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97話『虚舟の話/翻訳困厄』

 青空に溶けるような衣を身に纏い、江戸の町並みが芥子粒のように小さく見えるぐらいに空高くに舞い上がりながら。

 最初に空に浮いた時はいつだったかと九郎は思い返している。

 無論、人は普通空を飛ぶことはできない。なので疑似体験として、位置エネルギーが高いところに身一つで挑んだとするならば中学生の頃だったようだ、と懐かしい記憶に至った。

 生活費の為に当時やっていたアルバイト先の社長からの紹介で、金持ちの集まる企画としてビルの上に鉄骨を渡した細い足場を歩かせるという仕事に挑んだのである。無論落ちれば良くて重傷、普通は死ぬ高さであり、渡り切れれば百万円貰えるというものであった。

 ビル風の吹きすさぶ中を九郎は見事に渡りきったのだが、思えばその時から恐怖に耐性ができたというか、そんな気もする。ただ金に目の眩んだ子供を生きるか死ぬかのショーに参加させるのはどう考えても真っ黒な見世物だった気がしないではない。

 ともあれそんな体験があってからか、現代人基準で考えても高いところへの苦手意識は少ない。故にこうして疫病風装で空を飛ぶことに恐怖を感じたりもしない。 

 九郎は、である。


「……石燕、そうも目を隠さずとも、下を見なければいいだろう」


 胸元に抱きかかえている喪服の女、鳥山石燕にそう呼びかけた。

 彼女は露骨に震えた声で、


「ふ、ふふふ! こ、これは怖くて目を閉ざしているのではなく、眼鏡が落ちないように押さえているのだよ!」

「そうか、そうか」

「し、しかしあれだね! 空が高いことは私だって知っているし上り続ければ月に辿り着くことも知っている! だが知っているのと実際に体験することは違うのだね! 実際の感じる風やら寒さやら不整脈を知識は伝えてくれない! 知識などくだらん! 少年よ地図のない荒野を目指せ! きっと大したものが無いから地図が無いんだぞその荒野!」

「目指すのは九十九里浜だがのう」


 恐怖を誤魔化すためか、風の音で聞こえにくいからか大声でまくし立てる石燕に九郎はのんびりと告げて、落ちないように腕に力を入れなおした。

 体勢は色々と試した結果、お姫様抱っこをしつつ二人の体を細長くて縛る道具で結んで命綱にしているのだが───。

 上空を飛行する状態で、人間に抱きかかえられているというのはジェットコースターの比較にならない程に危うい感じはしているようである。

 


 九郎と石燕が空路で江戸から、房総半島九十九里浜を目指しているのはある妖怪絡みの噂を聞いたからである。

 他のゴシップはともかく、妖怪関連の情報は妖怪絵師・鳥山石燕にいち早く届けられるようになっている。具体的には金の力だ。怪談なども目新しいのを聞かせたら報酬が貰える。田舎で友達数人と裏山に行ったら祠が……という出だしから始まるものはもう食傷されているが。

 ともあれ。

 九十九里浜に[虚舟うつろぶね]が上がった、という話は恐らく早くて昨日のことであるようだった。

 太平洋に面する浜から江戸までは一直線に道が作られていて情報が入ってくるのが早い。

 噂を耳にした石燕の行動は早かった。


「うかうか三十きょろきょろ四十していても仕方ない! 九郎くん! こうなれば速度勝負になってくるので急ぐよ!」

「勝負て。何と勝負だ」

「とんでもはっぷん急いで十分だ! さあさあ行こう!」

「異様に懐かしいフレーズだのう」


 などと言いながら、九郎の飛行にて現場を目指すのであった。



 現代日本と違いこの時代は飛行人間に大らかだ。写真や映像などに残せないので、天狗を見たとかそんな噂が立つ程度である。

 自身が新たな妖怪の情報発生源になってそうな気もするが、近頃は害があるわけじゃないからいいかと諦め気味の九郎は九十九里浜へ向かいながら石燕に道すがら尋ねてみた。  


「ところで何だったか……ウツロブネとはどんな妖怪なのだ?」

「そうだね、妖怪というには[変なもの]に分類されるのだろうが……日本全国の海岸沿いか、或いは珍しいのだと山中の川などで見つかることもある」


 彼女は恐る恐る、眼鏡を押さえていた手を取ってこねるような手つきで形を表そうとした。


「見た目は楕円形に近いもので、それこそ小舟に屋根を取り付けて密封させたような形をしていてね」

「ふむ」

「変な模様が描かれていたり、ぴかぴかと光ったりする」

「ほう」

「中には明らかに見た目が違う人間っぽい存在が乗っていて、虚舟から出てくると怪しげな道具を片手に謎の言語を喋ったりする」

「……」

「そして牛を攫って行ったり、体に謎の金属片を埋め込まれたり、長寿と繁栄を示す仕草をしたり……! 私が察するにこれは別の星からやって来た高度な科学力を持つ知的生命体で」

「帰るか」

「なんでそんな露骨に興味の失せた顔をするのだね!?」


 石燕は九郎にしがみつくようにして、方向転換させまいと抵抗を試みる。効果はないが。

 そう、虚舟に関して有名な考察がUFO説である。海から流れ着いたところを現地人に見つかっている時点で、アンノウンでもフライングでも無いただのオブジェクトだが。

 信ぴょう性はまあ、河童宇宙人説とかそれと同じ程度にはある。背中の甲羅や頭の皿を見ればあれが宇宙服の一部だと云うことは賢明な読者ならお気づきであろう。

 

「急がねばならないのもその為なのだよ! 幕府が先にその宇宙人と接触したらどうなると思うね? この鎖国した国の酷い対応を受けたら宇宙から母艦が攻めてこないとも限らないだろう」

「爆弾持って突っ込ませるのはウィリスかクルーズかどっちがいいかのう」

「そうでなくとも見たいだろう? 鳥山石燕探検隊、謎の宇宙人漂着に迫る! ぬう、崖の上からやけに軽い音の岩が転がってきたりしゃがんだら蠍が手に乗ったり!」

「無駄に藤岡弘、っぽくしなくても」


 ぼやきながらも、石燕が喚くので仕方なく九十九里浜に向かう九郎であった。

 本当に宇宙人だったらどうすると云うのか。高圧的な幕府の対応と、ミーちゃんハーちゃんな石燕の対応のどっちで気分を悪くするかなどわからないというのに。

 

