114話『とある日常の一幕:魚を食べよう』
「ふむ」
九郎は着流しを羽織り、裾元を腰で纏めて下は黒い股引を履いているいつもの姿に着替えた。
部屋の中である。体を揺らすように軽く歩き、音を立てぬよう僅かに飛び跳ねてみた。
つい昨日、体が十歳児程に縮んだので改めて元に戻った体の具合を確かめているのだ。元に、というのも九十も後半な年齢の九郎からすればおかしな話だが、この十代半ばな少年型でもう三十年も過ごしているのだから人生で一番馴染んでいる体といえよう。
「なるほど……少し頼りない感じがしたが、動きやすくてすっきりとしておるな。悪くない」
と、云うのは僅かに変わった体のバランスであった。
具体的にいうと股間にぶら下がる息子の大きさが、エロ春画で強調されたような大きさから常識的なやや大きめサイズに修正されたのである。
男根崇拝の残る地域ならば神を呪うような珍事だが、大きいと大きいで邪魔で動きにくくあったので、散髪をした後のような、ギブスを外したような、そんな爽やかさが股間周りに感じた。
ちんポジがすっきりした、と直接的に言い換えてもいいかもしれない。
大きさを誇らなかった、というと嘘になる。彼とて男だ。逸物が大きいことに関する価値は持っていた。
しかし同時に、かつてはともあれもはや使う予定も無いというのに無駄に大きくてもどうする、という寂しい気持ちもあった。無用の長物という言葉が似合うものだ。
それならばいっそ小さいほうが動きやすいのではないではないか。身の丈に合わぬ、あまりに巨大な物を持っているとむしろ災いになるかもしれない。
マンモスは進化の過程で牙が伸び、一定曲線を描いて自分の方を向いた牙が己の頭を貫いて絶滅した。そのように、過剰なものは必要無いのかもしれないと九郎は思った。
「将翁に襲われるのは御免だがのう」
ぼやきながら朝食の席へと向かった。
お房が炊事場で小さな台に乗って鍋を見下ろし、木製のお玉杓子でゆっくり中身を混ぜている。その隣で六科はむっつりと大きな釜で米が炊かれていくのを見つめていた。
「おはよう、フサ子」
「ん。もうすぐお味噌汁できるのよ」
「おう。タマの奴は?」
姿の見えない、家族の弟分を探して聞いた。
なお六科の女房であるお雪は目に光が届かぬせいか、相変わらず朝が弱いのでまだ出てきていない。三日に一度は早起きができるようにはなったのだが。
無理やり起こすと機嫌がいいとか悪いとかではなく、容赦なく誰かに抱きついたまま二度寝に入るので無理に目覚めさせるのも諦めている。
ともあれ、早起きをするタマを見かけないことに関してはお房も首を傾げた。
「さあ……朝早く、魚河岸に行ってくるって出ていったけど」
「鯵の干物ならあったはずだがのう」
言いながら戸棚を確認すると、小ぶりの鯵を開いて内臓を取り出し、塩水を塗って干した自家製のものがしっかり残っている。
これを炙って食うと、メシのおかずにも酒のつまみにもなって重宝する。
とりあえず朝飯の膳を用意して座敷で並んで食うことにした。
白飯に干物の鯵、それに味噌汁と熱い茶を入れてある。
「お……今日はおからの味噌汁か」
「呉汁っていうの」
もろもろとした、粥のようになっている味噌汁を啜る。豆の搾りかすであるおからが汁に溶けているのだ。
柔らかい口当たりで、味噌の味をよく含んだおからは濃厚な味わいをしていて、体が温まるようだった。また、腹持ちも良い。
「うむ、美味い」
「そうでしょ」
「考えてみれば、味噌汁に入れる味噌も豆腐も油揚げもすべて豆だからな。おからが合わぬ道理も無いか」
「あたいの腕がいいから味がいいの」
「そうだのう……おい、なんだこっちを見るな六科。目を光らせるな。なんでマジで光ってるのだお主」
店の窓から差し込んだ朝日でも反射したのだろうか。一瞬、六科の目が非人間的な赤色に光っているように見えて九郎は思わず眉間を揉んだ。
大丈夫だ。目の錯覚だ。サイボーグなどではない。
視界を戻して鯵の干物を手に取り、直接腹からかぶりついた。掌より小さいものなので、小骨まで食べられる。
