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3話『再会その二』

「諸人こぞりて 迎えまつれ(Si nosti cor meum ibo)


 久しく待ちにし 彼は来たれり♪(Et iterum ego ero)


 悪魔の縛めを 打ち破り(Cuz dixi vobis prius vale)


 虜囚を放して 彼は来たれり♪(Et iterum reversus sum)」



 ──店の中で陽気に歌うスフィの声に、酒に酔いながらも一同は聞き入った。

 たとえ酒精が記憶を滲ませても、この九郎が連れてきた歌い手の口から紡がれる旋律は決して忘れないだろう。そう感じる、綺麗な歌であった。

 酒を飲み、歌を歌って、思い出を語り笑い合う楽しい宴会であった。

 そのようにして九郎が帰ってきた晩の宴会は大いに盛り上がったのである。

 家族として、友人として、九郎はこの江戸の町で絆を作り皆が彼の帰還を歓迎してくれる、そんな帰る場所になっていたのだ。


 これまで様々な生き方をしていた九郎であったが。

 元々生まれ育った東京では彼の所属していた会社組織がガサ入れを受けて職を失い、家族に迷惑を掛けぬために逃げるように去った。

 蟹漁船から生きるか死ぬかで辿り着いた異世界では、地球世界に帰ろうという思いがありどこか落ち着かず。

 それを諦めて、生活基盤を置いた街では同居していたクルアハが死に、イリシアは魔女として処刑されかけたのでもう帰れず。

 放浪の末にたどり着いた魔王城は狂戦士ライブスと暗黒魔道士ヴァニラウェア、名無しの鳥召喚士に破壊されつくし。

 そうしてようやく江戸に腰を据えたのである。

 

(思えば、己れの出発はいつも突然で……『帰るのを待ってる』と言われたのは、ここだけだったからのう)

 

 たったそれだけで、帰る場所というものは生まれるのだと九郎は知った。





 ******





 宴会から夜が明け、早朝に酒気が抜けた九郎は早々と目覚めた。

 緑のむじな亭二階では、三部屋が連なっていて現在は豊房のみが寝泊まりしているのだが、昨晩は泥酔者多数であった。

 開け放たれた部屋の中に、雑魚寝もいいところで女衆が散らばって寝ている。

 豊房、お八、スフィ、お豊、夕鶴。思い思いに寝ていて、昨晩は九郎と歌麿が一応適当に掛け布団や敷布団をかぶせていた。

 九郎はいつも通りの眠そうな眼でそれを見回す。部屋の入り口には、空の桶と水差しが置かれていた。喉が渇いたり、喉にこみ上げるものがあったりしたときのために歌麿が置いていったのだろう。


「気が利くのう……さて、しこたま呑んだから昼までは引っ越しの準備は無理だろう」


 自分が、ではなく周りの女らがだ。

 お八はそもそも酒にそこまで強くないし、豊房はそれなりだが酒量が多い上に、まだ十五、六だ。飲兵衛のお豊は体が縮んだ影響ですぐさまヘベケレになった。夕鶴は「イッキするであります!」と体育会系の新歓みたいなノリで呑んでいた。マシなのはスフィで、彼女は昔からそこまで酒をぐいぐい飲まずにむしろ酔いを介護する役目だったが、慣れない日本酒や焼酎のせいか昨晩はすっかり酔いつぶれた。

 なのでほぼ全滅している皆はそっとしておこう、と九郎は部屋を出ようとした。

 腰を上げると、服の裾を掴まれている抵抗を感じて振り向く。

 近くで寝ていた豊房が、寝たまま九郎の青白い着流し──疫病風装を握っていた。

 

「……くろう……もう……」


 九郎は口元を緩めて、寝ている彼女の黒髪に刺されてる、いつか渡していた簪に触れて抜いた。髪を下ろす間もなく寝てしまったようだ。

 寝て起きたときに、また九郎が消えているのではないかという不安が。

 小さな手からは感じた。


「安心せよ。どこにも行かぬよ……」


 少なくとも九郎は、江戸で出会っている豊房や歌麿らが死ぬまで見守ってやろうと決めて、戻ってきた。

 いや、正確にはスフィが死ぬまで生きるつもりな九郎は皆を見送ることになるだろう。その覚悟はしている。


「だから……」


 そう言いながら、着流しの合わせを緩めて腕を抜いた。


「……だから便所に行かせてくれ」 


 ──いまいち締まらないことを言い訳がましく呟いて、九郎は疫病風装を脱いで部屋を出て行く。

 青白い衣の下は、黒色の肌着とズボン、それに腰に術符フォルダを巻いているので見た目には半被はっぴを脱いだ職人や大工の服装に近く、江戸でもそう異質には見えない。

 九郎の姿が少年型なことと、服にゆとりがあり少しばかり丈余りに見えるので子供がサイズの合わないのを着ているように見えなくもないが、ゆとりを持たせているのは咄嗟に体を大人型に変化させたときにきつくないようにするためであった。

 階段を降りて、店を見回すと早起きした歌麿が一人、昨晩の片付けを行っていて、もう殆ど終えていた。


「おう、すまぬな歌麿」

「おはよう兄さん。皆はどうマロ?」

「まあ昼までゆっくり寝かしておくか。六科たちは?」

「六科さんは二日酔いしない方だから直に起きてくると思う。お雪さんはお酒飲んでないけど、元から朝が弱いから」

「そうだったのう」


 盲人であるお雪は昼夜の概念が陽の光などに作用されにくいこともあるのか、起きてくるのが若干遅い。

 今は三つになる娘も徐々に手がかからなくなりつつあるが、赤子を世話している時などは夜泣きに対応するために何度も夜中に起きることが多かったことも生活のリズムを崩す原因になっただろう。

 とはいえ、六科に豊房、歌麿などが手伝うことで彼女の負担も相当軽減されているのだが。

 九郎はのそのそと長屋の惣後架へと向かった。『惣』は総べる、『後架』は寺などにある手洗い。つまり惣後架は共同便所のことである。

 多くの長屋と同じく、小さな二つ並んだ狭い小屋が長屋の便所で、入り口は下半分を隠す扉がある。

 そこまでは普通だが、現代人的な感覚の九郎が上が開いて外から丸見えというのはどうも落ち着かぬということで、簡単な簾を掛けて隠れるようにしてあった。入り口には裏表に『可』『不』と裏表に書かれた板木が掛けられていて、使用中かどうかを外に示す。

