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挿話『江戸過去話/六科とお六』

 決められた素材分量の決められた調合を決められた手順で決められた通りに行う。

 決められた経過をして決められた時間に決められた仕上げを行う。

 すると当然ながら、当然のように決められた物体が出来上がる。

 何十何百何千と同じことを繰り返して決められた数の物体を作り上げる。

 順列させたものが消耗していくのを補填するだけの作業。

 

 それは決められたことであるので疑問を挟む余地は無かった。

 毎朝決められた時間に起きて決められた飯を食い決められた仕事に取り掛かり決められた材料を定数使って決められた時間に店を締めて決められた金を数え決められた内容を帳簿に記して決められたように眠る。

 決まりきったこと以外を喋ることも無く。

 その必要も感じ得なかった。

 

 そんな男が、昔に居た。



「あらあら、死体が歩いているのかと思ったら人間かしら。目ってついてるだけじゃ意味が無いのよね。前は見ていたの?」


 そんな意味を持つ大気の響きが男の鼓膜を揺らしたのは、鍛えもしていないのに何故か頑健な身体の前面を撫でるような軽い衝撃に足を止めてからであった。

 脳が音を声だと判断する働きをして意味を認識するのを彼は感じ取った。男は何かしら外部から刺激が来ると、脳がそれを把握して認識するという過程がいつしか妄想かもしれないが意識するようになった。それによる弊害は普段と違う刺激を受ければ反応が遅れて、うすのろ扱いをされることだ。ただ、意識的に脳の処理を早めれば最大で脈がひとつ動くまでの間を十二段階に分解してそれぞれを別の思考か、或いは連続して意識を動かすことが可能になることもわかっていた。それをしている間は現在男が状況を把握しようとしているように、相手の女が不審に思わない程度に対応策を考えることができる。


 だが考えついたどれも、適切かどうかはわからなかった。

 一言で云えば、少女が正面からぶつかってきて──これの原因は人通りが多かったのと、図体の大きい自分が歩いていればそれなりに人が避けてくれる経験と、あと彼女が控えめに見ても手元に小皿を持ってくず餅を食べながら歩いていた不注意が挙げられるだろう──それでくず餅を落としたようだ。皿も躊躇いなく投げ捨てて、彼女は腰に手を当てながらふんぞり返っていた。

 男は弁償の金でも渡そうかと思ったが、買い物に決められた金しか持ち歩いていないので──店の給金はあるが、使いどころも無く貯金している──ここで余分に使うことはできなかった。

 金が無いなら謝罪をするしかない。


「すまなかった。では」


 明確に謝罪の意思を伝えた。確かに己の発した鳴き声は大気を震わし、目の前にいる少女の鼓膜に届いただろうことを期待しながら、男は左足から踏み出して進路をやや修正。少女の横を通り過ぎることにした。

 これ以上自分が行える行為は存在しない。なので悩んでいても仕方ない。決めれば行動に迷いは無かった。

 少女の横をすれ違う瞬間。彼女が片足を踏ん張り、蹴りの動作に入ったのを男は光情報として瞳から入力され、脳で理解した。

 

(そういえば蹴りやすそうな着物をしている)

 

 少女が身に纏っているのは、袖が短く裾も膝の上という洗たく屋の女が着るような服であった。大股で座り込んで盥を足で挟んで洗い物ができるように、良く広がる。それ故に、予備動作をして細く白い足がこちらの脹脛ふくらはぎを払うように振るわれるのがしっかりと確認できた。

 だがそれだけだ。

 少女はどう見ても少女でしかなく、体重は自分の半分程だろう。それの蹴りが当たったところでなんだというのか。むしろ、気が済むのなら別にいいと男は構えもせずに少女の蹴りを無造作に受けて───


「ぐおっ!?」


 男は地面に膝をついた。

 何が起こったのか把握するのに思考を加速させる。足がビリビリと痛み、地面を踏む感覚を失っていた。ふんばろうと力を込めても立ち上がれず、四つん這いで掌に痛みがあった。地面を見て、自分がただその場に蹴り倒されたのではなく、一瞬で前方に数尺はふっ飛ばされたのだとわかる引き摺られたような跡が残っていた。

 つまり、少女に背後から蹴られると大の大人な自分は吹き飛ばされ、足の感覚さえ無くなっているのだ。なんとか視線を向けて、千切れずにいる足を見た。ただし骨が折れているかもしれないと思うぐらい、ちっとも動かない。


「謝罪ってのは受け入れられないと無効なのよね。知ってた?」


 自分をジト目で見下ろしている女の顔を見る。眩しい光の明度を視覚から取り入れる波長を無意識に調整して改めて彼女の顔を見た。

 長い髪の毛に紅白の櫛を二本差していて、飾り布で纏めているだけで結っていない。年の頃は十の半ばぐらいだろうか。背は五尺無い程度で、体つきも平坦だった。

 男は脳内で分類を『少女・非武装』から『少女・戦闘可能』に変更。だが体格から割り出した体重では、どう捻っても自分の体を平地で突き飛ばせる威力は出せない。彼女がマッハとかを使わない限りは。

 不可能な行為だと決まりきっている。

 

(だが、結果はこうだ)


 その矛盾に男は著しく脳内で論理をすり合わせ常識を照らし合わせ道理を探して──固まった。

 彼は時折、会話などの途中で考えこんで固まる癖がある。

 それは頭が悪いためだとか、薄ら馬鹿だとか昔から云われていて特に反論もしていないのだが──実際のところは、常人の約十二倍の思考速度を用いて脳内で矛盾を検証している上に、それが決まり事として通らないから結論が出ないで固まっているのである。

 

「ちょっと。打ちひしがれているところ悪いのだけれど。あれ? あたし悪かったかしら。悪くないわよね。むしろ善よね。だって善いもの」


 言葉の通り悪びれもせずにそう告げてくる少女と、這いつくばる大男。

 その妙な光景に、街行く人達も足を止めて遠巻きに見てきた。

 何せここは川越城下町。[小江戸]と呼ばれるぐらいの賑いを持つ関東でも大きな街であり、人通りは多い。


「おい、菓子屋の六科が女の子に蹴倒されてるぞ」

「あいつ、図体だけのうすのろかと思っていたら体も貧弱なのか。お笑いだな」


 嘲りの声。男はそれに何も感じない。男──六科は、他人の評価など気にしないからだ。

 だが、意外なことに。またしても六科の想像の範疇外に。

 その六科を莫迦にする声を出した──確か、近所の提灯や傘を売る店で働く六科より幾らか年上の男だ──そいつの前に、散歩するような気軽さで少女が近寄っていたのである。

 彼女はにやついた笑みを浮かべたままの男の土手っ腹へ、突きを当てていた。

 どん、と云う音はそのぶち当てた掌から鳴ったのか、それとも足あとが付くほど踏み込んだ足から鳴ったのか。

 六科は幻視した。女の足を見ていたからだろうか。地面に軸足としていたそこから、力の流れを大地から吸い上げて──それを相手に叩き付け、己への反動を踏み込んだ足から再び大地に戻したのを。

 重さを。

 女の体躯に足りない、重量を地面から補ったのである。身体の重心を異常なる偶然的なバランスを──恐らくは直感的に捉えることにより、女は大地そのものの重さと相対的に同一化させた。恐らく彼女が拳を振り上げた瞬間は、暴走する馬に轢かれてもびくともしない力が全身に込められていただろう。

