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2話『再会その一』

 江戸の大川に面した通りに、変わった狸の暖簾を出している店がある。

 裏長屋の表店という、江戸のどこにでもあるような作りだが、そこは知る人ぞ知る蕎麦処『緑のむじな亭』であった。

 夏場でも冷たくて澄んだ水。一品料理と酒。そして、中々に旨い蕎麦を出す。

 と、そこだけ聞けば人気店となっていそうなものであったがそれは現代の人気店との違い。 

 水なんか飲めりゃいい。酒なんか酔えりゃいい。蕎麦なんかしょっぱけりゃいい。

 わざわざ歩いて回って人気店に足を運ぶなんて、江戸の住人はそう行わない。

 精々噂を聞いて一回行くぐらいはするかもしれないが、蕎麦屋に多く求めるのは利便性なので長期的に大繁盛とは中々難しかった。

 江戸で年がら繁盛をしている飯屋の殆どは、近くに神社仏閣があるとか芝居小屋があるとか立地の条件が大きいのである。

 

 さて、そこな緑のむじな亭にて蕎麦を前にした異色の人物が居た。

 異色。

 というのも、江戸に住まう日本人の多くとは肌の色も髪の色も異なる、異世界の長耳種スフィであった。

 箸を手にとって丼の中の蕎麦をたぐり、湯気のたつそれを軽く吹き冷ましてちゅるんと口にした。


「うむ。うどんの出汁みたいなものじゃな。麺にコシは無いが、ほぐれるような感じが悪くないのー」

「そうか、そうか。気に入ってくれたなら良いのだが」


 隣でスフィが初めて蕎麦を食べるのをじっと見ていた九郎は目を細めて嬉しそうにそう云った。

 ペナルカンドではうどんはあるが蕎麦は無かった。似たような植物はあっても麺に加工して出汁と醤油で作った汁に浸して食うという文化は、旅の達人であった元仲間も心当たりは無かったそうだ。

 今朝方、川越街道から到着したスフィやお豊を交えて店内で朝食をとっているのである。

 折角なので店のメインである蕎麦を、と九郎がお雪に頼んだら張り切った様子ですぐに蕎麦を打って作ってくれた。

 少量の蕎麦ならば湯を沸かすほどの時間で軽く作れるほどに、蕎麦屋の女将となったお雪は手馴れている。 

 

「はー……やっぱり温かいものを食べると落ち着くのじゃよー」

「スフィちゃん見た目の割のお婆ちゃんみたいマロ」

「九郎と似てるわねその辺は」


 彼女がゆっくりともそもそ食べているのを、物珍しげに歌麿と豊房が眺めていた。九郎も一安心とばかりに息を吐く。

 スフィを江戸に連れてくることに心配は多く存在した。

 外見、言葉、食べ物、病気など挙げれば際限なく出てくるだろう。この世界の病気に耐性のないスフィが掛かると危険かもしれないので、歌麿の股間の菌のように念の為に注意しなくてはならない。

 まあ、エルフは体内を精霊力という自然から取り入れる力である程度浄化しているので滅多に病気にならないのだが。


「うーん?」

 

 スフィと同じ、お雪の蕎麦を食べているお豊は軽く首を傾げていた。

 そして、


「出来たぞ。九郎殿」

「おう」


 店主である六科によって、九郎の前に黒黒としたつゆがどっぷりと入った丼が置かれる。

 申し訳程度に、瘴気に汚染された大地めいた灰色の蕎麦がぷかりと浮いている。

 彼が注文したのは六科の作った蕎麦である。

 四年あまりの月日を経て、彼自身が作る蕎麦はどれほどのレベルになっていたかを確認のために「しょっぱ!」

 叫んだ。九郎が箸を握りしめて震える。


「……徴兵逃れのために一気飲みする醤油のような味がするぞ、これ」

「むう」

「蕎麦は生煮えで粉がでろでろになり丼の中で既に固まりつつある」

「むう?」

「あと絶望的に温度がぬるい。人生が嫌になってくるぬるさだ」


 九郎の評価に、六科は感情を失くしたエージェントのような厳しい顔で頷いて、


「不味くはないだろう」

「よく自信たっぷりにそう言えたな!? 不味い要素しか無いわ馬鹿者!」


 食えるか食えないかで云うと悪食の信州人ぐらいしか食わないような蕎麦であった。

 いや、あの塩が掛かっていれば野草でも食べる信州人でも蕎麦に関してだけは文句を付けるかもしれない。

 ともかく、とても客に出せる味ではない。


「見てたけど六科のおっさん、容赦なくあの濃い蕎麦つゆを丼にたっぷし入れてたぜ」

「出汁で薄めろよ。鰹節は取っておるのだろう」


 お雪の方はしっかりと出汁を取っているというのに、店主まさかのスルーである。

 練りや打ちが甘い蕎麦生地をざっくりと茹でて、醤油、酒などを煮詰めて濃い味のつゆをそのままぶっ掛けた代物であった。

 だが彼は悪びれもせずに真顔で言う。


「俺なりに料理や味について研究したことがある」

「ほう?」

「料理というものは味を楽しむものだ。味がなければ料理とは言わない」

「ふむ」

「つまり味が濃いほうが偉い」

「不合格の理由だ! フサ子!」

「はいなの」


 九郎が手を出すと阿吽の呼吸で彼に豊房からアダマンハリセンが手渡された。

 スパン、と快音を出してツッコミを受けると「痛い」と言葉短に反応を返す。

 数年経過して、お雪や歌麿が店の手伝いをするようになったからだろうか。本人のスキルが初期化しているのかもしれない。残念なことに。

 『こう、ゲームのシリーズ物で続編が出たら前作で手に入れた装備とか全ロストしてるみたいだね』と九郎は頭のなかで妙に具体的なヨグの囁き声が聞こえた気がした。耳鳴りを払うように首を振る。

 『或いはさいとうたかをの【サバイバル】でサトル少年が道具や食料がある程度揃う度に崖とか川に落としてピンチからやり直すみたいだね』と再び声がした。聞こえないフリしてるのだから話しかけるなと九郎は心の中で毒づく。

 

