94話『とある薩摩の禁止演目』
薩忠臣蔵──チュウシングラ・キルズ──
阿久根長矩は我慢の限界であった。
無骨で城務めの経験も薄い長矩は、殿中作法を教授願った串良義央から出鱈目のことを教えられあわや恥を掻く寸前であったのだ。
いや、それを仕掛けられたと云うこと自体が恥辱として、溶岩を蓄えた桜島のようにカッカと頭に血が上っている。
こうなるといかに我慢強い薩摩武士でもどうにもならぬ。
そもそもが義央が気に食わない。
『城になんぞ上がるようになりやがって、家じゃあ芋の尻尾を一家で食ってる、畜生腹の不細工な嫁と乞食みてえな餓鬼を養っている身分の癖に……』
と、蔑んだ目でこちらを────
「見た気が、したッッッ!!」
長矩が殿中で抜刀術を仕掛けたのである。
彼の習う示現流の中でも特殊な軌道を描くのが抜刀してそのまま抜き打ちにする技である。
まず、両の足をぴたりと並べて背筋を真っ直ぐに伸ばし刀の柄に手を当てる。
相手を正面から見据えこの時の間合いを三間半(約6.4メートル)とする。これは相手が合戦に使う歩兵槍の攻撃距離を意識したものである。すなわち、彼の流派の抜刀術とは平素の帯刀同士ではなく戦場で武装した相手に使う技術なのだ。
三間半の間合いから踵を上げて、くるぶしに地面を練り込むような力を蓄えて三歩の動きで到達するのを基本とする。
「きぃぃええええええ────ッッ!!」
雷鳴めいた猿叫が響いて刀の鯉口をやや下に向けて、相手の股下から上方向に斬撃を行う。
これも、鎧によって防ぎきれない股から断ち切るためである。
足の動きと合わせて腰の捻りを使い、義央相手に切り込んだ──!
この時に二つ、長矩の失敗が発生していた。
一つは真下から切り上げる刀の軌道は[弧]を描いていたのである。
一周すれば円になる刀の軌道。それは反りを持った刃ならば威力を十二分に発揮させるための基本的な動きである。
しかし今まさに長矩が腰に帯びていたのは殿中用の反りの無い小刀であったのだ。
こうなれば間合いの狭さを補い、短さゆえの頑丈を活かす為に刀は[弧]ではなく[線]の動きで相手に押し付けなければならない。
叩きつける当て方でも彼の膂力ならば骨肉など薄紙同様に切断していただろう。
もう一つは義央も同じ示現流の達人であったので、ひと目で長矩の狙いが読めていた。
受け止めることや後ろに逃げることを選ばずに、全力で初太刀を外させることだけを狙ったのである。
二つの要素があり、義央は寸でのところで避けたのである。
「さかしかッッッ!!」
薩摩者の突撃に、後ろに下がったり半端に刃を逸らすように避けてはならない。
その後の強烈な体当たりにはいかな巨漢であろうとも体勢を崩され、続きの太刀で頭を割られるからだ。
義央は回転するように一瞬にして長矩の側面──突撃の勢いから見れば、彼の左背後に回り込んだのである。
器用な足さばきだが、もとより示現流は開祖の東郷重位からして賞賛されたのは力と気迫より、技と早さなのである。
「ちぇぇぇぇいッ!!」
「ちぇぇェェッ!!」
叫び声が重なり、義央の腰投げが見事に決まって床に長矩を叩きつけた。
石臼を叩き壊したような激しい音と同時に床が砕け散る。
周りの者が慌てて近づき長矩に畳を複数枚被せて上に伸し掛かり動きを止めさせにかかった。
「こん唐芋をウッ潰せッ!!」
「殿中じゃッ!! 血を出させるなッッ!!」
「おのれええええッッ!! 串良義央ァァァ!! わァも抜いて戦い申せェェェ!!」
「せからしかッ!!」
「儀を云うなッッ!!」
こうして殿中にて、あわや刃傷事件となりかけた阿久根長矩は取り押さえられるのであった。
彼が城の庭先にある切腹場に連れて行かれたのはその当日のことであったが、裁決は切腹ではなかった。
「死罪ッッ!」
どか、と音を立てて首を刎ねられ、またその一族も連座の罪を受けて尽く遠島を命じられるのであった。
それに怒ったのが長矩の部下であった武士──いや、今や浪人となった四十七名だ。
「阿久根ンとんさぁは殿中にて辱めを受けただけでなく、刀も合わせられんと取り押さえられ二重に恥を掻いたッッ!」
「ひッかぶィの汚名をば晴らさせんと吾いらの沽券に関わっど!」
「串良義央を斬ィ捨てに行くがよ!」
そうして熱り立つ阿久根浪人四十七名。AKN47とか云うユニット名で後世に偶像化される義士達である。
さて、この物語の元になった赤穂義士は3月14日に浅野長矩が切腹処分を受けて、義士が念入りに人を集め軍略を練り準備を行って吉良義央の屋敷に切り込んだのが12月14日である。
