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96話『金と女と九郎の日常』

 鳥山石燕の去った緑のむじな亭は少しばかり静かになった。

 彼女が寝泊まりしていた部屋はそのままお房が使っている。彼女は近頃、更にしっかり者になりつつある。堕落する石燕と、ともすればそれに引き込まれてだらしなくなる九郎を見ていたからだろうか。

 その日の朝も、タマと九郎がまだ寝ている明け方に目を擦りながら起きて布団を畳んだ。

 小さく伸びをして廊下を進む。夜中に手水場にでも行った後、蒸し暑くて開け放しにしたのかタマと九郎の部屋の襖は開いていた。

 ちらりとお房が中を覗くと、タマの部屋にある石燕から貰った蝋燭が大分に縮み、その近くにはこの前でインスピレーションが湧いたのか高女──巨女の絵が何枚も試し書きされて置かれていて、タマは布団も被らずに寝こけていた。

 ひょいと絵をつまみ上げる。妖怪画としてではなく、現実には居ないぐらいに等身の高い──とはいえ、つい最近見た夕鶴と云う女からすれば居ないとは断言できない──美人画のようである。技術は荒削りだが、脳内に浮かんだ絵を投影しようと様々に試行錯誤されていて、迫力が伝わる。


(頑張りなさいよ、ウタマロ)


 薄い布団をタマにかけてやり、部屋を後にする。もうすぐ恐らく目が覚めるだろうけれど、それまではゆっくり寝てても良い。

 続けて九郎の部屋を覗くと、何事か九郎は魘されていた。


「ううむ……やめろ……話しながら全裸になるな……」

「何の夢を見てるのよ」


 怪訝な顔をしながらお房は彼の顔を覗きこんだ。

 夢の中で仲間だった忍者、ユーリ・シックルノスケが道端で世間話をしながら目にも留まらぬ速度で脱いでいく悪夢──というか実際にあった記憶に唸っている九郎である。

 お房は九郎の額に軽く手を置く。ひんやりとした手にじんわりと、頭の熱が伝わる。

 少しすると九郎の寝顔が雄色気おいろけ忍法から開放されたようにすっと安らかなものに戻った。


「うん」


 満足気にお房は頷いて、九郎の側から離れるのであった。

 一階に降りて水瓶から桶に水を汲み、店の裏口から長屋の溝へと行く。

 途中で手水場から帰ってきた六科とすれ違った。


「おはよ、お父さん」

「うむ」


 相変わらずの朴訥とした顔つきで狭い長屋の隙間をのしのしと歩いていた。

 正確な体内時計により睡眠時間を狂わせない六科が、朝に眠たそうにしている姿をお房は見たことがない。

 尤も、彼女が覚えていないだけでお房が夜泣きをしていた頃は全く眠らない日が続いて、それを見た石燕が「出会ったら死ぬ系の妖怪みたいな雰囲気」と評したりもしていたのだが。

 彼は起き出してきているが近頃六科の部屋で寝泊まりするようになったお雪はまだ寝ているのだろう。お房が店に戻っていく六科を見送りながらそう思った。

 とはいえ艶のある話ではない。もとより、お雪は寝起きが悪いのだ。嫁となればそうもいかないとばかりに本人は奮起して、毎朝しっかりと起きる六科を習おうと婚前ではあるが彼の隣で寝て、どうにかして六科の生活音で目覚めようとしているのだがまだ上手いことはいっていないようだ。

 お雪が朝に弱いのにも理由はある。

 彼女は盲人であるので、朝になっても殆ど朝日が目に入らない。故に視界的には夜と変わらずに起きる時間が掴めないのである。それでつい寝る時間が多くなってしまうのだろう。

 他にも、目が見えない分耳に入る情報が広く、感覚も鋭敏になっているので一日分の蓄積を睡眠中に頭が処理する為に睡眠を多く必要としているとか、あと性格的に寝坊助なことがあげられる。

 ともあれ、


「ま、無理には治さなくていいんだけど。助けあうのが家族なの」


 お房としては別段問題視せずに、そんなことを呟いて顔を洗い、うがいをした。

 そして店の一階にある鏡──お六の遺品の一つであるが、それで髪を整える。

 そろそろ髪を結う年齢に入るが、自分の髪を見ながらさてどうしたものかと時々鏡と睨めっこしている。

 江戸では髪の結い方、化粧の仕方で大体の年齢が分かるようにしているのが普通だが、これだけ人口が集まればその基本にそぐわない人も、街を歩いていても別段変に思わない程度には居る。

 癖毛気味で流しているだけの石燕や、後ろは首元で纏めて前髪を垂らしているお雪、変則に結っている子興や短めな髪をしているお八など、お房の知り合いでも千差万別である。

 

(暫くは九郎から貰った簪だけでいいの)