 この世界で暮らすようになって早い段階で導入したものだったが、長屋の女衆には喜ばれた。外から覗けるのが普通とはいえ、それが恥ずかしくないわけではないのであった。

 

(神楽坂の屋敷は屋内に便所があるのだったから心配はいらぬが……)

 

 家に一つのマイ便所は江戸庶民の憧れでもある。更に、長屋では尻を拭くのに安いが尻に優しくない、ざらざらした藁紙を使っているが元石燕の屋敷では普通に紙だ。何かとリッチさが伺える。

 まあ九郎の心配としては主にスフィに生活の不便をさせないように気を使うことなのだが。

 便所から出て共同井戸で汲んだ水で顔を洗って軽くうがいをしていると、長屋に住む数人の婦人が九郎に話しかけてきた。

 井戸端で洗濯をするために出てきたのだ。日が上がる前にその日の洗濯物を洗って干すのが長屋に住む嫁の最初の仕事である。


「おはようさん、九郎の若旦那」

「おう」

「そういえば長屋を出るんだっけ? お房ちゃん連れて」

「よかったじゃないか。ちゃんとしなさいよ」

「まあな。フサ子のやつも、仕事場が遠いと不便なのであろう、恐らく」


 真面目な顔で九郎はそう考える。

 恐らく豊房が、経済的に自立しているのに蕎麦屋の二階で過ごしていたのは旅だった自分のことがあったからだろう、と彼は思っている。

 ここに来たときに持ち込んだ背嚢や、江戸の町で手に入れた細々とした私物。帰ってこなければ六科に売り飛ばしていいと告げていたのだが、豊房はそれの管理をしていた。 

 九郎が帰ってきてその仕事も終えたので仕事に便利な神楽坂の屋敷に移り住むに違いない。


「ハチ子も連いてくるみたいだが、女所帯になるのう。己れでは気の利かぬことがあるかもしれぬから、困ったときは頼むかもしれんが、よろしくのう」

「……」

「……」


 長屋の女房らが顔を合わせて苦いものを噛んだようにしかめっ面をした。こいつわかってねえ──!という顔だ。

 九郎が首をかしげていると、表店の方からふらふらと夢遊病患者めいた動きでお雪が洗濯物を籠に入れて歩いてきていた。

 目は見えていないのだが、長屋周りは杖も付かずに歩ける程度に把握していて、子供や夫のためにできる家事を積極的に行っているのだ。最初ははらはらと手伝っていた六科も、そのうち自主性に任せるようにした。


「おはようございまぁす……むにゃ」

「ああ、足元に気をつけてのう」

「はいなぁ」


 ぶつからないように気をつけて、九郎はすれ違いに店の方へと戻っていった。

 店の板場には六科が立っていて炊飯を行っていた。竈に貼り付けられている炎熱符は、魔法行使に適正のある歌麿がいれば発動して薪いらずに火が使える。

 余談だが、こちらの江戸に術符を残してくる分も考えて魔王ヨグのところで九郎は術符を幾つかコピーして持ってきた。高性能のコピー機があったので案外簡単に増やせたのである。なので、店だけではなく引越し先の屋敷にも竈や水壺、風呂などに術符を活用できるだろう。


 店内にはまだ仄かに、昨晩呑んだ酒の匂いが漂っている。

 換気でもするかと九郎は店の入り口を大きく開け放ち、外の通りへ出る。

 夏が近づいているが朝方はよく乾いた風が通り、涼しくて気持ちが良い。徐々に通りにも人が出始めてきた。

 九郎は大きく伸びと深呼吸をし、

 

(懐かしい……)


 と、感じてしまう自分に苦笑した。

 百年あまりになる人生で、ほんの二、三年ぐらい過ごした町だというのにどこか懐かしい。

 少なくともここ数年、スフィと共にしていた冒険の拠点であった帝都は異世界らしくあったから余計にそう思う。

 砂漠の海沿いであった土地から急に肥沃な草原に変化した土地であるので、水が豊富で樹木が少ないサバンナとでもいうべき気候でありながらも、一年を通しては雪も降る上に季節が年に二回は回ってくるという土地。

 人口は江戸よりも多いが、多人種、多種族が入り乱れて生活をしていた。

 オマケに早朝には無差別に家屋にバズーカをぶち込む犯罪者組織まで存在して、必ず爆発音が聞こえたものである。

 それに比べればなんと平和なことだろうか────


「おーい! く・ろ・う・ちゃあああああん!!」


 やや喉がガラガラと鳴るような胴間声。九郎がそちらを振り向くと、通りの向こうから満面の笑みを浮かべた男が大きく手を振りながらスローモーションにも見える大股で走ってきている。


「拙者ァ寂しかったぜえええ! 感動の再会───!!」


 感動の再会の涙とやらを流しながら、まるで織姫と会った彦星のように。

 とてもとても嬉しそうに──

 九郎の友人、『切り裂き』同心・中山影兵衛が、やってきていた。

 昨日九郎が街中をスフィとうろついていたときに、他の見廻り同心が発見して彼に伝わったのだ。そして朝一番で、長らく留守にしていた友に会いに来たのである。

 これぞ友情。ああ、年離れていても、確かに九郎の友人が江戸には居るのだ。手を振り替えそうとして、九郎は動きを止めた。


 ちゃきり、と影兵衛の腰に差している刀の鯉口が切られた。僅かな隙間から銀刃がキラキラと感動的再会を祝福するかの如く反射光を出している。


 九郎はすぐさま振り向いて影兵衛と反対側の通りにダッシュで逃げた。

 

