99話『恩返しの話』
緑のむじな亭、二階。
三室の部屋があるそこにはそれぞれ、九郎とタマとお房が自分の寝室にしている。
一階にも寝泊まり出来る部屋があって、お房はもともとそこで寝起きしていたのだが、六科と祝言を上げたお雪が加わり三人になるとやはり如何様にも狭い。それでもお雪にねだられて、親子三人川の字で寝る時はあるが、普段は二階だ。
ともあれ、九郎の部屋にて。
枕を頭に眠る彼が、もぞもぞと目覚めようとしていた。
この時代枕と云うと、固い木の箱のようなものか、そもそも枕自体を使わないことが多い。髷を崩さないように頭を上にする機能が重視されたからだが、それまで柔らか低反発に慣れた九郎は酷く寝苦しかったので、布の仕入れに詳しい[藍屋]に頼んで程よい柔らかさの枕を作って貰っていた。
意外にそれが武家、町人の女に売れているようで、また藍屋は感謝しているのだが。
「ぬう」
と、呻いて九郎が瞼を開く。嫌な夢を見ていた気もするし、良い夢を見ていた気もした。
江戸に来てからは過去の夢を見ることが多く、目覚めで記憶の混濁により違和感を覚えるのも珍しくはなかったが──。
目を開けたら、すぐ顔の近くにくるりと丸い目をした、おかっぱの少女の顔があった。
じっと九郎を見ている。
お房である。
「……」
「……起きたらなら放しなさいなの」
「す、すまん」
どうしてお房が隣で寝ているのか。原因はともあれ、理由はすぐに分かった。
無意識の寝相で、九郎は彼女の体を抱き枕のように両手と足で固定していたのである。
すぐに手足を放して、九郎は起き上がり思わず布団の上で正座をする。
呆れた様子でお房は着物の皺を叩いて伸ばし、
「起こしに来たら寝惚けて抱きついてくるんだもの。お雪さんじゃないんだから」
「ううむ、どうも寝ていたのでさっぱり自覚は無いがすまなかったのう」
寝ぐせの付いた頭を掻きながら云う。
夢の中で鮪の掴み取りでもしていたのだろうか。或いは極寒の極地で人鳥で暖を取ろうとしたか。どちらも経験はあるが、あまりいい思い出ではない。
どちらにせよ、孫娘のような、妹のような──しかし年頃の少女に朝っぱらから抱きつく居候老人とは良いものではないだろう。
ボケてセクハラを働く老人、と見られてもおかしくはない。
九郎はややしゅんとして小さく頭を下げた。
「抱きつかれた時点で殴るか怒鳴るかして起こしてくれてもよかったのだが」
「しようかと思ったけど、九郎が夢で魘されてるみたいだったからやめておいたの」
「そう……だったか?」
首を傾げると、お房が指を九郎の顔に突きつけた。
「涙が出てたもの」
「む……」
顔をこすると、頬の辺りに乾きかけた涙の感触があった。
悪夢で魘されていたかは覚えていないが、寝ながら涙がこぼれていたようである。
或いはロシア人とワサビチューブ一気飲み対決をしていたことを夢で見ていたのかもしれない。北海道人は良くご存知だろうが、ロシア人はワサビチューブを刺激的な駄菓子感覚でコンビニなどで購入して飲み干す。九郎の苦戦は免れなかった。
しかし、年下にみっともないところを見せてしまったようだ。
「すまんな」
「別に謝らなくていいの。だって悪いことしていないじゃない。だから謝って欲しくなんかないわ」
お房は立ち上がって、新たな一日の幸福を享受するような楽しげな笑顔で九郎に手を伸ばした。
「さ、朝ご飯に行きましょう?」
「……ああ、そうだのう」
どこか、既視感を感じつつも、九郎も笑って彼女の手を取るのであった。
******
その日、蕎麦屋は臨時休業であった。
六科の前妻、お六の命日なのである。報告も兼ねてお雪も連れて、お房にタマも墓参りへ出かけた。
九郎も行こうと思っていたのだが、鳥山石燕が昨日にわかに体調を崩して、九郎は医者である阿部将翁をどうにか夜まで掛けて探し、診察させたことが気になりそちらに今日は様子を見に行くことに決めた。
覚えていない夢の影響か、どうも墓を見る気分ではなかったことも関係している。異世界で魔法学校の用務員をしていたとき、隣接する墓場が荒らされるという事件で解決を頼まれた頃の夢だろうか、と思う。魔力汚染で自然発生的に出現した擬似的なアンデッドにより、危うく墓穴に埋められるところであったのだ。