首のあたりの肉を噛みちぎってむしゃむしゃと咀嚼する。僅かな発酵臭に、塩気が染みた味わい。白米をばくばくと口に追加で入れると塩味が程よく米に混ざり、
「うまい……」
のである。
六科の方は口に頭から鯵の干物を入れてもぐもぐと食いながら、箸で別の一匹を丹念にほぐしている。お雪にやる分は、食いやすいようにほぐし身と飯を混ぜた鯵飯にするのだろう。
「それにしてもタマ、どこに行ったのかしら」
お房がそう言葉を放った時である。
入り口の扉を開けて、タマが息を切らして帰ってきた。
手には笹の引かれた皿を持っていて、何か仕入れてきたようだが、それにしては小さい。
「戻ったタマー!」
「お帰りなさい。何を買ってきたの?」
「兄さんが昨日からの影響で色々大変だから、とっておきのごちそうを買ってきたタマ」
「うむ?」
ごちそう、という割にはタマの表情はどこか憐憫に似た色をしている。
彼は近くのテーブルに寄りかかりながら、片手で頭を押さえて信じがたいように振る。
「小さくなったり大きくなったりした影響で兄さんのアレが、結局そこそこの大きさに落ち着いちゃった悲しみはボクにはよく分かるタマ……男根崇拝の残る里の出身としては……」
将翁とのやり取りを盗み聞きしていた後で、深夜に寝ている九郎のチンをわざわざ確認したタマは大きなショックを受けたようであった。
寝ていると隣の部屋の弟分がチンコを確認しに来るというやや恐るべき行為だがともあれ。
「いや、お主出身地江戸だろう。というか橋の下で拾われた系の」
冷静に九郎がツッコミを入れる。タマ──玉菊は捨てられていた赤子が、娼婦に拾われて育った素性であったことは以前にタマの姉貴分から聞いて知っている。
だがそんな九郎の言葉など聞こえていないらしく、悲劇的なシーンめいて云う。
「そこで! あばよ巨根で悲しんでいる兄さんにちなんだ食べ物を用意したタマ!」
「……一応聞いてやるが、なんだ」
「鰹のチンコ」
「……」
「……魚ってチンコあったかしら」
タマは手早く鰹のチンコを五つばかり、摩り下ろした生姜と醤油、酒を混ぜたタレに絡めて鍋で火に掛けた。
ぐつぐつと煮立ったらさっと上げてすぐに完成だ。
鰹のチンコの時雨煮である。
「う、ううむ……」
「ほら九郎。食べてみなさいよ」
お房が不気味そうに見ながら九郎の膝を突付く。
「仕方ないのう……」
一応は食品。鰹ならどの部位でも、そう酷いことにはならないだろうと九郎は思って箸を伸ばした。
ぷりぷりとした箸の感触で、それは噛むと浮袋でも噛んだような弾力があり、しかしそれよりも柔らかく歯でぷつりと噛みきれた。
心地よい歯ごたえを積み重ねたような感覚で、噛み跡からタレの味が内部に染みこみ、口の中では新鮮な鰹の匂いと温かな醤油味が混然としている。肉の部分とは一切違うが、悪くない。
「……鰹の心臓か」
「そうタマ! 通称[鰹のチンコ]縁起物で美味しいタマ~」
「へえ。良く手に入ったのね」
「江戸じゃあまり食べない部分だから安いものだったー」
「ふうん」
「これを食べて、兄さんチンコが小さくなったことを気にしないでね……! ボクはどんな大きさでも兄さんのチンコの味方だよ……!」
「余計なお世話すぎる……」
まあ、朝に食べるにはそこそこに重たいが佃煮だと思えば良い。
それに飯によくあった。九郎の茶碗が空になると、お房が受け取ってしゃもじで飯櫃から盛ってやる。
「はい」
「おう……六科! 目を光らせるな! なんだ? 行動を録画記録でもしておるのか!」
「兄さん……ボク一応石燕さん応援派だからね!」
「何がだ。あやつの喉に食物が詰まらないように応援しておるのか?」
「それならあたいも応援派なの」
わいわいと、いつもの様に緑のむじな亭の朝がこうして過ぎていくのであった。
「ううう……また寝過ごしましたよう……」
這いずるように奥の部屋から現れたお雪も加えて。
*******
まな板に 小判一枚 初鰹