「あっ! 手前逃げんな! おとなしく拙者と友情ころしあいしやがれってんだ! せっかく人様が挨拶しゅうげきに来てやったのによう!」

「この駄中年が! 朝っぱらから殺しに来るやつがいるか!」

「うふふ待~て~キャッキャッ」

「ぬお!? こやつ気持ち悪い言葉を吐きながらヤバイ速度で追いかけてきた! ぬかった……疫病風装脱いでくるのではなかった!」


 魚市場に行く棒手振りも振り向く速度で、二人は早朝の江戸を爆走していった……




 ******





「ぜえ、ぜえ……クソっ手前! 厄介なところに逃げ込みやがって!」

「ふう……ここならば容易に刀を抜けまい」


 九郎が背後から迫る剣鬼を連れてとんでもない早さでやってきたのは八丁堀近くであった。

 ここは町奉行所の同心・与力が暮らす組屋敷がある、つまりは火付盗賊改方の影兵衛からすれば別部署身内の管轄下である。

 迂闊に刃傷沙汰を起こせばすぐさま町方の手先が飛んできて引っ立て、影兵衛の上司に苦情が行く。ただでさえ町奉行所は荒っぽく事件を解決する火盗改を疎ましく思っているので、ここぞとばかりに責められるだろう。

 見境なく斬りかかるように見えて、自身の保身はしっかりとしている影兵衛としても暴れられない土地なのであった。


「しかも、おじさんをこんなに走らせやがって……こちとらそろそろ四十だぞ。全力疾走すれば、息の一つも切れらァ。おじさんを大事にしやがれ」

「四十なのに馬のような速度で走るな。恐ろしいわ」

「手前を殺すために我慢を重ねて、居なくなってから拙者は不殺ころさずの誓いまで立てていたのによう!」

「嘘をつけ嘘を」

「本当だっつーの! 先月やったので十三回目の誓い!」

「最低でも十三人は殺しておるではないか! しかも四年で!」


 年に最低三人は殺している。

 何度も禁煙を宣言する駄目な男のようであった。しかし彼の場合、積み重なるのは吸い殻ではなく悪党の死体なのが際どい。

 幾ら相手が極悪非道な火付け盗賊でも、この太平の世で斬り殺しすぎであった。


「それにしても朝っぱらから汗掻いちまった。よし九郎! 風呂行こうぜ風呂! ひとっ風呂浴びてスッキリしようや!」

「変わらぬのう」

 

 半ば呆れながらも、既に呼吸を整えて平然と歩き出した影兵衛についていった。

 金も手ぬぐいも持っていないが、それぐらいは影兵衛に奢らせようと思いながらも。

 

「それにしても昨日帰ってきたんだって? んじゃ今日は歓迎会だな」

「昨日の晩にやったぞ」

「おいおいおい! なんで拙者お呼ばれしてねえわけ? イジメか? 拙者ところし合ったあの夜を忘れたのかしら!?」

「いきなりオカマ口調になるな気持ち悪い! そして捏造をするでない!」


 変な趣味に目覚めて無いだろうな、と九郎は気色悪げにくねくねする影兵衛を見た。


「そういえばハチ子から聞いたが、子供が三人になったとか」

「おうよーう。嫁さんと励んでたら自然とな。くくく、楽しみだぜ。あの道場の兄ちゃんのところの息子と戦わせるのがな」

「際どいのう……というか晃之介のところから金を奪いすぎだ。強盗か」

「お勉強代と呼べ」


 悪びれること無く主張しながら、八丁堀の湯屋の暖簾をくぐった。

 朝から数名男の客が入っているようだ。ここ八丁堀付近は治安が良いので江戸でも人が集まりやすい。

 二人分の代金を払って、迷うことなく影兵衛は女湯と書かれた方へ入っていった。九郎は少しばかり躊躇いを覚えないでもなかったが、まあいいかと影兵衛に続く。

 八丁堀は先に告げたとおり、同心与力──即ち下級とはいえ武士の家族が多く住み暮らす。

 とすると、その武士の嫁が町人の男に恥ずかしげもなく裸を晒すのは如何なものか、或いはどこそこの同心の裸体を見る目が怪しかったとなると互いの為にならない。

 そういう理由もあって八丁堀では江戸でも珍しく、男湯と女湯が分かれていた。

 そして、同心与力は午前中の間は女湯に入れるのである。


「役得役得」

「と、言っても朝方はろくに人もおらぬからだろうよ」


 女湯の脱衣場で脱ぎ捨てる影兵衛に、何度か女湯突入に付き合ったことのある九郎は冷静にツッコミをいれた。

 同心が午前中女湯に入れるのは、基本的に江戸の女というのは午前中から風呂に入らないからという理由もある。

 九郎が長屋で見たとおり、江戸の女は朝には洗濯をして飯を炊き、子供の世話や仕事に追われているのだ。

 それで人が入らない時間を、同心の旦那が入れるようにしようということでこうなっているのであった。同心用に、脱衣所には刀掛けも置いてある。『江戸の三大七不思議』の一つにも、『何故か女湯にある刀掛け』と言われるぐらいであった。


「ま、いいじゃん。ゆったり風呂に入れるんだからよ」


 笑いながら、番台で購入した手ぬぐいを九郎にも渡して、背中に入れた龍の刺青を見せびらかすようにしながら歩く。


「む? お主、背中の刺青にざっくり切り傷がついておるな」


 指摘するように、脇腹から腰まで、しかも左右対称についていてまるで刺青に大きな×を入れたようだった。


「あー、九郎が居ねえ間に敵にやられちまって」

「お主が背中を斬られるとは」

「駄作くて困るんだがよ。ちなみに背中を見せて斬られたわけじゃなく、正面から受け止めたら何故か背中が破裂するように裂けてな」

「恐ろしい技だな。理屈がさっぱりだが」

「『私は誰よりも美しい』とかなんとか主張してる変な賊だった。宇田うだなんとか云う名前だったか? 攫った女に『うだ』って焼き印を入れる人間売買人」

「なんと」

「氾濫した堤防を切って水攻めまでやってきたけどよ、傷口のお返しで袈裟斬りして体を分解してやった」


 などと物騒なことを話しながら二人は流し場へ向かっていく。

 すると向こうから、丁度湯を上がったのか客の一人が脱衣場にゆっくり歩いてきていた。

 若い女だ。手や首元がよく日焼けした体には申し訳程度に体を隠すように、手ぬぐいを豊かな胸元から股に張り付かせ、片手には一歳か二歳程度の幼子を抱いている。腿が健康的に太く、肌をピンと張っているような肉付きのいい娘であった。

 九郎は、


(どこかで見たような……?)


