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118話『そして、彼の物語は続いていく』

 誰かの人生を変えた不幸は、選べぬところで決まってしまった。

 最初から不幸だったわけではなく、ある程度のところから一気に落とされてしまった。

 死ぬこと。

 それを意識したときに、誰かは思い出した。

 その不幸せの中で、輝く記憶。優しく大事な人。

 記憶は曖昧だ。

 本当に言われたか覚えていないが、心に残っていることがある。 

 

『これまでの不幸はお前が選んだわけじゃない。だから、これからお前は自分の幸せな物語を探して選べ』


 誰かは、そうして選ぶことを学んだ。

 自分を幸せにしてくれる大事な人を失わないことを、とにかく選ぶように。

 笑って生きて、笑って死にたい。 

 笑顔を見せなくてはいけない人がいる。



 そのことを、忘れない。





 *********

 



 鳥山石燕と百川子興が行方不明になった。

 どちらも、何か思いつめたことや出かける理由があったわけではなく。

 ただ気がついたら家に戻ってきていないという失踪であった。

 二人が姿を消すことはこれまでも何度かあったらしい。

 九郎が現れる前は、妖怪探しの小旅行などで出かけていた。

 しかし。

 今この、不可思議な事件が起きている状況で、九郎や晃之介に何も告げずに、知り合いの誰の家に泊まるわけでもなく、二人が消えたのは。

 明らかな異常として九郎と晃之介は認識した。

 二人は足を棒にするほどに探しまわりながら各々の伝手に捜索を頼んだ。

 伝手──二人が江戸で作った関係は広範囲だった。


 ベーコン数という言葉がある。

 アメリカのハリウッドスター、ケビン・ベーコン氏は様々なジャンルの映画に出演し、多くの共演者と出会った。代表作はトレマーズの主役、バルだろうか。

 ベーコンと共演した人の数字を[1]、その共演者と別の映画などで共演した人を[2]、更にその人と別に共演した人を[3]──と広げて繋がりを示した所、ハリウッドの役者の八割以上はベーコン数が3以下に収まるという研究である。

 それと同じく、二人が作った伝手の相手が、更に自分の伝手で頼みを広げてくれる。

 助けて、と頼んだことのある助屋から。

 助けを求められたときに、誰もが頷いた。


 藍屋は従業員を出して他の店や取引先にも尋ねる。相手は人探しの業者ではないが、出入りの魚屋や野菜売りから見なかったか確かめてくれる。

 鹿屋もさつまもん共を走らせて人を探す。商店と蜜月の関係にある薩摩藩邸でも人を出して貰った。

 柳河藩もそうだ。出入りの商人や余らせている従者に捜索を出させた。

 奉行所と火盗改メはそれ自体が動かなかったが、同心に手下、見回り者などにも目撃者が居ないか話が及ぶ。

 土地のヤクザは恩を売りつけようと動き始め。

 忍びの一団は独自の情報網を探った。

 版元では敏腕の締め切り逃亡画家捜索隊が結集して探した。

 

 だから──そこまでして見つからない二人は、明らかに危険な状況にあると九郎は歯噛みした。

 石燕が消えた時から知り合いを訪ね続け、歩き通している。江戸で思いつきそうな場所は既に回った。もはや宛もなく探している。

 

「細菌で調べようにもな……」


 特殊な病原菌でも付着していれば、疫病風装の能力で捜索できたかもしれないがそれも難しい。

 百万都市で細かい粒子まで見れば江戸の街は多種多様な菌があり、とても個人を特定できそうにない。

 

「石燕が何も告げずに居なくなるわけがない」


 店で酒を呑んでいたのに、ふとタマが視線をやったら消えていたらしい。

 居た場所には財布が置き去りにされていた。彼女が大事にしている、九郎からの贈り物が。

 

(必ず助けるとは前に約束した覚えがあるが……)


 助けの声さえ届かないのだから、手を伸ばしようがなかった。

 晃之介も別れて探しまわっていた。彼には疲労回復の為の快癒符を渡しているので、恐らく休まずに捜索を続けているだろう。

 時折脳裏をよぎる、嫌な想像に背筋が寒くなる。

 そうなる前に助けなくてはならない。

 

「おっと、九郎さん居た居たー」


 軽い声を掛けて近寄ってくる男が居た。

 首から下は着流しに草履と変哲もない町人風だが、顔を覆面で隠している怪しさ満点の者だ。

 江戸の忍びが己の素性を隠したいときにする扮装であった。

 逆に目立つようだが、実のところ顔を隠して歩く者は忍びだけではないのでそれほど驚かれず、目を引きこそすれ顔がバレないという効果の方が大事なのだ。

 九郎が見分けのつく忍びは、甚八丸と無銘同心ぐらいだが──ただし無銘同心の本気変装は誰にも気付かれない──とにかく、忍びの名前も知らない誰かであった。

 

「どうした。何か、情報が掴めたかのう」

「うん。二人が捕まってる場所がわかったよ! まだ何もされてないみたいだ!」

「でかした。捕まっておるのか、よしそれならば晃之介らに教えて救出を──」

「あ、それはちょっと」


 具体的で、重要な情報を持ってきた忍びはあっさりと手のひらを向けて逸る九郎を何故か制止する。

 訝しげに見上げるが、やはり覆面で隠して目元まで黒布で覆った顔からは、何の表情も伺えない。

 言葉も軽いもので、緊迫感も何もなかった。


(おかしい)


 妙な雰囲気に九郎が僅かに身を引いて構えた。

 朗らかなのに笑っていない、義務的に愛想のいい声で忍びは続ける。


「依頼者の要望でさ、九郎さんが一人で、暴れたり抵抗したりしないまま来てくれないかな」


 明確な立場の違いを示す言葉だった。

 九郎は舌打ちをして睨みつける。


「──ちっ……! お主も何らかの一味か!」

「忍びが一枚岩なわけがないよね。楽しい集会は集会として、各々の思惑で故が在れば敵対するのが忍びだ」

「江戸中の暖簾を変えたのは……忍びならば可能というわけか」

「流石に人手が必要だったけど。アンタを撹乱するのと、別の合図みたいな意味もあったようで」


 下がる九郎に、忍びの男は手を広げて振り、武器を持っていないことを見せた。


「大人しく来てくれれば勿論、あの二人には手を出さない契約だ。ただここでアンタが俺を締めあげて情報を奪おうとすれば、遠くからこちらを見てる奴が連絡に向かい人質を殺す。俺は単に案内役を頼まれているだけで、戦うつもりは無いんだ」

「おのれ……!」

「当然、抵抗しないでくれよ? 見てる奴は俺とは友達でもなんでもなく雇われてるだけだから、逆に人質にとっても見捨てるだろうしアンタが言うことを聞いてくれる前提で、俺はこうして出てきてるんだから」


 人質を取る役と連絡役は別にして抵抗を防ぐ。有効な方法だ。この場はどうあっても従うしか無さそうで、九郎は考えを巡らせる。


「仕事は仕事として、個人的にはアンタを応援してるよ?」

 

 心底どうでも良さそうに、男は付け加えた。




 *******



 

 暗くなってきた道を二人はひたひたと歩んでいる。

 江戸の市中を出て郊外へ向かい、染井王子を抜けて巣鴨を通る。

 この辺りになると人家もまばらで、農地が広がっている村であった。

 音無川近くにある金剛寺へ通り掛かったときに、どうも良くない雰囲気を感じ取った。

 寺の周りにある荒屋から殺気立った浪人風の男が数名、様子を伺っているのだ。

 人の気配が、先程まで田舎の閑散とした雰囲気だというのにこの近くだけ濃密である。

 バレないように疫病風装の機能で菌などを探査してみるとかなり多くの人数がこの辺りに集まっていることが判明した。

 

「ただならぬ様子だな……」


 前を歩く男が肯定して説明する。


「以前に江戸を放火して回った[地蜘蛛党]と、幕府に不満を募らせている浪人の反乱集団、[悪鬼党]が組んだ連中──その名も[天邪鬼党]だ。また江戸で騒ぎを起こすつもりらしいね」

「……お主は何のつもりでそれに加担しておる?」


 覆面は振り返って、表情は見えないが卑下するような、それでいて飄々と言う。


「俺はさ、忍びの技能を身につけたのにそれが役に立たないのが嫌なんだ。普段は女の子にモテないし、碌に仕事も無いつまらない人生だよ。

 火事でこの前駆りだされて、あちこち走り回って人を助けたり大工の真似事をしたり持ち前の器用さを使って役に立てば褒められたんだ。

 でも平時には俺なんかより専門の火消しや職人が仕事をするわけで、出番は無い。またつまらない人生じゃん?

