98話『祝いの話』
江戸なのである書籍二巻が本日発売です
江戸の町奉行所には北と南があり、月ごとに片方が開いて訴訟の受け付けなどを行う。
その間の非番となるもう片方も休みではなく、先月分の事務処理仕事を行わねばならないし、町奉行は毎日江戸城に登城して老中などと書類のやりとりや仕事を与えられるのである。
町奉行と云えば民事訴訟を受け取り裁判を行う、という印象があるが、その仕事の全容は裁判長であり、警視総監であり、消防庁長官であり、知事でもある。上下水道の整備から土木橋梁工事、果てはこの時代だと江戸近郊の新田開発まで担当しているのだから激務である。
更に職場が家に直結しているのだから、急な仕事に対応できて休みなど無い。町奉行に任じられた旗本はそのまま奉行所の中にある役宅に引っ越すことになるのだ。
そして今月の当番である南町奉行所でのことだ。
忙しい職場であるが、その夜は少しだけ和んだ空気で宴会を行っていた。
いや。
その日は町奉行大岡忠相の役宅にて、祝言が開かれているのだ。
三千九百二十石相応の大旗本である大岡忠相を下に於いての、黒袴を着て上座に白目を剥きながら座っているのは、同心である菅山利悟である。
その隣には、白鶴のような花嫁衣装を着た瑞葉が静静と座っている。
利悟と瑞葉の祝言であった。
ずらりと部屋に並んで奉行所に勤める同心与力らが集まり、それを祝っている。奉行所内にはちょっとした長屋ぐらい広い大台所があり、大勢の料理を作れるので宴会の場としては丁度いいのだ。
部下の祝言ならばと奉行も金を出して、豪華な飯の膳がそれぞれの前に並んでいた。同心の薄給では手が出ない贅沢なのだが、一部の同心は上座に座っている利悟を睥睨している。
大岡忠相のゆったりとした渋い声で祝い唄が詠まれる。
「高砂や この浦舟に 帆を上げて この浦舟に帆を上げて 月もろともに 出潮の 波の淡路の島影や 遠く鳴尾の沖過ぎて はやすみのえに 着きにけり はやすみのえに 着きにけり……」
それを、祝言の席についている部下の与力同心らが、無礼講だとばかりに気易く褒め称えた。
「いよっ名奉行!」
「格好いい密教系の呪文詠唱に使えると思うんだよなあこれ」
「『月もろともに』あたりがいいよね。月もろともに貴様を消し去ってくれるわ! みたいな」
「お前ら、利悟が祝言上げたからって現実逃避するなよ、これ」
虚ろな目で雑談を始めようとしていた独身同心らを、まとめ役の筆頭同心である美樹本善治が戒めた。
彼は瑞葉のすぐ近くに座っていて、両親の居ない彼女の父親役として祝言の席に参加していた。
利悟と瑞葉は、幼い頃に住んでいた長屋を悪党に襲われて無残な殺しに巻き込まれ、その家族を失っている。悪党どもの大暴動とも云えるこの事件では町方、火盗改の同心や手先、その家族らにも被害が及び、当時現職であった二人の父親も殉職したのだ。
それ以来、家族ぐるみの付き合いだった善治を中心に関係者らが何かと気にかけて、そのうちに利悟は同心へとなったのだが。
同僚達が祝言に相応しくない辛気臭い溜め息を吐いた。
「よりによって、[青田狩り]の稚児趣味利悟に先を越されるとか……」
「しかも相手は美人だし、べた惚れだし、幼馴染だし……利悟死ね」
「利悟死ね」
「おいおい、祝言だというのに縁起でもない」
忠相が恨みがましそうにしている皆を笑いながら叱った。
足を早速崩してあぐらを掻き、頬杖をしながら善治は白目を剥いたままの新郎へと声を掛ける。
「おい利悟。お前も折角奉行様が親代わりになってくれてるんだから、いつまで阿呆みたいにぼんやりしてんだ」
「う、うううう……」
そう、稚児趣味の利悟としてはさんざん同居したり惑わされたりしてはいたものの、ついにこの年下だが割りといい年をした瑞葉と祝言をあげることになって、そこはかとない絶望感に包まれているのだ。