 星の端末として振るわれた拳で殴られれば、体格の大小などは関係ない。

 男は、通りの反対側まで吹っ飛んでいた。


「勝手に下卑た野次を飛ばさないでくれる? あたしとこの人の問題なのだわ」

「ご、ぐ、え、……」


 当てた手をぷらぷらと振りながら冷徹に告げる彼女を見て──周りで見ていた者もそそくさと散らばっていった。

 その間に六科は足の痺れに関する感覚を脳内で遮断。動かない脚部の暴走した経絡を大腿部から腰部へ擬似的なバイパスを繋げ、何故か被害箇所に留まっている衝撃を体に広げて薄めることで左半身が引き攣るような痛みと引き換えに、足の機能を取り戻した。

 足首の動作状況が二割減衰。それによる体躯のバランスを修正。片足ずつの接地圧を変更して地面との衝調整。完全回復まで残り脈拍百八十。脳内で次々に処理をしていき、六科は立ち上がっていた。

 意外そうに少女は口元を手で抑えて六科を見やる。


「あら。もう起き上がれたの」

「そのようだ」

「ふうん。ところで貴方、お菓子屋さん?」

「実家がそうだ」

「そ。じゃあ案内して」


 ふと、六科は思った。

 人を蹴り飛ばしたり殴り飛ばしたりしたというのに。

 

「それで手を打ちましょう」


 やけに柔らかい笑みを浮かべる少女だと。




 *******



「詰まるところ、蹴ったのは貴方がろくに謝罪もせずにすれ違って逃げようとしたことへの罰だから、ぶつかって落としたくず餅への損失分じゃないわけよね」

「ふむ」

「だからその損失はこの御店のお菓子で補うんだけど」

「ふむ」

「その時くず餅を食べたかった気持ちを台無しにされたことを加味したら、食べ放題でもいいって思うわけよ。謝罪的には」

「そうか」

 

 ばくばくと店にある作り置きの菓子を食べる少女。

 名を、お六と云った。

 江戸の九段下にある呉服屋の看板娘(自称だ)であり、川越には川越絹の布仕入先を探しに、店からの使いで一人やってきたのであるという。

 少女が一人で他所の街に仕入れを──というと、この時代ならずとも奇妙な話であるが。

 食事中の栗鼠めいて常に口を動かして菓子を次から次へと食べているお六に、六科の父親であり菓子の[佐野屋]の主人・佐野文左衛門さの・ぶんざえもんが呆れたように告げた。


「しかし、うちの六科を蹴り飛ばすとはなあ。こんなちっちゃいお嬢ちゃんが?」


 現場を目撃していなければ信じられぬ話であっただろう。実際には、その騒動が発生したとき近くに店の常連が居て、六科とお六に付いて来て店で主人にそう語ったので一応は謝罪を込めて菓子を振舞っているのである。

 お六は頬張った甘みを、熱い茶で流し込んで云う。


「力を込めるコツがあるのよ。江戸に居た時代錯誤な旅の武芸者さんにちょっと教えてもらったんだけど。ろく……ろくなんとか云ったかしら。あまり興味がなかったから忘れたわ」

「はあ」


 説明としてはほぼ何も説明していないに等しかったので、文左衛門は気のない返事をするのみであった。

 お六も説明するよりは菓子を口にするのに忙しいらしい。再び運ばれてきた菓子を食べだす。


 余談だが。

 彼女がコツを教わった、と云うのは江戸に立ち寄っていた六天流の継承者、録山綱蔵からであった。そこらの道端で、[武芸を挑み倒せれば一両進呈]という看板を立てていたので腕自慢のお六が勝負をふっかけたのである。

 しかしながら異様な直感を持ち男女拘らず喧嘩に負け無しだったお六といえども六天流には、主に攻撃の重さが防御を突破できないと云う理由で敵わなかったようである。

 だがその才能は認められて力の練り方を教わったが、これは外功(筋力や技法を鍛える術)を極める六天流と云うより、内功(体内の力の流れを操る術)を使う六山派の技であった。

 綱蔵もいつか武を競うライバルとして六山派の武芸を少しは教えられる程度には使えたのである。

 とはいえ、飽きっぽいお六は基礎の打、走、蹴、投のうち、打撃と走法の二つを教えられ──教えられて一日で覚えたのだが──それだけでもう修行らしいことは止めてしまったのであった。別に、武芸者を目指しているわけではないからだ。

 もしそこから発展して剛体(体を鋼のように硬くする)・軽功(重さを無くして風のように跳び回る)・伝播(衝撃を広範囲に通して破壊する)・発勁(内功を放出して相手を吹き飛ばす)などと更に強力な六山派の術を覚えてしまっていたのなら、手の付けられない女傑が誕生したかもしれない。


「それにしても美味しいわね。中々のものよ、ここのお菓子。それにお茶も。だって美味しいもの」

「そりゃあ嬉しいが……」


 文左衛門は若い女にしても遠慮の無い量を食べていくお六を見る。

 食い過ぎである。茶もがぶがぶと飲んでいる。

 店頭に並んでいる菓子が3分の1は消えた。勿論、店の奥にはまだあるのだが。

 うちの六科が迷惑を掛けたからただで、という考えは四半刻もしないうちに、六科の給料から天引きに変更されたのであったという。


「ところで貴方。ええと、六科さんだったかしら」

「なんだ」


 平均的な人間が一日に摂取する糖分の量と、お六が食べた菓子に含まれる糖の量を頭の中で比較計算していた六科は彼女の呼びかけに思考を外部へとチャンネルした。 

 普段ならば接客などは──この体格に無愛想だから──行わないのであるが、何分彼の持ち込んだ案件なのでむっつりとしたしかめっ面で、お六の隣に直立していたのである。

 

「六科さんもお菓子を作れるの?」

「可能だ」

「ふうん。見た目によらないのね。じゃあ六科さんの作ったのを出してくれる?」

「恐らくこれまで摂取した中に入っていたと思うが」

「いいから」

「むう」


 仕方なく六科は店の奥に引込み、今朝自分が仕込んだ菓子を持ってきた。

 

最中もなかだ。餡を載せている」


 もち米の粉を練って薄く広げてかりかりになるまで焼いて、その上に小豆餡を載せている。上から蓋を被せているのではなく、あたかも食べられる皿に乗った餡、と云った風である。

 

「餡も六科さんが作ったのかしら」

「そうだ」

「うちの六科は、手前味噌だが腕は良くてな。まあ、それ以外の経営は駄目だから職人気質なんだろうな」


 文左衛門が笑いながら、自分より大きな六科の背中をばしりと叩いた。店主を継ぐのは既に妻子も居て安泰な六科の兄だが、菓子作り専門な六科のことも頼もしく思っているのだ。

 気むずかしく寡黙で、しかし腕は良いという人物は一部の人間からは好かれるものである。

 そして佐野六科は料理上手なのである。

 少なくともこの場で他人からの評価では。


「ふうん……」


 神妙な顔をして、菓子と六科の顔を交互に見る。

 その時、店の奥から呼ばれて店主の文左衛門が返事をしながら去っていった。

 店の片隅、他に誰も居ない座敷にいるお六と、その近くで立っている六科の間に奇妙な沈黙が流れる。

 お六はやはり六科の顔を窺いながらもなかを口に入れた。口腔の粘膜に張り付くようなもなかのパリっとした乾燥ぐあいは、歯で噛むとぱききとすぐに割れて僅かに甘い味と香ばしさが生まれ、そして餡の濃厚な甘みが舌に絡む。