『ああ、この前助けてくれた素敵な方!』『ありがとう助けてくれて』『いつも大変だね、応援してるよ』『憧れてます、物語にしていいですか?』

 ……たまには、本当にたまにそんな風に言われたいから、世の中は俺が活躍できるぐらい、多少騒動があった方が嬉しいのさ」


 おっと、と彼は九郎が口を開いたのを牽制して話すのを止めさせた。


「平時で人から頼りにされて褒められるお助け屋のアンタには、理解をしてもらおうと思わないから。

 誰もがお助け天狗になって生きていけると思うなよ? 人を助け続けるなんてしんどいしな。

 俺は所詮、卑小で捻くれ者の天邪鬼の一匹なんだからな、まともになんて生きられない。ただちょっと、時々まともに憧れるだけさ」

「……」


 そうだな、と九郎は胸中で同意した。

 どうしても生き方が変えられない者というのは存在する。

 普通に生きている者からすれば、損ばかりする選択をしてしまう。

 まともな道を進む方法があるはずだ、と言われても彼らはそれを選ばない。

 生き方を選ぶということは実はとても疲れてしまうことなのだ。

 正しい者は選んだわけではなくもとから正しい生き方になるように生まれついていて。

 そうでないものは違う。

 

(己れだって……まともな生き方はしておらんと思うがのう)


 羨ましがられるには故郷から遠くに来すぎたし、大事なものを失いすぎた。

 そんな共感も求めていないことが九郎にはよくわかっていた。


 

 



 ******





 鳥山石燕と百川子興の意識が戻ったのはそう変わらない時間だろう。

 蝋燭に照らされた室内をきつい匂いが支配し始めていた。吸い込むには忌避感を覚えた為に呼吸を浅くして、本能的に煙から離れようとする。

 その強烈な匂いは、何らかの薬物によって眠らされた意識を覚醒させるには充分だった。


「し、師匠……」


 恐ろしげに子興が囁いて、隣に座っている女の喪服に顔を押し付けて恐怖から逃れようとした。

 小屋の隅にある土間へと二人は座らされている。布で手足を縛られていて芋虫のように身動きは取りにくい。

 この硫黄臭は砒素だ。石燕は知識で知っていた。

 部屋の中央でがりがりと床板を短剣で削り彫っている男が居る。

 全身を白布で巻いた、僅かに見える手が浅黒く筋張った老人のようだ。

 かすれ声で呪文のような歌を歌っていた。


「殺牛羊……

 備酒槳……

 開了城門迎闖王……

 闖王來時不納糧……」


「し、師匠……あれ何を唱えてるんですか?」

「漢語……それも今の北京で話されている共通語ではないね。明代の発音をしている」


 清の時代になり、共通語であった漢語は満州語と混ざり合い、漢語でありながら特有の響きを持つように進化した。

 つまり古い言葉を使った歌なのである。石燕は己の知識にある歌の記憶と照らしあわせて、相手に聞こえるように翻訳をする。

 とにかく危険な状況ではあるが、会話をして周囲の情報を得なくていけない。


「牛と羊で御馳走だ。

 酒を備えて用意しよう。

 城門開いて闖王を迎えろ。

 闖王は税を取らないぞ……」


 ぴたりと、老人の動きが止まって石燕を見た。

 息が詰まりそうなぐらい恐怖しているが、弟子の前だ。彼女は引きつった笑みを浮かべて告げる。


闖王ちんおう李自成りじせいを迎える歌だね」

「李自成?」


 子興の問い返しに彼女は視線を外さないまま頷いた。


「明の末期に農民反乱を率いた首領だ。現在明は滅び、清が中華王朝に取って代わっているが実質明を滅ぼしたのは六十万の軍勢を率いて北京を壊滅させた李自成の方だね。

 しかし反乱を終え、目的を果たした先を見ていなかった軍は脆かった。明軍残党の最精鋭を引き連れた呉三桂将軍が清軍に下って反乱軍を撃破。李自成が明の後に建国した順という国は一月あまりで滅ぼされ、清が頂点に立った」


 石燕は簡潔に語って、こちらを見ている老人に言う。


「李自成を迎える歌と、砒素を使った儀式。ひょっとしてご老体は反魂の術で闖王を生き返らせようとしているのではないかね?」

「……我らの盟主が倭人にも伝わっているとはな」


 盟主。

 という親しい呼び名に、老齢。そして頭に巻いた布。

 李自成が率いた反乱軍の幹部だった者に、一人思い当たる節があった。


「恐らくご老体は……八大王の老回回」


 回族──イスラム教徒の武将だ。


「で、でも師匠。明が清になったのってもう何十年も前じゃないんですか」

「回族はムスリムでありながら道教の影響も受けていて、仙人や怪しげな武術が存在する。気功を充実させて寿命を伸ばす術が存在しないとは限らない──しかし」


 石燕が床に刻んでいる幾何学的な、陰陽道と大陸の道術を混ぜている紋様を見ながら言う。


「魔術の行使は確か、イスラム教でも大罪の一つだったと思うがね」

「……闖王の無念を晴らせれば地獄ジャハンナムの責め苦も構うまい」


 彼は床に描いた模様の周囲に小さい壺を幾つも置いてから、石燕を見下ろした。

 

「この地に乱を起こして異端の魔術で王の魂を引き寄せる。江戸を滅ぼさんと騒がす[天邪鬼党]も集めた。江戸の強敵も呼び寄せてある───後は暴れさせるだけだ」

「……暴れさせる、それが目的かね」

「そうだ」


 老回回は布の内側で顰面を作ったようである。


「あの暴威の化身が」


 拳一つで大明帝国を殴り壊した男、李自成。


「武芸の申し子が」


 その体は岩のようで、影を作らぬ俊足を持っていた。


「──戦い以外で死ぬなどと」


 一息ついて、後悔するように言う。


「──まさか餃子を喉に詰まらせて死んだなど認めん……! さぞ無念であっただろう……!」

「そんな死に方したの!?」


 明を滅ぼした反乱軍のリーダー[闖王]にして順の皇帝、李自成。好物は餃子であった。

 北京を制圧してからも対清の策を練らずに餃子を食べまくっていたから国が滅んだとまで言われている。

 それを聞いて石燕はなんとも言えない残念な気分になった。


 そんな残念さで江戸は今まさに天邪鬼党に狙われ、黄泉より闘将餃子男が呼びだされようとしているのだ。


 ただ戦乱の渾沌にその闖入者の王を入れて暴れさせたいというだけの理由で。

 完全に老回回の目は狂気に満ちていた。

 李自成が負けたことは構わないが、間抜けに死んだことが許せないのだろう。

 寿命を伸ばし、異国に渡り、財を作って、人を扇動し、異端の法に手を染めてまで彼は復活を追い求めていた。

 どうしてもこれまで決行できなかったのは材料が足りなかったからだが、ようやくそれが揃ったのだという。

 再び背中を向けて作業を再開した老回回を見ながら石燕は子興に囁く。


「それにしても天邪鬼か……あの蕎麦の暖簾事件は天邪鬼党とやらの集まる合図だったのだろう」

「どういうことですか師匠」

「あまりにも蕎麦が身近で失念していた。[蕎麦処府]……処とは場所、すなわち地面にある位置を示す。蕎麦の地面にある位置は根。蕎麦の根と天邪鬼は繋がりがある」

「……あっ! [瓜子姫]!」

「そう。瓜子姫の最後で復讐された天邪鬼が流した血が畑にあった蕎麦に染みこみ、蕎麦の根が赤くなったという話がある」


 子興は昔に石燕から聞いたお伽話を思い出して、僅かに身を震わせた。

 瓜子姫。あまり愉快ではないどちらかと言えば怖い話だった。語られる地方によって話の細部は異なるが、瓜子姫は天邪鬼に殺されてしまうものが多い。

 それに天邪鬼の説話には、天邪鬼は巨鬼であり富士山を削ったという話もあった。

 子興が潜在的に恐れる、巨人。

 攫われて縛られて、嫌な想像を膨らませた彼女の顔色は青くなっている。

 そんな子興の様子を見て、石燕は頭を彼女に寄せて安心させるように言った。


「大丈夫だ。もしものときは私が──いや」

 

 言葉をつぐんで言い直した。


「いいかね子興。巨人というものは英雄に倒されるものだ。日本でも古代、百済より攻め入ってきた鉄の巨人が居たが弓の名手に足裏を貫かれ倒された伝説がある。だから、お前の──そして私の英雄がきっと助けに来てくれるよ」

「……」 


 人質として二人を捕まえているということは、呼び寄せる相手が居る。

 恐らくは蘇らした暴王への生け贄として、強者を見繕っていたのだろう。

 戦わせるために。戦いの中でこそ死んだ魂は生き返る。そう相手は信じているようだ。

 子興は来るはずの二人を思い浮かべて、石燕に顔を押し付けて目を閉じた。


「お前が強くなる必要が無いぐらい、強い人が側に居てくれるさ……」




 ******





 九郎が男に連れてこられたのは小高い山であった。

 頭のなかで地図を思い浮かべて、位置に対し僅かに疑問に思う。

 

「……飛鳥山?」

「そう。ここにある小屋に二人と、アンタを呼んだ男が居る」


 覆面は返事をするが、九郎はそれよりもそういえばこの辺りに足を運んだのは、江戸に来てから初めてだったが──


(飛鳥山って山があったのか?)


