117話『罠』
人は誰も自らが手にした力を最強だと思わなくては極みに達せない。
それは傲慢ではなく、修練の誓いだ。
己が習う流派こそが、そしてそれを極めた自分こそが最も強き武人となる。
そう信じられないのならば、きっとその者は今持つ力を活かせないだろう。
剣。小刀。槍。棒。弓。拳。そしてそれらに投擲を加える。
どれか一つではなく、多くの武芸を身につけることで総合戦闘力を高めることを目指した六天流。
五段階で能力の巧拙を表した際に。
拳の能力が五の相手に対して。
剣足す小刀足す槍足す棒足す弓足す拳──。
そうして、六の力で打ち勝つ為に生まれた武芸。
その正統後継者である録山晃之介は、今日も己を研鑽する。
******
認めよう、と晃之介は思った。
道場で木剣を持って練習稽古をしている相手は、少なくとも剣術に於いて五どころではない能力を持っている。
一合、相手の攻撃を受け止めただけでそれは察することができた。
火付盗賊改方同心、[切り裂き]の中山影兵衛。
兇暴な眼光で口元に笑みを浮かべたまま、晴眼に構えている相手の木剣は強大さへの錯覚から、敵の体を覆い隠すほど大きく見えた。
判断を肯定する。
まず間違いなく、影兵衛は剣術に於いて晃之介より高みにある。
晃之介とて剣の腕前は一流であった。彼より強い者は、江戸にも居るには居るがその力量差は測れる。剣術に於いても更なる向上を目指している晃之介は素直に自分より強者を認めつつ、そこに至ろうと鍛錬を行っている。
だが、ここまで圧倒的な剣術使いは出会ったことがない。
以前に相まみえたときは相撲であった。殴り合い、組み合いの素手だ。そこでの実力差は伯仲していたが、剣となるとわけが違うようであった。
「やるねぇ……兄ちゃんセンセイよォ!」
相手が面白げに笑みを浮かべながら再び踏み込んでくる。
飛来する矢を見切る晃之介の動体視力を持ってしても、一歩は知覚を惑わされる。そのような恐るべき速さの足さばきだ。
横薙ぎに振るわれた木剣はまるで長巻の一撃と等しく、力強く伸びてきた。
晃之介は木剣を縦にして受け止める。
受け止める剣にも注意が必要で、軽く握っていては弾き飛ばされ、固く握っていては木剣ごと切り落とされる威力である。
そうしないために、[ねばり]とでも云うような丹田と接地している踵から込めた力で、凌ぎ返さねばならない。
激突音。
互いの木剣が歪む威力だ。
晃之介は背中に汗をびっしょりと掻いていることを自覚した。一撃を受け止めるだけで、体力を持っていかれる。
同時に、影兵衛を踏み込ませないようにじわじわと体捌きをして気迫で圧を掛ける。
剣士としてではなく、武芸者としての本能が冷静な判断を強いてくる。
不利な武器で戦うな。有利な間合いに持っていけ。
だが現実として、今は剣以外持っていないのだ。互いに、剣での試合を望んだのだから。
全ての武器を使いこなせば、拳一つで皇帝になるような相手にすら勝利できる。
(しかし武器が一つではそこらの達人に劣るか……!)
そこらの達人、という領域でもお互いにないのだが相対的に見れば、晃之介程度の扱う剣術は影兵衛にとって刈り取る獲物の抵抗だ。
影兵衛の自然な構えから唐突に伸びてきた木剣。それが片手平突きだと考えるより先に体が動く。
首筋ではなく胸を狙う一撃。
先端が空気を蒸発させるような、白い雲が一瞬浮かぶ速度だ。
左右背後、避けられるものではない。
受け止め──否。線ではなく点の攻撃を木剣の腹で受け止めては砕け散ることは必死。
(ならば!)
