4話『変わる人、変わらない人』
鳥山石燕の財産消失問題。
それを聞いた元石燕であるお豊は屋敷の中をくまなく探索した。
一度、江戸の大火及び九郎と道摩無法師との戦いにより地表部分が焼滅し、新築で立て直した屋敷であった。
ただの屋敷ではない。仕事と技術を持て余した忍びの集団に大工を頼み作り上げた特注の品だ。
忍びは当然のことながら、城や屋敷に進入する技術を心得ているので構造に詳しく、建築もお手の物だ。かの羽柴秀吉が築いた墨俣城も、忍びの手によって作られたと云う。
それで、建物には幾つも盗賊にはわからぬ隠し扉や火事で焼けぬように床下の簡易地下室も作り、そこに分散して財産を隠しておいたのだが。
「無い! 無い! なぁーい……私のっお金っ!」
「うむ……生前は『お金なんて幾ら使っても減らないから気にせずに浪費するよ』みたいな態度だったのに」
「お金持ちの持つ余裕なんて薄っぺらいのよね。お金が無くなれば消えるもの。はい九郎お小遣いあげるわ」
「見せびらかすように!?」
九郎に一分銀をさり気なく手渡す豊房に、お豊は嘆いた。見ていない間に妹分が少々嫌味になっていないだろうか? そう感じる。
屋敷の居間で、皆で茶を飲みながら会議をしている。茶ぐらいは出せる蓄えが、屋敷の管理人である夕鶴にはあった。
「しかし隠しているものや埋めた場所まで根こそぎ盗んでいかれているのは尋常ではないのだよ」
「……となると、この屋敷を建てた連中が『嘗め帳』を作っていたのであろう」
「『嘗め帳』とはなんぞやー?」
首を傾げるスフィに、九郎が説明をする。
「屋敷の間取りなどを詳細に記した図面のようなものだ。従業員や出入りの業者に化けて入り込み探る方法と、もっと確実なのが大工として建てたときに記録に残しておくことだな。この屋敷を建てたときは、期間優先で身元の怪しい覆面大工を大量に雇ったものだからのう」
「なんでそんな露骨に怪しい連中を起用したのじゃ」
「江戸で暮らしていると多少怪しいとか変人とかの感覚が麻痺して……」
そもそも江戸に出現して怪しい人間ってどんなやつだ?とも九郎は思う。百万都市の江戸では、他人を怪しく見れば何万人も疑わなくてはならない。
事件は知っていたものの、忍びの仕業とは思っていなかったお八が「げっ」と声を出す。
「マジかよ。忍びサイテーだな。甚八丸のおっちゃんに苦情入れてみるか?」
「やめておこう。参加したのはどれも身元の怪しい忍びばかりで、そもそもあやつも把握しているとは限らない。千両以上も盗めば江戸から高飛びしているかもしれんしのう」
集会を開き顔を隠して話しあえば、どうすれば女にモテるかとか、自分が考える最高にカッコいいポーズだとかを披露しあう無害な人種であるのだが、当然ながら江戸に住まう忍びの身分は様々だ。
同心の隠密に所属するもの、根来組や伊賀組といった幕府に仕えるもの、外様の大名の透破、普段は庶民と変わらぬ暮らしや仕事を持つもの、隠れキリシタンをしている二重に忍んだもの……中には盗みを働くものも居るだろう。
そして殆どの忍びは集会に参加していても、素性をお互いに知っているのは僅かな者が殆どだ。聞き質さないが故に楽しんで集まるのである。
「ところでセンリョーってどれぐらいじゃ?」
「帝都で云うと……大体、一億クレジットぐらいだな」
「そりゃ逃げるわ」
江戸の価格とペナルカンドの国際貨幣を比較させてスフィに教えると、彼女はさもあらんと溜息を吐いた。
この江戸でも目が眩むような金額だろう。何せ、十両盗めば斬首になるといわれるぐらいだから命百人分の財産だ。
お豊は頭を抱えてゴロゴロと畳の上を転がった。
「ぬあああ……私から財力と大人の色気を抜き去ったら何が残るというのかね!」
「思ったより自己評価が悲惨でありますなー」
「偉そうなちびっ子という属性しか無いではないか! どうしよう九郎くん! こうなったら九郎くんに娶って貰わなくてはか弱い立場過ぎて生きてはいけない──」
「ちょっと」
「待つぜ」
「ドサクサじゃのー」
臆面もなく縋り付こうとするお豊を三人が止めた。
彼女からドサクサで求婚されたというのに九郎は実に透明感のある笑みを見せて、
「あまり悲観するでない、お豊や。お主には大切なものがあるではないか」
「な、なにかね?」
「それは──お主がまだ若いからこれから幾らでも稼げるということだ」
「うわっ外道っ」
「九郎引くぜ」
「ちょっと待て。なんだお主ら。何を悪い方に解釈しておる」
「『体でも売って己れを養わんかいおどりゃ』みたいな話でありますか?」
「なんで広島風なのだ夕鶴!? お主山口だろ!」
酷い認識を受けているようで、九郎は全員から向けられる目線を振り払うようにして告げる。
「良いか。同じ家に暮らすことになったのだ。皆が協力をして生活を送らねばならぬ。己れを養えなどとどうして言えるか。
