110話『一二三三三号事件(中編)』
──夜の静かな隅田川を船が行く。
屋形船だ。船の上に屋根と座敷があって四方を障子が囲んでいる。中では行灯の灯りが薄ぼんやりと障子紙を白く光らせていた。
伊勢屋、という大手の船宿の出している屋形船である。客として乗っているのは、水天宮近くで剣術道場の代稽古をしている山倉重左衛門という男であった。
その日は、夜中まで知古の剣友と酒を飲み交わして、馴染みの船宿に予約していたとおりに迎えの船を出してもらい、帰るところだ。
(一人歩きは危ない……)
と、思ってのことである。酒の席では、その剣友と近頃起きている不気味な魍魎のごとき辻斬りについて、返り討ちにしてやろうだのと威勢の良いことを話し合っていたのだが。
勿論、重左衛門もその友人も剣の腕には自信があった。されど、奇襲を受けての不利もそこらの粋がっている三下者共よりは、理解している積もりである。
襲われないのが一番で、更に警戒も怠らないようにしている。
実際に、船宿に予約するときは船の漕ぎ手も見知った顔の相手を指名したし、乗る前にも頭の笠を取らせて顔を確認した。
まさか泳いで襲いに来るとは思わないが、念のため他の船が近づかぬように、左右の障子を開け放っている。
一介の剣客ですらこの怯えようなのだから、心臓を抜き取る魍魎の影は既に犠牲者数名の元、江戸に色濃く影響を与えている。
──ふと、座敷の行灯から火が消えた。
重左衛門は無意識に刀に手をやる。風は吹かなかった。それに、誰かが船に乗り込んだ気配も無い。
「旦那?」
「……待て」
漕ぎ手から呼びかけられて彼が動くのを制止した。
そっと周囲を見回しながら、重左衛門は座敷の後方──船の進行方向から見て──にある行灯に膝立ちで近寄る。用心の為に刀は既に抜き放っている。
覗きこむように中を見てみると──油皿の油がもう空になっていて、灯芯が燃え尽きていた。
(行灯が自然と使い終わっただけか)
ほっとして息を吐こうとした。
が。
ど、と喉に衝撃が走り、呼気は止まった。口と鼻に鉄錆のような、生臭くぬるりとした液がこみ上げる。
強い力で上から押さえつけられて、首を、頭を上に向けてその正体を見ることもできなかった。力が急速に失われていく刀を持った腕が、ぶらりと一度だけ上方向に振られて落ちた。
そしてそのまま座敷の床に縫い付けられる。鮮血がごぼごぼと溢れて、死の臭いが広がる。もがこうとしたのか筋肉の反応か、少しだけ振り回された手指についた赤い血が障子に水玉模様を付けた。
天井を突き破って重左衛門の喉を貫いたものは手槍だった。
予めこの船が夜に彼を迎えに行く前に、行灯が途中で切れるように細工をして、それを覗き込んだとき上から貫ける位置の屋根に登って待ち構えていたのだ。
小さな穴を屋根に開けておけば正確な場所も判る。そして、江戸の夜は暗いので夜に屋形船の屋根の上に居ても、光の位置に気をつければ見咎められることはない。
観察しての、結果だった。
「旦那……?」
再び漕ぎ手が呼びかけ、振り向こうとした。
同時に、彼の体は槍の石突部分で軽く押されて川に落とされる。急に闇の中で体を突かれれば、過剰に反応して後ろに下がるのでそう力は必要ではない。
ざば、と水音を立てて水面でもがく男を船の上から魍魎が見下ろした。僅かに月光が反射して見えるその瞳は、人の生き死にがどうでも良さそうな無機質な色を灯している。
そんな相手に見つめられて、どうして無防備な状況で騒げようか。
す、と船が移動していく。幸い川はぬるく、漕ぎ手ならば泳げぬ者は居ない。岸まで問題なく辿り着けるであろう。
それでも、暗い水の底に引き摺り込まれるような恐怖に駆られ、音を立てずに泳いで逃げていくのであった。
魍魎は座敷の中に戻り、血まみれでうつ伏せに倒れている重左衛門の体をひっくり返す。暗がりでも見ることが得意な彼は昼間と同じように作業ができるのだ。
着物の前を開けさせる。そして畳を上げて船底との間に隠していた、小さな壺を取り出した。
腰の後ろに括りつけた分厚い刃物を取り出す。小刀や匕首ではない。頑丈な鉄の板を尖らせたような無骨さを持つ短剣だ。
(依頼主から心臓摘出用に貰ったけど、便利だな)
意匠からして異国の物であったが、日本刀のような鋭さが無い代わりに力任せに肉を切れて、刃こぼれが気にならない。
依頼主も江戸に来ているようだった。こうして必要な物があれば頼めば用意してくれる。全く何の商売をしているのか、不思議に思うぐらいだ。
それで、重左衛門の胸にまず十字に切れ目を入れた。深く刀身を肉に埋め込んで強引に刃をこすり付けて切る。泡が滲み出るように血が出てくる。
そうしてその切れ目に手指を突っ込んで、めりめりと肉が裂ける音を立てながら開いた。厚さ一寸もない胸の肉がつまめるように身体の内側から剥がれ落ちて、血だまりになった中身には骨や太い血管が見えた。
無造作に肋骨の隙間に短剣を入れて梃子の原理で邪魔な部分を千切り、肝心の心臓を手早く切り取って出す。