外堀どころか、利悟と云う天守閣はもはや築土の下に埋もれてしまっている。世間的にも法的にも、もはや完全に落城した存在に成り果てた。
がくがくと首を震わせて焦点の定まらない目をしている利悟に、爽やかに一人の若い同心が告げた。
「前々からもう事実婚状態だったじゃない。いやー羨ましいなあ、僕もお嫁さん欲しいんだけど、全ッ然出会いが無いんだよなあ……」
「……誰だっけ?」
利悟がぼんやりと見ながら、顔に覚えのない彼に云う。
同心の正装をしているが、年の頃は二十代のつるりとした染みのない顔立ちに、作り物のような髷を結っている。特徴が乏しいのが特徴のような影の薄い男であった。
その言葉で他の集まった同心らもぎょっとしてその人物を見て、不審者に立ち上がろうと片膝を立てる者まで現れた。
慌てて男は手を振る。
「ちょっと!? 僕だよ、隠密廻の藤林尋蔵! もう、祝言だから折角素顔で来たのに!」
不満を口にして、ごそごそと取り出したすっぽりと被る覆面をつけた。目元が黒布で覆われ、両目の位置に黄色い丸が描かれてあり芝居の黒子のような印象を覚える。
見慣れたその姿に、皆が納得する。
「ああ、なんだ藤林か」
「大体いつもその覆面か、顔を化粧で変えてるからわからなかった」
尋蔵は変装術の達人であり、役者顔負けの化粧やかつら、肉体改造とも云える術を使ってやくざ者にでも水商売の女にでも化けられるのだが。
その素顔を見ることはあまり無かったので、誰も気づいていなかったようである。
話の中心を尋蔵から利悟に戻すように、善治が視線をやる。
「つうか利悟。お前いつまでも湿気た面しやがって。瑞葉ちゃんが相手で何が不満だよ、これ」
「そうだそうだ!」
「ずるいぞ!」
「いや、年齢が……」
「大岡裁き!」
「ぐあー!」
一番近い忠相から、扇子で頭を殴られる利悟である。
年齢が問題というがまだ瑞葉は二十前後であり、少し遅れているが十分適齢期だ。それを断るのは十歳前後の少女と結婚したいと思う利悟の嗜好なのであるが、どう考えてもただの幻想だ。
快音を立てて利悟の額に当たる攻撃に、一同が盛り上がる。
「出た! 町奉行必殺の大岡裁き!」
「この前も、赤子の母親だと主張する二人の女を目の前にして、『ならばこの大岡剣で赤子を二つに分けてやろう』とか云ったら気違いを見る目で見られて、結構後を引いて気にしていたやつ!」
「大岡剣はねえよな」
がやがやと騒ぎになるが、善治が利悟に続けて告げる。
「っていうかお前、浮気というか児童犯罪起こしたりしたら腹を切るように誓約書書いとけよ」
「条件酷くないですか!? 嫁は三回変えて選べって云うぐらいなのに!」
「うるせえおれが殺すから覚悟しとけよ、瑞葉ちゃんの父親代わりだから当然の権利だな」
「あの……」
利悟にマジ殺しの決意を込めた目線を送っている善治に、瑞葉が手で押さえるような仕草を見せながら静かに声を掛けた。
「私なら大丈夫ですから……利悟さんが死んでしまうことのほうが、よっぽど悲しいので、その、浮気をされるより……」
集まった皆が一斉に目頭を摘んで天井を向いた。
ええ子や。
なんでこんな奴が稚児趣味同心にべた惚れなんだ。
そんな理不尽を覚えつつ、善治は云う。
「わかった、わかった。じゃあ半殺しにしておくから。大丈夫。おれ、半死半生は慣れてるから手加減得意な筈」
「ちょっと!? やめてくださいよ美樹本さん! あんたの半死半生と普通の人間の半死半生は全然違いますからね!? 普通死にますからね!」
慌てて利悟が止めるのを聞いて、ひそひそと同僚が話し合う。
「美樹本さん、チンピラ十人にめった刺しにあっても現場復帰するからなあ」
「小一時間ぐらい喧嘩神輿に跳ねられて踏まれまくった後でも生き残ってたし。普通全身骨折して死ぬのに」
「2階建てが崩れ落ちた中に居て、挙句に燃え上がっても焼け残るからな、あの人だけ……」