「いやしかしこれは由々しきことだよ」


 お雪が作った方の蕎麦を啜っているお豊が云ってきた。


「どうしたのだ?」

「よく食べている房や歌麿くんは気づいていないかもしれないが……私の記憶からして、お雪さんの作った蕎麦のつゆも結構しょっぱくなっている」

「ええ!?」


 皆はお雪の方を見るが、彼女はおろおろとしている。

 気にせずにスフィはズルズルと食べているが。


「恐らくは無意識か意識的かは不明だが、叔父上殿の好みに合わせて味付けをするように徐々に変化していったのだろう」

「うう、そうかもしれません」

「女将を呼べい!」

「ごめんなさい……」

「何を張り切っておるのだお主は。ふむ、ちょいと一口」

「ほれ、クロー」


 スフィが丼を差し出したので軽くつゆを啜る。確かに、少ししょっぱい。


「……まあ、許容範囲ではあるか。江戸の連中はそもそも塩辛いものが好きだしのう」

「でも知らず知らずのうちにお父さんの味覚に舌を汚染されてたのね。怖い」

「あたしは塩気なんて気にしねえけどなー」

「お八ちゃんは修行でメッチャ汗を掻くから塩気が欲しくなるんじゃ……汗で気持ち悪いからってこの子フンドシつけてるマロよフンドシ」

「うるせー!! 師匠と水練もするんだから下ぐらい履くわ!」


 顔を赤くして暴露した歌麿を怒鳴った。

 武器を持ったまま泳いだり、体に石を括りつけて潜水し武術の型を行ったり、水面を走ったりと散々やらされていたりする。

 野外での修行も多く体を動かすので、お八が着ている着物はあちこち改造されていて、太腿の付け根まで左右には切れ込みを入れ下半身の自由度を保っていた。


「チャイナドレスの用だのう」

「ちゃいな?」


 九郎が評した聞き慣れぬ単語に首を傾げると、お豊が解説を入れる。


「清の女性が履く着物だね。満州族な彼女らは乗馬するために足は動かしやすいように作られているのだよ」

「ふーん」

「しかし実際のところ清が北京を制圧して明を飲み込むまでは布も高価だったので王族ならまだしも一般ではそのような衣服は着ていなかったと思われる。満州に居た頃の衣服というのは、獣の皮を使うか紙製だったようだ。低予算を突き詰めて紙製の鎧なんてものまで戦場に着ていった事例もあるのだからその貧窮ぶりは計り知れるね。とはいえ元々は朝鮮人参及び馬の販売でそれなりに稼げたのだが、反乱を始めてからは明との貿易が途絶えさせられたので収入が減ってしまい余計に貧しく」

「ううう……この早口の説明は間違いなく石姉だぜ」


 立て板に水を流すようにペラペラと説明をするお豊に、苦笑交じりの笑みをお八は返した。

 お豊は説明の途中で不意に欠伸が出て目元をこする。


「むう……何故か妙に眠たいね」

「お主の体は四歳児程度だからのう。朝方まで歩いて疲れたのだろう」

「あらあら、うちの娘も三歳になりますけれど、一日の半分以上はぐっすり眠ってますよぅ」


 顔つきは理性が見えるので少しは年上に見えるが、娘とそう変わらない背丈のお豊の声に眠気が混じっているのを聞き取ってお雪は告げた。

 

「そういえばスフィさんは何をしていた人マロ? 兄さんと昔馴染みとは聞いたけど」


 歌麿の言葉に、丼の中の蕎麦を食い終えて口元を拭いたスフィが応えた。


「神に歌を奉じる巫女をやっておったのー。戦場でも歌で応援係をやっておって、クローと一緒に雇われ兵として活動して……その後は腰を落ち着けて神社で活動したり歌の先生をしたりじゃな」


 ──と、程よく意味が通じる『馴染んだ』内容に皆には聞こえる。

 これも彼女の耳に付けられたよく馴染むアレの効果であるらしい。便利さに九郎は感心し、くれた相手に素直に感謝した。なにせあの対価に何を取られるか、盗撮盗聴機能でも付けられないかわからないヨグからではなく、侍女のイモータルが善意でスフィにくれたものである。

 スフィの身の上を聞いて、豊房は何度か聞いた九郎の思い出話を頭に浮かべた。

 

「九郎の昔話に出てきてた、歌の上手い人ってあなたのことかしら」

「クローの知り合いで歌と言えば私じゃろ。クローは私をどんな風に言っておったかの?」

「面倒見の良いちみっ子だって」

「クロー!」

「いや待て誤解だ」


 叱るように見てくるスフィに九郎は気まずそうに首を振った。

 当人の居ないところでどんな風に言っていたかなど、その内容はともかく何か悪いことをした気分になる。

 豊房が続けて言葉を掛ける。


「でも大事な友達で、あなたが元気にしているかを気にしていたわ」

「一旦別れたみてーだけど会えてよかったんだぜ。九郎が居なくなったら寂しいもんな」

「うみゅ。ちなみに私はクローが死んだと思って、クローの墓を作り側に家を建てて毎日毎日供養しておった。何年もずっと」

「……」

「……」

「いやその。悪かったとは思っておる。そんな目で見るでない」


 皆から責めるような目線を向けられて悔やむように九郎は首を振った。

 真逆、彼もそこまで思いつめた行動というか、引きずった生活を送っているとは思わなかったのである。

 それを見かねて再び異世界に残していくことも出来ずに、連れてきたのであったが。  


「しかしその噂の歌声とやらを聞いてみたいところだね!」

「先生も聞いたこと無いの?」

「実のところ私が復活したのはつい昨日のことだからね。彼女との出会いもそれからさ」


 そうせがまれて注目を浴びたのでスフィは頷き、座敷から降り立った。

 

「よし、なら短くじゃが歌ってみるかのー。お豊も疲れてるみたいじゃし、休まりそうなのを」

「……ここで使えるのか?」


 九郎がそう聞くのは、スフィの特技である『秘跡』についてだ。

 彼女は異世界ペナルカンドで歌神の司祭をしていて、歌に乗せて様々な能力──回復、能力補助、状態変化、音波攻撃など──を発揮していた。

 しかしそれは異世界で信仰されている神の力を借りているので、地球では使えないだろう。

 とはいえ、


「神の加護が無いとはいえ歌が下手になるわけじゃなかろー。それに、こっちにも聖霊の気配はあるから呼びかければある程度使えるとも思うが……ま、今は普通に歌うだけじゃよ」


 スフィはそう言って両手を広げて深呼吸をする。銀の髪がふわりと揺らめき、周囲の雑音が消え去ったかのような錯覚が生まれた。

 呼吸音が小さなハミングとなりリズムを作り、やがてゆったりとした曲調の歌声が店内で静かに流れる。

 その場で聞いた誰にとっても、歌の言語は異質なのに意味は染み入るように伝わる、そんな不思議な歌であった。



「ねんねん、ころりよ(Sed tempus noctis loquarisque prospera)