 と思ったが、隣の影兵衛が急に目を背けて額からぶわっと汗を掻き、白々しく口笛を吹き始めた。

 普段ならばガン見をして鼻の下を伸ばす男であるし、目の前の女も魅力的な体をしているのだが……

 

「おやおや!? これは影兵衛兄さんに九郎の若旦那じゃございませんか! 江戸に帰ってきていたんですか!? こりゃいいネタです!」

「──っと、お花かお主。瓦版の」


 ようやく気づいたとばかりに九郎は合点がいき、手を打った。

 江戸で自作した瓦版を、契約したところへ売って回っているという珍しい形式の女記者兼新聞配達員、お花であったのだ。

 大体いつもは脚絆を履いて袖まくりをし、江戸を走る姿を見ていたので裸では気づかなかった。髪の毛も以前は首元で切りそろえていたのを背中まで伸ばして、女らしくなっている。

 そして手元には赤子を抱いているのことが以前との変化である。

 彼女はそれを気にせずに、九郎に身を乗り出してインタビューのように聞いてきた。


「いつ戻ってきたんで!?」

「ああ、昨日の朝方にな」

「また蕎麦屋で助屋家業を再開するんですか!?」

「いや、六科のところは子供も生まれて手狭になるからのう。神楽坂にある石燕の屋敷へ引っ越そうかと思ってな」

「なるほどなるほど……あ、なんならあたしが帰ってきたこと広めておきますよ。あちこち挨拶回りするのも大変じゃないですか?」

「それは助かるのう……」


 暫く過ごした江戸では九郎はあちこちで知り合いを作ったので、彼自身がまた顔を出すよりも帰ってきたということだけ伝えて貰えれば楽でもあった。

 口笛を吹いたままの影兵衛を横目で訝しげに見ながら、疑問を尋ねる。


「ところでお主は何故八丁堀の湯屋に?」

「ほら、前に九郎の若旦那が教えてくれた通り、あっちこっちの湯屋と読売購読の契約を取りまして。配ってる途中で背負ってたこいつがシッコ漏らしたからひとまず体を洗ってたところでした」

「ほう……」


 瓦版の街頭販売ではなく訪問販売の利点は何より、外に出なくても買えることである。

 一部の職業の者は一日中屋内に居たり、門番をしていたりするのでそう言う者達と契約を取ってはどうかと以前に勧めたのだった。

 助言もあって販売実績は大きく伸びたようだ。


「……それで、お主その子は父親は誰だ?」

「さあ?」

「さあって……」


 首を傾げながらもニコニコと笑っているお花は隠すことなくあっけらかんと告げた。


「何分、あっちこっち身に覚えがありすぎて父親が特定できないんですよこれが! あはは」

「そ、そうかえ」

「でも大丈夫! この子はしっかり育てるんで! それに頭領の奥方も手伝ってくれるっていうし!」


 何も気負うことなく言い切るお花の姿に、九郎は感嘆の息を吐いた。

 彼女がその気になればそこらの男を引っ掛けるのも容易いように思えるが、それを選ばないのだろうか。容姿は問題なく良いし、性格もカラッとしていて人に好まれる類なのだが。

 

「ああ、そうだ。江戸に帰ってきたばかりだったら情報が必要ですよね! 読売買います?」

「それが今持ち合わせが無くて──」

「あーうん。拙者が出す拙者が」


 影兵衛が発言したかと思うと駆け足で脱衣場に戻って衣服に隠した財布から代金を持ってきた。

 何故か急な動きを見せた影兵衛の様子を見ていると、お花に一分銀(約2万円)を手渡したので九郎はぎょっとした。配達というサービス料込でもお花の瓦版は十六文(約300円)ぐらいであったはずだ。

 だが彼女は当然のように受け取り、にっこりと微笑んだ。

 

「毎度! 脱衣籠に瓦版入れときますねー!」


 そう言って脱衣場へとペタペタ歩いて行った。

 見送った九郎と影兵衛は暫し無言になり、陸湯を浴びて体を流してから九尺四方の湯船に入った。採光窓も無くかがんで入る石榴口以外からは明かりの入らない湯船は薄暗く、湯は朝に沸かすので熱かった。

 そして影兵衛の肩をがしりと掴んで囁く。


「おいお主……! まさか……!」

「いや待て待て待てって九郎! 違うぞ!? 多分いや本当かなり拙者じゃないってマジだって!」

「なんだその不審な態度は……!」


 よもや、あの赤子の父親が目の前の元々女遊びも得意だった男ではないかと疑いの眼差しを向ける。

 嫁と三人の子供が居るというのに。

 影兵衛はやや目を泳がせながら釈明した。


「白状するぞ? そりゃあ一回ぐらい、その場の雰囲気的なアレしたことはあるけどよ、一回だけだから!」

「浮気者め……」

「だから、それはあの嬢ちゃんの策なんだって!」


 ひそひそとしながらも必死に告げる。


「いいか、『身に覚えがあって父親がわからない』──ってのは本当のことだ。拙者だけじゃなく、同心だったら町方の藤林も被害者兼容疑者の一人だしな。他にも結構いるって話だ」

「どういうことだ?」

「だからあの娘は、あっちこっちの男と関係を持ってそれでさり気なく強請ってるんだよ。男ってのは責任がハッキリしねえもんで、一度抱いたことのある女。子供の生まれた時期には心当たりがある。父無しでも育てるって言ってるがなんかこっちを責められてる気がする……ってことで養育費も兼ねてつい高い金を払っちまう。そうやって金を稼いでるんだ」