そしてそれを、塩がたっぷり入った壺の中に入れて適当に塩をまぶした。純白の、穢を払う粉末がどす黒い血で染まる。
殺しはこの心臓を奪うのが面倒な作業だ。重たくて邪魔な壺を持ち込まないといけない。千切った心臓をそのまま持ち運ぶのはより大変だからだが。
今回の作業はこれで終了だ。これで八人目。半分を過ぎて残り六人。徐々に警戒されてやりにくくなっているので、早めに終わらせたくはあった。
[魍魎]の三三は船を操って近くの岸を目指した。拠点にしている空き家に、昼間に買った鰻飯を用意してある。それを帰って食べようと思いながら。
──翌日、再びの魍魎の犠牲者としてどこの瓦版も、この世の終わりの如くおどろおどろしい記事を書いて売り捌いていたという。
******
ぼくは殺害対象の観察を続けている。
殺しの名簿に書かれた幾つもの名前。数名は既に消してある。閻魔帳とでもいうのかな。そこから十四人を選んで寿命を告げなさい。それがぼくの役目。
なんと傲慢なのだろうか。ぼくは神にでもなったつもりか。
自嘲しながらも、十五年続けてきた殺し屋の仕事と今回もなんら変わりはない。死ぬ人数が多いだけで。
ぼくがこれまでの人生で殺した人数は、三十人ぐらいだ。それからすると、今回の仕事はかなりの大仕事。
ただの一人もぼくが自分の意思で殺したことはなかった。誰かに頼まれて、殺しの代役として暗殺をしてきた。
だからこうして名簿を見て、自分でその中から誰かを選んで殺すというのは、どうも気分の悪さを感じる。まるでぼくが悪いことをしているみたいだ。
人を殺すとき、悲しいなと思うことはあっても、悪いなどと思うことなんて無かったのに。だって殺すのはぼくじゃなくて、誰かの殺意なんだから。
名簿に書かれている全員を、江戸に入って一通り調べたところ殆どは剣術の使い手だった。中には相撲取りや、やくざみたいな人も居たけれど、腕っ節の強さで多少は知られている人。珍しいところでは歌舞伎役者も居たかな。
やりにくいのは彼らの腕の問題じゃない。ぼくはそもそも、まともに斬り合いなんてやらない。だけど武士というのは、役目についていれば殆ど必ず従者が居る。一人きりになるのはそれこそ屋敷の中などだから、侵入という手段を取らないと近寄れない。
殺したのは比較的自由な、無役の道場主や、通いの用心棒などを狙う。一人は旗本を、屋敷に忍び込んで寝ているところを殺したけれど、やはり大騒ぎになったみたいだ。ぼくはもちろん捜査線上に浮かんでいないけど。
官憲が殺しで疑うのは、盗賊か怨恨かだ。だから、なんの関わり合いも無い誰かが単独でやった殺しは行き着かない。殺し屋の仕事が無くならない所以だ。
殺しやすい相手の目星をつけていて、今日も観察をしている。
蕎麦屋で居候をしている、青い着流しの少年だ。名前は九郎。他の腕利きな侍達に比べると、なんとも殺しやすそうな立場だがたまたま後回しになっている。
毎日決まった行動をしないから、その点では他より不測の事態に注意が必要といったところか。
一日の行動を、近づいたり離れたりしながら観察して纏めると。
・朝、十歳ぐらいの居候先の娘に小遣いをねだって怒られる。
その後娘の肩を揉んだり撫で回したりして機嫌を取り、なんとか金を得て出かける。
・午前中のうちに隠れ賭場で貰った小遣いを使い切る。
・昼間、神楽坂にある情婦の屋敷に顔を出す。その喪服の相手はまだ寝ていたので、勝手に財布を漁って書き置きをして出て行く。
・賭場で勝ったり負けたりして最終的に持ち金を三割ぐらいにして出て行く。
・残った金で友人らしいヤクザ風の凶悪顔同心(こっちも標的である)と女郎宿に入る。
・何故か金を増やして出てくる。女郎から逆に金を巻き上げたのだろうか。
・甘いものを土産に買って帰る。
……名簿の中で一番殺害依頼がしっくり来るなあ。放っといても刺されてそう。
しかしなんか、気が抜かされたのでとりあえずこっちじゃなくて、さっき別れた同心の人へと監視を移そう。
******
九郎の私生活が穿った見方で監視されている一方──いや、本当に誤解を監視者に与えているだけであり、実際は合理的かつしっかりとした大人的な行動を取った結果である。決して客観的に見ると人間としてかなりアレなわけではない。
お房には、預けていた九郎の給金を[魍魎]事件の捜査費用として引き下ろそうとしたら、「危ないことするの?」と九郎が危険な殺人鬼に関わるのを心配されて、少し渋られただけであり。
彼女をコマして小遣いを貰ったのではなく説得をしたのである。多少理屈を通すより撫で回したほうが女はいうことを聞いてくれるというのは単なる九郎の経験則だ。
賭場はならず者が出入りする上に、九郎はその胴元と知り合っている──御用聞きとして黙っているから、こっそりと見知らぬ利用者の情報を得る約束をしている──ので、そこで金を消費したのは運が悪かっただけだ。
そして石燕からさらなる捜査費用の援助を頼みに屋敷へ。彼女とはツーカーだから、書き置きだけで十分なのだ。後はまあ飴でも舐めさせてやれば。