 九郎の生まれ育った21世紀の東京では、飛鳥山公園というと名前の通り桜並木の公園だ。

 小高くもない丘でとても山とはいえない場所だが、花見の名所でもある。何度か行ったこともあった。

 しかし今、薄暗いまま見上げるそこには高さこそ数十メートル程度だろうが、小さな山がしっかりと存在している。

 

(二百数十年の間に山を削ったりしたのだろうな)


 とりあえずそう納得して先を進んだ。

 山の麓に居た別の覆面が入れ替わりになり出ていく。

 ある程度人が歩けるようにしてある──飛鳥山から富士を見るようにと展望場のように開発はされていた──のでさほど苦労もしないで歩けた。


「じきに道場の先生も他の奴に連れられてやってくる」

「晃之介も?」

「よくわからんが、用があるんだとさ。アンタと、先生とに」


 晃之介と自分を呼んで何をさせたいのか不明だったが、救助の可能性も増えたかもしれないと思う。

 あの武芸者ならば常人が瞬き一つする間に、囚われの二人を手に取る。後は自分の飛行能力で離脱すれば手は出せない。

 ただ──敢えて呼んでいるというのならば、天狗と武芸者への対策を取っていることも充分に考えられるが。


 今は暗く沈んでいるが、ここは富士の山を見物する場所だ。

 竹取物語では不死の霊薬が燃やされた山。

 また、富士山の象徴である神・木之花咲耶姫は死と誕生を表すという。

 そして天邪鬼が富士山を削りとった土が伊豆諸島になったと言われている。

 それらを望める位置にある、天邪鬼が天の法を破り屍者を呼び起こすには江戸で適した霊地が飛鳥山であった。


 一歩ずつ場所へ近づく度に、九郎は大きく息を吐いた。

 つまりは、石燕と子興が命の危機なのはまだ何も変わっていない。

 それを助けなくてはならない。だがまだその方法や、確実性は掴めずに相手のペースになっている。

 助ける機会は必ず訪れるが、相手の手のひらの上では余計に悪い方向へ進む可能性が高い。

 だから多少の無茶をしてでも強制的に救助しなくてはいけない。

 

(己れの悪運の強さが、こんな時ぐらいは役に立て……)


 そう祈った。

 土壇場で僅かに上手くいく可能性を掴む運命力を信じよう。ヨグや影兵衛が存在すると言い、九郎は鼻で笑ったそんな偶然を得る力を。

 

 覆面の忍びは小屋の入り口までで、九郎が中に入るのを促した。

 案内はそこまでのようだ。彼は中の出来事に興味無さそうに、九郎が入るのを見て素早く去っていった。

 ゆっくりとした動きで建物の中に入ると、体中布で巻いた痩せこけた老人らしき男──老回回が、短剣を石燕の首筋に突きつけて迎え入れた。

 

「人質が惜しければ、大人しく従って貰おう」

「わかった。抵抗はしない。どうすればいい?」

「部屋の中央へゆっくりと進め」


 九郎は両手を上げて無抵抗をアピールし、足取りを中央へ向けた。

 すえた生臭く吐き気を催す匂いに、砒素の硫黄臭。怪しげとしか言いようのない香も炊かれ、奇妙な陣が描かれていた。

 一歩、二歩と歩いて九郎は人質の二人や老回回に視線も合わせない、自然な動きで。

 身体能力を二百倍にも強化して人智を超えた速度で踏み込み、老回回に跳びかかった。

 相力呪符を凌駕発動させ、急激な身体強化を施したのである。

 

(相手が刃を突くより早く手を押さえて投げ飛ばし、石燕と子興を抱えて小屋を突き破って逃亡する。後はどうとでもなろう)

 

 瞬時に相手のペースから抜けだして強行突破することを決めた九郎の奇襲であった。

 演技で従う動作からのノータイムな襲撃。

 相手が並以上の使い手でも、それを成功させられる凄まじい速度があった。

 

 目の前が真っ暗になり、その次に衝撃が訪れた。

 脳が揺れる。鼻がへし折れた気がして、呼吸が詰まった。闇に包まれた視界に、眼球が砕けて光ったような火花が飛んだ。

 

「九郎くん!?」


 爆発したような音。 

 そして声が聞こえた。それを認識できたかは怪しい。

 土間の、むき出しになった地面に小さなクレーターが出来ている。

 超高速で突進した九郎が──老回回によって速度をそのままに床へと叩きつけられた痕である。

 回族は独特の武術を使う。その投げ技で、先読みして九郎の攻撃をいなしたのだ。

 普段の九郎ならば、投げられても途中で受け身ぐらいは取れただろう。しかし、急激な強化を施しての瞬発的な一撃だったので、意識が追いつかなかったのだ。

 小屋全体を揺るがす衝撃の現況な九郎は、指一本動かせないほどに朦朧としている。


「九郎っちが助けに来たかと思ったら一瞬で地面にめり込んだ!?」


 そう改めて説明するな、と九郎は聞こえた子興の声に言い返そうとしたが、声も出ない。

 九郎を投げ倒した老回回は無傷ではなく、片腕が見るも無残に破壊されている。骨が開放骨折していて肌を突き破り、生々しい折れた断面を見せていた。びちゃびちゃと血が破れた肌から滴り落ちる。それどころか、肩まで脱臼したまま背中側に骨の継ぎ目が飛び出ていた。受け流してもそれほどの力であったのだ。治療をしても二度と動くまい。

 だが痛みを感じていないように、老回回は嬉しそうに呟いた。


「素晴らしい」


 そして、動けぬ九郎の襟首を掴むと、部屋の中央へと置く。

 石燕がその様子に、慌てて声を掛ける。


「待ちたまえ!? 反魂の術をするのでは……まさか」

「そう」


 老回回は規則正しく並べられた壺から、心臓の塩漬けを取り出して壺の上に置き直した。

 江戸で[魍魎]の三三を使い集めさせたものである。

 それに一つ追加し、完全にミイラ化したような心臓を倒れた九郎の体に乗せる。


「体を蘇らせるのではなく、魂を蘇らせる。西行法師が失敗したのは、魂の篭もる心臓を使わなかったことと、バラバラの骨を使ったことが原因だ。魂ならばより強き者が喰らい、統合する。

 六天流は闖王の相手だが、この男は闖王の器として呼び寄せたのだ」


 反魂の術はその名の通り、魂を呼び起こす術である。

 それを使って死者と会話をしたりするのが本来の使い方で、肉体の蘇生は副次効果であり、それこそ成功しない可能性が高い。死後の世界というものがあるのならば、魂の行き来より肉体の行き来の方が困難なのは多くの国の神話や民話でもわかる。

 だから、完全な体を用意したのである。 


「そんな!? ちょっと九郎っち、起きてよお!」


 起きようとはしているのだがな、と九郎は思ったが顔面の表情一つ変えることができなかった。

 胸が熱い。イリシアの刻んだ術式が、治癒を施そうと作動している感覚があった。

 それでも体は動かずに、その熱の上に置かれた生臭い物体が気持ち悪い。

 砒素の匂いと、火を感じた。

 自我が乱れる。老回回の唱える呪いの言葉が、九郎の知識や記憶を塗り替えていくようだった。

 或いは魂や霊といった神秘的なものではなく、催眠術と洗脳と記憶の刷り込みで李自成を再現しようとしているのかもしれない。

 己の意識が薄れていく。 

 自分の魂が何か別のものと混じり、変質していくのを感じた。


 ふと九郎は、魔女に覚醒した日のイリシアもこうだったのかと思った。




 ********





 九郎からやや時間を置いて到着するようにと、晃之介も別の使いの者から声を掛けられていた。

 内容は同じく、抵抗せずについてきて欲しい。こちらに危害を加えれば、見張りが連絡に行く。

 晃之介の対応は素早かった。


「ぐぬっ……」


 と、うめき声を上げて相手は倒れた。

 即座に晃之介から当身を入れられ、気絶させられたのだ。

 そして、それを確認して離れていく者の気配を察知して膝を弓で貫いた。

 反応を見て行動を変える者を見つけるのは容易だった。


「ぎゃっ!」


 と、悲鳴を上げて地面に縫い止められた男は即座に接近した晃之介に頭を掴まれる。


「人質はどこだ」

「へ、へへ」


 強がるように笑う相手に、晃之介はめしめしと腕力で相手の頭を握りながら告げる。

 

「云わないのならばまず片腕を切り落とす。次に片足だ。それでも強情を張るならば──殺してやる」


 録山晃之介は、滅多に怒らない。

 相手が無礼でも罵られても酷い目にあっても悪人でも、自分のことならば仕方なしと片付ける。

 だからこれが初めての激怒かもしれない。それぐらいの、溜めに溜め込んだ怒気をぶつけていた。

 子興が攫われたのだ。 

 自分が守ると云ったのに、そのすぐ後に。

 この怒気も半分ぐらいは自分に向けられていたが、まだるっこしいことを云って来て益のない相手ならば容赦なく殺すだろう。


「云え……!」


 獅子すら怯えさせるであろう眼光に、金で雇われただけの男は飛鳥山に居ることを白状したのであった。

 晃之介は男の始末さえせずに、走る。

 見張りを倒したが──考えすぎかもしれないが、見張りの見張りが居てもそれより先に到着するように。

 背中には数十貫の重さをしている、武器を収納した木箱を担ぎながらも矢の如く飛鳥山へ向かった。

 