 大体はいつもその結論に達する。

 それから父親が外で、朝の棒手振りからその日の魚を購入している間に色々と準備をするのが日課だ。

 店の窓に嵌めてある雨戸を外して光を入れて、空気を入れ替える。

 それから竈に寄って、近くに置いてある赤色の札を取り、念じてみる。


「ぬーん、なの」


 ち、ち、と音がなり僅かな火花が札から飛ぶ。

 その成果にやはりがっかりして、タマか九郎に頼まねばいけないことを再確認した。

 お房も魔法の術符を使えないかと日々試してみて、タマが使っているのを見てからは少しばかり火花が出る程度には発動できるようになったのだが、それだけであった。

 何らかの素質というか、魔法への理解力が必要だと云う九郎の術符は今のところ江戸でまともに使えるのは、本人を除けばタマと晃之介ぐらいである。晃之介は殆ど使う機会は無いが。

 などと彼女が思っていると、二階から規則正しい足音をぺたぺたと鳴らしてタマが下りてきた。


「やっふぃー! 今日もいい朝だね、おはよーお房ちゃん!」

「うん、おはよ。顔洗いに行く前に竈に火を点けてくれるかしら。あたいにはまだできないの」

「はいはーい」


 笑顔のまま、タマは差し出された炎熱符を受け取らず──ひょいとお房の背中に回りこみ、彼女が術符を握ったままの手に自分の手を重ねて、符に込められた魔力を解放させてやる。

 とりあえず手とり教えるような形でやって見せているのだ。


「チンからホイっ」


 軽い掛け声で、術符の先から蝋燭ほどの大きさの火が生まれる。

 お房はやはり使った実感が無いようで「むう」と唸った。

 それを竈の地面に貼り付けると、術符から出る火は大きくなり、程よく上の鍋を熱するようになるのであった。

 二つある竈にそれぞれ着火して、タマは顔を洗いに裏へと向かった。


「うむ。米を炊こう」


 釜に研いだ米と水を入れて持ってきた六科が竈にそれを置いた。

 ついでに台所に置いた籠には棒手振りが持ってきた魚や、青菜などがたくさん乗ってある。


「菜っ葉のお味噌汁でいいの」


 九郎がこの店に来た頃には握らせてもらえなかった包丁も今はお房でも使えるようになっている。

 父に似た正確な包丁使いで淀みなく青菜を食べる大きさに切り分けていく。

 それを見ながら表情には出さないが、


(包丁までお房が得意になったら俺の料理の役目はどうなるのだろうか)


 などと六科がむっつりと考えたりしつつ、軽く持った鰹節の塊を薄く削ぐようにして切り落としていた。

 光が透けるように薄い削り節を包丁で作る腕前は、とても料理下手には見えない六科である。

 湧いた湯に鰹節を入れて出汁を張る。

 湯掻かれてくたくたになった鰹節は取り出し、醤油をまぶして飯のおかずにする。

 お房が味噌樽を開けると、


「あら。そうだわ。味噌がもう残ってないの。お父さん」

「わかった。買いに行く」


 頷き、のそりとした動きで外に出て行く六科。

 味噌問屋は早朝でも飯時には店を開けて、客が来るのを待っているのだ。大体江戸の一般家庭では数日分の味噌を購入して家で保管するので、毎日ひっきりなしあちこちから客がやってくるので年中繁盛する生活必需な問屋である。

 タマは裏で奥様方と世間話でも始めたのか、微かに談笑の声が聞こえる。

 お房は味噌樽に残った味噌をしゃもじでこそぎ落として、湯の中に溶かす。

 

「────♪」


 混ぜながら小さな呟きのような歌を口ずさんでいると、ずるべたというだらしない足音と共に、九郎が頭を掻きながら階段を下りてきた。

 欠伸混じりに、半分まで寝ているような目つきでお房を見ている。


「おはようなの。九郎」

「……うむ、おはよう」


 彼はなんとなしにお房の近くに来て、寝ぼけて霞がかった意識をはっきりとさせながら云う。


「その歌──」

「うん?」


 お房が口ずさんでいた、歌詞などは無い音だけの歌のことだろうか。

 彼は怪訝な顔をしながらぼんやりと聞く。


「石燕も歌っておったのう」

「そうなの? あたいが教えたんだったかしら、教えてもらったんだったかしら」

「ふうむ」

「まあいいの。だって別にいいもの。ほら、九郎も顔を洗ってらっしゃい」


 そう告げてお房は彼に手拭いを渡す。

 