よくよく現場で、不幸な条件が重なって重傷を負う善治だが後遺症にならないのは悪運故か。
[殉職間近]と呼ばれてからも死なない不死身の同心なのである。まあ、怪我の影響か髪の毛は白髪が混じって老けて見えるのだが。
酒盃を口にしながら、善治と同じ年頃の中年が薄く笑いながら云う。
「善治が一番死にかけたのはあれだな。十四の頃に親父の金を盗んで吉原に行ったんだが、金が足りずに逃げたら追いかけられて、真冬のおはぐろどぶに飛び込み潜水をしてほとぼりが冷めるまで沈んでいた時。ずぶ濡れのどろどろでな」
「てめっ瀬尾! 人のこっ恥ずかしい過去をほじくり返すんじゃねえよ、これ!」
[五十五人逮捕]の瀬尾彦宣は火盗改方所属であるが、彼も善治と幼馴染であり、利悟らとも関わりがあるので参加している。
筆頭同心で愛妻家の善治の意外な一面に皆が笑い声を上げる。
「ははは、何はともあれ利悟くん! ───女の子ができたらよろしくね」
爽やかに云う[犬神]の小山内伯太郎に、利悟が涙目で怒鳴った。
「うるせえ! 伯太郎お前も誰か年増と結婚しろ! この中に未婚の姉か妹が居る人は居ませんかー!?」
すっと手を挙げる若い同心が居た。[出任せの説得]斉藤伊織だ。
「うちの駄姉ならばくれてやるが。魚釣りと土いじりが趣味で磯臭い泥臭い臭いの三重苦。あと無愛想なのが難点だな。神たるこの私の姉とは思えないので早く貰われろ」
「それだ! まさに事故物件! 伯太郎お見合いしろ!」
「いいいいやああああだああああ!!」
叫びながら首を振り回す伯太郎である。
笑いながら町奉行が言い渡す。
「独身の者も早く嫁を見つけろよ。何があるかわからぬ職務なのだからな。同心は世襲制ではないという建前だが、息子に継がせたほうが何かと融通が利く」
と、云うのも親が作った伝手をそのまま子供が引き継ぎやすいし、若い頃から同心見習いとして職務に参加させられるので便利なのだ。
「嫁は趣味の合う者と一緒になるのが一番だ! 俺の嫁なんて超博識で良妻拳法とか使うしすげえ最高!」
変な知識を信じ込んでいることに定評のある[停止即死]の養生所見廻組、江川祐佐右衛門が堂々と云う。落ち着きが無いが彼も既婚者である。
「なんだ江川、良妻拳法って」
「くくく、鎖骨をよく折られたけどそのおかげで折れにくくなったぞ」
「……当人が満足ならいいが。あと未婚といえば──」
善治の視線が一番下座の、こっそり席を外しやすい位置に居る大柄の同心へと向いた。
酒には手を付けずに、白飯を大盛りでおかずとの配分を考えながらもりもりと食べているのは[警邏直帰]の水谷端右衛門である。
「水谷も早く嫁さんを見つけろよ。食道楽もいいが、嫁の手料理は最高だぞ、これ」
「はあ……どうも女性に縁がなくて」
彼の場合は女と遊ぶよりも、「早く帰りたい」とか「飯が食いたい」とか云う欲求が強い、人間関係が下手くそな二十代なのであった。
見た目は立派な偉丈夫の侍で悪くはないのだが。孤独を好む性質があるのだろう。あちこちの飯屋を食べ歩いているので、中にはその食いっぷりはいいがガツガツしていない態度がいい、という評判もあったりするのだが。
「そういえば女絡みといえば───」
善治が見回して、利悟に尋ねた。
「あいつ呼んでないのか? 色々世話になったんだろう」
「九郎ですか。いやあ、一応誘ったんだけど、今日は別の祝言があるとかで」
「本当に助けて貰った、恩人なのですけれど」
利悟と瑞葉も少しばかり残念そうに云う。
何だかんだで利悟は手柄を立てるのに九郎へと仕事の手伝いを頼んだことも多く、またこの前の大火事では危ないところを妖術で救われたのである。
忠相が腕を組みながら思い出すように、
「九郎と云うと、利悟の手先みたいな者だったか。何度か、利悟や藤林、小山内の報告にあったが」
