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111話『一二三三三号事件(後編)』

 まだ日が暮れたばかりだというのに、いつも以上に静まり返った夜の街は小雨のような霧に包まれていた。

 真夜中まで営業する飲み屋も近頃は怯えるように店を閉ざし、博打うちや船乗りなどのあらくれも、近頃は出歩かずに居るらしい。

 そんな買い手の少ない状況でも、今日明日の日銭を稼がねば生きて行けぬ女達が居た。

 非合法の娼婦──夜鷹などと呼ばれる、体を売るしか無い貧しい者だ。

 その日も、人通りがいつもはあるはずだった売り場から、移動して客を探している娼婦が二人居た。


「知ってる? 最近噂の殺人鬼のこと」

「そりゃ、当たり前だよ。何人殺されたんだっけ」

「公式発表では五人だけれど、あっちこっちで見つかる誰かしらの死体はその殺人鬼の事件だって囁かれてるからわからない」

「怖いねえ」

「あたしは息子が、まだ七つだってのに身売りされそうな方が怖いよ。お金稼がないと」


 かなりげんなりした調子で娼婦の一人が告げる。もう片方の女も、溜め息をついた。彼女の方も事情は違うが、金が無いので堕胎した経験があったからだ。

 

「身売りされたらもう会えないだろうからねえ」


 僅かな金を母が受け取り、子供は僅かな寿命で労働を強いられるのが身売りだ。それを選ばなければ、母子揃って乞食となり野垂れ死ぬしか方法は無くなる。どちらにせよ明るい未来が見えなかった。

 それを思えば、この夜霧に紛れている殺人鬼さえもどこか遠い異国の事件に思える。


「殺人鬼も金持ちを狙ってくれればいいのに」

「カネ目当てじゃないみたいだよ。ほら、聞いてるだろ。あの……」

「人を喰うって?」


 口にして、ぞっとした。飢饉のときは人肉食さえ出たことを聞いたことはあるが、人は飢えればそんな地獄行きになることさえしてしまうのか。

 そんなおぞましい出来事がこんな都市部で行われることが、悪夢のようだった。

 霧雨が濃くなっていく。

 

「この街は霧の悪夢で包まれている」

「どうしたんだい、急に」

「きっとさ、誰も彼もおかしくなるんだろうね。こんな煙たい霧ばっかりの街で過ごしていたら」

「……?」

「だからおかしくなった誰かが、刃物で体をえぐる殺しをして、別の誰かが真似をして……犯人は霧の中に無数に居る。そう……私もだ!」

「はぁー……あんた、あれでしょ。去年発売されたなんとか言う本を読んで」

「面白いんだから」


 それでもこうして、二人で馬鹿話をしている間は殺人鬼も無縁に感じられた。

 この街に何十万人の人が住んでいるというのか。

 それが数日に何人か死ぬのは当たり前であり、もし人殺しが居たとしても富くじに当たるより可能性は低いだろう。

 そう自分を励まして、二人は霧の夜を歩いて行った。


「しかし、こんな霧じゃあ中々買ってくれる人は見つからないねえ。いっそ一人でも見つけたら二人で襲ってみるとか……」


 本気ではない提案をして、女は隣を向いた。

 霧と僅かな明かりに照らされた中で、シルエットだけが見える。しかし、返事は無かった。


「あんた?」


 返事は無かった。また、冗談かと思ったが──。


 灰色の霧に、赤い色が混じった。


 崩れ落ちる娼婦仲間を咄嗟に手で支えたが、彼女はもう人の形をしていない。

 首から胸に掛けて──鋭い虎挟みでちぎり取ったように、ぼたぼたと血の鉄臭い匂いを撒き散らして消えていた。

 本当に怖ろしいと思ったとき、息は浅くなり悲鳴も上げられなくなる。

 ごう、と霧をお仕分け風を潰すような音が聞こえた。

 黒い何者かが、周囲に血の匂いを撒き散らすようにして旋回している。

 やがて。

 霧の中から、その殺人鬼の感情を移さない虚ろな目が見えた。

 鼠色の肌と流線型のフォルムをしたそれは──殺人鬼の正体は。


 霧の中を泳ぐ、巨大な鮫であった。


「いやあああああああ!!」


 十九世紀、ロンドンの街を恐怖のどん底に突き落とす、霧を泳ぐ怪鮫現る!



 【シャーク・ザ・リッパー】




 ********

 



 メインタイトルが出た銀幕をぼんやりと見ながら、ソファーに体を預けている九郎は手持ち無沙汰に自分の足の間に座っているヨグの腹を撫でてみる。

 だらしない贅肉をつまみ、早くイモータルが戻ってこないと取り返しの付かないデブに成りかねない気配を感じ取った。

 

「なんで己れはお主とサメ映画なんぞ見ておるのだろうか……」


 夜に眠ったと思ったらヨグの部屋に魂を連れ去られるのは、まあ珍しくないのであったが。

 気がついたらこの位置であり、目の前ではサメ映画がスタートしていた。

 薄く虹のように色が変わるヨグの柔らかな髪の毛がすぐ前にあり、目がチカチカするので彼女の頭のつむじに顎を置いて映画を眺める。

 

「なんでって、くーちゃんが江戸の街の恐怖的連続殺人に巻き込まれて狙われてるって盗撮たから犯人逮捕の参考になればって思ってさー」

「狙われてるというのだろうか。そしてサメ映画が参考になるのか」

「伏線はプロローグに出た娼婦の会話でもう張ってるんだよ! そう、サメに立ち向かうヒーロー役は平行世界のロンドンから迷い込んできたホームズとワトスンなんだ!」

「シャーロキアンに怒られないのかこれ」

「いいところに気づいたねくーちゃん。そう、切り裂きジャックが活動していたのは1888年……しかし作中の時系列でその時は丁度、ワトスンが結婚してベーカー街から出て行っていたはずだ、と厳しいツッコミが入ったんだよー」

