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95話『萩から来た女』

 緑のむじな亭、と暖簾に白文字で書かれてある店がある。

 裏長屋に繋がるその店は、通りに面する店先に[そば][さけ][めし]などと品目が貼りだされていて、地味ながら飯屋としての主張をしっかりと行っていた。

 時は将軍吉宗の頃なので、庶民は贅沢や派手さを慎むことが求められるので看板や昇りはご法度になる。しかしこの程度ならば文句も付けられないだろう。

 その店の前で、人影が入り口で立ち止まる。身の丈は六尺(約180cm)程もあるだろう。編笠を被っていて、周りに威圧感を与える江戸でも珍しいぐらいの背の高さだ。


「……」


 何事か呟くと同時に、その者の腹が鳴った。

 その謎の人物は手元の財布を見て、銭が数枚しか入っていないのを確認し食い逃げを決意してでも中に入るべきか悩んでいた……。




 さてそれはともかく、店の中ではまだ誰も客が来ていない朝方の時間帯。

 いつも通りの座敷に九郎と石燕、お房とタマが座っていた。

 茶を飲みながら難しそうな顔をしているのはお房である。

 

「うーん、とうとう先生のお家が完成したのよね」

「そうだね。昨日最後の仕上げとして意味ありげに床下とか掛け軸の裏の壁とかに御札を貼り付けてきたよ」

「凄く無意味な仕上げに思えるタマ……」 

「ただの趣味だろう……悪い方向の」


 と、確認のように告げたお房に石燕は首肯し、それぞれが反応を返した。

 神楽坂にあった石燕の屋敷はこの前の火事にて、不幸な事故により消失したのでここ暫く再建をしていたのだ。

 江戸の街は火事の度に建設ラッシュが起こり、大工鳶職などは飯の種が尽きぬとばかりに大忙しなのだが、一度に広範囲が燃えるとなるとさすがに手が足りなくなる。

 金があろうが、大名旗本の屋敷が優先されて材木なども回されるので庶民は暫く知り合いの家に身を寄せるなどをする。

 鳥山石燕の屋敷の場合は、元から縁起の悪い──業突張りな高利貸しの屋敷であり、妖怪絵師の妖怪屋敷でもある──ので多くの大工は尻込みして断られたのだが、建築技術を持つ地方からの技能者集団と伝手があり、彼らの手で作り直されたのである。

 普段の江戸ならば勝手に工事をしていたらあれこれと文句が付けられるのだが、大火事のどさくさと、余り関わり合いたくなさそうな黒装束をした忍者大工の集団によりさしたる問題は発生しなかったようだ。

 

「で、先生の家が直ったのはいいんだけど……問題は屋敷に住む人なの」

「というと?」

「先生一人じゃ心配だわ。お酒を飲み過ぎるかもしれないし、おモチでも喉に詰まらせたら助けられないもの」

「まるで独りじゃ寂しくて死んでしまう可愛い兎さんのようだね!」


 石燕が頭の上に両手で兎の耳のような形を作って、悪びれもせずに笑った。

 それを見て半眼で九郎が呻く。


「お主、この前己れが持っていたバニースーツをこっそり着てみた挙句に『いや……ないない! キツイ!』とか顔真っ赤にして自分で云っていただろう」

「ううっ……せ、専門家的にはイケる感じではあったと思うよ!?」


 アラサー眼鏡喪女のバニースーツ専門家の判断が急がれる。

 なおそのバニースーツはすっかり忘れ去られていたが、九郎の荷物にヨグが紛れ込ませた衣装である。江戸に来た最初あたりに見つけてそのまましまい込んでいた。フリーサイズと云うか、着れば大きさが勝手に調整される機能がついてある。レオタード、ウサ耳の他に手首につけるカフス、ストッキング、それに襟付きのネクタイが付属してある。蝶ネクタイではなくイモータルのメイド服と同じネクタイなのは彼女用だったからだろうか、と九郎は適当に思った。彼女が着ているのを見たことはないが。

 石燕は動揺を隠すように考察顔で、


「しかし[ばにぃすぅつ]と云うのは兎の衣装と云う意味だろう。それにしては兎成分は耳と尻尾ぐらいしか無かったようだ。衣装自体は扇情的だから、これでは『俺ばにぃすぅつで獣娘の良さ分かった!』とかにわかっぽい愛好家を増やすのではないかね?」

「特殊な性嗜好を持つ人の中にはそれを先鋭化させてより深みに嵌り、浅い人に優越感を覚えることに快感を覚える類が居るから困るタマ」

「そんなことより」


 ばっさりと話題を戻したお房が難しそうな顔をして指を立て、石燕と同居できそうな立場の人間を上げていく。


「子興さんを呼び戻すのは可哀想なの。折角晃之介さんといい感じなんだから。二枚目を捕まえててちょっと羨ましいけど」

「晃之介のやつも妙なところで押しが弱いやら」

「あたいが住み込みに行ってもいいんだけど……」


 店の奥で蕎麦生地を練っているお雪と六科をちらりと見て云う。


「お父さんとお雪さん、そろそろ祝言を上げるみたいだから……そこで娘のあたいが出て行ったらきっとお雪さんが気に病むの。後妻と連れ子問題になるの」

「フサ子は優しいのだが、どこでそういう気遣いを覚えるのだろうのう」


 隣に座りお房の頭をそれとなく撫でながら九郎は呟いた。

 新しい母親が来て即座に家を出る娘は確かに感じが悪い。母娘の関係を拒否されたのではないかと、お雪が思ってしまうだろう。


「するとなると、タマを住ませて通いで店に来させる方法もあるんだけど……やっぱりタマは助平だから駄目なの。間違いが起こるわ」

「ちょ、ちょっとお房ちゃん! ボクがそんなふしだらなことをするとでも!?」


 タマが真摯な紳士めいた表情で主張して、自分でもイメージしてみたのだろう。やや上を向いて想像してみる。

 二秒で彼は全ての可能性を考慮して曇りなき眼で親指を立てて拳を握る。


「うん! 無理だボク耐え切れない! 助平発生する!」

「素直はいいことなの」

「タマは少し落ち着け」


 九郎が茶を啜りながら面倒臭げに突っ込みをいれた。

 石燕とタマはそれなりに仲が良く、相性も悪くないのだが未亡人と少年とはいえ男が二人暮らしは少しばかりまずい。

 得意気に石燕が胸を張り、云う。

 