と、一句詠まれていたように江戸時代に於いて、初鰹は特別に高価な食べ物であったようだ。
女房を質屋に入れても、と手に入れようとしていたのはやや大げさだろうが、とりあえず値段が一両と考えてみると現代換算して、約八万円。魚一尾にしてはかなり高価である。
しかしながら江戸のすべての期間に於いて非常な価格がついていたわけではなく、二百五十年ほども続いていたのだから実際の値段は乱高下を繰り返していた。
一尾にその値段を、というのも別段特異とはいえないだろう。現代に於いても、鮪の初競りなどでは赤字覚悟の大盤振る舞いで競り落とされることがしばしば行われる。初物、という宣伝が大事なのである。
享保期ではデフレと将軍吉宗の倹約的方針もあり、大っぴらに高値は付けられなかったようだ。
吉宗は食事も質素で一日三食から二食に減らしていたぐらいだが食に興味が無かったわけではなく、魚が好きだったのだが、
「鰹は鰹だ」
と、きっぱり言って初物がどうとか、こだわりは無かった。
ただ出される魚の鮮度は気にしていたようで、江戸城の炊事場に持ち込まれるまでに魚が生きていたか死んでいたかを食べて判別した、という話は残っている。
それはさておき。
初時期からズレているので鰹もそこそこの値段で買えるようになった。
タマが朝に行きがてら仕入れを頼んだらしく朝食を終えて開店の準備をしていたら、昼前には魚売りが笹を敷いた桶に入れた鰹を二匹ばかり持ってきた。
今日の店の日替わりは鰹料理になりそうだ。
魚売りは桶ごと六科に渡して、
「捌くのは六科の旦那の方が上手だよなあ」
「うむ」
昔は魚河岸で包丁を振るっていたこともあり、知っている者は知っている包丁師が六科である。
料理の腕は味覚を持たないサイボーグが無機物で生成するが如くマズいシロモノを作るが、正確な包丁捌きには定評がある。
鰹を受け取って裏に持って行く。お房とタマも包丁使いの勉強のためについていき、九郎は精水符を貼った水瓶を持って行った。
まな板代わりの桶に鰹を横たえて上から九郎が瓶を方向け流水を流す。
六科は包丁をまず、顎近くのエラに刺し込んで頭の方へ切り、反対側のエラと繋げるようにしてざくんと一気に上方向へ鰹の頭を落とした。真っ赤な切断面が見えて、それが水で洗い流される。
次に腹へと縦方向の切れ目を入れて内臓を取り出す。それには朝食べた鰹の心臓も含まれている。
手早くカマの部分を切り落とし、胸ビレと背ビレを削いで剥がす。
そして切れ込みをいれると中央の骨を残して左右に身を切り分けた。
後は使う部分ごとに切り分けるだけだ。簡単に捌くのに二分と掛かっていない。
「ううむ、こうして見ると料理下手には思えぬのになあ」
「刺し身までは美味しそうだけど、きな粉をまぶすのは止めて欲しいの」
「味覚が駄目すぎるタマ……」
手際の良さに感心しているともう一尾も捌いた。
店のまな板に切り身を載せると、残った頭や骨、ヒレなどは桶に入れて魚売りに返す。
「よし。後は頼む」
「毎度」
「はい、お代金」
お房から鰹代を受け取って、廃棄される生ごみを持ち魚売りは去っていった。
リサイクル都市江戸と評され、糞尿からちり紙一つや竈の灰まで交換される江戸だがそれでもどうしようもなく捨てなければならないのが、生ごみであった。
しかしどこぞの都市みたく道端に投げ捨てては腐り疫病が流行る。かといって川に捨てれば舟運が盛んな江戸では、浮かんだゴミで運行がままならない。それぐらいの公共心はあった。
なので生ごみは専門の業者が各町ごとに集められたのを舟で、幕府が決めた集積所の深川永代浦に運んで集めさせ、更にそこに集まった生ごみを舟の邪魔にならない江戸湾沖に捨てに行った。
そうすることで江戸湾は富栄養化し、また江戸町人の腹に入る魚介類も増えるという循環が起こっていた。
さて、切り身を笊に入れて板場に置いてある保存用戸棚にひとまず入れた。
この戸棚は生物用の冷蔵庫で、戸棚の下部に氷結符で作った氷が入ってあるだけの単純な仕組みだ。