 味は、良い。

 だというのに、お六はぶっきらぼうに告げる。


「わかったことがあるわ」

「……?」


 お六は大男を見上げて、見透かしたような半眼で云う。



「六科さん。貴方、お菓子が嫌いでしょ」



   

 

 *****




 その晩。

 佐野一家の夕餉では、六科を蹴り飛ばした少女の話題が上がっていた。

 家族の中でも一番小さく十歳前後の、川越城下町でも可愛らしさと多才さで有名な美少女こと、六科の姪であるお豊が興味深そうに聞いていた。

 お豊は美少女声で云う。


「怪力の美少女とは……私と美少女勝負をしないまま返して良かったのかにゃあ」


 彼女はこの時期猫キャラを作っていた。

 美少女なので許してあげよう。


 それはともかく孫の反応を聞いて面白おかしく云う。


「いやいや、さすがにあの食いっぷりじゃあ男も寄り付かないだろうさ。しかし、本当に不思議だよな、六科を蹴っとばせる力がどこにあるんだか」


 文左衛門がそう云うと、左右で濃さの違う目をしたお豊がきらりと右眼を光らせて、手を広げて饒舌に語りだした。 


「ふふふ、お爺ちゃん、怪力女の話は古来からあってにゃ。相手の馬に飛び乗って武者の首を素手で千切る巴御前は有名だけど[日本霊異記]にも『力女ちからをみな強き力を示すことのもと』と云う話があるにゃ。

 これに出てくる尾張宿禰久玖利おわりすくねのくくりの妻はとても剛力だったそうで、自分が作った夫の着衣を奪った上司の家に向かって床板ごと上司を持ち上げて懲らしめたりしたにゃ。

 まあそれが原因で夫と別れることになったのだけれど、実家に帰って近くの川で選択をしていたら通りかかった大きな船の者から口汚い言葉を掛けられたので、今度はそいつらの船を引っ張って陸に一町(約109メートル)ぐらい引き上げてやったそうだにゃ。

 その船を戻すのに五百人の人手が必要だったとか。前世で那羅延天にモチを捧げたことで得た剛力だった、と締めくくられていたけれどやっぱり凄いにゃ……モチ!」


 家族がヒソヒソと話しあう。


「お豊ちゃん解説になると早口になるのな」

「モチを喉に詰まらせるなよー」


 丁度夕餉の汁に、小さなモチが入っていた。菓子で何かと使うのでもち米は常備してあるのだ。

 他の家族は寺子屋で学習しているのだろうとか、既に並ではない読み書き算術の知識を持っているお豊だから変なことに詳しいとしても納得しているのだが。

 どこでそんな知識を手に入れているのか、と六科は懐疑的であった。そして、お豊自身も「覚えている」というだけであるようで、本人に聞いても何処かで読んだと思う、としか返ってこないだろう。

 ともあれ、家族で団欒をしながら、六科は相変わらずの無表情でペースを変えずに、膳を食べつつその話題の女──お六に云われたことを思い出していた。



『貴方はお菓子を作りながら何も考えていないでしょう?』


『自分の作ったものが誰に食べられるかとか、食べられて美味いとか不味いとか思われるとか』


『どうでもいいと思っているわよね。だって、あたしが食べるのを本当にどうでも良さそうに見ているもの。普通は目の前で相手が食べていたら、なにかしら感情が動くものよ』


『お菓子の味は……まあ、普通ね。普通としか言い様がないわ。だって、貴方は[普通]に作ったのでしょう? 美味しくしようとかそんなことを考えたわけでもないから、普通の味ができるのは決まっているの』


『お菓子作りには正確な作業が必要だってのはわかるわ』


『でも、面白くも楽しくもなく、やり甲斐も感じていないまま、普通の味のお菓子を作り続けるだけなら』


『別に、お菓子が嫌いな貴方がやらなくてもいいんじゃないの?』


『だって六科さん──ずっと死人みたいな顔をしているもの。人生間違ってるんじゃない?って聞きたくもなるわよ』


『それで……どうなのかしら? お菓子は好き? 嫌い?』



 何故彼女は、ほぼ初対面の自分にそんなことを告げてくるのか、六科にはさっぱりわからなかったが。

 お前に関係有ることかと、彼が普通ならば問い返すような見透かした言葉であった。

 しかしその言葉が彼の脳にあたかもプログラムの更新をするように入ってきたのである。

 六科は自分より五つは年下に見える少女に、やや怯みながらもこう応えた。


『菓子は……口の中がべたつくから嫌いだ』


 彼女はそれを聞くと、面白そうにケラケラと笑って「それならお茶も飲めばいいじゃない」と云った後で上機嫌に帰っていった。

 何が面白かったのか、六科には思考したが検討もつかなかった。一番彼が思いついた中で可能性が高かったのは、体を内側からくすぐる寄生虫の発作であったという。

 しかしながら、その会話をしただけの関係で別れた少女であったものの。

 六科は夜、寝床につきながら云われたことを考えていた。


(居ても居なくても変わらない場所で、同じことを続ける決まりきった日常……か)


 それが幸福だとか不幸せだとか、そんなことを考えたことさえ無かった。

 ただ当たり前の、家族と店の一員として与えられた仕事をこなしているだけの日々。生活に困ることも、余分な金で遊ぶことも無い。

 考えても、自分がやりたいことなど見当たらない。この実家の仕事を含めて。

 そして実家の店には、父親や兄を含めて菓子作りの手は十分にあった。

 ならば自分が居る意味など無い。作り上げる菓子も、特筆すべき味ではなかった。菓子は安定した味を出すのが一番大事ではあるが、客が満足できる程度の味ならば他の者だって作れるのだ。

 

(俺がやらなくてもいいのか……ならば俺がやらねばならないこととは、何だ)


 夜が長く感じた。十二分割された高速思考で、六科はまんじりとして暗闇を睨み続けた。




 ******




 それから暫くして、六科は父親と喧嘩をして──というか一方的に怒鳴られ──店を出ることにした。

 原因は、どういう思考に到達したのか彼の脳内描写は酷く複雑で退屈極まりないので省くが、決まりきったことではない行動を取るようになったのである。

 小豆餡に味噌を混ぜてみたり。

 もなかに胡椒と山葵を盛ってみたり。

 黒焦げになった焼き菓子を砂糖でコーディネイトしてみたり。

 羊羹味の素麺を作ってみたり。

 とにかく、謎の改造を試しまくり、その度に怒鳴られたり心配されたり精神修養を薦められたりした。

 本人的には、べたつく甘さをどうにかしてみようと、これまで一切行わなかった味見を画期的に行うようになってそれらを作ったのだが生憎と味覚が適合する仲間は居なかったようだ。

 そうして喧嘩となり和解は決裂。これまでの貯蓄を持って着の身着のままで六科は真夜中の川越街道を江戸に向けて進んでいくのであった。


(どうしても俺が居なくてはならない理由は、無くなった)


 むしろ、追い出されたことに安心しているような不思議な気分であった。

 さすがに何がやりたいのか分からないが、とにかく店を辞めて自分探しに出たいとは言い出し難かったようである。

 

(江戸に行こう。わからんが、とにかく)