「そういえば己れが居た異世界の星も宇宙人に侵略されかかってのう。銀河皇帝ドリルガッデムとか云うやつに」

「やけに強そうな名前だね……それでどうなったのだね?」

「神様達がなんとかして、先遣隊が攻めてきた事象を改変することで侵略してきたという情報自体を消したとか何とか……概念的な解決をしたと魔王に聞いたが、よくわからん」

「ふふふ、九郎くん。その場しのぎの解決をしてもきっと第二第三の侵略者がやってくると思うよ」


 無駄に訳知り顔で告げる石燕である。

 彼女は会話をしていれば高所の恐怖も紛れるのか、話題を続けた。


「無論、虚舟には他の解釈もある。ある一説によると来訪神や稀人の類だと云う」

「稀人……ねえ」

「ある地域や集落とは隔絶された場所から訪れる存在のことだね。場合によっては豊作や知識を与える善神であったり、或いは疫病を流行らせたり生贄を求める悪神であったりする。有名なところでは東北の[なまはげ]などがそうだ。これは海岸線沿いの集落に多く伝わっていることがわかっている」

「ふむ」

「海の先は異界と云う考えなのだろうね。それにこれらは鬼の姿に蓑を被るという異形をしていて、これらも虚舟に乗っている異形の者と共通点はある」


 そもそも、と彼女は思案顔で述べる。


「うつろ、と云う言葉は元々[洞ろ]と書く。洞窟の洞だね。意味はくり抜かれた状態を表す言葉なのだよ。それの舟というのは丸太をくり抜いてできた原始的な舟だったのではないかと考える」


 指で九郎の手の甲に漢字をなぞるようにして説明をした。


「極初期にこの国に現れた虚舟とは、丸木舟で大陸から渡ってきた渡来者だったのではないだろうか。それに房総半島は古代の丸木舟がよく発掘されていることで有名だね。これは黒瀬川(黒潮)の流れが房総まで続いていることから南方から来たのかもしれない。

 彼らは大陸の技術や鉄などを伝えて人々に繁栄をもたらしたが、時には侵略と云う形で争ったこともあっただろう。なまはげが怠け者を叱るのは、新たな技術の習得を促すためだとすると技術者の流入を思わせるね。

 なまはげの姿だって、蓑が表すのは火であり包丁は鉄を示している。虚舟が鉄の伝来を示す古来からの言い伝えではないかと云う説もある! ぬう! 足場が崩れて遺跡が出てきた!」

「無駄に星野之宣みたいにせんでも」


 謎のテンションで熱弁する石燕に九郎が一応ツッコミを入れた。


「しかしまあやはり心躍るのは宇宙人説だね。これでただの漂流してきた人だったりしたら私は心底がっかりするよ!」

「あまり過剰な期待はするなよ。海坊主だってアザラシだったのだからな」


 そうして、視界の先にやがて太平洋との境が見えてきた──。




 ******




 虚舟に乗っている異形の者は、聞き取れない言語と喋り謎の道具を持っているという──。

 その、虚舟らしいところには地元の漁師が遠巻きに集まり、紋付き袴を着た代官と手附、書役などの役人が虚舟の持ち主の相手をしているようだ。

 江戸近郊は大きな領地を持つ者は少なく、小大名か旗本が管理する知行地か、幕府直轄領が点々としていて、この土地も大名ではなく代官が治めている。

 九郎と石燕は集まりの外に降り立って人をかき分け現場を見るが──。

 虚舟、らしいものは単に小舟であるようだった。

 それに乗っていた異形の者、という困った顔をした代官から詰問を受けているのは、もみあげの立派な茶色い髪の毛をした、鼻が高く彫りの深いヨーロッパ系の男性だ。

 謎の道具というか、手にヤカンめいた水容器と枕を持っている。

 つまりは小舟に乗ってきたヘンテコな外国人漂着者であった。


「がっかり!!」

「ああっ石燕が膝をついた!」


 期待を裏切られた妖怪ハンターは力なく俯く。

 溜め息をつきながら九郎は、さてよくよく見れば沖のほうにそこから降りてやってきたと見える大型船もあるようだ。

 

(開国の時期ってこんなに早かったっけか)


 思いながらも、それにしても何故ヤカンと枕を持っているのだろうと観察する。

 外国人の男は身振り手振りをしながら代官に説明している。


「だからー! 船の水が無くなったから分けて欲しいし、あと病人が居るから一旦陸に寝かさせてくれって頼んでるデスヨー!」


 それを伝える為のやかんと枕なのだろうか。

 九郎の耳にはそう聞こえたが、代官らは難しい顔で首を傾げる。


「ううむ、訳の分からぬ言葉を。阿蘭陀人なら長崎にいけ! ここに上陸しちゃいかん!」

「全然言葉通じないヨー!」

(おや?) 


 どうやら、代官を含めて集まったここらの人間全員にも、漂着外国人の言葉がわからないようだ。

 九郎にだけは日本語で喋っているのと同じく聞こえているのだが。

 と、云うのも九郎がこの世界に来る際に、ヨグが施した術式の一つで基本的に人間の話す言語ならば理解できるし、相手に通じて会話できるという効果があるのであった。

 それ故に九郎も江戸時代の人間と違和感無く会話が出来るのだが、外国語の翻訳も可能だ。ほんの少しだけ鈍って聞こえるのは、相手が地方出身だからか何かだろう。日本語でも訛りは訛りとして聞こえる。

 なお暗号会話は自動解読ができない分類なので、つまり薩摩弁は通じない。あれはわざと分かりにくくして間者をあぶり出す暗号扱いである。


「ふむ、どこの国の人だろうね。阿蘭陀語ですら無いが」

「そうなのか。そりゃ面倒だな」


 石燕はこれで読み書きに聞き喋りまでオランダ語を習得している。正直この時代ではありえない能力であるが、実際できてしまっているのだから仕方ないとは本人談だ。

 出島に出入りが厳しく規制されている女という性別でありながら、あれこれと賄賂などを使ったり医者の助手として潜り込んだりして、ほんの何度かオランダ人と会話を試みただけで出来るようになったという、言語学者が頭を抱えるような学習力である。