「細かい!」


 シャーロック・ホームズは実在の人物と仮定しそれを信仰しているシャーロキアンは存在し、実際にあった事件のときにホームズはどこに居たか、という考察だけで何冊も本が出るぐらいである。

 しかしサメ相手に探偵が何をするのか、と九郎は訝しく思いながらぐりぐりと顎でヨグのつむじを押した。

 画面では警官が『ロンドンにサメなんて出るわけ無い』と目撃者の証言を一笑に付している。

 

「んん……あーうー。お腹と下痢ツボの同時刺激とはくーちゃんマニアックなことに」

「なるな。便所に行け。というかここって便所あったか?」

「アイドルはトイレしないんだー……うしゃしゃ!? ちょっ、くーちゃん変なところ触らないでよ!?」」

「ヘソだろう」

「むずむずする!」


 もごもごと手元で動くヨグを押さえながら、霧を泳ぐサメの映像を見た。

 その年に世界文化遺産に登録された、天文台でもあるロンドン塔から望遠鏡で霧の海を眺めると時折サメのヒレが見えてくる演出だ。危険はテムズ川だけではなく、霧のある限りどこへでもやってくる。

 

「江戸の殺人鬼は何が目的なのだろうなあ」

「目的がなんにせよ、くーちゃんは襲われるから気をつけてね~」


 さらりと告げてくるヨグの嫌な宣告に九郎は露骨に顔を歪めた。


「何故に」

「いや、そんな猟奇事件が近くで発生してくーちゃんが巻き込まれなかったことってあんまり無いでしょ」

「……解決してくれる探偵が居ればのう」

「探偵といえば実写ドラマ化だけどキャラ重視の探偵小説を実写化したらなんとも云えない空気感出るよね。髪の毛の色とか」

「何の話だ、何の」

「我がくーちゃんと探偵事務所開くときは黒髪に染めとくよ……黒髪ツインテ眼鏡文系となるとますますオタサーの姫みたいだけど」

「姫ってガラか、お主」


 ぴこぴことヨグのツインテールを振りながらも、ともあれ猟奇的犯人が自分を狙っているという予言には不吉なものを感じざるを得なかった。

 なにせ知り合いの晃之介は「腕っ節の強さで有名だから狙われてるんじゃないか?」というし、影兵衛は「今度は手前が囮な」と連れだそうとしてくる。お房や石燕は危ないから出かけるなと止めてくる。

 どうも共通認識として、九郎は狙い目らしい。

 

「いっそ本当に己れを囮にするか……引っかかるかのう」

「引っかかると思うよ? 犯人はサイコ系で運命をくーちゃんに感じてるみたいだね」

「そっちも盗撮してるのか」

「犯人は江戸の街で一番カルマ値がヤバイから覗こうと思ったらすぐにわかっちゃってさ。前世とかなんだろーけど百万殺しの業が三つぐらい魂についてるから犯人」

「うわあ野放しにしたくないタイプだのう……」

「ああでも、あんまり[疫病風装]の性能に頼ってたら危ないからね。それ回避能力が低下しているから」

「そうなのか。いや、何度か掴まれたりしたが」

「元々、意思のない終末システムの端末が装備するものだから着ている人間の意志が介入するとどうしてもね。特に改造されてるし」


 前にかがむようにしてヨグに体重をかけながら、建物の中に飛び込んできて暴れるサメを見る。


「ところで己れはいつまでこのサメ映画を見てればいいのだ」

「朝までいいじゃん。起きたとき体は休まってるよ多分。今晩はイギリスサメ映画シリーズで次は【シャークホームズ】【シャークズ・ボンド】【シャークパンサー】……」


 お腹いっぱいになりそうなラインナップに、九郎は目の前にある白い首に反抗の牙を突き立てることにした。特に意味は無いが。なんとなく目の前にあったというサメのような理由で。


「がじぃ」

「くーちゃんに噛まれたぁ!?」


 意外な行動にびっくりして歯型が軽く付いた首筋を撫でるヨグ。しかし声は弾んでどこか嬉しそうだった。


「ちなみに今噛みつかせたのは己れが持ち込んだクワガタムシだ」

「なんで我の固有次元にクワガタ持ち込んでるの!?」


 きちきちと顎を鳴らす甲虫を慌てて払いのけるのであった。

 

 


 ******





 ──江戸の街は厳戒態勢に置かれていた。

 殺人鬼[魍魎]の噂は瓦版によって広まり続け、その実体さえも覆い隠すように好き勝手に書かれている。


 曰く、魍魎は浪人である。

 曰く、魍魎は大名である。

 曰く、魍魎は医者である。

 曰く、魍魎は首切り役人である。

 曰く、魍魎は妖怪である。

 曰く、魍魎は子供である。

 曰く、魍魎は天の怒りである。

 曰く、魍魎は幕府が正体を隠している。

 

 あらぬ噂が恐慌を招き、犯人を憶測からの不和を呼び、政治への不安を掻き立て、厭世観を増させる。

 幕府が一時、出版規制さえ行ったのはむしろ当然の処置であった。

 そして無宿人狩りともいえる身元不明な住人を次々に取り締まった。特に身元を保証してくれる相手の居ない者などは危険を察して、江戸の時代に置いて殆どの間ヤクザや博徒が多く集まった信州に逃げていったぐらいである。

 江戸の街は加増されて三百名の外廻り同心与力、その数倍の目明かしや岡っ引きが見回り不審者を探しまわっていた。

 