 何が見つかるか、という見当どころか見つかる筈という期待すら持っていなかった。

 だが決まりきったことなど無いのだと、今では結論付けていた。だから、先の見えない未来へ、当然のように六科は足を進めた。


 これまで二十年あまり生きてきたが、特に旅行をしたことも無ければ一人暮らしも初めてな六科は何の伝手も無く江戸に辿り着いた。

 自分が普通に生活するにはどれだけの金が必要かを把握して、労働にて生活費を稼ぐ必要に迫られる。

 実家暮らしではそんなことを考えたことも無かった。

 無愛想、無表情、無骨である彼はあれこれと江戸の町を見物した結果、神田の魚市場で働くことになった。

 ここでは力仕事が多く、また喧嘩も日常茶飯事なので貧弱な者は務まらないのだが、強面でガタイの良い六科は苦手な交渉の結果なんとか仕事を得ることができたのである。

 そして、やがて包丁が使えることが知られて、


「おい六科ー! こっちの鮪捌いてくれ」

「了解した」

「十匹ぐらい頼めるか」

「問題ない」


 むすりとした顔でのしのしと、魚の血だらけになりながら包丁片手に歩き回る六科は魚河岸でも目立つ存在であった。

 菓子を作り、飾り包丁を入れるのとは違う。

 生きている魚は一匹一匹異なり、決まった切り方でも微妙に違う風にして刃を扱わねばいけないということを六科はここで知ったのである。

 

「良く働くなあ、六科のやつ」

このしろを三十匹も切り身にしたばかりなのに、頼もしいな」


 とにかく、包丁さばきは躊躇わずに正確で、体力があるものだからあちこちに呼ばれて重宝されていた。

 大型魚を捌くだけではなく、汐待茶屋にも時折助っ人で行かされる。仲買がオーナーをしている店で、魚河岸の人間を順番で雇って料理人をさせている店があったのだ。


「できたぞ、刺し身だ」


 六科が皿が透き通るほど薄切りにした白身の魚と、程よく噛み締められるように厚切りにした赤身を盛り合わせと、お頭付きの魚に生姜を豪快に入れた醤油味の煮物を客に出した。

 

「わあー」


 と、喜んでどんぶり飯を片手にした客の前にそれぞれの皿を置いて、


「仕上げだ」


 きな粉を刺し身の上にぶちまけた。


「ぎゃああああ!!」

「なにしやがんだ!!」

「待て」


 六科は一切慌てずに、じっと客の目を見て告げる。


「……意外といける」


 その堂々とした風に言われれば。

 六科は魚料理の専門家である、と客も見ている。ならば通好みの味付けであったりするのだろうか。

 江戸では静かな食通ブームであり、ここでゲテモノに見えても味わい深い珍味を食せば他人に対してアドバンテージが取れることを思って、客の二人は神妙に頷いた。

 そしてきな粉をまぶした刺し身を口に入れる。


「不味いー!! 嘘じゃん! 味の悲劇じゃん!」

「きな粉の粉っぽさに魚の生臭さが加わって、水気を奪われた刺し身がぬちゃぬちゃしてて……なんてもの喰わせてくれたんや……これはカスや」

「むう」


 口直しに煮物の汁を啜る。


「そしてこっちも絶妙に不味い! つーか辛すぎる!」

「おおうう……どうやって作った? どうやって作った?」

「醤油に魚と生姜を入れて火を掛けた」

「雑すぎるだろ! っていうか焦げた味までするよ!」


 他の座敷に居る一人客が不敵な笑いをこぼしながら、酷い料理を出された二人に云う。


「へっ。この店の常連なら、六科が店番の時は『刺し身と醤油』だけ頼んで酒をやるもんだ。刺し身を切る技術だけは一等だからな」


 何せ、体温が低い──高いと魚が痛むので、意識的に体を冷やしている──六科が、魚に温度が移らないように手早く正確にさっさっと切っているので刺し身自体は実に上手なのだ。

 何も云わないと独自の味付けをされるだけで。

 料理上手だと云われた六科の姿はどこにも無かった。新たな料理法を探しているというよりは、迷走しているだけに見えたが。



 *****



 そうしてある日、事件が起こった。

 六科の出した料理で食中毒とかそういうのではないが。

 その日も神田鎌倉町魚河岸は繁盛していたが、立派な裃を着た一人の老人が現れて、やり取りをしている魚河岸の喧騒に負けぬ大声でこう叫んだのである。


「仕事の手を止めろ! 皆の者! わしは魚大王である!」


 目配せする魚屋。

 無視して仕事が再開された。

 もう一度自称魚大王からやかましくがなり立てる叫びが発せられる。


「ええい、やめいやめい! この魚大王の話を聞かんかぁああ!!」


 目配せする魚屋。

 磯臭い荒縄で魚大王は瞬時に縛り上げられて、川に放り込まれた。魚大王なら海に帰ると信じて。

 正直に云えばクソ忙しい時の邪魔だったのである。


 それからやや川を流れていったのか、暫くして市場が落ち着いた時ぐらいにしんなりとした魚大王が、部下を連れて戻ってきた。

 仕方なさそうに皆は目配せをして、哀れな老人の話を聞くことにしたのであった。


 魚大王は本名を大和嘉右衛門と名乗り、今より百年前、元和のころ江戸に魚市場を開いた大和田助五郎の曾孫であるという。

 代々魚河岸仲買の元締めをしていて、実務は会合に顔を出すぐらいだが暇をして魚河岸の格付けを始めたそうだ。

 

「それでちょいと珍しい魚か、変わった魚料理などがあればそれを紹介する本にしたいからどうかと思って……」


 すっかり魚大王は疲れが見えていたが、要件を話した。

 確かに忙しい時は邪魔な案件だったものの、くたびれた老人で仲買の上役である彼にこう頼まれると悪いことをした気がして、一同は顔を見合わせる。

 

「でもなあ、変わった魚つっても」

「今さっき市が終えたばっかりだし……」

「……あ! そうだ、六科が前に作ったあの刺し身とかどうだ? ビビるぞ!」

「きな粉はちょっと……」

「それじゃなくて」

 

 などと、珍妙な魚料理に関しては定評が出ていた六科が呼ばれる事となった。

 要請を受けて、大勢の前で六科はそれを披露する。彼としては、注目を浴びているのに首を傾げるだけなのだが。


「では一反の刺し身を作ろう」


 彼はそう云うと、巨大な平政ひらまさの肉塊を手に持って縦に構えた。

 そしてその外縁部に包丁を触れさせて、


「おおっ……あれはまさか」

「魚を桂剥きにしているのか……!?」


 くるくると魚の身を回すと薄切りにされた一番外の肉が、樹皮の如く剥かれていくのである。

 身の筋や繊維の方向を無視して切っているので、少しでも包丁か身を持つ手の力加減を間違えればぶつ切りになることは間違いなく、野菜ならまだしも肉でこのような真似は普通できない。

 だが六科の機械以上に正確無比な包丁の腕前は、肉を繋げたまま桂剥きにするという行為を可能にしたのだ。

 当然そんなびろーんと伸びた、桂剥き身自体は一切旨くないのであるが!