しかし原理として乾燥させずに冷やすので魚を入れていてもパサパサしないし、西瓜や菓子などを冷やしておくにも使っている。中には消臭用の炭も置かれていた。
それに使わない分を置いて、六科がさくにした切り身を九郎が取って、
「とりあえずタタキにするか。あれなら簡単だしのう」
切り身に鉄串を刺して、竈に設置してある炎熱符の火力を調整して、軽く表面を炙る。
ぱちぱちと脂が弾ける音がして火花が僅かに飛んだ。
皮が僅かに香ばしく、表面がうっすらと白くなるまで焼いたそれを冷水につけて身を引き締める。
それを指ぐらいの厚さに切り分ける。アカシック包丁キャリバーンのⅡだかⅢだかを使うので身が潰れることもない。気をつけないといけないのは、まな板ごと切ることだ。
切った上に軽く塩を振り、六科に刻ませた根深葱、薄切りのニンニクを載せて酢を掛けて馴染ませる。
「うむ、鰹のタタキの出来上がりだ」
「へえ。どこの料理なの?」
「土佐じゃなかったか? ええと、どこかで山内一豊が領民に食中毒を防ぐため鰹の生食を禁止したから、炙って刺し身を食うようになったとか聞いたことがあるような……」
九郎が首を傾げていると、声が掛かった。
「ふふふ! それはどうだろうね!」
「石燕」
いつの間にやら店に入ってきていた石燕が腰に手を当ててにんまりとした顔を向けてきた。
「……あれ? 九郎くん。君が抵抗できないぐらい小さくなったと聞いたから、ここぞとばかりにやってきたのだが……」
「お生憎様だ。というか訪問する理由それって。末期か」
「小さくなった九郎くんとお風呂とか入ろうかなって思っていた。残念だ……実に残念だ」
「堂々と駄目すぎる……石燕さんもうちょっと欲を押さえて!」
タマが小声で助言をするが、どれだけ効果があるだろうか。
「ともあれ九郎くんのその説は微妙に眉唾だね」
「そうなのか」
「山内一豊が治めている間はなんというか……領内不穏でわざわざ領民の健康を気遣うような状況ではなかった。むしろ禁止をしたら不満を煽るだけだっただろう。それに長宗我部に仕えていて言うことを聞かない武士らを次々に弾圧していたぐらいだからね。あまり鰹に口出しする印象は覚えない」
「そうなのか。いや、あんまり山内一豊に詳しいわけではないが」
九郎の記憶には、地味な出世を重ね続けてどうにか大名になった人物、としてしか覚えていない。
「それではタタキはいつからだ?」
「正式な形になったのはまだ百年以上先のことだろう。ただ、表面を焼いて食べるという[焼き作り]は他の魚でも既に行われている手法だから、そこから薬味や身の厚さなどが徐々に決められていき形になったのではないかと思うね」
「未来のこと前提で語るのう」
「いらっしゃいなの先生。何にするの?」
「じゃあまずはお酒蕎麦」
「お主しか食っておらぬが、かなりあれだよなこの注文……」
ちらりと板場に目線を送る。六科は頷いて、
「お雪。蕎麦は出来ているか」
「はいなー」
そうして本日の打ちたて蕎麦を切り始めた。
酒蕎麦とは通ぶった石燕の頼む裏メニューである。
お雪が蕎麦を打つようになって格段に味が上がった緑のむじな亭の蕎麦であるので、石燕は盛り蕎麦にして頼んでいるのだ。
それを茹でて笊にのせて、まず蕎麦の上に日本酒をかけ回す。
これは本来作り置きの蕎麦などで味を良くするためにやることで、打ちたてにやる意味はただの酒の風味付けであった。
そして蕎麦のつゆをたっぷりの味醂──江戸では高級酒の一種である──で割って、アルコール度もたっぷりなそれに蕎麦を浸して食べるのである。
「啜るとよりお酒がいい感じにキマって中々いけるのだよ!」
「蕎麦を手繰って、合間に日本酒を飲むとなると粋に見えるのに、なんだろうかこの合わせるとアル中感は」
呻いていると、客が入り口から入ってきた。
「やってるかい」
遅れて葬式に顔を出したような声音で入ってきた、不機嫌そうに見えるがそれが平常な表情を顔面に貼り付けている男は店を見回した。