 おころりよ(Bonum nocte somno pressis)


 ぼうやはよいこだ(Evenit autem lux solis)


 ねんねしな(Bonum nocte somno pressis)」


 

 ──子守唄であった。

 誰も聞いたことのない音程の、神聖ささえ感じる綺麗な歌声だ。

 普段町人が耳にする長唄や語り歌とは異質でありながら、原始的ともいえる感情を揺さぶる単純な歌詞が胸を締め付けるように感動を与えた。

 無機質な性格をしている六科でさえ、口を半開きにして目を細める。

 更に突き刺さったのが、お豊と豊房であった。

 歌に誘われるようにして、安らいだ表情でくたりと脱力しうたた寝に入ってしまったのである。

 咄嗟に立っていた状態から目眩を起こしたような豊房を九郎が支える。お豊の方は座敷に横になり、すやすやと寝息を立て始めていた。


「……と、まあ。疲れておったみたいじゃからのー。休ませようと思うて」

「フサ子まで寝てしもうたのう」

「お房は近頃晩酌ばかりしていたからな。寝不足だったのだろう」


 そう言われると原因の一つである九郎としては罪悪感を覚えずにはいられなかったのだが、


(スフィの歌でぐっすりと眠って体を休めてくれ)

  

 と、相棒が解決したことにして納得した。

 一方で、歌麿は目を潤ませながらも小声で嬌声を上げた。


「上手マロ!! ボクは吉原とかでも色々聞いてるけど、こんなに感動したのは初めてだ!」

「ああ……すげえ驚いたぜ。あたしはそもそもちゃんと歌なんて聞いたこと無かったのに、なんか凄いってわかる」

「そうかえそうかえ。にょほほ」


 自慢気にスフィは胸を張った。

 彼女は歌神の大きな神殿で司教メインボーカルを務めることもあった歌い手なので賞賛の声は何度も聞いているが、歌を褒められて喜ばない歌い手は居ない。

 

「優しい歌でした……わたしの子供にも聞かせたいですねえ」

「なに、今晩にでもまた歌ってやるし、お主にも教えるのじゃよ」

「それがいい──さて、晃之介と子興にでも顔を見せに行くか。スフィもついてきてくれ」

「うむ」

「あ、それならあたしも行くぜ。修行日だしな今日は」

「歌麿や。とりあえずお豊とフサ子を二階に寝かせて行くから、後は任せたぞ」

「はい。兄さん、今晩はこの店で帰ってきた祝いでもするマロ。ご馳走用意しておくから、子興ちゃんとかも呼んで来てね」

「おう」


 頷き、九郎はスフィを連れてひとまず友人である晃之介と、仮初だが父親になった気分である子興の家まで向かうことにした。

 生き返ったお豊の件については、挨拶回りで会う度に説明するのも面倒なので宴にでも呼んでそのときに話せばいいか、と決めておく。寝ていることであるし。

 

「そういやスフィ……さん?は歩き疲れてねーのか?」

「呼び捨てで構わんのじゃよ。私はこう見えて野外活動も得意じゃからな。クローや仲間と何日も迷宮の如き洞窟に潜ったりしていたしのー」

「へー。なんか面白そうだな。富士の風洞みたいな感じかな」


 二人は早くも打ち解けてきているようで、気安く会話をしながら九郎の後ろに並んで歩いている。

 お八は元来物怖じせずに、見た目が明らかに殺人大好きヤクザ侍みたいな中山影兵衛にさえ平然と話をしたりする娘である。ちょっと変わった客人のスフィでも気にせずに話しかけているようだ。


「そうだ。あの赤子をあやす歌、師匠の嫁にも教えてやってくれよ。あっちもまだガキが小さいからな」

「構わんのじゃが……この辺りでは子守唄は無いのかえ?」

「うーん……聞いたことねえなあ……」


 ──余談だが、日本で一番有名な子守唄である「ねんねん、ころりよ」という歌だが。

 その発祥は地方の何処かから江戸に持ち込まれたという説と、江戸で自然発生的に生まれた歌が全国に広まったという説がある。どちらにせよ『江戸子守唄』と呼ばれる、代表的な流行になった。

 江戸でその歌が確認されるようになったのは1700年代後半から──つまり、この作中より少し後に流行りだすことになる。


 誰がはじめに歌い出したのか──それは不明とされている。 





 ********





 通りを外れ、市中から四半刻も歩けばどことなり畑や藪が見えてくるのが江戸の風景である。

 左右が田畑に挟まれた畦道。見渡す限り、ぽつんと農家が立っているぐらいしか人が住まない。五街道から離れた、江戸の内側ではあるが開発が忘れ去られているような土地に六天流の道場は構えられている。

 道場内だけではなく外にも鍛錬場は作られており、三人がやってきた時には外に晃之介が横を向いて立っているのが見えた。

 彼の周囲には槍、棒、刀が地面に突き刺されていて、腰には脇差しの鞘を帯びている。手には抜き放った脇差しをまっすぐに片手で構えてぴくりとも動かない。

 お八に何故か手を引っ張られて、九郎とスフィは木陰に隠れる。

 

「……何をやっておるのだ? あれは」

「武器の抜き打ちの練習だな。見てろよ」


 彼女がそう言うが早いか、目にも留まらぬ速度でまっすぐに構えていた脇差しは腰の鞘に納刀され、いつの間にか地面に突き刺さっていた槍を手にして同じ構えで正面に突き出していた。

 尋常ではなく疾い。横から見ていてそうなのだから、相対すれば魔術で変化したかのように錯覚しかねない。

 六天流は五つの武器を場合により使い分け、或いは同時使用して戦う武術である。それ故に、武器を即座に持ち替えるのは重要な技術だ。

 例えば今まさに、晃之介の目の前に敵対者が居たとして、脇差しの間合いを測っていたら一瞬で槍に置き換わっているのだから堪ったものではないだろう。

 

「……なんか、槍の上に白い玉みたいなのが載っておるのじゃが?」

「ありゃ鶏の卵だ。武器の上に載せて、構えた手がぶれて落とさないようにしてる。武器を入れ替えるときも、一瞬で同じ位置に持ってこねーと地面に落ちるってわけ」

「ハチ子もあんなことやれるのか?」

「いや普通できねーから。師匠だけだから」

 