「うむ」


 九郎も仕方なさそうな笑みを浮かべて、裏に顔を洗いに行った。

 それから暫くして、タマを連れて九郎も戻ってきて、座敷についた。

 飯もそろそろ炊ける頃合いだ。六科が近所の味噌問屋から帰ってきた頃に、よろよろと一階の奥からお雪が姿を現した。


「寝過ごしましたよーう……」

「おはよ、お雪さん」

「ううう、無理に起こしてくれても構わないのに……」

「駄目よ。お雪さん抱きつき癖があるもの寝ぼけてたら」

「うむ」


 大体いつも抱きつかれている六科は肯定の意を示した。子供の頃から世話をしている彼は、ごつい手指で器用に彼女の拘束を抜け出すことが出来る。

 恥ずかしそうにお雪が俯いて云う。


「こんなにだらしないとお房ちゃんに認めて貰えない……」

「もう、気にしないの。よそはよそ、うちはうちなの」


 お房が濡らした手拭いをお雪に渡して、顔を拭わせる。

 その間に彼女の髪の毛を手早く纏めていつもの髪型に合わせた。


「さ、朝ご飯は出来てるの。皆で食べましょ」


 そうしてそれぞれが座敷に座り、簡単な膳を前にした。

 六科とお雪が向き合い、その隣の座敷に九郎とタマとお房が座っている。

 白い飯に[萩のわかめしそ]をまぶしたご飯と青菜の味噌汁、細かく刻んだ沢庵と味噌をまぶしたゆで卵であった。

 昨日の店のメニューに出す為に作っていたゆで卵が余ったので朝食に利用している。これに塩っぱい味噌を少しだけ味醂で解いたものが塗りつけられていて、うまい。

 味を付けて乾燥させたわかめとしそのふりかけも、炊きたての飯で戻って磯と青い葉の香りが食欲を増させる。

 お雪の分は握り飯にしてある。


「うむ、上手い。フサ子や──」

「はいお味噌汁のお代わり」

「……ありがとうよ。六科。こっちをものごっそ見るな」


 九郎の要求が最後まで口に出される前に、茶碗を受け取って味噌汁を注ぐお房である。最近は九郎のそれとかあれという指示語さえもしっかり把握している。

 そんなやりとりを六科が目をびかびかと光らせるようにして見ていた。九郎は何だその目はと思いながら顔をそむける。

 

「あの……六科様」

「うむ?」


 おずおずとお雪が六科に告げる。


「明日こそは早起き頑張りますから……」


 バツが悪そうにしている彼女の肩を軽く叩いてまさに子供に言い聞かせるような口調で云う。


「努力をしているのならば、それを否定するように早起きをせずともいいとは云えない。程々に、無理をしない程度に頑張れ」

「は、はい」


 もうじき祝言を上げるというのだが、六科としてもまだお雪への対応が子供を相手にしていた頃から抜け切らない。

 男女の機微に対して非常に疎い性格もあるのだろうが。 

 六科なりに、早起きを真剣に考えているお雪に何か助言をくれてやろうと、腕を組んで考えた。


「夜中に起きて布団の中でもぞもぞとしているが、寝付きが悪いのか? それで朝起きれないのだろう────」

「うやああああ!?」


 突然お雪が飲んでいたぬるい白湯を吹き出した。対面の六科にびしゃりと掛かり、彼はむすりとした顔のまま手拭いで拭った。

 熱した蛸のように頬を赤らませ、口をぱくぱくとさせるお雪である。

 知られてはいけないことを知られた。


「お、おおおおお起きてたのですか六科様」

「うむ。いつもだから癖か何かと」

「いつも!?」


 お雪は考える。果たして此れまで何回六科の隣でもぞもぞしていただろうか。そもそも何をしていたのだろうか。謎である。

 ピクリとも六科は動かなかったので完全に眠っているはずだった。聴覚に優れた彼女は寝息の音や心音が変化すればすぐに気づく。畜生それすら欺いたというのか。

 ショックでぎょいんぎょいんと概念的な音を鳴らして硬直しているお雪から離れて、九郎がしかめっ面、タマがにんまりとしていた。


「朝から怠い話だのう」

「周辺の秩序値が下がった気がするタマ」

「何の話なの?」

「気にするな」


 異口同音で九郎とタマがお房の疑問を封じる。

 そしてがくがくと震えているお雪が、回数の問題じゃないこととして諦めをつけて現実世界に精神を帰還させるまで暫く掛かったという。

 

 朝食の片付けをして店の準備を始める。

 口から半分モチのような魂を(九郎はそう見えた気がした)はみ出させながら、お雪が蕎麦生地をこねている。

 そんな状態でもさすがに六科よりはるかに腰の入った手つきで丁寧かつ繊細に生地を作り上げる。

 九郎は近くの魚市場から帰ってきて材料を台所に置く。籠には新鮮な手のひら大の蟹が五匹あまり載っている。

 

「今日の一品は蟹あんかけ豆腐にしておくか。渡り蟹が安かったからのう」

「はーい」


 渡り蟹五匹で七十文なり。日本円にして千百円前後ぐらいだ。

 蟹あんかけと云っても凝ったものを作るつもりはない。

 甲殻に包丁を入れて半分にした渡り蟹を殻ごと鍋で煮て出汁を取り、十分煮立ったら殻を取り出してほじくった身だけ汁にいれる。

 あとは醤油で味付けをして小麦粉か何かでとろみを付け、豆腐を入れて出来上がりである。これに細切りにした生姜をたっぷり入れておけば、蟹の魚介風味が過ぎない程度に抑えつつ歯ごたえの違う爽やかさで美味い。


「ゆるい汁に入っておるから少ない豆腐を細かく切ってもそれとなく多く見えるのだ」

「一番お豆腐が高いものね」

 