 走る途中で九郎が密かに残した痕跡を見つけた晃之介は先に連れて行かれていることを、期待半分不安半分に思いながら駆けた。

 飛鳥山を駆け上がり、人の通った気配を辿って奇妙な香と光が漏れている小屋に行き着く。

 そして。

 血の匂いがした。

 慎重に行こうかという考えは消し飛び、晃之介は入り口を蹴破る。


「無事か!?」


 小屋の中では──新しい死体があった。

 あったというより、ぶら下がっている。

 体中に巻きつけた布を真っ赤な血で染めた老人が、胸板を正面から素手で貫通させられて、そのまま持ち上げられていた。

 先ほど行ったばかりなのだろう。胸から流れだした血が、びたびたと床に落ちている。

 その惨劇を行ったのは──身の丈六尺あまり、寝癖めいたざんばらの髪型をした──大人の九郎であった。

 いや。

 

(違う)


 違和感に気づく。普段の着流しを脱いで上半身は肌着一枚となっているのでよく見えるが、前に見たときよりも筋肉が盛り上がっていて体格はいかつい。

 表情は眠気のある常ではなくて歪な光を灯していた。

 そしてなにより、息を呑むような圧力を全身から発している。びりびりとした迫力に、臆病な者ならば直視することを避けるか、身動きが取れなくなりそうだ。

 

「晃之介さんっ!」


 子興の叫びに、はっと意識を戻す。やや離れた土間に二人は居た。


「子興殿に石燕殿! これは……!」

「気をつけたまえ──九郎くんが悪霊に乗っ取られて、悪堕ちした!」


 なに、と晃之介はその九郎らしい男を見た。

 ごぼごぼと口から血泡を噴き出している老人に、彼は静かに語りかけている。


「悪いな、老回回。お前だけ残して死んじまって」


 それは、九郎の声でありながら九郎の言葉ではなかった。

 哀れんだような表情をしながら、続けて老人に告げる。


「ご、ぐ、じせ……」

「こんなになるまで生き長らえて、つらかったろうに。お前だけあの時餃子食えなかったもんな。回教徒だから」


 降霊された李自成に意識を乗っ取られている九郎は、かつての仲間である老人に突き入れた、血染めの腕を抜き取りながらもう片方の腕で老人の体を持ち上げたまま支えた。

 

「あの世でみんな待ってるから先に行っててくれ」

「……」

「じゃあな」


 李自成は老人の体を降ろすと、血を払うように手を振った。

 ごう、と大きな風音を出して振られた手からは赤い霧が飛び散り、ふつふつと手に残った血の痕跡が蒸発していくようだった。

 力が込められている。

 晃之介はそれを見ながらも警戒して部屋の隅を移動し、囚われの二人の元へたどり着いていた。

 視線を外さずに抜いた刀で正確に縛られている二人の布を切る。


「さてと」

  

 李自成は晃之介に視線をやる。

 戦場で強敵同士が出会ったときに交わす、僅かな緊張と高揚を込めた笑み。

 闘うことを生きがいにしている戦士の顔をしていた。それは疲れて面倒だというのが口癖の、お人好しな彼の顔ではなかった。

 

「外で闘ろうか」


 それだけ告げて、逞しい背中を見せて悠然と小屋の外に出る。

 ようやくそれを見送って、晃之介は唾を飲み込んだ。

 強い。恐らくは、相当に。

 だが戦わねばならぬ。悪霊が取り憑いているのは、友の体なのだ。


「こ、晃之介さん……その」


 子興が震える声で告げてくる。


「九郎を助けて……晃之介さんも無事で居て!」

「──任せろ。俺は、子興殿の期待を裏切ったりしない。俺を信じてくれ」

「うん!」


 子興を安心させるように手を握って、晃之介は気持ちを落ち着かせた。

 九郎に。

 いや、彼に取り憑いた李自成に勝たねばならない。そして殺さず、死なず、それを果たす。

 やるのだ、と晃之介は思った。


「晃之介くん。これも持って行きたまえ」

「それは……九郎の術符?」

「使えるものはなんでも使うといい。九郎くんの刀も、晃之介くんには抜刀できないが盾にでもするといい。相手は城門を殴り壊し、紅夷カルバリン砲の直撃を受け止める逸話を持つ化け物だ。気をつけたまえ」

「とんでもないな……だが安心しろ。俺は九郎を取り戻してくる」

「頼むよ……!」


 術符フォルダから抜き取った札を体に仕込んで、晃之介は外に出て行った。

 小屋の正面にある開けた場所で待っている李自成の前に立ち、木箱を下ろす。

 糸を引っ張ると蓋が開いて、予め引っ掛けてあった武装が中から飛び出て晃之介の袴各所にあるハードポイントに装備される。

 槍と棒を背中に弓を腰に、刀を二刀。袖や頭の手拭に小刀を仕込んでいる完全装備状態だ。

 

「待たせたな」

「ああ、そうだな。或いは千年待ったのかもしれない」

「なに?」


 李自成は拳を手のひらに合わせて乾いた音を立てると、足を開いて半身に構えた。


「──六山派掌術の第十六代継承者、[闖王]李自成が相まみえる」


 それを聞いて、神妙に晃之介も構えた。

 

「六天流武術、第七代皆伝者の録山晃之介だ。いざ参らん……!」


 六山派と六天流。

 そのどちらも千年近い昔に、中国で生まれた武芸であった。

 二人の武人が競うように練りあげ、しかし結局互いに闘う機会を逸した二つの流派。

 六天流の方が伝承した人数が少ないのは、失伝していたことと六つの武芸を組み合わせて習得しなければならない難度からか。

 兄弟とも言える流派の勝負が始まった。

 

 三間(約5m半)ほど離れた間合いから晃之介は速射を放った。

 半弓でありながら指が切れるほど硬く弦を絞ってある強弓であり、放たれる矢は手加減抜きの鏃だ。

 九郎を助けるとは誓ったが、手加減を出来る相手ではない。それにこの一撃で決め手になるとも思わない牽制の一射だ。

 李自成の姿が突然大きくなったかのような錯覚を感じる。音もなく、真正面から一息に間を詰めてきているのだ。

 矢は軌道を見切り顔の横を通過させて晃之介に迫る。

 足元が揺れた。

 猫のような砂埃も立てない接近した足取りとは打って変わって、拳の間合いに入った瞬間に李自成は大きく地面を踏みこんで力を練り上げる。

 隕石でも落ちたかと思う爆音を立てて踏み足をつけた正拳突きが晃之介の体に向けて伸ばされた。

 

(──疾い!)


 だが相手流派の知識もあるので疾いのは織り込み済みだ。

 六山派掌術は大雑把に言うと内功による身体強化と軽功による高速移動だ。肉体的に優れている者は、地力の強化だけで最強になり得る。

 体捌きで腕を取りながら李自成の背中側に入れ替わる動きで攻撃を避けた。

 前につんのめるように力を加えて体勢を崩させる。その際に僅かに触れた攻撃の腕は、焼けた鉄のように力を圧縮した熱が篭っていた。

 その拳は空を切って地面に叩きつけられる。

 どう、と激しい音が鳴った。

 水面に大岩を落としたのと同じく、波紋が広がり土の飛沫が空中に舞い上がって周辺に雨のようにぱらぱらと落ちる。

 驚異的な威力だが晃之介は相手の背後に回ったのと同時に小刀を抜き放ち脇腹に打ち込んだ。

 だがその刃の切っ先は、李自成が地面に打ち込んだのとは逆の左手で受け止められている。指で摘みながら、その指に込められた力は刃を砕こうとしていた。

 晃之介は小刀を諦めて手放しながら李自成の背後方向へ離れて振り向きざまに打刀を抜き放って居合で斬りつける。

 振り向く回転と腰、胴の動きを一体化させた隙のない一撃だ。

 それを李自成は指で弾いた。

 正確には刃ではなく、当たる寸前にその刃の腹を指で叩くようにして軌道を大きく逸らす技術だ。

 呼吸を押さえて読ませぬようにしながら二撃、三撃と刃を翻させ切り込むが同じ方法で受け流される。

 鋼と指がぶつかっているのに金属音と何も変わらない音が響きあう。そして山中から鳴子を鳴らすのに似た、カラカラといった音が鳴り続いている。時折樹の葉が大きく揺れる音。先ほどの李自成が大地を殴った一撃の威力が山中を駆け巡り、飛鳥山が土砂崩れを起こしているのだ。