「うむ……嫌なことを思い出したのう」
生き埋めはつらいものがある。当然だが。
ともあれ、神楽坂のわかめ屋敷へ向かう前に手土産に、瑞々しい胡瓜でも買っていくことにした。
誰の土産というか、屋敷で飼っている番犬の明石への土産であるのだが。
「ドッグフードや肉類など無いから何を食うのかと思ったが、何でも食うからのう」
特に夏場だと水分が嬉しいのか、胡瓜や大根を丸齧りにしている姿がなんとも頼もしい。
そして神楽坂の磯臭い暗黒屋敷こと、鳥山石燕の自宅へやって来た。
さすがに入ってすぐ目に付くところにわかめを干させるのは止めさせたようであるが、裏からわかめ臭が漂ってくるのは止め用もない。
まあ室内はもとより墨臭いのでそこまで住んでいる当人らは気にならないのだろう。
玄関先の日陰で丸まっている、大型犬と中型犬の間ぐらいにがっしりとした犬[明石]に声を掛ける。
「おう、元気か。むさ苦しいのう」
「ぶふ」
返事のように口元を震わせる程度に息を吐く。頭を上げたその首元には、[先輩]と書かれた札が鑑札のように掛かっていた。
それをつけている間は明石は夕鶴よりこの屋敷で上位存在であることの証明だ。石燕が作って掛けさせた。どうにかして夕鶴が奪い取ればその日は彼女にも従順になるらしいが、まあその勝負は三日に一度成功すればいいぐらいの勝率であった。
「ほれ、胡瓜だ」
与えるとものぐさに鼻先だけ向けて、催促するので九郎が口元に持っていくと加えてばりばりと快音を立てて齧り貪る。
尻尾はさり気なく振っているあたり、なんとも和む。そうしていると、
「あー! 九郎君! ずるいであります!」
声が掛けられて、中庭の方から足音を立てて九郎に近づいてきたのは夕鶴だ。
ぐい、と彼女は腰を曲げて九郎と目線を合わせて、不満気に明石へ指を向けながら言う。
「犬畜生にだけお土産食べさせて! 自分も欲しいであります!」
「胡瓜一本のそこまで本気で悔しがるなよ……ほれ」
「あーんであります」
仕方ないので差し出すと、野菜スティックを頬張るように胡瓜の先から口に挿入していく。
(ヘタの辺りは塩で揉まんと苦いのでは……あ、苦かったのだな)
一瞬だけ顔色が変わりつつも、夕鶴は塩も振っていない胡瓜をばりばりとリスのように口に入れていく。
自動改札めいたその勢いに、暫く玄関先が野菜の砕ける二重奏が響いていた。
まるまる一本食べきって、満足気に彼女は曲げていた腰を戻して言う。
「美味かったであります!」
「残りは屋敷の中に持っていくから、後で石燕にも出してやれよ」
「了解であります! 冷や汁に冷え飯に味噌を塗った胡瓜! こんなに美味いものは無いでありますな!」
「相変わらず質素だのう……いや、美味いことは美味いのだが。魚なども食えよ」
少しばかり、頬の辺りに丸みが出た気がするがまだ痩せ気味で背が高い為に余計そう見える夕鶴の発育を心配しつつ。
九郎は屋敷に入った。
玄関には将翁の履く高下駄が置かれており、昨晩から泊まり込んだのかもしれないと九郎は思う。
廊下を進みすぐの場所に居間があり、そこで狐の半面をつけた女──阿部将翁が静かに茶を飲んでいた。
妖怪屋敷で佇む狐妖怪だと云えば人は信じるだろうか。そう思うほどに馴染んでいる。
彼女は九郎の姿を認めると、人を喰ったように口元を笑みの形にして、いつも通り落ち着いた声音で云う。
「これはこれは、九郎殿」
「将翁。昨日はいきなりすまなかったのう」
「いえいえ。九郎殿の」
つい、と僅かに舌なめずりをするようにして、妖しげに告げる。
「頼みとあれば、仕方がない。くくく……」
「……悪いことを企んでおらぬか?」
「とんでもございませんぜ。ただ」
将翁が薬箪笥から薄い和綴じの本を取り出して、九郎に見せないように手元でめくり確認をしている。
「この『金に換算できぬ恩記録帳』にしっかりと記録点を残しておくだけでして」
「初めて聞いたのだがいつからそんなものを」
「得点が貯まれば九郎殿に恩を行動で返して貰えるもので」
「おっとー? 己れは聞いてないし認めてないぞー?」
「百貯まれば子供を授かれるという……」
「聞こえぬなー?」
耳を塞いで首を振る九郎である。