「手先というか手伝い人というか……火盗改方でも色々働いてるんですけどね、まあなんというか……」
少し表現に悩んで、利悟が云う。
「お人好しの天狗みたいな存在です」
「ふぅむ、市井には天狗が居て、城には入道が居てそれぞれ役に立っておるとは、これも上様の人徳故か……」
「は? 入道?」
「いや、なんでもない」
言葉を濁すようにして忠相は口元に酒盃を進める。
大奥の御錠口に勤めている巨漢のオークは、最初の頃こそ珍妙な存在を招き入れたものだと、周りの者からは酔狂に見られていたが中々に働き者であり、吉宗に対して率直に意見を述べたりもするようだ。
新田開発と米の増産に取り組んでいる中で、薩摩芋の栽培に早く取り掛かったのも彼が「米が冷害で取れなかったら危なくないですか」と云う意見を吉宗が採用した為である。
なお薩摩芋の栽培を始めたら「あんなものは毒を持つ作物だから育てる暇があるのだったら天下国家の為になる云々~」と云う内容の長文書が大量に目安箱に入れられていたりしたが。勿論千駄ヶ谷に住む元側用人の老人からだ。彼は薩摩芋は毒説を唱えている。あれを食べている薩摩武士を見ればその毒性は明らかであるらしい。少し納得しかけたが、頭が痛くなった。
「しかしまあ、天狗も応援していた婚姻なんだ。瑞葉ちゃんよ」
「はい」
「幸せになりなよ。本当にさ。それだけが……なんというか、おれの救いだから、これ」
少しだけ目元を滲ませながら、善治はそう云う。
彼女の死んだ家族とは親しい付き合いだったのだ。八丁堀の同心組屋敷が襲われた事件で、善治も前妻を亡くしている。救えなかった命の為に、生き残った彼女には幸せになって欲しかった。
それを聞いて。
瑞葉と云う女は、明るいと云うよりも涼し気な表情をいつもしているのだが───。
少女のような笑顔を浮かべて、告げた。
「大丈夫です、わたしは幸せものです。亡くなったお父さん以外にも、善治さんがお父さんになってくれましたから」
「───」
洟をすする音が、僅かに善治から聞こえた。
「それに、利悟さんが一緒になってくれました。人生の墓場だなんて云われちゃいましたけど……わたしは、お墓まで利悟さんと一緒に過ごせるなら、一番の幸せです」
「う……」
利悟がなんともいえぬ表情で体を掻いた。
やはり一同は、なんでこんな娘が利悟にべた惚れなのだと世の理不尽さを嘆きつつも──祝福するしか無い状況である。
善治が感じ入ったように、目頭を押さえて利悟に顔を向けて真顔で告げた。
「……やっぱり利悟。浮気したら殺すからな、おい」
「なんで!?」
冗談めかしてではなくかなりマジでそう云う仮の舅であった……。
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一方で、両国広小路にあるちょっとした料亭にて。
ここでもこの晩には祝言が開かれていた。
お雪の両親が江戸にやって来たことから行われることになった、六科とお雪の祝言である。
武士ならまだしも、町人同士の祝言となれば長屋の衆が集まって、軽く行う程度が普通であり、六科とお雪もそうしようと思っていたのだが……。
大家である[藍屋]の芦川良介が祝い金を振るまい、長屋の皆も参加させて両国の料亭を借りたのである。
良介は六科の前妻、お六の父親でもあるのだが、義理の息子となっていた六科の再婚に好意的であった。下手に気を使わせまいと、金と酒を出して本人は祝言には出ないという気の使いようである。
ともあれ、ただ酒に料亭の飯が食えると長屋の皆は大喜びで祝言に参加したのであった。
また、知り合いとしても晃之介達がやって来ている。
広間となっている料亭の一室で、豪華な料理と樽二つもある上酒に大賑わいである。
一つは良介から、もう一つは石燕からの祝い品だ。
「うにふへへへへ~」
「ちょっと先生だらしないのよ」
