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外伝『IFエンド/二人は幸せな結婚をして、独り』※バッドエンド注意

イベント条件

・『萩から来た女』未発生

・『もう一人の生まれ変わり』未発生

・『江戸から異世界編』未発生


※本編ではないIF未来です


鬱イベント&バッドエンド注意

 時は簡単に過ぎる。

 積み重なる日常は過去となり、様々な輝いた日々も思い出に遠く、そしてまた変わらぬ日常が続く。

 悲しいこともあったが、消えないわけではなく。

 彼もいつもどおり眠たげな眼差しのまま、怠惰に平穏であった。

 その日までは。


「九郎。結婚するわよ」


 いつも通りの緑のむじな亭、気怠げな助屋の座敷で日がな一日昼酒を飲んだまま過ごしていた男──九郎に対して、断定的な口調でそう言ってきたのはお房であった。

 白紙に墨汁を垂らしたうような白黒模様の着物に、腰帯に筆を入れる矢立を差している。髪の毛は師匠に似たのか殆ど結わずに、括り紐で後頭部にまとめてそこに九郎から貰った串を差している江戸では変わった髪型であった。

 少しむすっとした顔つきをしているがいつもの事であり、少女と女の中間な雰囲気を持つ娘であった。

 

(あの小さかった娘が結婚を言い出すとは、年が過ぎるのは早いものだ……)


 出会ってそろそろ十年になろうとしているが、確かにもう彼女もそんな年頃だ。九郎はしみじみとした気分になった。

 まだ。

 いや、ずっと九郎にとっては少女であるような娘であった。だが時はこうして彼女を育ててくれる。変わらぬ自分とは違い、まっとうに生きた証を積み重ねている姿には、つい涙ぐむこともあった。

 こうなれば結婚を成功させる事に全力を尽くそう。年はひ孫程も離れているが、長年付き合った妹のような存在だから真面目に彼女の幸せを願っている。


「それで、誰と結婚するのだ? お主に良い人ができたとは気づかなんだ」

「莫迦。あんたと結婚するに決まってるでしょ」

「そうか、そうか……」


 成程、自分と結婚するとはそりゃあ気づかないわけだ。当人が知らないのだから当たり前か。

 九郎がそう納得した後で、動きを止めて、未だに似合わないと言われる眼鏡の位置を正しながら問い返す。


「待て」

「とりあえずあの屋敷は子興さんにあげるから、家は知り合いの貸本屋が店を閉めるってんで譲ってもらうことにしたわ」

「だから待て豊房。何故いきなりお主と己れが結婚することになるのだ」

 

 九郎はお房──名を改め佐野豊房、雅号を[鳥山石燕]とした娘に疑問の声を上げるのであった。





 *****




 ひとまず──。

 九郎は豊房を座敷の対面に座らせて向き合った。

 すると六科の後妻になって店の仕事を本格的に手伝っていて、赤子を背負っているお雪が茶を持って来たので、九郎がなんとも苦々しい顔で助けを求めようとしたが、


「頑張ってね、応援してますよーう」

「ありがと。お母さん」

「ふぁふぉーう」


 と、すっかり懐柔されて豊房からお母さんと呼ばれる度にくねくね赤い顔で動き回る、いつまでたっても新婚気分なお雪には援護は頼めそうに無かった。  

 厨房に立っている六科を見るが変わらず押し黙った顔で何も気にしていないように蕎麦を切っている。


「ええと、それで何だったか。ああそうそう、魔女から聞いた巨女と戦う戦闘メカの話を黄表紙にする話題だったな。主人公はデス太郎少年。処刑人型ロボ『トーメント』の動かし方はオートマ車と同じなんだが今の時代では通じぬのが問題か」

「勢いさえあれば話が逸らせると思ってるのかしら。九郎と私が結婚する。九郎が私の夫になって私は九郎の嫁になる。疑問を挟む余地は無ければ決定するのよ」

「決定するな」


 ぐったりとした溜め息と同時に九郎は茶碗の酒を飲み干した。代わりを注ごうと徳利を揺らすが、空であった。

 茶碗と徳利を横にずらして机に寝そべるように頬杖を突いて豊房を見る。

 出会った頃は生意気な幼女であったのだが、すっかり姿は女らしくなっている。格好こそ師匠譲りの奇抜さが残っているが、知り合いからも悪い印象の噂は聞こえない今をときめく人気美女画家として有名になっている。昔に師がからかっていた胸もちゃんと成長した。

 実際に九郎は、町人の男から彼女と交際がしたいと云う依頼を受けたこともある。紹介まではするが後は本人任せにしているものの、たいていはバッサリ振られているようだった。