己れ達は言うなれば運命共同体。互いに頼り 互いに庇い合い 互いに助け合う。
一人が六人のために。六人が一人のために。だからこそ江戸で生きられる。そういうものだ」
どことなく甲斐性が無い発言ではあったが。
豊房もお八も、九郎が庇護しようとしていた子供時代から比べれば、一人前だと認められているようで悪い気はしなかった。
のんびりとスフィも茶を啜りながら云う。
「まー私も、托鉢なんぞに出れば食うには困らんじゃろ」
「托鉢?」
「野外で楽器弾きながら歌って見せて小銭を稼ぐやつじゃな。私も教団に入ったばかりの頃はよくしておった」
「ああ、己れも見たことあるな昔。金がじゃらじゃら入ってたのう」
歌神信仰の修行として最もメジャーなのが路上での托鉢である。歌の練習の成果を見せる場であり、観客を前にあがらないようにする特訓でもあった。スフィが大きな街で行えば、一時間で数日分の生活費は稼げたのである。
ついでに云うと、聞くだけはタダなのだが小銭を歌に喜捨すると歌に込められた秘跡の加護を得られることもあり、通りがかりに金を落としていく客は多い。気力回復や幸運付与などが托鉢でよく使われる歌だ。どれほど効果があるかは歌い手の力量と聴者の感動次第でもある。
「やり手の巫女さんなんだっけ」
「確かに金が取れる歌声だよな。語り歌を覚えれば一席行けるんじゃねえの?」
語り歌は名前の通り、物語を歌のリズムに合わせて詠むことだ。平家物語などを弾き語るものが有名であった。
「で、問題は先生よね」
豊房が畳にうつ伏せで倒れているお豊の背中を軽く突付いた。
「絵はどうなのだ? 絵柄ではすっかりフサ子の方が洗練されておるが──」
何気ない九郎の言葉でお豊の背中がびくりと跳ねて、恨みがましい呻きが聞こえる。
元、鳥山石燕。
彼女の腕前は確かであったのだが、その実は未来視で読み取った豊房の──或いは平行世界の鳥山石燕の絵柄を真似たものであったのだ。
模倣具合は十分を通り越して十二分。まさしく彼女は、胸を張って初代鳥山石燕と名乗れる腕であり、パクリ以外でも自分の絵で作品も描いていた。
しかし、その十二分の初代鳥山石燕の絵柄をほぼ完全に継承した挙句に発展させたのが二代目鳥山石燕の豊房なのである。
「正直、先生が昔ながらの絵柄で描いても、無名絵師の模写扱いよ。有名な妖怪絵師は何人も居ないけど、人気があるのは他所の絵師が練習がてらに真似してるもの」
「ぐぬぬ……」
絵描きの業界に盗作問題など殆ど存在しなかった時代だ。
売れる絵はコピーされて当然。流行の絵柄は真似をする。練習代わりに薄紙を絵に貼り付け、その上からなぞって描く現代で言うトレス技術も存在した。
「ついでに云えば先生の名を継いだはいいけど、別に儲かってないの、わたしも」
「そうなのか」
「絵師ってあんまり儲からない仕事なのよ。先生が贅沢していたのは、単に財産を食い潰していただけだわ」
「……」
「九郎くんから微妙に実家寄生女を見るような眼差しを感じるのだが!?」
江戸に名高い凄腕の妖怪絵師という彼女の見栄が透けて見え、なんとも哀れに感じた。
確かに、と九郎は思い返す。石燕も描くには描いていたが、そんなことをしているよりも呑んだくれているか九郎と遊びに出かけるかしている方が多かったように思える。いかに人気絵師でも、そのペースではとても贅沢できるほど稼げまい。
亡夫の遺産を酒代と、囲い込んだ男へ貢いでいる女。
そう表現するとあんまりではあった。しかもモチで死ぬ。
お八は確かに豊房が贅沢をしていなかったことを思い出しつつ、もう一人の絵師を話題に出した。
「どっちかって云うとタマ公の方が儲かってるよな。吉原通ってるし」
「歌麿は美人画に定評があるもの。まだ流行ってわけでもないけど、知る人ぞ知る感じで人気を伸ばしているわ。大体、美人画となると版画での大量生産じゃなくて肉筆で依頼されることも多いからそっちの方が儲かるのよね」
「ちなみに私の弟子だった麻呂も名乗っていたが『きたがわ』は吉原に関係した名でね。タマくんの出自には地味にぴったりではあるのだが、随分と見ない間に一人前になったものだ」
「どんどん上達したものだからコツを聞いてみたわ」
豊房も、絵を始めたのも自分より後発で名目上は弟子でありながらあっという間に人気絵師になった歌麿について気にならないわけではないらしい。
あの助平な少年がよくも立派になったものだと九郎も感じ入る。しかし病気は危ない。今度吉原を消毒しに行こうと考えながら茶を口に含んだ。
「なんと云ったのかね? 私は基礎しか教えていないのだが」
「歌麿曰く……『毎日シャセーすることマロ!』」
九郎の口から茶がだらーっと零れた。