 ──だが、ついに十四人目の犠牲者が出ても同心らは魍魎を発見できずに居た。



 どんどん大変なことになっている、と魍魎の三三は事態の危険度を認識していた。

 既に江戸に留まる危険性は限りなく高まり、普通によそ者が出歩けば即座に声を掛けられてしまう。

 実際に十四人目を殺すのには非常に綱渡りであった。安全策を取れば、数ヶ月は息を潜めて無ければならなかったかもしれない。

 しかし魍魎は止まれない。仕事を早く終わらせて、早く彼を殺さなくてはならない。

 だから強引に、やや慎重さを欠いてでも次々に目標を襲い、殺した。

 名簿に記されていたのはやはり強さの大小こそあったものの、いずれも一定以上の腕がある者で、三三も危険があった。

 一度などは、仕事と家庭の心労が重なり魘されている同心・菅山利悟を深夜に襲撃したのだが、その夫婦揃った寝室──何故か妻の方の格好がやたら趣味的だったのだが──に忍び込んだ瞬間に、嫌な気配を感じて即座に逃げ出したこともあった。

 折しもその近くでは隠密の同心・尋蔵が気配を消して潜んでいたのだが、あまりに入ってきた一瞬で、一目散に遁走されたので取り逃がしたのであった。

 

 そうして、十四つ目の心臓を三三は武蔵野の廃寺で依頼者に渡した。

 手ぶらでうろつき、一般人のフリをするのはまだ可能だったが心臓入りの壺を運ぶことは非常に困難であった。臭いも漏れ出る。かといって、闇に潜んで移動するれば一発で不審者として追われる。 

 困難だったがやり遂げるのに、三三は特に顔が痩せこけて青ざめ、病気のようになっている。

 

「確かに」

 

 塩壺に入れられたどす黒い塊──切り取った心臓を見て、男は頷いた。

 三三の咳がひっきりなしに聞こえる。仕事を終わらせ、九郎を殺そうとはやる胸により喘息気味になっているのだ。

 

「終わりだね」

「ああ。ご苦労だった。それで報酬だが……この前頼んだ、これでいいのだな」

「うん。えへ、へへへへ……」


 頼んでいたのは「よく馴染む刀」という曖昧な注文であった。

 武器の類は使う度に短剣以外は捨てなければ持ち歩きに困るので殆ど所持していないのである。そもそも普通殺しの仕事は、一回に一人殺せばそれでおしまいなので継続能力のある凶器、というものを使うのが無理だから当然だが。

 渡されたのは波のように何度も湾曲した刀身を持つ、[九曲刀]と云う中国刀であった。

 輸入もされていないので日本では見ることのできない、独特の形状をした異常な剣である。

 

「はあぁー……」


 その柄を握って、うっとりと三三は溜め息をついた。

 手に吸い付くような感覚。見ているだけでくらくらと酔いそうな刃。何故か、自分の為だけにこしらえたような逸品に思えた──いや、真実そうなのだろうと、心の中で納得した。

 長さは短めに作っており、一尺と少ししか無いがこんなものを持ち歩いていれば江戸の街では半刻も掛からずに捕まるだろう。

 しかし受け取った本人は、


「これだぁ……」


 と、陶酔してつぶやく魅力を三三は感じていた。

 そんな三三を残して、依頼人の全身を布で巻いて隠した男は壺を持って廃寺から立ち去る。

 一度だけ、まだ寺の中で刀を見ている三三──狂った愚かな殺し屋の女を振り返って呟いた。


「かつての武器を手にし、あの眼……やはり八大王の魂を持つか……死しても、あれほど憎んでいた女生に生まれ変わろうともその業は消えず、哀れなものだ」


 だが、と布で隠された口元を歪めて笑った。


「奴の魂があるということは、この儀式も無駄ではないという証左になる……く、くく……もう少し、後は時を持つだけだ……」


 


 *******

 



 これ以上の被害を出してはならない。

 怒り心頭で老中に伝えられ、胃を痛めた老中が町奉行と火付盗賊改長官にも厳しく言い渡している中で。

 とにかく人海戦術だとばかりに街では犯人探しが行われていた。 

 同心二人に手先が数人の小隊を組んで町中を見回りし、空き家の周辺で聞きこみをしたり宿の宿帳を検めたり、また逃げられないようにその捜査の手は街道筋にまで伸びている。 

 そんな中で。 

 犬を連れて上司である与力の飯島三彦と捜査を続けている、[犬神]同心・小山内伯太郎が居た。

 

「見つからないですねえ……」

「見つけないといかんのだ。十五人目が出たら誰か腹を切らされるかもしれんぞ」

「ううっ……利悟くんさようなら……」

「諦めが早いな、友人の」


 云いながら歩いていると、伯太郎の連れた犬が急に唸り声を上げだした。

 

「どうした? 藤袴ふじばかま

「しつけがなっとらんな」


 与力の三彦が、犬が鼻を向けている先を見て顔を顰めた。

 道の端を歩く、ぼろぼろの御座を持った汚らしい破れている浴衣の女に吠えているのだ。

 

「いやしかし、うちの犬が怪しい臭いを嗅ぎつけたのでは……」

「お乞食こもの女が臭いのは当たり前だろう。俺達の探しているのは、十四人も殺した殺人鬼だぞ。犬が吠えたからといって、あんな可哀想な人を犯人扱いして奉行所に連れて行ってみろ。腹を切らされるのは俺らになる」

「でも……」


 吠えられている乞食風の女は、道の端の壁に体を擦らんばかりに犬を避けて、怯えるように歩いている。

 しかしながら実のところこの女、[魍魎]の一二三三三の変装であった。 

 これだけの数、腕利きの剣客や無頼を殺して回った犯人は間違いなく凄腕で屈強な男だと捜査陣の誰もが思い込んでいる。

 或いは女だとしても魔性というか、妖怪めいた気配を感じさせるような人物を思い浮かべるだろう。

 だからこそ、やせ細って、顔色も悪く、髪も乱れて病人のような乞食が犯人とは思えない。

 いや、事実与力がいったとおり、犯人扱いしたら逆に「この忙しいのに明らかに違う相手を連れて来るな!」と強い叱りを受けるだろう。だからこそ、こうして真昼間だったならば堂々と三三は外を出歩けるのである。


「……! だけど、僕は」 


 伯太郎は揺れていた。自分の犬が吠えているのだ。なんらかの異常事態を知らせようとしているのではないか? 