一時期から九郎との間の世継ぎを狙うようになっているという微妙に恐るべき女だ。九郎にとって意味はわからないが、純粋に体を狙われているという恐怖はある。こんな相手初めてだ。何人も居ても嫌だが。
大きく息を吐いて、ひとまず床に胡座を掻いて彼女に尋ねる。
「それで、石燕はどうだったのだ? 昨日急に腹が痛くなっただのと苦しんでいたのだが……」
「ああ」
彼女はくすりと笑って、口元を手で隠した。
「大丈夫、ですよ。ええ、そりゃもう。なにせただの──」
云いかけた時、隣の部屋との境であった襖が勢い良く開けられた。
「待ちたまえ! い、医者は守秘義務というものがあるのだよ!? 私の病気を教えてはいけない! 九郎くんに心配を掛けるではないか!」
「石燕、無事なのか?」
ぼさぼさに癖の付いた寝起きの髪の毛に、汗ばんで皺だらけの死人めいた白装束を着た石燕が眼鏡も掛けずに怒鳴りこんできた。
それにしても、と九郎は思う。
妙に焦っているようだが、それほど知られたくないのだろうか。病原菌などを観測できる九郎の疫病風装を使っても原因は不明だったのだが。
まさか重い何かでは……と思っていると、将翁が口を開く。
「石燕殿は重い便秘だっただけで」
「わきょおおおああ!!」
仰け反って背後に倒れ転がる石燕。
呆れたように九郎はそれを見ながら、
「……何だ、通じが悪かっただけか」
「く、くく。あたしがちゃんと治しておきましたが、薬の影響も考えて今日は一日寝ていなくては──」
狐面を悶える石燕に向けて、楽しげに囁いた。
「──もれますよ」
「女子度が下がるだろう! やめたまえそういうアレなソレは!! ほら九郎くんが若干哀れんだ目で見ている!」
「石燕、安静にな。うむ、今度から酒のつまみは野菜系にしようか」
「その気遣いがむしろ恥ずかしいよ! ううう」
ぴしゃりと襖を閉めて布団に篭もる石燕であった。
こほんと咳払いをして、将翁が薬箪笥から幾つか謎の道具を取り出す。
「ちなみに、あまり強力な下剤は石燕殿の体に悪いので、昨晩使ったのはこの昆布の──」
「話題を終えたまえよ!? それ以上続けたら自害するからね! 乙女の尊厳を失うぐらいなら!」
「いや──己れもあれだ。女友達の便秘解消法なんぞ聞かされても反応に困るからやめておけ」
「おやおや」
部屋越しに石燕に叫ばれて、九郎も若干引いたような顔をしたので、意地が悪そうに笑いながら彼女は解説を諦めた。
ライバルのヒロイン度を下げる卑劣な作戦だったかもしれない。或いはただのインフォームドコンセントか。
「ともあれ、ついでにあれこれ石燕殿の体を診察したのですが、問題なく健康ですぜ。二年前とは大違いだ」
「そうか、それは良かった」
「これならモチでも喉に詰まらせない限りは、大丈夫でしょう」
「やけに危険な気がするのう。おい石燕。モチを食うの今後やめたらどうだ?」
「危ないからモチを食うなと云われてやめる日本人は居ないよ!」
「それもそうか」
納得しつつも、将翁の淹れた薬湯に九郎も口を付けた。旨くは無いが、健康的な渋みがある。六十代の頃に健康食品として飲んでいた茶に似ていると感じた。
「そういえば九郎殿」
「どうした?」
「六科殿と、お雪さんが祝言を上げたとか……」
「うむ、ついこの前な。今日は家族揃って墓参りに行っているぞ」
「ははあ……いえね、お雪さんの打った蕎麦は中々のものだから、こいつぁ合格点が出る日も近いかもしれませんぜ」
「そうだのう」
「九郎殿得点を十点加算してくれれば借金はチャラにしてもいいのですが」
「今の段階で何点あるのかもわからんのが軽く恐怖だよな、それ」
「くくく……軽い恩返しで現在の得点を減らす方法もありますぜ。一つ試してみては? なあに、あちこち噛ませて貰ったりするだけですよ」
「……知っておるか? 借りた覚えのない借金を、少額でも返済したら残り全てに対しても返済義務が発生するのだそうだ」
「ちっ……」
了承したつもりのない恩返しポイントを拒否する九郎であった。
しかし恩があるのは確かであり、無碍に断ることにバツの悪さも感じるのだがそれはそれだと思いつつ、
「お主が嫌いというわけではないのだがのう……」
「ほう」
「布団を敷きながら返事をするな。どこから出した」