「魅力的な婦人である私の美女罪といったところかね……ふふふ、参ったねこれは!」

「……」

「……」

「……」

「ん? 反論がないなら私の勝ちだよ?」

「強くなったのう」


 傷つくことを忘れて開き直った婦人は強い。冷や汗一つ掻かずに勝ち誇れるようになった彼女は、その勝利の対価に何か大事なものを失っているのではないだろうか。

 呆れつつも手元の茶を啜る九郎であった。

 お房が頬杖をつきながら、


「他に引っ越してくれそうな人だと、お七姉ちゃんはお金を盗んで逃亡するのに躊躇いが無いから危ないし。麻呂さんは行方不明だし。こうなったら本格的に、お金で下働きの女の人を雇うしかないの」

「房よ! 忘れているのではないかねそこに丁度いい人材が居るではないか!」


 と、行儀悪く湯のみを机に置いたまま噛むようにして斜めにし、手を使わずに茶を飲んでいる九郎を石燕は指差した。

 基本的に居候であり、女と同居しても間違いが起こらないという九郎は問題ないように思えるが……。

 お房はきっぱりと云う。


「駄目よ。九郎はこの店の居候だけど、お店の経営を色々助けてくれた恩人でもあるもの。追い出すような真似は不義理なの」

「うぐ」

「それにただでさえ[ひ]で始まって[も]で終わるような人だって口さがない噂があるのに、先生に囲われたら否定できなくなるわ。九郎の為にも行かせられないの」

「む、むう……人の噂も七十五日と云うし……それに新婚の家に居候は九郎くんも居心地悪いのでは?」

「九郎。どうなの」

 

 二人から視線を受けて、九郎は頬を机に付けて寝そべったまま呻いた。


「う、ううむ。正直どっちでも……」

「九郎」

「九郎くん」

「適当に答えたら駄目タマよ、兄さん……」

「何だこの責めるような目線は」

 

 理不尽を感じながら九郎は思案する。


「確かに、評判的にはちょっと厭だが石燕のところに住めば、次に悪党が来ても追い払えるので心配事が減るが……」


 なにせ女所帯である。不吉な噂を流しているとはいえ、金持ちで女しか居ないような家と知られれば賊がやってくる可能性も無くはない。

 実際に家を失った時は、仮面を付けた怪しい妖怪人間に襲われていたのだ。

 石燕が我が意を得たりとばかりに頷いた。


「だろう!?」

「それなら大丈夫なの。伯太郎さんに頼んで強力な番犬を貰うことになったから。熊でも倒せるやつ。縦回転ができるの」

「じゃあいいか……」

「用意がいいね我が弟子ながら!」


 [犬神]同心・小山内伯太郎。彼は犬の飼育もしていて、江戸で犬を引き取って大事にしてくれる相手にしっかりと躾された犬を預けている。薩摩人には決して渡さないが。

 女児を愛する彼である故に、お房の頼みとあれば強力で従順な頼もしい犬を用意してくれたのである。


 などと、話していると店の暖簾をくぐり中に入ってくる客が現れた。

 タマがひょいと座敷から下りて接客に出ようとする。


「いらっしゃ───おお」

「ん?」


 軽く驚くようなタマの声に、座敷の三人も目線を客に向ける。

 そこには片手に編み笠を持った、身の丈六尺程もある大きな───女が居たのである。

 六尺もあるとは云え、大柄と云うよりは棒が歩いているように細い体を、安っぽく継ぎ接ぎのある着物に包んでいる。黒くて癖のない艶やかな髪は首のあたりで纏めて流していて腰まで伸びていて、目を細める笑みを浮かべていた。

 背の高さと笑みで年齢はよくわからないが、若くは見える。九郎は蟷螂かまきりを、石燕やお房は妖怪[高女]を連想するような女であった。

 

「失礼するであります。ここに九郎君というお助け人が居ると聞いたでありますが、そこの方でありますか?」


 はきはきとした声が女から掛けられた。

 九郎に目線を向けて──細い目のままだが──そう尋ねて来たので、ひとまず九郎は頷いた。


「ああ、己れが九郎で、お助けとまではいかぬが、色々と助言ぐらいはやっておるが……お主は?」


 背の高い女は姿勢を正して、


「はっ! 名乗りもせずに申し訳無いであります。自分は長州、萩からやって来た夕鶴ゆづると云う名であります!」


 そう高女、夕鶴は名乗った。

 石燕が眼鏡を正して彼女を見上げながら、


「確かに長州なまりが凄いね……」

「この軍人みたいな口調って長州弁なのか……いや、己れの居た未来の話だが」

「ふふふ、未来では軍人に長州人が多かったから広まったのかもしれないね」


 ひそひそとそんなことを話し合う。

 長州の萩と云えば、萩藩毛利氏が本拠を置く土地である。その歴史は関ヶ原の後に、毛利家の吉川広家が徳川家康の口約束に乗って毛利軍を戦わせなかったのだが、戦後に「約束なんて知るかボケ!」とばかりに毛利家ごと田舎に転封で叩きこまれて始まる。