 汁はそのまま飯に掛けても中々美味い。

 ともあれ店の準備も整ってきたので九郎は出かけようと二階に置いてある刀を取りに行った。

 戻ってくるとお房が待ち構えている。


「先生のところに行くの?」

「ああ、あの萩娘も押し付けておいたからには様子を見に行かねばな」

「そ。ならわかめしそをまた買ってきてくれる? お店でも好評なの」

「わかったわかった」


 お房が腰につけている財布を取り、中から幾らか銭と一分銀を出して九郎の手に握らせた。


「はい、お小遣い。無駄遣いしちゃ駄目なの」

「……おう」

「兄さん似合ってる! 女の子からお小遣い貰う姿が異様に似合ってる!」


 タマの囃し立てる言葉に対して睨み顔を返した。


「やかましい」


 おお、なんということか。

 とうとう九郎は石燕ばかりかお房からも小遣いを貰うようになったのである。新たな[自動預貯金支払い女性エーティーエム]を用意しているのだろうか。

 無論、そういうわけではなく、居候の身で箪笥貯金するのも気が引けるので誰かに預ける必要があり、金勘定に疎い六科よりはしっかりもののお房に預けているだけなのだ。

 だから金を借りてたり貰っていたりするのではなく、九郎自身の金を引き出しているだけなので何も後ろめたいことはない。ただ無駄に大金を渡すと、博打などでスってくるのでお房から節制されているが。


「それと、ほら動かないで」


 お房が濡れ手拭いで九郎の頭を軽く押さえ、梳くようにして動かす。


「寝ぐせがついたままだったの。まったく、市場に行く前に直すんだったわ。みっともないのよ」

「む、むう」

「……よし、大丈夫。それじゃ行ってらっしゃい」


 九郎の髪を整えて、お房はいつものように笑って送り出す。

 年下の、孫並みの少女にそんな身だしなみまで気遣われてなんとも云えない感情が九郎の精神を苛むのだが、


「ものごっそ見るなと云っているだろう、六科」


 すっげえ見ている彼女の父親に対して言い訳がましい言葉を残して、さっさと九郎は出かけていくのであった。

 そんなやりとりを見てタマは感慨深く頷いた。


「うんうん、お房ちゃんもやるなあ。感心する手際タマ」

「はあ? 何が?」

「……心底天然というか、自然体でやっている……だと……? 卑しい気持ちを覚えないのが真の力……!」


 さっぱり理解していないと云うようなお房の態度に、タマは戦慄を覚えるのであった。

 それより、と今度はお湯で温めて絞った手拭いを彼に手渡して、お房は告げる。


「タマも目元に隈が少しあるのよ。絵の練習であんまり寝てないんでしょ。お店が開くまで座敷で横になってなさい」

「え……いいのかな」

「何よ。悪いっていうの? 悪く無いわよ。だって悪くないもの。膝も貸してあげるわ」

「わーい」


 両手を上げて喜ぶタマは座敷に行き、いそいそと目元を温かい手拭いで覆って寝転んだ。

 そしてすっと隣に座る気配を感じて、出された膝というか太腿の上に頭を載せる。

 それは岩を枕にしたように固く、そこはかとないチクチクさとはち切れんパトスを感じる太腿で──


「男太腿ォ───!! 六科さんの膝を貸されてるタマァー!!」

「うむ」

「だってお父さんが一番暇なんだもの」

「……うむ」

「ちょっと寂しそうで可哀想!」


 それでもタマは六科の膝枕で暫く休憩するのであった……。





 *****



 

 

 九郎は店を出て、石燕のところに行く前に手土産でも買っていくかと適当な菓子屋に寄った。

 石燕はとりあえず酒の肴にしてしまうが、欠食児童のようにばくばくと大飯ぐらいの夕鶴は何でも美味そうに食うので見ていて気持ちが良い。

 向かう途中にある煎餅屋に寄って購入することにした。

 そこは九郎が新商品の相談にも乗った、まだ若い店主が経営をしている店である。若いのに煎餅屋などと云う年寄りのような店を始めることがなんともおかしかったが、江戸でも珍しい煎餅を出す店として知る人ぞ知る有名だ。


「おい、やってるか?」

「はいさ。あ、九郎さん」

「激辛煎餅と山葵煎餅を包んでくれ」


 九郎にとっては耳馴染みのある単語だが、[激辛]と云う言葉が生まれたのは昭和の頃であり、奇しくも煎餅屋が作った流行語であった。

 それを江戸で使い、唐辛子粉を眩した口が痛むような煎餅は一部の客が中毒のように買っていくこの店の目玉である。

 また、煎餅状についた米を蒸して、磨った山葵を塗りこんだ煎餅も涙の出る味として僅かなマニアが購入していく。

 