 指で刃と撃ち合いをしながらも、李自成は面白そうに笑っている。

 

「やるな。そこらの使い手なら、刃を掴んでへし折るところだが……」


 懐かしむように呟いて、刃を弾くと同時に再び李自成は踏み込んだ。

 前蹴り。その勢いを利用しようと晃之介は後ろに飛び退いて槍を突き出す。蹴り足に刺そうとしたが、寸前で前蹴りを止めて突き出された槍の上に跳躍し、乗った。

 槍を足場に落とす間もなく首を刈る蹴りが襲う。槍を手放すが重さを軽功で消している李自成はバランスを崩さずに蹴りを晃之介に叩き込んだ。

 腕で防御。不完全な体勢から放たれたのに手が痺れる一撃だ。乗っている槍が地面に落ちるよりも早く、晃之介を蹴った反動で宙返りして飛び降りた。

 着地を狙い抜き放った棍棒を横薙ぎに払う。

 足の裏で地面をしっかりと掴み、大地の重さを棒に伝えて殴りつける。

 六天流棒術[破門]である。

 

「──!」


 呼吸音。

 李自成が両腕を防御に回して、着地に合わせられた一撃を受け止める。

 両足が地面に食い込み棒の勢いを真っ向から対抗した。

 大木すらへし折る攻撃だが威力を殺した。

 李自成も得意気に口を笑みの形にして棒を改めて掴むが、


「あら?」


 晃之介はまたしても獲物をあっさりと手放すと、既に足元の槍を拾い上げていた。

 武器を奪われようが破壊されようが即座に取捨選択をする。 

 虚を突かれた李自成に槍を一直線に突きいれた。


「だったら壊す!」


 槍の穂先を両の拳で挟み込むように止めると、その破壊の威力は挟まれているが為に抜けず、柄の部分へと波及する。

 先端から砕け散る槍を捨てて晃之介は再び距離を取り射撃。

 軽くその矢を打ち払うが、李自成は違和感を覚えた。鏃が重い。

 鏃の代わりに薄い陶器製の筒があって、それが砕け散ったのだ。

 体に粉末が振りかかる。


「灼けろ!」


 続けざまに放ったのは[炎熱符]で燃やした矢であった。

 先に放ったのは火薬を詰めた容器だった。弓矢で射撃する焙烙火矢である。着火の時間差は炎熱符で補える。

 ただの黒色火薬ではなく、油を染み込ませた増粘剤を粉末状にして混合しており燃焼力を高めている。

 一気に李自成の体は炎に包まれた。

 

「なるほど、悪くない」


 上半身が燃えながらも李自成は賞賛の言葉を口にした。

 そして、神速の一歩を踏み前に進むとあまりの速度による風で纏わりつく炎が一気に鎮火する。

 接近してくる李自成に上から棒が叩きつけられた。

 さっき持っていたはず、と僅かに驚いた。李自成が槍を砕く為に手を離し、晃之介が間合いを開けるまでの間に既に回収していたのである。

 

「おお……!」


 真上からの不意打ちを再び李自成は両手を上に構えて受け止める。

 気の篭った棒の遠心力と重力を活かした攻撃。腕で止めて膝を曲げて衝撃を吸収するが再び山鳴りの音が響き、土砂崩れが頻発しだす。

 晃之介が接近した。 

 棒の最大威力を叩いた手応えを確認するやいなや、再び空手になり固めた拳で相手の心臓を狙う。

 不完全な体勢ながら李自成もそれに対応して拳を振るった。

 拳と拳が正面から殴りあう。

 砕かれたのは晃之介の拳だ。しかし、相手の攻撃が当たると同時に引いていたので骨折まではいっていない。

 それと同時に、拳に握りこんだ[電撃符]が李自成の体を一瞬だけ走った。動きが止まる。晃之介は本命の、刀に稲妻を這わせて接近戦を挑んだ。晃之介の魔法能力では電撃を雷にして放出することはできないが、体や道具に帯電させることは可能だ。

 

「ちょっ!? 道術か!?」


 今度の刀は指で弾こうにも触れるだけで痺れる代物だ。李自成は慌てて刃をくぐり抜け回避を行う。

 李自成は滑るように後ずさり刀から間合いを取る。

 そして踏み込みではなく、四股を踏むように地面を蹴り潰した。


「爆砕土崩!」


 すると晃之介の立っている位置の地面が真上に爆発し、足元の砂利や小石が跳ね飛んで手や顔を襲った。

 威力は必殺とはいえないが肉に食い込む程度にあり、目に当たれば危険だろう。

 晃之介も相手を中心に円を描く形で走り、李自成が踏む度に発生する地面の爆発から逃げた。


「地面を蹴った威力を俺の位置に伝播させているのか……! 無茶な」

「そんなに射程は長くないけどな──っと!」


 足元が爆発しては防御もできない。再度の攻撃に晃之介は転がりながら躱して、地面に術符を押し付けて念じた。


「砂となれ!」


 [砂朽符]の効果により、周囲一体を砂場に変化させた。再び踏み込んだ李自成の足がずぼりとめり込んで威力を削がれる。

 うお、と声を上げて、彼は頷いた。

 

「そうだな。やっぱり戦いは近接戦じゃねえと」

 

 今度は走り近寄ってくる。晃之介も一定の距離を保ち遠ざかった。

 山の斜面に近づいてそのまま木々の茂る藪へと二人は入った。

 山暮らしの長い晃之介は言うに及ばず、軽功にてなんでも足場に出来る六山派は杭の間を跳ねまわるパチンコ玉のように素早く立体的に移動してくる。

 

「せりゃあ!」


 真上から襲ってくる一撃を晃之介は間一髪で避ける。 

 地面が砕けて山が崩れる。

 降りたその場から繰り出される上段足刀蹴りをしゃがんで避けると、背後にあった大木が蹴った部分から上がちぎれ飛んで、下の根が隆起した。

 

「すまんな九郎……!」


 気合と共に声を漏らして、大きく開いた李自成の股を肘で穿った。急所打ちである。でも普段から不能って言ってたし、後々使えなくなってもいいよな……! 容赦無い一撃が直撃する。

 しかし感触は異なった。晃之介の肘が当たったのは股の付け根である。僅かな間で李自成は己の逸物を軽功で軽くしており、逸物以外動かずにポジションを修正することで肘から回避させたのだ。

 同時に硬気功で太腿を固くしていて、晃之介の攻撃は僅かに痛痒を与えたが逆に大きな隙になった。

 李自成の放つゼロ距離からのアッパー。六天流の[昇り竜]に似た攻撃。

 受けると同時に地面を蹴り自らも攻撃の方向へ飛ぶ。しかし斜め上に向けて投石器で射出されたかのように吹き飛んだ。

 そこに軽功で木々を自在に飛び回る六山派の追撃が来る。受け止めた手が赤黒くなっている。肉の中で血管が潰されたようだ。晃之介は動きにくい手で迎撃するのを諦めた。

 李自成の叫びが響く。


「──[五岳砕]!!」

「風よ!」


 [起風符]を発動させ落下中に体勢を整えて、己も木を足場にして軽功を使用し大きく回避した。

 六天流の初代である男にはまったく内功の才能が無くて軽功も殆ど使えなかったらしいが、晃之介は違う。

 あらゆる技能を一人前に使うのではなく、あらゆる技能を達人の域で使うことを目指しているほどに才能がある。気功さえも、魔法さえも。

 晃之介が回避したが一直線に彼の落ちる位置へ向かっていた李自成はそのまま、地面に飛び蹴りを打ち込んだ。

 ぼん、と音がして山が膨らんだ気がした。

 そしてすぐに視界は明瞭になる。

 飛鳥山で、李自成が蹴り飛ばした地点から上が全て──天邪鬼に削り食われたように消失していたのである。

 蹴りの衝撃で吹き飛ばしたのだ。

 

 だが、たかが蹴りで山が消滅しただけだ。


 怯まずに晃之介は武器を構えて着地したばかりの李自成へ飛びかかる。


「そうこなくっちゃ!!」


 嬉しそうに九郎の顔をした闖王は迎え撃った。





 *******





 あまりの山全体を地震の如く揺らす衝撃に、危機を感じて小屋から出てきた子興と石燕は唖然と戦いが行われているであろう方向を見ていた。

 山の上半分は消し飛び、木々はめきめきと音を立てて薙ぎ倒されていく。

 時折炎や紫電の光が月明かりの下で煌めいている。

 土砂崩れを山全体で起こしていて、さながら全てが地下に沈んでいくようだ。

 川の中洲に居るような、ざらざらと土が流れる音が周囲を包み迂闊に下山などもできそうにない。

 