 城の建設予定地が三角州の中以外認められなかったり、養えないっていうのに家臣団がぞろぞろついてきたので給料カットしまくったりと幕末まで含めて波瀾万丈な藩だ。

 ともあれ、江戸から遠いその藩から夕鶴はやってきたと云う。しかも、わざわざ九郎に用事があるようだ。


「是非九郎君にお助け願いたいのであります!」

「いや、まあとにかく座れよ」

「まずは」


 夕鶴の胃のあたりが長州っぽく鳴った。


「ご飯を奢って欲しいでありますぅぅ……お腹空いて動けないでありますぅぅ」

「うわ! この人倒れたタマー!」

「倒れ方も棒倒しみたいだったの」


 空腹が限界だったようで、店の床にばたりと倒れこむのであった。




 ******



 

「美味いであります! 美味いであります!」


 とりあえず座敷に上がらせた夕鶴は、出された丼飯を山盛りで掻きこむ。

 おかずも無くそれだけをばくばくと喉に詰め込む様子に、九郎と石燕は唖然と見ている。

 ぺろりと口の端に米粒をつけながら平らげると、顔色が幾分良くなったようであった。


「よく食うのう」

「なにせ自分、背丈がコレなもので、幾ら食べても足りない気分なのでありますよ! 実家じゃあお腹いっぱいは食べれないでありますが」


 お替わりの丼を出されて、更に飲むように食べた。白飯が数秒で消えていき、お房が目を丸くしている。


「図々しいのう」

「いやあ、自分武家の娘なのでありますが、萩の武士は何分貧乏でありますから、自分が江戸に来るまでの路銀を家から出すのもギリギリでありまして。食うや食わずやでなんとか辿り着いたところであります」

「そうなのか」


 漠然とした九郎の疑問に石燕が応えた。


「ふむ。確か萩藩は実質の石高はそれほど低いわけではないのだが、とにかく武士の数が多いので分配が少なくなるのだと聞いたことがあるね。基本的に他の藩と同じ身分でも、禄高は八割ぐらい低いらしい」

「そりゃ貧乏にもなるな。なんで江戸まで来たのだ?」


 土地自体は嫌がらせのように田舎に押し込められたのだが、逆に云えば開墾箇所が多かったので畑は増やせたのであるが──土地を関ヶ原以前の四分の一に減らされて家臣がそっくりついてきたのだから飽和しているのも当然ではある。

 ともあれ、夕鶴はその城下町から外れ松本川の東あたりに住んでいる二十五石取りの下級武士、杉家の娘なのであった。

 口元についた米粒を指で取って食べて、茶碗に茶を注いで飲んで一息ついた後で夕鶴は話を始めた。


「お話をさせて頂きますと、自分は江戸に仇討ちに来たのであります」

「それは穏やかではないのう」


 彼女は懐に入れて布で丁寧に包んだ紙を見せると、それは藩が出した仇討ちの免状であった。


「今から一年前、自分の父である杉藤馬すぎ・とうまは藩の使番家来、玉木右内たまき・うないに口論の末に斬殺されたであります。その後脱藩逃亡した右内に対して、藩は自分に仇討ちの免状を出してくれたのであります!」

「ふむ。口論とな」

「差し支えなければどういうものか聞かせてくれるかね? ちなみに私はお助け人相棒の鳥山石燕だよ」

「了解であります!」


 夕鶴は片手を上げて肯定した。敬礼のようだが、高身長の自分が頷いたりしても目線が合わないのでそうやって手で意志を伝えるようにしているのである。

 遠く萩から旅をするには心もとない、肩に下げていた小さな包みから二つの人形を取り出した。

 布製で中に手を入れられるようにしてある、人形劇をするようなものだ。


「説明が必要と思って予め作っていたであります。自分、こう見えても手先は器用でありまして」

「人形劇で仇討ちの説明をする奴は初めて聞いたが」

「おほん! 目撃証言からこのような口論があったとされているであります」

 

 人形は普通のおっさんを模したものと、凶悪なおっさんを模した二種類だ。恐らく凶悪な方が仇なのだろう。

 夕鶴はばたばたと無意味に人形を動かしながら台詞をなぞるように云う。


『獣娘ってのは耳と尻尾だけで十分可愛さは伝わるであります! それ以上を望むのは魅力を損ねるだけであります!』

『そんなものはただの仮装でしか無いのであります! 大体、頭の上の方に獣耳があったら普通の耳はどうなってるでありますか! 耳が四つなんでありますか!? それとも剥ぎ取られたようになってるでありますか!?』

『そもそも獣娘って存在が妖怪変化の類なのに現実的な構造を考えるなであります! 美少女に付属する犬耳と尻尾! ご主人様触っちゃ駄目ええ! 他に何も要らないであります!』

『最低限犬猫めいた顔は必要であります! 犬の伸びた口の魅力や猫のちょこんとした鼻の可愛さをどうして捨てるでありますか!』

『気持ち悪いでありますこの獣姦野郎!』

『ぐあー!』


 ばっさりと、獣姦野郎のおっさんが切られる風な動きを見せて倒れる。

 どうやら夕鶴の親は、性癖談義の果てに刃傷沙汰が起こったようだ。むしろ不祥事な気もする残念な死に様である。

 一説によれば萩──山口ではケモナーの談義が議論百出、侃々諤々に行われる土地柄なのであるらしい。

 九郎は嫌そうに顔をしかめて、


「凄くどうでも良くなってきたぞ」

「しかしそれで女一人仇討ちに送り出すとはね」

「萩では皆親戚のようなもので、とにかく仇を討たねば村八分どころか藩八分なのであります。それに自分には弟が居るでありますが、まだ赤ん坊なのであります。自分は姉として、弟の立場を守る為にも右内を仕留めてやるであります! ただ」