 このままでは行き遅れコースと少し心配をしていたのであるが。


「己れ以外にいいやつを見つけろ。枯れた年寄りと結婚なんぞするものではない」

「居ないわよ、九郎以外なんて」

「あのなあ。己れから見てもお主は良い女だと思うぞ。自活していて家事全般は万能だし頭も良い。絵師の付き合いは広いし、お主も武家へ呼ばれるような絵の腕前だものな」

「ありがと」

「うむ、だから引く手数多だ。好みの条件を云え。金持ちだろうが旗本だろうが、伝手をあたって結婚相手を探してやる」


 九郎はそう言ってしかめっ面のまま片手をひらひらと振る。

 江戸に来て九年。それだけ過ごせば彼の人脈もやたら広がり、無宿人や無頼から吉原の斡旋人、一部の大身旗本など広く知り合いができている。

 それらに更に恩を売っているので九郎の頼み事と云うのはかなり大きな力を持つようになっているのであった。

 豊房は茶を飲んで九郎の言葉を聞き流した後で云う。


「九郎がいい」

「いや、だからのう」

「九郎以外は嫌なの。お金持ちでも偉くて強い人でも、九郎の代わりは居ないもの」

「……」

「それとも」


 豊房はまっすぐと彼を見据えて、九郎の顔に手を伸ばして云う。


「私がこのまま死ぬまで独り身でいろと云うのかしら。先生みたいに。可哀想な先生。想いを遂げることもできないで死んでしまったわ」

「……それを云うのは反則だろう」


 九郎の顔に掛かった眼鏡をするりと取って机に置く。

 それは豊房の師匠──先代の鳥山石燕こと、お豊が生前に付けていた眼鏡を、九郎が形見分けで貰ったものであった。

 彼女は亡くなることを予期していたように沢山の遺書を残し、その中で弟子で従妹だったお房に己の名を分けて継がせ[佐野豊房]と[鳥山石燕]と名乗るようにと指示があったのである。

 眼鏡の奥にあった、右目だけやや黒くなっている瞳を、顔を顰めるようにして閉じて沈んだ声で云う。


「……人の命は儚いものだ」

「そうね。まさか先生がモチを喉に詰まらせて死ぬなんて悪い冗談かと思ったの」

「まったくだ。もっとこう、死に方とかあっただろう。いや、死なないで欲しかったが……」  


 最後の言葉は「もごー」だったらしい。あんまりである。

 病気だとか命を狙われたとかそういうこともなく、単に運が悪く死んでしまったのだ。

 その場に誰かいればよかったのだが、丁度その時期は石燕が一人で屋敷に居たのである。


「それに、九郎もいつまでも真っ暗な顔して、陰鬱になってるじゃない」


 豊房の指摘に、九郎は顔を上げて何とも言えない笑みを作って返そうとした。

 まるで空っぽの笑顔だ、と彼女は思う。


「そうだったか?」

「うん。だってもうあれから、ずっと笑ってくれないもの」

「……いや、な。そりゃ悲しい気分はあるが、そのうち時間が解決するだろ。うむ」


 誤魔化すように告げる九郎に、豊房は云う。


「強がらなくていいから」

「あー……己れはそんなつもりじゃ」

「子供の頃はね、九郎のことを世界で一番強い──まあ、お父さんと同じぐらい強いと思ってた。凄い頼りになるし、なんでも出来る。どこにいてもどんな時でも平気な顔をして解決するような人だと思ってたわ」

「……」

「でも、いつでもそんな人なんて居ないって気付いた。疲れたり寂しかったりもするのは当然なの。だからもう……頼って欲しいの。見てられないもの。あんたが悲しいと、こっちも悲しくなるから」


 豊房の言葉に──九郎は顔を落とした。

「だからって」と、彼女は続ける。


「ずぼらに生活させたりしないから。これから一緒に、沢山思い出を作りましょう? それにいっぱい人から感謝されて認められて、悲しいことがあっても慰め合いましょう。幸せになるの。私と九郎なら……できるから」

「……豊房」


 そして。

 ようやく九郎は気付いた。

 この妙な告白をしている間、いつになく彼女が落ち着いていないことに。

 目は潤んで泳いでいるし、顔は赤い。手元は僅かに震えて、言葉も時折詰まっていた。

 不敵さを師から受け継いだとばかりに、絵師の世界で自在に振る舞い、江戸の世で妖怪先生として珍評を受けていても気にしない豊房の普段ではなかった。

 あの小さかった彼女が、どれだけの勇気を持って自分を口説いているのか、九郎は気付いて──誤魔化そうと云う気が無くなった。


「フサ子」


 と、昔の様に九郎は呼びかけて──伸ばした手で頭でも撫でてやろうかと思ったがそれをせずに、震える彼女の手を取った。


「大きくなったのう……」

「……当たり前よ」

「本当に、己れには勿体無い、良い女に育った」

「……うん」

「だから己れが立派な婿を探して」

「振り出しに戻るなぁ──!!」


 袖口を伸ばして中に仕込んだ、悪霊退治から雑魚散らしにまで役立つ最終兵器を取り出した。

 そうして蕎麦屋に、久しぶりに使われたアダマンハリセンの素敵な快音が鳴り響く。

 もう駄目駄目な九郎であった。

 後頭部から煙を出して机に潰れた九郎がよろよろと顔を上げた。


「くっ、ははは、ツッコミで殴られたのはいつぶりかのう」


 そんな九郎の表情を見て、豊房も笑みをこぼす。

 お豊が死んでから、寂しそうにして周りの者に大丈夫だと、心配するなといった笑顔しか見せていなかった彼が。

 頭を押さえながらたまらんとばかりに笑っていたからだ。

 九郎は腹を決めて、告げる。


「己れも、一人では寂しくて生きていけぬようだ。正直にいえば──お主のことは好きだが、女として好きということではなかった」

「知ってた」

「だが──いや、これから」


 笑みを浮かべたままの、九郎の目から僅かに涙がこぼれた。

 石燕の葬式でも泣けなかった男の、残った涙である。


「こんな駄目な己れでも、お主を好きになっても良いか……?」

「当然よ」


 豊房が九郎の頭を抱きしめた。彼の涙を他の者に見せない為に。

 九郎はどこかで。

 自分は異常だと思っていた。特別に優れているのではなく、単に気味が悪い存在なのだと。

 年を取り若返った歪な体。この世界で生まれ育ったわけではない異人としての立場。安定した生活を送ろうとも巻き込まれる事件。

 自分一人ならば、生きてはいけると思っていた。

 他人を巻き込むと──好きな相手がいれば、その流れに翻弄されるような生き方では相手を巻き込み、時には失う。

 だから一歩引いて、他人の幸せを祝福し、その暖かさのおこぼれでも貰えればいいと。

 諦めていたのだが。


(……生きねば、幸せにな)