そんな二人の寸劇を、僅かに開けた襖の隙間からじっと石燕が睥睨しているのだが、それを無視するぐらいは余裕な人生経験を送っている九十代と年齢不詳である。
──と、その時に、外から犬の警戒をするような唸り声と、
「うーわー」
という気の抜けるような男の声がした。
九郎が立ち上がり玄関に向かうと、外で両手を上げたひょろりとした侍が明石に吠え立てられている。
全体的に細長く、鼬か獺を思わせる雰囲気をして、顔つきは徹夜明けだけど眠くならないと云った感じの疲れた病人風である。月代は綺麗に剃ってあるが、無精髭が目立つ無地の袴を着た彼は、首切り役人・山田浅右衛門であった。
彼は足元で吠えている明石に対して降参したように、しかし怯えているわけではなく困った様子で九郎へと顔を向けて云う。
「やは、九郎氏。ちょっとこの犬ころを鎮めてくれるかな、と」
「なんだ浅右衛門。珍しいな……よしよし、明石よ。これは悪い奴ではないぞ……唸ったままだな」
吠えるのは止めたが、少し離れた場所から明石は浅右衛門への警戒を解かない。
いや。
よくよく見れば犬の視線は浅右衛門本人ではなく、その背後辺りへ向いているのがなんとも云えなかった。
「基本的に某、街を歩けば犬に吠えられるんだよね。鴉は寄ってくるんだけど」
「縁起が悪いのう、相変わらず」
斬首刑の代行として、何百と罪人の首を切り落とし、その体を腑分けしてきた浅右衛門はどうも妖しい雰囲気を全身から出しているのだという。
実際に町人からまるで人斬りのような評判を受けたり、幾つかの寺では不浄だとして出入り禁止を食らったりしている影響もいかにも呪われている雰囲気を出すのに一役買っているのだろうか。
「いやね、九郎氏に相談事があって尋ねたんだけど店が休みだったから、ここかと思って」
「そうか。まあ、とにかく上がるがよい」
浅右衛門を屋敷に誘い、将翁も居る居間へと連れてきた。
彼は既に薬湯の用意をしている彼女を見て、
「阿部氏も居たのか」
「お世話様です」
慣れ親しんだ様子で、浅右衛門は差し出された薬湯を受け取り、九郎と三人向き合うように座った。
浅右衛門は罪人の死体を腑分けして、それを薬に加工して販売しているので、薬師の将翁とも面識がある。唯一合法な人体から作る薬を売るもので、かなり高値が付くが儲けた金の殆どは供養に使ってしまうという。
そして相談事を喋る前に、周囲を見回した。
「鳥山氏は?」
「あやつは具合が悪いので休んでおる。特に、お主の背後霊か何かを見たら余計に悪くなるからのう」
「こいつぁ中々、念が集まってるように──あたしも見えますがね」
陰陽師である将翁も感じ入るところがあるのか、浅右衛門の頭の上あたりをじろじろと眺めた。
そして袖口から人形に切った真っ白い紙を取り出して、彼に手渡した。
すると、浅右衛門が摘んだ途端にその紙は黒く染まる。
「……エグいのう」
「まあ、下手に取り出さないほうがいいようで。彼に取り憑いている間は、彼だけで押さえ込めているようですから」
「人を病原体みたいに。ま、いいか」
軽い調子で頭をふらふらと動かしながら、浅右衛門は云う。
「ね。二人は動きまわる骸骨って知ってる?」
「動きまわる……」
「骸骨?」
襖の向こうから説明がしたいような気配を感じたが、将翁が「確か」と言葉を繋いだ。
「本邦で初めて動く骸骨の説話が出てきたのは、[日本霊異記]に於いて、でしたかね。『人・畜に履まれし髑髏の、救い収めらえて霊しき表を示して、現に報いし縁』……だったか」
「某も詳しくは無いんだけど、どういう話?」
「なあに、話自体は単純なものですよ。道に打ち捨てられ、人や獣にも踏みつけられていた骸骨を僧侶が弔ったら、その骸骨が恩返しにやって来て供物をくれるという──死霊白骨ですら恩を返すのだから、生きている人が恩を返すのは当然のことだと最後に書かれていて」
「こっちに話を絡めてくるな。見るな」
九郎をじっと見ながらそう告げる将翁の視線から逃れるように、顔を背けた。
「恩を忘れないとなると……恨みも忘れないものかな」
浅右衛門が首を傾げて、話を続ける。
「実は人から話を二つ聞いて、さ。某が葬っている罪人の、無縁塚が掘り起こされたって話なんだ。それが罪人が恨みで墓から蘇った祟りなんじゃないかって、某に坊さんから苦情のように云われて」