と、構えを変えて己の持つ木剣の手元──柄頭の部分で先端を受けて、突きを逸らそうとした。
槍や棒で石突を使うように見事に合わせて、平らな部分で木剣を止め───
刹那の拮抗の後で即座に晃之介は木剣から手を離した。
同時に、突きを受け止めた木剣が縦に真っ二つに裂けて分かれたのである。
相手の構えた木剣を、横に断ち切る芸当は晃之介もできるが。
突きで縦に開くのは如何な切れ味が、相手の木剣に込められているというのか。
離さずに持っていた場合、握り手にもその切断力が伝播しなかったとは限らない。少なくとも、威力で体勢を崩すかはしただろう。
驚愕しつつも六天流は武器を手放すこと前提である。
故に、平突きからの払う一撃を身を屈めて回避することに成功した。
這う様に地面に体を下げた晃之介は影兵衛の表情に凶悪さが増したのを感じた。
「ちょいさァ!!」
薙ぎ払いの蹴り足が迫る。影兵衛のつま先を相手の体に打ち込む蹴りは、刃物と同等の破壊力を持ち木の壁ぐらいならば容易く突き破る。
受け止めれば吹き飛ぶ。
そう判断した晃之介が絶妙の腕遣いで、蹴りを受け流した。
流しながらも勢いを己の体術に変換し、掃腿の水面蹴りで影兵衛の軸足を狙う。
「あらよっと!」
それを飛び上がって避けた影兵衛が空中で大上段に構え直した木剣を、落下と同時に振り下ろした。
幸いしたのは跳躍中だったので振る範囲に制限が生まれ、普通に地上で構えて打つより僅かに攻撃の到達が遅れたことだ。
影兵衛の脅威である神速と変幻自在が発揮されないことが晃之介が寸前に転がり間合いから離脱するのを成功させた。
立ち上がるが、手を伸ばした影兵衛が晃之介の胸元に木剣を突き付けていた。
「どうだい? ここからやれるか」
「……参った」
晃之介は悔しさを滲ませて降参をした。
木剣は破壊され、他の武器を取るにもこの距離を詰められていては不可能だ。最初から全て装備していれば別だが、取りに行く前に影兵衛に切り倒される。
少なくとも、剣術──に、組み打ちを合わせた武芸──では、影兵衛に完敗のようだった。
「いやいや、最近は若ェのが強くなってておじさん嬉しいぜ~」
木剣を肩に担いで影兵衛は上機嫌そうに云う。
「兄ちゃんセンセイも本気はアレだろ? 弓とか槍とか同時に使うんだろ?」
「ああ」
「くゥ~……槍で殺りあいたいってか、ぶっ殺しあいしてえところだけどなァ! そこまで本気でやり合うとあれだろ。もう完全にお互いどっちか死ぬまで止めらんねえもんなァ」
「恐らくは影兵衛殿を相手に手加減は不可能だろうな。そのときは六天流の必殺技を駆使せねばなるまい」
道場試合では使えない技は幾らでもあるし、全力の武装ではなかったが──。
それでも勝てると確信できないぐらいに、影兵衛は底知れぬ力を持っていると晃之介は感じていた。
「必殺技! それよ! ああ……心躍る響きだ……然し然し然ーし……非常に残念なことながら、拙者ァ九郎との約束で悪人以外は襲わないようにしてんだ……不自由を強いられた可哀想な拙者……でも勝負で負けたんだから仕方ねえか……」
「約束するまでもなく法の範疇だと思うが……」
「なあ兄ちゃん、ちょいと悪事に手を染める予定とかねえ? 完全武装で奉行所を襲ったりとか」
「……しないぞ?」
九郎を襲って返り討ちにあったことで一応の分別を制限された影兵衛が物欲しげな顔で物騒なことを聞いた。
若干ながら晃之介もこれまでの生き方に後ろ黒いことが無くはなかったので口ごもったが。関所破りぐらいはしたことがある。
「だが九郎はよく影兵衛殿に勝てたな……」
酒の席で九郎から、影兵衛が殺し合いを挑んできてどうにか殴り倒したことは聞いていたが、実際に影兵衛と相対するとそれがどれだけ異常なことか実感できた。
影兵衛はにへっと笑って云う。