 

 ──人は誰でも幸せの星を見出すんだって……。

 昔に誰かに言われた言葉を思い出した。掛け替えの無い友人だったか、それともバーブルだっただろうか。ともあれ今まで何度も夜空を見上げてきたが、もしかしたらそれはすぐ近くにあったのかもしれない。

 静かに、豊房の両親が二人を見守っていた。




 *******




 

 九郎と豊房が夫婦になることはすぐに友人連中に広まり、ある程度の衝撃を与えた。

 とりあえずショックが大きかったのは、


「ぐえーぜー!!」


 泡を吹いて気絶したお八(独身二十代半ば)である。

 江戸の行き遅れメンバー入りしている彼女はなんというか、薄々無理だろうなと思いつつも他の男との縁談が持ちかけられる度に、


『で、そいつは九郎より強くて頼りになって格好いいのか?』


 と、比較するようになってしまい目標が高すぎてさっぱりであった。実家からも、やや諦め目線だ。

 彼女に対して豊房は冷淡であった。


「歌磨呂。慰めときなさい」

「全部ボクに丸投げ!?」


 プレイボーイ絵師こと、喜多川歌磨呂───タマのペンネーム兼、ほぼ本名になっている──に任せておいた。

 石燕の死後も豊房に師事を仰いて今をときめく売れっ子絵師になっている。緑のむじな亭の仕事がほぼ完璧にお雪で回せるようになったので、今は絵師を本業としていた。

 何だかんだでお八とは時々呑みに出かける程度に仲が良いので、適当にくっついてくれれば問題は無いと云う豊房の余り物作戦である。

 次に、


「師匠はそんなにあっさり結婚したりしないごぼぉあ──!!」


 血を吐きながら百川子興(独身アラサー)が気絶した。

 先代の駄目乙女であった石燕を継いで、豊房もしっかりと喪女拗らせる予定が彼女の中にはあったようだ。

 うっかり婚期を凄い勢いで逃した彼女は今や江戸の行き遅れ乙女代表である。

 

「晃之介さんと一時期はくっつくかと思ったんだけどねー子興さん」

「そうだのう。安定路線だったのに、隙を突かれてお花に掻っ攫われた時は関係者みんなで頭を抱えたものだが」


 彼女と淡い関係であった晃之介だが、子興が泊まりがけで留守をしていたときに訪ねてきた瓦版配りの女忍者に一服盛られて朝チュンし。

 更に妊娠までされたものだから、男として責任を取って祝言を上げたのであった。婚期を焦っている女は一人ではないのである。

 まあ、凄まじい苦渋の決断があったとはいえ今では晃之介お花夫妻も子供が三人できている仲睦まじい夫婦になっているのだが。長男などは武芸者因子と忍者因子が組み合って六天流の後継として修行されている。

 


 ともあれ、二人は結婚するのにいつまでも実家暮らしではいけないと、豊房が予め家を用意していた。

 店舗の並ぶ通りに面している貸本屋。店主が店を畳もうとしたのでそこを買い取ったのである。

 二人はそこに来ていた。店内はまだ本が積まれていて、いつでも開店できそうな状況だ。中の本ごと譲ってもらったので少々値は張ったが、それでも格安にして貰えた。亡き石燕の遺産からすれば大したことのない額ではある。


「これから、絵を描いたり貸本屋をしながら九郎の[助屋]をやっていきましょ」

「マジか」

「勿論。ええと、死んだお姉ちゃんは確か[探偵業]とか云ってたわね。いつまでも蕎麦屋じっかの座敷を借りてるのも悪いしね」


 江戸で初めての探偵会社となる、[助屋九郎]。お悩み相談所や町方、火盗改の御用聞きも兼ねた店となる。

 仕事として成り立つのかといえば、副業の貸本屋の収入もあり、九郎の特技を活かすにはこれが良いと判断したのだ。実際に江戸では、薬屋と兼業しての[噂屋]と云うのが存在していたようだ。金を払うか目新しい噂を仕入れてくるかで、情報を売買する秘密めいた店である。

 ひとまず店の中に入り、持ち込んできた急須で茶を淹れる。

 豊房も酒を呑むようになったが師の様にだらしないことはない。むしろ茶の方が好きそうだ。九郎も手早く術符で湯を沸かした。

 互いの前に湯気の立つ夫婦湯のみを置いて座りながら、今後のことを話す。

 