 間違っても、道行く乞食が臭いからと吠えつく馬鹿犬ではなかった。

 しかし彼も常識として、あの風が吹けば倒れそうな女が犯人であるとは思えないし、証拠も犬が吠えたでは上司や町奉行も納得しないだろう。

 

「せめ、て、話を聞いてきます」

「仕方ない。俺も行こう」


 そうしてどうにかその乞食女から、小刀の一本でも出れば──と僅かな希望に掛けた。


「ちょっといいかな? 僕ら奉行所の者だけれど、君、いつもこの辺りに居る人?」

「けほっこほ……ええ、はい」


 がらがらの、疑いようもなく痛ましい声だった。


「これからどこへ?」

「咳が止まらず……お上のお情けを受けられればと、小石川に……」


 隈の酷い目で見上げてくる 

 伯太郎の犬は尻込みしつつも、顔に皺を作って唸っていた。


「おい、小山内。大変そうだからあんまり構ってやるな」


 三彦が注意するのもわかるぐらいに、痩身に見えた。肌蹴て破れた浴衣から見える体は、恐らく三十代だというのに色気も何も無く栄養失調になったのか胸の肉さえこそげ落ちたように無かった。

 そう、見えた。

 恐らく伯太郎が感じた違和感は、犬と共感してのことだ。彼は食い下がった。

 

「少し持ち物を検めさせてもらうよ」

「はぁー……本気か?」


 かなりの年増相手に触れるのは酷く嫌気が差す行為だったが、伯太郎は愛犬への信頼でそれを振り切って変装した三三の凶器を探した。

 持っている御座を広げて叩き、両手の裾や袂、背中に髪の毛の中、浴衣の裏地に草鞋の底まで。

 流石に往来でやるのは気が引けたので路地に入って物陰で行った。


(ううう、気分が悪い……それにこんな、職権乱用して乞食の女を裸にひん剥いてるみたいで死にたくなる……)


 だが、それでも小刀どころか、針の一本も出てこなかった。


「ほら。感じ悪いぞ、お前」


 三彦からしかめっ面で注意されて伯太郎は項垂れた。これ以上物証は存在しない。

 頭を下げて、路地の奥へと去っていく乞食を見て犬がきゃんきゃんと吠えていた。

 悲痛な叫びだ。 

 まるで逃がすな、と云っているように伯太郎は思えた。

 だが常識的に考えてあの乞食は犯人ではないのである。

 しかし……。

 伯太郎は歯を食いしばった。

 

「行くぞ」

「常識……」

「うん? どうした」

「そもそもが、常識的な事件じゃないんだ……」

「おい、まだ言って──」


 小山内伯太郎は自分の犬を信頼している。信愛していると言い換えても良い。

 それは恐らく誰よりも、だと彼は自分に言い聞かせた。

 経験豊富な上司より。

 雲の上な町奉行より。

 そして、犯人かどうか断ぜない自分の常識より。

 物を喋れぬ愛犬の方が──正しいと絶対的に判断した。


「──いけ! 藤袴ふじばかま!! あの女を引き倒して捕まえろ!!」

 

 命令されなければ伯太郎に危険が及ばぬ限りは戦わない、訓練された犬の藤袴が乞食を追って駆け出した!


「おい伯太郎!? お前、トチ狂っているのか!」

「責任は全部僕が取ります!! あいつが犯人で間違いない!」


(そうだ、信愛するなら狂っていなくてどうする! 常識より愛を信じるのは、当たり前だ! そうでなければ、生きている価値が無い!)


 藤袴が間違っていたのならば自分が死んでやると決めて、三彦を置いて伯太郎も追いかけた。

 彼にとって犬は人生だ。それを信じられなくなるぐらいなら、死んだほうがマシだと思えた。

 路地の曲がり角で、犬の鳴き声が聞こえた。すぐ近くだと伯太郎も刀を抜いて現場へ向かい──。


「ぐっ……!?」


 ぞり、と冷たい感覚がして、頭に登った血が一気に下降した。

 胸を、波打った刃物が刺して背中まで貫通している。

 大量の血が肺に流れ込み、こみ上げて来るのを感じた。

 

「あっ……え……」


 ちかちかとする視界の前に、乞食の女──姿の印象が、先ほどと随分変わって腐るような生気に満ちた目をしているが居る。

 そして、道端に白い毛皮の首元を赤く染めた藤袴が転がっていた。

 

(武器……どこに持って……藤袴……いや)


 吐く息の代わりに登ってきた血が、鼻血となって呼吸を塞いだ。

 ずるり、と肉を引き裂きながら九曲刀が引きぬかれかけるとき、その背後で藤袴がゆっくりと震えながら前足を踏ん張って起き上がろうとしているのが、見えた。

 生きている。


(無理をするな……違う、ここは)


 この相手は、藤袴が見つけた手柄だ。

 だから、

 

「ああがああ」


 叫びは叫びというほど大きくならず、口から血を吹き出しながら伯太郎は相手の腕を浮かんだ。

 一瞬で振り払える程度の握力しか出なかったが、


(藤袴、やれ……!)