 ぶんぶんと手を振って否定する。

 その間にも晃之介は次々に構える武器を棒や刀に入れ替えて、早撃ちとでも言うべき神速の構えを繰り返している。

 平行に持った武器の上にある不安定なはずの卵も落ちず割れずに、中空に縫い止められているかのように同じ位置にあった。


(……記憶より早くなってるというか、あやつもまだ若者だからのう。そりゃ強くもなるか)


 九郎が感心してそう思っていると、お八が声を潜めて面白げに提案してくる。


「なあなあ、あれやってみようぜ」

「あれ?」

「ほら物語とかであるだろ? 暫く会わなかった好敵手が再会するとき、顔を覆面とかで隠してさ! 急に襲いかかってきて何合か打ち合ったあとで覆面を脱いで『腕を上げたな!』って名乗り出るやつ」

「発想が少年漫画だのう……」

「よくありそうな話に思えるが、ぱっと例を出せと言われても思いつかんやつじゃのー」

「あたしが聞いたのは『西岸寺の仇討ち』って講談だったけどよ」


 『西岸寺の仇討ち』とは寛永十七年(1640年)に行われた仇討ち事件を元にした講談である。

 仇討ちネタは江戸でも鉄板の人気なので、どこそこで成功したと言う話が流れたらそれを面白おかしくアレンジした物語や講談が出回る。

 お八が聞いたのもその一つであろう。話の途中で、仇討ちの旅に出た岩井半之允は江戸で出会った覆面の剣士に襲われて打ち合うのだが、その相手はかつて下男だった万助という男であり『腕を上げましたな若!』と名乗り出る。

 ちなみに万助は後半に更にその岩井半之允の弟である善次郎にも襲いかかって『腕を上げましたな若!』と同じネタを使い回す。ついでに万助は、仇である赤松源次郎を棒でボコボコにした後ですぐさま仇討ちの場に引っ張っていきそこでもボコボコにしてトドメを刺す。万助のやり口がエグいと評判になったバージョンをお八は聞いたのである。

 

「というわけで、いきなり師匠に襲いかかってみようぜ九郎」

「見ようぜって。あの今まさに誰に襲いかかられても即座に武器を突きつけられる訓練をしておる晃之介をか」

「男ならやってやれだぜ!」

「ううむ……」


 確かに、むじな亭ではあまりに普通に朝帰りしてきた、みたいな感じで姿を見せたので思わず死人が出るところであった。限りなく無駄死だが。治療の秘薬を持っていなかったら危なかった。

 多少はドラマチックに再会した方がいいのかもしれない。それに、九郎とて友人を少し驚かせてみるか、という悪戯心もある。

 お八が期待した目で見ているし、スフィも「まあ頑張るのじゃよ」と背中を叩いてきた。


「仕方ない。やるかのう」


 九郎はそう言うと、胸を押さえて「む」と強めに念じた。

 胸の中に刻まれた生命を司る魔術文字に干渉して己の体を変化させる。

 普段、気を抜いているときは人生で一番長く過ごした体型である少年の姿だが、魔女の封印を解いた今は肉体年齢を自在に変化させることが可能になっている。


「おお……九郎が成長したぜ。前もなんかやってたよな」

「うむ。妖術妖術」

「なるほどなー」

「クローが故郷で普段されてる認識が危ぶまれるのー……」


 とりあえず怪しい妖術だと説明すればそれとなく納得される存在。それが江戸における九郎であった。

 一瞬でも晃之介の認識を紛らわすために体つきを青年に変えて、手ぬぐいを口元に巻いた。腕力自体は子供の体でも変わらないのだが、手足が長いとその分遠心力が活かせて打撃の威力は上がるので有利である。


「よし、突っかけてくるとするか。あやつなら避けるだろうがのう」


 草鞋を脱いで素足で地面を掴むようにして力を入れる。異世界から履いてきたブーツは無駄に目立つので来る前に店に置いてある。 

 九郎はまともに武芸の類は習ったことは少ない。精々が、昔に傭兵をしていたときに団長から剣の振り方を教わったぐらいだ。

 しかし彼の魂には、以前に憑依した六山派の武芸者・李自成の習得した技術の知識が残っていた。

 それのうちで、幾らかは再現可能になっている。六山派の達人とまではいかないが、ある程度の腕前には達しているのである。


(走り方一つとってもよくわからん理論だが……やってみるか)


 九郎が走りだす構えを見ていたお八とスフィの目の前から、ふっとした音も無く風も立てずに彼の姿が消えた。

 慌てて進行方向を見ると、一足で十間(約18メートル)は正面方向に跳躍しただろうか。射出された矢のようにまっすぐ、恐るべき速度で接近していく。

 それだけの勢いで飛べるほど地面を蹴っているにも関わらず、ほぼ無音であり近づくにつれ加速を繰り返す。

 六山派の移動術──『飛虎』は地球の自転速度を利用して加速する特殊な歩法である。これにより、使用者の体さえ平気ならば理論上時速千キロメートル以上の速度に達することも可能となる。

 無論、いかに九郎とて加速し過ぎると足の先から削れて盛大に躓くのであるが。この場合の理論上可能というのは、足が沈まないように走れば水の上を走れるとかそういったものである。 


 一呼吸の間に距離の七割を詰める。

 晃之介が高速で接近してくる何者かに気づいて視線を向ける。

 同時に九郎は彼の視界から逃れるように上方向へと飛んで残りの間合いを縮めた。

 上からの奇襲。

 ただし落下しながらの攻撃ではなく、晃之介の目の前に着地すると同時の拳撃が狙いだ。空中から直接攻撃するのはどうしても自分の体重依存の威力になる上に、バランスお化けである晃之介相手に体勢が自由に取れない状況で挑むのは不利だ。

 地面に足を付き、大地から力を練りあげて拳より放つことで威力は格段に上がる。それこそ岩を砕かんばかりに。

 素早い接近と必倒の一撃。それが六山派の基本である。


(落下の衝撃を殺さずに、その衝撃さえも拳に伝播して殴りつける!)