「貸本屋も営業するから二人じゃ心もとないわね。靂でも雇っておきましょ」

「ふむ。確かにあやつは売れぬ物書きで思い悩んでいるのう」

「それに近くに置けば何か事件を引き寄せてくれそうじゃない」

「他人事とは思えぬ」


 靂。

 と、云うのは千駄ヶ谷に住む、新井靂あらい・れきと云う青年のことだ。

 幼名は雨次であり、天爵堂こと新井白石の屋敷と遺産を受け継ぐ為に老人が死ぬ前に養子縁組や手続きをして、元服名も付けたのである。

 雨冠に歴で、靂。元の名を残しつつも天爵堂らしい名付けの字面であった。彼が書く黄表紙などの作者名も[霹靂斎へきれきさい]になっている。

 現在は千駄ヶ谷の屋敷で、嫁に貰った小唄と愛人になっているお遊、そして兄離れのできない茨と四人で暮らしていた。作家としての収入は微々たるもので、女達がそれぞれ内職をして生活費を稼いでいるというなんとも云えない状況であった。時々九郎と呑んで陰鬱な相談をしたりしている。

 彼は謎の不幸体質で、伝手を当たって適当な仕事を行わせても事件に巻き込まれて御破算になるのである。

 

「色々やらせたが、棒手振りをやらせれば死んだ魚を使った決闘団体に組み込まれ、苗売りをすれば何故か茄子の苗に気狂茄子が混ざっていて大騒動になり、蕎麦屋台を開いたらおしぼり売りのヤクザが日替わりで押しかけ、畑を耕せば妙な札で封印された壺が掘り出されたからのう」

「問題が起こらないのが在宅での物書きぐらいだったわね。まあ一応仕事は続いてるんだけど、原稿料安いもの」


 それに、と彼女は指を立てて云う。


「探偵ってのは昼行灯の所長と、美人助手、あと事件に巻き込まれる使いっ走りの組み合わせがいいらしいわ」

「段々云うことがお豊めいてきたよな、豊房。モチに気をつけろよ」


 師の如くメタなことを口走る豊房に、九郎は眼鏡を正しながら半眼で告げると彼女は「わかってるわよ」と心外そうに応えた。

 一つ咳払いして、豊房は続けた。


「それで、これから荷物とか運んで九郎と私はここに住むわけだけど」

「うむ」

「旦那のことを呼び捨てにするってのも、ちょっとはしたないわよね。今まで年上なのに凄い呼び捨てで、今更だけれど」

「別に己れは構わぬが……豊房の言いやすい風で」

「世間体に関わるもの。だからこう、呼び名を変えるわね」


 じっと豊房は九郎の顔を見て、言い淀みながら、


「く、九郎……さん」


 何故か顔を真赤にしたので、むしろ九郎が慌てた。


「いや待て、なんでそんなに恥ずかしがっておるのだ? 普通お主、大人相手だとさん付けだろう。晃之介とか影兵衛とか、利悟にすら」

「だ、だって急に意識したものだから……それに本当に結婚するんだって思うと緊張して……」


 照れ顔を両手で隠して俯く豊房に、九郎は思わず額に手を当てて天井を仰いだ。


「なんというか、お主可愛らしいのう……今ちょっと可愛さに死にかけた気がする」

「こ、子供扱いは止すのよ! その反応は娘から『お父さんと結婚するー』って云われて嬉しがる大人対応!」

「すぐに娘的な好意から変えるのは無理だと云っただろう。で、呼び名はそれで行くのか?」


 そう云われると、再び彼女は紅潮したまま悩むような顔になり、


「これじゃあ他の人と区別が無いというか、特別感が無いわよね……」

「必要かそれ」

「勿論よ。だって、その……私にとって、特別な……人だもの」

「う、うむ。なんというかお主、行動した後で照れだす性質だのう……あれだけ勇ましく告ったのに」

「大事な時は強気に押さないとあなたには通じないでしょ。ずっと見てたから知ってるわ」


 彼女は自分の言葉を反芻して、少し考えた後で頷いた。


「じゃあ、[あなた]と呼ぶことにするわ。うん、いい響きじゃない」

「それなら己れは[フサ子]で」

「こらっ! お嫁さんをそんな風に呼ばないの!」

「素で怒られた……」


 バツが悪そうに九郎は呻いた。つい茶化そうとする癖は意識して直さなければならないかもしれない。

 

「とにかく──こんなところで何だけど」


 豊房が居住まいを正し、九郎へとぺこりと手をついて頭を下げた。


「不束者ですが、どうぞ宜しくお願いします」

「……ああ、己れの方がアレだ。百を越えて独身などと云う結婚不適合人生の半人前だが……一緒に宜しく頼む」


 改めて、確認をしあって。

 二人はこの店で夫婦になった。




 ******





 それからの十年程は波瀾万丈の生活が待っていた。

 探偵部下の靂を加えた[助屋]は次から次へと事件が舞い込み、また出かければ巻き込まれと騒がしい日常を送ることになった。


 時には幕府転覆の浪人崩れ大盗賊団と、利悟や影兵衛と共同戦線で戦ったり。


 台風に乗って空を舞う鮫の群れから晃之介や忍者達と共に江戸を救い。


 年に三回の割合で攫われる靂を、彼の家族と共に取り返しに行き。

 

 浅右衛門が引き連れた怨霊に引き寄せられ発生した百鬼夜行に混じった。


 貸本屋に魔導書が混ざり込んで危うく江戸が魔都に堕ちかけたり。

 

 料理大会でとうとう助屋チームが御前試合の最終決戦に挑み、同心与力チームと戦った。


 大洪水に逆らって江戸の町に闖入する鮫の群れをなぎ払い、むじな亭では蒲鉾蕎麦が繁盛をした。

 