「いや……しかし、これなら……」


 ぶつぶつと唸りながら云う嘉右衛門は、六科を指さして叫んだ。叫ぶ必要があったのかは不明だが、まあノリだろう。


「君を今度両国の万八楼で開かれる、特級包丁師決定戦への参加を推薦するぞ!」

「ああ、いいだろう」


 意味はまったくわからなかったが、特に断る理由もなかったので六科は考えもせずに肯定した。




 ******


 


 万八楼。

 両国にある大きな料亭であり、江戸でも評判の迷店であった。

 名店ならぬ迷店と云うのも、建物はたいそう立派で大名や大身旗本が通いそうな作りなのであるが、実に俗な催し物を度々開いて、それを読売の瓦版や版元に宣伝させるという変わったことをしているのである。

 大食い勝負、早食い勝負、ゲテモノ珍味勝負、目で蕎麦を食べる勝負……。

 江戸の料理人でも「万八楼で腕を振るった」となると「ああ、色物料理人なんだな」と一定の評価を受けるぐらいだ。

 

 此度は、江戸で一番の特級包丁師を選抜する大会が開かれる事となった。

 これに勝利すれば、「ああ色物の包丁師なんだな」と一般に評価されるのである。

 一般評価はともあれ、万八楼に関わる料理人や美食家、陶芸家などが己の伝手を使って腕の良い包丁人をこの大会に送り込んで来ているので少なくとも優勝すれば業界では有名になれる。

 そこに、神田魚河岸代表として六科がやってきたのである。


「うむ?」


 まだ良くわかっていない六科は、首に手拭いを巻いていつも魚河岸で着ているがっちりとした胸板が見えている半纏と股引をつけているだけであったが、手には鮪裂き用の分厚い野鍛冶で作られた包丁を持っているので様にはなっている。

 というのも、参加者が集っている控室は異様な雰囲気を持つ者達がひしめいていた。


 アヘン中毒めいた目つきでニタニタと笑いながら包丁をべろりと舐めている男。

 仏僧風の典座料理人は槍の穂先に付けた包丁にブツブツと念仏を唱えている。

 五本の包丁をジャグリングしている色黒でターバンの男は手元で投げている包丁には目も向けないで周囲を窺っている。

 悪霊の怖気を振りまく血腥い侍が持っている細長い包丁は刀のようであった。

 明らかに巨漢の忍者が苦無を研いでいるのだ!


 そんな中に混じっている、無骨な未来からきた殺戮人型マシンのような六科は一応馴染んでいるようだ。 

 

「あら、六科さんじゃないの。江戸に来てたんだ」


 イカれた世界で通る静かな声に、六科は振り向いて見下ろした。

 このようなクレイジーコックの集いに相応しくない、銀鼠色で菖蒲革模様が入った高そうな着物の少女が居た。

 紅白の簪以外は飾り気の無い髪の毛を腰まで伸ばして綺麗に切りそろえているので、市松人形のようだと六科は改めて思った。以前に出会ったときは、髪の毛などはまったく気が向かなかったので初めて知ったように。


「確か……ウォーロック」

「今発音が変じゃなかった?」

「そんなことはない」

「お六よ、お六。はい、言い直し」

「問題ない」

「云ーえー」


 そっぽを向く六科の首に掛かった手拭いをぐいぐいと引っ張ってくるので、仕方なく六科は再び彼女の方を向いた。

 名前を呼ぶぐらいなんだというのだろうか。そう思いながら、


「……お六」

「うん」

「何の用だ?」

「別に。六科さんもこの大会出るの?」

「そういうことになっている」

「ふうん。云っとくけれど、あたし負ける気はしないからね」

「そうか」


 お六の挑発か、勝利宣言かはわからないが六科はひとまず頷いた。

 その様子にどうも不満そうなお六だが、ふんと六科に背を向けて腰に手を当てて構えた。

 彼女の後ろ姿を見ながら、


(負ける気がしない、か。思えば今まで勝負事をしたこともなかったな)


 などと考える。同時に、疑問にも思った。勝負事が起きないのはやはり、自分から行動を起こしていないからではないだろうか。

 全てが決定的に、自分が居なくとも纏まっている実家から出たはいいが、江戸で生活費を稼いでいるのは魚屋であれをしろこれをしろという指示を聞いて実行しているだけである。

 少しは変わったが、やはり命令を聞いているだけでは何か自分がしなくてはいけないこと、という感じもしなかった。

 だからといってやはりどうすればいいのかはわからず、そういえば何故彼女はこれに参加しているのだろうと思考を逸らしながら時間を待った。


 それから暫くして、料理人二十名が万八楼の中庭に案内された。

 ここで料理勝負をすることもあるので広めの庭で、築山や池も無く平坦なので余計に大きく感じる。庭を囲むように観客席や審査委員席となる屋敷の縁側があって、そこで万八楼の主人と目付きの悪い痩せた撫で髪の老人が居た。

 万八楼の主人は云う。


「それではこれより特級包丁師決定大会を始めます。審査員と解説は主人である私、八郎兵衛はちろうべえと、こちら辛口の儒学剣士・佐藤直方さとう・なおかたさんが行います。いやあ、そうそうたる面子ですね佐藤さん」

「とりあえずそこの」


 直方と呼ばれた藪睨みの老人は、節くれた指を参加者の一人に呼びかけた。

 ヤク中でさっきから抜身の包丁をべろんべろん舐めまわして奇声的な笑い声をあげていた男である。


「汚らわしいから失格」


 ──残り十九名。

 取り押さえられた包丁師は叫びながら連れられていった。


「いきなり出ました! まああの舐めまわした包丁使うの?って気分でしたけれど流石ですね直方さん」

「あとそこの褌一丁の上に網を被っているだけのやつも失格で」


 ──残り十八名。

 

「なんで!? なんでですか佐藤さん!」

「見るに耐えなかった」

「酷い」


 いきなり二名落とされたので、残りの面子もごくりと唾を呑み焦燥感を覚える。

 予想外の展開に額の汗を拭いながら八郎兵衛は解説を続けた。


「えー……佐藤さんの決定により[暗黒包丁]の須佐と[南海の屠殺者]逗子丸が退場となりましたが、他の面子も凄腕が揃っています」

「変人がな」

「有名なのは骨と肉を切った数なら江戸で一番! [首切り役人]山田浅右衛門さん!」


 紹介されると年若いのに妙にくたびれて風邪でも引いているかのような気力の薄い青年が、軽く手を上げた。


「やは」


 どうも気を抜かれるような、首切り役人という物々しい名前からは遠そうな若者であるが見ていると何故か底冷えするようだ。


「他にも忍びが包丁を使って何が悪い! [匿名希望]忍者丸さん!」

「ここからは俺様のお料理地獄だらぁああああ!」

「宝蔵院流の槍包丁の使い手、名無しの荼吉尼僧さん!」

「勝利して我らの立川流を再興させるのです……!」

「鳥取藩からやってきた砂の民、正体不明の老回回ろうかいかいさん!」

「アッラーアクバール……」


 直方は頷いて八郎兵衛に向き直った。


「全員失格にしていいか」

「駄目ですよ! 大会無くなっちゃいますよ!」

「どいつもこいつも怪しい上に身元不明な奴らばかりじゃないか」

「そうですけど! はいはい議論したら負けるかもしれないので並んで! 第一試合を始めます!」


 強引に大会を進めた。

 庭には首の晒し台めいた台がコの字型に並べられて、参加者は向かい合うようにして台の前に案内された。

 六科の正面側には巨漢の忍者と、義手の代わりに包丁を手首につけている怪しげな料理人に挟まれてお六が居る。

 一体何が始まるのかと六科が待っていたら、


「包丁師としての技能を競う勝負──最初のお題は[早食い対決]!」

「おおおー!」

「ふっ……一流の包丁使いなら当然の技能だな」

「けへへぇ、雑魚どもは俺の食い方を見てとっとと尻尾を巻いて帰ることだな……!」

「……」


 なんかノリノリな参加者達の反応を見て。

 

(包丁と早食いに何の関係が……?)