「ふむ、墓荒らしにしても妙なところを掘るのう」
「それともう一つ。大川の中洲にある、花火職人が使う小屋で首無しの人骨が踊り回り、人を驚かせているって話。首を斬られた骸となると、そりゃあ某が切った罪人だろうって文句を付けられた」
「それはまた、面倒なことに」
踊る骸骨の現場となったのは[首塚絡繰屋敷]と呼ばれる大きな小屋であった。
首塚の由来は正確には不明だが、絡繰と呼ばれるのは花火で大儲けした[鍵屋]が増築を繰り返した結果、中に入って奥の部屋を目指すと迷子になりかねない妙な構造になったからだという。
花火の調合など火事の危険が伴う作業はそこで行うことがあるのだが、その職人らが骸骨を目撃したようだ。
にへら、と浅右衛門は緊張感の無い顔で笑みを作り、
「もしかしたら、某の切った骨かもしれないんだけど、確かめに行くのも怖くって……九郎氏についてきて貰おうかと」
「怖いとな。……お主、散々死体の処理をしていただろうに」
自分も少し手伝わされたことのある九郎は顔を顰めながら、妙なことを云う浅右衛門に聞いた。
彼は手をひらひらと軽く振って、
「いや、骸骨はいいんだけどほら、もしかしたら盗賊とかがさ、骸骨を使って怖い噂を立てて、こっそり根城にしていたら危ないでしょ」
「剣術も得意だろう。道場の師範代ではなかったか」
「切った張ったはちょっとね。某、罪人と死体と生きてない物しか切らないって決めてるから」
腕を誇るでも謗るでも無く、当然のように浅右衛門は告げる。
実際、彼の腕前は僅かだが九郎も見ていて、木製の閂や死体のこわばった骨肉を紙切れのように両断していた。剣で物を切る技術では、果たして影兵衛とどちらが上かと思う程度に腕が立つ。
そして罪人とは既に罪が決定した相手のことであり、いかに悪党や暴漢と云えども自分の判断では殺害しないのだという。
「ふうむ、動き回る骸骨の噂の真偽を確かめるか……」
「勿論お礼はしておく、よ」
「……お主金払いだけはいいよな、ある時と無い時が極端な割に」
九郎に一両小判をさらりと渡してくる浅右衛門である。
「仕方ない。ひとまず様子を見に行くことにするか」
「それじゃ、あたしも同行させて貰いましょうかね。ちょいとばかし、興味がある」
将翁も立ち上がり、皆で出かける用意をすると襖が開いて石燕が顔を見せた。
心なしか顔色が青ざめていて、額に汗も浮かばせている。
「ちょっと待ちたまえ! 妖怪事件にこの妖怪絵師鳥山石燕を置いていくとはどういうことかね! すぐに準備をするから──」
「石燕殿」
将翁が呆れたように告げる。
「だから、出かけるなんてしたら──お外でもらしますぜ」
「くそぅ!」
「そう──糞を」
「黙らっしゃい!!」
泣きそうな顔で頭を抱える石燕。
あんまりな扱いかもしれないので、後で蒟蒻とかそう云う通じに良い物を使った料理でも用意してやろうと九郎は考えた。
彼女は心底哀れんだ表情で見ている九郎に、這いずるようにして手を伸ばして必死に告げる。
「違うからね九郎くん。乙女というのは体は砂糖菓子で構成されているのだから、排泄だってモチ的な清潔な何かが出るだけだからね」
「いやそういうのはいいから。というかお主がゲロ吐いてるの見たことあるしのう」
「はいはい! 誰も得しない話題終了!! 寝る!」
出張ろうとすればするだけ、墓穴を掘り乙女度が低下することを察した石燕は再び部屋に引き篭もってしまうのであった。
「……石燕殿って可愛くて苛めたくなりますよね」
「よせよ……いや、己れも時々いじるが」
「仲がいいなあ」
などと云いながら、再び犬に唸られつつも一行は屋敷から出て行く。
将翁の薬箪笥が僅かに、かたかたと震えた。
******
件の中洲にある、屋敷とも云える大きさの花火小屋にやって来た。
九郎はここに来るのは二度目である。一度は、悪天候で大雨が降りしきり薄暗かったものであまり印象には残らなかったが。
その時の様に急な雨の一時非難小屋としても使われているようだ。中に入ると金目のものは茶碗一つ無いが、玄関から入ってすぐの部屋に囲炉裏と薪ぐらいはあった。火薬を扱うのですぐに消せるよう水瓶も置かれている。