「あ、飛鳥山が削り取られていくよ師匠……」

「ちょっと近代にやっていい超人戦闘じゃないよ、これは」


 爆発音が響く中で戦い合っている二人は、肉体強度や常識的な技を逸脱した力を持っている。

 月こそ照らしているが、夜で良かったと他人事ながら石燕は思った。

 昼間の注目を集める中で山一つ砕いて潰していくのを目撃されたら大変なことになる。

 小屋の外から遠景で崩れゆく世界を見ていると、やがて目の前の広場に空から落ちてきたように二人が姿を表した。

 どん、と着地の衝撃ですら土地が沈下していく。よろめいた子興と肩を抱き合い転ぶのをどうにか免れた。

 背筋を伸ばして腕を組み佇んでいる九郎は全身から湧き出る強大な気迫により、あたかも巨人のように錯覚した。髪の毛は逆立ち、筋肉は盛り上がり、全身あちこちにある傷をものともしていない。

 一方で半ば砕けた刀を杖に立っている晃之介の方が怪我の消耗が激しそうであった。それでも目には怯えも諦めも浮かんでおらず、鋭い力強さを灯している。

 実際、相手にも既に何発も効果のある攻撃を叩き込んでいる。決してかの巨人も、見た目ほどに無傷ではないと晃之介は読んでいた。

 

「さあて……」


 ゆっくりと巨人は足を踏み出して、晃之介に歩み寄る。

 一歩ごとに地震が起こり、山のあちこちが爆発していく。充足した気が足から伝わり大地を揺らしているのだ。


「そろそろ終わらせるか……! 色々と楽しかったぞ」


 手を広げながら隙を見せないぐらいにしっかりとした足取りで接近してくる。

 小細工は無い。正面からの一撃を食らわせるつもりだ。軽功で高速移動の攻撃よりも回避やいなすのは難しいだろう。 

 巨人の如き気を纏い、悠然と構えた相手は如何にも強く大きな壁であり、それに対抗する武器は頼りにならないとさえ思えてしまう。

 しかしそれでも、晃之介は着地した地点──狙ってたどり着いた、武器を収めている木箱を手にした。

 呼吸を整えて宣言のように晃之介は唱えた。


「錐刀を以って──泰山をこぼつ」


 構える。

 互いの距離がゆっくりと詰まる。

 あわあわと口を動かしていた子興が、どうにか声を出した。


「晃之介さん──勝って!」


 頷きこそしなかったが、胸中で「ああ」と彼は返事をした。 

 面白げに笑みを浮かべながら近づいてくる李自成はまるで覇王のようだ。九郎の姿をしているというのに。

 距離が詰まる。先に攻撃を仕掛けるのは、やはり晃之介だ。

 

「参る!」


 晃之介は縦長の木箱を、一直線に相手に投げつけた。

 持ち方で重心を工夫することにより箱の重さを感じさせないような綺麗な投擲フォームだ。軽功とは即ち、そういった技術も含む。

 ぼ、と巨大な木塊が真正面から李自成へと迫る。当たれば常人ならば即死する威力があるだろう。

 彼は構えた。


「[九紋龍]──!」


 そういえば反乱を起こした部下にも九紋龍というあだ名の奴が居たよな、と懐かしみながら拳を木塊に放った。

 牽制の一撃から追撃の二段構えを行う拳術だ。牽制を相手がどう対応したかで、二段目の攻撃が九種類に変化する。

 木箱が本命とは思っていなかった。即座に相手は攻撃を仕掛けてくるはずだ。そう判断しての対応だった。

 

 拳が木箱を殴り砕く。中から、様々な武器が空中に散らばった。それがゆっくりと時間が引き伸ばされて見えるようだった。

 晃之介はすぐ近くまで踏み込んでいて、木箱から散った武器を次々に落ちる前に手に取り、一瞬で攻撃に出た。

 攻撃が交錯する。


 六天流弓術奥義[螺旋射]に[起風符]を加えた竜巻の射撃が始動で来る。


 それを[九紋龍]の派生技が一つ[三日月]で払うようにして受け流す。


 続けて弓を捨てる動作で流れるように六天流槍術奥義[万水戦斬]と棒術奥義[鼓木死壊]に[精水符]と[電撃符]を貼り付けた攻撃が左右から襲ってきた。


 李自成は[九紋龍]の二撃目を連撃に変化させて[五十風]と[七生]で対応していく。棒は即座に砕いたが、電撃で僅かに痺れた。


 武器を捨ててはその動作で攻撃を繋げ、六天流剣術奥義[金剛羅刹]に[氷結符]を加えた氷の斬撃が訪れた。

 

 [八十雷]で叩きつけた拳が直前の一撃で水に濡れていたこともあって一瞬で凍りつき、李自成は気を漲らせて氷を解除しながら[六道]で剣を殴り砕いた。


 更に接近した晃之介が六天流小刀術奥義[刀鋼火守]に[炎熱符]の炎を吹き上げるようにして切り裂いた。

 

 それを[一転]でかき消し、[四夜]にて武器を破壊した。


 もはや晃之介の装備は尽く砕かれた。李自成は止めとばかりに、[双極星]という左右の拳を同時に放つ一撃で仕留めようとする。


 だが、まだ彼の武器は残されている。

 隠し持っていた野太刀のような長刀。

 使っているところを見たこともあり、借りて抜こうとしても抜刀できなかったある男専用の刀。

 アカシック村雨キャリバーンⅢを晃之介は取り出した。

 九郎の運命力を形にした物質で作られた鞘に収められているその武器は、運命的に九郎しか使用できない。


 だから抜けないはずの刀を──晃之介は一息で鞘から刃を抜き放った。


 持ち手である九郎自身が、戦いの敗北を望んでいるのだろうか。ただし、その刃は輝いておらずに鈍く沈んでいる。

 九郎が使うときのように刃で相手の目を引いたり、発動させて吹き飛ばす用途では使用不能だろう。

 しかし頑丈さは折り紙つきであった。

 鞘と刃で左右から迫る李自成の拳を受け止めると、反発するように腕は大きく弾かれて隙だらけになった。運命が破壊を拒むように。

 

「[九頭竜]──!」


 歯を食いしばるような声で、残された一択。

 大きく傾いだ体を振り下ろす頭突きの一撃を李自成は選び、放ってきた。

 それに合わせて晃之介が格闘の間合いで、棒から剥ぎとった[電撃符]を握りこんだ拳を固める。


「うおおお!」


 雷の篭った拳で頭を上に殴りあげて、相手は頭部にながされた電流にて動きが止まる。

 そして、


「[昇り竜]──!」


 もう一撃、天へ拳を突き上げる打撃をすかさず放つと、巨体は浮かび上がって大きく吹き飛んだ。

 完全なる手応えがあった。相手の体は脱力し、満ちていた気も収まってぐしゃりと地面に倒れこむ。

 見ていた石燕が眼鏡を押さえながら、


「あ、あれはアッパー昇竜……!」

「師匠ちょっと黙ってて」

「はい」


 などと身も蓋もないことを口走りかけて弟子に叱られていたが。

 晃之介は全身痛む体を押さえて、倒れた相手の元へと向かった。

 地面に仰向けになり、目が半分閉じたなんとも言えない不幸な表情をしている。

 口をゆっくりと開けて、九郎は言う。


「……めっちゃ痛いのだが。己れは他人に電流を気軽に打ち込むやつを許さんことにする」

「おい九郎」


 口調が元の九郎に戻っていた。肩をこけさせて、晃之介は呆れたように尋ねた。


「いつから戻ってたんだ、お前」

「どうにかこうにか、頭の中で李自成とかいう奴を説得して引っ込ませたと思ったらいきなり晃之介に殴り飛ばされてた……」

「説得して引っ込むのか、悪霊」

「案外、餃子を引っ掛けて死んでも未練はなかったみたいでのう」

 

 体を動かそうにも痺れて上手く動けない九郎はげんなりとしながら呟いた。

 無事そうだと判断して石燕と子興が駆け寄ってくる。


「大丈夫かね九郎くん!」

「駄目だもう己れ明日あたり筋肉痛で死ぬ」

「ふふふ、なに帰ったら揉みほぐしてあげるよ!」

「お雪あたりに按摩を頼むか……」

「私が! 私が!」


 石燕が九郎の上半身を起こしてやる。盛り上げっていた筋肉も元に戻り、大人の体だが平常になっていた。

 一方で子興は晃之介の側に駆け寄り、


「あのっ、晃之介さんっ!」

「勝ったぞ、子興殿」


 満足そうな笑みを見せる晃之介に、子興は頭を下げた。


「助けてくれて、九郎っちも救ってくれて──勝ってくれてありがとうございました!」

「言っただろう。俺は、子興殿を助けるためならば誰にも負けないと」


 そして子興は泣きそうな顔で、


「その……小生、ちょっと行き遅れてて、まだ裁縫とか不得意で、すぐに嫉妬したりします」


 晃之介は俯きながら言う彼女の手を取って、返した。


「俺とそう歳は変わらないな。不得意なことは、共に学ぼう。誤解させないように俺も気をつける」


 不器用ながら誠実に、己の言葉を伝えていく。


「これから晃之介さんにご飯作ったり、一緒に笑ったり、晃之介さんを幸せにするのに、小生は力不足じゃないでしょうか……」


 不安を半分に、そう聞いた。

 小さいころが不幸だったが故に、彼女は幸せに臆病になっていた。

 いつか強い力を持つ何かが、幸せを壊しに来るのではないかという観念に囚われていたが。


「俺は君がいい。これからも君を守ろう。共に生きてくれないか、子興」


 巨人をも打ち破る強い力を持った男は、子興の顔を上げさせてそう囁いた。

 はい、と返事をしてぼろぼろになった逞しい晃之介の腕に抱かれる。

 守られるように。


 それを見ながら、九郎と石燕はどこか緩い雰囲気であった。


「ふう……どうも己れは罠に嵌められるわ洗脳されるわ殴り飛ばされるわで、いいところ無いのう」

「私など少しばかり解説しただけだよ。だがそのようなものなのだろうね」

「というと?」


 遠い目をしながら彼女は言う。


「誰かの人生の物語においては、私も九郎くんも端役に過ぎないのだよ。九郎くんにとっては日常的に発生する危機だったが、晃之介くんにとっては人生を揺るがす事件だった。だから彼と子興の物語では、今の私らの役目はこの程度さ。