 そう決めて、半身を引いて構える晃之介の目の前に着地────


 どぽん、という間抜けな音が離れたお八とスフィのところまで聞こえた。


 九郎は、少し後ろに引いた晃之介の目の前で。

 胸元までぬかるんだ泥の地面に埋まっていた。

 晃之介の周囲が、罠の如く沼になっていたのである。そこに全体重を掛けて飛び降りてきたのだから、勢い良く埋まってしまった。

 埋まった九郎の首元に十字槍が突きつけられる。

 唖然と口を半開きにしたそこに、落ちてきた卵がすっぽりと嵌まった。

 

「……」

「……」


 晃之介と視線を交わして、若干の気まずい沈黙。

 そして、卵を吐き出して九郎は言う。


「ふ……腕を上げたのう、晃之介」

「馬鹿か!」


 なんとかそれっぽいセリフを吐いたものの、シンプルにツッコミを入れられた。




 *******


 

 

 道場の中にて。

 微妙な空気のまま、泥を洗い落とすためにずぶ濡れになった九郎とスフィ、お八。

 それに晃之介とその嫁である絵師・百川子興。そして二人の息子である長喜丸ながよしまるが向い合って座っていた。

 長喜丸は三歳ほどの年齢で九郎が旅に出た後に生まれた。やや離れたところで、短い木剣を手にウロウロとしている。九郎は顔を見るのも初めてだったが、


(子供ながら、利発そうな……)


 と、思ってしまうのは彼が子興の父親役をして、長喜丸を孫のように見ているからだろうか。

 

「ええと、それで九郎っち」


 子興がやや呆れたように言う。感動の再会とやらは望めそうにない。 

 久しぶりに帰ってきたのにいつも通り馬鹿をやってだらしないところを見せてしまったのだ。九郎も苦い顔をしている。


「帰ってきて早々、晃之介さんに突っかかったら勝手に沼に嵌まってずぶ濡れになった、と。お帰りって歓迎していいかわかんない」

「やかましい。なんであんなところに沼があるのだ、沼が。子供が嵌まるぞ」

「大丈夫だ。子供の体重ぐらいじゃ沈まないように作ってある」


 確信犯的に罠として設置していたことを認めつつ晃之介が云う。

 

「あれはそもそも、影兵衛殿への罠でな」

「影兵衛の?」

「九郎が居なくなってから暇を持て余したのかうちの道場を延々と襲撃してくるようになってな……! おまけに泣く泣く廃止したが、勝負を挑んで勝てば五両という規則を使って合計五十両はむしり取られていった……!」

「師匠も負けっぱなしじゃなくて五分五分ぐらい勝つんだけど、あれは負けた時十倍ぐらい損をするからな」


 というのは、道場に入門者が居着かない晃之介の収入を得る手段である、逆道場破りのようなものだ。

 晃之介と試合をして、負ければ二分支払い、勝てば五両を得ることができると看板を立てていた。

 折しも江戸では剣術道場が乱立している時期なので腕自慢は多く、田舎に寂れ道場なんぞと挑んでくるものはそれなりに居たのである。なお、負けたのに二分を払わないとごねた場合は気絶させられ強制的に奪われるという屈辱まで待っている。

 それに目を付けて遊ぶ金欲しさに挑んできたのが影兵衛であった。

 木剣を使った道場試合で、殺意を込めないとはいえ恐るべき剣士である影兵衛に利益がマイナスになるまでむしられたのである。

 一回負けた時点で以後お断りにすればいいのだが、真面目であり次は負けないという意気込みで晃之介が受けて立つのでどんどん赤字が嵩み、とうとう子興が影兵衛の嫁に直談判することで挑戦は禁止させられた。

 

「まったく……悪党退治はともあれ、ろくなことをせぬなあの極道は」

「あれで嫁とは仲良しで三人目の子供ができたんだぜ九郎が居ないうちに」

「よく人の親がやれるな……それより、旅から帰ってきて江戸にまた住むことにしたので挨拶にな。こっちは己れの古い友達のスフィだ。よろしくしてくれ」

「スフィじゃよー。ちなみにこれが私のステータスじゃ!」


 ばっと何か身を翻すような仕草をした後に、座り直し咳払いをした。別にステータス画面は出てこない。


「特に意味は無い。歌とか得意じゃからな。まあ、よろしく頼むのじゃよー」

「なんだったんだ……」

「何この子可愛い! 九郎っちの知り合いにこんなに可愛い子居たんだ!」


 食いついたのは子興の方である。近寄ってきてハグをしながらスフィの銀髪に顔を埋めた。


「ぬあっ」

「可愛い可愛い!」

「むう……己れよりスフィの方が子興のウケが良い……お父さん悲しいぞ」

「お義父さんは無駄に泥に嵌まったからな」


 からかうように云う晃之介に、九郎は歯を向いて唸ろうかと思ったが話題を変えた。


「それよりお主らの息子でも紹介してくれ」

「ああ、そうだったな。九郎は今日初めてか。息子の、長喜丸だ。数え年で四つになる」


 幼名に汚い名前や縁起の悪い名前を敢えて付けるという事例は多くあるが。

 素直に長い喜びと名付けられた子供は、晃之介の呼びかけでスタスタと走り寄ってきた。


「そうかそうか……実に、初いのう。小遣いで百両ぐらいやりたいところだが……」

「幼子にゲンナマを渡そうとするな!」

「生憎と帰ってきたばかりで文無しだからのう。しかし男の子か。この子を跡継ぎにするのかえ?」

「まあ、そうするつもりだ。何せ道場はこの有様だからな」


 晃之介が自嘲の笑みを浮かべて見回す。

 練習日だからとやってきたお八以外、晃之介の道場には門弟は誰も居なかった。常日頃から大勢が通えば必要となる道具などもろくに置かれていない。

 つまり、相も変わらず寂れ道場であったのだ。


「これまで何人か入門者は居たのだが、長続きしたのはお八だけだ。お七もお前が居なくなってすぐに辞めて旅に出た」


 何せこの道場、入門したらまず走りこみから始まるのだ。武士に限らず町人でもこの時代は、ある程度体が大きくなってから一度も『走った』ことがないという者は少なくない。義務教育で徒競走があるわけでも無いのだ。そこから全力疾走を自在に行えるように体を作り変えるのはかなり大変なことである。

 剣術や槍術を習いに来たのに素振りよりも先に重りを持って走らせられるのでは、すぐに見切りを付けられるのも不思議ではない。しかし、走ることで体幹のバランスを鍛えることはこの流派では当然の修行なのだ。

 そして続けているお八も、そこらの腕自慢な侍に負けないぐらいに強くなっていていずれは六天流の目録を与えても良いぐらいになるだろうと晃之介は思っているが、継がせるには足りない。