花火職人が動き回る骸骨を見たという噂が回ってきたぐらいなので、ここ暫くは職人らも利用していたのだろう。室内は生活臭のような、人間の臭いに僅かに火薬などの臭いがする。
「ここから薩摩人との関わりが始まった……」
「感慨深そうですねえ」
「というか何部屋あるんだろ」
玄関に入ってすぐの部屋から続く、三つの扉を見て浅右衛門は呟いた。
この屋敷は廊下や窓が無く、小さな作業部屋が直接連結している。
大雑把に部屋数をある程度省いて示せば、
□□□□□
□□□□□
□□□□□
□□□□□
□□玄□□
と、云う風に広がっているのである。
これは各部屋で作業をした際に、もしその部屋で爆発事故が起きたならば最小限に被害を食い留める為であった。
「とりあえず、骸骨を探してみようか」
浅右衛門の言葉に頷き、一同は玄関から先の部屋へ進んだ。
一部屋一部屋は狭く、三人が並べば窮屈なぐらいだ。以前も九郎は石燕と探索をしたことがあるが、
「部屋の間取りは大体どこも同じ……」
「それで、立て付けが悪いのか開く襖と開かぬ襖があるようで」
「時々勝手に後ろの襖が閉まる仕掛けは傾斜とか使ってるみたいだ」
なるほど、無駄にぐるぐると回り込むように進めば間取りがわからなくなるようであった。
他にも、
「部屋に置かれた小物の裏に暗号みたいなのが」
「こっちの鍵付き箪笥は先程屑籠の中で拾った鍵で開き……細長い畳針が手に入りましたぜ」
「ぬう……『もう三日出口を探して彷徨っている』とか書かれたメモがあったが、火で炙ったらタヌキの絵が浮き出てきた」
などとよくわからない様々な小道具が施されている。
これらの一部は、花火職人が置いていく道具を盗まれぬように隠す場所の仕掛けであり──またそれのダミーでもある。
こうなれば一部立て付けが悪く開かない襖も意図的であろう。
どこをどう進んだのか九郎も途中で記憶が曖昧になって──いつの間にか三人は玄関へと戻ってきていた。
「むう」
「見つからなかったね、骸骨。話によると、町方同心も通報を受けて探しに来たんだけれど、何も見つからずに戻ったとか……足元が割れて穴にハマって怪我をして帰ったとか」
「様にならないのう」
「さて、どうしますか」
将翁が拾った針を手元で弄びながら云う。
「これだけ部屋があれば、不審者がそれを解明してわかりにくいところに潜むのもありそうな話ではありますぜ」
「そうだのう……」
他にも地下室などもあった気がする。何故こんなに面倒な建物を作ってしまったのか。
虱潰しに探すにしても相手の方が屋敷の構造に詳しければ、こっそりこちらから逃げ隠れするのも容易いだろう。
「タマを連れてくればよかったが……いや、将翁でも大丈夫か?」
「どうしましたい?」
「お主、ちょいとこれを握れ」
と、九郎が渡したのは[隠形符]である。
これは光属性の術符で、物体を透明にすることが可能だ。普通に使えば本人だけが透明になるが、上位発動をすれば広範囲に透明化を施すことができる。
ただし九郎はこの術符との相性はあまり良く無いので、彼が上位発動すればほぼ無差別に何もかも数十秒透明にするだけなのだが。
将翁に中継を頼み、九郎は術を解き放った。
「[隠形符]上位発動。壁よ消えよ」
「ほう……」
怪しげな陰陽の術を使う阿部将翁ならば使えるかと思い、試したところそれは確かに効果を発揮した。
にわかに、絡繰屋敷全体が更地になったように建物全体が消え失せ、遠く離れた窪み部屋──やや地下になっている場所に、首のない白骨を持った男が、ぎょっとしてこちらを見ていた。
強引な密室ゲーム解決法である。なおこの後更に、目的地に向かって一直線に破壊して進む事も出来る。
九郎はその男を見て、呼びつけた。
「おい、お主。今から屋敷を元に戻すが、すぐにこの玄関まで来い。わかったなら頷け。来ぬのならこちらから行ってとっ捕まえるぞ」
胸元から鉄の十手を出して見せれば、怯えたように骨を抱えた男は大きく頷くのであった。
そして透明化が元に戻る。
「ふう」
「九郎殿は怪しげな術をお使いで」
「さすが九郎氏。胡散臭いなー」
「長生き狐と呪われ侍にそう云われてものう……っと」
九郎はふと気になって、考える素振りを見せた。
そして、将翁に手を伸ばす。
「ちょいと良いか?」
「──?」
