!」
影兵衛とは別のベクトルで生きる人斬りの達人は、ひたすらゆるい雰囲気でそんなことを云った。
「その点、九郎氏はほら死体の処理に抵抗なさそうだったし」
「地味にきついのだぞあれ」
火事や大捕り物で出た死体を浅右衛門と共に片付けをしたことが九郎にはあって、それが評価されているようだ。
さておき、
「今日ここに来たのはな、ほれお主にも以前見せた己れの刀が失くなってのう」
「あの綺麗な刀? 失くしたの?」
「刃が折れて吹き飛んだというか……」
「ふうん……それは良いことだね」
「良いこと?」
意外な評価を受けて、九郎は聞き返した。
「きちんとした刀が折れるって時は、その刀の役目を終えたときだということだよ。刀には役目があり、それを果たすことができたんだ。作った人も、刀も喜ぶさ」
「そういうものかのう……」
「で、刀が無いから新しい刀を探して来た……ということかな」
「うむ。安くて、頑丈ならばなおいいのだが。切れ味や有名な作品とかはまったくこだわらん」
「うーん……じゃあ某のオススメを持ってくる」
そう云って浅右衛門は屋敷の中に入っていき、すぐに木箱を持ってやってきた。
箱を開けると太刀が収められていた。華美な装飾のない、無骨な雰囲気を感じた。
「吉宗公の指示で日本全国の鍛冶師が新しい刀を打って江戸に送ってね。そのうちの一本が流れ着いたんだ。ただし銘入れをやっていないもので、どこの誰が打ったのかわからなくなった状態だから某が価値を改めることにした」
浅右衛門は箱書きの紙を開いて九郎に見せる。まず一行目に刀の名前らしきものが書かれている。
それにはこうあった。
どうたぬき+三
「……なんというか、序盤で拾うとすごく嬉しい性能を持っている感じだのう」
「いや拾うて。どこで拾うの」
「風来人とかがダンジョンで」
「よくわからないけど、無銘で刀工すらわからないけどこれは良い刀だよ」
「プラス3だからな」
「ぷらすさん? 何のことを云ってるの?」
「いやここに……」
九郎が+三のところを指差すと、当然のように浅右衛門は云う。
「それは十三。刃が鈍らずに何体切れるか試したところ、胴を十三人分真横に切れた証明」
「凄い数切れておるな!」
「切れ味よりも頑丈さだね。鋭い刀ほど数は行かないものだけど、このどうたぬき十三はまるで戦場で使うために作ったみたいに頑丈なんだ。どう?」
「ううむ、凄いものだが……値段も張るのだろうなあ」
唸ると、浅右衛門はきょとんとした。
「いや、あげるって話なんだけど」
「くれるって……無料でか?」
「うん」
「いや、うんってお主……そんな気軽な値段の付くものではなかろう」
どう見ても安物の数打ち品ではなく、ブランドこそ無いが名刀の部類である。100両はするかもしれない。とすれば約800万円になる。
友人知人とはいえ無料で贈呈する値段ではないだろう。
だが浅右衛門はきょとんとして、
「だって、この刀は某の手元にあるよね? 流れ着いてタダ同然で引き取ったものだけど」
「そうだな」
「それを九郎氏に渡しても、某が金を払うわけでもなし。つまり別に某は損をしないのだから、良いと思う」
「ええ……」
「九郎氏が困ってて、差し出せるものを余分に持ってるならくれる。そういうものじゃない?」
「……なんというかこう、浮世離れしておるよな、お主の性格」
それでいて時折食うに困っているのだから、人がいいやら無計画やら。
とはいえ九郎に渡さず、正規の値段で大名にでも売りつけた所でその金を弟子か寺にくれてやるのだから、本人的にはどちらでも構わないのだろう。
だがしかし、超高級品であることには変わりない。
現代で云うなら知人から「気にしなくていいよ」と云われ新車を突然貰うようなものだ。
これで本当に気にしない人間は、余程幸せな思考をしているだろう。