 旅行に行った先の京都で阿部将翁と妖怪退治をしたり、長崎で西洋悪魔相手に詐欺をしているお七を見かけ、婿を探しに旅立った子興の行方を調べた。


 二人で手を取り合い走り抜けた九郎と豊房は多くの人を助けて、笑わせ、頼られるようになった。


 その活躍ぶりは靂が物語に記して、あまりに摩訶不思議な能力を見せる主役の二人はこう呼ばれた。


 [九郎天狗と、妖怪魔女鳥山石燕]


 江戸のお助け天狗と魔女の物語である。

 

 やがて助屋には晃之介の息子が一人、憧れて転がり込んできたりして賑やかになった。

 

 九郎と豊房も養子を貰ってきて子供を育て始め、その時期からお互いに「お父さん」「母さんや」と呼び出して、誰が見ても仲睦まじい夫婦になっていた。


 二人は騒がしくも幸せに暮らしていくのであった……。





 ******





 更に年は過ぎ、子供も手が掛からなくなった。

 店は繁盛しており、貸本屋は別の店員に任せて、晃之介の息子と靂だけでも助屋は運営できる。

 江戸の街では揉め事騒動は、[九郎の親分]の名前を出せばすぐに止まるぐらいだ。

 

「というわけでまた旅に出てくるから、店の管理は宜しく」


 豊房はそう告げて、九郎とあちこち小旅行に出かけることが増えた。

 遠くに行くときは飛べる九郎に運んでもらうが、近くの江ノ島などは二人でのんびりと歩いて行く。

 賑やかしい町などに寄って名物を食べ歩き、温泉などを楽しむ。

 その最中に時々豊房は聞いた。


「どう? いいところじゃない?」

「ふぅむ」

「老後にごみごみした町から引っ越す時は考えておいてよ。別に私は、父さんの隣ならそれでいいんだけど」

「ははは、しかし心配事の多い連中を残していくのもな」


 などと云った会話を、していた。

 いつもの調子で、夫婦間の軽口のような、老後は静かな田舎で暮らしたいとかそんな思いつきめいた風に聞こえた。

 豊房も本気ではないのか、或いは云うように九郎の隣ならどこでもいいと思っているので、


「そ」


 と、あまり込み入った話にはならなかった。

 九郎も、彼女が何故それを言い出したか───わかっていたが、どうしようもなかった。

 





 *****




 九郎と豊房の養子は[佐平さへい]と云う名であった。

 何らかの理由で生まれた子供を手放さないといけないことは江戸でもしばしばあり、寺の住職がそれを一時的に預かり、子の生まれない夫婦などに引き渡すのが慣例である。

 寺が仲介するのは戸籍などの証明を寺で行っているからだ。

 ともあれ、赤子の頃に二人に貰われた佐平の本当の両親などのことは一切九郎達も知らされていないし、そのことに関して佐平は養子だと知っているが、両親に不満を持つことなど無かった。

 むしろ自慢に思うが、それを誇示して増長することもない。周りには良い大人が多いし、子沢山な六天流道場の幼馴染に比べたら佐平は普通に弱い──というかあの道場の子供が強すぎるのだが──ので、親を誇りに思いつつも曲がらず歪まず、真っ直ぐに育った。

 九郎と豊房がかける愛情や教育もしっかりしていて、喧嘩は弱いが頭は良くてそのうちに荒事でない仕事を手伝うようになった。


 そして、佐平も嫁を貰い──子供ができた頃から、彼の両親は「婆さん」「爺さん」と冗談めかしてお互いを呼ぶようになる。

 それぐらい時間が経過すれば、息子の彼ですら違和感を拭えなかったのだから、本人達も周りの視線に気付いていただろう。


 九郎がまったく老けていないことに対しての、世間の評判を。


 多くは、やはり妖怪天狗だったのだと、恐れられる方向ではあったが。

 その時期から、九郎と豊房はあまり外に出かけなくなった。店ではなく、神楽坂にある屋敷に移り住んで日がな一日のんびりと茶などを飲んで過ごすようになった。

 助屋の仕事はもう佐平や靂、それ以外の店番達で十分に回していける。人から何かを探して欲しいとか、誰かに詐欺を受けたのでどうにかして欲しいとか、訴訟沙汰を解決して欲しいとかそう云うことが普段の仕事だ。

 二十年以上も続ければ街の殆どに顔が利く。九郎の伝手が必要な時は、彼に一筆手紙を書いてもらい、それをどうにか出来る人のもとに届ければすぐに解決した。

 豊房も屋敷の中で描いた絵を版元が受け取りに来るので、生活用品だけ届けられれば外出の必要は無い。

 縁側でゆるやかに時間を過ごして、佐平の妻が子供を連れて日中やって来ては、二人でそれの相手をしていた。 

 金の心配も無く、健康で孫も居る老後なのではあるが。


 江戸の街は歩きまわらなかったがそれでも時々二人はまた旅行に出ていた。

 今度は人の集まる観光地ではなく、海や山など、静かな場所に出かけているようであった。


 隠れるようにして、九郎が豊房を連れずに一人で出かけることもあった。

 知り合い全員に頼み、頭を触れ合わせる。皆は奇妙なまじないだと思っていたが。

 やる度に、九郎は気落ちした表情を浮かべる。

 イリシアの生まれ変わりの片割れは、見つからない。




 *******

 