 実際今も、外国人の言葉を聞きながら彼女の頭では無意識に解析が行われているだろう。

 ともあれ、この場では何とか漂着者の要望を伝えてやらねば話が進まない。


「おい、済まぬがのう、そこの者は船に積む水を欲しがっていて、病人がいるから一旦上陸させて欲しいと頼んでおるぞ」


 代官が九郎を振り向いて、尋ねる。


「誰だ貴様は。言葉がわかるのか?」

「己れは……そうだのう、秩父山地に住む天狗だよ。神通力でわかるのだ」


 名乗っても面倒なことになりそうな気がした九郎は、ひとまず天狗で通すことにした。

 この時代ならばある程度の不思議を見せても天狗と名乗れば納得されることが彼は経験からわかっている。


「ちなみに私は天狗の専門家鳥山石燕!」

「ああ、お主は普通に名乗るのな」


 隣に並んでびしりと華麗に名乗りを上げる石燕をちらりと見る。

 ともあれ、九郎の姿──他では見ない染め色の着物や異様に長い太刀、髷の結っていない髪の毛や少年なのに老人めいた謎の雰囲気など様々にちぐはぐな時代に合わない要素は天狗という理由で騙すのに一役買っていた。

 代官らが疑わしげだが、なんとも云えずに口を噤んでいる間に九郎は漂流者へ話しかける。


「どこの国の者だ? 足りないのは水だけでいいのか? 己れがやるわけではないが、一応聞いてみるぞ」


 ──と、普段の調子で話しかけた九郎だが、その相手以外には突然九郎が外国語を喋りだしたように聞こえた。

 そして突然ネイティブな母国語で話しかけられた漂流者は驚きながら、目を輝かせて九郎に飛びついて両肩に手を置いて云う。


「君喋れるンデスカー!? ワタシ達はカンボジアから出港したフランス東インド会社の船デース! 嵐にあって海流に流されてここまでやってきたんだけど……食料なんかも殆ど駄目になってて、食べ物も分けてくれないデショーカ! お礼は出来るかぎりシマース!」

「フランス人か。ちょっと待っておれ」

「ありがとうキュートな少年! いや、全然イケマース! 感謝デース!」

「二秒以内に頬ずりをやめないとぶん殴る」

「HAHAHA!!」

「──よし死ね」


 異国の地でペラペラとこちらの言葉を喋れる少年と出会えた喜びからか。

 或いは色々航海生活で鬱屈した性感情を持っていたのか、とにかく身の危険を感じた九郎は固めた拳でそのフランス人の頬を殴り飛ばした。

 

「フベッハー!!」


 叫びながら水平にすっ飛び砂浜を転げるフランス人。

 代官や周りの漁師はドン引きである。

 九郎は何事も無かったかのように、代官に告げる。


「黒瀬川に乗ってきた漂流者のようだな。水と食料、あと病人をどうにかして欲しいそうだが……」 

「今思いっきりぶん殴らなかった?」

「ただのツッコミだ。それよりどうするのだ? 幕府に報告でもするのかえ?」


 通訳はしたが、どのように対応する法があるのか九郎は知らない。

 代官はひとまず、九郎が神通力とやらで意思疎通をしていることは信じ込んだようで話を進めた。


「いや、このように不意の事故のように、異国船がやってきた場合の対応は予め幕府に言い含められているのだ、我ら海沿いの領地の者はな」

「ふむ」


 一応は、その代官もここに来るまでにそれを確認して来たのだろう。読み上げるように告げた。


「とりあえず相手が望む物を与えてやるべし。そしてその対価は決して受け取らないこと」

「そうなのか。礼はすると云っておるが……」

「ふふふ、九郎くん。下手に礼を受け取ると密貿易扱いになるのだよ!」

「なるほど」

「まあ例えば無料で日本側が相手に贈り物として物品を与え、相手も贈り物として無料でこちらに物品を渡してきたときは……仕方ないけどね!」

「無理だろその言い訳」


 抜荷の名目みたいなことを堂々と云う石燕であった。


「それと、水や食料などは渡しても良いが、人夫や女を求めても決して与えないこと。後は上陸させて住ませないことだ」

「とにかく色々与えて追っ払えということか」

「一番面倒がないからな。ただし向こうがゴネたりしたときは───」


 代官は暗い顔で腰の刀に手をやり、声を潜めて云う。


「確実に皆殺しにして船を沈める。下手に逃がせば国際問題だ。ここに船は来なかった、ということにする」

「……まあ、穏便に解決するようにしてみよう」

「すぐに米と水と、魚の干物……あと薬を幾つか用意させておくから天狗殿はくれぐれも物騒なことは内緒にしつつ、帰るように伝えてくれ。病人は下ろせんこともな」


 そして代官は馬に乗り、漁師達が深く関わらないように槍を持たせた足軽に周囲の警備を任せて一旦本陣へと向かうようであった。

 フランス人はぴくぴくと痙攣しており、九郎はどうしたものかと頭を掻く。


「仕方ない。ちょいと船の様子を見てくるから、石燕はここで待っておれ」

「連れて行ってくれないのかね?」

「危ないかもしれぬであろう。それにお主はしっかり名乗っているのだから、下手に追求されるようなことはするな」


 云うと、九郎はふわりと空に舞い上がり海へと向かって飛行した。

 さすがに飛んだ姿には集まった漁師や足軽らも度肝を抜かせて「天狗だ!」「南無三!」などと叫び声を上げて、逃げ出す者も居た。


 沖に停泊している大型船の上の降り立った九郎は外に出ていた他のフランス人達が大いに驚き騒ぎ出した。


「己れは日本の……」


 さて、日本人ならば天狗で通じるのだが、フランス人に天狗がわかるとは思えない。

 少し悩んだ末に九郎は、


「忍者だ。忍者だから飛ぶし話も出来る。いいな」

「ニンジャ!」

「東洋のアサシンスパイだって……!?」

「怖い!」


 余計に騒がれている気がしないでもなかったが。

 