「お主以外にも、何人も心当たりがあるわけか……」


 意図的か偶然か単なる欲求かは不明だが、カラッとした性格とは違いお花の男性遍歴はかなりのものであるようだった。

 江戸には女より男の方が多く、色街があるとはいえかなり金が掛かる遊びである。夜鷹や船饅頭と呼ばれる安値の私娼は相当な醜女か老女、病気持ちばかりだ。

 そんなわけで女慣れしていない忍び関係の若い男たちがお花のような女に誘われたらつい手を出してしまうのも仕方ないのである。影兵衛の場合は単に助平心を狙われたのだろうが。


「勿論父親は拙者じゃないと思ってるけど。っていうか時期ズレてる気がするし。拙者むっちゃん一筋だし。でもまあ一人で育てるのも大変じゃん? せめて金銭的援助だけでも……って感じで仏心で金を出してるわけだが……そう言う、わりかし真面目な男を狙ってたってわけだ」


 若干震え声でなければきっぱりと彼も否定しているように見えたはずだ。

 被害者の会は皆、「ひょっとして俺の子では……」と云う思いがあるのだが──。

 逆に「俺の子じゃないかもしれないし……」という疑いもあって、お花を誰かが娶るような動きは取れないのだという。

 甲斐性の無いことこの上ない。

 だが九郎はその関係者が持つ複雑な事情、感情を考慮して深々と溜息をついた。


「……そうだよのう。なんというか、知らん間に子が出来たとか──認めがたいのもわかるよなあ」

「だろう? ってなんだ妙に物分りがいいじゃねえか。とにかく、女は強しってこった。あの嬢ちゃんもふてぶてしく育てるだろうさ」

「うむ。だが助けて欲しいと頼まれたときは手を差し伸べるのだぞ」

「正義の同心として、な」


 九郎もダメな側に感情移入するのであった。

 とはいえ、本人が平気の平左とばかりに明るい素振りを見せても大変なのは確かだ。

 何故お花がそんな特殊な──父親容疑を増やして強請るような面倒をして子育てをすることに決めたのかは不明である。

 或いは、


(案外、お花自身は誰の子か把握しておって……それを隠すためにあれこれしておる、とか?)


 なんの根拠も無い推理が浮かび、邪推するのも失礼だという理性ですぐに霧散していった。


「子供といえばあれだぞ。利悟の奴も息子が出来たぞ」

「マジかあの稚児趣味。いや、催眠術とかで洗脳してやったのは己れなのだが。それで、稚児趣味は治ったのか?」

「母性を感じる女児を探し求めるようになった。なんでも?『私の母になってくれたかもしれない女児を探す』とかなんとか」

「悪化しておる……隕石に潰されてしまえば良いのに……ん?」


 ふと脳裏に引っかかることがあり、影兵衛に尋ねた。


「実は旅先から、己れより年上だが見た目は少女な友人を連れてきたのだがもしや……」

「おいおい、あの馬鹿に見せるなよ。付け狙われるぜ」

「その時は利悟を殺そう。あとついでに、石燕が若返り幼女の姿になったのだが……こっちは大丈夫か?」

「うーん……変態じゃねえから趣味嗜好はわからねえけど近づき次第、即!始末でいいんじゃねえの?」

「そうだな」

「ヤキ入れる用に、宇田からギッてきた焼き印どうよ。『うだ』って彫ってるやつ」

「いらぬ」

「そういや新井の爺っつぁんがおっ死んだの知ってるか? なんでも噂じゃモチを喉にうっ詰まらせたとかなんとか」

「またモチか。もう規制が必要だなモチ」


 などと、久方ぶりの会話をしながら風呂に入っていたのであった。  

 




 *******





 その日は普通に影兵衛は出勤日であった。

 だというのに朝っぱらから役宅に顔も出さずに友人を追い掛け回してひとっ風呂浴びるという優雅なことをしでかしたので、若干五月病めいたうんざりした表情で湯屋から出て職場へ向かっていく。 


「それじゃあまた遊びに行くからよ。それと仕事の時は手伝えよな」

「気が向いたらのう」


 別れて再び九郎はむじな亭へと戻るべく足を向ける。

 手元には置かれていた瓦版を広げて文字を目で追った。江戸に来た当初は江戸時代の文字など漢字を探して意味を連想する程度にしか解読できなかったのだが、何冊も本を熟読するうちにどうにか読めるようにはなった。ただ、書き文字となると現代語の癖が抜けずに、やや奇異な読みやすい字になってしまうが。

 

「ふむ……『夏の猫市場、自性院で開催』『品川宿で捕物騒動』『疑惑の銃声、正体は竹が爆ぜる音だったと根来組の証言。薩摩藩は無関係』……」


 瓦版というと多くは、一つの事柄について記事を水増ししまくりで書いて売るものが多い。それこそ、辻斬り事件でも起きたならば幕府に不満を持った浪人の凶行だの、妖怪窮奇のしわざだの、巷では辻斬り男子がモテるだのと捏造めいたものも沢山出される。

 一方でお花のは、幾つかの事件について詳細を記し、それについての考察を関係者から聞き記した内容を書いて出すので若干違う。 

 実話ナックルズと週刊文春ぐらい違う。

 好き勝手にゴシップとカストリ記事を書きすぎて瓦版の出版に一斉規制が後々幕府から言い渡されたり、解除されたりするのだがそれはともかく。


(それにしても江戸に来てから人の金ばかり使っておるのう……また稼ぎ方を考えねば)


 読売を片手に店に戻ると、六科夫婦と歌麿の朝食は終えていたがぐったりと数名が店の座敷に突っ伏していた。

 比較的平気そうなスフィが、去年の梅漬けを載せた湯漬け飯の入った椀を口に付け、箸でゆっくりと啜っていた。


「しゅっぱいのー」


 塩っぱいと酸っぱいの中間ぐらいの発音で朝食をちびちびと食べている。


「おう、スフィ。おはよう」

「うむ! しかしクローの故郷の漬物は塩っ辛いのじゃなー」

「それ一粒で飯を何杯か食うからのう。六科のやつなどは」


 九郎も江戸で食べられている梅漬けを食うときは事前に塩抜きをするほどだ。

 彼とて生まれた時から減塩健康ブームで、梅干しも塩分がカットされたものばかり市販されていたので江戸時代の梅漬けを食ってその濃縮飽和したかのような塩っけには涙が出るほどであった。