 その一瞬で、飛びついてきた藤袴が渾身の力で女の足に噛み付いた。


「──いたい」


 一気に引き抜いて突き倒した伯太郎には目もくれず──九曲刀を、噛みつく顎の付け根に突き刺してその筋肉を断ち切り、噛む力を無力化して犬を蹴り飛ばした。


「伯太郎!! どうした!」


 慌てて駆け寄ってくる同心の声に、三三は舌打ちをしてその場から怪我をしているとは思えない速度で走り去った。

 胸を血で染めて、顔も血だらけになっている伯太郎はすぐさま手拭いと自分の黒袴を脱いで止血しようとしている三彦に、ごぼごぼと血の泡を吐きながら告げる。


「み、みつさん……犯人、足に、噛み跡を……」

「わかった! すまん、俺が信じてやらなかったから……!」

「あと、頼……す」


 聞き取りづらい声を出していると、びっこを引いて藤袴が伯太郎の頭の近くに座り、血の混じった涎が付いている舌で彼の頬を舐めた。


(俺達、頑張ったよな)


 顎を切られた愛犬が悲しそうにしているので、伯太郎は安心させるように口笛を吹こうとしたが、息は出てこなかった。





 *******





 現場を逃げ出した三三は物陰に隠れながら、足の傷跡にボロ布をきつく何重にも巻きつけた。

 走って乱れに乱れた服装は乞食としても怪しく、表を歩ける姿ではない。


「あとすこし……あとすこしだけ」


 言い聞かせて、人が通るのを待つ。

 あと一町も進めば目的の場所にたどり着く。そこには、彼が居る。そうすれば後はどうなっても良い。 

 だからその僅かな距離を誤魔化せて歩ける衣服が必要だった。

 ──そして、活気の無い町の路地近くを、誰かが通りかかる声が聞こえた。


「──まったく、九郎くんと来たら最近は一人で出かけてばかりで危な」


 喪服を着た妙な女──いや、観察をしていた三三は知っている相手だったが、九郎を探している鳥山石燕を路地に引っ張りこんだ。

 そして暫くすると、その路地から喪服を着こなした背筋の伸びた女が出てくる。

 この江戸で喪服を普段着にしているなど、不審に思われるかもしれないがあと僅かな時間持てば良かった。血の匂いが付いた浴衣も処分したかったところだ。

 それにしても今は、先ほどの病身な乞食姿であった三三とはかなり異なる、まともな肉付きの女に見える。

 一二三三三の特技である、簡易的な肉体変化の秘術であった。

 これはその変わり身こそ特別に見えるが、魔術妖術の類ではなく──普通の人間でもできる、頬をこけさせたり、筋肉を盛り上がらせたり、腹をへこませたり、手を筋張らせて見せることを応用、拡大して行っているのであった。

 それらの技術を使い、かつ本人の演技や木炭などを使って陰影をつけることで、非常に弱々しく見せたりすることが可能なのだ。

 もっとも、殺しの技術というより容疑者のがれの方法に使われる技だったが。殺しはいつも、観察して不意打ちを使う。


 そうして喪服の三三は目的の場所──湯屋へと入った。

 むじな亭の町内にあるそこには九郎も通っている。三三が狙ってやってきたこの時間ぐらいにいつも利用していることを、観察から知っていた。

 彼女は見ていた。九郎の空を飛び雷を起こす能力を。だが──確証というわけではないが、例えば空を飛ぶ天女が居ればその衣の能力だと思うだろうし、雷神ならば太鼓を鳴らして雷を起こすだろう。

 道具ありきの能力、と見破ったのは偶然ではない。

 そこで、着衣も刀も脱ぎ去る銭湯で確実に殺そうと決めたのであった。

 

 喪服の持ち主の財布から銭を取り出して払う。

 脱衣場の衣装戸棚には青白い衣が無造作に置かれていた。どうやら彼はもう中に居るらしい。

 三三は喪服を脱ぎ、戸棚に押し込めた。

 手拭いなどは持っておらず、足首に巻いた布は血を擦って外した。ほんの少しならば血が目立たないだろう。

 全裸に無手である。周りから目立たない程度に、胸や腹の肉を膨らませて女らしい体型を作っている。

 そのまま、流し場へ向かうと髷を結っていないので後ろ姿でもすぐに判る、目的の人物を見つけた。

 彼はちらりと流し場に入ってきた三三を見た。そしてすぐに興味を失ったように手拭いで体を洗うことを再開する。


(それでいい)


 と、三三は思った。

 殺しをするならば、流し場がいい。

 浴槽は石榴口という覆いがしてあって薄暗く、一見殺しやすいが狙われていると勘ぐっている九郎はむしろそこで警戒をしているだろう、と予想していた。

 流し場でひと目見て、武器などを持っていない裸の女と認識させた。これで、警戒度は殆ど無くなったようなものだった。

 何気ない歩き方で、九郎の背後を通りすぎようとする。

 三三は己の体が、完全に視界から外れた瞬間に。 


 はらに鞘ごと隠していた九曲刀を股から抜き放った。


 己の肉体を細工すれば、内臓を押し上げて一尺の長さを入れ込むことが可能である。

 彼女は歩く足を止めずに、自然な動きで九曲刀を背中から九郎の心臓へと向けて貫く──!


 はず、だった。


「ちっ!」


 刀が来ると同時に、背後に回った三三相手に恐らく攻撃を察知してではなく、不意打ちとして九郎が裏拳を放ってきたのである。 

 身を捩って放たれた腕は押し込まれた刀がずぶりと肘に深々突き刺さった。

 

「おのれ、仕掛けてきおったか!」


 骨を先端で削る刃の激痛に思わず片目閉じて、九郎は刺さった肘の骨の隙間で絡め取るようにして相手の九曲刀を逆に引っ張り──もう片方の手で三三の持ち手を払って奪い取った。

 九曲刀を放り捨て、血が溢れる右手をだらりと垂らしながら戸惑った顔の女と対峙する。


「なんで……気づいた」

「お主の体から妙な臭いが微かにしてな。それは確か、石燕の持っておった宋代の古墨が放つ臭いだ。希少品で江戸でも持っておるのは石燕ぐらいだろう。お主、石燕をどうした」


 三三の体からは、石燕の着物についていた動物の煮溶かした油を使った墨の臭いが移ったのである。

 なにせ中国の皇帝すら欲しがる希少品。どうやって手に入れたかは知らないが、そこらの女が持っているはずもない。

  