「よしよし、これを夕鶴に喰わせてやろう」


 特に悪意があるわけではないが。

 何となくそういう反応を見たい気にさせるタイプなのだろう。九郎にとって彼女は。

 神楽坂に辿り着くとピカピカ新築の屋敷が───。


『わぁかめぇ~……わかめぇ~……』


 幻聴かと思って目頭を押さえ、軽く頭を振った。

 どよんとここだけ曇った天気。インスマスめいた湿気って磯臭い香り。庭にうず高く盛られた縊られた烏の死体(模型)。

 江戸のネガティブパワースポット、鳥山石燕の屋敷は建て直したというのに不吉な気配を漂わせて、早速ご近所さんの迷惑になったり、通りかかった坊主が嘔吐して倒れたり、「お前らあそこに行ったんか!!」って子供が祖父に怒られて盛り塩が黒く変色するような雰囲気を出していた。

 鳥山石燕の妖怪忍者屋敷である。


「いや、忍者妖怪屋敷だったか?」


 或いはどうでもいいのかもしれない。九郎は無駄に札の貼られた門を潜る。

 大体生臭い理由はわかっている。なにせ、門から入って見える程に庭に洗濯物の如くわかめが干されているのである。

 怪しい声の正体も分かった。干している子興が呻いていたのだ。


「わかめぇー……わぁぁかめぇぇぇ」

「気味の悪い声を上げるな」

「あー九郎っち」


 子興が顔を向けてワカメを伸ばして干す作業を止めた。

 夕鶴の江戸で活動費を稼ぐための商品として始めた萩のわかめしそ。それの生産拠点として石燕の屋敷は使われているのだ。

 売れ始めて正気に戻ったように涙目で、商売の為に江戸に来たわけではないと主張した夕鶴だがこれを売るのにも勿論仇討ちの利点がある。

 なにせ相手も長州、萩の生まれであるのだから遠い江戸に居たとしても、故郷の味であるわかめご飯が食いたくなり購入に来る可能性は大いにある。無論、相手が長州からの追手を警戒して近づかないようするかもしれないが、どちらにせよ何もアテがなく見つかるのを待つよりはマシであった。

 

「で、お主はワカメ干しの手伝いか」

「ううう……聞いてよ九郎っち、小生はこの前まで師匠の弟子兼居候だったわけでしょ?」

「ああ」

「それで屋敷が直ったけど新しいおさんどん雇ったから帰ってこなくていいってことでまだ晃之介さんのところに泊まってるんだけど……」


 彼女は懐から財布を取り出して、それをひっくり返して見せた。

 糸くずしか入っていない。


「前までは師匠のと一緒に買ってた画材を、今度から自腹で出さないといけなくなってあっという間に貧乏生活だよう」

「晃之介に出させろよ、晃之介に」

「それはちょっと申し訳ないというか……恥ずかしいというか……」


 子興は言い淀み、「とにかく」と応えた。


「世間の絵師なんてのも大抵副業持ちか、副業そのものが絵描きなのが多いからね。小生もひとまずの副業としてわかめしそ作りの手伝いをしてるってわけよ」

「ふむ。夕鶴に雇われたのか」

「夕鶴ちゃんが家事してる間は制作作業を頼まれてるんだけど、ううう晃之介さんにわかめ臭い女とか思われないかなあ」

「仕方ないのう、己れが後で小遣いをやるからそれで画材を買うがよい」

「わあい! ……後で?」

「石燕から引き落とすから待っておれ」

「……」


 なんとも云えない半目で屋敷の中に入る九郎を見る子興であった。

 屋敷に入ると玄関から見渡せる最初の部屋に石燕の仕事場がある。間取りとしては変わっているが、泥酔して帰ってきてもすぐに部屋にたどり着けるようにという涙ぐましい配慮なのだ。

 入ってきた彼の姿を認めて、机で絵を描いていた石燕が顔をあげて呼びかけた。


「やあ九郎くんいらっしゃい。ふふふ、神楽坂のわかめ屋敷とはここの事だよ」

「嫌な名前がついたのう」


 もうなんか恐怖というかべったりとしていそうな名称で、妖怪屋敷とどっちが厭かと聞かれれば中々応えにくい問題ではある。

 草鞋を脱いでのそのそと玄関から上がり、九郎は石燕の正面に座った。

 自嘲気味に口元を歪め、彼女は云う。


「ちなみに私はほら、髪の毛が若干癖毛な上に好き放題に流していることが共通点として、わかめ屋敷のわかめ女とか渾名が付けられそうになっている」

「それはなんとも」

「くっ! 人に不人気属性を付けようなどと卑怯な! わかめで眼鏡とか明らかに負け確じゃないかね! どういうことだね九郎くん!」

「知らん知らん。あとその属性の人に謝れ」


 九郎から云われて石燕は顔を背けながら、


「いや別に私はその属性が悪いと云っているわけじゃないのだよ? むしろもっと人気が出て然るべきものだ。緑の黒髪がふわっとして波うって、知性を示す眼鏡なお姉さん。素晴らしいじゃないか。何故か敬遠されるけど」

「言い訳がましいのう」

「それはともかく!」

 