「とにかく。お主らはフランスの東インド会社でいいな?」


 上陸した者が嘘をついていないか一応確認をした。

 騙すような顔色ではないようなので話を進める。


「米と水、薬は船に積み込むことになった。代金は不要だそうだ」

「おお、感謝シマース!」

「というかできれば商業取引もしたいんデスガー……」

「それは長崎に行って聞け。ここじゃやっておらぬ。あと病人はどうにもならんそうだ。悪いがな」


 九郎の突き放すような言葉に、船員達は顔を曇らせる。


「この国には慈悲が無いのか……」

「いやそんなこと云って下手な疫病とか入ってきたら困るだろ。耐性も無いのに。お主らもアメリカ辺りに疫病持ち込んだり持ち帰ったりしてなかったかこの時代」

「ああ、ヨーロッパじゃ『フランス病だ!』とか『イギリス風邪って呼ぼうぜ!』とか責任擦り付けあってるアレ!」

「まあ……多少は診てみよう。どれ、病室はどこだ?」


 たちの悪い菌やウイルスならば、九郎のブラスレイターゼンゼで感染状況次第ではどうにか出来るかもしれない。

 そう思って、船室に案内をされたのだが。

 船室の扉を開ける九郎。

 すぐに閉める九郎。


「……」

「……」

「超生臭い……病気の人体実験でもしておるのか」


 凄まじく不衛生で異臭が漂い、凶暴な病原菌もうようよといる空間から思わず目を背けた。


「いやー船医がしっかり治療してるんだけど、どんどん弱っていって」

「ちなみに治療とは?」

「瀉血! 悪い血を抜けばどうにかなるよね」

「弱るわそんなん」


 おまけにまだこの時代に、衛生的な環境で治療をしようという常識も無い。治療器具を洗うどころか、汚れた手すら洗わなかったぐらいだ。

 九郎は嫌そうにしながら、ひとまず船室の病人を外に出させて病原菌が繁殖しまくっている部屋で、


「[炎熱符]上位発動」


 一瞬だけ炎で包み込んで焼却した。

 超高温の炎が細菌を消滅させるが、木製の壁は余程の高温でも木材にある水分のおかげで一瞬では燃えることはない。

 後は病人の体を精水符で洗って、快癒符で幾らか体力を取り戻させ、瀉血をやめさせるように指示を出してひとまずの診断を終えたのであった。

 本格的な病気などはどうしようもないが、衛生状態や体力の損耗での病死が最も多いからある程度は助かるだろう。

 それを逐一近くで見ていたフランス人船員達は、


「日本のニンジャはオフダから火を出したり、水を出したりする」


 という後世に影響を与えそうな認識を持ってしまうのであった。




 *****




 とりあえず九郎の役目は終わり、後は代官らが急速に集めた補給物資を運んでフランス商船漂着事件は解決することとなった。

 それまでの僅かな間で、浜に居たフランス人と会話を試みた石燕はフランス語を会得していたが。


 幕府や周りの領地のものに不審がられる前に追い返す為に代官も相当苦心しただろう。

 こうして非公式に外国人が日本を訪れ、そして記録に残らぬままにどうにかした事例は奇妙な説話としてあちこちに残っているという。

 事なかれ的な対応はひとまず成功したようで、九十九里浜は静けさを取り戻した。


 折角来たのに外人を追い払ってとんぼ返りではつまらないと、海岸沿いにある旅籠に九郎と石燕は泊まることにしたようだ。

 夕食後に提灯を持って、旅籠二階の窓から二人は浜まで何となく出かけて行った。

 波が砂を洗う音が響いている。星と月が海に反射してむしろ明るいぐらいの夜であった。


「我らの虚舟探索隊はその形跡を掴みながらも実体を見つけることはできなかった……しかしこの海のどこかに、虚舟は今もあるのだ……後の報告を待ちたまえ!」

「番組が打ち切られたようなあれだのう」


 などと云いながら浜に座り込んで海を眺めている。

 石燕は目的の宇宙人は見つけられなかったが、それでも笑みを浮かべて云う。


「まあ、久しぶりに九郎くんと出かけられたからいいかな」

「そういうものか」

「うん」


 九郎もたまにはいいか、と隣に座る石燕と共に暫し言葉も無く夜の海を見ている。

 最初に出かけたのは海坊主を探しに江ノ島に出かけたときだっただろうか。懐かしいような、ついこの前のような気がして目を細める。

 ぽつり、と石燕が言葉を零した。


「九郎くんに云おう云おうと前々から思っていた悩み事があったんだけどね」

「なんだ?」


 問い返すが、彼女は人を喰ったような笑みを浮かべたまま、どうでもよさそうに応える。


「ずっと一緒に遊んでいたら自己解決していたみたいで、ただの与太話のような、陳腐な悩みに成り果てたから今更大層なこととして打ち明ける程じゃないなって思えたよ。だから酒に酔ったときにでも語るから、そのときは私の阿呆さを笑ってくれたまえ」

「微妙に気になることを云いおって。しかしそうだのう、悩みなど己れの年でも生まれては解決していくものだ」

「そうなのかね?」


 頷いて九郎は告げた。


「余生を送ろうとか、どうやって死のうとか、老後の不安とか、死んでいった連中との後悔とか、残した者のこととか……色々思うが結局最後は『なるようにしかならぬから、毎日を楽しく生きよう』となる。それでいいではないか」

「ふふふっ、そうだね」


 ──と、その時。

 ざ、と波の音に変化が訪れて、目を凝らして波打ち際を見遣った。

 

「うむ? なんだ、あれ」


 九郎は提灯を点けて立ち上がり、砂浜にいつの間にか打ち上がった物体へと近づく。

 大きい。人間がそのまま入れる大きさの茶碗を、二つ上下に合わせたような形の漂着物であった。

 明かりで照らすと表面は黒色でザラザラとした模様が掘ってあるようだ。

 

「まさか……」

「う、虚舟!? 今まさに流れ着いたというのかね九郎特派員!」

「誰が特派員だ。いや、しかし……」


 見れば見るほど奇妙な物体だ。

 確かに形はアダムスキー型円盤のようだが、動力などはまったく見当たらない。そもそもこの大きさのものが浜辺までどういうわけで流されてきたのだろうか。

 材質は金属と石の中間のような感じで、木製ではないようだ。鋳物のように継ぎ目が見当たらず、伝承にあったらしい窓も見えない。


「とにかく怪しいな、迂闊には触れるなよ───おいこら」

「ぬう! どこが出入口なのかね!? 上か!」

 

 足元を波で濡らしながら石燕が虚舟の周りをぺたぺたと触りながら調査している。

 