「最初に死んだのは誰だったかのう」


 あまり遡りすぎると天爵堂から数えることになるが───。

 静まり返っている寝室で、九郎はぼんやりと考えてたことが口から漏れたのに、目の前の仰向けに寝ている老女の反応で気付いた。


「誰か、の範囲が随分と、大きくなったわねぇ」

「確かにそうだ」

「でもお爺さんの友達で先生の次なら……茨だったかしら。あの子も心臓が弱くて」

「ああ、そうだったな。あの時は靂の奴が随分と堪えていたのう」


 江戸で暮らして何十年も経過した。そして死んでいった者も多い。

 不意の事故で死んだものから寿命で死んだもの。九郎にとって多くの友達が先立って逝った。

 そして、また。

 

「なんというか、婆さんが最後……という気分になってしまってな」

「そう……ねえ。昔からの友達はみんな……ああ、でも将翁さんは生きているのではないかしら」

「長く会っていないが、そうかもしれんな」


 鳥山石燕。録山晃之介。中山影兵衛。菅山利悟。佐野六科。お雪。お八。喜多川歌麿。百川子興。新井白石。新井靂。小唄。お遊。茨。山田浅右衛門。根津甚八丸。他にも関わった多くの者が居なくなった。

 豊房は実際、長生きをした。

 だが暫く前から心臓が発作的に締め付けられるような苦しみを覚えるようになり、医者の話ではもう───。

 

「本当に魔女のお婆さんになったらいいなって……もっと長生きできそうだから」

「そうか……」

「お爺さんを残して逝くのは心配で心配で」

「ふっ……」


 冗談めかして告げる豊房に、九郎は笑った。


「安心してくれ。己れは大丈夫だ」

「……」

「先に逝かれるのにはもう慣れた。むしろ、孫が悲しむだろうなあ。あいつは婆さんっ子だったから」


 真面目に働き女遊びどころか、酒すら飲まない息子。

 孫も二人居て、まだ小さい方も大きくなった方も九郎と豊房に良く懐いた。


「あの世で待っていてくれ。そのうち……」

「ごめんね、九郎」


 不意に。

 豊房が謝った言葉で、九郎は口を噤む。

 小さな囁きになっている彼女の声は消え去りそうである。


「先に死んでごめん。私、九郎にそんな顔をさせない為に一緒になったのに……」

「何を──」

「だってまた、笑顔の振りをしてるじゃない。人を安心させようとして……九郎はそんなに、強く無くてもいいよって……」

「馬鹿を云うな」


 下手糞な。

 彼女以外には気づかれることも無くなった作り笑いを消して、九郎は顔を押さえて淡々と呟く。


「己れはこれまで幸せだった。お主の隣で笑って生きて、楽しい人生であった。掛け替えの無い大切なことを沢山知った。だから、最後にごめんなどと云わないでくれ、豊房」

「九郎」


 豊房は、枯れ木のようになった手を彼の顔に触れさせて、困ったような顔になる。


 ──本当に、旦那にこんな顔をさせちゃって、悪いお嫁だな、私。


 楽しい日々がいつまでも続くか。

 別れるにしても綺麗に終わりたかったのだが。

 思ったよりも長く続いた楽しい時間は、別れを悲嘆に変えてしまった。 

 

 ──悲しんだ九郎を見たくないと結婚したのに、自分が悲しませるなんて。


 彼に謝りたい言葉は幾らでもあった。しかしどれも、口にするには残酷過ぎる。

 だから、


「ありがとう、九郎。私も……」


 幸せだった。

 その言葉は、呼吸の音に紛れるようにしか口から出なかった。

 九郎が耳を寄せてその掠れた声を聞いた。

 




 ******





 絵師、鳥山石燕。或いは佐野豊房の葬式には多くの人が訪れた。

 版元関係や狩野派絵師の皆。或いは昔に世話になった者やその家族。

 だが──ここ十年ばかり、あまり出かけていなかった喪主、九郎の姿を見て噂話を囁く者も多かった。

 助屋の者や、知人の子供など関係者は事情を知っているのだが、関わりの少なかった人間はじろじろと無遠慮に九郎へ視線を送り、


「あれはお孫さん?」

「旦那だって話だぞ」

「若い燕にも程が無いか? 遺産目当てとか」

「いやいや、あの人は人間じゃない妖怪の類で、もう何十年も同じ姿なんだと」

「ほう、さすが江戸に名高い妖怪絵師。まさか妖怪とまぐわっていたとは」


 ──下世話な声に、息子の佐平が恐ろしい表情を浮かべて拳を固めて立ち上がろうとした。

 他にも怒気を浮かべた者達が居るが、九郎がいつもの眠たげな顔のまま佐平の肩を掴んで、


「よせよ」


 と、疲れたような感情しか無さそうな声で告げた。

 

 ──怒りの遣りどころが無い。


 歯を食いしばって、佐平は平然としている偉大な父を睨むように見た。

 あれだけ仲が良かった母が罵られているのと同然なのに。

 そんな母が死んでしまったというのに。

 九郎という男は、相変わらずのぼんやりした昼行灯の様子だったのだ。

 思えば、佐平も散々世話になった助屋の実質的な番頭であった靂が死んだ時。

 多くの人が悲しんで居たが、九郎だけはいつもの通りだ。

 他人の死を受け入れているのか。


 ──鉄のように強い人だ。


 それが羨ましいかはともかく、佐平はそう思った。

 経が終わり、死に装束で棺桶に入れられた母は小さく、大人になったというのに涙が出た。

 

 