再び別の賭場へ情報収集。そして影兵衛と合流し、二人で女郎宿へ。これは利用しに入ったのではなく、その宿には近隣の遊郭の元締め的な女ヤクザが居るので、怪しい奴が利用していなかったかの聞き込みであった。
「怖ぇ悪党が居るとこんなぁも怖がるし、客足も鈍るからのお。兄さんらには早くマン糞悪い犯人を捕まえて貰わにゃ」
片目に大きな傷があり、引きつったような笑みを浮かべた頬に刺青を彫ってある年齢不詳の女ヤクザがそう云って気前よく自腹で捜査費用を補填してくれただけの話であった。
そう、断じて主人公は少女や未亡人に金をたかっては博打でスッて、既に誑かしている商売女を買いに行って逆に金を無心し、その帰りの足でお土産の甘いものを用意して機嫌を取ろうとする外道ではないのだ。
一応ながら江戸を脅かす悪党を探す彼に対して、悪質なデマゴーグは止めよう。
さて……。
二人の捜査が始まったのは少しばかり前からである。
この事件に関しては火盗改方ではなく町奉行所が担当をしている。犯行は、被害者を殺害して心臓をえぐり取っていることであり、火付けでも盗みでも無かったからだ。心臓が盗まれてはいるものの、さすがに被害届けも無いそれに関して盗賊として扱うわけにもいかない。
なので捜査情報に関しては少し疎かった影兵衛だが、町方の藤林同心からお花経由で伝わった九郎の、腕利きばかり殺されているという話を聞いて、
「馬鹿野郎それを早く云えよ! うひょー! なんだなんだ? 拙者に来るのか!? こい! ほら!」
などと張り切り出した。
腕利きを殺せるということは、殺人鬼はそれ以上の腕前と思ったのだろう。
「よゥし、もっと詳しく聞く為に利悟を探して聞いて見るか」
そうして、影兵衛は九郎を連れて火盗改メの役宅から飛び出し、町中を警邏している利悟を捕まえた。
近所の茶屋に連れ込んで厳しい責めを浴びせようとする。情報を吐かせるためだ。
「なんで!? 拙者普通に明かすよ!? なんで竹串を指に刺そうとしてくるの!?」
「ちっ……」
「うう、舌打ちまでされてる……とにかく、誰が名付けたか[魍魎]の情報ね」
利悟はしんどそうに首を振って、目の前の茶で口を潤してから云う。
「これまでの被害者はどれも殆ど抵抗の形跡が見られない。剣術の使い手が多かったけど、刀すら抜いていない状況で殺されていたんだ」
「ほう」
「もちろん、首を絞められて死んだ被害者は首元に爪で引っ掻いた痕はあったけど。つまりどれも、一人で油断してたときに急な襲撃を受けてそのまま死亡って感じ。死んだ後で心臓をえぐられたみたいで、検死した山田浅右衛門が出血の少なさから指摘してたなあ」
「ふむ。つまり油断した時に襲い掛かってくるわけか。随分と厄介だのう……」
九郎が顔をしかめて云うと、利悟も同意した。
「それで一人の時だね。だ・か・ら! この危ないときに、うちの奉行様は囮作戦とか云って拙者が刀を持たずに一人で歩きまわらせてるんですけど!?」
「ああ……そういえば今日は腰が寂しそうだのう」
「大丈夫かよ手前。いや、死んだら死んだで良いんだけど、最近うちのかみさんが瑞葉ちゃんと仲良くってよ」
「ううう……一応、気付かれないように藤林同心が後をついてきてくれてるらしい……」
利悟は周囲をちらりと見るが、それらしい影は見えなかった。
変装と追跡の達人である藤林尋蔵が本気で隠れて追跡を行えば、それを知らされている利悟さえ見つからないようである。徹底的に、利悟を非武装で一人きりの扱いにして狙わせる算段のようだ。
そういう作戦を取るのも勿論、利悟が町方でも有名な使い手であって狙われる可能性は高いが、同時に襲われてもどうにか切り抜けるであろうと期待されているからだ。
魍魎が単独犯とするならば、利悟とその手助けをする尋蔵で相当な手練でも逮捕できるだろうと判断された。
他の同心などは必ず二人一組以上で行動させているのだから、利悟の信頼され具合がわかるというものだ。
「単に使い減りしない撒き餌にされているだけでは」
「薄々気づいてるんだから云わないでくれよ! くっ……こっちは新婚だってのにこんな危険な……」
「おう、そういや利悟も新婚さんだったな。最近どうよ、ほれ、あっちの方は。美人で良かったじゃねえか」
「あああぐうううあああ!!」
「叫んだ!」
「頭を抱えた!」
悪霊に取り憑かれたように苦しみだした利悟に対して、九郎と影兵衛は身を若干引いた。
ぶるぶると震えながら利悟が記憶を言葉にすれば脳から抜けるとばかりに、囁いて現実を否定する。
「こ、こ、こ、この前なんか瑞葉がおむつ付けてて赤ん坊女児風な格好をぐへはー」
「あやつも誘うのに手段を選んでおらぬなあ」
「道理でおむつの付け方が上手かったって、うちのかみさんが褒めてた筈だぜ」
少し発破をかけすぎた気がしないでもない九郎はやや罪悪感を覚える。
「しかしアレだ。油断させて犯人を誘うって手は[あり]だな。よっし、拙者も真似しよう」
そうして、影兵衛もそれから手ぶらを装い──刃渡り七寸の小刀を懐に忍ばせて──襲撃を待つことになったのである。