「『来る日も来る日もシャセーをして、朝昼晩シャセーをしないと体がむずむずするぐらいシャセーばっかりしてたらどんどんシャセーが上手くなって早くカケるようになった』とか『色んな所でシャセーをして、知り合いでもカキまくったマロ』とか云ってたわ──って九郎どうしたの」
「あやつ殴りに行こう」
「九郎くん九郎くん。落ち着きたまえ。写生だよ写生! 見たままに描くやつ!」
「わかってて誤解するように云っただろうあの助平めが!」
声を荒げる。スフィは腹を抱えて笑っているが、豊房とお八は意味がわからないとばかりに首を傾げていた。
なお史実上、喜多川歌麿の写生技術が卓越していたのは本当のことで、『画本虫撰』という狂歌本の挿絵を歌麿は手がけているのだが非常に写実的かつ緻密に虫の絵を描いている。ググろう(想像しよう、を意味するスラング)。
「なんなの? シャセーって他の意味があるの? 知ってるかしらお八姉さん」
「知らねー。おい九郎、教えろよ」
云われて、九郎は苦々しい顔で軽く怯んだ。
豊房は十五歳、お八は十九歳になるだろうか。どうも二人して、純なまま育ってきたようだ。
いや、春画には──絵描きの勉強で──触れていただろうが用語を知らないのだろう。そもそも江戸時代に同じ用語で存在しているのか少々アレだが細かいことはいいのだ。
問題は、年頃の娘に『男の子と女の子の体と成長』みたいなことを教えるのは九郎としても非常に気後れした。
助けを求めるように見るとお豊はニヤニヤしながら「幼女だからわからない」と嘯いた。
一方でスフィは溜息をついて任せておけとばかりに頷いた。そして声を潜めて囁くように言い聞かせる。
「よいかえ? 花には雄しべと雌しべがあるじゃろ──」
言いかけたスフィを遮って、指を立てた夕鶴が発言を被せた。
「男の人の珍棒をまさぐると白粥のような、ややこの元がびゅっびゅ~って出てくるでありますがそれをシャセーというのであります。普通は女のホトの中に突っ込んで前後することでシャセーを促し、腹にややこを授かるというわけであります」
「うおおおい!」
九郎は叫んで夕鶴の肩を掴んだ。
「夕鶴──っ! せめて伏せろよ直接的なのは! 全年齢でも対象なように!」
「何を云うでありますか! これは人として生きる上での基本的な知識であります! 決して隠したり厭らしいものではないであります!」
「そうだが! もうちょっと段階というかだな! 見ろ二人共気まずそうにしておるであろう!」
彼女のストレートな説明を受けて。
豊房は顔を赤らめて額を抑えながらややうつむき、
「春画がなんで裸で抱き合ってるかわからなかったけど……そういうアレなの……」
と今まで見た知識と照らしあわせて恥ずかしがっていた。彼女にとって春画で男女が裸で絡み合っているのは、単に恥ずかしい格好をしているとだけ思っていたらしい。
子供はどうやって孕み、産まれるのか。そのことに関しては幾つか推察があったようだ。妖怪の『姑獲鳥』が持ってくるか、単純に口吸いをすれば孕むとか。
一方で少し年上のお八は顔を青ざめて、
「え、ええ? つ、突っ込んで入れるだけで子供ができるんじゃ……そんな、謎の機能があるのか……怖っ……」
若干彼女の方は詳しかったが、具体的には知らなかったようだ。
というか行為を想像するのも少しばかり怖い気はしていたのであったが。
二人の反応を見てドヤ顔で夕鶴は云う。
「長州人はハッキリ物を云うのが美徳なのであります。これが薩摩人ならどうなるか……」
「耳を塞いで大音響の奇声を発しながら一里ほども走り去って、穢れ落としに水浴びでもおっぱじめるであろうな」
「そこまで」
※あくまで薩摩の若い者に限る。
しかしながらそうした若者がしっかりと大人になるには、恐らく蛹を経由しての変態的な変容が薩摩人の中では起きるのではないだろうか。
その辺りの考察は研究家に任せて、
「話を戻すぞ。絵師の仕事のことだ」
何やら想像の世界に入り込んで頭をゆらゆらさせている豊房とお八を呼び戻し、九郎は云う。
「しかしながらこのお豊、家事はともかく労働意欲が低い上にまだ幼児と云ってもいい年齢だ。内職を活かすとなると絵描きがいいと思うのだが……」
本人も、絵を描くのは好きなのだと云っていたことを九郎は覚えている。
彼女は鳥山石燕の名を譲ったが。
それでも好きなことをやらせておきたいと考えている。
「そういえば写楽がどうとか云っていなかったか? お豊」
「ああ……『写すを楽しむ』という画号の写楽にでもなろうかと思ったのだがね。よく考えたら後が怖いから辞めておこうかな」
「怖い? 何が?」
「写楽警察が」
「写楽警察!?」
お豊は九郎を引き寄せて耳元でヒソヒソと告げる。
「東洲斎写楽は正体不明かつ極短期間のみの活動、そして大人気絵師という要素を持っているのでその正体を探るべく後世の研究者がこぞって写楽について調べているのだよ……!