 彼女は描いていた手元の紙を叩いた。


「私の渾名が確定する前に世間に形を公表すればどうかと思ってね」

「ほう」

「例えば私の専門である妖怪画だがね、私が描く前には実は明確な形は一切無かったというやつも珍しくないのだよ」


 彼女は和綴じにされてある妖怪本を手元で適当にめくりながら、ひとつのページで止めて九郎に見せた。

 

「有名なところでこれだね、妖怪[ろくろ首]」

「あの首がにょーんと伸びるやつであろう?」

「ふふふ、九郎くんの居る未来でもそう云うのが主流で伝わっているようだがね」


 石燕は己の、細く白い喉を見せてそれを軽く叩きながら云う。


「実際のところ、ろくろ首とは首が胴体から完全に離れて宙に浮かぶ妖怪が多かったのだよ」

「……ほう」


 ぱっと思いつくのはデュラハンのイートゥエである。彼女も首と胴体が一定距離以上に離れると、勝手に首が戻ってくる仕様であった。うっかり頭を橋の上から川に落としたときに見たことがある。

 

「しかし一部の文献では首と胴体は目に見えない霊的な糸で結ばれているとあってね、私がそれを可視化した絵で描いてみたのだ」

「うむ。お主の絵には細いが糸のようなもので結ばれているのう」

「するとどういうことでしょう。江戸のみならず日本全国で目撃されるろくろ首の証言の多くが、何故か飛ぶ生首じゃなくて伸びる生首に変わってしまったではないか。劇的影響。多分後世の妖怪史研究家とかに怒られるね! 妖怪としての形をほぼ確定させてしまったとかで!」

「地味に歴史の破壊者だのう……」


 なお、飛行する首は[飛び首][抜け首][飛頭蛮]などの名前で残っているが、昔はろくろ首と恐らく変わらぬ存在であったと云われている。

 

「というわけで私自身とは似ても似つかない[わかめ女]系の妖怪を描き記しておけば、妙な渾名で呼ばれることはなくなるわけだよ! 完璧な理論だね!」

「それで?」

「そう! これが国民的わかめ女になるべくこの私が作成した───[わかめちゃん]だ!」

「待て待て待て待て」


 見せようとする石燕の手を押しとどめる九郎である。

 非常に嫌な予感がした。

 なんか妖怪史研究家とは別の方向から怒られそうな気がする。


「ええーい! 離したまえ! 先に発表したもの勝ちなのだよ!」

「却下だ却下!」


 九郎は中身を見ないようにして石燕の描いていた絵を[砂朽符]で風化させて消し飛ばした。

 それに酷くがっかりした様子を見せる石燕に、さすがに悪い気がして九郎は彼女の手を離す。


「もうちょっと捻った奴を考えられぬか……? 己れとて止めたくて止めているわけではないぞ」

「……仕方がない。だが常に時代の一歩先を行く超絵師鳥山石燕は、絵が破壊されたときの為に次の案も用意しているのだよ!」

「破壊されると予想して描くなよ……」

「これが改良型のわかめ妖怪──わかめちゃんならぬ[われちゃん]だよ!!」

「下ネタに走りおった!?」

 

 最低である。

 どちらにしろ怒られそうなので九郎がどうにか取り上げようとするが、今度ばかりは石燕も抵抗する。


「ちょっ!? 九郎くん! 人の完成原稿をどうするつもりだね! 描き終えてから仕様変更を言い出す顧客かね君は!」

「そんなものを出せばお主の評判が悪く……悪く……」


 ぴたりと九郎も動きを止めて、顎に手をやりながら頷いた。


「もう悪かったか」

「そうだね!」

「なんかもっとえげつない残酷春画とか描いてたしのう。薩摩鬼婆の人間えのころ飯とかグロいの」

「異常に趣味が悪いと大評判だったよ」


 微妙にテンションを緩めた二人のところへ、梁に気をつけながら大女の居候、夕鶴が姿を現した。

 

「お茶を持ってきたであります。おや? 何を持っているでありますか?」


 彼女は机に急須と湯のみを載せた盆を置いて、石燕が頭上に掲げている絵をヒョイと奪った。

 そしてそれを見て、「ぱーう」と変な音を出した吐息と共に顔を上気させる。


「い、いやらしいであります! こんなもの乙女に見せないで欲しいであります!」

「きえぇー見たまえ九郎くん、旅費が足りなくて体を売ろうとした居候がカマトトぶっているよ! 犯罪だなもう!」

「結局売れ残ったので耐性は無いのであります! こちとら出会いの無かった十六の女の子なのであります!」

「十六なのか」


 九郎は彼女を見上げて、意外そうな声を出した。

 いまいち顔体つきから年齢を推察しにくかったのだが、思ったより若かったようである。なにせ背丈は六尺はあるのでどうしてももう少しは年齢があるように見える。

 彼が居た現代日本でも、十六で百八十センチメートルまで背が伸びる女子は中々珍しいだろう。バレーボールの大きな大会などに行けば見るかもしれないが。


「ふふふ十六ならば私は十七歳だからお姉さんだね!」


 悪びれもせずに主張する石燕である。

 だが夕鶴は目を丸くして、


「そうだったでありますか? 大人びているからてっきり二十二か三ぐらいだと……」


 がしっと彼女の肩に手をやり、もう片方の手で石燕は夕鶴の背中を愛おしげに叩いた。

 彼女は喜色満面で九郎へ向き直り告げる。


「若いだろう私!? 彼女は見る目があるね!」

「ああはいはい」


 冗談の種にしている年齢を告げたのだが、実年齢よりも若い年齢ではないかと云われて嬉しくなるアラサーであった。

 