 お八自身も己の才能については納得していて、むしろ六天流の武芸全てではなく自分に合った格闘、弓、短刀などの技能を伸ばすようにしていた。六つの武器全てを使いこなすにはかなり人を選ぶ適正が必要なのだ。

 長く道場を続けているとはいえ、週に三回通う程度では毎日鍛錬をしている師範の晃之介の域には達しないのもやむを得ないだろう。


「雨次のやつは?」


 もう一人の弟子について聞くと、晃之介は首を横に振った。


「あいつは天爵堂殿が亡くなってから三年の喪に服すと云って以来やってこない」

「なに? 死んだのか、あの爺さん……」


 碁や将棋仲間であり、同じく枯れた老人として、人生の愚痴の言い合いをするに丁度いい相手であった九郎の友、天爵堂こと新井白石であったのだが。

 彼が旅に出ている間に死去していた。いい歳だったのだから逝っても不思議ではない。

 死の直前に、家の管理を任すため雨次を養子にして名字と元服の名を与えていたのであった。

 新井白石といえば儒者として有名であり、儒教の教えに従えば父母が死んだ後は三年間は弔いの期間となる。長い気もするが孔子の弟子である宰我が『三年とか長すぎだろ! 一年で十分だって!』と孔子に意見したら不孝者って最低とかボロクソに書かれたぐらいだ。


「そうか……墓に線香でもやらねば」


 胸に寂寥感を覚えた。親しい誰かが死んだときに感じるそれは、中々慣れるものではない。

 ため息混じりにうつむくと、近づいてきた長喜丸が九郎の前で首をかしげて、慰めるように彼の頭を撫でた。

 そういう意図ではなかったかもしれない。単に、客人の頭が軽くモジャっとしていたのが気になっただけであろうとも。

 九郎は少しばかり、和やかな気持ちになった。


「よし、よし。己れは大丈夫だ」


 長喜丸の頭をぐしゃぐしゃと撫でると、子興が渋面を作って子供を引き寄せて手櫛で整えてやる。


「それより九郎っち、今までどこで何をしてたの?」

「俺も気になるな」

「ふむ……会うやつ会うやつに説明して回るのは面倒だから、今晩うちの店で小さな宴会をするので来てくれ。そこで言おう。ま、大体はこのスフィと冒険をしておったのだが」

「この子と?」


 意外そうに見る。認識が馴染んでいるので違和感が小さいのであるが、小柄で線の細い少女という雰囲気は感じ取れるので、とても荒事に向いているとは思えない。

 

「私は歌が得意での。冒険と言えば歌じゃろー」

「なるほど……かの唐の歌仙・李白も刀を振るえば雅風の如しと云われたそうで、詩人でありながら凄腕の剣士だったらしいからな」

「そうなのか? 妙なことを知っておるのう」

「まあ街中で恨みを買った貴族の集団に武装して囲まれたら即座に官憲を呼んで逃げたそうだが」

「微妙すぎる……」


 相手を煽るだけ煽って襲われそうになったら警察に丸投げして逃げる酔っぱらい仙人を想像して九郎はなんとも言えない表情になった。


「そう云えば晃之介」

「なんだ?」

「出先でお主の親父の亡霊みたいなのと戦ったぞ」

「本当か!?」


 いきなり、九郎の出奔で自分の父親のことが出てきて晃之介は身を乗り出した。


「名乗りをあげて通りかかるやつに勝負を挑んでおってな。かなり有名な亡霊であった」

「それで、どうしたんだ?」

「うむ。己れが戦うことになり、こちらも名乗りを上げるフリをして周囲に火薬をばら撒き粉微塵に爆破したあとで殴り殺した」

「鬼かお前は!」


 露骨に顔を引きつらせて晃之介はそう云った。

 それからも暫く旅の話を続けて、昼近くになったあたりで九郎は腰を上げる。


「では、そろそろな。今晩、良ければ来てくれ」

「九郎っち、お昼食べていかないの?」

「急に二人も来ては貧乏道場には負担であろう。なに、気にするな。出かける前に歌麿からメシ代を借りておいたからこれを使ってそこらで食うよ」

「ちゃっかりしてるぜ」

「しかし不思議なことに、女に金を借りるよりも男に借りる方が何か義務感を強く感じるのう……きっちり返さないといかんみたいな

「女なら踏み倒せるとか思ってない? 九郎っち……性根まで細長い縛るアレに……」

「ええい、一言多かった」


 率直に感じたことを口に出したのだが、皆が若干引いたので忌々しそうに九郎は話を打ち切って立ち上がり、スフィを連れて道場から出ようとする。

 その背中に、子興の安心したような柔らかい声が掛けられた。 


「とにかく……帰ってきてくれて、ありがとう。お父さん」

「うむ……まあな」


 照れたように手を振って、その場を後にした。

 隣を歩くスフィが九郎の顔を見上げて聞いてくる。


「……ひょっとして、その、クローの娘じゃったのか?」

「いや、子興は親が居なくてのう。祝言を挙げるのに、己れが親代わりになったのだよ」

「ふーむ……しかしどこかデジャヴュる雰囲気がある」

「あと地味にイリシアの生まれ変わりなのだ、あやつは」

「なんと! ……そうか」


 魔女とその騎士の物語をペナルカンドで発行していたスフィは、思うことがあるように呟いた。

 そしていつだったか。

 絵本のファンであった少女に、物語の結末を聞かれたことを思い出した。

 魔女は他所に嫁に行き、気苦労から開放された騎士は昔馴染みのシスターと結婚してハッピーエンド。

 そんな内容をやけっぱちで告げたのだが……


(当たらずといえども遠からず……となれば良いのじゃがのう)