本人が一番呑んでいたりするが。樽の横をキープして柄杓で直接呑んでいる。
ともあれ宴会となるとタマが独壇場とばかりに盛り上げる。三味線を弾き鳴らし唄を歌い、舞い踊りのどれも一流なのである。
元は吉原でも最高級な花魁なのだから当然、長屋の連中が見れるものではなかった。
踊っているタマの後ろから近づいた、顔を赤らめている夕鶴。酒に弱いようで彼女はすぐに気分が大きくなる性質だ。
「合体でありまーす!」
組み付いて持ち上げ、タマを肩車した。
急に天井近くまで視線の高さが上がりつつも、
「うわっ助平単語タマ! まず文字そのものを眺めていたら[合体]って文字が助平な状況を表意しているのが浮かぶよね! [合]がお布団で[体]が二人並んで寝ている感じでー♪」
と、抜け目なく反応しつつタマはそのまま、千鳥足で踊る夕鶴の肩でバランスを取って三味線を鳴らしながら猥歌を音律に合わせて歌う。
「こりゃいい、年に一度ぐらい祝言をあげてくれ、六科の旦那!」
「ねえここの飯お代わりしていいの? いいよね? 俺、そのために朝から水しか飲んでないんだけど」
「なんかね、近所の年頃の女の子がみんなタマ助に熱い視線送ってるんだよ最近。でもさ、顔はいいわ素直だわ多芸だわでわかるっていうかずるいよね……」
「この酒持って帰りたい……! 自分の徳利持ってくればよかった……!」
そんな様子を見て、酒を入れた湯のみを傾けながら呑んでいる九郎は呟く。
「祝言というか宴会だな、これは」
視線をやれば、六科とお雪の近くにはお雪の両親が居てしきりに話しかけ、六科はクソ真面目な顔で頷き、
「うむ」
とか、
「問題ない」
などといつものように応えているようであった。
その隣のお雪がなんとも幸せそうな表情であり、それを見る度に彼女の両親は目元を拭っている。
はたから見れば、盲人の娘ががっしりとして真面目な働き盛りで、娘の想い人であった相手に貰われるのだから好条件で親も喜ばしいことだ。
経過を見ていた九郎からすればお雪もかなりドジな方向に転がりかけていて、六科はポンがコツとなる性能だが、まあそれでも。
「よし、板場を借りて鶴を料理してきたぞ!」
「鶴の吸い物なんて小生も初めて作ったなあ……」
と、調理場に居た晃之介と子興が広間に入ってきた。
二人に続いて、吸い物用の椀を並べた膳を女中が持って来ている。
晃之介はめでたい席にと鶴を持ってきてこの店で捌いたのである。鶴というと珍味であり、将軍や帝が正月行事などで口にする高級食材で庶民は滅多に──というか普通には口にできない。
「六科殿も、お雪さんも、鶴のように末永くな」
「感謝する」
「まあ、初めて食べますよーう」
場に居る皆に配り、九郎も受け取って吸い物の蓋を外した。
味噌仕立てのようで、鶴のガラをしっかりと出汁が出るまで煮込んで、それを布で濾して、味噌と生姜で味を整え、鶴肉の細切りをいれたものである。
独特の臭みと癖のある鶴肉だが、こうして食う分には味わい深い風味が口の中に広がる。
「しかし、よく鶴なんて取ってこれたな」
九郎の問いかけに、晃之介は得意気に応えた。
「実はこの鶴は偶然取れたものでな。数日前、鶴が猟師の仕掛けた罠に引っかかっているのを見つけた俺は罠を外したんだ」
「猟師に悪いだろ」
「いや、中々よく出来た罠だったから持って帰ろうと思ってな」
「罠ごと盗んだのかよ!」
「いいじゃないか。落ちてたものなんだから……それで鶴はまあ、その日は鴨が取れていたから別にいいかと思って逃がしてやったんだが……」
「だが?」
「昨日の晩、道場の扉を叩く音で目を覚まして扉を開けると……そこにはあの日の鶴が居た」
「あー……恩返しに来たのに化けるの忘れておるな多分……」
「何やらばさばさと身振りをしていたのだが、そういえば六科殿の祝言が明日だったと思いだして、丁度良かったから絞めたんだ。縁起のいい話じゃないか」