 力強く拳を振り上げて腰を浮かせ主張した彼女だが、勢いを無くしたようにまた座った。


「自分はこの通り、背が高いのでありますが武芸ができるわけでも無いのであります。故郷を出るときに助太刀を願えないか、近所の暇してる家の次男三男を自分の色気で誘ったのでありますが鼻で笑われたのであります! 悔しいであります!」

「色気て」

「ちょっとやって見たまえ」


 石燕の勧めに、夕鶴は手を首元と腰にやってハニワのようなポーズを取り、きっぱりとした声音のまま云う。


「うっふーんでありますのんた!」

「……判定!」

「色気舐めてんの?」

「厳しいでありますぅぅ!」


 タマから冷たい言葉が浴びせられて机に突っ伏す夕鶴。

 とにかく座っていてもこの場の誰よりも大きいので、べしゃりと彼女の上半身が机の上を占拠した。

 フラットな細身の体はともかく、夕鶴は些か背が高過ぎる。現代日本ならばモデル体型とでも云うかもしれないが、江戸では普通の男よりも頭ひとつ大きい彼女に対して、むしろ対面したら恐怖を覚える男の方が多いのではないだろうか。

 石燕でも相対的に普通の女よりは高身長に見える江戸で、彼女よりも六寸余(約20cm)は高いのである。

 

「そんなわけで、自分が頼れるのは仇討ちの専門家である九郎君しか居ないのであります! どうかお手伝いを願いたいのであります」

「いや待て待て土下座など始めるな暴力だぞ土下座は」


 座敷の下に降りて頭を床まで下げた夕鶴を九郎は止めて、色々と気になる点を彼女に問いただすことにした。


「そもそも何故己れ……というかどこで己れの噂を聞いたのだ、仇討ちの専門家などと」


 ささっと土下座の体勢から正座に戻り、九郎を見上げて彼女は応える。


「はっ! 長州あたりの西国では有名な話であります。鳥取藩の相原兄弟が、江戸で兄を失いつつも見事に仇討ちを果たした話は大評判でありますよ?」

「相原……? 鳥取、ああ、そういえばそんな手伝いも前にしたのう」


 思い出すのに時間が掛かったが、一年以上前に九郎が江戸に鳥取からやって来た兄弟の仇討ちを少しばかり手伝ったことがある。(※24話参照)

 と、云ってもむしろ剣の修業場所と、住処を用意したのは影兵衛の口利きが多く、九郎は仇相手を偶然見つけたぐらいだ。その後の決着も、影兵衛のお膳立てで達成したようなものであった。

 結果兄は討ち死にしたが、弟は仇討ちの達成が認められて鳥取藩に帰った。しきりに九郎へも感謝の言葉が尽きぬと礼をしていって以来だが……


「相原弟君は鳥取藩で家禄は増やされ、また仇討ちの話を本にして売り出して一躍有名人になってるであります! そこには江戸で手伝ってくれたお助け屋の九郎君のことも書かれていたであります!」

「うわ、知らんところでそんな」

「自分は旅の途中鳥取藩に寄って、この店の名前を直接彼に聞いてきたのであります」


 とりあえず、自分をまず頼りに来た話の出処は分かったが。

 続けて九郎は尋ねる。


「江戸に来たようだが、その仇は江戸に居るやつなのか?」

「幾つかの理由があって自分は江戸で仇を探すのが一番なのであります」


 彼女は細い目を困らせたような形にして云う。


「まず普通の仇討ちみたく、全国津々浦々を探し回って憎っくき仇を捕まえる……ということは、貧乏下士の生まれな自分には旅費が足らず不可能なのであります。ここに来るまでも、旅籠で恥を忍んで体を使い路銀を頂こうかと思ったこともあるぐらいで……誘ったら鼻で笑われたでありますが。悔しいであります!」

「ちなみにどんな」


 半眼で念の為に尋ねると、再び彼女は自称妖艶な誘いを見せる。


「あはーんでありますのんた!」

「ちょっとマジ説教していいタマ?」

「後にしろ」


 往年のスタン・ハンセンのポーズみたいなのをして色気とやらを出そうとする夕鶴に、中々見ないぐらい冷たい表情を送るタマである。[のんた]が色気ポイントなのだろうか。

 守備範囲の広いタマは夕鶴の容姿が悪くて怒っているわけではない。大女貧乳糸目属性で十分イケると評価している。しかしその活かし方がネタにしかなっていない、持ち味を生かさないやり口に苛立っているのだろう。プロは違う。

 心なしか傷ついたようだが、夕鶴はなんとか耐えた。


「そ、それでひとまず一番人が集まる都で待ち構えるのが良いと思って江戸に来たであります。それに、仇の右内は使番の家来として、萩と江戸の藩邸の間に密書を届けたりする役目であったのであります。そうなれば、彼の者が故郷以外で慣れている街というのは江戸ぐらいであります」

「ふむ。確かに、見知らぬ土地に隠れて怯えるよりは、いっそ人口の多さに紛れられる江戸に出てこようと思う心理もあるかもしれぬな」

「そうであります! だから自分はこの街で相手を待ち構えるであります! 正直それぐらいしかアテは無いのであります!」


 随分気長に聞こえる作戦だが、仇討ちと云うものはそれこそ徒歩で日本全国(薩摩を除く)に逃げた可能性のあるただ一人を追いかけるので、十年二十年仇が見つからかないこともざらである。見つからないままに仇が野垂れ死んでしまい、一生仇が討てず故郷に帰れない者も少なくない。