「おやおや」

  

 と、背後から静かだが耳に染みこむような声が聴こえる。

 振り向くと、狐面を付けた女が、いつの間にか──玄関からも上がり、九郎の背後に立っていた。 

 まさに、一瞬の意識の空隙に出現したように現れている。

 阿部将翁である。


「ちょいと、近くを通ったので寄ってみたのですが……」

「将翁?」

「そこの御方。少しばかり、あたしの診察に」


 足を進めて、自分よりも大きな夕鶴の手を取り将翁はそのまま奥の間へと向かう。


「付き合ってもらえませんか、ね」

「な、なんでありますか!? この人は誰でありますか!? あひぃん!? 指が絡められてくすぐったいであります!?」

「頑張りたまえ夕鶴くん。そいつは通称[歩き助平]という妖怪だ。ほら助平光線とか出すぞ」

「人聞きの悪い」


 そう言い残して、ぴしゃりと襖を閉めた。

 九郎と石燕はひとまず座り、置かれた盆に載せられている茶を入れてそれぞれ啜る。


「はあ。やはり茶はこの家に限るのう。うちのは出涸らしで……いつ飲んでも出涸らしなのが不思議なのだが。必ず出始めはあるはずなのに」

「そうだね。できれば縁側で飲みたいけれど、縁側の先は現在わかめ王国でね……」

「干す場所を指定しておけよ」


 などと落ち着きながら言い合うが、隣の部屋から声が聞こえる。


「なんでそんなこと聞くでありますか!? 恥ずかしいであります!」

「まあまあ」

「両親への挨拶でありますか!?親戚周りでありますか!?」


 二人、再び茶を啜る音。気にしないことにしたようだ。


「む、九郎くんが持ってきた煎餅、随分辛いね」

「それは夕鶴に騙して喰わせるやつだったのだが……お主ぐらいになるともう効かぬか」

「可愛らしく苦しんでみれば心配してくれたかね?」

「背中ぐらいはさすってやろう。喉に詰まらせるかもしれぬからな」

「モチ系に随分警戒を怠らないね……!」


 周りが騒がしいと逆に落ち着くのか、ほのぼのと辛い煎餅を少しずつ齧っては茶を飲む二人だ。

 激辛系だが、それに耐えれば旨味がわかるように作られている。

 

「そんなところを嗅がないで欲しいであります! どういう了見でありますか!?」

「ほう、ではここを」

「ふはっく、くすぐった──痛いであります!?」

「成程成程」


 窓から見えるわかめの林を見える。

 小さな切れ端を、低く飛んだ燕が咥えて飛んでいった。


「明日は雨かのう」

「燕が低く飛ぶと……ってやつだね」

「そういえば燕に海藻だけで巣を作らせたら高級食材になるとか」

「ああ、あれは嘘だよ。そもそも種類が違う。食材になる燕の巣を作るのは穴燕という種類でね、その巣の材料は全て穴燕の唾みたいなのが固まったものだ」

「そうだったのか。食欲があまりわかぬ話だのう」

「なに、蜂蜜だって云わば蜂が口で咀嚼した花の蜜だろう? 考え方次第だよ」


 などと他愛のない雑談をしていると、百合乱暴──いや、診察は終わったようで襖が開いて将翁が戻ってきた。


「で、どうしたのだ?」


 九郎の質問に、彼女はちらりと背後でうつ伏せに倒れている夕鶴を見て、応える。


「いやね、十六でああも背が伸びてるとなると、ある病気を心配したのですよ」

「というと?」


 彼女は指で狐面の眉間あたりとこつこつと叩く。


「若い内に脳の中の、この鼻の上辺りにあるそら豆みたいな部分が腫れ物で腐りだすとですね、体が異常成長したりまったく成長しなかったり、月のものが来なかったり、骨が折れやすく肉はむくみやすく、皮膚は荒れ、尿は垂れ流しに……」