だが影兵衛が一見武装して無くても、連れを伴わず一人で出歩いても、中々相手は乗ってこない。
*******
早く結果を出さなければ、猟奇殺人が発生している夜にうろついている容疑者としてそのうち挙げられるだる。
そこでその日──九郎がダメ男的行為を監視されていた日──に、ヤクザから資金を一時的に借りて息の掛かった賭場へ向かうことにした。
安芸守松平家の下屋敷にて行われているのは丁半ではなく、札めくりという花札に似た賭け事であった。
これならば大勝ちすることを避けて、小さい役を狙うことで丁半などより、わざと負けやすい。
その下屋敷での賭場は現物賭け可能ということで、刀から着物まで担保に入れて金を作れる。
「ちぇっ……ツいてねえな」
などと云いながら夜も浅いうちに金を使いきり、身ぐるみまでさっさと売り飛ばして褌一丁になった。
他客からは笑われながらも捨て台詞を吐いて賭場を出て行く。
褌に草鞋だけをつっかけて、どう見ても手ぶらでこれ以上無防備な姿はない。その状況をわざと作ったのである。
「えくしっ……さあて、鬼が出るか蛇が出るか……」
完全に無手な影兵衛だが、案は一応あった。それは、必ず魍魎と呼ばれる悪党は刃物を持っている筈だということである。彼も心臓を切り裂かれた死体を検死したのだから間違いない。一部の噂では、猛獣が胸に噛み付いて心臓を食らっていくと云う話も囁かれていたが、確実に刃物が使われていると影兵衛は断じた。
ならばそれを奪って反撃すればいい。
策というにはかなり力任せな方法である。
「一つ秘湯で尼さん見つけ、二つ不毛の観音拝み~♪ 三つみこすり見咎められて、四つよろしく精進落とし~♪っとくらぁ」
下品な歌を口ずさみながらほぼ裸で、人通りの少なくなった浅草近くの今戸町をぶらぶらと歩き、誘っている。
そうしていると、やがて気配が彼を取り囲んだ。
十名程の男達だ。顔に傷があったり、頭を剃りあげていたりして非常に人相が悪い。どれも手にドスや角材を持っていて、影兵衛を睨みつけていた。
どう見てもゴロツキやヤクザの類である。
立ち止まってそれらの顔を影兵衛は眺め回したが、名前は特に浮かんでこなかった。見覚えぐらいはあったが。
「おやぁ? おやおやおや、どちら様だよ手前ら」
呼びかけると酒焼けしたようながらがらの声や、胴間声で威嚇するように怒鳴ってくる。
「じゃかあしい! こんモタレがああ!!」
「おどれがケツ毛まで賭場で毟られちょるって密告があったんじゃあ! 」
「のう! のう! いつまでもおどりゃに握り金玉されてっと思うとるんかい!! クソったれの小僧っ子が!!」
「ここでぶち殺しちゃるから往生せいや糞ンだりゃあああ!!」
──日頃影兵衛に恨みを持っているヤクザ共であった。中国地方めいたスラングで口汚く宣戦布告をカマした。
基本的にこの同心は、悪党に容赦がない上に利用してやる、という形で使いっ走りにしたりショバ代を払わせたりしているのでとにかく嫌われている。
ひとえに、影兵衛を襲ったゴロツキは首と胴がお別れしてしまうので逆らえない関係だったから言うことを聞いているのである。
とはいえ近頃は嫁と子供もできたので悪い遊びも控えめになっていた。それで、影兵衛の恐怖が薄れたところで無防備になっているとチンコロされて、血の気が逸ったヤクザが路上で待ち伏せしていたのであった。
流石に、これは影兵衛も予想外である。
だが。
「上等だ手前ら。最近体鈍ってたからよ、準備運動代わりに皆殺しにしてやるぜ」
手の骨鳴らして、凶悪に歪んだ笑みを見せて影兵衛は仁王立ちに構えた。
江戸で八人殺して怖ろしい噂になっている魍魎が居るが。
影兵衛はここに集まった十人のヤクザを、言葉通りに皆殺しにする予定である。こっちのほうが大事件に成りかねない。
というのも、理由があった。恨みを持ち、隙があれば影兵衛を殺しにくるというヤクザが居ては、
(うちの嫁とガキが危ねェからな、始末しておこう)
こういう類いは、痛めつけて降参させても後々厄介だというのも知っていた。
それを口に出すのも弱点のヒントを与えるようだから告げないが。
「過去は精算しとかねえとな」
自分の報いで家族に害が出る前に──消しておくのだ。
「おどりゃあ! 随分調子に乗ってるじゃないの! おう、囲んで一斉に行くぞ!」
「ヤキ入れたらあああ!!」
──ヤクザの攻勢が始まった。
角材で殴りかかってくるのを影兵衛が上体を逸らして避ける。同時に身を低くしたヤクザがドスを腰だめに構えて突っ込んできた。
そいつの顔面に蹴りを入れて吹き飛ばすが、抵抗のように振り回されたドスが浅く影兵衛の腕を切った。
「ちっ……」
ぱっと赤い線が彼の腕に走り、血が僅かに垂れる。
強敵の影兵衛が早速の負傷をしたことでヤクザの意気が上がる。
「ぶっ殺したらあああ!」
「おやっさんも血が出るモタレは殺せるって云うちょったんじゃあ!!」
上段から振り下ろされた角材を避ける。地面に叩きつけられて持っているヤクザの腕が痺れたところで、角材を踏みつけて相手の手から離させた。