「だが薩摩もんは違うッッ!!」
「いつ向かうんじゃッッ!」
「今これからじゃッどがッ!!」
「チェエエエエエイ!!」
一同は刀を引っさげて早速串良義央の屋敷に駆け出すのであった……。
そうして一旦、幕が降りる──。
*****
幕間の宣伝時間に松本幸四郎が膏薬の解説をしているので九郎は隣に居る鹿屋黒右衛門に顔を向けて感情の消えた目で告げた。
「これは酷い」
「とんでもない! 大好評ですよこの[薩忠臣蔵]!」
「色々商売の手を伸ばしておるがとうとう完全に一劇演じれる芝居まで出来るとはのう……」
感心したような、呆れたような九郎の声音である。
これは赤穂浪士襲撃事件を下地に薩摩ライズした演目なのだ。
言わずと知れた忠臣蔵は町民、武士問わずに大人気の芝居であるが、実名そのままを使ってはいけないと云うことで、このように名前を変えたり、舞台そのものを鎌倉幕府の頃に起こった事件に変更したりして長々と──それこそ現代まで、何度も講演されている。
架空の阿久根藩に串良藩と、薩摩人ならばなんとも市町村集落の戦いのように感じるおかしさがある。おまけに双方とも示現流の使い手で、激しい闘いが目玉なのだ。
「何せ赤穂浪士は薩摩でも人気でしてな、しかし薩摩武士が一つだけ鼻で笑うところが修正されていますので」
「というと?」
「薩摩武士なら主君が辱めを受けて切腹させられたら、即座に切り込みに行く、という点です。その辺りを[霹靂斉]殿はしっかりと分かっておられる!」
「は、ははは……」
九郎の隣に座った眼鏡の少年──千駄ヶ谷の雨次、作家名を[霹靂斉]は苦笑いで応えた。
近頃は天爵堂に代わってあれこれと物語本を書くようになった雨次は、九郎からの推薦でこの度は芝居の脚本を手掛けたのである。
何分脚本は初めてのことであったので、九郎から知恵や薩摩人の知識を借りたりし、出来上がった文章を版元の者に手直しを頼んでどうにか完成させたそれは、にわか役者となった薩摩人達にも好評のようだ。
眼鏡を押さえながら若い作家は云う。
「うちの爺さんから、すぐに赤穂浪士が切り込みに行かなかったのを王学者と薩摩人が馬鹿にした、と聞いたから……」
「王学?」
「九郎さんは知らないのか? 王陽明の学問だけれど」
「陽明学のことか……いや、正直名前ぐらいしかのう……あんまり興味無いし」
年下の雨次でも知っているような学問だろうが、九郎にとっては馴染みが無かった。
「色々細かい解説は省くけど、理論は実践あるのみというか、目的が決まっているなら行動するのが最善というか……敵討ちをする必要があるのなら、それを失敗するとか人に認められないとか邪念を持たずに即時決行するべきとか、ちょっと過激な感じで」
「革命に使われそうな学問だのう」
「かくめい?」
「一揆のことだよ」
「うわあ確かに」
雨次が顔を歪ませる。
実際に、陽明学は使い手によって危険な暴走を招くので、幕府では徳川政権に好都合な儒学や朱子学を取り上げている。
積極的弾圧、と云うほどでも無いがつまり陽明学をやっていても就職できないので町学者にしかなれないのである。
そんなこんなだから幕末に流行ったりしたのだが。
「ちぇーい!」
「ちぇちぇぇぇぇい!」
芝居が再開された。ここからゆっくり四半刻は奇声八割なセリフ構成で進行する。
「ちぇぇぇぇっすオオオオ!!」
「ちぇりゃああああっ!!」
「死罪ッッ!」
両国広小路で簡易的に作られた小屋と云うか、周囲を幕で覆った芝居場だが隣町まで響く地獄めいた薩摩声が外からも聞こえているだろう。
「ちぇいちぇいちぇえええい!!」
「きいいいええええ!!」
「義士どん! 差し入れのえのころ飯じゃっど!」
「よか!」
なまじ、状況が見えないから恐ろしがられるだろう。
それにしてもあくまで芝居であるのだが、壇上では入り乱れる薩摩武士達の激しい打ち合いが繰り広げられる。史実とは違い、串良義央側も部下と共に義士相手に一歩も退かずに戦うのだ。
丁寧な殺陣を覚えている役者ではない。荒々しく、乱暴な喧嘩のようだがもとより喧嘩見物は大好きな江戸っ子達は興奮して野次を飛ばしていた。
「しかし赤穂浪士は何故こうも人気なのかのう?」
「と、言いますと?」
九郎の呟きに黒右衛門が問い返した。
記憶にある赤穂浪士事件を思い出して確認するように聞く。