「うああああ!?」


 むくりと起きだして夕鶴が将翁の体を掴んで叫んだ。


「大丈夫だったでありますよね!? 自分そんな病気じゃないでありますよね!?」

「くくく……」

「答えて欲しいでありますううう!」


 彼女は肩を竦めて云う。


「ご安心あれ。ご祖父が偉丈夫だったらしいのでそれ譲りの体でしょうぜ。匂いを嗅いだからわかる」

「よ、よかったであります……」


 ほっとして胸を撫で下ろす夕鶴であった。

 九郎はそれよりも、将翁の病気への見立てに対して訝しげに、


「というか将翁が脳の病気まで把握しているのが……」

「いや何、手遅れな人のを許可を貰い頭まで腑分けしただけでございますよ」


 しれっと彼女は告げて、手できこきこと鋸を引くような仕草をした。

 石燕も頷き、


「うん、今どきの女子なら行くよね! 腑分け!」

「ええそりゃあもう。女子の人気観光地ですぜ」

「今更何も云うまい」


 諦めたような九郎であった。

 しかし将翁はするりと夕鶴の背後に周り、


「それより」


 そう前置きして、彼女の着物を捲った。

 白くて棒のように細い足が露わになる。


「何をするでありますか!?」

「ほら、これをご覧あれ」


 将翁がそう告げて、九郎と石燕に夕鶴の脹脛からひかがみを見せつける。

 率直に九郎が感想を告げるに、


「肉付きの悪い足だのう」

「うぐっ」

「そう、それなんですがね。栄養の不足もあるが、骨の成長に肉が付いていっていないせいで、全体的に体の肉が伸び気味になってる。このままだと──」


 彼女は何かを千切るような仕草をした。


「ぱつん」

「ひっ!?」

「と、いかないにしても相当肉の張りが関節の邪魔をしているはずだ。夕鶴殿、ひょっとして転びやすかったりしませんか?」

「よく転ぶでありますが、背が高いから足元がお留守なせいだと……」

「膝の辺りの肉が突っ張って動きにくいのが原因でございます、よ。体の膨らみにあう分、肉や魚を食うことです」

「……ひょっとして胸も大きくなるであります?」

「ああ、揉んだ限り───そりゃ無理だ。くっくっく」

「自分が巨乳だからって残酷であります!」


 嘆く夕鶴であった。

 それはともあれ、石燕は暫し考えて、


「ならば獣肉を売ってる店にでも久しぶりに行くかね。よくよく思えば、夕鶴くんはこの家でも白飯ばかりバクバクと食べていたからね」

「うむ、そうするか」

「あいつも誘うか……子興ー」

 

 呼びかけの声に、縁側から上がってきた子興が姿を見せる。


「どうしたの? 師匠」

「これから獣の肉でも食いに行こうと思うが、一緒にどうだね?」

「あーいや、小生は結構晃之介さんのところで食べてるから……」

「充実自慢かね!?」

「なんでそうなるの!?」

「そうだ、石燕」


 九郎が思い出したように、石燕と子興の間に立った。

 首を傾げる石燕に、九郎は手を差し出して云う。


「金をくれ」

「ふふふ、いいとも! はい!」

「躊躇いなく小判をちゃりんと渡したであります」


 小判を握らせてくる石燕から引き落とした金を、九郎はそのまま子興に手渡した。


「ほれ、小遣いだ。いい絵を描けよ」

「……」

「……」

「なんだよ」

「九郎っち……女の人から貰ったお金を、右から左へと別の女に渡すの似合ってるねえ……」

「人をタチの悪い男みたいに云うな。己れの金だ、己れの」


 憮然と云う九郎であった。

 明らかに偏見に満ちた目で見るからそう見えるのであって、別に冷静な曇りなき眼で見れば変ではない筈だと彼は信じているのである……。





 ******




 石燕の屋敷から出発する前に。

 居残りして晃之介に持ち帰るわかめしそを作ろうとしている子興が九郎に尋ねてきた。


「ところで九郎っちはなんで人にお金を預けるの? 自分で持っていれば変な目で見られないのに」

「ふむ……」

 

 改めて云われて、九郎は考えた。

 確かに自分で持っていた方が何かと便利ではあるのだが───

 かなり昔の記憶が、幾つか浮かんだ。



『うーん、金勘定がまだよくわからん。スフィ、代わりに財布を持っていてくれ』

『仕方ないのー、お主が騙されでもせんように私を頼るのじゃよー?』

『わかったわかった、よろしく頼むよ』

『まったく仕方ないのー本当に仕方ないのじゃよーにょほほ』



『いや、己れの分の食材まで買ってくるなら金を渡していたのに』

『……』

『まあ……最近は作りに来てくれて一緒に飯を食うことも多いかのう。いっそお主に生活費を渡しておくか』

『……』



『クロウ。街に買い物に行ってくるので欲しい物があれば云ってください』

『己れが行ってもいいんだが……』

『クロウの顔体つきを変身させるなら巨女にしておきますか』

『いや、やっぱいい。……はあ、イリシアに買い物は任せっぱなしだのう』



『支払いは任せろくーちゃん! バリバリバリ!』

『やかましい』

『ちなみにこのバリバリはNASAが開発したんだって。NASAの技術を舐めるなよ! バリバリバリ!』

『やかましい』



『代金は支払っておきましたクロウ様と報告致します』

『うむ』



 色々記憶が浮かんだり、消えたりして九郎は頷いた。

 女に金を預ける理由はなんというか、


「これまでの経験と習慣からだな」

「想像した中でも結構駄目な理由だったなあ……」

 



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