 故に仇討ちを成功させた者は美談として取り上げられ、藩もその禄高を増やすなど褒章を与えるのだ。

 その点、仇を探して数年で見事に討ち果たし、兄が死に別れるという悲劇も兼ねた相原弟は有名になろうものである。

 しかし九郎としては悠長に仇のアテも無く探すのは面倒そうに感じられて、呟く。


「心もとないのう」

「あと人相書も持ってるであります!」


 夕鶴が取り出した紙には箇条書きに玉木右内の特徴が書かれていた。 


・身の丈五尺五寸。

・鼻の横に黒子あり。

・隙っ歯。

・長州なまり。

・獣の耳に異様な執着あり。


「最後辺りがサイコっぽくて嫌だな……んん? ……子興の奴は一応気をつけるように云っておくか」


 知り合いの中で、髪を猫の耳のような形に結っている娘を連想して注意させることにした。

 近くに晃之介がいれば大丈夫だろうが、それ以外の時が心配だ。


「しかし夕鶴くん。君がこれだけ目立つ外見だと、向こうが先に見つけて逃げていきそうな気がするのだが」


 石燕の突っ込みに困ったように夕鶴は告げる。


「自分も都会に来れば、背の高さが多少は普通に見えると思ったでありますが、案外都会人も背は低いのでありますな」

「まあお主ぐらい高い女はそう見ないのう……昔の友達には肩の高さが八尺ぐらいある娘がいたが」

「それはもう妖怪であります!」

「ふふふ九郎くん! それはさもあるように話すと微妙に面倒臭いことになると噂の創作妖怪のことかね!?」

「いや……普通にいい奴だ。しかも首が取れていて片手でぶら下げてるから案外会話をする分には目線を上げずに済む女だった」

「完全に妖怪であります!」


 と、九郎が思い浮かべたイートゥエは確かにアンデッドであるのだが。ちなみに巨大なのは鎧であって中身ではないけれど、九郎は見たことがない。

 夕鶴は自分を見下ろすような首のもげた大女を想像して身震いした後に、話を戻した。


「容姿のことは大丈夫であります。かの玉木右内は『獣耳以外の女って興味が無さ過ぎてどうでもいい』とかにわかの癖にクソみたいなこだわりがある男だったので、自分の事など印象に残っていない筈であります!」

「何が萩藩をそこまで拗らせるのか」

「そんなわけで九郎君には、右内を見つけた際の助太刀と、見つかるまで自分を江戸で養ってほしいであります!」

「図々しい居候志望だな!」


 がし、と九郎の片手を握り、にこやかに告げてくる夕鶴の額を軽く弾いた。


「あうっであります!」


 離れた彼女は額を押さえながら鼻声で涙交じりに云う。


「お願いでありますぅぅ~……もう自分お金持ってないのでありますぅぅ~……このままでは野垂れ死にしちゃうであります……仇を討たないと帰れないであります……」

「ひょっとしてドサクサで嫁の貰い手が無い穀潰しを放逐したんじゃ」

「しっ。やめなさいよ」


 タマのあんまりな考察にお房は黙らせる。

 困ったように九郎は頭を掻きながら、


「しかし出会ってすぐに居候を申し込むなど普通やることではないぞ」


 板場から六科のぼそりとした声が聞こえる。


「九郎殿も出会って即座に俺の店に居候させるよう話を持ちかけてきたが」

「それはともかく」


 六科の指摘は無視した。よそはよそ、うちはうちである。

 しかし野垂れ死にするとまで弱音吐きまくりの相手を目の前にして、どうも九郎も困ったようである。

 居候に居候を申し込むなど──と、案が浮かんだ。


「夕鶴よ。お主、家事は人並み以上にできるか?」

「家の仕事でありますか? それはもう昔から励んで六人家族の実家を一人で回せるぐらいであります!」

 

 彼女の家は亡き父以外に、母親と妹が三人、弟が一人の貧乏ながら家族が多かったのである。

 胸を叩いてふふんと誇るように云う。


「なにせこの図体でありますからな。鈍々(のろのろ)と仕事をしていたら薄鈍唐変木の役立たずと思われるし嫁の貰い手が無いであります。故に掃除洗濯飯炊きに子守、なんだって出来るようになったであります!」


 自己アピールの場とばかりに主張してから、ぎくりと何かに気付いたように彼女は腰を引かせた。


「ひょっとして夜伽とかも求められてるでありますか!? ええい背に腹は代えられぬ、これもお家の為でありますのんた♪」


 ちょっと可愛らしく云ったつもりだろう。九郎がしらけきった顔をしたが。

 タマがキレ顔で彼女の前に進み出た。適当極まりないお色気路線に物申す精神がマグマのように沸き立っているようだ。

 しかしすぐに、


「あっこの少年可愛いでありますな! 九郎君の弟であります? 丁度いい抱き心地であります! 可愛いであります!」


 目の前に、と云ってもタマの頭は夕鶴の胸元なのでさっぱりタマの理不尽な憤りに気づかなかった彼女は、当然のように彼を抱きしめてぐりぐりと頭の上を顎で撫でて猫をあやすように扱った。