刀に比べて刃渡りの短いドスの利点は、格闘戦にそのまま使えることだ。つまり、刀では余程器用に使わねばつかみ合った状態で相手は切れないが、ドスならばどういうときでも刺せる。
腰だめにタックルしてくるように影兵衛にぶつかり、体を捕まえて刺そうとしてくる。
「うぜェんだよ!」
肘で相手の首筋を撃ちぬいて引き剥がすが次々にヤクザが襲い掛かって来た。
他の仲間を気にもせずに振り回す短刀を影兵衛は紙一重で躱すが、いなしたりする手や脇腹を浅く刃が薙ぐ。
ドスの一本を奪って一人のヤクザの首を刎ねるが、ナマクラな上に目釘がしっかりと付いていなかったのか首の肉に食い込んだまま柄が壊れたので手放す。
血しぶきを上げるヤクザ仲間が居ても怯まずに襲ってくるのは、余程興奮しているのか、薄暗いからあまり気にせずにいられるのか。
二人、三人と影兵衛が敵を仕留めていくが。
もし彼の知り合いが見ていたならば、その動きの鈍さに驚くだろう。
やはり平和な家庭で過ごしていて斬り合いの勘が落ちたのではないかと思うかもしれない。
或いはヤクザも、影兵衛を決して殺せぬ化け物ではない、勝機があると判断している。
ドスを振り回し、憎い相手の体に傷をつける度に歓声が上がった。
──それから。
暫く、というほども時間は経過していないが、ヤクザと影兵衛の殺し合いは終わりを迎えた。
その場に立っているのは影兵衛一人、斃された者は呻き声も呼吸もしていない。
「痛っー……ま、放っとけばヤクザ同士の抗争とでも思うだろ……クソ、やっぱり弱くなったな、拙者」
だが、勝利した影兵衛も褌一丁の体に、生々しい傷跡が幾つも刻まれてテラテラと明るい月光が血液で濡れた体を夜暗に浮かび上がらせていた。
「へへっ……こりゃあ、かみさんに怒られちまうぜ」
最後まで持っていたドスを放り投げて、片手を押さえながらふらりとその場を立ち去ろうとした瞬間。
風。
音。
が、矢になって飛来し、咄嗟にそちらを向いた影兵衛の顔面に──命中した。ぶん殴られたように、大きく頭を後ろに跳ね上げて、どたりと体を地面に倒す。
弓矢による狙撃である。
普段ならば刀で打ち払うか、そうでなくとも簡単に避けれたのだろうが──武器の一つも持たずに、傷だらけの体では反応が遅れたのだろう。
顔から箆(矢の棒部分)と矢羽を生やしたようになった影兵衛は、地面に倒れて僅かに身震いし──動きはそれだけで、止まった。
「……」
建物の影から、闇夜に紛れる紺色の布を体中に巻き付けて目元だけ出している格好をした者がゆっくりと出てきた。
[魍魎]の三三だ。
観察をして標的の気が緩むタイミングを只管待ち続けて──そして狙撃を行ったのである。
殺したからには路上であるので、急ぎ心臓を抜き取らねばならない。
ぎらりとした大きく湾曲している短剣を抜きながら、影兵衛へと向かった。
十間。九間。八、七、六、五、四間と近づいた距離で魍魎の進みが緩やかになる。
(なんだ……?)
慎重に一歩。用心して二歩。そして三歩踏み出して三間の距離に入ろうと。
して。
死角になっていた、影兵衛の顔が見えて───
その突き刺さって見えた矢尻が、影兵衛の口の中に入っているのを、見た。
同時に、笑いを堪えているかに歪んだ、死に顔の目が、ぎょろりと動く。
ぞ、と背筋を泡立たせて、魍魎は飛び退った。
「逃がすな、九郎!!」
矢を咥えたままくぐもった声で影兵衛が叫んだ。矢が命中したフリをして、歯で受け止めていたのだ。魍魎を誘う為に。
そして、やや離れたところから隠形符で姿を消していた九郎が現れる。
二人が協力した罠だった。ずっと彼は手伝いもせずに、じっと魍魎が近づくのを待ち構えていたのである。
魍魎は迷わず背を向けて逃げに走る。
「逃がすか! [電撃符]上位発動!」
如何に素早い相手だろうと、雷の速度に勝るはずは無い。
九郎の術符から放たれた紫電が周辺の大気を爆ぜさせる音を立てて、ジグザグに曲がりくねりながらも逃げ出した魍魎へと一瞬で到達──したのだが。
恐らくは雷を防ごうとしたわけではなく、投擲をして時間稼ぎをしようとしたタイミングが重なったのだろう。
魍魎の持つ短剣が投げ放たれて、雷は中空でその金属製な刃へと収束して爆発的に拡散したのである。
「はいはい効かない効かない!! クソっ不良品だぞイリシアー!」
やけくそ気味に九郎は叫んだ。肝心なときに本当に何故か役に立たない術符である。この電撃符という超強力な攻撃魔法は。
仕方なく追いかけるものの、雷光の強烈な眩さを直視した九郎は若干遅れる。
瞼にまで白い光が焼け付いて、一時的にだが薄暗い周囲が殆ど見えない。
「ええい、疫病風装の感覚を使って……!」
と、九郎の見えづらい視界に光情報の代わりに、周辺の病原菌などがサーモグラフィーのように浮かび上がる。
そもそも人の住む町中ではあちこちに雑菌が多くて把握しづらいのだが、夜で相手が一人ならばと痕跡を追いかけた。
だが。
今戸町は近くを大川が流れる場所であり、魍魎は一直線に川に向かって逃げていた。
水の中に、大きな物が飛び込む音がする。