下手に名を使うと写楽警察が現れて、歴史を荒らしたとみなされ凄いことになるだろう……」
「今更過ぎる心配だと思うが……」
女石燕、女子興、女将翁など色々と突っ込みどころは満載な感じではあるのだが、現実に出会ってしまっている九郎からすればさほど問題は無さそうな気がしていた。
なお謎の絵師、東洲斎写楽の正体に関しては地味に喜多川歌麿説もある。論拠としては、写楽が活躍している時期は歌麿が殆ど活動を休止していたことや同じく蔦屋重三郎に懇意であったことなどが挙げられる。
いずれにせよ決定的な証拠は出てこない。写楽の正体について、江戸の当時でも様々な噂が流れていたので又聞きレベルで『写楽の正体は誰々と、何某が云っていたらしいな』のような記録が残されていたりもするが証拠としては薄いだろう。
とはいえ研究者は皆、様々にある自説こそ情況証拠として正しいと主張しているのだ。まさしく探偵が推理するがごとく。『写楽警察』と呼ばれることで業界では有名なのだ。
「私は精々、同じく詳細はいまいち知られていないが実力が微妙だから詳しく調べなくてもまあ良いか的な扱いを受ける歌麿二代でも目指すさ……」
「そんなに卑下せずとも」
自分の弟子の弟子ポジションを目指そうとするお豊に九郎はなんとも自嘲めいた雰囲気を感じた。
「というか絵柄とか大丈夫なのか?」
「ある程度の絵師なら、他の絵師の画風を真似するのは難しいことじゃないよ。その中で独自性を出して新たな流行を作るのが人気絵師になるのだ」
「そういうものか」
「しかしともあれ……絵師として復活するには……まずはある程度の資金が必要なのだが……」
お豊は指を立てて皆に言い聞かせる。
「ちゃんとした仕事を得るには戸籍が必要なのだが、生憎と死亡確認!されて墓まで立っている私と、スフィくんは戸籍が存在しないのだ。これを取りに行かなくてはならない。戸籍がなければ私達はただの無宿人だよ。商売をするにも相手をしてくれない」
「戸籍……そういえば、己れの戸籍を取るときはお主に任せておったが」
刀を持ち歩いていたので念の為に浪人の戸籍を九郎は得ていた。
この時代、浪人は江戸に仕官を求めて流れ着くのであるが元武士であり苗字帯刀をしている浪人と、単なる町人との違いは特に存在しない。
となれば町人が勝手に浪人を名乗って帯刀していなかったのかというと、あまりそういうことは無かったようである。
何せ別に浪人になろうが、何一つ得はしない。むしろバレたり因縁を付けられたりしたときに面倒事が舞い込むだけだ。侍など全くもって憧れの職業には成り得ないのであった。まだ同心の手先として岡っ引きになったほうが人から尊敬されるというものだ。
「役場とかでぱぱっとやってくれんのか?」
「ぱぱっとできるのはそれこそ両親祖父母が江戸に住んでいて戸籍を登録していた人ぐらいだよ。降って湧いたような怪しい身元では色々と面倒な手続きがある。住職だけではなく地主や名主にも挨拶しなくてはならない場合も」
「ううむ面倒じゃのー」
「そこで多少身元が怪しくても金を詰めばしっかりと戸籍に記録してくれる、抜け道のような寺があるからそこを利用しよう」
お豊が云う場所は、落合にある自性院という寺であった。
郊外にあるだけあって記録が火事などで焼け落ちず、しっかりと残るのも戸籍の売買で信頼性があるのだ。
「というか、スフィさんは身元が怪しいのでありますか?」
「まあ……家族もおらんしのー」
「え? 長州人でありますよね? 九郎君」
「なんでそうなる」
「だって周布さんと云えば代々毛利家に仕える藩士でありますよ? てっきりそこのお嬢さんかと」
「違うからな。馴染みすぎだ」
実在する人の一族とは流石に名乗れないだろう。九郎はスフィに似た名字があることすら知らなかったが。
「戸籍代は一人一両。私とスフィくんで二両必要だね。こういうのは早いうちに済ませて置きたいのだが、どうか都合してくれないだろうか」
「それなら自分が出すであります。屋敷をずっと間借りしていたお礼であります」
ふりかけの販売で儲けている夕鶴からの提案を素直に受けることにした。
単価は安いのだが何せ江戸では一日に一人五合六合は米を食べるのが当たり前で、おかずを準備しなくてもふりかけるだけで格段に美味くなる彼女のわかめしそは非常に重宝された。そして消費量も激しいので作ったら作っただけ売れている状態である。
いっそ人を雇ってもっと大量に生産させてもいいかもしれないと九郎は考えながら、
「そうだ。落合の方面へ行くならば途中で雨次の家にも寄っていくか」
「ああ、そういえば千駄ヶ谷とも遠くはないね。今思えば、怪しい身分証明をしているのはあの辺りで江戸に来た忍びの戸籍づくりにも関係しているのではないだろうか」
「ふぅむ……」
そういえば怪しい忍びを江戸に住まわす元締めをしているのが、千駄ヶ谷の豪農である甚八丸であった。
(寄るついでに挨拶のひとつもしていったほうがいいかもしれないのう)
********
怪しい戸籍づくりにぞろぞろと集団で行くわけにもいかず、九郎とスフィ、お豊の三人が向かうことにした。
青年の体つきをした九郎がお豊を肩車し、スフィと手を繋いで歩いている。
それとなく道行く人から視線を受けている気がして九郎は訝しんだ。
(なんというか……妹か娘を連れた子連れ狼的なやつに見えるとか)
そう解釈していると。
十字になった通りを、男がこちらに気付かずに横切って行く。
朗らかな笑みを浮かべた青年で、いかにも人畜無害そうな緩い雰囲気を出している。黒い袴を着ているがその物々しい衣装がこれでもかというぐらい似合っていない優男であった。