 タマの顔面は薄めだがしっかりと柔らかさはある胸に押し付けられてぎゅっとされた。


「ああ、其奴はタマと云って己れの弟分だが……あまり甘やかすなよ」

「ええー、でもいいでありますなあ弟は。よしよし、はい」


 そしてやや撫で回されてから彼は夕鶴から離れるとやけにスッキリした顔で、


「うん。これはこれでいいんじゃないかなってボク思う」

「駄目な男の典型なの」


 お房にばっさりと言われたが、彼は満足気であった。多少の属性の苛立ちなど女体の柔らかさにかかればどうということはない。  

 ともあれそんなタマを無視して、九郎は要件を告げる。


「ここの石燕が新しく屋敷を建てたのだが、家事手伝いが居なくてのう。己れのところで居候は養えんが、こやつの家でおさんどんをするなら住まわしてくれる……よな? 石燕」

「ふむ。確かに誰か雇わねばならないならば行きがかり上構わないが……」


 目の前のヘタれている大女が、嘘をついたり騙したりしている程器用には見えないのもあった。

 石燕が了承する様子なので、やはり夕鶴は大げさに石燕の手を取って頭を下げた。


「本当でありますか!? 一生懸命働くのでお願いするであります僻遠さん!」

「う、うん。いいんだけど私の名前は石燕だからね」

「まあ、まずは試用期間で様子見からだな。引っ越しの準備をするか」


 九郎がひとまず話が纏まったとばかりに、茶を飲み干して重い腰を上げるのであった。

 




 *******





「うわあ大きいであります! まるで家老殿のお屋敷みたいであります!」


 手分けして荷物を持ち、九郎と夕鶴、石燕は新築された石燕の屋敷のある神楽坂へ向かった。

 さすがに新築しただけあって、以前までの悪霊の神々が宿うロンダルめいた雰囲気は殆ど消え果て、敷地の中にある焼け残った蔵がやや不気味に見えるぐらいである。普請を見に来た石燕がわざわざ蔵に焼け焦げた影のような模様を描きまくったからだったが。

 ともあれ、彼女の屋敷を見ての夕鶴の一言がそれである。

 石燕はこの江戸で一軒家を持っている程度に裕福であるのだが、さすがにこれまで二人ぐらいで暮らしているだけあって敷地の広さはそれほどではない。焼けて新築にしたからと云って突然豪華に見えるわけでもないのだが。


「そんなにお主の屋敷って立派だったのか?」

「いや……萩藩の家老の屋敷がしょぼくれているのではないかね」

 

 貧乏藩の実情を思い浮かべて、なんとも悲しい気分になる。

 上級武士でも夏蜜柑などを作って内職しているぐらいだ。下級武士の生まれな夕鶴からすれば面積以上に巨大に映るだろう。

 余談だが萩藩も今はまだマシな方である。幕末になればガンガン借金が嵩んで藩の収入の二十倍以上に膨れ上がり、武士の禄高を更に半分にカットするという状況に陥ったりもする。 

 背が高いだけあって視界が広く、あれこれと江戸の大きな屋敷を眺めては「ほー」などと声を上げる夕鶴である。

 

「向こうの方に大名屋敷があったでありますな」

「ああ、若狭の小浜藩酒井家の屋敷だね?」

「凄い大きかったであります。殿様が住んでる萩城ぐらいあったであります」

「萩城小さいのう……」


 あくまで彼女の主観である。萩城への風評被害を撒き散らしつつ、荷物を屋敷の中に運んだ。

 石燕の荷物は、元あった家が吹き飛ばされて仮の宿として緑のむじな亭に住んでいただけあって少ない。居候している間に使うために買った布団などはお房にくれてやり、置いてきた。

 夕鶴は石燕の画材や着替えなど生活雑貨を背中に風呂敷で纏めて持ってきている。箪笥などの家具は屋敷に既に作って置いてあるのでしまうだけだ。

 一方で九郎は、


「ふう。さすがに細長いアレが肩に食い込んだのう」


 紐で背中にくくった大きなつづらに現ナマ──小判を入れて運んできたのである。蔵の中にも巧妙に隠されているが、持ちだした石燕の財産の一部だ。

 中には九郎が預けた金も入っているが、重さは二十貫(約75キログラム)を超える。

 ずしりとしたそれを床に下ろして、九郎は一息ついた。

 石燕は同じく床に荷物を広げている夕鶴に指示を出す。


「さて、曲がりなりにも対価を払って家事を任せるのだ。今日は君の働き方を確かめさせて貰おうかね。ひとまず、衣服を畳み直して箪笥に。その後、工事で出た木屑の残りなどが少し残っているようなので一部屋ずつ掃き掃除と乾拭き。集めて焚き物に使うから捨てないように」

「了解であります!」

「出入りの酒屋や米屋が来たら呼ぶから、こっちに来て相手の顔を覚えるように。基本的な食材や蝋燭などは向こうから持ってきてもらうようにしているからね。わからなかったら聞くこと」

「殿様みたいであります! それでは頑張るであります!」


 衣類を持って箪笥のある隣の部屋に向かう夕鶴。 

 九郎は座ったままだったが、石燕はその居間──らしいまだガランとしている部屋の隅に「さて」と向かった。

 妙なくぼみがあるが、そこに彼女が取り出した妙な模様の書かれた蒲鉾板のようなものを差し込むと、かこんと音が鳴って壁が小さく開き、中から酒壺が出てくる。

 隠し収納である。何から隠しているのかは不明だが。


「一杯呑みながら待つとしようか。新築に乾杯!」

「いや、仕事ぶりを見なくて良いのか」


 あっさりと、「働き方を確かめる」と云っておいて早速の放置である。

 だが石燕は荷物から出した夫婦盃にそれぞれ酒を注いで九郎に片方を差し出した。


「いいかね? 後ろから姑のようにあれこれと注意をしていては作業が捗らず、一歩目で躓いたまま無駄に時間が掛かるだろう? ならばひとまず全部やらせて、後から評価すればいいのだよ」