 ぼんやりと、表情が僅かに緩んでいる九郎の横顔を見ながらそう考えていた。





 ******




 二人はぶらりと足を伸ばして市ヶ谷の方面へと向かっていた。

 今日のうちに、鳥山石燕の屋敷がある神楽坂まで出向いてそこを管理している女、夕鶴にも会っておくためだ。

 手狭になるむじな亭から明日にでも引っ越しをしないといけない。幸い、持ち物は少ないので簡単な引っ越しになるが顔は合わせておいた方がいいと判断した。


 昼になり市中の通りには多くの人がごった返し、九郎と手を繋いだスフィは物珍しそうに周囲を見回しながら歩いている。

 彼女からすれば民族衣装を身にまとって、妙な髪型をした人間が大勢居るので妙に感じる。

 ペナルカンドにも大小様々な国はあるがスフィが住んでいたクリアエや帝都は多民族国家で様々な種族が暮らしていたのでこうして人間のみな国は新鮮に思えた。


「クローの故郷は全員黒い髪か。ペナルカンドではあんまり見ない髪色じゃがのう」

「忍者のユーリと……魔女になる前のイリシアが黒髪だったか。確かにそれ以外では知り合いにおらんな」

「頭髪が侘びしい者が多いが……」

「髷は剃っておるのだ。この国は蒸し暑いからのう。ほれ、野球部も皆で坊主にすれば恥ずかしくないであろう。あれを国ぐるみでやっておるみたいな」

「ああ、ペナルカンドにもモヒカンばっかりな国があったみたいなものじゃな」

「挨拶が『ヒャッハーミズダー』で飯を食う前に『タネモミ!』とか云う独特の言語の国家らしいが……あれと同じか江戸は」


 挨拶が「チェエエイ!」で飯を食う前に「キモネリ!」という儀式をする謎の国家も内包しているので似たようなものかもしれない。

 

「しかしのー……このピアスをイモータルがくれたが、本当に私の姿は目立っていないかのー?」


 鎖国をしていて外国人が入れず、黒髪黄色人種がほぼ全ての人口を占める江戸の街では、肌が白くて髪の毛が銀色をしているスフィの姿は非常によく目立つはずだった。

 それでも、『よく馴染む』効果のあるアイテムのおかげで彼女は人から注目されない。

 

「己れには至って普通に、スフィが居るようにしか見えんからのう……」

 

 九郎からしてみれば目立っていてもおかしくないとは思うのだが、そうではないらしい。

 しかし彼女の存在感が薄いというわけではなく、単に異質な部分を異質とは思わないという認識をされているのである。


「よくわからんのじゃけど、問題なくクローと暮らせるならそれでいいのじゃよー」

「そうだのう。いざというときは山暮らしも考えておったが」


 それでも、スフィが『普通の』美少女であるという認識は周りの人も受けるので、ちらちらと視線は受けていたが。

 

 市ヶ谷から神楽坂に掛けては、武家屋敷と寺、御徒組の組屋敷などが多い。

 となると食料品を屋敷まで届ける仕事が盛んで、川付近ではちょっとした野菜や魚の売り場が集まっている。

 川沿いの船河原町にて、九郎は非常によく目立つ知り合いの姿を見かけた。

 身の丈六尺(180cm)ほどもあり、細身なので枯れ木が立っているような印象を与える。頭に手ぬぐいを巻いて、髪の毛はひっつめにして売り物を籠に入れて立っていた。

 にこやかに彼女は呼びかけをしている。


「いらっしゃいでありまーす! 萩のわかめしそでありますよー! 飯に混ぜるだけで何杯でも食えるであります!」

「おう、売れておるかえ? 夕鶴や」

「ふぇ?」


 九郎が声を掛けると背の高い売り子、長州より仇討ち探しにやってきた女・夕鶴は腰を曲げて九郎の顔をじっと見て破顔した。

 そして抱き上げて頬ずりをしながら振り回した。


「うわああー! 九郎君であります! 帰ってきていたでありますか!?」

「う、うむ。げほっ! これ!」

「自分は商売で頑張っていたであります! まあ仇はさっぱり見つからんでありますが! あはは!」

「なんかクロー……変な知り合いが多いのう」

「ややっ! こちらはお連れでありましたか? 自分は夕鶴という名であります!」

「私はスフィじゃ。クローと暮らすことになったからよろしくなのじゃよー」

「ほほう……九郎君、さては新しい細長く縛る先を探してきたでありますな?」

「なんで己れの知り合いはこうも己れへの偏見があるのだ!?」


 と、夕鶴と再会して世間話をしながら、ついでに船河原町にある一膳飯屋に入って昼食を取った。

 仇を探して江戸にやってきて、九郎の提案で人の集まる江戸で暮らしながら待つということにした夕鶴は故郷のふりかけである、わかめと干した紫蘇に胡麻を混ぜたものを江戸で販売していた。

 それが米食中心な生活であった江戸では大いに売れて、今は幾つかの大口に卸売をしながら余ったものをこうして売り歩いているのだという。

 

「実は自分がちんたらしてたら、うちの下男と歩けるぐらいになった弟が仇討ちの新たな刺客として旅立ってしまいましてな。『夕鶴姉は目立つし抜けてるからここで待っていてくれ』と云うので二人の仇探しの資金を稼ぐことにしたのでありますよ」


 ということで、すっかり商売が本業になっているのであった。

 夕鶴が拠点である江戸で稼ぎ、弟と使用人の二人がその資金で地方を巡る。そういう組み合わせになったようだ。

 

「ところで、明日あたりから神楽坂の屋敷に移り住もうと思ってな。蕎麦屋の方は六科の子供が生まれて手狭になるから」

「それなら掃除しておくであります!」

「頼むぞ……ところでスフィ。食い物は大丈夫か?」


 葱鮪汁と白飯にわかめしそを混ぜ込んだ料理を食っていたスフィに、心配げに九郎は尋ねた。

 

「大丈夫じゃ。クロー、気にしすぎじゃぞ。大体、私はお主が思っておるより食い物の好き嫌いはせん方じゃ」

「そうか、それならば良いのだ」


 黒々とした醤油味の、そばつゆを濃くした六科が好きそうな汁から鮪の切り身を取り出して「あむ」とスフィは噛み付いた。

 てらてらと脂で汁を弾くのは鮪の大トロを使っているからだ。当時は葱鮪汁にでもするぐらいしか人気のなかったトロだが、濃い味の汁と脂と汁の味を染みこませる葱との相性は抜群である。

 九郎も葱を噛みしめるとその隙間からじわりと甘辛い汁が滲みでて、これが中々に、


「うまい……」


 ──のである。

 異世界に暫く戻って様々な料理を食べたが、こうして煮付けた魚をおかずに飯を食べるのが、多少味付けが大雑把だろうが米が少しばかり臭かろうが、彼の落ち着く飯なのであった。

 そして、夕鶴にも宴会に誘っておいて別れ、二人は暫くぶらりと近くの寺を巡り、団子などを食って過ごすのであった。


「夕鶴からも軍資金を貰ったから遠慮するな。茶のおかわりもいいぞ」

「クロー……お主、仕事は?」

「……」





 *******





 そして夜になり、貸し切りとなった緑のむじな亭では晃之介一家と夕鶴を迎えて宴会を開いた。連れてきた子供の長喜丸も、同年代であるお雪の娘・お風と並んで料理を食べている。