足元に中型のよくしつけられている犬を歩かせていて、六歳ぐらいの少女と手を繋ぎ肩にも同じぐらいの年頃の女児を載せていた。少女は二人共、楽しそうに近くを歩く犬に触れたり、高い位置から見る街の様子を眺めたりしている。
町奉行所の見廻り同心、[犬神]の小山内伯太郎であった。
犬一匹に少女二人侍らせてご満悦の散歩中である。その緩い雰囲気と、大人しい犬を連れていることを利用して言葉巧みにそこらの少女を引っ掛ける男なのだ。
すわ、女児誘拐の現場かと九郎は問いただそうかと咄嗟に思ったが──
「……」
「どうしたのじゃ? クロー」
「ちょっとそっちの路地に行こう。あとお豊は降りよ」
お豊を肩から下ろして、路地裏で九郎は己の姿を子供に変えてから再び千駄ヶ谷を目指して歩くことにした。
連れている二人は実質大人なのだが──
世間的に見れば、あの稚児趣味野郎と同じに見えてしまうかもしれないと考えたら無性に悲しくなったのである。
周りからの目線に九郎は耐えきれそうになかった。
「大人になるということは周りの目線も気になるということなのだろうなあ」
「九郎くんが人の振り見て我が振りを直してる……」
「まー子供の姿は得なこともあるのじゃよ?」
子供の姿から成長しなくなったときは、呪いだの大人であればとも思ったものだが。
女の屋敷に世話になって、女の収入で飯を食い酒を呑む。
そんな環境で少年の姿と青年の姿、どちらがヤバく見えるだろうか。
大人の姿でやってたらリアルすぎて洒落にならない。
等身大の細長い縛るアレである。
「……その場に合わせた、相応という姿でいよう」
********
千駄ヶ谷にたどり着くと、天爵堂から受け継いだ雨次の屋敷へと向かう途中で道をとぼとぼと歩いている影があった。
作業用なのか紺色で袖のない着物を着ていて、髪の毛は頭のうえで一度団子のように結っているが長いので背中に流している、十五か六ぐらいの少女だ。
手には開いて干したウナギと山芋と大蒜が入った笊を持っている。
持っているものが若干気になったが、この辺りでその年頃の少女であり雰囲気から、九郎は知り合いだと判断して声を掛けた。
「おい。小唄ではないか? 甚八丸の娘の」
呼び止められた少女、小唄は顔を上げて九郎を見ると何度か瞬きをした。
「はい……ってあれ? 九郎先生ではないか。暫く旅に出たとは聞いていたが、相変わらず若いのだな」
「色々若さには思う所があってな……ところで何をのろのろ歩いておるのだ?」
「いや……ちょっと雨次、じゃなかった靂のところに行っていたけれど、追い返されて……」
「れき? そういえば、元服して名を与えられたとか聞いたのう」
小唄は頷き説明をする。
「雨冠に歴史の歴。正確には新井靂卿という名なのだが、呼びにくいから皆は靂と呼んでいるんです」
「ほう……」
「離れて暮らしていた天爵堂先生の息子さん──明卿さんにも話を通していたようで、すんなりとあいつは屋敷を継いだのですが……」
がっくりと頭を垂れて小唄は吐露した。
「それから喪に服すと云って、ろくに外に出て来ないのだ……」
「なんとまあ」
「もうそろそろ三年にもなる。普通、四十九日ぐらいはわかるのだが三年ってどういうことだ……今日もそろそろ良いのではないかと、元気が出そうな食べ物を届けがてら説得に行ったら……」
大きな溜息をついた。元よりお節介な性格をしている小唄である。彼女の説得が説教に変わるのは毎回のことであり、それを聞き流す靂もいつものことになりつつあった。
「それにしても一部だけ元気が出そうな食べ物だねこれは」
「喪中に食べるものではないのー」
笊に入れられているのはどれも精力が増強するたぐいである。
なんか卑しさやあわよくば感が溢れ出ていた。
「九郎先生? この子たちは……まさか九郎先生のお子さん!?」
「いや普通に違うが」
説明しようかと思ったが、お豊のことに関しては適当にはぐらかした方が面倒がないだろう。
家族などごく親しい者には生き返ったことを伝えるべきだが、それ以外はよく似た子で良いはずだ。
「先代の石燕が他所でこさえていた子でな。引き取ってきた」
「こらあああああ! それは! 不義を働いていたみたいではないかね九郎くん!!」
本人から苦情が来た。そりゃそうだ。
やむを得ず九郎は言い直す。
「……豊房の従姉妹でな。絵の修行に来たのだという」
「ああ、そういえば豊房ちゃんによく似ている気がする。そちらの方は?」
「己れの古い友達のスフィだ」
「スフィじゃよー」
彼女の雑な挨拶は傭兵時代から行っていたものである。
当たり障りはなく、それなりに和むので便利な名乗りだ。
姿勢よく頭を下げて小唄は言う。
「私は小唄。この辺りの農家の娘で、小さい子に勉強を教えている。宜しくな」
「うみゅ。いい名前じゃ」
「それでは私はこれを家に持ち帰るから、九郎先生も寄ったら靂にいつ喪を抜けるのかと云っておいてくれ。まったくあいつと来たら……実の息子である明卿さんは普通に四十九日で喪を終えたと聞いたのに……」
「わかった。ところでその食材は持ち帰ってどうするのだ?」
「濃縮した液に調合して、夜中に靂の屋敷に忍び込み天井裏から細い糸を伝わせ、あいつの口の中にでも垂らそうかと」
「……聞かなければよかった」
忍びの暗殺を栄養剤に変えているだけの図である。
暫くぶりに見た小唄の格好をよく観察すれば、袖のない着物といい首元に巻いているスカーフめいた布といい、女忍者の要素はかいま見えた。
幼馴染の女の子が忍者で夜襲をしてくる。
(相変わらず女難をしておるようだ……)