「兄ちゃんはあれか。まだ九郎と殺し合いはしたことないか」
「殴り合いと稽古ならば何度も行っているが、普通知り合いと殺し合いはしないだろ……」
「おいおい、いいか火盗改メの同心だから云うが世間の殺人事件は九割が知り合いの犯行だぜ?」
「それはそうかもしれないが」
知人に決闘を挑むこととは別な気がしなくもない。
影兵衛は思い出すようにして、楽しげに告げる。
「機会があったらやってみるといいぜ、九郎と殺し合いをよ。鍛えて慣れて強くなって、忘れちまった理不尽さを思い出せる」
「理不尽さ?」
「拙者とか兄ちゃんもそうだろう? 強くなっちまうと当然になっちまう感覚がある。相手を倒せて当然。攻撃を受けられて当然。相手が回避をしたり反撃をしたり奇襲を仕掛けてきたりするのも、驚きこそするが[然り]と対応できるようになる。
九郎の奴ァ技と術の強さは大したことはないわな。だがしかし、あいつは致命的な瞬間に不気味なぐらい読みを当ててきて、偶然の幸運を成功させまくる。確変出しまくりの理不尽野郎だ」
なるほど、と納得することが晃之介にもあった。
九郎と組手をしていて完全に勘によって攻撃が封じられたことが何度かある。九郎自身は年の功だと云っていたが、似たようなものだ。
「切った張ったなんざ、達人がくしゃみした隙に頭を叩き割られるみたいな実力差も関係なくなる瞬間は確かにある。だけどその理不尽を切りてえよなあ……
九郎とまた殺し合いしたいところだが、うちの嫁に二人目のガキが出来てて家庭円満中だから喧嘩して怪我したらすげえ怒られる」
「強い者を殺したがりすぎる……」
「まったく、これじゃ拙者ァ口ばっかの日和兵衛だぜ。あークソ強い悪党とかまた出てこねえかなもしくは九郎悪堕ちしねえかな」
そう言って影兵衛は、ぶらりと非番の日に立ち寄った道場から去っていった。なお賞金はしっかり貰って行った。
負けたが、得たものはある。鍛錬であれほどの殺意をぶつけられることは、父と稽古していたとき以来だ。
次は勝とう。そう思う度に六天流は強くなる。力量が下の者が、上の者へと並び立つことがこの流派なのだから。
六天流は死なないことを第一に置く。
負けを認めても死なないこと。逃げても死なないこと。そして生きて再び鍛え直すこと。
最強に至るには多くの挫折を学ぶ必要がある。だが諦めずに進み続ければ天を抜く力を得るだろう。そう信じている。
********
「うっへー……薪をナタで割った見てえに木剣が真っ二つだぜ」
道場に座って影兵衛との試合を省みながら瞑想をしていると、外に出ていたお七が帰ってきたようだった。上がり込んで影兵衛に切られた木剣を取って感嘆の声を上げている。
子興と一緒に近くの湯屋へと出かけていたのである。お七はほっとくと風呂に入らないために、連れて行くのは子興の役目だった。子興が来るまでは晃之介が行っていたが、今は彼女に任せて晃之介自身は裏の井戸で水を浴びている。
一人で先に帰ってきているのは単にお七の足が早いからだろう。
「強い客が来ていてな、まったく木剣だというのにどうなっているんだか」
「へえー勝ったのか?」
「いや、負けた」
「……師父、微妙に負けが込んでるよな。九郎の兄ちゃんとかにも」
「ぐっ……」
九郎に明確に負けたのは彼が大人形態になっているときぐらいだったが、負けは負けだ。
未だに再戦を果たせずに居る。思わず、彼も将翁に九郎を大人にする薬代をカンパしたぐらいだった。「くく……確かにオトナにする依頼は受けました、よ」と何故か怪しく笑っていたが。
「落ち込むなって。師父が強えことはみんな知ってるから。ほら饅頭でも食え」
ひょいと投げてきた饅頭を受け取って晃之介はまじまじと見た。
「また子興殿にねだって買ってもらったのか?」
「いやいや、これはあたしが湯屋で稼いできた金で買ったものだぜ」