「九郎くん上に乗せてくれたまえ!」

「はあ、仕方ないのう」


 云われて、やむを得ずに九郎は石燕を小脇に抱えて空に浮かぶ。

 上から見てもまったく正体不明な物体としか思えないが、乗れる程度の平面はあったのでそこに石燕を下ろしてみた。

 彼女はこんこんと上部を叩くようにして───。


「うわっ」

「──石燕!?」


 不意に、その姿が消えた。

 まるで上部の屋根がすり抜けたように、彼女の姿が虚舟に沈むようにして消失したのである。

 慌てて九郎も石燕の居たところに降り立ち、上部を足で蹴ったり叩いたりするがびくともしない。

 舌打ちをする。


「石燕! 聞こえていたら頭を下げていろ!」


 怒鳴り、次の瞬間には九郎は全力で踏みつけるようにして踵で虚舟を蹴った。

 どん、と凄まじい音がして虚舟が接している水や砂が舞い上がる。しかし屋根には亀裂一つ入っていない。代わりに、九郎の踵が裂けて血が吹き出した。


「くそ、切れたらすまん」


 続けてアカシック村雨キャリバーンⅢを突き刺そうとしたが……。


「どんな材質だ、これは!」


 鋼だろうが岩だろうが切り裂く刃が通らない。

 やけっぱちに振るうが火花を立てて弾かれた。宇宙人の使う未知のテクノロジー装甲と云う仮説が頭に浮かんだが、それどころではない。

 切れそうな場所は無いかと上部から飛び降りて虚舟の正面に回ると───その時であった。

 正面の一部が、透けるようにして色が薄くなり──内部から石燕が倒れこんで出てきたのである。


「無事か、石燕!」

「は、はあ、はあ……」


 呼吸も荒く石燕はびっしょりと掻いた冷や汗を拭い、恐れを含んだ声で九郎に告げた。


「虚舟の中に入って、少しの間だけ記憶が途切れている……大変だ九郎くん! 眠らされて体に金属片を埋め込まれたかもしれない!」

「そういう発想になるのかよ結局」

「早く調べなければ……あっ」


 九郎に抱きかかえられて虚舟から離れた途端に───。

 謎の材質でできた、虚ろな舟は……沖に向かって流されるようであった。

 目的を果たしたように、黒い船体は闇夜の波間に消えていく。或いは石燕が乗ったままだったら、連れ去られていたかもしれない。


「ま、まさに恐怖体験だね……」

「とにかく、宿に戻るぞ」





 *******

 




 とりあえず宿で石燕が手術により怪しげな金属を植え付けられていないか心配だと主張するので、九郎が調べることになった。

 座った石燕の頭を抱えて、もしゃもしゃと彼女の髪の毛を掻き分けて手術痕を探す。


「大丈夫かね九郎くん! 変な痕は無いかね!?」

「今のところ無いが……む、この硬い物体は」

「ううう」

「なんだ、芋けんぴか。髪の毛にくっついていたぞ」

「寝転がりながら昨日の夜食べたから……」


 宇宙人が手術する場所は頭か背中が多い。恐らく本人に気づかれないのと、神経系の脳幹から脊髄に干渉しやすいからだろう。

 そんなわけで、


「せっ背中もっ頼むよっ!」

 

 着物をはだけて背中を見せる石燕であった。

 こう、なんというか自然な流れで冗談めかして見せるのはともかく、このように余裕が無いときは彼女もしどろもどろになる。

 勿論九郎は覇気のない声で。


「わかったわかった」


 と、妙齢の白肌を見てもぞんざいな態度であったが。

 

「んー……特に無いな。確か背中に自爆ボタンが付いているやつもおったが、それもない」

「明らかに堅気じゃないよねそれ……ひぁっふ!? 背骨をなぞらないでくれたまえ!」

「ああ、悪い」

「くっ扱いが軽い!」


 それにしても。

 九郎の、女体を前にして昂ぶるわけでも照れるわけでもない態度にはわかっていても軽く傷つく石燕であった。


「ふ、ふふふ……どうせ年増の体だとも、見せても誰も得をしないことは知識として理解しているとも……」

「変なことを気にするのう……」

 