「えへはっ」


 何故か──。

 三三は、嗤った。

 暗い情念の燃えていた瞳は、見開かれて輝きを見せている。

 そして彼女は九郎にこう告げる。

  、、、、、、

「久しぶりだな」


「ずっとこうして、殺し合いをしたかったのに」


「ぼくらは離れ離れになってしまった」


「だけれども」


「こうして来世に出会えたのは」


「さだめだ」


 その目は完全に狂っていた。

 意味深に告げる彼女の言葉に、九郎は少しだけ解読しようと試みたが、諦めた。

 否。

 むしろ、該当する要項──前世がどうとか、そういうことを認めたくなかったのかもしれない。

 もしかして──仮にこのような殺人鬼が、イリシアの転生体だとは考えるだけで嫌気が差した。


「話が通じぬ。もう良い」


 一歩踏み出す。

 左手を身体の後ろに引いて、握りこぶしを作った。


「これから近くまで行きぶん殴る。防御しろ」

 

 それを言い切ると、もう腕の届く間合いだった。

 言葉の通りに九郎は引いた拳をまっすぐに三三へ打ち込む。

 事前に告げておかずとも容易く軌道が見きれるテレフォンパンチであったので、三三も受け止めようとし──それが罠だと知った。

 例えば車が衝突してくるのを、覚悟を決めた程度で受け止められるはずも無い。

 それぐらい強烈な拳が、十字に構えた三三の腕に直撃し──衝撃で骨がへし折れて身体は宙に浮き、流し場の壁へ吹き飛んで背中を強く打って肋骨がべきべきと音を立てた。

 防御しろ、と予め云うことで反射的に回避ではなく防御を選ばせるという──六天流の技にも似た手法である。

 

「おご……」


 あまりの衝撃に視界が暗くなる。頭も壁で打ったらしく、頭蓋の中身がシェイクされたようで吐き気を感じた。

 足元が崩れ落ちるようで立っている実感が無く、ぐにゃりと床に落ちて倒れた。完全に折れた腕が潰されて激痛を放ったが、それを正確に痛みと認識できずに笑い声が漏れた。


「あははは、そうだ、これだ……ぼくはこれが……」


 九郎は付き合ってられないとばかりに足早に流し場から走り去っていく。

 かりかりと三三の爪が床板をむしった。


 九郎は脱衣所に入り、石燕の喪服をひったくるように取って己の疫病風装を適当に体に巻きつけて湯屋を飛び出た。 

 喪服に付いた古墨の特殊な菌を辿って走り、近くの路地に着いた。


「石燕! 無事──そ、そんな……」


 九郎は膝をついて無事な片手で頭を抱えた。



 そこには鳥山石燕が見るも無残な姿で転がっていた。

 

 

 着崩れた白い襦袢一枚に、裸足で、酒の徳利を片手に持っているという酔っぱらいスタイルで。



「……ぐ、ぐー……むにゃ」

「……」

「……九郎くん?」

「なにをやっておるのだお主」

 

 ちらっと目を開けて、九郎の姿を確認した石燕が身を起こした。


「いきなり襲われて、服を剥ぎ取られたわけだよ。幸い、下着の襦袢は取られなかったけれど、この襦袢は喪服の上から帯でしめるから前を合わせられなくて……これじゃあ外を歩けないし裸足だから、いっそ酔っぱらいのフリをしようと」

「はあー……」

「それで走ってこっちに来る足音が聞こえたから泥酔の真似をして誤魔化そうとしたのだが……あ、九郎くん喪服届けてくれたのかね」

「まったく、心配したのだぞ。ほら、早く着ろ」


 地面に座り込んでいる石燕に喪服を渡す。

 

「しかし人に見られなくて良かったのう。妖怪先生は性的にも変な趣味だと思われるところであった」

「失礼な! それに時代考証的に考えれば、町人以下ならば少しばかり露出が多くてもあまり裸に価値が無いから目立たないけれどもね。お七くんがヤバイ着こなしで歩いていても平気だったろう」

「まあ、お七のヤバさとお主のヤバさでは年齢的にかなり違うが」

「ぴちぴちなのだよー!」


 両手を振り上げて主張する。

 そして石燕は九郎が右手をやや後ろに庇っているのに気づいて、


「九郎くん、怪我を──」


 言いかけて、九郎の背後に朦朧とした表情のまま現れた、魍魎の殺し屋が凶器を振り下ろしているまさにその時であった。

 湯屋から他にも人は居たはずだが、執念深く追ってきたのだろう。全裸のまま、完全に折れた腕を添えてまだ無事な腕に九曲刀を構えている。


「後ろ!」


 九郎は察したとばかりに意識を切り替える。


「駄目じゃあないか、殺してくれないと!!」


 三三が叫んだ。

 同時に、身にまとっていた疫病風装が機能して綿毛が手から逃れるような動きで九郎は刃の軌道から逃れて、


「貴様など知るかあああ!」


 叫びと同時に左手で相手の頭を掴んで、頭突きをかました。

 頭と頭が衝突した瞬間、喚起する記憶は──無かったことに、九郎は安心をする。

 三三の瞳が白目を剥いて、ぐらりと倒れる。


「……こやつが恐らく[魍魎]の正体であろうな」

「私から着物を奪った相手でもあるね……うう、殺されなくて良かった」

「まったくだ。証拠が出るかはわからぬが、とにかく番所に引き渡そう」





 *******




 