「……置き引きじゃないだろうな」
「それしたら師父が滝から突き落としたりするだろ。修行とか言って」
「ははは、何を言ってるんだお七。滝の次の段階に行くに決まってるだろう」
「次?」
「崖から突き落とす」
「死ぬぜ!?」
自分は落とされても死ななかったから大丈夫だろうと思いつつも、やっぱりかなり痛かったから制裁程度に使ってはいいかとかなり間違った判断をしている晃之介であった。
なお彼が子供の頃にその崖から落とされる訓練を生き延びて、父親もやったのかと聞いたらかなり言葉を濁していたことは覚えていない。
「三助の真似事でな。有料で風呂入りに来てた女達の毛饅頭の毛を整えてやってた。子興の姉ちゃんにもやったな」
「毛……饅頭?」
「あれのことだよ。おま」
言いかけた瞬間に筆舌に尽くしがたい叫びを上げて子興が道場に駆け込んできた。
茹だった蛸のように顔を赤らめている子興はお七の口に手を突っ込んで黙らせて、
「いーうーなー!」
もごもごとそれでも笑いながら言おうとするお七に、子興は緩く巻いた着物の中に手を突っ込んで脇などをぐりぐりと弄ってやった。
咳き込むようにくすぐられたこそばゆさから悶えるお七はやがて酸欠になって肩で息をした。
口から引きぬいた手は、風呂に入ってきたばかりだというのに涎と歯型まみれになった。
「まったく、この子は……!」
「子興殿?」
「こ、晃之介さん別になんでもないんですよう?」
晃之介は真顔で、
「毛饅頭とはなんだろうか」
純朴ーという音と共に後光が差さんばかりに純な表情で聞いてくる晃之介に、子興は手を翳して後光から目を逸らした。
この男、一緒に暮らして彼女は気づいたのだがかなり性に疎い。
子供の頃から父親に連れられて修行の旅をしていた。思春期に側に居たのが、熊のような体格で熊のように全身毛深く熊のような叫びをあげる武芸者だったのだから、付き合わされた少年が女性に免疫がつかなくとも不思議ではない。
女遊びというか美人に見惚れることはあり、酌を受ける店などに行ったことはあるのだったがその程度で女を買ったことも無い。
だがこうして童貞力高い憧れの男性に真顔で聞かれると、自分が汚れてるような気がして子興は目が泳いだ。
「よもっ蓬饅頭じゃないですかね」
「そうか。俺も好きだ、毛饅頭」
「晃之介さんの助平!」
「なんでだ……」
反射的に言って後悔した。とにかく、彼はまったく疚しい気持ちがない。清々しいぐらいにない。
というか普通の男性ならば気になる女と同棲したらもっとこうアクションがあるものだが、子興は実に誠実に対応されていた。
義理の姉とか親戚の娘が泊まっているかの如くだ。
「いや、まあ子興姉ちゃんにはともかく師父が助平ってのは間違ってないような」
「お七」
「ブン屋の姉ちゃんと会話するとき顔じゃなくて胸に話しかけてるぐらいで」
「晃之介さん!」
「誤解だ!」
叫んだが、晃之介はブン屋の姉ちゃんことお花をぱっと思い出したら胸部が最初に思い浮かんで自己嫌悪した。
実はお花の忍法視線誘導の術が使われているのだが、男の九割以上はこの術に掛かっても自らの視線が意図的に歪められていることに気づかない。忍者頭の甚八丸も「女はみんなイケない忍法使いなのさ」と言いながら己の胸筋を使って娘に術を教えたりしていた。
「ううう、やっぱりこうなったら小生自身が巨女になって最強の巨乳に……」
「ほら変な方向にこじらせてるぜ」
壁の方を向きながら呻いている子興を見てヒソヒソと二人は相談しあう。
「どうすればいいんだ」
「とりあえず女の愚痴を聞いて頷いとけばそのうち治るだろ。[相槌さしすせそ]を使うんだぜ」
「[相槌さしすせそ]?」
お七は頷き、応える。
「さようだな。
しかたないことだ。
すごくわかる。
背、伸びた?