 一応云っておくが、と九郎が前置きして石燕の背後で云う。


「己れが若ければそりゃあもう、お主の魅力にやられていただろうよ」

「……!」

「む? どうした石燕。急に黙って俯いて……ああ」


 九郎はにっこりと微笑んで、云う。


「安心しろ。今は全然ぴくりともせんから、襲ったりせんぞ」

「なんという安心だろうね!」


 やけくそのように叫んで石燕は着物を羽織り直した。

 フォローするところがズレている九郎であるが、確信的なのかはいまいちわからない。

 そして最後に確認するのは彼女の両目であった。

 宇宙人に改造されて地球を観察するための千里眼を目に仕込まれることはよくあるらしい。どこでよくあるというのか不明だが。

 正面に回り、九郎が眼鏡を外した石燕の目を覗きこんでじっと見る。


「うっすらと細かい傷的な模様などが出てないか気をつけて確認してくれたまえ。あと暗闇で光ったりしないかとか」

「どれだけ宇宙人を信頼しておるのだ」


 云いながらもじっと瞳を確認した。特にここにも問題はなさそうだが……。


「そういえばお主、左右で眼の色が微かに違うよな」


 右目の瞳が少しだけ黒色が濃く見える。

 日本人の瞳の色は茶褐色が多いのだが、石燕の右目はかなり黒に近かった。

 彼女は嬉しそうに喋りだした。


「聞きたいかね!? 聞きたいかね!? この私の右目に宿る悪魔の力を宿した阿迦奢の魔眼という運命の宿る瞳に関わる設定を!」

「宿って単語が三回も出てきたぞ、どれだけ宿ってるのだ。素面で設定語るなよ、今度酒でも呑んだ時にな……っとよし、特に問題はない」


 九郎は石燕の眼前から離れて一息つく。


「とりあえずは大丈夫そうだろう。しかし具合が悪くなったら云えよ」

「わかったとも──さて、そろそろ寝るかね。色々あって疲れた」

「そうだのう」


 そうして、二人は布団を並べて行灯の明かりを消した。

 一応石燕の目が宇宙めいた光を灯していないことを確認し、特に会話も無くそのまま寝入るのであった。




 *******





 その夜石燕は──。  

 時間が可視化した光の粒となり、それらは軌跡を残して渦を作りどこまでも下に沈んでいく夢を見た。

 光の大きな渦に彼女の体は巻き込まれて、気の狂いそうな光が目を灼いていく。思わず目を手で覆うが、それでも痛みを感じる。

 ふと九郎の言葉が浮かんだ。


『……石燕、そうも目を隠さずとも、下を見なければいいだろう』


 そして、彼女は上を向くと──とても楽になり、いつしか痛みは消えていた。

 そんな夢を見て──朝に起きたら知らずに涙が出ていた。


「そうだね、もはや悩んでも仕方ないんだ」


 まだ寝ている九郎に聞こえないように、彼女は静かに呟くのであった……。













 *******





 翻訳困厄《大奥のオーク編》




 ところは変わり江戸の事であるが。

 青木昆陽と云う男が居る。

 彼は上司からの無茶振りに困っていた。もう本音を云えば投げ出したいのだがそういうわけにもいかない仕事を押し付けられたのだ。

 昆陽が何者かと云うと、これまで名前だけ少し登場したこともあるのだが、時の将軍吉宗から命じられて江戸の小石川養生所にて、薩摩芋の栽培を行っていた男である。

 その事で薩摩人から睨まれていることもあるが、彼の場合は別段薩摩から栽培を盗んだわけではなく中国の書物を読み解いて大陸の知識で栽培を成功させたので逆恨みではある。

 ともあれ何だかんだで養生所の薬草園に借りた畑にて、薩摩芋を実らせることに成功した昆陽は[甘藷先生]とまで呼ばれるようになった。その成功までにはとてつもない努力と苦労と学問を重ねていたのだが、こうして名が残るようになったのである。

 なお余談だが彼が薩摩芋栽培に着手するのが史実よりも早まっているのは、吉宗に仕えるオークが飢饉に対しての備えについて素人ながら意見を述べたことに関係している。

 そして昆陽の功績は吉宗も評価していて、それ故に彼に次なる指令が下ったのである。

 直々に目通りを許可されて昆陽は頭を下げたまま吉宗と面会をした。


「その方、漢語の書物を読み解いて芋を栽培したのであるな」

「ははっ!」


 ずしりと重く響く、だが耳が心地よくなるような低い声で云われて恐縮しまくっている昆陽は返事をした。

 若い頃から馬術や相撲水泳などを行い、今でも鷹狩りでは己の足で走り回る吉宗は体格もがっちりとしていて、それに似合う男らしい声をしている。

 

「ところで儂が貿易を緩和させて蘭語の書物に輸入許可を出したのは知っておろう」

「ははっ!」


 吉宗は本人が新しもの好きで、望遠鏡などの道具を好み輸入させたこともあるがそれ以外の品目も幾つか許可してある。

 そのうちの一つが、キリスト教関係以外の書物を解禁したことだ。

 とはいえ、彼の趣味で貿易品目を決めているわけではなく吉宗の代になって初めてオランダとの貿易が黒字になったことから、改善政策に挙げられる。


「しかし世の中には蘭語を読める者がおらぬ。それ故に、入ってきた蘭書の内容も知らずに高値を付けられ、手に入れてはありがたがるばかりの富豪や大名が居ると聞く。そもそも禁書なのかどうかすらも読めねばわからん」

「ははっ!」


 確認するような言葉に昆陽は只管頷いた。

 オランダと貿易をしていて、[通詞]と云う翻訳をしている役目の武士はオランダ語を喋れるのだが、文字は一切読めない。

 というか通詞は読み書きのオランダ語を勉強することを禁止されていた。非合理的だが、これも貿易の不正や外患誘致を防ぐ為だろう。

 つまりこの時代、オランダ語は完全に未知の文字なのである。


「その方、漢語を日本語に訳せるのだから、蘭語も学んで訳せ」

「ははっ?」

「同じ外国だ。出来るな?」

「ははっ!」


 無論、否定の言葉など上げられない。

 こうして青木昆陽は凄まじい理屈で、オランダ語辞典を作ることを命じられてしまったのである。無論、彼は蘭語など読んだことも学んだこともない。

 無茶振りもいいところであった。完全に畑違いである。まだ通詞の誰かに命じたほうが出来る。それでもやらねばならない。上様の指示は絶対だ。


 そしてその日、青木昆陽は長崎留学から帰って来ていた。どうにもこうにもオランダ人か、通詞に会う必要があったので長崎に出向いていたのだ。

 しかし長崎でもオランダ人と直接会うのは幕府の免状があっても長崎奉行にあれこれと理由を付けられて制限され、通詞は仕事を教えたがらない。通詞としても下手なことを教えてそれが間違っていた場合は責任問題になりかねないからだ。

 散々苦労した挙句に、オランダの商館長が江戸までやってくる行列に付き添い──商館長は毎年将軍に謁見する──暇を見ては通詞に何とか教えてもらいながらの江戸帰りとなったのである。


 そして商館長と吉宗の面会──と、云っても僅かな時間、周囲の監視の元に土下座のまま現れて将軍が「ご苦労」と声を掛ける程度なのだが──が終わった後で、昆陽も吉宗の私的な時間とも云える夜に面会が許可された。

 そこでは格式張った格好で、上ずったような返事のみをしなくともよい場ではあるが、蘭語習得に於いて収穫の乏しい昆陽は冷や汗がだらだらと出ている。

 考えてもみて欲しい。現代で云うならば知識ゼロの人間が一年ぐらい北海道の稚内あたりに行ってロシア語を覚えて来るとかそんな難度の仕事である。それでも昆陽は頑張った。

 報告の場には吉宗の他に身の回りの世話をする小姓と、やけに体の大きなでっぷりとした豚顔の男が付き添っていたがそれを気にする余裕もなかった。


「こ、これが阿蘭陀人を含め、南蛮諸国が使っている[あるふぁべっと]と云う文字群でございます」

「ふむ。ABC、……つまりは、いろはであるな」

「そして何とか通詞に聞き出して、あるふぁべっとで書いた蟹文字と、日本語の対応表を……五十ばかり作りました」


 蟹文字とはつまり、蟹が横歩きをするような横文字のことである。

 一年間頑張ってできた成果は、アルファベットと単語五十の記録のみ。

 しかも文法などは殆ど触れていない。故に、まだ蘭書は一冊足りとも彼は読めていないのである。

 打首を覚悟しての報告であった。とりあえず、無様を晒さないようにここ二日程は水しか飲んでいない。腸も綺麗な筈だ。

 やはりというか、将軍吉宗は顔を顰めた。

 