云いながら、顔にかかっている狐面を軽く上にずらした。その下のあまり見ない彼女の素顔を眺める。
九郎が思うに、将翁はタマと同じく術符に適正があった。
それならば、と考えて、
「九郎殿? どうされ──」
彼女と額を合わせた。
冷たい、滑らかな皮膚の感覚。
一瞬だけきょとんとして目を丸くした将翁であったが、すぐにその顔は悪い狐の如く変わる。
「──狐の間じゃ求婚行為ですぜ、これ」
「いや、嘘だろ」
「ばれたか。口吸いでもしてくれるのなら、得点が十ほど減りますが」
「お主にすれば妙な薬を盛られそうだ」
軽口を言い合い、九郎は額を放した。
どうやら、将翁はイリシアの生まれ変わりではないようだ。
術符適正があるから或いは、と思ったのだが。あまり関係ないのかもしれない。他に術符を幾らか使える者と云うと晃之介が挙げられるが、あれも違った。
(他に誰を試していなかったかのう……)
本当にいつか見つかるのだろうか。或いはまだ出会わぬ誰かかもしれない。
見つからなかったらどうしようかと思いつつ、問題を先送りにするしか今は無かった。
「ひゅー」
感情のこもっていない囃し方をする浅右衛門に軽く手を振った。
******
踊る骸骨の正体は、見世物で糸操り人形をやっている平馬と云う男であった。
平馬の技術は意外にしっかりとした糸操りの技術を教える、塾とでも云うべき師匠に学んだという。
しかし兄弟子や弟弟子らが巧みに、生きているかのように人形を十五本の糸で操るのに対してどうも旨く行かない。
人間らしさと、[妙]の配分が大事なのだと師は告げた。彼の技術は妙なばかりで、人の持つ滑稽さを出し切れていないと。
悩みぬいた挙句に平馬は、それならば人そのものな人形で練習をすればいいのではないかと思い至った。
糸操りで使う人形はそれように作られているだけで、人と同じとはとても云えない。
白骨模型なども誰も作らない時代だ。そうなれば、と平馬はなるべく迷惑のかからないように、無縁仏を漁って、綺麗な骨を集め、それを糸と針で結んで骨格を作った。
よくよく見ればそれは歪で、肋骨が無かったり骨の長さが不揃いだったりするが、白い骨人形の出来上がりである。
果たしてそれで操っている練習をするところを見られれば、それこそ通報される。なるべく見つからない場所が良いと思って、この屋敷に入り込んだ。
それから毎日練習を行い、そして屋敷にやって来た花火職人達を見て魔が差した。
『練習の成果を見せてやろう』
そうして天井裏に隠れながら暗がりで糸を操り、動きまわる骸骨を見せると花火職人は驚き慌てふためいて逃げ出した。
それでも平馬は満足をしなかった。彼らが逃げたのは骨というびっくりによってだ。自分の技術が認められたわけではない。
いっそ、骸骨が自然と現れた時に驚かず、すっと受け入れてしまうような操りだったならば、それこそ人間らしさを極めたと言えるのではないか。
だからまだ練習を続けていたのである。
しかし、他人の骨を勝手に使ったことは確かだ。
ただしその骨を辱めるわけではなく、大事に彼は水で清めて洗い、異臭のする骨に漆などを塗りこんで補修して、大切に扱っている。
罪人であった者達が、生前にされなかった程の扱いだ。
捕まり、死罪を受け、浅右衛門に首を斬られた挙句に体を試し切りの材料にされて内臓や指を売り捌かれて、恨み辛みが染み込んだ骨髄に確かに彼の真剣な思いは届いていた。
骨の人形を、人間として扱えるようにするという意志。
それを聞いて、阿部将翁は薬箪笥から一つのしゃれこうべを取り出した。
『成程。それで、町中を一つの頭蓋骨が転がっていく、と皆が恐れていたのだが──』
頭蓋骨は鈴ヶ森から人の見ていない間に、江戸の市中まで移動してきたという。
『大事に扱われ、頭も礼をしたかったようだ。[現に報いし縁]──ってね』
将翁の取り出した頭蓋骨が、かたかたと笑った───。
******
「──と、云うのが事件の顛末だのう」
「なんで私が居ない時に限ってそんな妖怪事件を解決してくるのだね」
帰ってきて石燕の見舞いの続きをしている九郎は土産話を語ったが、家から出れなかった石燕は不満そうであった。
拗ねたように布団を被っている石燕に、九郎な慰めるような言葉を選んだ。
「別に、そんな時に限ってというわけでもなかろう」