靂の境遇にやや同情をする九郎であった。
屋敷について開けっ放しの玄関から入り、呼びかけた。
「おーい、誰かおらぬかー?」
無言。
静寂が返ってきた。少なくとも、靂と茨は住んでいるはずの屋敷だが。
「おかしいな。さっき小唄が帰ってきていたということは応対した靂がおるはずだが……そもそも喪中で家に居るのだろうし」
「クロー。奥の方から、紙をめくる音が聞こえるのじゃよ。家の気配はそれだけじゃな」
聴覚に優れているスフィが長い耳を揺らしながら告げる。
九郎は確信した。あの野郎、面倒だから居留守を使っている。
草鞋を脱いで屋敷に上がり込む。そもそも、天爵堂老人が住んでいた時は将棋や茶を飲みに勝手に入ったものだ。
彼の書斎があった部屋の襖を開けると。
寝そべって本を読んでいる眼鏡の痩せた青年が居た。
背がこの数年でかなり伸びたようだが、肉付きは悪くはだけた白い着物の胸元からは肋が少し浮き出ている。やや不健康な文学青年を概念化したような存在で、襖を開けられたというのに本に顔を落としたままこちらを向こうともしない。
少なくとも、喪に服して厳粛な態度で過ごしているわけではなく。
単に日中から読書に勤しんでいる無職の姿がそこにはあった。
「おいこれ雨次」
「……」
「雨次。無視するな眼鏡」
「……あれ? ええと……九郎さん、じゃないか。お久しぶり」
「ああ。天爵堂の爺の葬式には出れんで済まなかったが……なんともお主、引きこもりが板についておるのう……」
痩せ気味。肌の色は白い。眼鏡。読書。居留守。お節介な説教を鬱陶しげに追い返す。
役満めいた引きこもりがここに存在していた。
とはいえその生活ルーチンは、かつて屋敷の主であった天爵堂とほぼ変わらないのだが、若者が枯れた偏屈学者爺と同じ生活をしているというだけで中々ひどいものだ。
「引きこもりとは酷い言い草だ。僕は儒の教えに従い、三年の喪を行っているだけだよ。僕なんかを養子にとってくれたんだ。せめて考を尽くすのが僕にできることだからね」
「そうは云うがのう。部屋の中でダラダラとして本を読んでいたようにしか見えないが」
「教えによれば、息子は三年間白い着物で過ごし、部屋から出ずに、食事は粥のみとなる。その三点は忠実しているさ」
「うむ……その辺りの屁理屈が天爵堂そっくりだ」
子供の頃から言葉が理屈臭かったのだが、より一層悪化しているように感じた。
若いというのに厭世家で偏屈な学者崩れになりかけている。
「子曰く『夫れ君子の喪に居る、旨くを食らうも甘からず、楽を聞くも楽しからず、居處安からず。故に為さざるなり』とあるが、ならば本を読むのも楽しめないのではないかね?」
九郎の後ろから姿を見せたお豊がそう云うと、靂は眼鏡を押さえて彼女を見た。
「そちらは九郎さんの……隠し子?」
「そうだ」
「くーろーうーくーん!! 段々否定するの面倒になって来てないかね!?」
「もういっそスフィとの間に出来た子と説明すれば一発で関係がわかりやすくなるかと思って」
「い、いかんぞクロー! そういうのはだな、ちゃんと段階を経て……」
そういえば交換日記を書いていたのにペナルカンドに忘れてきたことを思い出し、またそこからかとスフィは唸った。
彼女は基本的に寿命が長いのでやたら気も長いのが恋愛の難点なのである。
「このちびっ子は豊房の従姉妹だ。ところで先ほど、小唄がしょんぼりとして帰っていったのだが……」
「彼女は少しばかり活動的だから、僕が家で腐っているように見えるんだろう。やれ、たまには外に出ろだの、畑仕事をしていれば気分も晴れるだの、街に買い物に行こうだのと連れだそうとするんだ」
「大変だのう」
無論、小唄の方が。
惚れていた幼馴染が突然引きこもりになり、喪に服すなどと云って貴重な青春の数年間を閉じこもっているのだ。心配もするだろう。
「しかしお主、そんなに儒の教えに敬虔だったわけでもなかろう。天爵堂にもそれなりに感謝すれど、特別に仲が良いという関係ではなかった」
「……」
母親が失踪してから天爵堂の屋敷で暮らすようになった靂であったが。
天爵堂老人と雨次少年の間にあったのは、どこか義務感めいた似た者同士の関係であった。
なるべくお互いに邪魔をしないようにして生活をしているような雰囲気である。
それが死の間際になったからといって大きく変化するとも、両方の性格からすれば考えにくいが……
お豊が薄く笑いながら告げる。
「喪に服すのが結構居心地が良かったのだろう? 何せ、喪中は一切生産的なことをせずともなんか果たしてる感じがするからね。義務感で道場に通ったり、仕事として黄表紙の物語を考えたりしていたがそれらから暫く遠ざかり、日がな一日部屋の中で本を読んで過ごす……慣れたら二度と働けなくなるよ?」
「う、ううう……違、僕はそんなのでは」
なるほど、と九郎も合点がいった。貧しい食事をして引きこもる生活。それは、以前の雨次と同じなのだ。
だが彼は友人と付き合い、茨を家族にして、道場で体を鍛え、稼ぎは少なくとも手に職を得ていた。
それらが喪中の期間で一時的に関係を遮断され。
その状態が、楽だと気づいたのだ。
「はあ……ところで茨はどうしておる?」
「……家のことを、細々と任せているよ。今は買い物に出てるんじゃないかな」
「お遊は?」
「実家を追い出されたみたいで、仕方ないから屋敷に住ませて裏の畑を貸している。この家で食べる分ぐらいはある程度作れるから……最近、茨と仲が良くて一緒に買い物に出てると思う」
「なるほど……」
むしろ彼自身が家事をしなくなっただけ、以前より悪い気がした。