「……それだけでは本は読めぬではないか」


 もし他の老中や家臣が見ていたならば昆陽は死罪だっただろう。とにかく彼は頭を下げた。


「ははっ! 面目ございません! 南蛮の蘭語は漢語とは全然違うもので、本当に難しゅうございます……!」

「だろうな。多少の漢語は儂も読めるが、洋書はどう見ても文字に見えぬ。さて、どうしたものか」


 吉宗は暫し視線を中空に漂わせる。

 彼とて、完全な蘭語翻訳を望むわけではない。神君である家康から続く鎖国を正しいものとして、開国などは考えても居ないだろう。

 それもある意味ではこの世界情勢だと正解ではある。欧州各国の東インド会社が中国にまで及ぶこの時代に、下手に国際化をしていればインド原産の阿片などが入って来ないとも限らない。

 しかし阿蘭陀の言葉が一切読めないとなると、それはそれで問題である。

 さすがに長崎からそのまま購入してきた洋書を、すっかりそのまま解読している妖怪絵師がいるなどは彼女の弟子以外では殆ど知る者は居ない。

 ふと、吉宗の視線は彼お気に入りである、大奥の番人をしているオークへと向けられた。

 数年前に異世界ペナルカンドから迷いこんできていたのを捕らえてそのまま江戸城で雇っている、元エルフで魔女の魔法によりオークの姿に変えられた青年である。何が気に入ってるかというと、そこらの力士でも敵わぬパワー系な体格にだ。

 

「そういえばお前、別の国からやって来たと云っていたのう」

「は、はあ……まあ国というか世界というか」


 突然話を振られたオークは曖昧に肯定した。

 

「だが儂らと言葉は通じておる……」

「あー……確か魔王に送られる前に、言葉は通じるとか何とか云ってたような……」

「ふむ。文字の書き取りは練習をしていたな」


 確認するように告げた。

 言葉は通じたのだが当然日本語はオークにとって未知の言語であったので、この国の常識や幕府の成り立ちなども含めて吉宗の息子と一緒に教育を受けさせられたのである。

 数年間の勉強の後に、今では事務方の仕事も手伝えるぐらいにはなっている。

 

「ならば阿蘭陀人とも会話が出来るかもしれぬ。通詞を学ばせるのは、国防上いかんが江戸城勤めのお前ならば蘭語を学んでも問題は無い筈だ。よし、明日は江戸に滞在している阿蘭陀商館長のもとに青木昆陽共々出向き、辞典作成の手伝いをするのだ」

「ええっ!? 僕がですか!? また町に出ても」

「構わん。僧体をして出向けよ」


 こうして。

 大奥のオークは再び江戸の町に出歩く許可を貰うのであった。

 以前にもはや江戸の町に出かけようとすることはもう無かったと云うような記録もあったが──。

 あれは嘘だ。





 *******



  

 オランダ商館長は江戸に参勤する際は道中、大名行列などと同じように本陣と呼ばれる宿場町の公務員用宿舎のような場所に泊まり、江戸に来たら大名屋敷に入るのだが、当然ながらオランダの大使館などは江戸に存在していない。

 なので江戸での宿舎は日本橋本石町にある[長崎屋]と云う大店を借りることになっていた。ここは長崎に本店のある、殆ど幕府直轄の輸入業者である。

 当然ながらオランダ人が来たとなれば江戸でも見物してみようと集まる町人が多く、そしてそれらとオランダ人を接触させまいと監視する役人の数も多いので昆陽とオークは夜に面会を臨んだ。

 江戸にやって来るオランダ人は、商館長と書記、それに医者の三人程であったようだ。

 付き添いの長崎奉行に吉宗からの指示書を見せて通詞など立会いのもとで行われることになった。


「む、むう。上様の命となればやむを得ませんな」


 江戸から遠く離れた長崎の地では、ある程度の幕府からの命令を突っぱねてでも取り締まる権限を持っている長崎奉行だが、将軍のお膝元となればそうはいかずにすんなりと二人は通される。


 商館長のヨアンは金髪碧眼の四十がらみの男であり、目元の垂れ下がった物腰が柔らかそうな人物であった。

 しかしさすがに、面会に現れた超級の大男には目を見開いて驚いた様子である。欧州の中でも平均身長が高いオランダだが、このオークは背丈が2メートル20センチはある。頭を虚無僧が被るような笠で隠しているので余計に威圧感がある。

 この時代のオランダ人が思い浮かべる有名な糞でかい男と云えば、1697年にロシアからの留学生で見習い職人としてオランダの工場で修行をしていたピーターくん(身長2メートル13センチ)だろうがそれよりもデカイ。なおこのピーターくんは身分を隠して留学していたが後の初代ロシア皇帝ピョートルである。多分隠せてなかったんじゃないだろうか。

 

「日本にもこんなに大きな男が居たのか……」


 そう呟いたヨアンに、オークは軽く返事をした。


「あ、いや僕は正確には日本生まれじゃないんだけど……」


 すると。

 全員の目がオークへと向けられた。信じられぬ顔をして通詞などは白目を剥きかけている。


「な、なに?」


 思わず身を引かせたオークに、興奮した昆陽が唾を飛ばしながらまくし立てた。


「大奥殿! 本当に蘭語が喋れたのですか!? なんて云ってるかわからなかったけど!」

「え!? 僕さっきオランダ語喋ってたの?」

 

 普通に。

 他の人と接するのと同じ感覚で喋っただけなのだが、口から出る言葉は自動で相手に伝わる言語に変換されている。

 彼も九郎と同じく、魔王の異世界転移術式に含まれる効果が及んでいて、ある程度の知的生命体とならば宇宙人だろうが会話が可能になっている。イルカは無理だがイルカ人間となら喋れる。

 ヨアンは感動したようにオークの手を取った。


「そのネイティブな発音! 君もオランダから来たのか!?」

「え、ええ~と、そういうわけじゃないんだけど、まあ遠い国からやって来て上様のところで養われているというか」

「出自を隠さなくとも……あっひょっとしてスペインあたりの出身だから私に遠慮して……気にせずともいいのだよ、異国の地で出会った友よ!」

「なんかいきなり好感度爆上がりされてるんだけど」

 