「監督するの面倒だと素直に云えば褒めてやろう」

「監督するの面倒!」

「……」


 堂々と述べて、石燕が頭を寄せるので仕方なく「よしよし」と撫でてやる。

 何か大いに間違っているような気がしないでもないが、それを指摘して誰が得をするのだろうか。むしろ悲しいだけだから、素直に従う九郎である。


「そういえば丁度時代は今頃か、もう少し先か。海の先の米国でジョージ・ワシントンという男が生まれてのう」

「ふむ?」

「そやつが子供の頃、親父の大事にしていた桜の木を斧で切ったのだそうだ。しかしそれを素直に親父に告げて謝ったら許してくれたそうな」

「多分男の子が謝ったときに斧を持っていたからだね! 身の危険!」

「冗談話ではそうも聞くがそれより……特に意味もなく、斧で桜の木が倒れるぐらい執拗に殴りまくり、しかも切れたら『悪いことしたなあ』って突然思い直るのが怖いわ。何がしたいんだワシントン」

「まあ……子供だから意味不明なこともするよ、きっと」


 などと話し合っていると、開け放しの玄関から声が掛かった。


「おーい、九郎くん居るかー?」


 若い男の声である。知り合いの、小山内伯太郎だ。

 二人が玄関に向かうと、敷居の外に彼は立っている。相変わらず実家が花屋で大学は美大に行った青年みたいな雰囲気の優男だ。

 足元に大きな犬が座っていた。前足の根本の筋肉がずしりと頼もしくついていて、顔つきも精悍だ。鼻先も黒々と凛々しく、白黒の毛並みはしっかりと整えられていた。


「お房ちゃんに番犬を連れてくるようにって頼まれてて。今日引取りでいいかな?」

「ああ、助かる。大事にするぞ、石燕が」

「茶か酒なら出せるが、中に入っていくかね?」

「いやあ」


 彼は苦々しい笑みを見せながら手のひらを向けた。


「熟女が居る屋敷とかちょっと生理的に入りたくないから」

「失礼な! 誰が熟女かね! たとえ熟女だとしても熟女という名の少女だ!」

「なっ!? それは少女に失礼だ! 少女に謝って! 早く!!」


 などと睨み合い口論をする伯太郎と石燕。

 石燕自体に思うことがあるわけではなく、単に稚児趣味なので年増の彼女を敬遠しているのだ。


「とにかく。この[明石]ならそこらの盗賊なんて一殺イチコロだよ。大勢で来たら遠吠えを上げるしね。よく躾けられてるからすぐに懐くよ」

「どれ……」


 九郎が近づき、明石の前に手を差し出した。


「お手」


 ぽふ、と手を九郎に差し出す明石。九郎は口元を緩ませて頭を撫でてやった。明石は気持ちよさそうに目を細める。

 石燕も近づいて彼女は立ち見下ろしたまま云う。


「服従の格好!」


 そう高圧的に命令すると、素直に明石は腹を見せてごろりと寝転がった。

 石燕はにっこりと笑い、その腹を撫でる。


「よしよし、ご主人だよー」

「どうやら石燕さんを認めたようだ」

「あ、そうだ。もう一人同居人を教えないと……夕鶴くん! こっちに来たまえ!」


 石燕が屋敷の中に呼びかけると、彼女は部屋から出ようとして──梁に頭をぶつけ、痛そうに押さえながらやってきた。


「ちょっと高さが足りなかったであります……」

「……己れも大人形態になっている時は注意するか」

「とにかく。この子も屋敷で飼うことにした番犬の明石だよ。ほら、顔を覚えさせたまえ」

「わあ、犬でありますか?」

 

 ずお、と腰を曲げるようにして明石を上から見下ろす夕鶴。伯太郎が「でか……」と呆気に取られている。

 ニコニコとした細目のまま、手を振り、明石に呼びかける。


「自分、犬は好きでありますよ~、ほら、お座りであります!」


 明石は欠伸をした。


「もー、お座りと云ったら座るであります! ほら、自分がお手本を見せるであります」


 犬の目の前で夕鶴はお座りの真似をして見せる。

 そして手を伸ばして、


「ほら、お手でありますお手」


 しかし何も反応が無かった。

 夕鶴は眉を寄せながら、


「お手の時はこうやって手を出すであります」


 そうして見本を見せるつもりで手を置く仕草をするのだが……。

 夕鶴の出した手を、明石が受け止めた。

 つまり、夕鶴がお座りをしてお手をした形になっている。


「……完全に下に見られている」


 顔を覆いながら伯太郎が哀れんで告げた。

 立ち上がって夕鶴は叫ぶ。


「なんででありますか!? 初対面でありますよね! どうして犬に見下されなければならないであります! 抗議するであります!」

「うん……徐々に慣らして……頑張ってね!」

「あっ! 責任者が逃げたであります! 育て方が悪いから駄犬になるのであります! 痛いであります!? どうしてこの犬は自分の足に体当たりを繰り返しているでありますかうああ!? 縦回転したでありますっ!?」