そして一人、小唄だけハブにされつつある状況には哀れみを感じざるを得ない。彼女の実家は娘を追い出すほど貧しく無いし、家出してこの屋敷に住みこんだとしてもすぐさま取り返しに来るだろう。その場合、待っているのは小唄の想い人に対する厳しい追求だ。
それにしても。
茨に家事をさせて、お遊に働かせて、小唄を通わせて。
「お主……幼馴染の細長くて縛るアレになっておるぞ」
「ちっ違う! 僕は喪に服しているだけで、九郎さんみたいな細長くて縛るアレじゃない!」
「馬鹿を云うでない。感情的になって相手にそのまま反駁したところで意味は無いぞ」
「ところでスフィくん。九郎くんは旅先でどのような日常生活を?」
「私の家に住み込んでのー……家事などは私ともう一人の同居しておった女がやって、クローを食わせていたのじゃよ」
「アレだー!!」
「待て。はいはい。この話題終了」
九郎は無理やり話を終わらせた。どうやらあまり有利になる戦場ではないようだった。
「……ともかく、喪があけたら近所付き合いや道場にも挨拶に出るのだぞ。そんなに痩せおって。ハチ子と試合したらへし折られるぞ」
「ところで九郎さんは今日はどうしてここに?」
「ああいや、天爵堂に線香でもやろうかと思ってのう。墓の方がいいか? 墓所はどこにある?」
「浅草の報恩寺境内、高徳寺に。爺さんの奥さんの墓もそこにあったから」
報恩寺は敷地内に十三の寺を有していて、そのうちの一つであった。
高徳寺は新井白石が若いころに寄宿をして、そこで寝る間を惜しみ勉学に励んでいたとされる寺である。
「わかった。今度行ってみるよ。それと幼馴染は大事にしろよ」
「善処しますよ」
「やたら距離を縮めてくる幼馴染を意図的に無視しているとそのうち形振り構わなくなるからな。シャブとかビデオとか使うぞ幼馴染というやつは」
「九郎くんの幼馴染感がよくわからない……」
********
新井屋敷を出て、今度は甚八丸の屋敷に向かおうと足を向けたらそちらから覆面の男がやってきていた。
江戸でも複数居て顔の特徴を見せない覆面だが、黒袴の覆面は一人である。
同心二十四衆の一人、[無銘]の藤林尋蔵だ。
彼は九郎の姿を見るや、一瞬だけ目を鋭くしてからすぐに警戒を解いて声を掛けてきた。
「あっれー? 九郎くんじゃなーい。久しぶり、元気してた?」
「まあのう。ところで覆面同心。お主まだ独身か?」
「なんで? なんでいきなりそんなこと聞くの? 全然意味がわからないんだけど! お金なら今月はもう無いです!」
面白いぐらいに動揺している彼に九郎は呆れたように肩を竦めた。
影兵衛の情報では彼もまた、父親不明の赤子へ善意の出費をしている一人である。
「今から甚八丸のところに行こうとしていたのだが」
「あ、だったら今度にしたほうがいいよ。頭領ったら嫁さんが副業で飼育してた鈴虫を使って芸を行ってたら十匹ぐらい逃がしちゃって。十日間ずっと鈴虫の鳴き声でしか喋っちゃいけないことにされたみたいで」
「どんな芸なのじゃー?」
「それはねお嬢ちゃん。股間に鈴虫を入れてさり気なく茶屋に入り、茶屋の娘さんが『どこからか鈴虫の声がするわ』って気づいたら股間を指差して『君に股間が求愛中のようだ』ってやるんだ」
「馬鹿だ!」
「酷すぎるだろそれ……」
ちなみに鈴虫は売る相手を選べばそれなりの値段になる。キリギリスが一両以上で取り引きをされたこともあるので、千駄ヶ谷のような虫が多い江戸の近郊では後に流行する副業であった。
「だから今は頭領と話にならないというか……仕事の相談で来たんだけどなあ」
「何か事件でも起きたのか?」
「本所で五歳ぐらいの女児二人が拐かされるって事件が起きて、見廻りも捜索してるんだけど目撃情報を集めようと思って」
「……ところでさっき、伯太郎のやつが女児を二人連れて歩いていたのだがひょっとして」
「ありがとう九郎くん。すぐに捕まえてくる」
「お、おう」
走り去っていく忍者同心の後ろ姿に九郎は手を振った。江戸から小さい子供を狙った事件が一つでも減るように願いながら。
********
自性院は猫寺の名でよく知られている場所であり、また猫をよく境内で保護していた。
元々猫という動物は仏僧が大陸から日本に持ち込んだものが最初と言われている。経典をかじる鼠避けに連れてきたのだ。
また江戸ではペットとしても猫が最も飼われている。ここ自性院ではそうした猫好きに猫を分けたり、逆に子猫を預かったりとしていた。
そこの住職に話を通すと戸籍の件はあっさり用意してくれるようだった。
太った猫にそっくりの潰れ顔をした住職は、出身地すら不明扱いのスフィだろうが蘇ったお豊だろうが一両で問題なく身分を保証してくれるという。
これでスフィは江戸に在住の[すふい]という女である。ついでに真言宗と記録された。この記録帳を更に神楽坂近くの真言宗の寺に持ち込むことで、鳥山石燕の屋敷に住む下女として──基本的に妻か娘以外で同居している場合は下女になる──そちらでも確認される。
その後、街の名主や年寄が更に記録を編纂するのだがこの段階ではもはや疑われることもないのでしっかりと江戸に住む一人として扱われることになるのだ。
この段階でお豊が一つ考えた。
「いっそ私は名前を変えるかね」
「お主が?」
「うん。そもそも遺言で、私の[豊]という字を房に譲り、あの子は[佐野豊房]になったのだからいつまでも譲った名を未練がましく持っているのもどうかと思ってね。今までは便宜上名乗っていたけれど。それに、死んだお豊の屋敷にまたお豊が暮らすという記録もおかしいだろう」
「そうか」