「色々とフラグをへし折っておるのう……」
鶴の恩返し、始まらず。
或いはその身を犠牲にして恩返しに来たのかもしれないが、そう思うと味も塩っぱい気がしてきた。鶴の涙だろうか。
同じような名を持つ夕鶴はこの汁に飯を入れてがつがつと食べているが。
「うまいであります! うまいであります!」
しかしながら、濃い味噌味の汁は飲むと喉が乾くので酒が進む。
汁物に酒、というのは忌避感を覚える者も居るかもしれないが結構合う。もつ煮込みの汁など特に合う。九郎が酒を呑んでいると、
「よー九郎呑んでるぜー?」
「減ってるならお酌してやるぜー」
と、左右から九郎を挟みこむようにして、同じ顔に同じ髪型、同じ着物を着た二人が九郎に抱きついてきた。
顔をしかめてやや身を引き、二人の姿を一様に眺めて云う。
「お七とお八か」
いつもは着物の意匠や髪の簪などで多少見分けがつくのだが、この場では二人共対称のように同じ格好をしている。
九郎の目の前で並んで向き直り、「にしし」と悪戯めいた顔で笑った。その顔は僅かに紅潮し、吐息には酒気が混ざっている。酒を呑んでいるようである。
そして異口同音に同じ声で九郎に問いかける。
「さあ九郎──どっちがお八ちゃんでしょう!」
「む」
「直勘じゃなくて、しっかり見分けて正解したなら」
「一つ願いを叶えちゃうぜ!」
と、余興めいた遊びを始めたようだ。
周りも注目してにわかにお八当ての予想が出される。
さて九郎からしても見た目は殆ど同じ二人だ。確かに、生まれ育ちや食ってきた食べ物が違うので細かくは異なるのだが、近頃はお七もまともな生活をしている為か容姿の均一化が進んだ。
二人共酒を呑んでいるためか、感情のゆらぎも一定で表情からも読み取れない。
(ふむ、ならば……)
九郎は考えて、指で二人をちょいちょいと近くに招き寄せた。
「なんだぜ?」
首を傾げながら身を乗り出す二人のうち、まずは九郎の右手に居る七八のどちらか。
それを九郎は正面から抱きしめた。おお、と歓声が沸く。
「───!?」
そして、すぐに離し、次は反対側の娘を抱きしめる。次は歓声が沸かなかった。
九郎は頷き、ぽかんとしている二人相手に、
「右側がお八で左がお七だのう」
と、答えを告げる。
抱きしめられた動揺で呆けている右側のお八を放置して、お七が尋ねた。
「どうしてわかった……っていうかこれか? この反応か?」
「ん? いや、シチ子の方が酒に強かったのは知ってたからのう、抱いて脈と熱を測ったら心臓バクバクいってて熱病みたいにかっかしてたからこっちがお八だろうなーと」
「それ別の原因だよ!」
一斉にツッコミが入った。
九郎も酒の席なので気が緩み、いつもより勘違いさせがちな対応をしている。
少し不満そうに彼は云う。
「じゃあなんだ。己れは女など抱けば性根がわかるとかいえばいいのか」
「あっ下衆っぽくてちょっと似合う」
「男として最悪みたいでちょっと似合う」
「……」
あんまりなことを言い出した長屋の男二人の顔面を掴んでみしみしと音を立てさせた。
晃之介が呆れながら、
「うちの雨次はすぐに二人を見分けられるみたいだがな」
「ああ、それには理由があるのだ。……シチ子よ、今日はここに来る前に風呂に入ったであろう」
「ん? 祝言だって云うからな、お八と一緒に入ってきたぜ?」
九郎は指を立てて告げる。
「雨次は薬の勉強もしているせいか、鼻がよくてな」
「……」
「シチ子の方が獣臭いからそれで判別しているのだと聞いた。一応己れも匂いを確かめてみたが、今日は同じ匂いがしたから風呂に入ってると───」
「よし、今度あの眼鏡をぶん殴ろうぜ」
「おう。鼻の穴に山葵を詰めてやろう」
「……すまんな雨次。お主が悪い」
「ばらしたお前が悪いよ!?」
遠い目で即座に責任転嫁をした九郎に、再び一斉にツッコミが入った。
哀れ雨次。