「……」
「この前九十九里浜に出かけた時も変な事件ではあったしな。数えればお主と共に遊んで事件に遭うことが一番多いと思うぞ」
「まあ……それはそう……だけれど」
布団を上から軽く叩いて、
「便──具合が治ればまた出かけられるだろう。お主の体調が一番だ」
「むう」
唸って、石燕はそれでも少しは納得したように話題を変えた。
「しかし九郎くんに売った恩を変えさせる帳面かね」
「将翁のやつも嫌らしいものを作ったものだ」
「ちなみに私も九郎くんにあげたお小遣いをしっかり記録しててそのうち何か行動で返してもらおうとしているがね!」
「発想が似ているぞお主ら。駄肉姉妹か」
半眼で見下ろす。しかしその、小遣い額が記載された帳面はより残されるとまずい気はした。
題するならばヒモノートだろうか。お房などに見られたら尊厳の問題になってくる。
「……何かして欲しいことがあるのならば云ってみよ。なるたけ応えるが」
「えっえっ」
石燕がしゃっくりに似た声を出し、言葉に詰まって、目を閉じて脳内で思考を加速させ様々な状況を模索し始めた。
宇宙の誕生から終わりまでを認識するかのような高度な情報処理を行い、少し顔を赤らめて九郎にこう告げた。
「う……腕枕とか……」
「その助平でないところは、将翁より美点だと己れは思うぞ……」
孫娘から頼まれたように九郎は優しく微笑んで、布団に寝る石燕の隣で寝転がり、腕を貸してやるのであった。
少年の柔らかな腕に頭を載せて、九郎の隣でぼんやりと目を閉ざしながら石燕は思う。
(本当は返して欲しいなんて思っていないのだがね)
記録こそつけているが、それはあくまで思い出の為であって──
(貸し借りの精算ができない繋がりが、いつまでも残っていれば忘れないで居てくれるだろうか……)
などと思いながら──緩やかな眠気に身を任せるのであった。
******
「──と、云う様に女の人から色々要求されるんだって、さ」
黒い覆面を被った怪しげな黒装束の集会。
江戸に住まう忍者達の定例会議である。ここでは報告会から、普段の生活で思いついた様々なモテセリフ、甘いエピソード妄想などを語り合い日々の糧とする。
それに最近参加するようになった浅右衛門は、名前こそぼかしていたが九郎の女性関係を紹介していた。
近くの忍者達が頭を抱えたり床に拳を打ち付けて項垂れたり涙を拭きながら叫ぶ。
「どういうこと!? 女の人にお金を借りたり、お願いを普段聞いて貰って!」
「そのお返しに色々助平なことをされるって!」
「搾取が一方的すぎる! 得をして得をしてるじゃん! 損しろよ!」
「ずるいずるい! 俺だって動物が罠にかかってたの助けたら恩返しに来ないかなって、鶴用の罠とか仕掛けてるのに! この前なんか罠ごと盗まれてたし!」
嘆く忍者達。
一部の既婚者以外は基本的に女にモテないのが忍者の特徴である。
妄想でわいわいと語るのは盛り上がるのだが。この話題の前は男二女一のドリカム編成でどうやって成功させるかを語り合っていた。どうしても男の片方を男装女子か性転換させるのに設定を割きすぎて、元から居た女がないがしろにされがちなのが新たな問題となっていたが。
しかし現実にある羨ましいシチュエーションは腸が千切れる程悔しいようだ。
一人の忍者がはっとして、集会の中で数少ない──大体1~2人ぐらいしか参加しない──女忍者に声を掛けた。
「そうだ! 新聞屋さん! 瓦版の代金を滞納してるけどもしかして何か僕の体で払える方法とかあります!?」
「首切り役人に斬られて内臓売ってきてください」
「冷たい!!」
ばっさりと告げる女忍者のお花である。
彼女は冷淡な声で、
「いいですか? その羨ましい誰かの状況ってのはちゃんと条件があるんです」
「あっ止めて云わないで! 皆耳を塞げ!」
「──ただし二枚目に限る。顔がいいからですよ」
「うわああ!」
耳を塞ぎながらエビ反りになって言葉の暴力を防ぐ忍者達であった。
やれやれと覆面のお花は思いながら、
(そういえば先月分、録先生のところも滞納でしたか)
彼女は目を細めて、
(取り立てに行かないと……ですね)
──道場に居候している子興が、軽く背筋に寒気が走ったという。
ヒロイン(便秘)