 現代人が一粒口に放り込んだら血圧が上昇して頭痛がするかもしれない。そんな物体である。


「こやつらは?」


 ぐったりと湯のみに白湯を入れて朝飯も喉に入らないとばかりに脱力している、お八豊房夕鶴お豊を見やる。


「私の歌で二日酔いを治癒させたんじゃがのー、歌の効果が落ちてることもあって完全にはいかんかったみたいじゃ」


 特に具合の悪そうなお豊が呻く。


「う、ううう……このお酒のことなら石燕先生と呼ばれた私が、頭が痛くて気持ち悪いだと……!」

「体は四歳児であろう。その年では酒は毒物と同じだ。禁酒なお主」

「殺生な!」


 他の者も妙に酒が残っているのは、昨晩は怪しげな蒸留酒と怪しげな酒をちゃんぽんして飲ませたからかもしれない。

 怪しげな酒というと、江戸で流通している酒に九郎が手を加えて、ブラスレイターゼンゼから出したアルコール発酵を加速させる菌をぶち込み度数をアッパーしたものである。一応飲む前に殺菌はしたが、味は保証できなかった。

 

(やり過ぎたか……?)


 少しばかり反省するべきか、密造酒の製造販売は諦めるべきかと悩んでいると九郎に青白い着流しが投げつけられた。


「そんな格好で外を出歩かないの。仕方ないわね」


頭痛をこらえた顔で、豊房とお八が告げてくる。


「好きで出歩いたわけではないがな。玄関先で刀を持った男に襲われて逃げただけで」

「影兵衛のおっさんぐらいしか該当しねーぜ……うっぷ」

「一発で特定されるあたり、あやつの冤罪疑惑は今だに時々起きているのであろうなあ」

 

 江戸で凶悪な感じの、一発で胴体を真っ二つにしているような刀傷を持つ死体が出ると真っ先に疑われる切り裂き同心であった。

 疫病風装を羽織りながら九郎がスフィの対面に座ると、彼の前にも歌麿が粥を持ってきた。

 酒を呑んだあとは腹が減る上に、朝っぱらから追い掛け回されて風呂にまで入ったのだ。思わず腹から音が鳴る。


「ほれ、クロー。この漬物半分いるかのー?」

「いる」


 スフィが箸を両手で操って、ふやかした梅漬けを半分千切り渡してきたので行儀は悪いが九郎はそのまま自分の椀の上に載せた。

 梅肉を溶かすようにして、湯気を立てる熱い粥を混ぜて冷やしながら啜る。

 普通の飯よりも塩辛さが水分で中和され、程よく形を失った米粒に味を染み渡らせる。

 酸味と塩味を含む消化の良いもろもろとした粥が、酒で荒れた胃の腑に優しかった。


「む? これは中々……旨い粥だのう。煮具合が絶妙というか。べたべたとせずに柔らかい」

「……意外な得意料理というか偶然の産物というか。六科さんが粥を作ると上手にできるマロ」

「六科のやつが?」


 板場へ顔を向けると、むっつりとした厳しい表情の六科が頷いた。

 丁度、いつも作っている家族分では皆に食わせるに足りないことに気づいて追加で粥を作っているところであった。

 普通粥というと、土鍋に多めの水で米を炊いてじっくりと加熱し蒸らすものだが。

 六科の場合、面倒なのか沸騰した湯に研いだ米を直接入れて、沸かしながら中の米を杓文字で混ぜていた。

 

「混ぜると早く火が通る」

「いや、そりゃそうだろうが」


 しかも蓋も閉めていない。水の分量も適当だったのか、時々足している。それで十分ぐらい混ぜて、火から上げて蓋を閉めて保熱し完成であった。

 作る時間も普通の粥に比べて短いが、混ぜたせいでしっかり火は通っていて、米も溶けずに形を保っていた。


「よくこれで旨い粥になるのう……」

「まあよいじゃろ。旨いんじゃから」


 スフィの云うことも最もだ。いかに雑な調理から生まれたとはいえ、旨いものは旨い。

 

(そういえば、昔は六科も自炊に失敗して粥ばかり作っていた、と以前お雪に聞いたことがある気がする)

 

 そんなことを九郎が思い出しながら椀に口を付けた。


「まあいいかのう。じゅるじゅる」

「旨いのー。じゅるじゅる」

「おいそこ! ジジイとババアみたいになってるぜ!?」

「急に老夫婦にならないで欲しいの」


 背中を丸めて目を細め、粥を啜る九郎とスフィにツッコミが入った。雰囲気的にお似合いな感じだったからだ。 

 苦笑してスフィと顔を見合わせる。昔に、九郎が老人の姿をしていたときスフィが持ってきていた苦い茶を二人で啜っていたのを思い出した。その時も、イリシアに似たようなことを突っ込まれた。


「お粥にも問題なくわかめしそは合いますなー」


 復活した夕鶴も呑気に粥を食べていた。




 *******





 それから昼頃には引っ越す荷物を纏めることができた。

 元より、九郎・スフィ・お豊の三人は何も持っておらず、むしろ九郎が二階に残していた荷物を背嚢に詰め込むぐらいだ。

 豊房は仕事道具と服を何枚か。

 お八の住んでいた長屋の部屋には生活用品一式が残されているのだが、


「これは元からお雪さんが住んでた部屋の家具だからな」


 ということで、お雪と六科に返すか、或いは次に部屋に入る者へ残すことになった。

 大体の荷物は九郎が背嚢に詰め込んで背負っていく形になる。


(これを使うのも久しぶりだのう)