痩身で学者か医者のように髪の毛を纏めている、どことなく陰気な彼はあまり店に来ない常連、という客であった。あまり来ないが、店と客以外の関係でもあるのでそう分類される。
江戸の妖怪絵師の一人、佐脇嵩之である。
ちらりと蕎麦を手繰っている石燕と目が合い、軽く会釈をした。
「おや。鳥山先生。ご無沙汰を」
「ああ佐脇くんかね。いつかぶりだ。ほら、房。挨拶をなさい」
「こんにちは、佐脇先生」
「おっと。小さい方の鳥山先生もどうも」
湯のみに水を入れて持ってきながら挨拶をするお房にも彼は応えた。
九郎が彼の言葉を繰り返して尋ねる。
「小さい方の?」
「ほら、こちらのお嬢さんは鳥山先生の名義であちこち立派な妖怪画を描いているじゃないか。立派な二代目だ」
「なるほど」
「僕なんか、英一蝶の不肖の弟子として貰った、英一水なんて名前すらおこがましいって言われてるぐらいさ」
嵩之が持つ別の画号である。自由人系絵師の英一蝶から指導を受けた彼は、狩野派であるが英一派の直弟子であった。
「ところで鰹の匂いがしたんだけれど、あるのかい?」
「今作ったばかりだが、焼き作りって呼べばいいのか。それがあるぞ」
「ではそれを」
注文を受けて、タマが大皿に盛ってあるタタキを小皿に一人分丁寧に並べて持ってきた。
「薬味で芥子があったら嬉しい」
「はいよ」
この店は案外調味料の類は多く置いてある。六科が刺激物を好むためだ。
彼は今朝も白米の上に胡椒を振りかけて食べていた。胡椒飯という料理はあるが、断じてそんな単純な作り方ではない。
芥子の粉を水で解いてやり、持っていく。
「師匠が鰹を好きでね。僕も相伴に預かっていたのだけれど、芥子が無いと酷く機嫌を損ねたものだ」
「ほう……鰹に芥子、なあ」
九郎という現代人からすれば、ニンニクか生姜あたりが普通だと思っていたし実際江戸に来てからもそのどちらかで食べていたのであったから、意外そうに唸った。
石燕が酒蕎麦を食いながら横から声を掛ける。
「英一蝶氏には有名な句が残っているね。流刑先で詠んだ句で、
初鰹 芥子がなくて 涙かな
島流しにされていた三宅島でも江戸を忘れずに、江戸の絵を描いて同じく流刑にあった人たちを元気づけたというね。大した御仁だ」
「単に自分が寂しいから描いていただけですよ、あれは」
笑いながら、芥子を刺し身に薄く塗って口に放り込んだ。
香ばしい皮の匂いと噛みしめると鰹の旨味や脂がじわりと滲みでる。酢の酸味でちっとも生臭くはなく、根深の歯ごたえも良い。
芥子は後味を爽やかにしてくれるようであった。
「うまい」
「そうかえ。うむ? 芥子といえば……」
九郎が何か思い出したように板場に引っ込み、なにやらごそごそと調合をしたかと思えば小皿を持ってきた。
「これをつけたらどうだろうか。[芥子まよねえず]である」
「……ええと、どうだと言われても」
黄色いもったりとした酢味噌のような物体に、嵩之の箸は止まる。
「鰹の刺し身は案外マヨネーズが合うからな。芥子も合うならば二つ混合させた物も合うのが道理……だと思うのだが」
「……一応頂こう」
芥子マヨネーズを箸で取って、鰹につけて食べてみる。
見たことのない調味料だが、酢味噌のような何か、と思えば忌避するほどではないようだ。
「いける」
「だろう?」
葬式に出された料理が美味かった、みたいな抑揚のない感想を告げる嵩之に九郎は得意気に云うのであった。
「ふふふ、私もお酒蕎麦を摂取し終えたから鰹を頂こうかな──げーぷ!」
「今女の子が出しちゃいけない音がならなかった!?」
「タマくん! 君は何も聞いていない! さて私は敢えてタタキではなく刺し身で頂こう。ふふふ、板場を借りるよ。見ていたまえ房よ師匠の華麗な包丁さばきを」
「わあ先生。お酒を飲んで手の震えが止まってるのね」
酒を飲んで勢いづいた石燕が、鰹の切り身を取り出して刺身用に薄く切り始めた。
その手つきは危うげなく、切断面も綺麗で六科に勝るとも劣らない。
酒さえ入っていればこんなものである。
「タタキもいいが、口の中を大きな塊が専有するからお酒が追加で入りにくくなるものでね」