「ちょっと九郎。こっち来てよ。先生が鬱陶しいの」
呼ばれて顔を向けると、酒樽の隣で呑んでいる石燕にお房が絡まれている。
完全に酔っ払い蛸のようにぐにゃぐにゃとお房に絡みつき、赤ら顔で酒臭い息を吐いている祝言でも喪服の彼女は明らかに厄介な酔っぱらいだ。
何も十歳の弟子少女に絡まなくてもいいだろうに。
そう思って九郎は、立ち上がり二人に近づいた。
「これ石燕。やけに今日は酒が回っておるのう……よっと」
彼女の隣に座り込んで、石燕の持っていた柄杓を取り上げる九郎。
石燕は眼鏡の奥のどろりとした眼差しを彼に向け、
「九郎くふぅーん……酒、酒を呑もうではないか。赫々と生じる密林の恥に、絶え間なく注ぎ割れる鈴蘭の器がちょうちょを食べているよぉ~」
「呑んでおる呑んでおる。で、こやつは何を云っておるのだ」
「さあ? いつもの酔っぱらいの戯言なの」
九郎とお房の首に手を回して石燕はだらしなく口を開けながら、天井を仰ぎ見てぶつぶつとうわ言を呟いている。
「ごめんな房ー……今の先生は本当の先生ではない……ニセ鳥山石燕だぁー」
「はいはい。次は第二の人格? 模倣されたからくり人形? 生き別れの双子?」
「ふっふふふふー」
「聞き流すのが慣れておるのう」
感心しながら、柄杓の中に精水符で水を作り出して石燕の口に運んだ。
こくこくと冷たい水を嚥下して、気持ちよさそうな息を吐く。
そして相変わらず夢と現世の間にいるような目で世迷い言を唱え続けている。
「あふぃー、九郎くん、今こそ語ろう、私の右目に宿りし悪魔[ぐれもりぃ]の能力!」
「そうかそうか……どっかで聞いた悪魔だのう?」
何となく己の右目を押さえる九郎である。
「その職能を宿したぁ……うっぷ、私の[阿迦奢の魔眼]は未来や過去が見えるのだー! ふふふ! だから未来の知識や言語などを知っていたりするのだよ……」
「ははぁ、時々怪しいと思ったら」
「大分前に大根の値上がりを予想してたこともあったの」
適当に相槌を打つ。
祝言の宴会は盛り上がり、石燕の酔っぱらいながらの言葉を聞いているのは九郎とお房しか居ないようだ。
それでも彼女の言葉は少しトーンを落として、
「それでぇ……あれだ。未来では……本当は、房が、鳥山石燕になる筈だったんだけど……私が名乗ってたりして……だらしない先生ですまない……」
「何をいってるのよ」
「あいた」
ぴしり、とお房が石燕の額を小突いた。
「鳥山石燕先生は先生、あたいはあたい。未来がどうなろうと、知らないことで謝られる筋合いは無いの」
「ううう……」
「お酒の呑み過ぎよ」
石燕は涙目で今度は九郎を見て、
「私の未来視によれば、もうとっくに寿命が尽きているのだが……こうして生きているのは九郎くんのおかげだよ……ありがとうね」
「いや、己れも知らんことで感謝されても」
「微妙に冷たいな二人共!」
酔っぱらいの相手がぞんざいな二人であった。
大あくびをした石燕は寝言のような声量になりながら、
「……九郎くんと会ってから[ぐれもりぃ]は気まずいように引っ込んでしまった……私が見た未来は不確定になり……むにゃ……悩んでも仕方ないことだ……」
「そうね」
「また明日……楽しい毎日が続くようにと……ふあぁ……」
かくんと、首を下げて、石燕はお房に体を預けて目を閉じた。
規則正しい寝息を始めたその顔には苦悩は見えずに、緩く楽しげな寝顔をしている。
肩の荷が下りたような。
胸のつっかえが取れたような。
憑き物が落ちたような。
そんな印象を覚えた。
「眠ったか」
「そうみたいね」
「……ところで、石燕が云っておったことは……未来が見えるとか、本当だろうかのう」
「さあ? 酔っぱらいの戯言かもしれないし、本当かもしれないの。どちらにせよ、程々に信じて覚えておいてあげればいいの」
お房は石燕の頭を撫でながら、九郎に云う。