 そう思いながらも、自分らの荷物の少なさにどうにかする必要を感じた。己はともかく、スフィとお豊に着替えなどを用意してやらねばならない。 

 先に外で皆が待っているのだが、店から出る前に六科に頭を下げた。


「世話になったのう。とはいえ、またちょくちょく寄らせて貰うぞ。儲けそうな品物があれば教えにくる」

「いや、こちらも宜しく頼む。娘のことも」

「フサ子はしっかりものだから大丈夫だ。なに、あやつもなるたけ顔を出させるようにする。歌麿もたまにはこっちに寄越してくれよ」

「ところで九郎殿。これを」


 そう言って六科は布で包んだ小判型の何かを渡してきた。

 小判型の何かってつまりは小判なのだが。

 ずしりとそれなりの重さがあるものを受け取って九郎は目を見開く。


「む? どうしたのだこれは──いや待て。かなりの大金であろう」

「昨日のうちに歌麿に両替に行かせてた。九郎殿が居ない間、店の売上から取り分としてたまった金額だ」

 

 元々九郎は、むじな亭にて居候をしていた際に様々な一品料理やサービス、客寄せの方法を考案して店をそこそこに儲からせたものの、実弾の少ない六科からはコンサルタント費用を取らずに利益からの割合で報酬金を貰っていた。

 その方式は彼が居ない間も計上されていたようであり、目の前の小判におおよそ四年分が込められているのである。

 九郎が得る割合は利益の一割で、売れていないむじな亭からは微々たる額だったのだが……

 くいっと眼鏡を正しながら歌麿が解説をする。


「ざっとした計算だけど、大体お客さん一人あたり使う額は、お酒を呑んだり蕎麦一杯で帰ったりする間をとって30文としたマロ。

 それで一日あたり25人店にやってくるとして、一日の売り上げが750文。一人前の大工さんの稼ぎと同じぐらいだね。

 お嫁さん出来て張り切った六科さんは休みも月に一日ぐらいだったから年に約350日働いて年収が262500文で大体65両と2分! 理論上かなりの稼ぎマロ!

 実利益はそこから材料費を三割ほど減らすので183750文、それから兄さんの取り分は一割の18375文になるマロ。

 で、おおよそ四年分ということで73500文──小判に替えて18両と1分ってところだね!」


 1両がおおよそ4000文として、細かい端数を両替費用などで差っ引いてもこの収入となった。現代の価値にして──毎回のことながら物価や貨幣価値が異なるのであくまで目安だが──1両8万円とするのならば、166万円九郎は店で働きもしないで旅に出ていた期間に溜め込んだことになる。

 それにしても、当時の飲食店としては中々の利益を上げている。

 無論、利益からは更に歌麿やお八の店を手伝う人件費が差っ引かれるし、材料の仕入れも季節によっては原価が高騰するのではあるが。

 親子三人、一ヶ月一両もあれば生活できる時代であり、更に六科は長屋の差配人(管理人のようなもの)としての収入もある。

 休まず弛まず働く、という六科の性格をそのまま仕事に生かせばこのような高収入となったのであった。

 これもある程度安定して客が足を運ぶようになった、九郎のおかげなのだが……


「いや、これは受け取れん。というか、お雪の出産祝いに貰っておくれ」


 生活を始めるのに充分な金子であるというのに、九郎は微笑んで六科にそれを返した。


「しかし……」

「これからもう一人、子が産まれるのであろう。前回のときも何もしてやれんかったしのう。お主には何かと世話になった。店をこうしてそれなりにやっていけたのは、己れの口出しだけではなくお主ら家族が頑張ってこそだ。まあ、今後提案する料理での収入は貰うが己れがおらぬ間の分は、いいよ」

「兄さん、お金持ってないのに」

「気にするでない。なあに、金などどうにかなるものだ」


 九郎は平然としてそう告げた。 

 何やら感じ入ったように歌麿は頷き、


「『どうにかする』じゃなくて『どうにかなる』ってのが兄さんらしいというか……勝手に金が舞い込んでくる的な、舞い込ませる的な表現みたいな……」

「深読みするでない! ああ、六科が気が引けるのであれば八両は六科に、十両は晃之介に出産祝いとしてくれてやっといてくれ、歌麿」

「気前がいいというか頓着しないというか」

「金が大事なのはわかっておる。だが、出産祝いなどを疎かにしていたのは確かだからのう。己れとしてもこう、後ろめたさがあるのだよ」


 照れたような笑いを浮かべて、九郎は金子を手渡した。

 とはいえ、彼とて無一文である現状を把握していながらも金を返すのには理由があった。

 鳥山石燕の屋敷には小判の入った隠し財産が埋められており、それの中には様々に九郎が稼いだ正当な金も含まれているのだ。

 決して石燕の遺産で食っていけるからいいという穀潰し的な思惑ではなく、自分の預金を引き出すだけである。それにお豊として復活しているから問題はないはずだ。

 そう思って、六科からの金は祝い金という形で返したのだが──

 六科は、渡された金をひとまず歌麿に預けて九郎の両肩をつかみ正面から彼の顔を見た。


「……九郎殿」

「な、なんだ? 顔が近いぞ」


 彼は重々しく、真剣な光を目に灯して告げてくる。


「俺はこれまでお房の幸せを考えて育ててきた。だがお房も俺の手から離れていく年頃だ。だが、それでも俺は娘の幸せを最大限に願っている」

「そうだろうのう……」

「……あんたも。お房の。幸せを。願って。努力してくれるだろうな……!」


 何故か。

 言葉を強く切って、六科は九郎にやけに厳しい雰囲気で確認のように聞いた。

 だからだろう。

 九郎は──ひとまず頷いた。頷く以外に何か必要だろうか?