目をこすりながら九郎が川岸に近づいて確認すると、水面に追いかけていた賊の雑菌がついた布が浮かんでいた。どうやら飛び込んだようである。
九郎は電撃符を握りしめて、唱える。
「[電撃符]、凌駕発動」
術符に込められた魔法を最大威力で解き放つ。書かれた魔術文字が一際強く輝き、コロナ放電により九郎の睨む大川のあちこちや岸に浮かぶ船が音を立てて、鬼火のような発光現象を起こした。セントエルモの火だ。
続けて、川に面する船宿や近くの寺の壁を震わす大轟音と共に、川に向こう岸まで届かんばかりに大量の雷槌が渦を巻くように川面に乱反射して輝く。大気がプラズマ化し、水蒸気爆発が川で発生して濃密な霧が立ち込めた。
無数の川魚が浮かんでくる。九郎は見回したが、川に飛び込んだ人間が感電して浮いてくる様子は無かった。
「逃げられた、か……」
大轟音と雷の光に驚いて、騒ぎが起こり始めた。この辺りは近くに吉原があり、夜でも人がやって来ないとも限らない。
自分はともかく、影兵衛が見咎められたら厄介な事になる。
九郎は舌打ちをしてその場を離れ、怪我をした影兵衛を連れていくことにするのであった。
──それを、物陰に置かれた糞が入れられている肥桶の影に隠れていた魍魎の三三が見送った。
体を隠していた布と、近くに置かれていた土嚢を川に放り込んで本人は雑菌塗れな場所に隠れていたのである。
こうなれば菌を目印に探していた九郎はとても気づかない。肥桶があったのも、そこを選んだのも偶然だったが逃げ切れたのだ。
唖然と、肥桶の置かれた建物の壁に背中を預けながら焦げ臭さが立ち込める河原を見ていた。
「おい、どうしたんだ? さっきの音と光は……」
びくんと三三は背筋を震わせる。後ろを見ると、便臭のする男がきょろきょろしながら話しかけてきたのだ。標的ではない。
手には肥桶が持たれている。隠れた肥桶の持ち主だろう。塀で囲まれた寺らしい建物の中から肥を回収してきたところのようだ。
三三はもつれそうな舌を動かして、口を半開きにしたまま返事をした。
「すごい……かみなりが」
「雷が落ちたのか。随分近かっただろう、心臓が止まるかと思ったぞ」
「しんぞう」
言われて、三三は己の心臓がばくばくと音を立てていることに気づいた。目の奥がじんじんとして、涙が出てくる。
「おい、大丈夫かお前。……うわ、小便漏らしてるじゃねえか。まあ、目の前に雷落ちれば仕方ないかもしれないけどよ」
「はぁ……」
三三は、酔ったような頼りない足取りでふらふらとその場を離れていった。
一方で、影兵衛を連れてヤクザの死体が転がる殺人現場から離れた九郎は言い合いをしていた。
「あー畜生! ドジ踏みやがって九郎のせいで切られ損じゃねえか! 逃しやがってどうしてくれるんだボケ!」
「ええい悪かったと云っておろうが。そもそも人間が雷を防ぐな。お主もだ。お主らが打たれたら素直に当たってやられんから、電撃符は防がれてもいい道具に成り果てておるのだ」
「人のせいにすんじゃねえよ! ひょー痛ェ。見ろよクソダサェ、血が出てるんだぞこちとら」
「わざと苦戦した振りをしたり、浅く皮一枚斬られただけだろう……器用に矢まで歯で受け止めおって」
「ほら、前に九郎と殺りあったとき、手前は拙者の剣を歯で噛み砕いただろ。だから拙者もやりゃできると思ってな。拙者がやれると判断したことは何でもできるんだよ」
「犯人は逃がしたがな」
「手前のせいだー! 絶対ェもう拙者の囮作戦には掛かってくれねえぞ、あいつ!」
「ああもう、ほらこれを貸してやるから。[快癒符]だ」
「ん? ……おお、なんだこりゃ。元気になってきた……傷もあんまり痛くねえ」
「体力回復やら、体調を改善したりするからな、小さい傷は飯食って寝てれば治る理屈で塞がる」
「なるほど……元気になって……体力が……九郎少年。この札を一晩貸してくれたまえ。それで失態はチャラにしよう」
「いきなり畏まってどうした」
「よし拙者今から家帰るから! お父さん今晩頑張るぜ! 待ってろよむっちゃん!」
「なんに使うつもりだ!? ああ、走り去っていきおった……まあいいか」
責任問題が発生して、すぐさまそれとなく解決したのであった。
******
それから暫く。
心臓破りの犠牲者八人に、新たにヤクザ十人が惨殺された事件により江戸の町人らは恐怖のどん底へ叩き落とされた。
一晩でやらかした影兵衛の被害者数のほうが多いのが酷い話だが。
この件に関しては幕府にも話が聞こえたようで、老中を通り越して将軍吉宗にまで伝わった。
市中で行われたとはいえ、武士にも被害が出ている上に人心に不安を煽る内容なのが問題視されたようだ。
なにせ市中の瓦版売りときたら、いかにその殺人犯が凶悪で怖ろしい妖怪かを誇張して出版し、売り捌いている。
やれ魍魎の正体は、幕府に潰されたどこそこの武家の怨霊だの、凶作の前兆だの、被害者の位置を地図上で線に結ぶと江戸城に掛ける呪いの文様が浮かぶだのと言い触らしているのでは幕府も放ってはおけない。
「こうなれば儂の代理が事件を落着させてくれる。徳田新之助と名乗り、行くがいい」