「それに豊房とお豊では字が被っていて呼びにくいし読みにくいからね」
彼女はさらさらと宗門帳に自分の新たな名を書き記した。
「ではこれからこう名乗ることにしよう……!」
書かれている名はこうあった。
『石燕』
「未練たらたらではないか!」
「違う! これは『いわつばめ』と読むのだよ! ツバメちゃんと呼んでくれても構わないよ!」
「『いわ』じゃなくて『いし』だろこれでは」
「石見銀山とかに使われる読みだから問題はない!」
そっぽを向いて拗ねたようなお豊こと石燕である。むしろ逆スネだ。色々考えて一周回った結果、石燕という名に至ったのだろう。
「鳥山石燕ではなくただの石燕だからいいのだよ。大体、引退したり二代目が出来たからといって別に名を返上する必要は無いのだ。妖怪絵師鳥山石燕は豊房がやるといいさ。私はただの少女石燕として二代歌麿を目指して美人画でも描いておくから」
「まあ……その辺りはフサ子と話し合ってくれ。己れも正直云うと」
九郎もツッコミは入れたものの、苦笑いのような顔で云う。
「お主に対しては『石燕』、という呼びかけが口に馴染んでしまっていてな。豊房の努力や仕事を否定したくはないから呼び名は変えておったが……年齢や立場が変わろうと、己れにとってはフサ子はフサ子で、石燕は石燕なのだな」
「……何故だろうね? 凄く嬉しい気がするよ」
石燕は泣きそうな笑い顔で、九郎の背中に回って抱きついた。
そんな様子をスフィはじっと見ていた。
(クローは……気づいておらぬのじゃろうな。或いは、気づかぬようにしておるのか)
彼が無意識に。
変わっていくものに寂しさを感じて、変わらぬ日常に安堵を覚えているのを。
九郎は人を喪い、見送りたくなど無いのだ。誰もがそうだろうが、彼の場合は自然な寿命すら持っていないのだから、よりいびつに。
(変わらぬものなどない……じゃが、私だけは死ぬまで変わらずに居てやりたいものじゃなー……)
ずっと彼を見守っていた歌の聖女はそう考えていた。
********
用事を済ませ、屋敷に戻ると居残り組が夕飯を作っていた。
江戸での食事支度は朝一番に米を大量に炊き、飯櫃で保温をしてそれを夜まで食べるのだが屋敷に到着したのは昼過ぎだ。
折角なので夕食用に炊きたてを皆で食べることにした。
飯と蜆の汁。小松菜の和物に鯵の干物が一人三枚もある。
更に帰る途中千駄ヶ谷で、小唄から鈴虫の餌用に大量に作って余った茄子を分けて貰ったので、
「茄子の翡翠煮にしてみたよ!」
と、石燕が作って出した。
翡翠煮とは軽く焼いた茄子の皮を剥ぎ取り、身を薄い出汁で煮たものだ。
分厚い茄子の身を噛むと染みこんだ出汁がじゅわりと滲み出て、一度焼くことで程よい茄子の噛みごたえとなるのが中々に、旨い。
「それにしても、先生の未練がましさには呆れるわ」
お豊が再び、個人名として単なる石燕を名乗ると決めたことを告げると憤然とばかりに豊房は言った。
豊房はしっかりと九郎の隣に座りながら、翡翠煮をつまんで酒を呑んでいる。
この六人では酒を呑むのが九郎と豊房ぐらいのものだ。お八はすぐに酔うし、スフィはあまり飲まない。夕鶴は酒よりも米派で、一番の酒好きであった石燕は体の関係で一杯飲むとべろべろになる。
頬をやや赤くしながらジト目で石燕を見て、二代目鳥山石燕は告げた。
「きっと今度死んでも妖怪か幽霊になって復活するわよこの未練だと」
「ならば未練を残さぬように果たさねばならないね。よし九郎くん! 私の未練を奪ってくれたまえ!」
「安心しろ。その時はイッパツで昇天できる、スフィの歌で送ってやるからのう」
「任せておくのじゃよー」
「えげつないね!」
そして夕食も終わり、夜五ツ(午後八時前後)には就寝するのが江戸の常である。
何かしら活動をするにも夜は不便過ぎた。それこそ、酒を飲みに屋台へ出かけるか吉原へ行くかぐらいだ。新井白石は月明かりで勉学に励んだというが、それも天候によりけりだろう。
寝る段階となって、気づいたことは。
「布団足りねーなー……」
「いきなり六人は無理でありました」
「元々この屋敷には私と子興、そして夕鶴くんの三人分しか用意してなかったからね……」
「とにかく、固まって寝ることにしようかしら」
三つ並べた布団に六人が入り込み、川川の字になって眠ることになった。
「足りないもの尽くしだのう……まあ、明日から頑張るとするか」
布団も足りないし衣服も足りない。仕事は無いし財産も無い。
それでもどこか安心しているのは布団の暖かさからかもしれないな、と九郎は思った。
一人ではない暖かさがある。明日どうなるかはわからないが、少なくとも今は温かい。
変わらぬ誰かと、変わった誰か。変われる誰かと、変われない誰か。それを意識させられる日であった。
九郎のつぶやきに、隣で寝転がるスフィが応えた。
「そうじゃな──クロー?」
呼びかけられて、「なんだ?」と返事をする。
「──また明日」
「ああ、また──明日」
これからずっと、九郎と明日を誓って生きていこうとスフィは思った。
彼が寂しくなくなるまで。
長い時間の先まで。
翌朝。
石燕が寝小便をしていたので布団問題はより深刻になった。
「違うのだよ!! これは体が小さいから膀胱を我慢する筋力が足りないという生体的な機能不全であって、我慢できたできなかったの問題ではないのだよ!!」
「石燕。いいのだ。気にするな。その……また明日から頑張ろうな」
「生暖かく優しい目でみないでくれたまえ!!」
「どうしろと」
前途多難な生活がスタートした。
お豊→石燕になります
ザ・ニュー石燕みたいな感じ