「あ、ああ。それは勿論のことだ」

「……ならば良し」


 ぐっと肩をつかんだ手に力を入れて、六科は離れて行く。

 歌麿が口笛を吹いていたが、九郎は首を傾げながら店を出た。


(父親としては娘が実家から巣立つのだから、心配するのは当然だ……)


 そう納得しつつも、どこか心に引っかかりながら。




 ******




「九郎くん! 肩車かおんぶしてくれたまえ!」


 神楽坂へ行く途中でお豊が臆面もなくそう九郎に要求してきた。


「石姉……じゃなくて豊姉とでも呼ぶか? 九郎は荷物担いでるから無理云うなよ」

「ふふふ私は幼女の体なのだよ! 迂闊に歩きまわったらまたお眠になるではないか!」

「先生……すっかり幼女が板についているのね」


 呆れ返った様子で、豊房が云う。

 実際にお豊の体力は大幅に低下していて、恐らくは脳機能も疲れやすい。記憶と知識はあらさぁの女子だが、逆にそれ故に頭のめぐりが早くてよく眠くなるのだ。


「それならあたしが担いでやろうか。師匠の装備箱よりだいぶ軽そうだ」

「自分が肩車してあげるでありますよ?」


 体力があるお八と体つきが良い夕鶴がそう主張するが、九郎は苦笑して応えた。


「よいよい。荷物も大して重くないしのう。ええと、ちょいと待っておれ」


 路地裏の物陰に入り、己の肉体年齢を操作して青年の体になる。

 肩車するにしても体が大きい方が邪魔にならない。大きくなって出てきた九郎に一瞬戸惑う夕鶴である。


「く、九郎君が白昼堂々、こんな道端で大きくしちゃってるであります! 女の子を載せるために!」

「お主あとで酷いからな」


 誤解を招く表現で大声を出す夕鶴にきっぱりと言い切って、九郎はお豊を抱き上げて肩車した。

 それを見て百年ぐらい前は自分も何度かやってもらったことをスフィは思い出した。足場の悪い野外を移動するとき、九郎が抱き上げるなりしてくれていたのだ。


「おお! これは新たな世界が見えてくるようだよ! 高い高い!」

「はっはっは。そうかえそうかえ」

「……あれ!? ひょっとして私、九郎くんから完全に娘的な扱いになってない!? 『妖艶な』とかこれまで十四回も登場した私の魅力が消えていないかね!?」

「残念ね先生──抱っこできるような幼女には間違っても魅力は感じないわよ九郎は。だってわたしは知ってるもの」

「ちょいと。流れ弾で私にダメージ入るんじゃが」


 などと会話をしながら途中で船に乗り、牛込神楽坂へと向かっていった。



 神楽坂近辺は前も述べたとおり、神社仏閣や武家屋敷が町人の住む土地よりも多い。最も面積を持つのは小浜藩の藩邸だろうか。

 

「──それ以外にもプリースト忍者ガンナーで有名な根来組の組屋敷が存在する。根来組は江戸の緊急時に使われる鉄砲兵力として召し抱えられた集団で、特に享保の頃は根来の地元でもある紀伊から徳川吉宗がやってきていて地元の指揮官を連れてきたので増強されている、と噂されているね」

「凄い職業じゃのー……一体どんなスキルを持ってるのかさっぱりじゃ」


 などとこれから住む場所の特徴についてお豊がスフィに解説をしている。


「根来組ってあれだろ? 小牧・長久手で活躍したってやつ」

「そうだね。戦国の世で鉄砲をいち早く導入した傭兵にして僧兵だよ。九郎くん知っていたかね?」

「ああ。活躍から四百年以上後なのに確か根来衆が居た地域のゆるキャラが僧兵の『そうへぃちゃん』なぐらいだからのう」

「ゆるいのかねそれは!?」


 九郎が生まれ育った現代の話である。

 彼は経済的な理由で行けなかったが、中学の修学旅行での行き先が和歌山だったのでパンフレットだけで旅行気分を味わうといういじましい少年時代の淡い思い出があり、その中でゆるキャラを覚えていたのだ。

 そんなこんなで六人は鳥山石燕の屋敷に到着した。

 外からの見た目は九郎やお豊との記憶に変わらぬ様子である。


「干してたわかめは昨日来る前に取り込んだであります。盗まれると困るでありますからな」

「盗むやからがいるのか」

「悪党はどこにでも居るのであります」


 玄関に近づくと、九郎が手作りした簡素な犬小屋からのっそりと体つきの太い犬が出てきた。

 この屋敷の番犬で、名を明石という。

 明石はふんふんと玄関近くに来た九郎の匂いを嗅いで、


「ふすっ」


 と、くしゃみのような鼻息を漏らしてお座りをした。

 九郎がお豊を肩から下ろすと、スフィと並び彼女らの匂いも嗅ぎ始める。


「おっおう……体が大人の時はなんとも思わなかったけど、幼女だとこの大きさの犬に近づかれたら凄い迫力が……」

「噛んだりしないじゃろーな?」

「ふすっ!」

「うわっ! ちょっと鼻から冷たいの飛んだ!」


 お豊がごしごしと顔を拭うので皆が笑った。

 

「よーしよしよし。今日から家族が増えるでありますよー明石」

「ぶふっ」

「おや? 随分と仲良くなったのだのうお主ら」


 明石を飼い始めの頃には夕鶴は立場を下に見られて、よく喧嘩をしていたようだったが。

 素直に夕鶴に頭を撫でられる明石であった。


「いやー実はちょっとした事件がありまして」

「先生と九郎には悪い知らせかもしれないわね」

「何が?」


 顔を見合わせてもお互いに心当たりがない。

 夕鶴が手を合わせて謝るように云う。


「九郎君が居なくなってから、一度この屋敷が盗賊の集団に襲われたことがあったのであります」

「大丈夫だったのか?」

「丁度その時は、大雨で川が氾濫寸前になっていまして避難していたであります。明石はそのとき、こっちに逃げろとばかりに案内してくれて。で、河川の近くで火付盗賊改方が捕物をしていたら、その首領が堤防を壊したとかで一体が軽く洪水になり……」

「水が引いて戻ってきたら、屋敷を荒らされていたのよね」


 どことなく今日影兵衛に聞いた話と合致すると九郎は気づいた。なんということだろうか。

 しかし押し込み強盗に襲われた、とかではなくて安心したが九郎とお豊は「それで」と恐る恐る先を促した。



「そのときに石燕さんが残して、埋めたりして隠してた財産も根こそぎ盗まれていったであります」

「ま、命あっての物種よね。正直、先生が帰ってくるとは思わなかったから無かったことにしようかしらと思っていたわ」

「その盗賊も捕まらなかったしな」


 その言葉に、九郎と元石燕は。


「己れの実弾が……」

「私の価値の大半を占めた財力が……」


 と、落ち込んでいた。

 当てにしていた貯金は消え果て。

 何はともあれ、九郎はどうやら金を稼がないといけないようである。

 

  



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