 皆が自分の人生の物語を生きている。死んだ老回回も、李自成も、タマくんも房も雨次くんも名前を知らぬ誰かも全員。世界とはそんな物語の繋がりで出来ているのだ」


 石燕の言葉に、頷く代わりに九郎は目を伏せた。

 長生きした隠居老人である自分が、若者の物語に関わるのはこれぐらいの立場なのかもしれない。

 それにしっかりと、晃之介に勝負で負けてしまった。

 

(ああ、そういえば)


 子興を嫁に貰うには自分を倒せ、と晃之介に言っていたが。

 随分昔に、どうにか奔放なイリシアを落ち着かせようとして旦那を探してやろうかと思ったときも、彼女が付けた条件は「クロウより強い人」であったことを、なんとなく思い出した。

 ともあれ、これで子興も晃之介も大丈夫だろう。順当に、好い仲の男女が夫婦になる。親しい若者の新たな出発には、少しばかり心が暖かくなるようだった。

 懐かしい記憶を思い浮かべていると遠くから呼ぶ声がした。


「おーい!」

 

 息を切らせて崩れかけた山を駆け上ってくる男は、刀を手にして慌てている。


「この辺すげえ音とか響いてたけどひょっとして九郎の奴が悪堕ちして暴れてねえ!? 拙者参戦していい!?」


 影兵衛だった。

 そして戦いの後らしく倒れている九郎を見て膝をついて落ち込んだ。


「うわあああ! もう負けてんじゃねえか! 何やってんだ九郎もう一回悪堕ちしろ! 江戸城を破壊してやるとか宣言しろ!」

「しねえよ。ふむ、お主がここに来たのはいいが、しっかり捕物の人員は集めたか?」

「あっそうだ。九郎と戦えねえんじゃ仕方ねえ。また捕物に戻らねえと拙者の斬る分が……!」


 慌てて来た道を駆け戻っていく影兵衛である。遠くでは、天邪鬼党を一斉検挙する為に火盗改メが動員されていた。


「九郎くん、通報していたのかね?」

「うむ。来る途中であちこちに目印を付けておいてのう」


 と、見張りによって連絡を取るのが禁止されていた九郎であったが、こっそりとブラスレイターゼンゼを手のひらサイズで発現させてそこら中に菌類で文字を刻んで置いたのである。

 壁や木などが時間差で腐食して文字が浮き出て、それを見た者が影兵衛に伝えるように短い文面だった。

 流石に目に見えぬ菌を飛ばしメッセージを作る行為は見咎められず、道すがらあちこちに黴を目印につけて来たのであった。

 火盗改メでも追跡の際に白い砂などを置くことがあり、それと同じようなものである。

 天邪鬼党というか怪しい集団が江戸に居るという情報は予め火盗改メも持っていたので、九郎の通報を重大に受け止めて人を集めて今頃は金剛寺近くで捕物をしているだろう。


「さて、これにて一件落着……ふう、体がだるいから飛んで帰るか。石燕を連れて行くから、晃之介。お主は子興を連れて道場に戻るのだぞ」

「わかった」

「祝言の準備は私に任せておきたまえ。超速で日取りを決めて行うから袴の準備をしておくことだね! 子興も、私が祝言に相応しい秘蔵していた祝言用喪服をあげよう……!」

「そこは喪服じゃなくて白無垢をくださいよ!?」

 

 晃之介に散らばった術符とアカシック村雨キャリバーンⅢを回収させて、二人と二人は別れて帰った。


 かくして事件は解決し、天邪鬼党は多くが捕縛か斬り殺された。


 ただ一晩で消滅した飛鳥山に関して、土地の者も「昨晩雷や地鳴りが響いて山が消えた」「天狗の仕業だと思う」とだけ証言するだけで、不思議な事件として首を傾げる。


 後には小高くもない丘だけが残り、将軍吉宗はそこに桜を植えさせて江戸庶民に一般開放し、酒宴や騒ぎを行っても構わぬ場所とした。未来にも残る、桜の名所となっている……。





 ******

 

 


 その後、九郎の体も元の少年状態に戻り、協力を頼んでいた各所に挨拶を回ると同時に晃之介と子興の祝言を知らせた。

 最も早い日取りの吉日を選んだ祝言は、晃之介も子興も血の繋がった家族は居ないのだが意外なほどに各方面から人が集まることとなり、広い料亭を貸し切りにして開くことになった。


 祝言式では儀礼の一部として、花嫁は両親に嫁入りの挨拶をする。

 子興の本当の両親は居ないのだが、そこで代わりに九郎と石燕が受けることになった。

 花嫁衣装に着飾った子興を目の前に、珍しく袴を着た九郎と非常に珍しく喪服ではない石燕が座っている。


「似合っておるのう。綺麗だぞ子興や」 

「この姿を見て行き遅れかけだとは誰も思うまいよ」


 和やかにそう告げてくる二人に、子興は満面の笑みを浮かべた。 


「それじゃあ、お父さんとお母さん、お嫁に行ってきます」

「うん。子興。ちょっとおいで」


 石燕は手招きをして子興を近寄らせると、彼女の頭をそっと抱いた。


「これまでお前に教えた家事を、今度は自分と旦那を幸せにするために使いなさい。笑って、泣いて、喧嘩してもどんなときでも自分で幸せの物語を探して選ぶこと。元気でね……私の自慢の娘だ、お前は」

「……あ、ありが、とう。師匠……お姉ちゃん……お母さん……」


 子興は、暖かさと一緒に想像もしていなかった寂しさを感じた。

 仮初でも家族で居てくれていた石燕と、今日この日に別れる。家族ではなくなるのだ。別の家に行くとは、そういうことだ。

 だがそれでも子興は選んで前に進むのである。怖がっていた過去を振り切り、手を引いてくれる彼と共に。

 ゆっくりと石燕から今度は九郎に子興の体を預けさせる。

 石燕に比べれば共に過ごしていたのはずっと短い期間ではあるが、不思議な馴染みがある相手であった。

 苦笑しながら、


「風邪など引かぬようにな。晃之介は良い奴だ。浮気などしたら、己れがぶっ飛ばしてやるからすぐに告げ口をしろよ」

「うん、ありがとう。おでこ、大丈夫?」


 殴られた額を気にして、顔を上げた子興と九郎の頭が、触れ合った。

 


 魂が混線する。



 子興と混じり合っていた魔女イリシアの魂が、九郎の胸に触れた気がした。

 熱が九郎の魂に刻まれた、[存在]の術式に掛けられた封印を溶かしていく。

 

「あ……」


 そうか、と九郎は察しながら、涙をこぼした。

 妙に親しみを感じていたのも、どこか父親役が馴染んだのもそれが原因だったのかもしれない。

 今日[彼女]は嫁に行く。

 それを実感して、九郎は涙を流した。

 子興も目から涙が止まらずに、化粧を落としながらこみ上げつつ言う。


「お、とう、さん……わたし、幸せになるね……!」

「ああ……」


 そして、彼女は自ら幸せを選んでくれた。



 祝言で三三九度を取り、盃の酒を飲み干す晃之介と子興。

 それを見ながらも九郎は笑顔で泣いていた。

 

(おめでとう、子興)


(ありがとう、イリシア)