 子供の姿になっているお豊を目にして、皆は一様に驚いたがやはり『あの』鳥山石燕ならば生まれ変わりのひとつでもしておかしくないという評価で、受け入れられることになった。

 姉のような、母のような存在だと思っていた子興などは涙ながらに喜んだが。


「──ということで、今日のところはひとまずここに泊まるが明日からは神楽坂に引っ越すことに決めた」

「ふふふ。懐かしの我が家よ! できれば磯臭くなっていませんように!」

「大丈夫であります! 土下座の準備はできてるであります!」

「謝る前提!?」


 そういう九郎をじっと豊房は見つめて、ぽつりと告げた。


「ふーん。ところで今はあの屋敷の持ち主、わたしなのよね」

「ああ、そういえば遺言状をあれこれ書いていたよね。あれを見つけてくれたかね?」


 自分が死ぬ未来予知を視ていたお豊は、いざというときのために遺産の分与や弟子であるお房に与える画号など、様々なことを書き記していたのだ。

 うっかりモチ死したあとでそれらは発見されて、お房は豊房と名乗るようになったのであるが。

 豊房はさりげない動きで九郎に近づき、自然な仕草で隣に座りながら云う。

 その手には徳利が持たれていて、直接口を付けて酒を呑んでいる。妙に目が据わっているように見えた。


「わたしの家だから、わたしがあっちで暮らすのも当然よね」

「……フサ子もくるのか?」

「なによ。部屋は余りに余ってるんだから一人や二人多くなっても、全然まったくこれっぽっちも問題無いから向こうに移るの。だってまたお母さんの子供も増えるし」


 そう云って、豊房も屋敷に引っ越すことを宣言した。

 九郎は急にそんなことを言い出したので意外に思ったが、


(まあ、尊敬していた姉貴分が帰ってきたのだから離れて暮らすとなると寂しいのだろうな)


 成長したと思ったが、まだ子供の部分もあるなと納得した。家主であるし、好きにさせればいいだろう。

 すると突然お八が慌てたように手を挙げて、


「あー! はいはいあたしもそっち引っ越す!」


 お八も酒を呑んでいる。ほんの少量だが、酔っているのか声が大きい。


「お八姉さん。ちょっと。大体、神楽坂じゃ晃之介さんの道場から遠いわよ」

「こちとら飛脚並に足が早くなってんだ。少しばかり遠かろうが問題ねえって。それに今、一人や二人多くなってもこれっぽっちも問題無いって云ったばっかりだよな?」


 しまった、とばかりに豊房は自分の口元を手で覆った。


「よし決定! あたしも住む! 家賃ぐらいなら払わあ!」

「おやおや、はっちゃんまでもかね? 大世帯になるね。いや……これは……」


 するとお豊が、考えこむように顎に手を当てて突然引っ越しについてくることにした二人の妹分の顔を眺め回した。

 何故彼女らが付いてくるのか? 

 それは恐らく、


(私の人徳……ということだね! 死んだことで理解した私という偉大なる姉の価値!)


 そう判断してお豊は満足気に頷いた。

 彼女は生き返ったからか、それとも体が小さくなったおかげで僅かな量の酒で脳が溶けたか、少々幸せな頭をしていた。

 夕鶴などは「大勢いれば楽しいでありますなー」と呑気に云っているので問題ないが。

 スフィがジト目で九郎に囁いた。


「クロー……お主年下にモテるのう」

「己れより年上はここにはあまりおらん。スフィと……」


 もう一人、彼が思い浮かべたときに。

 から、から、と店の引き戸を開けて、中には入らずに外から声が掛けられた。


「これは、これは」


 女の声だ。

 狩衣と巫女服を合わせて割ったような衣装を、肩を出すように着崩していて、足元には高下駄を履いているので背が高く見える。

 顔の上半分を狐面で隠した女は、担いだ薬箪笥を下ろしもせずに宴会を外から見ていた。


「皆さん──お揃いで」

「将翁さん?」

「随分久しぶりに見た気がするマロ」


 薬師、阿部将翁。

 その女はやはり数年前から変わったところのない、妙齢の女性の姿でこちらを見ていた。

 

「将翁のねーちゃんか。九郎が帰ってきたもんで宴会してたんだけど、あんたもどうだ?」


 お八が酒の徳利片手に呼びかけるが、将翁は口元に笑みを作って云った。


「いえいえ。あたしゃ、これからちょいと薬を売りに行く約束がありますので──少々、顔を見ようと寄らせて頂いただけです、よ」


 将翁がそう云うと同時に──

 彼女の体の影に隠れていたのか、ひょいと小さな、四歳児ほどの少年が姿を見せた。

 服装こそ簡易なものであるが。

 顔には、祭りで付けるような狐面がつけられている。


「あれ? ひょっとしてそれ──将翁さんのお子さん?」

「ふむ……似たようなもの、ということにしておきますぜ」

「ひょっとして子育てで忙しくて暫く見なかったのか?」

「ま、そういうことになりますか」

「うちの子と同じか少し上ぐらいか」

「同世代の知り合いが居ると嬉しいですねえ晃之介さん」

 

 などと、初めて見せた将翁の息子らしき少年に、宴会で酔い気分な皆は口々に云う。

 のだったが。

 皆の注目が将翁に集まっているときに。

 歌麿が九郎に近づいて、小声で云う。



「あれれ~? 兄さん────滝のように汗を掻いているよ?」



 指摘されて。

 額を拭うと、突然汗腺が崩壊したかのように、びっしょりと九郎は汗を浮かべていた。

 彼女が子供を連れて立ち去るまで将翁と目をあわせないようにして、九郎は震える声で告げた。

 

「……歌麿。皆に酒をあるだけ振る舞ってくれ」

「りょーかいマロ」


 謎の指令にも素直に歌麿は従い。

 子供二人と妊娠しているお雪以外、宴会に参加した皆は蒸留酒を混ぜた酒ですっかり酔わせたのだという。

 ふらふらしながら寝ている嫁と子供を連れて帰っていく晃之介を九郎は外まで見送って、夜風を浴びて人心地ついた。




「大丈夫。もう連れて来ません、よ」



 

 耳元で独特の囁き声がしたが、九郎は振り返らずに店の中に戻り、寝ることにした。



「おや、振られてしまいました、か」



 月の明るさで狐火も目立たぬような、そんな夜のことであった……。


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