蘇民将来」
「蘇民将来!? というか背のあたりから適当だろ!」
「バレたか。きひひっ」
舌を出して笑うお七だったが、
「とにかく話でもしてりゃいいんだよ。ほら」
「わかった」
困ったように晃之介は子興の側に行って座り、彼女に話しかけた。
「子興殿少しいいか?」
「うう、どうぞ」
「子興殿は巨女にこだわりがあるようだが、何か理由が?」
彼女の鉄板ネタがネコと巨女であり、巨女はブームが来ないのでそこそこだったが猫画を描く依頼はそれなりに受けていた。
猫の絵はネズミ避けになると信仰があり、一般家庭から農家、市場に養蚕業者まで様々に需要があったのである。
その場合は多くが版画ではなく一品物で注文を受けるので絵師の儲けも大きい。
子興は目をぱちぱちとさせて、
「あ、その質問前に師匠からされて分析されたんです」
「左様か」
そして懐かしむように、
「昔の小生はちっちゃくて弱くて、大きなオトナにあっちこっち連れ回されて怖がってたんです。だから小生が大きかったら、こんな恐ろしい気持ちにならないのになって」
「……仕方ないことだな」
「子供の頃ってなんでも大人以上に大きく見えますよね。だからずっと大きい、見越し入道とかだいだらぼっちとか、それぐらい大きかったらなーって。
でも師匠は小生と会ったときに、しゃがんで同じ目線になって言ってくれたんですよ。『もう大丈夫だ。君はもう一生分怖がって泣いただろう。だから後は幸せになるだけだ』って。
それから師匠に絵の技術を叩きこまれたり、家事を教えられて押し付けられたり、酔って絡まれたり粗相した師匠の介護をしたりしましたけど……うん、師匠に合ってからは、不幸せじゃなくなったなあ」
「子興殿の楽しそうな様子を見れば……凄くわかるな」
くすりと笑いながら、
「九郎っちも突然ある日師匠と知り合いになってやってきたんだけどすぐに馴染んで。小生も妙に親しみを感じるなーと思ってたらお父さんに似てたんですね。
小生のお父さん、女誑しで宿六で酔っぱらいな侍の風下にも置けない人だったけど、小生には優しいお父さんだったから。体の大きな、守ってくれる巨人の印象ってお父さんだったんだなって。
あんな九郎っち若作りしてるのにお父さんみたいって云うのは変だけど……暖かくてちょっとだらしないのを師匠と補い合ってて、二人は小生の憧れで」
「いや、そうだな。九郎は頼りになるやつだ。背も伸びるし」
染み染みと晃之介は頷いた。
実年齢は九十五、六というが、彼に兄や父のような面影を感じる者は少なくない。
普段の生活には時折目を覆いたくなるズレた行動を取ることがあるが、面倒見の良さは誰もが知っている。
そして、実感する。
本当に子興は、石燕と九郎を大事な家族のように思っているのだと。
だから、
「子興殿」
「はぁい?」
「その……もしよければ、俺も頼ってくれて構わない」
晃之介は自分の胸をどんと叩いて、告げる。
「如何なる巨人が貴女を怖がらせようが、俺が必ず駆けつける。石燕殿や九郎のように心の在処にはなれないかもしれないが、貴女を守る。そのときは誰にも負けないと誓おう」
「こ、晃之介さん、ええと、その……」
子興は真正面からそう言われて、顔を俯かせもごもごと何が呻いて、
「か、か、考えておきますー! うひゃあああ!」
「あっ恥ずかしさのあまりに逃げた」
子興はドタバタと顔を押さえながら道場を出て行った。
関係が遅々として進まないのは晃之介の純朴さだけではなく、二枚目に迫られたら凄まじく照れる子興の性格もあるのだろう。
逃げる彼女に手を伸ばして掴みかけたが、晃之介の腕は空を切って取り逃す。
「だ、大丈夫だっただろうか」
「もう祝言挙げちゃえば?」
「それはいかん。男の約束だ。九郎を倒すまではな」
「へいへい。ま、姉ちゃんもすぐに帰ってくるだろ……あ、蘇民将来蘇民将来」
「無理やりいれるな」
********
さて──それからとある日。
この所、九郎はとある意味不明な事件の解決に奔走していた。
石燕や将翁などとも協力して事にあたっているのだが、解決の目処は立っていない。
市中の事に疎い晃之介は柳河藩に出稽古をした帰りに九郎が茶屋で難しげな顔をしているのを見つけて声を掛けた。
「どうした、九郎。こんなところで」
「晃之介か」
彼は説明に少し悩んで、こう告げる。
「実は今、江戸の街を影から支配しようとする謎の組織について調べておってな」
「おお……なんだそれは。やけに大きな話だな」
「うむ。あれだ」
あっさりと頷いて九郎が指差した先には、暖簾の掛かった店があった。
「[蕎麦処府]……?」