「それが本当でも嘘でも、何か問題があるかしら。未来なんてのはね、見たり知ったりして作られるものじゃなくて、毎日精一杯生きて次の日また次の日って積み重ねて一人ずつ作るものなの」
「……」
知った風にと云うわけではなく、当たり前のことを喋っているとばかりに彼女は眠った石燕に言い聞かせでもするようにして呟く。
「それに先生が何を知っていようとあたいにとっては、物知りで不敵で、だらしなくて寂しがりやで、頼りになる大好きなお姉ちゃんってことだけよ。それだけ」
「……なんというか、石燕の謎よりも、お主の方が時々不思議になる賢さだのう───お房」
九郎が、珍しき彼女をそのまま名前で呼ぶと。
お房は眠った石燕から眼鏡を外し、何となく自分の顔にそれを掛けて九郎を見ていて、視線があった。
「不思議なことなんて何も無いの。あたいも、九郎も、先生もここにいて好きなように過ごしてるだけなんだから」
印象の変わったお房の顔に、九郎は苦笑して。
肩を竦め、なんとなく石燕の目元から流れている涙を拭った。
寝ながら泣いたものだろうか。
「そうだな」
九郎はそれだけを応えて、宴会の方へと顔を向ける。
皆が騒がしく楽しみ、笑顔で呑み交わして生きている。
今日も明日もそれぞれの人生を楽しんだり悩んだりしながら過ごしていくだろう。
九郎も石燕もお房もタマも子興も晃之介もお八もお七も六科もお雪も夕鶴も。
何の変哲もない、いつでも特別な不確定の未来へと日常は続いていく。
それと後で九郎は問題に正解した権利でお七とお八のデコを撫で回した。
******
日本橋、[鹿屋]の防音室にて。
入り鉄砲に出女と云うように江戸では鉄砲の管理が厳しく、下手に市中で射撃音などを聞かれると面倒が起こるという問題を九郎設計の防音素材を使って部屋を覆うことで解決した宴会の部屋である。
当然ながらそこで行われるのは火縄銃を天井から吊り下げ、それに点火して回転させることで囲んでいる誰かに当たるという寸法の薩摩式宴会芸[肝練り]である。
これが防音で自在に行うことが可能になり、薩摩人は大いに喜びつつも肝を冷やす日々だ。
九郎も既に何度も参加している。彼としてはもはや異国の文化を野蛮だとか悪趣味だとか罵るのはむしろ文化的でない行為だと悟っているので何も云わないことにしている。
ともあれ、その夜も吊り下げた縄を捻じり、火を付けた火縄が高速回転を始めた。
「ようし! よか酒じゃ!」
「逃げてはならん!」
「当たっても痛いと云ってはならん!」
「ああっ今宵はよか肝練じゃっ!!」
眼前で回転し、誰かに当たれば只事では済まない自体に薩摩武士達は声を張り上げて飯を食い、酒を飲む。
そして───。
ど、とか、が、とかそう云う近くで聞くだけで胸が沸き立つような音と共に暴威の弾丸は銃口から発射されて、その先に居た頭に命中!
現代の拳銃などよりよほど大口径で、貫通力より破壊力を高めた丸い弾丸は頭部を粉々に弾き飛ばしたのだ。
硝煙の匂いが立ち込める。
一同はごくりと唾を飲み下し、頭の砕かれたそれを見る。
弾丸が直撃したのは、木製の簡単に人型に作った人形であった。
彼らは怖気づいたか、参加人数が足りなくてこうしてデクを用意したのか?
いや、そうではない。
木製人形の粉々になった頭には[青木昆陽]と張り紙がついていたではないか。
つまりは──
「──よか! 予行演習成功じゃ! こいで甘藷先生を呼んで肝練りを開く準備はできた!」
「そうじゃっ! 薩摩から出した種芋を見事栽培させた先生じゃっど! 今度は薩摩の肝練りに参加させてやるのが、義っちゅうもんじゃ!」
「後は拉致──呼んで連れてくっど!」
そう、リハーサルであった。
要らないところで肝練り参加を狙われている青木昆陽。
彼が薩摩の扱いに定評のある助屋の九郎に泣きついてくる日も近い。
江戸のあちこちで宴は繰り広げられている。
祝い事も千差万別に。