と、吉宗は御錠口番のオーク、シンに命じかけたのだが彼は非常に困った顔で、
「あの……上様。そんな化け物が起こしたって噂がある事件の最中で、僕みたいな化け物が市中出歩いていたら確実に疑われるっていうか……」
「……確かに」
身長2メートル超で顔つきなどは猪の妖怪と云っても信じられそうなオークでは、逆に捜査の邪魔であるという主張から取りやめた。
少しだけ残念そうな吉宗であったという。
とりあえず自分の分身を送り込むのは止め、先手弓組八組、先手鉄砲組二十組をそれぞれ奉行所と火盗改方に臨時増員として派遣することを老中に命じたのであった。
それほどまでに事件の解決に関して重要視されるほどになってきた。
九郎はといえば、家に戻り書かれている文字が半透明になった電撃符を睨んでいた。
「ううむ、つい腹が立って使ってしまったが、どうにか直せぬものか。一応イリシアの形見だからのう」
普通にしていては術符の回復までにどれほどの時間が掛かるか不明である。
一応魔女の魔力はほぼ無尽蔵であり、符内部に1%ほど残されたそれを増幅できれば再使用可能になるのだが。
そんなことはイリシアぐらいにしかできないのであって……
「あ、そうだ。タマならどうにかできるやもしれん」
と、魔女の生まれ変わりであるタマにやらせてみることにしたのであった。
タマ自身は魔力を持っていないのであるが、魂それ自体が共鳴して術符との相性が良いあたり、しっかりとイリシアの因子は持っているのだ。可能性はあるだろう。
部屋に彼を呼んできて、術符を握らせる。
「こう、使えるようになれ、と念じてみてくれぬか」
「わかったタマ。ぬーん」
電撃符を受け取ったタマが指で摘んで唸る。
九郎はそれ以上具体的な助言などできないのでやるがままに任せてみることにした。
「ぬーん」
次にタマは符を額に触れさせて念じている。
また、頭から離して両手で挟み、拝むようにするなどポーズを様々に変えていく。
口で軽く咥えたり、胸元で祈ったり──そして。
座っていたタマが、太腿の着物合わせ目の中に、術符をさっと入れて隠した。
「……いや待てどこに」
「てぃんと来たタマ!」
ばっと彼が取り出すと、半透明だった雷を意味する魔術文字が以前より少し薄いが、確かに色を取り戻していたのである。
自信満々にタマは九郎に、ほかほかする術符を手渡した。
「ふぐりで挟んだら上手くいったタマ」
「ふぐっ……よ、よくやった、というべきなのか……?」
何故かふぐりで挟むと術符は再チャージできるようであった。
しかしまあ子犬のように笑顔を見せてくるタマを見ると、やはり褒めるべきだと思うのだが。
「えへへ。あ、そうだ兄さん! こんな謎の御札じゃなくて、ボクが描いた絵も見て欲しいタマ!」
「春画はなあ……」
「ちゃんと別の絵も練習してるタマ! ほら!」
そう告げて、タマは九郎に墨と紅の二色で描かれた絵を渡してきた。
花の絵であった。綺麗に剪定された桜が、上の部分を綿のように花を咲かせている。
吉原桜の絵──吉原で最も人気だった太夫・玉菊の心象を表した風景に見える。
「兄さん、どうかな。上手く出来てる?」
(爺ちゃん、どうですか。上手なものでしょう)
タマの気恥ずかしさ混じりで晴れがましく見せる姿に、小さい頃に初めて作った術符を見せてきたイリシアとの記憶が重なった。
イリシアとタマは生まれ変わって違う存在になっている。ヨグが云うには、分割されたイリシア自身の魂が、元あったタマ自身の魂と融合して一つになっているのだという。
それでも、時折こうして死んでしまった彼女の影を見つけると。
九郎はなんとも云えぬ、暖かい気持ちになって、タマの頭を抱くようにして撫でてやった。
「うむ。大したものだ。お主なら良い絵描きになれるよ。己れ自慢の……弟だ」
「に、兄さん……?」
そうしていると、唐突に部屋の戸が開けられた。
「おや、おや」
そう告げて廊下から二人と見て、口元を隠しながらも厭らしい笑みを浮かべたのは阿部将翁であった。
最近ずっとそうであるように、白い胸元や太腿が僅かに見える着物を着た女の性別をしている。
余談だが九郎は一応男の将翁とも少し前に会っていた。またあまり見たことが無い、狐面を被った老爺の姿をしていたのだが話してみればやはり声色は違うが将翁である。ただ、すぐに別れて何故か女の姿で再び現れて九郎に絡んできた。役割があるらしい。
「なるほどねぇ」
将翁はさっと部屋の中に入ってきて状況を確認。
タマが描いた花の絵を褒められて九郎に頭を抱かれている。
頷いて、背負っていた薬箪笥を下ろし中から紙を一枚取り出して九郎に見せた。
それはスケッチというか、植物図鑑の挿絵のようで、葉脈や雌雄の蘂、萼などがしっかりと書き込まれている。
「……このどこかで見たことがあるような植物は?」
「日本じゃ生えない特別な罌粟の花でございます、よ」
「ああ、昔にあいつの花屋に……それで、どうした」
「しっかりと描けてるでしょう?」
「それで?」