「むう……ではお主の仕事で手伝いが必要なときは声を掛けてくれ。今は持ち合わせがないから、暫くは労働で返そう」
「それで九郎氏の気が済むならいいんだけど。あ、ついでにお嫁さんを探してくれるとかすると助かる」
「わかった。やってみよう」
「じゃあ期限付きで……そうだなあ、五年経っても見つからなかったら九郎氏が後を継ぐということで」
「その約束は却下だ却下!」
さすがに。
九郎も、期限付きで自分が責任を取る系の約束は失敗フラグだと悟ったようだ。
*******
「──というわけで、刀を貰ってきた」
屋敷に戻って皆に報告をしたら、そこはかとなく女達は目配せをし合った。
「なんというか九郎あれよね。あなた、本当に人からの善意で生きていけそうね」
「こう、九郎が女だったら貢がせまくりの悪女だったかもしれねーぜ」
「ほれクロー。お菓子食べるか?」
「九郎くんがその気になれば土地や隠し財産まで譲渡させることも容易いのだよ! ほら! 刀だけではなく榎茸まで貰ってきている!」
「その刀売って、安い刀とか買ったら差額で更に儲かるのでありませんか?」
口々に云う悪気の無い皆の言葉は、むしろ感心や驚嘆に近いので怒る気力も沸かずに。
「おのれ……刀を手に入れつつ節約するという目的を成功したのになんか皆の反応が釈然とせぬ……」
うめいて、いつか自分の評価を覆してやらねばと心に決めた。
他人との絆で生きていける暮らしは大変素晴らしいが。
どうも根本的に、細長く巻き付いているアレだと思われる九郎であった……
*******
「ついでに、早めに消毒しておくか」
その晩。
誰にも気づかれずに屋敷を抜けだした九郎は江戸の上空へと飛んでいた。
青白く発光する衣が薄く輝き、幻想的な雰囲気を浮かべている。
しかしその本質は幻想という夢見がちなものではなく、終末を司る告死の使者が纏う衣である。
「範囲は……ひとまず、千住から品川ぐらいまでで良いか」
黒黒とした無数の蝿が集まり、鎌の形になったような道具を九郎は手にしていた。
悍ましく蠢き、畝っている。
黙示の病毒鎌ブラスレイターゼンゼ。
ありとあらゆる病毒を込めたその鎌は、周囲に存在する病素を操ることも可能だ。
特定のものに宿したり、その活動を爆発的に高めたり──そして集めたり。
「集める病気の種類は……梅毒に疱瘡、麻疹に結核といったところでいいか。集まれ、病の種よ」
──彼は江戸からそれらの病気を根絶するつもりであった。
己の持つ、反則極まりない病気を操る能力にて。
使い始めの頃は加減がわからず、暴走でもさせたら江戸の街にブラスレイターゼンゼに込められた疫病を撒き散らしそうな気がしてやらなかったのだが。
異世界のダンジョンである程度活用したことで使い勝手もわかった。
そして何より、連れてきたスフィが厄介な病気に掛からないように行わざるを得なかったのだ。異世界人だから抗体もなく、下手な流行病に掛かれば死んでしまうかもしれないのだ。
ついでに岡場所の性病も無くしておくことで歌麿の感染リスクを下げておいた。
「だがまあ、ざっと奪ったのは病気だけで不潔などが原因の炎症は無理だが」
適当に、江戸のばい菌を全部奪うとなるとそこら辺にある厠の糞便が無菌化するということで、それを肥料にしている肥屋などは大迷惑だろう。
「後は旅人などから再び保菌者が増えることもあるから、時々やっておくか」
一応口に出して確認し、九郎は屋敷へ戻っていった。
江戸では梅毒の患者数がこの年代より減り始め、「江戸に行けば病気が治る」と噂されるほどであったが。
その原因が、女に尻に敷かれて暮らしている黙示の騎士であることは誰も知らない。
病気関係は実際の歴史とは関係ありません
九郎がタイムパトロール案件やらかしてるだけです
エルフ民謡はインド民謡を参考にしたものです