 と、思う六科であったが、言葉には出さなかった。


「包丁と早食いに何の関係があるんだよ」


 審査員の直方も口に出していた。だが無視された。用意されていた早食い用の料理が運ばれてくる。


「では一回戦は蕎麦の早食いになります。各々出された蒸籠二十枚を空にした人から勝ち抜けで、上位半分が二回戦に移り残りは失格となります」

「だから何の関係が」

「しつこいですよ佐藤さん!」

「……」


 直方の睨んでいる目が殆ど斜視のように尖っていたが、八郎兵衛もやけになって進めているようだ。

 ともあれ六科は己の左右に積み上げられて並べられた蒸籠を見て、


(こんなに食うのは初めてだな。だが、いけるな)

  

 しかし、台にずらりと自分を両側から挟むような蒸籠は圧迫感がある。

 特に正面に居た一番参加者で小柄なお六などは、埋もれているようであったが。


「全員に行き渡ったのならば───はじめ!」


 八郎兵衛の合図と同時に、一斉に皆は蒸籠を取って蒸し蕎麦をずるずると啜り始めた。つゆはお代わり自由だ。大量に作るために蒸しにしたのかもしれないが、結構喉に絡んで食べにくい。味はともかく。 

 六科はペースを乱さないように淡々と胃に放り込んでいくと、解説の声が上がる。


「さて、早速普通に食べている人と工夫している人にわかれましたね、佐藤さん」

「工夫?」

「ほら忍者丸選手! 二つの蒸籠を並べて箸を二刀流! 箸でつまんで上げておき、両方を交互に素早く食べて行っていますね!」

「意味があるのか。特にこの冷たい蕎麦なのに。熱ければ麺を冷ます効果とかありそうだが」

「手が包丁の選手など、蕎麦を蒸籠から上げて包丁で一度刻み細かくして、一気に口に入れて水で飲み込んでいます。邪道喰いですねー。しかし包丁大会なのでこれは評価高いですよ」

「包丁で刻んでいる時間が無駄すぎる」

「佐藤さん!」

「なんで叩くんだ」


 審査員が争っている間も、黙々と六科は蕎麦を飲み込む。

 それなりに美味に感じてこの大会に来た理由はこれでいいか、と思いながらもペースの乱れぬ彼の早食いは、少なくともこの場の半分よりは上のペースだ。

 ふと、彼が意識を蕎麦から目の前のお六に向ける。

 あれだけ啖呵を切っていた彼女の食いっぷりは──わりと上品であった。台に置いたままの蕎麦をつるつると啜って食べている。食い散らかしている様子も、慌てている様子もない。

 むしろこの中では確実に遅い食べ方なのだが──何故かその両側には、既に空になった彼女の蒸籠が並んでいる。


(なん、だと……)


 他の誰も、ダイナミックに食べている選手に注目して小柄なお六の方は見ていない。だからその異常なペースに気づかないのだが。

 彼女の周囲が揺れたような気配がして、六科の認識内にもう一つお六が食べきった事になる空の蒸籠が増えた。

 六科は食い続けながら、再度のタイミングを測って意識を集中させ彼女の挙動を追う。

 すると。

 目にも止まらぬ速度で、自分のまだ食べていない蒸籠を両側の選手が食いきった空容器とすり替えていたのである。

 実際早いペースで食べている二刀流の忍者丸や手が包丁な人などはまだまだ食いきっていない。


「ふへぇ!? なんだ、食っても食っても無くならない蕎麦か!?」


 疑問を口にしつつ忍者丸はひたすら二刀流で蕎麦を食べ続けている。気づいていないのだ。

 そうして。

 お六が自分で二枚食べるうちに、残り十八枚を左右に押し付けて一回戦突破したのであった。

 六科も上位半数には入ったので二回戦進出を果たした。


 ──残り八名。


 ちなみに山田浅右衛門は脱落した。食が細いのである。


「えーでは二回戦。この料亭の庭は一周二町(218メートル)ぐらいですので、十周走ってください。早い順に四名三回戦へ」

「鬼かよ!?」


 一斉にツッコミが入った。早食いの次が競走という外道コンテンツである。

 ここでも有利不利が別れて、走りきらずに脱落者するものさえ居た。何せ基本的に、町人は殆ど走ったことがないので現代人では想像もつかないが、走る際の手足の出し方を知らない者も多かったぐらいである。

 三回戦に進んだのは、武芸者から走法を教わっていたお六、忍者として満腹なのに頑張った忍者丸、密教の修行として野山を駆けずり回った荼吉尼僧、そして彼らの走り方を見てコピーしついていった六科の四人である。

 

 ──残り四名。


「三回戦は包丁に関する問題です」

「最初からやれよ」

「予め用意しておいた、この見えないように覆ってある箱の中でまな板を包丁が叩いた音で、どんな包丁を使ったか当ててもらいます」

「聴覚じゃなくて包丁に関する問題をやれよ」


 やはり直方の言は無視された。


「先抜け二名が決勝戦に。ただし間違った答えを云ってもその場で失格になります。それでは一番目の箱」


 ──かたん。

 箱の中で小さな、金属が板にぶつかる音がした。

 ただそれだけだった。それで何が判るというのか、素人には見当もつかない。

 だが、お六が手を上げて答えを云う。


なた

「──正解! 一番の箱の中は鉈でした!」

「包丁はどうしたんだよ」

「お六選手早々と決勝に勝ち抜きです! さあ残りは誰になるでしょうか! では二番の箱」


 ──こん。

 音を聞いて、忍者丸と荼吉尼僧は頭を抱えた。判るわけがない。というか何だ鉈って。何が入っているのか、選択肢すら広げられた気分であった。

 だがしかし。


(あの箱の中も、直前の鉈から出た音と比較して同じ程度に分厚い鉄……)


 一町先に落ちた針の音を聞く聴力を活かして、忍者丸はその大きさを把握した。

 そしてそんな大きな包丁。そして一回戦で出た物を考えれば──


「そば切り包丁だ!」

「はい残念──鉈でしたー」

「また鉈かよ!?」


 愕然とうなだれて、忍者丸は失格となりとぼとぼと退場していった。


 ──残り三名。


 そして最後の箱の音が鳴る。どちらかが答えて、正解しようが外そうが決着は付く。

 荼吉尼僧は充血した目でその箱を睨み、汗を剃り上げた頭に浮かべて歯を食いしばっていた。その眼力で箱を透視するつもりだと云われても信じそうな真剣さである。

 無論、彼にも音で何の包丁かなど分からない。


(ここは前から続いて連続で鉈……? いや、そう見せかけた引っ掛けかもしれない。一体なんなのだ……荼枳尼天よ!)