 その夜。

 どうしても胸につかえる感情が飲み込めない佐平は九郎の部屋へ向かった。

 何かを語り合いたかった。母との思い出とか、愚痴とか、なんでもいい。そんな気分であった。

 九郎の部屋の前まで来て、声を掛ける前に──中から聞こえる音に気がついた。

 僅かな隙間から、部屋が見える。


 その中では九郎がうずくまり、すすり泣いていた。


 佐平は心臓を鷲掴みにされたように感じた。





 ******





 九郎は思う。

 知らなかったのだと。いや、知識はあり、想像はしても、体験しなければわからなかったのだと。


 人より長く生きることが此れ程に辛く。


 好きな人を見送り続けるのが此れ程悲しく。


 隣に誰も居なくなったときに此れ程寂しいとは。


 ──己れはそんなに強くなどなれないのだぞ……


 悲しさは時が癒やすと云う。 

 生きて楽しい事を続ければ総量として上になると云う。

 しかし、生き続けて、楽しい事も過去になればただの寂しい思い出になり──悲しい記憶は何度も思い出すようになった。

 

 これまでの友達は皆良い奴『だった』。

 美人で気が利いて愛しく、自分に勿体無いぐらいの良妻『だった』。

 楽しい日々を過ごして、幸せ『だった』。


 自分はいつ過去形になればいいのだろうか。


 ──あいつもこんな思いをして、人の死を看取ってきたのか……。


 苦しい胸を掴みながら、九郎はその考えが浮かんだ後でぞっとした。


 ──あいつって誰だ……? それすらも思い出せないのか。いつか皆の事も思い出せなくなるのか。


 楽しい記憶に苛まれながらも、それを忘れることが何よりも恐ろしかった。

 ただ、溢れる嗚咽を押さえて九郎は泣いた。

 泣きたいときに隣に居てくれた妻はもう居ないのである……。





 *******





 父親の泣く姿を見て、佐平は音を立てずに、ふらふらした足取りで屋敷の外に出た。

 そしてへたり込んで、まるで九郎の真似をするようにうずくまる。

 彼にとって父は無敵の存在であった。町奉行所や火盗改でも知らぬ者は居ないお助け人。界隈を歩けばやくざ者は隠れるか頭を下げた。皆に一目置かれて店を立て直せただの、借金を返せただのと感謝する人は多い。それでいて驕った様子は無く、家では仲の良い家族であった。

 そんな父が泣いていた。

 彼はようやく、父は最強の存在ではなく、自分と同じく悲しくて泣きたいのだと知った。

 それを見せぬのは──いや、見せていたのだろう。きっと、彼女の前では。

 佐平は思う。自分では無理なのだろう。恐らく他の誰にも。死んだ豊房が、最後に九郎と対等に付き合えた人物なのだ。


『助けて!』『どうにかならないかな』『頼むよ』『九郎だけが頼りだ』『さすが!』『お願いします!』『助けてください』『もう他に方法が無くて』『どうしたらいい?』『手伝ってくれ』『そこを何とか』『助けて』

『ここで相談に乗ってくれるって聞いて』『頼めるのはお前だけだ』『お願い』『誰か!』『どうにかしてください』『助けて』『引き受けて』『一生に一度の頼みだ』『助けて』『守ってくれ』『どうか』『ありがとう!』

『助けて』『助けて』『助けて!』『助けて』『助けて』『助けて』『助けて』『助けて』『助けて』『助けて』『助けて』『助けて』『助けて』『助けて』『助けて』『助けて』……


 誰も、彼も、九郎は人の声に応えるように助けて来た。無論、全て成功したわけではないが──。

 その誰もがこう思ったのかもしれないと、佐平は考える。


 彼は自分を助けてくれる強い人だ。

 きっと彼自身には助けなんて必要無いぐらい強いのだろう。


 佐平自身も、いや、付き合いのある靂の子や晃之介の子さえ九郎をそう思っていたから──。

 どうすればいいのか、わからなくなった。

 もし父が母のようにヨボヨボになり、力も弱って生活もままならないのならば幾らでも助けになる方法は思いつく。

 しかしまだ彼は強いままなのだ。強いままで居てしまっているのだ。 

 自分達が何か申し出ても、彼はへらへらと笑いながら、


『別に助けなどいらんよ』 

 

 と、云ってしまうだろう。あのすすり泣いているところに踏み入っても、彼はバツの悪い顔をしてすぐに何でもないと取り繕う筈だ。

 対等ではない、九郎にとってはまさに子供なのだから。

 佐平は嘆く他無かった。


 ──誰か父を助けてくれ……。


 子供はいつか老いた両親を助けるようになる。

 だがいつまでも老いない彼を救うには、子供では無理なのだ。






 ******





 葬式から何日も経たない、ある日であった。

 佐平が九郎の嘆きを見た夜以外は、九郎はやはりいつもどおりにぼやっとした顔で酒を飲みながら過ごしていた。

 だが、その日。

 佐平と妻、そして子供達が集まっている飯の場で、九郎は告げた。


「旅に出る。明日、あちこちに挨拶に回らねばな。十手も返しておかないといかんし。明後日に出発するとしよう」


 当然、佐平の妻や子は九郎を止めようとした。

 あまりにも急だ。

 まだ豊房の四十九日も終わっていないのに。

 何か問題があるなら相談して欲しい。

 お爺ちゃん行かないで。

 などと。

 だが九郎はやはり安心させるように微笑み、


「いや、婆さんと昔に旅行した場所をもう一度見に行こうと思ってのう。年寄りの、回春旅行だから許してくれ」


 それでも、と言い募ろうとする家族を佐平は手で制して、頷いた。

 彼はわかっていた。きっともう父は帰ってこないつもりだと。これ以上親しい者の死に耐え切れない。誰も知らないところへ、旅に出るのだろう。

 