自分の分を用意すると、生姜醤油に芥子マヨネーズを小皿に取って席に戻った。
「さあ九郎くんも酒の相手をしてくれたまえ!」
「店に開店一番に来て酒を飲むってなあ」
仕方なく石燕の前に座って、朝から呑んでいる石燕を眺めるのであった。
********
それから暫くして。嵩之も食事を終えて帰り、店の客入りもそこそこな通常営業の最中であった。
相変わらず色々食べていた石燕の上機嫌な笑顔が突然凍りついた。
「うっ」
「どうした、石燕」
「……お腹痛い」
胃のあたりを押さえて彼女は顔に冷や汗をだらだらと掻きながら云う。
大きく九郎は溜め息をついた。周囲を見回して営業妨害にならないように小声で聞く。
「下痢か。吐き気か」
「う、うう……胃がシクシクとしてすっごい不快感と痛みが……これはあれだ……」
石燕は身を震わせながら云う。
「……寄生虫に当たった」
朝一番に酒を飲みにやってきて自分で捌いた魚の寄生虫に当たるヒロイン。
九郎は酷く憐憫を込めた目で彼女を見た。石燕もとても気まずそうだ。だがそれより苦痛が心配であった。
「どうすればいい?」
「と、とにかく……これは胃壁を内側から噛みつかれているようなものだから……耐えればいいのだが……二階で横になっていいかね」
「わかった──フサ子、ちょいと石燕を寝かせてくる」
「はあい」
九郎は石燕を抱き上げて、他の客が注目する前にひょいと階段を上がって部屋へと向かった。
敷きっぱなしの布団に石燕を転がして、苦痛を和らげる為に腰帯を緩めてやる。
「痛たたた……うううう九郎くん痛い……」
「よく噛まぬからだ」
「そんなこと言っても……ううっ」
悶える彼女の背中を撫でてやる。痛みに敏感になっている石燕の肌は、痛風のように九郎の着物越しに撫でる感覚すら奇妙な腹痛へと変じるようであった。痛風ではない。
彼女を苦しめるアニサキスという寄生虫は魚介類によく含まれていて、生食した場合に人へと感染する。つまりは刺し身だ。
防ぐには一旦魚を冷凍するのが確実で、タタキの際に炙るのも皮付近に居るアニサキスを退治する効果があると言われている。
醤油や酢はほぼ意味がなく、また肉眼で確認できる大きさなので噛み潰せるかと思いきや潰せないことが多いようだ。
人間に感染すると主に胃壁を食い破ろうとする。そう聞くと恐ろしいが、実際に食い破れることは少なく大抵力尽きてしまう。だが、アニサキスが死ぬまで数時間から半日ほど感染者は胃を齧られる痛みに襲われるのである。
「で、薬などは無いのか? あれば将翁でも探してくるが」
「ゾロメキキサラン」
「なんだって?」
「三百二十年後の未来に作り出される画期的な虫下しの化学薬品だ……人体に無害で効き目は高い。多くの寄生虫症を救うことになった」
「それはさすがに用意できんのう……というか三百年以上経たぬと人間は刺し身の寄生虫を克服できぬのか」
「ふふ、ふ……まあ、ずっと待っていれば……くうっ痛い……治るものだよ」
一瞬、黒々とした色に染まった右目を擦って、石燕は現実的な解決へと思い直した。
未来を知っていても今まさに襲いかかる痛みは過去にできない。
「眠るか? 快癒符で癒やされれば少しは眠気が出るだろうが」
「いいや、悪夢を見そうだから……お酒を下手に飲んだら胃液が薄まるから逆効果だし……ままならないね」
九郎は濡らした手拭いを石燕の顔に当ててやった。
それを片手で受け取り、音の聞こえる荒い息を吐きながら石燕は額を冷やす。
「悪いのだけれども……気が紛れるように触れていてくれないかね」
朝一番にやってきて酒を飲んで刺し身を食って寄生虫に当たったヒロインは、見かねるぐらいに弱っている。
これはいけない、と九郎は思った。
むしろ彼女のひ弱さだと、胃壁が寄生虫に負けて食い破られかねない。それぐらい石燕の体に関しては楽観視したら危険そうな雰囲気を感じる。
「ふむ……そうだな、どうにかしてみよう」
「九郎、くん……?」
「ちょっと腹を見るぞ」
着物の腹部を開くと石燕の白い肌と小さな臍が見えた。