 隣をちらりと見ると、泰然自若とした様子の六科が焦りも困惑も見せない顔で佇んでいた。

 今にも口を開いて答えを告げてしまうのではないかと思うと気が気ではなくなる。

 まさかこいつにはわかっているというのか。

 こうなれば神仏の加護を得ねばならない……! 荼吉尼僧は、懐から取り出した飛躍する秘薬を手の甲に塗りつけて、鼻で吸い込んだ。すると焦りはしゃっきりポンと抜けて脳内で三千世界の真理が浮かび上がりだす。悟りがやってきたのだ。


「あそこの薬キメたやつ失格で」

「はい」


 ──残り二名。


 ちなみに他の箱も全て鉈だった。こうして六科は何も答えていないのに決勝に上がったのである。




 ******




 決勝戦。

 包丁合わせと云う勝負。それは互いが武器に包丁を持っての決闘である。頭部か武器を破壊されたら失格となる、シンプルなものであった。

 なおあくまで料理技法上の儀式めいた行為なので、無許可の殺し合いを見世物にしているわけではない。本当に。


「料理人が包丁を人に向けるってのはどうなんだ」

「佐藤さん。食材を切るなど料理人なら誰でもできる凡なことです。それ以外の何かを切れないようでは、ただの包丁師。一生燻って生きるだけの肉袋。これはそれと決別する儀式なのです」

「そこまで」

「双方、負けた者は今後二度と包丁を握ることは許可されない。いいな」

「そこまで」


 直方の突っ込みも徐々に雑になってきていた。呆れのほうが多いのだろう。

 片付けて決戦場となった庭で対面する、六科とお六。

 双方の体格はまさに大人と子供である。だが、六科は当然油断する心は持っていないし、お六も怯む様子を見せずに包丁片手に胸を張って面白そうに六科を見ていた。

 だがしかし、


(何のために戦っているのだろうか、俺は)


 そう思う六科でもあった。

 決められたことから抜け出し、今度は流しに流されこうなっている。自分の軸は、まだ見えない。

 だがそれでも。

 お六を相手にすれば、何か掴めるかもしれなかった。

 あのときに自分を蹴り飛ばした非日常の化身を。


「ここまで来るとは驚きだわ、六科さん」

「最後は勝手に決まった」

「みたいね。ま、事前にあたしが箱の中身を全部鉈にすり替えていたのだけれど」

「そうか」

「驚かないんだ」

「お前ならありえると思えた」

「ふふっ……変な人」


 お六は笑みを作ると、包丁を軽く素振りする。


「それじゃ、行くわよ。六科さん」


 お六の足に力が篭もる。踏み出してくるのを察知した六科は思考速度を加速させた。

 一気に十二倍。お六の足元が爆発するようにはじけ飛んで彼女の身体が接近してくるのを認識。包丁が振るわれる軌道を把握。対応に体を動かすが、知覚速度と違い鈍牛のように感じらた。

 己の持つ鮪包丁でお六の一撃を受け止める。否、受け流しながら半身を逸らして回避する。まともに受ければへし折れる刃は、間違いなくこちらだ。

 火花が散る。互いの包丁が掛けて鉄片が飛び散る。受け流された一撃を引いて瞬時に追撃が来た。六科は相変わらず動きの悪い自分の体を叱咤しながら、紙一重の距離を正確に見切って避けた。途中でお六がそれを見破り包丁を持つ位置を変えて間合いを伸ばしたが、予め考慮済みな六科はそれにも対応。

 離れて無手の左手を前に右手の包丁を縦に構えて対応を図る。相手の刃を受け止める時は必ずこちらの刃は縦にしなくて、へし折られる。


 息も付かせぬ連撃が六科に襲い来る。

 六科の高速化した思考の一つが、まるで複数人に挑まれているようだとそれを評した。包丁を受け流すと拳、足と自在に体を回転させて飛んでくる。小柄な体格を活かしてのちょこまかとした動きなのだが、問題は拳だろうが蹴りだろうが喰らえばぶっ飛ぶということだ。

 六科は刃は刃で受け止めて、打撃は全力で避けた。地面に転がり、半纏を囮に使い、手拭いを投げつけた。それでも徐々に追い込まれていく。

 加速した認識世界を持たねば三手と持たない攻防を三十手に引き伸ばしながら、思考の一つを会話に振った。そんな余裕は無かったのに、何故かそうしたいと思った。


「お六は何のために戦っている」


 攻防を続けながら返事がくる。


「好きに生きるためよ。特級包丁師の大会で勝てば、実家から出て料理屋をやっていいって約束したの」

「実家か」


 包丁の撃ちあう音。


「うん。呉服屋よ。まったく、兄貴が五人も居るんだからあたしぐらい放っておいて欲しいわ」

「そうか」


 火花。


「六科さんは兄弟が居るかしら」

「兄が居る。如才無い男だ。菓子も好きだそうだ」


 踏み込みの爆発音。 


「そ。……あたしも、別に服屋は嫌いじゃないんだけど、好きでもないのよね」

「そうか」


 風を切る。


「自分の人生だもの。好きなように生きたいわ」

「ああ」


 鉄が弾ける。


「その分料理って素敵よね。自分の力で目の前の人を笑顔にできるのよ」

「……」


 食いしばった歯がぎしりと鳴る。


「だから、まったく楽しそうじゃない六科さんを見てちょっと言い過ぎたのよね。ちょっと、あたしと似ていたから」

「そう、なのか」


 二人は離れた。

 六科の呼吸音が庭に聞こえる。酷い頭痛がした。めまぐるしく動く十二倍の世界を脳で処理し続けたので、疲弊がきつい。 

 既に彼の包丁はぼろぼろで、錆びた鉄の塊のようだった。根本から折れていないのが不思議なぐらいだが、握っている六科の手から血が垂れている。


「六科さん」

「なんだ」

「あたしがお店を出したら、絶対食べに来るのよ」

「わかった」

「約束だからね」


 一歩、踏み込んで。

 お六は六科の持つ包丁だったものを、己の持つ刃で粉々に砕いた。

 頭痛で視界が霞むようで、体中の痛覚を意識的にカットすれば一瞬で意識を失うような気がする満身創痍に六科はなっている。

 だが、お六が笑顔で約束をするのを見て。


「……お前の勝ちだ」


 膝を付いて、負けを認めた。自分などが勝つべき相手ではないと思えた。

 この時六科は、恐らく初めて他人を認めた。自分と家族とそれ以外という認識に、お六という存在が刻まれたのである。

 自然と、眉間の皺が取れて安らかな顔で──倒れた。


「ちょっと、六科さん!?」


 慌てて駆け寄るお六の声を、彼の聴覚が捉えたかどうか。


 ──こうしてお六は江戸の料理界で一目置かれる、変な料理人としての名声をまず手に入れてしまったのであった。




 ******




 負けた方は包丁を握らない、という勝負に負けた六科は、魚河岸での仕事を辞めた。

 惜しまれたが勝負の行方も知っている皆は、当面の仕事先まで紹介してくれたのである。

 それは大工の手伝いなどをする鳶職であるが、やはり正確な仕事をして体力や腕力のある六科はすぐに重宝がられる。

 そして程なくして、彼は新設された町火消の一員となった。

 

 町火消は火事現場へ行き、纏持ちとなった者などは燃え盛る現場知覚の屋根で己の火消し組を示した纏を守らねばならないなどと死亡率が高かったりする危険な仕事ではあった。

 実際に六科の同僚が仕事中に死ぬこともあっただろう。

 だがしかし、その仕事は六科に天職であった。


 自分がやらねば他の誰かが死ぬ。


 そういう誇りは、火消しの誰もが持っているものなのである。

 代わりの効く作業や、人の云われた通りにする性根では決して勤まらない、死地に突っ込む仕事なのだ。

 命知らずの六科、不死身の六科。或いは、何を考えているのか正体不明だが、頼りになる[鵺ぬえ]の六科と呼ばれた。

 