「行かせてあげなさい。いつも頼ってばかりじゃ、爺様も困るだろう? 好きなようにやらせるのも、孝行ってものだ」


 じっと九郎は佐平の言葉を柔らかい表情で聞いていた。

 小さい方の孫は、祖母に加えて祖父まで居なくなるのかと涙ぐんで、慰めるのが大変であった。


 翌日に九郎はあちこちに足を向けて、旅の出発を伝えた。

 寂しくなるとか、帰ってきたら顔を出せとか、皆から励まされて。

 そして夕方に家に戻り、孫の二人は彼の凝ってもいない若い肩を叩いて、買ってきたお守りを渡した。

 豪華な手料理を佐平の妻が振る舞って、高い酒も用意した。

 佐平は───。

 彼は下戸である。酒が呑めぬというか、呑まない。そう云う習慣であったのだが。

 その夜だけは、九郎と共に大いに酒を呑み交わした。

 この日に呑まなければ二度と父親と酒を呑むことは無くなると思ったからだ。

 

 呑んでいる最中に何を喋ったりしていたか、記憶は殆ど残って無かった。

 だがこれまでの人生で一番笑った気がするし、泣いた気がする。九郎と連れ小便に出たり、飲み比べをしたりした。

 佐平は呑みながら、そんなことはありえないし、不可能だと判っていたが、こう思った。


 ──もしここで、自分が父を酔い潰せば、明日は二日酔いだからとかで、一日だけでも長く居てくれるのではないだろうか。


 父を送り出したい気持ちと、まだ居て欲しいと思う気持ちがあった。

 だが、九郎が大酒飲みなのは知っていて、下戸の自分が勝てるものではないとも理解している。

 

 

 翌朝──。

 酒を呑み交わしていた部屋で、体に布団を掛けられていた佐平が一人で目覚めた。

 頭痛と喉の渇き、吐き気で朦朧とする中、目の前に置かれたものをじっと見下ろす。


『達者でな』

 

 と、書かれた半紙と、重石のように小判が包まれて置かれていた。

 妻が部屋にやって来て、父はもう行ったのかと尋ねる。

 佐平は頷いて、涙を拭った。





 *******





 それ以来、九郎の行方は知れない。

 佐平の子もやがて大きくなり、今度は佐平が爺と呼ばれる立場になった。

 そしてやがて。

 彼も具合が悪くなり、布団に寝たきりになる。だが、まだ矍鑠としている妻や、息子夫婦に世話されて生活していた。

 自分が弱っていくのが恐ろしくもあり、安心も感じた。


 ──あの世には母は居るだろう。父も居るだろうか。案外まだ、三途の川で父を待っているかもしれない。


 うとうととしている自分は余程具合が悪そうに見えるのだろう。

 家族が布団の周りを囲んでいる。孫が泣きながら手を取って、呼びかけていた。

 

 ──ああこんな時、父なら安心させるように……。


 息を吐きながら何とか笑みを作って、佐平は言葉を紡ぐ。


「おれは幸せものだ。子供や孫に囲まれて死ねる」

 

 そして、息子と孫へ視線をやって云う。


「お前もいつか、子供に看取られてな……ちび達は、親より先に死なないように。それだけでいいから……」


 たったそれだけで、こうして安らかに逝ける。

 自分が父に、死に様を見せなくてよかったと佐平は思えた。それが最後の孝行だ。

 口から力が抜ける。お迎えが来たようだ、と目を閉じて大きく息を吐いた。

 と──。

 その時。

 後頭部に僅かに感じた振動が、音となって佐平の薄れゆく頭に伝わった。

 足音だ。

 部屋の外、廊下をこちらに向かって歩いてくる音であった。

 子供が歩くような小さな───


 ──来るな。


 叫ぼうとした。だが口はもう声を出さなかった。

 

 ──来るな。


 近づくものにどうにかして伝えなければならない。神でも仏でも、あと一言でいいから喋らせてくれと祈った。

 

 ──来るな。


 ならば他の誰でもいいから、来るなと代わりに叫んでくれと助けを乞う。

 何故、何故と自問する。

 どうして今、この瞬間に、彼は訪れるのか。

 ほんの少し早いだけで、追い返す言葉が出たというのに。

 見せてはいけない。死ぬところを彼に見せてはいけない。

 最後の孝行さえ自分はできないのか。助けられた恩をひとつも返せずに死ぬのか。

 周りの皆は、突然苦しみだした佐平を心配して声をかけてきて、部屋の外にまで来た彼に気づいていない。


 ──来……る……な……


 そうして、永遠の眠りが訪れるのは、部屋のふすまが開くと同時にであった。



 部屋に残されたのは、苦悶の死に顔をした男と──絶望がひとつ。





                        完





 




 こんなエンディングは嫌すぎる。

 ヨグはスプラトゥーンにハマってて九郎を暫く放置してたようです


 解決策1:イリシアの生まれ変わりを発見するイベントを起こして人並みの寿命になりましょう(調節可)

 解決策2:寿命が長いか無い人とくっつきましょう(スフィ・将翁・イモ子・妖怪化石燕など)


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