正しくは縦書きで暖簾にこうある。
う 蕎 う
ま 麦 ま
い 処 い
府
左右に書かれた特徴まで入れて形容するならば、[蕎麦処府うまいうまい]であろうか。
晃之介は首を傾げて云う。
「見たところ変哲もない蕎麦屋だが……どこかで食べたこともある気がする店名だな。場所はここじゃなかったはずだが暖簾分けか?」
「それなのだ」
九郎はうんざりとしながら怪異の説明をした。
「良いか。ここ数日調べまくったのだが──およそ、江戸の蕎麦屋の五割があの蕎麦処の暖簾を掛けておるのだ」
「……なに?」
晃之介はゆっくりと九郎の言葉を咀嚼して飲み込み、改めて確認した。
「江戸の街に何件あるか知らんが、千件あるとしてそのうち五百件はあの蕎麦処だと?」
「そう。ある日突然──というわけではないのだが、じわじわと感染するように増えだしてのう」
「増えたって……」
想像が付かないが、九郎は怪談を話すような声音で云う。
「蕎麦屋自体はもともとそこにあったものなのだ。しかし、中の主人も気づかないうちにいつの間にやら蕎麦処の暖簾が何者かに設置されていった。
不審に思ったり不気味に感じた主人は外させて捨てたが、ズボラな店はそのまま放置した。なにせ、特徴らしい特徴がない暖簾だからのう。蕎麦屋ではあってもおかしくない。
中には暖簾自体もなかった蕎麦屋もあったから、都合よく手に入ったと喜んだ例もある」
「謎だな……」
「謎が深まるのはこれからだ。その暖簾を外して処分した蕎麦屋に、再び同じ蕎麦処の暖簾が付けられたのだ。それを捨ててもまたいつの間にか暖簾が……!」
朝起きて店を開けたら、捨てたはずの暖簾が。
そこまで来ると確かに怪談のようだった。晃之介はごくりと唾を飲み込んで、茶屋の正面にある[蕎麦処府うまいうまい]の暖簾が掛かった店を見直す。
「何度か繰り返されるうちに、しっかり自分の店の暖簾にこだわっているか意地になって張り合っているかの店以外は殆どがあの暖簾を諦めて受け入れてしまった。
なにせ特徴が無い、ただ蕎麦屋であることとうまいうまいという言葉しか書かれておらぬからな。不気味ではあるが、あっても変ではない」
「……まったくわからん。その犯人とやらは何の得があってやるんだ?」
「己れもわからん。暖簾はそういい素材ではないがタダではないし、付け替える人足も必要だろう。まさか単独でやっておるわけではない」
「目撃情報とかは」
「出ておらぬのだ。どの店も『気がついたら付いていた』だな。中には夜通し見張っていたが現れず、見張りをやめた途端に付けられた場所もある」
あちこちの蕎麦処と化した店を訪ねて聞きこみをしてみたのだが、有力な情報は得られなかった。
「最初は宣伝かと思ったのだ。[蕎麦処府うまいうまい]という本店があって、そこの名を知らしめるために……とか」
「だがこうしてあちこちに同じ店の暖簾にしては、本店も何もわからないだろう」
「うむ。己れも探しまわってみたがそれらしい店はなかった。同心どもに相談したら事件でもなんでもないとか、もっと凶悪犯の情報を寄越せとかまるで関わる気は無いようだ」
「それなのに九郎はどうして調査しているんだ?」
「うむ。この蕎麦屋を無差別に狙った犯行だが……うちの店にだけは暖簾が来ておらぬのだ」
「……蕎麦屋と思われていないんじゃ」
「馬鹿者。最近は蕎麦も旨くなってきたのだ──お雪が打つから」
六科の関わる部分が減るとその分味が向上する緑のむじな亭の蕎麦である。
それでもお雪と祝言を上げてからは二人の共同作業を行うのがほぼ毎日になったので、動作の繰り返し最適化は機能してそこそこ上達しているのだが。
「まずフサ子から『うちだけ標的になってない理由がわからなくて気味が悪い』と云った。
将翁は『言霊を使った呪術の類かもしれない』と確信は無いようだが推測している。
そして石燕が『なにか悪い予感がする』と云うのでな。特に石燕の予感は当たるから調べに出ておるのだ」
「……わかった。どこまで役に立つかわからんが、俺も手を貸そう」
「すまんな。アテのない調査というのは一人でやっていてしんどいものがある」
名前は何の変哲もない[蕎麦処府うまいうまい]。
実体はようとして知れず、目的も不明な感染する暖簾。
その謎を探るために、こうして二人は捜査に乗り出したのであった。
九郎と晃之介。
その二人が市中へと繰り出して形のない何かを探るという行動に出たのを待っていたかのように──事件は起きたのである。
同日に鳥山石燕と百川子興の二人が行方不明になった──。
<続く>
シリアス編
次回は急展開
12月26日に書籍三巻発売です