 そんな中で。

 お六が実家が権利を持っている長屋の表店を借りて店を開くことになった。

 それを知ったのは道を歩いていたら問答無用でお六に引っ張って連れて行かれてのことだ。

 彼女が最初に作った──実際はそれまで何度も試作して完成させたのだが──蕎麦を、六科に用意した。

 熱い蕎麦である。お六は盛り蕎麦も作れるが、六科に最初に出したのはかけ蕎麦であった。


「……美味い」

「ふふっ、本当に?」

「ああ。……すまん、言葉が出ないが、とにかく美味い」

「いいのよ。だって、ちゃんと顔に書いてるもの」


 嬉しそうにお六は笑った。六科はぺたぺたと自分の顔に手を当ててみたが、よくわからずに首を傾げて蕎麦を食べることを再開した。




 *****




 また暫く時は経つ。

 お六の勧めにより、六科は彼女が蕎麦屋をやっている裏長屋に引っ越してきた。

 そうすることで一日一回は蕎麦屋に顔を出せるようになり、店の売り上げを増やす魂胆だなと六科は感心する。


 やがてお六が、


「店を開けてない朝も、食べるのなら六科さんの分だけ用意しとくわよ。一人前も二人前も手間は変わらないもの」

「どうせ夜は仕事無いんでしょ。お店手伝ってくれるなら、晩御飯も作ってあげるわ」


 と、云うので朝飯と晩飯も店で食べるようになった。店の名前は出さないが、聞かれたら口ごもりながら、一度だけ「緑のむじな亭」と教えてくれた。

 お六とも時折、食い歩きに出かけたり彼女と二人で土地のヤクザと喧嘩をしたりと、日々を過ごしていた。

 そうしているとある日。


「六科さん。結婚するわよ。した」

「した」


 思わず問い返した。凄い急転直下の展開であった。勿論事前に何か怪しい兆候を、少なくとも六科は察知していない。

 いつも通り、閉店後の店で二人食事中に突然振られた話題である。

 六科はまた思考の渦に固まる。お六の説明は続く。


「あたしもいい年だもの。実家から最近ずっと縁談が舞い込んできてね。本当に鬱陶しいったらないわ。こうなったら自分のいい人は自分で決めないとと思って。で、六科さんが居るじゃない。じゃあいいかって」

「じゃあ」


 やはり鸚鵡返しに単語を口にする以外、さっぱり理解できない六科であるようだった。


「じゃあは言い過ぎだったかしら。でもいいお嫁さんになるわよ。問題ある? 好きな女の人が居るとか。居たら教えて。奪いとるけど」

「……まあ、構わん」

「そうよね。だから今日から夫婦です」


 こうして六科とお六は夫婦になった。

 だがそれなりの大店の娘となれば、嫌でも両親は祝言をしっかり挙げさせることにしたのであった。

 その席で。

 六科はお六の父である良介に、酒を飲まされていた。周囲は別の会話グループに分かれていて、自然と良介と六科の二人だけの話ができる状況であった。

 良介からは、よくあの不良娘を貰ってくれてだの、苦労をするだろうがいい子だからだのと聞かされていたが。

 

「……お六が、実家から縁談が次々に来るからそれが嫌で俺と夫婦になったと云っていたが」


 六科のその言葉に。

 義父はきょとんと目を丸くして、そして体を揺らしてこらえきれないように大笑いをした。

 

「お六に、縁談の話なんて一回も持ち込んだことは無いんだ」

「というと……」

「あの娘の照れ隠しだよ、婿殿!」


 背中をばしりと叩かれると、六科もその言葉の意味を理解して──笑った。




 ******




 それからまた時は過ぎて。

 お六の腹は膨れていた。二人でいつも通り向い合って食事をしているが、太ったわけではない。

 腹の中にもう一人、命が宿っているのである。

 今度もまた唐突に、お六が話を切り出した。


「六科さん」

「なんだ」

「もし、のことを決めておきましょう」

「……?」

「もしも、あたしか六科さんのどちらかが先に死んだら」


 再び六科は動きを止める。


「あり得ないことじゃないわよ。六科さんは火消しだから死んじゃうかもしれないし、あたしも産後の肥立ちが悪かったら分からないわ。

 未来は決まっていないもの。もしかすればどちらかが残して逝くことも考えられるじゃない」

「お六」

「だからといって、六科さんは火消しを辞められないし、あたしだって子供は沢山欲しいもの。だから、先に決めておくわ」


 六科の呼びかけを無視して、お六は云う。


「どっちかが死んだ時は、残った方の親は子供を……この子と、お雪ちゃんもうちの子みたいなものよね。子供を幸せにすること。どんなことをしてでも、絶対子供を幸せにすること。いいわよね。それなら、もしのときも安心できるわ」

「わかった。必ずだ。約束しよう」

「うん」


 彼女は愛おしそうに腹を撫でて、微笑んだ。



「好きよ。六科さん」

「俺もだ」

「そして子供達も、幸せにしましょう」

「勿論だ」


 それは二人が交わした一番大事な、自分たちで決めた決まり事だった。





 *******

 




 ───享保の頃、緑のむじな亭にて。

 店を閉めて常連が集まり、特に理由はないが酒盛りをしていた。

 その日は六科に酒を呑ませて色々と思い出話でも語らせてみようかと、九郎が怪しげな発酵とうろ覚えの蒸留器で作った謎のアルコール液を足した酒を進ませていた。

 暫くすれば六科も心なしか酔った気がして、話を振った。


「俺は若い頃、実家で一番の料理上手でな。親父にも認められていた」

「いかん、己れの作った酒が変な方に入って過去を捏造し始めたか」

「その頃お豊は、言葉の語尾に『にゃ』をつけて切り紙で猫耳を作って頭につけていた。猫踊りとか踊っていた」

「やめたまえー! 皆の者その男の言葉を信じてはいけない!! わた、私がそんな痛々しいことをするわけがない!! 捏造だ!」

「初めて出会ったときのお六はすれ違いざまにいきなり蹴り飛ばしてきて、店の菓子を恐喝し四両分は食っていって……確かそれが原因で俺は実家を追い出された」

「お母さんは強盗か何かなの……?」

「江戸でお六と包丁を使って斬り合いをした俺は敗北し、二度と包丁を握れぬことを料理界の面々に誓わされた。まあ、よく考えたら従う理由が無かったから気にせず使っているが」

「意味の分からない勝負と誓いをさせる料理界も酷いけど、六科さんもそうとうアレタマ……」

「お六は架空の縁談をでっち上げて俺との結婚を迫った」

「ねえ酷すぎない? 本当にいい人だったの? あたいの生みのお母さん」

「本当に可愛い人だったんですよーう!」


 説明が部分部分を抽出していて、説明を省いているのでやたら酷い思い出に変換され伝わるのであったが……。


(お六は今の俺をどう思うか)


 娘同然だったお雪の幸せを考慮した結果、祝言を挙げてしまったのだが。

 楽しそうにしているのを羨ましがるぐらいで、怒りはしないかもしれない。

 結局、そのときにならなければわからないことだ。

 だから六科は、いつか自分もあの世に行って出会うときに、怒られないように家族の幸せを願い、生きるのであった。





主人公の出番が少ない

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