 犬と喧嘩──というかおちょくられている夕鶴を見て、九郎は呟いた。


「前途多難だな」

「君が紹介したおさんどんだからね、彼女」


 じろりと他人事のように云う彼を睨む石燕であった。





 *******





 ひとまずそれから家事を一通り終わらせて、夕方になり夕鶴に食事を作らせることにした。

 昼飯を食べずに酒を呑み交わしていたので、いい加減空きっ腹になっていた二人は待ちながら確認していた。


「それで家事はどうであった?」

「まあ、減点は殆どないかな。云うだけあってそつなくこなすし、気の利く方だと思うよ」

「そりゃ良かった」


 九郎は手元の盃を呑み干して、熱い息を吐きながら云う。


「なに、心配はいらぬよ。もはや逃げることもできぬ程困っている者はそうそう裏切らぬからな。使命感の無い日雇いよりずっと責任感がある」

「何だね九郎くん、そのヤクザが強制労働させるときの人事みたいな評価は」

「気のせいだ……っと、飯ができたようだ」


 足音が聞こえ、襖が開くと自分の分も用意している夕鶴が、夕食を持ってきた。


「出来たであります!」

「どれ……」

「……」


 二人は差し出された膳を見て言葉を失った。

 出された食事は山盛りの丼飯一つである。

 焼き魚の一つも漬物の一皿も豆腐の一丁も無かった。

 ぴんと米が立ち、綺麗に炊き上がっていい匂いを湯気とともに上げている白米。

 それだけ。


「早速頂きますであります! むぐむぐ! 美味いであります! 白いおまんまばかり食えるとは江戸に来てよかったであります!」

「あの……夕鶴や、他のおかずは?」

「? 白米におかずが必要でありますか? いや、むしろ白米におかずを足すなんて豪華なことをしているのでありますか!?」

「しまった……献立ぐらい指定すればよかったね……!」


 石燕が溜め息と同時に頭を押さえて呻いた。

 普段江戸で、九郎と共に様々な飯を食い歩いたり時には自作したりしている飽食の彼女だ。


「萩では白米はご馳走でありますから、食べるときはおかずを買う余裕なんて無いであります」

 

 そんな夕鶴の食生活を考慮していなかった。

 酒の締めとも云える食事が白米のみ。

 これはキツイ。

 しかし他に食材があっただろうか。味噌問屋は来たので、せめて味噌雑炊にでもしようかと石燕が思った時である。


「あ、そうだ! 良い物を持っているであります!」


 思い出したように夕鶴は、数少ない自分の持ち物を探って袋を取り出した。

 自分の丼の上へと、二人に見せつけるようにして袋の中身を零す。

 黒くて小さい、いびつな塊が丼飯の上に撒かれる。

 夕鶴はそれを飯に混ぜ込み、その蒸気で蒸らすと再度二人に見せた。

 飯には細かく刻まれたわかめが混じっている。


「萩では塩辛く煮たわかめを乾燥させて、飯に振りかけて食べるであります! 旅の友として持ってきたでありますから、どうぞであります」

「ほう……それでは頂こうか」


 石燕も習ってわかめを混ぜ込み、飯を食う。

 意外に強い塩気と磯の香りが温かい白飯に良く合う。素朴だが塩味が染みわたるようで美味い。

 中々イケる。酒の友としては微妙だが、飯に振りかけるだけでわかめの旨味が全体の味をよく引き出していた。

 九郎もそれを味わったが、じっと真剣な顔で夕鶴の持つ袋を見ていた。


「な、なんでありますか?」


 彼は頷き、こう応えた。


「良いシノギの匂いがするのう」

「しのぎ?」





 ******





 翌日から、九郎に連れられて夕鶴と、手伝いで呼んだ子興は市場で安値だったわかめを買い漁った。

 それを茹でて刻み、そして塩と味醂で濃い味付けに煮込み、術符で乾燥させて更に細かく砕いた。

 更に磯の香りだけではなく、乾燥させた紫蘇を混ぜることでさっぱりした味わいを足し、食感を良くする胡麻を添加。

 味を整えて、わかめと紫蘇と胡麻のふりかけの完成である。


 そう、この時代、江戸では少なくとも[ふりかけ]という飯の友は流行っていなかったのである。

 日本でも有数の米消費地であり、おかずも無く飯をかっ食らうという人も少なくないというのにだ。

 九郎も暮らしていて殆ど見かけなかった。かつお節を飯の上に載せる、ぐらいはともかく、こうしたふりかけは売っていない。案外にふりかけの歴史は浅く、明治時代にカルシウム不足を補う為に小魚のふりかけを売りだしたのが始まりとされている。

 そこで夕鶴が持ち込んだわかめふりかけに目を付けて、それを改良・商品化して売り出すことにしたのである。


「[萩のわかめしそ]であります! ふりかけるだけで胃袋に飯が一合もう一合とすっ飛ぶ旨さであります!」


 こうして、九郎が作らせたしそわかめは、石燕の屋敷の仕事で余った時間に夕鶴が売り歩くことにしたのである。なおネーミングはフィクションであり実在の商品とは一切関係がない。

 なにせ手軽に食えて塩っ辛いという江戸っ子好みのインスタント食品だ。緑のむじな亭で提供して口コミを広げることも行う。ヒットを十分に狙える商品であった。

 

「中々の売れ行きであります!」

「そうかえ、良かったのう」

「はっ! 自分は頑張って、江戸で一番のふりかけ商人になってみせるであります!!」


 ぐっと拳を握って未来に燃える夕鶴である。

 しかし目新しい商品を売り出すにあたりこれからも様々な困難や苦境が訪れるであろう。

 それを乗り越えたときに、江戸に残る食文化を築いた者として讃えられるのだ。


「頑張れよ、夕鶴」

「えいえいおーであります!!」


 気合の声を上げて、ふんすと鼻息も荒い彼女は────




「……違うでありますぅぅ!? 自分は仇討ちに江戸に来たのであって萩の特産を広めに来たのではないのでありますぅぅ!!」



 

 素に戻って、目的を思い出し嘆くのであった……。


 こうして、江戸に変な知り合いが一人増えることとなった。




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