 ぶんぶんとオークの太くごつい手に握手して振り回すようにしている。

 その目は純粋に嬉しさが溢れていて、オークはさっぱりと理由がわからずに首を傾げた。

 長崎奉行が通詞にひそひそと話しかけている。


「……阿蘭陀語を喋っているのか、あの二人」

「そうなんですが、発音が変でわかりにくいですね……」


 通詞が渋面を作り、発音の違和感を覚えているのには理由がある。

 それはこの日本で通詞相手に使われているのは、百年も前の貿易を始めた頃に喋っていたオランダ語なのである。そうでなければ通詞に伝わらないし、変な言葉を喋っていると不信感を抱かれる原因となる。

 わざわざ百年前の発音やら文法を意識して会話をしなければならないのはオランダ人も非常に面倒であっただろう。

 そこに本国で話されるネイティブに聞こえる会話が出来る、オークと出会ったのだから感動もするというものだ。国こそ明かしてはくれないが、綺麗なオランダ語から同国かベルギーあたりの出身かもしれないと推測する。


「友よ! 折角会えたのだからその帽子もとってくれ!」

「あーえーと、驚かないでね?」


 云われて、オークは顔を隠している編笠を脱いでみせた。

 江戸城では見慣れられているのだが、その顔はやはり異形に近い。長崎奉行と通詞が、あごが外れたように口を開け放って再び白目になった。

 ヨアンも口元を押さえる。


「オーマイガッ……」

「いやね、これは生まれつきじゃなくて魔女の呪いで顔を変えられて……」


 言い訳がましく告げたオークの言葉に、ヨアンが涙を流して叫んだ。


「ホーリーシット!!」


 胸の前で十字を切って嘆く。


「なんて、なんて不幸なんだ君は! 魔女に呪われて顔を悪魔めいた形に変えられ、故郷を追い出されたから名乗れなくなったのだろう……そして極東に流れ着いているとは……! 神よ彼を救いたまえ!」

「あっちょっとやめてその十字架押し付けないで! それ渡されたら僕、磔になっちゃうから!」


 なんか微妙にずれてはいたが勝手に納得されたオークである。

 そして「魔女ってこの世界にもいるんだなあ」と無駄に嫌な情報にげんなりした。

  

「そ、それでですね、僕は上様の命令でオランダ語と日本語の翻訳を作らないといけないんですよ」

「わかった、酒だな。いいワインを持ってきているんだ! 故郷を偲んで飲み明かそう!」

「いやだから……ちょっと本に載ってる単語とか教えてくれれば……」

「我がオランダが誇る国歌を歌って懐かしもう! 『おーいらはウィレムードイツの偉い貴族でスペイン王の忠臣ー♪』」

「オランダ要素が少なくない? その歌詞」

 

 などと、妙にテンション高くなったヨアンとやりとりをしながら、何とか単語を聞き出そうと頑張るオークであった。

 二人のやりとりはネイティブスピークな発音でなされていたので、周りにはさっぱり理解できなかったが、高度なオランダ語を用いて勉強してるんだろうなあと考えていた。

 とりあえずは一晩で百の単語を翻訳することには成功して、明け方近くにオークと昆陽は長崎屋を後にすることにした。

 昆陽は僅か一晩で成果が倍に増えたことに大喜びで飛び出して行き、オークはヨアンの愚痴に付き合って疲れた表情で編笠を被った。

 かなり眠たげな眼差しでヨアンが呼び止めて、云う。


「江戸の地に住む我らの友よ、私達は本国から遠い異国に仕事でやってきて、寂しいのだ。付き合ってくれてありがとう」

「ははは、どういたしまして」

「また次に来る商館長達にも、江戸で会うことが出来る友人として伝えていきたい。君の名を教えてくれるか」


 オークは少し悩んで、応えることにした。もともとエルフであった時の名前はとうに捨てて、名無しのオークとして生きていたのだが──。


「江戸城じゃ名乗っちゃ面倒だって上様に止められてるんだけど……上様から貰った名前だからね」


 吉宗からは、自分の死後にでも名乗るが良いと預けられた名前があった。

 オークをオークと呼び続けるのは人間を人間と呼ぶようなもので、妙ではあったからだ。

 彼は外国の相手ならばいいか、と白い歯を見せて笑いながら告げた。


「[シン]って云うのが僕の名前だ」


 吉宗の幼名・新之助から貰った名前である。「何なら徳田新之助と名乗るか?」とも云われたが、短いこちらが気に入った。

 ヨアンは礼を述べると同時に、眠りこけたようだったので朝焼けの中シンは江戸城へ戻ることにした。

 途中で、初恋の人がいる蕎麦屋を思い出したが───。

 未練を断ち切るように、足を止めることはなかった。



 江戸城で吉宗に報告した昆陽とシンは、過程と効率はともあれ成果は上がったので褒められはした。

 そしてこれから年ごとに江戸に参勤してくる商館長に会いに行き、徐々に蘭語辞典の単語を増やすようにと仕事の継続も命じられる。

 これにより、シンの手伝いもあり昆陽の単語記録は史実よりも倍以上増えて、最終的には単語が千程も掲載された[和蘭文字略考]と云う本に纏められることになり、後の翻訳活動に役立った。青木昆陽と云えば薩摩芋栽培の甘藷先生としての活躍が有名であるが、微々たる成果でも享保時点での一番の蘭学者なのである。

 完全な辞典ではないが、そもそも吉宗も完璧にオランダ語を解読することにさほど強い熱意があるわけではなくある程度の参考になれば、といった程度だったようだ。

 吉宗はむしろ、シンが聞いてきた商館長達の話す外国のことに興味があったようだ。


「ほう国歌とな。民が皆、国の祖を称える歌を口ずさむとは中々愉快なものだな」

「これに出てくるウィレムって人が初代の王様だったらしいですね」

「神君のようなものか。どんな王だったのだ?」

「ええと、聞いた話だと……」


 シンは腕を組んで思い出し、応えた。


「[蜜柑公爵]のウィレムさんって呼ばれていたとか」

「蜜柑か」

「なんで蜜柑なんでしょうね?」

「いや、儂も紀州の出だからな。蜜柑の産地であるので親近感が湧く」


 などと頓珍漢なことを話し合うのであった。

 なおオランダ独立の代表者であり初代君主は、[オラニエ(オレンジ)]公ウィレム1世であり、蜜柑ではない。しかも地名だ。

 翻訳術式も、多少の誤訳は発生するようである……。

 

 






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