 二人の娘にそう告げて、祈った。



「幸せに、なるんだぞ……」



 いつものどこか疲れたような笑みではなく。

 掛け値なしの、救われた笑顔の九郎であった……。





 ******





 祝言は長く続く。新郎新婦が退席しても、集まった五十人近い関係者は呑み会を続けるのが普通であった。

 二日三日と祝言の宴会が続くのも珍しくはない。

 その途中で、九郎はひっそりと料亭から出て行った。


 通りにある提灯を付けた小さな屋台に入り、酒を頼む。


「熱燗を頼む」

「はい! ウォッカの熱燗だよ! おでんは何にしとく? キャビア?」

「……なんでお主が居るのかは、めでたいから今はいいか」


 特徴的な虹色の髪色をした店主が注いだ、猪口に入れたホットウォッカを口にして熱い息を吐き出す。

 口の中がじんじんとして耳の裏が熱い。だが、心地良い気分だった。


「くーちゃん、いい顔してるね」

「そうか? まあ、そうだな」


 ウォッカを飲みながら言う。


「三十年背負っていた荷を下ろした気分だ。半分だがのう。もう下ろすことができないかと思っていた、厄介だが大事な荷物だ。それを必要としてくれる者に渡せた」

「うん、うん」

「己れの旅は無駄などではなかった……生まれ変わりとはいえ、イリシアは幸せになれたのだな……」

「よかったねえ。はいくーちゃん。おでんにコンニャクは入れ忘れたけどコニャックは用意してるよ熱燗で」

「うむ……」

 

 勧められるままにぐびぐびと度数の高い酒を呑む。

 おでん皿に入れられたキャビアとナタデココとギンギーをつまんで食べた。作者の体験からいうと、ナタデココおでんはかなり合う。


「ま、我もこっちの世界に魂を送った甲斐があったってなもんだね。ただ魂の特性上、どうも不幸な生まれになったけど。あのエロショタも捨て子で物心付いてから菊売り生活だったし」

「そうだのう」

「悪意は上手いこと浄化されたのかな? ショタにはいーちゃんのエロ部分、猫耳巨女にはいーちゃんのポンコツ部分が見られる……いやあ実をいうと魂分割したのはちょっとやってみたかっただけなんだよね実験で。テヘペロ」

「そうか」

「……? くーちゃん、ちゅーしていい?」

「いいぞー」

「うわ酔ってる!?」


 九郎が見たこと無いぐらい顔を赤くしてうつらうつらとしながら、適当に相槌を売っているのにヨグは気づいた。

 

「あー……疫病風装着てない上に、体調を整える術式の封印が緩んでいるまま祝言で酒を呑んでここに来て熱燗ウォッカとか呑んでたから一気に回ってきたんだねヨッシャ」

「何がヨッシャだー?」


 尋ねる九郎の目は半分以上閉じかかっている。

 探し求めていたイリシアの転生体を見つけ、そしてそれが嫁に行くという出来事も彼のガードを緩くしているのだろう。

 こんな日ぐらい彼も酒に酔いたいのだ。幸せな酩酊に陥っている彼を誰が責められようか。

 しかしヨグは思う。

 これはいい。

 遊んで撮影とかしてやろう。

 ヨグはそう考えて邪悪に瞳を光らせた。

 しかしおでん屋台に別の客が、九郎を挟むように座って現れた。


「おや九郎くん会場を抜けだしたと思ったらこんなところで酔っ払ってふふふ」

「こいつはいけねぇ。随分と、酔っていらっしゃるようだ」


 石燕と将翁である。熟女軍団の登場にヨグは「げ」と声を出した。

 人が遊ぼうと思ったら面倒な。まあいい酔い潰すかと湯のみになみなみと熱燗ウォッカを注いで出した。


「ぬうっ……店員さん凄い酒精の揮発臭が」

「こりゃまた、変わった酒で」

「ほらほら。おめでたいらしいから我の奢りだよ呑みなよ」


 ニコニコとしながら勧めると、九郎は己の猪口をヨグに差し出した。


「お主も呑め。イリシアの門出だー」

「ええっ? いや我はちょっと呑むと吐くタイプだし」

「ほれこっち来い。膝に座っていいから」

「うわ酔って我を子供扱いし始めた……だが悪くない」

「むっ。店員さんおかわり」

「あたしゃ別の酒があればそっちも」

「はいはいセルフサービスだよっ」


 そうして、ひっそりと目立たぬ異世界屋台では暫く高濃度な酒宴が開かれていた……。




 翌日。

 九郎が痛む頭を押さえて目覚めると、自分の部屋であった。

 かなり記憶が飛んでいたが、何やらヨグと呑んだ記憶がある。そのままどうにか部屋に戻ってきてぶっ倒れたのだろう。部屋の中では、何故か石燕と将翁も寝ていた。

 

「ぬう……なんか知らんが口の中がゲロ臭い……吐いてないよな己れ」


 周囲を見回して吐瀉物を探すが、幸いなかった。

 あったならばお房に怒られるところである。

 そうしていると障子が開いて、お房が部屋に入ってきた。


「換気換気。あら? 九郎起きたの」

「おう……」

「うーん? 昨晩は異人さんが居なかったかしら。髪の色ピッカピカの」

「気のせいだろう……」


 適当に返事して転がっていた湯のみに精水符で水を作って呑む。気持ちが悪かった。

 お房は窓を開けて部屋を風通しよくさせて、寝ている将翁と石燕の上に適当に布団を掛けた。

 そして出て行く前に足を止めて振り返り、ジト目で九郎に告げる。


「それと九郎。酔っ払うと誰彼構わずちゅーするのは大勢居る所だと止めたほうがいいの」 

「ぶはっ!?」


 吐き出した。記憶にさっぱりなかった。そこはかとなく幸せそうな顔で寝ている二人と、口に残るゲロの後味で思わず自分の口元を拭う。

 積極的にしたとは思いたくないが、どうでもいい感じで求められてやったようなやってないような、とにかく覚えがなかった。

 お房は口元に指を当てて、


「約束なの」


 そう告げて一階へ降りていくようだった。九郎は冷や汗をだらだらと起きたばかりなのに背中に掻く。まさかお房にやってないだろうな?

 

 気を揉んでいた娘イリシアの問題が祝言という形で解決しつつも。


 九郎を取り巻く女性関係は絡まりあったヒモのように、続いていくのであった……。






「ぃやっばい……くーちゃんのアレ凄い……麻薬レベルでヤバイ……♥♥♥」


 悶々としながら、思い出すだけでしとどに濡れるほどヨダレが出てしまう。

自分の世界に引き篭もった魔王は暫くまともに顔を見て会話できなかったという。





 *******




「あー、今日は何の仕事するかなー」


 江戸の市中では定職についていない者は数多く存在する。

 労働者は全国から余るほど集まるこの街では些細な仕事が幾らでも存在し、要領さえ良ければ昨日野菜売り、今日荷物運び、明日は医者などと職を自由に変えられる。

 二十代の彼はそんなどこにでもいる、さして特徴も無い男だった。


 ちり紙拾いもやった。

 荷車押しもやった。

 にわか船頭もやった。

 ポン引きもやった。

 ウズラ売りもやった。

 煙管洗いもやった。

 蝋燭の蝋集めもやった。

 鏡磨きもやった。

 箒の下取りもやった。

 盗人の真似事までやった。


 そんなこんなで生きている一人だ。

 今日は何をして生活賃金を稼ごうとかと気だるげに考えている。

 日毎に仕事を変えても、何も変わらぬ昨日から退屈な明日へと日々を過ごしていた。

 

「おう、朝蔵。元気にしておるか」


 声が掛けられて振り向くと、江戸の一界隈で有名な男が居た。


「あっ九郎の若旦那、お疲れ様でやんす」


 最初に出会ったのは道場主である晃之介を襲い、返り討ちにあったことからだ。

 江戸中でお互いにウロウロしているのだから、時には彼のお助け屋に情報提供などをしたりしている関係だ。

 九郎は近づいてきてにこやかに言う。


「暇をしておるか?」

「へえ。まあいつも仕事を探しては辞めの毎日で」

「そうか。なら今日は己れの仕事を手伝って貰おう」


 九郎は朝蔵の肩に手をやって、僅かに笑いを込めた声で言う。


「『たまにはまともな』人助けがしたいのであろう?」

「……!? な、なにがなにやら」


 まさか、と彼は思う。

 バレているはずはない。背丈こそ変えられないが、顔を隠す技術は忍びの間でも共通に持っている技で決して覆面の上からわからないように輪郭を変えていた。声だって知り合いだったからなお、意識して変化させていたはずだ。

 

「目には見えぬ目印をこっそりとつけていてな。まあ、今更どうとは言わんが暇してるならたまには手伝って貰うぞ」


 そう言って九郎は朝蔵の首元を叩きながら、そこに植え付けた発症しても無害な病原菌を回収した。

 脂汗を掻いて動揺している、忍びの朝蔵に告げる。



「さあ、いつもと変わらぬ日常の為に、行くとしよう。精々のんびりとな」






 ********





 彼の人生の物語。

 彼女の人生の物語。

 誰かの人生という物語。


 百話語っても尽きることのない、自分だけの物語が誰かと繋がり合い世界を作っていく。

 

 これからも多くの事件が起こりそれを解決し、旨い料理を味わって酒を飲み交わし、人と人とを繋げていく。


 そんな九郎の物語は長く続いていくことになる───。



 




 異世界から帰ったら江戸なのである



 <第一部完>


 



 俺達の江戸はこれからだ!

 ご愛読ありがとうございました!

 本日書籍三巻(完結)発売と同時にドワオワリ!

 具体的なあとがきは活動報告にて

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