 女は町奉行所に連れて行かれた。

 逮捕後の経過は非常に順調に進み、あっさりとした幕切れに官憲側が拍子を抜かれるほどであった。

 伯太郎の犬が付けた咬傷により少なくとも同心を襲った事件の犯人として引き立てられ、一連の[魍魎連続殺人事件]について問いただしたところ──。

 三三は至極あっさりと、夕食の内容でも明かすかのように犯行を認めて供述したのである。

 奉行所はまさか、という感じであっただろう。関係者の一人、ならまだしも全てを女一人が行ったというのだ。

 しかし、その殺人を悪いことだと思っておらず、口止めされていたわけで無かった三三次々に殺人現場と殺し方について詳しく述べて、


「殺して心臓を奪ったのはそう頼まれたから。依頼主は布で顔を隠した大陸人風の男で、名前も知らない」


 そう語ったのである。

 また、熱っぽく九郎について語ったので九郎も呼び出されて詮議場にて尋問されたのだが、


「全然知らんやつだ。影兵衛と一緒に取り逃がしたから妙な恨みでもあるのではないか?」


 と、証言して三三の方も、


「彼とは前世で敵であり仲間だった。ずっと彼を待っていて待っていたのに来てくれなかったけれど今来てくれた」


 などと要領を得ない発言をしていたので、日頃町方に火盗改と捜査の手伝いをしている九郎と、殺人鬼の物狂いめいた証言のどちらを信じるかといえば明白であったので問題視されなかった。


 そして判決は──市中引き回しの上に斬首であった。

 本来ならば鋸挽のこぎりびきの上、磔の刑に処せられる重罪なのであるが、諸々の理由で素早く死を与えられることにした。

 鋸挽きは、三日間日本橋で晒し者にした後で縦三尺、横二尺五寸の箱に入れて首枷をして埋め、竹で出来た鋸を置いて「恨みの有る者は挽いて良い」という旨の看板を立てるのであるが、まず罪人が痩せた物乞いに見える女で、奉行所の誰もが「まさか」と思った通りに十四人も殺した殺人鬼に見えないというのが問題であった。

 つまり世間に、事件の収まりが付かないからとりあえずの犯人を乞食で用意した、と見られる可能性があったのである。

 それに物狂いの言葉で世情が惑わされては余計に魍魎の影を深く落とすことになる。

 そのために市中を引き回して、即刻の斬首。そして首だけを晒し者にするという刑罰になったのであった。首だけになれば、乞食の体が付いているよりなんとも怖ろしい印象を覚えるだろう。

 

 市中を引き回しているときに。


「殺されるなら彼に殺されたかったなあ……未練だなあ……未練があるならまた来世で会えるかなあ……えへ、えへへへへへへへへへ」


 そう嗤っていたと、運ぶ下男は聞いていて酷く不気味そうに言ったという。



 こうして江戸を騒がせた魍魎は。

 犯人が明確に捕まったというのに、その殺人鬼は後悔もしていなければ派手な捕物で抵抗もしていないという、どこかすっきりしない感情を関係者に植え付けて──ひとまずの解決をした。


「つまりは、魍魎はサメのようなものなのだ」

 

 穢れを払うように九郎は石燕と酒を酌み交わしながらそう云う。


「何処から襲ってくるかわからぬ間は、恐怖と死の暴威を振りまくが──迎え撃つ準備を整えれば、駆除できる害魚でしかない。犠牲になった者達も、己れの時のように堂々と姿を表して襲ってくれば返り討ちに出来た者も居ただろうなあ」


 実際に、近寄られさえすれば影兵衛でも反撃を食らわせられた筈であった。利悟は同僚が見張ってくれているからといって完全に油断して寝ていたが。

 或いは晃之介など気を張りすぎて魍魎は道場に近づけさえしなかっただろう。


「犯人を捕まえて殺しても、サメはなんとなく人間を殺していたという曖昧な理由しか無いから、厄介事が消えたというだけで何も得はしない。失った者も戻ってこない。本当に、人間というにはおぞましくも無邪気な小児のごとき化け物──まさに鬼だったね」


 石燕は自分で描いた人喰らいの魍魎図を再び広げて解説を記した。


 魍魎。

 形三歳の小児の如し。色は赤黒し。目赤く、耳長く、髪うるはし。このんで亡者の肝を喰らうと云。


 そう記されている。

 江戸を騒がせた悪霊として忘れるぐらいしか無いのかもしれない


「そういえば、心臓を十四集めていたのはどういうことだろうかのう。魍魎以外の誰かが求めたようだが」

「十四……という数に謎があるのかもしれないね」

「というと?」


 九郎の問い返しに、石燕は五本の指を立てて親指を曲げたり伸ばしたりして見せる。


「十五、ならばキリが良くてわかりやすいのだよ。日本のみならず、十五という数字は[整ったもの]とか[完全なもの]という意味を持つ。わかりやすくいえば十五夜などが有名だね。そして十四は[完全に一つ足りない]というそのままの意味だ。これもこれで呪術的には使われることがあるのだが……例えば、反魂の術を使った西行法師は骨を集めて死者を生き返らせたが心の無い紛い物しか出来なかった。一説によれば、彼が使ったのは行き倒れた[十四人分]のバラバラの骨の使える部分を蔓と糸で組み合わせて術を行ったそうだ。だからこそ一つ足りず、心を作れなかったのではないか……というのは恐らく後世の後付だろうが、そういう呪いの力を持つのだよ、十四という集まりは」

「それこそ、半端で不完全になるのならば十四の心臓を集める意味もわからんなあ」


 そのような、気の触れている行為を行わせる依頼者について深く知ろうとするのも危険なのかもしれないが。

 

「しかし……知り合いにも犠牲が出たとなるとな」

「伯太郎くんかね。詳しくは聞いていないのだが、どうだったのだね」

「一命は取り留めたのだがな……」


 魍魎に胸を差された同心・小山内伯太郎は血で溺れて一時は意識を失い、出血多量で心臓が弱ったもののこれ以上犠牲者を出させないという町奉行所の方針で、将軍の御殿医さえ呼んできて治療に当たらせてどうにか死を免れた。