すっと正座している将翁が己の頭を九郎の胸元に寄せてきた。
思わず九郎とタマは顔を見合わせる。
「……」
「……兄さん、ほら、やってあげるタマ」
「ええ……? こやつ、絵を褒めて頭を抱かれたがってるのか? 将翁が?」
「おっと、勘違いしちゃいけねえ」
顔を下に向けたまま、将翁が告げる。
「なにが勘違いなのだ?」
「……ええと」
「特に考えもしておらぬのか……まあよい」
いきなり現れて少年の真似をしてヨシヨシ要求してくる将翁にはかなり面食らったものの。
(将翁に精神的優位に立つことはそれなりの意義がある気がする)
という謎の打算が九郎の中で働いて、将翁の頭を自分の胸にうずめて髪を乱さないように軽く撫でてやるのであった。
それを側で見ながら、
「うわ将翁さんうなじ綺麗。なにこれ神の領域……ボクこれを参考にうなじ作家になるタマ」
「なんだうなじ作家て。まあ、確かに綺麗ではあるが」
「石燕さんなんか前、うなじに湿布貼ってたタマ。ボク軽く目を背けたタマよ」
「云ってやるなよ……これぐらいでいいか? 将翁」
九郎が手を離すと、彼女は顔を上げて──赤面したりはしていない、いつもの調子で──云う。
「どうも」
「なんの意味があったのだ」
「いやね、ここ最近心臓絡みの事件が多いでしょう。それで、犯人の目的を呪術方面で探っていて……なにか、特別な心臓を狙っているのかと思いまして。九郎殿の心臓も、気をつけたほうがいい」
「ふむ……」
どうやら胸に耳を当てて九郎の心臓を探っていたようだ。
イリシアに刻まれた生命に関する魔術文字は、胸にあるので心臓にも影響を及ぼしているかもしれないが。
自分のような心臓を持つものが何人も居るとは思えなかった。
「あと、九郎殿に。[白乾児]の酒をまた仕入れてきたご報告でして、ね」
「そうか……まあ、何かに役立つかもしれんからな」
「ナニかに……ね。くくく」
やはり妖しげに彼女は笑みを浮かべた。
「ま、他にも色々土産を買ってきましたので、どうです。今夜石燕殿のところで呑み会でも」
「そうだのう……あ」
九郎は思い出して、手を打った。
「石燕の財布から抜いた金を返しておくの忘れていた」
「兄さん」
「九郎殿」
思わず真顔で二人から返される九郎であったという……。
******
ぼくは人を殺さない。
人を殺すのはぼくに依頼する誰かの殺意であって、ぼくが殺すわけじゃない。
誰かの命を奪う武器となって、手足となるけど、それを望むのはぼく以外の人間だからだ。
誰もが人を殺そうと思わない世界なら、きっとぼくも誰もいいなって思う。
ぼくは人を殺すけれど、殺したくて殺したことは一度も無かった。むしろ、殺される人に悲しみを覚えていた。
だけれども。
神様、ぼくは初めて人を殺そうと思います。
本当に人なのかわからないけど、とにかく普段はだらしない少年。
雷を降らす姿を見てぼくは興奮した。我を失くすぐらい、心が動いた。特別な何かだと思った。当たらなかったけど、打たれたように痺れた。
うずうずとするこの感覚をぼくは彼に一番の、初めての殺意という形で報いるしか方法は無いと思えた。
彼の為に人殺しの罪を背負える。それはなんとも、陶酔しそうな想像だ。そしてお詫びに彼を殺したらぼくも死んでしまおう。残りの人生を投げ捨ててでも良いと思えるぐらい、不思議な高揚感だ。
きっとこれは運命だ。ぼくと彼は、前世とかで繋がっているのかもしれない。
殺したい。
だから、その前に仕事を終わらせよう。
約束を破るのはいけないってお母さんとの約束だったから。
あの人以外の心臓を集めて渡して、その後で殺してあげよう。そしてぼくも死のう。
仕事のためじゃなくて、ぼくの為に。
──ぼくは悪いことをします。
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九郎に絵を見せよう石燕ver
石燕「九郎くん! どうだね私のこの花の絵は!」
九郎「そうだな。ラフレシアの腐臭まで表現した上手な絵だな。臭いが漂ってくるようだ。というか臭い。なんだこの絵。近づけるな」
石燕「ふふふ……貴重な宋代の古墨を使って描いたからね! 古墨は動物や魚の煮汁で作った膠を使うから独特の臭いがあるのさ!」
九郎「本気で臭いんだが……」
石燕「さあ九郎くん! 私を褒めてくれてもいいのだよ!」
九郎「臭い」
石燕「おっとー? 傷ついてるからね今私。慰めてくれてもいいのだよ!」
九郎「怯まんなあこやつも……仕方ないのう」
石燕「ふふふ」
お房ver
お房「お花の絵を描くの」
九郎「ふむ」
お房「折角だから九郎が好きなのを描いてあげるわ。九郎はなんのお花が好き?」
九郎「そうだのう……ううむ、あまり詳しくはないから迷うな」
お房「考えこむほどのことじゃないわ。浮かんだものを選べばいいのよ」
九郎「それなら……そう、白い花が好き、な気がするかのう」
お房「ふうん。あたいも好きよ。趣味が合うのね」
九郎「そうだな。今度一鉢ぐらい買ってきて、一緒に育てるか」
お房「うん」
タマ「老夫婦か」