「なっ、ちょっ、うわっ」
慌てて彼女は片手で胸元を押さえて、もう片方と足で挟むようにして下腹部が開くのを防いだ。
急に脱がされそうになった。
あわあわと口を開いて九郎を見るが、彼は至って平常な顔で臍と胸の間の腹を撫でるようにした。
「くくく九郎くん? にゃにを……」
こそばゆく腹を撫でられる感触にもじもじと身じろぎした。
「胃袋はこの辺りだったか。[隠形符]よ、石燕の体のみ透過せよ」
「なんか私の体凄いことさせられてない!?」
石燕の腹が薄れて消えて、その下の背中に押しつぶされた布生地が透けて見えた。
エコーやレントゲン代わりに、ダイレクトに透明化させて内部を見るのだ。
そして、感覚を疫病風装に同調させると九郎の瞳は──六科のように、ではないが──赤い色を灯して、第四黙示能力を行使しだした。
病毒の可視化である。その能力を使えば周囲の細菌や毒の粒子、寄生虫の類まで感覚的に掴める。
透けた胃袋の中に、透けていない小さな物体を感知。アニサキスだ。
「光を透過しているということは、光だけなら通るということだ」
九郎は包丁によく使っているアカシック村雨キャリバーンⅢを僅かに鞘から抜いた。
「僅かに弾け──アカシック村雨キャリバーンⅢ、発動」
刀からペンライトで照らすような範囲に凄い光が発せられた。
それは光に当たるものを都合よく吹き飛ばすことができるという便利な能力を持っている。
九郎の運命力を反映するアーカーシャ物質と、光の剣キャリバーンⅡの性能を、都合が良いように能力を放出するという村雨丸の特性にて組み合わせたのである。
光で吹き飛ばす、という範疇ならば彼の意思どおりにある程度融通が効くのである。
石燕の腹はその光が当たらぬように消しているが、その中で蠢くアニサキスには直撃して胃壁から弾き飛ばされた。
普通の生物ならば──割りと大小関係なく、人でもドラゴンでも──気絶する程度の威力だが、極小の寄生虫となればそうは行かずに絶命してしまったようだ。九郎の寄生虫を見る第四黙示の視界で、無影響化したのが判別できた。
「よし」
九郎は刀と符を仕舞い、元の色を取り戻した石燕の腹を再び撫で回す。
「どうだ、良くなったか?」
「……だんだんと良くなってきた。まさか開腹もせずに胃袋の中に直接攻撃で寄生虫をやっつけるとは……」
「お主がモチで死ぬのではないかと時折不安になってな。体の内部をどうにかする方法として色々考えてはいるのだ。心配を掛けおって」
そう言いながらも九郎は笑って、石燕の腹を軽く押すように叩いた。
温かい指先の熱が伝わるようで、痛みも消えた石燕は改めて赤面する。
「その……すまないね。迷惑を掛けて」
「別に良い」
九郎は彼女の着物を正させて、告げる。
「痛くなったり苦しくなったりしたときは必ず呼ぶのだぞ。すぐに駆けつけるからのう」
「ふふふ、頼もしいね。九郎くんが居てくれれば、怖くなどないさ」
「……ああ。いつかきっと───いや、なんでもない」
九郎は言いかけて、口を噤んだ。
体の弱い鳥山石燕と、寿命を戻すあてのない自分。
どちらが先に死ぬかと想像すれば、どちらにせよ嬉しくはない想像なのだが、自ずと知れた。
いつかきっと。
彼女が死ぬ終わりまで。
きっと自分は心配し続けるのだろうと、そう思うとどこか物哀しかった。
「石燕」
「うん? ……どうしたのだね、九郎くん」
返事をした石燕は、九郎が優しげに頭を撫でるので、訝しそうに聞き返した。
「体を大事にな」
彼の言葉に篭った想いは、とても大事なもののように思えた……。
********
後日。
「……休肝日とか作ろうかな」
「先生が壊れたの!?」
「失敬な! 私はこれでも素面だ! ほら見たまえ! 手が震えている!」
「マジでお酒を抑えた方がいいと思うタマ……」
※当時のお酒は度数が低く、そうそう簡単に健康被害は出ないのでご安心ください。
「もういい! 呑む! 呑めば健康だって李白も言ってる!」
先生のヒロイン度が要介護度みたいになってる不思議