 しかし酸素欠乏症からか脳に障害を負ってしまったのである。

 それが治るかは不明で、知り合い皆は微妙な顔で見舞いをしにいった。


「脳の認識を司る部分がかなりやられたようでな……」

「それは……」

「どうも、人の頭を見ると──犬耳が付いているように見えてしまうらしい」

「……は?」


 石燕が聞き返した。


「いや、だから。普通の人間が犬耳の生えた犬人間に見える脳障害になっていて、本人は喜んでいるようだが皆は気味悪がってなあ」

「な、なんだねそれは……もはや怪我の影響じゃなくて、まさに犬の神様が加護でも与えたのでは?」

「そうかもしれないのう。己れが見舞いに行ったら『よしよしよし──!!』などと奇声を発して頭を撫でてきてキモかった。さすがに怪我人だから殴り飛ばさなかったが……」

「男の子でも行けるようになってないかね彼!?」

「フサ子やハチ子を近寄らせないようにしておこう……」


 九死に一生を得て臨死特典とでも云うべき境地を手に入れた伯太郎であった。

 それはともあれ、石燕は手元で作っていた道具の仕上げに、糸を歯で噛み切って九郎に見せた。


「よし! 出来たよ九郎くん。左手でもおつまみを取りやすい道具、名づけて[おつまみつまみ]!」


 それは小型のトングのような形に竹べらを組み合わせたものである。

 またしても利き腕を怪我して、数日は治らない九郎の食事補助に石燕が作ったのだ。

 

「おお、これはありがたい」


 肘を包帯でぐるぐるに巻いているので曲げにくく、左手で酒を入れた湯のみやら箸やらを使わないといけなくて難儀していたのである。

 石燕から渡されたそれを使えば簡単に取れる。

 それを見ていたお房が、首を傾げながら石燕に言った。


「ここぞとばかりに、取り箸して九郎に食べさせてあげればいいのに」

「ふふふ、房よ。それは憧れの状況と言われているが、時と場合によりけりなのだよ!」


 不敵に笑い、食卓に並べられた多種多様なつまみと徳利の林を見せつけて、


「ほんの一品二品ならともかく、長時間飲み食いしようとしている状況では自分で好きなように食べれないと逆に面倒で鬱陶しくなるのだ! 酒飲みにあーんは必要ない! 呑み会の席で周りの視線を受けながらあーんとかやる奴は死にたまえ! 二人きりでやっていたまえ!」

「うわあ先生の、乙女行動より優先される酒飲みへの情熱と僻みなの……」


 熱弁する石燕にドン引くお房である。

 いつものことなので九郎は気にせずに、渡されたトングで小皿の料理をひょいひょいと拾って食べている。


「いやしかし、これは便利だぞ。一品ぐらいならいいのだろう? ほれ、石燕食ってみるか」

「え? あ、うう」


 九郎がトングで、里芋を切ってそばつゆで煮ただけの簡単な煮物を差し出してくるので。

 石燕はやや躊躇いながら口を開いて──。


「あら、我ながら美味しい」

「房ァ──!」


 お房に取られていた。

 彼女はもごもごと柔らかな里芋を噛んで飲み込み、半眼で告げる。


「だって先生が要らないっていうから。要らないなら貰うのよ」

「うぬー……」


 妙な空気になっている二人をきょとんと見ながら、九郎はタマを呼んで告げる。


「なんであやつら、里芋ごときで喧嘩しておるのだ」

「うん。兄さんは空気を読もうね」

「ははぁ……よし、タマ。里芋もう一皿持って来てやれ」

「駄目すぎる……」


 肩を落としながらも、タマは板場へ向かうのであった。


 こうして魍魎の影は日常へと戻ることで払拭されていく。すっきりしない内容は呑んで忘れることで、そのうち薄れていくだろう。


  

 ただ、猟奇的な──十四の心臓が何者かに渡されたという事実を残して。






 *******




「よくやったぞ、伯太郎。お前の犬の噛み跡が役に立った」

「は、はい……」


 口元を抑えて伯太郎はプルプルと震えた。

 奉行所内にある官舎を間借りしていて、怪我の療養に務めているのだが。

 後始末が色々と忙しかった町奉行、大岡忠相が直々に見舞いに来たのである。

 いかにも苦労していそうな皺と、初老になりつつあるのにまだ生気に満ちた顔色。さほど大柄ではないが、がっしりとした体つきで迫力のある上司である。将軍との昵懇の間柄なのが似合う、強い男といった雰囲気だ。

 その頭に三角の柴犬めいた耳がついていなければ、伯太郎もむしろ褒められて感動をしていただろう。


「口を切られた犬には柔らかく煮た鶏肉をくれている。共に養生に励み、また江戸の街の為に頑張れよ」

「ありがたき幸せです……くっ」


 ピコピコと大岡越前の頭に揺れる犬耳に笑いを零さないように、伯太郎は必死にこらえるのであった。

 しかしながら、この謎の認識異常により伯太郎は物怖じせずに、またある程度は年増などに対しても嫌がらずに接することができるようになるという利点も生まれたのであった。

 犬耳が付いているというだけで、彼は他人に対してかなりプラス補正が掛かるタイプのようである……





 ******





 六天流道場にて。

 目に深い隈を作って無精髭を生やし、かなり疲れた様子の晃之介が云う。


「ところで九郎。犯人が逮捕されたと聞いたが、俺の道場を監視している気配は消えないのだが」

「……お祓いでも行くか?」


 鎧神社に夜中に行ったら出会える、落ち武者みたいなおっさんに頼んだら一晩で怪しい気配は消えたそうな。



 ただし、江戸から遠く離れて柳河藩にて、藁人形を使った恋の御呪おまじないをしていた女武芸者が突然発狂するという怪事が起きたとか起きなかったとか……晃之介は藩邸に稽古を付けに行ったときに、耳にしたのであった。






ヨグ「ゾンビ映画なら噛んでくれるかな(ドキドキ」


怪しいフラグばら撒いたところでシリアス編終了

次回からまた空気のゆるい日常編です

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[一言] 柳河藩の人、また登場してほしい。
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