「確か殿中での嫌がらせやらはあったにせよ、刀を抜いてはならぬ場所で斬りかかったのは浅野長矩であっただろう? 処罰を受けるのはある意味当然ではあるのだが、その部下が徒党を汲んで四十何人なんて大人数で怪我した老人宅を夜襲してそれを手柄とするとか……互いに悪いところはあったのだろうが、一方的に赤穂浪士に人気が出るのはどういうわけだ?」
「ああ、そういうことですか」
黒右衛門は合点が云ったとばかりに手を打ち合わせた。
彼は指を立てて解説を入れる。
「確かに、老人一人に武士の集団が襲い掛かるというのはそれだけを見ると微妙に思えるかもしれませんな」
「うむ」
「しかしそれは本題ではないのですよ。民衆ならず外様の武家まで喝采を浴びせるのは、赤穂浪士が『徳川の下した裁定を不服として実力行使に出た』『義と云うものは将軍の命令よりも優先されるものである』と云うことなんですな」
「つまり……徳川の面目丸潰れ、ざまあみろってことなのか」
「左様。それで徳川も、そうは見られたくないから赤穂浪士達に温情を与えた……ということでして」
そういう武士の都合を考えなくとも、町人にも人気だったのはやはりもはや戦争を知らぬ人しか居ない江戸の町で、武士と武士の大立ち回りが起こったという刺激が魅力的なのだろう。
「ちぇぇぇりおおお!」
「わああああきゃあああ!!」
凄い薩摩人達の渾身を込めた叫びが響き渡っているわけだが、九郎達は耳を押さえながら、
「本当に大丈夫だろうかのう。近所迷惑がすぎるのでは」
「祭りの会場か何かみたいな怒号ですなあ」
「脚本の手直しをさせられたとき、叫び場面が何倍か増えたからなあ」
などと三人は言い合うのであった。
そうしてやがて熱狂のうちに薩忠臣蔵は終わりを迎える。
阿久根浪士達が次々に死罪を受ける。しかし次の残った阿久根浪士の討ち入り先は幕府だ! 次回を待て……みたいな終わり方であった。
客入りは上の上。鹿屋黒右衛門もほっこりとして満足気であった。
まあ、その翌日に奉行所から騒乱とご禁制演目(残虐・反体制表現)で叱りを受けて手鎖をして三十日の謹慎処分を受ける黒右衛門であったが。
******
自分の手がけた芝居が取り締まられた上に、それを公演してくれたスポンサーとも云える主人が罰則を受けたことは雨次にとってショックだったようだ。
気落ちしたように天爵堂の屋敷で本を読む雨次の様子を見に九郎は千駄ヶ谷までやって来た。
天爵堂は偏屈だが老人仲間として、九郎は時折将棋や碁を差しに来るので勝手知ったるとばかりに上がり込み、雨次の部屋に入る。
部屋の隅、窓の明かりが届かぬ薄暗い場所で雨次は寝転がって[好色一代男]などを読んでいた。
「ふ、ふふふ。やっぱり世間受けする作品を書かないと……女の子とかたくさん出てきて凄い力を持つ主人公が本気を出せば大関格だけど普段はやる気が無いので十両格……」
「作風をねじ曲げようとするまでこじらせなくてよかろう……」
呆れた九郎が声を掛けて雨次の背中を揺する。
彼は自虐的な様子で、
「いいんだ。やっぱり売れないと、認められないと文章なんて価値が無い。政権に睨まれない俗悪な物語で作家になろうとしよう……」
「……薩忠臣蔵もある意味俗悪だった気がせんでもないが」
他にも雨次の書くものは色々と異色なのだが、本人が書きたいと思って書いたのだから気分的に違うのだろう。
「しかし仇討ちは売れ筋のジャンルなのだがのう。やはり薩摩成分がいけなかったか」
江戸での出版業界で売れるジャンルといえば幾つかある。
ひとつはエロ関係。吉原の流行している服装や香、贈り物などに遊女の格付けやプロフィールなどを掲載した風俗情報誌である。
他には災害関係。噴火や台風、洪水に大火事などに合わせて「これも老中などの政治家が悪いせいだ即時解散すべき」などと書いて出す。うっかり天災の時期に幕府の重職に居たものはまさに不幸なのだ。
そして仇討ちなど。痛快な決闘が人気で、史実の仇討ちにオリジナル主人公を投入して物語にする作品まで出てきていたぐらいであった。
「ふうむ、ほら雨次も難しく考えんで娯楽な方向に行こう。ヤクザな主人公が風俗通いで山盛りの飯を邪道喰いして借金をこしらえつつ───」
「雨次に変な物を書かせようとしないでください、九郎先生」
「うおっ」
急に背中から声を掛けられて九郎はびくりと身を震わせた。
背後を見やると、腰に手を当てて雨次を見下ろしている地主の娘──小唄がいつの間にか部屋に居た。
「驚いたであろう、隠密で気配を消して近寄るでない」
九郎も背後に回られていて気付かなかったのだから大したものである。
それは同時にちょっとアレなストーカーとしての才能がばっちりだということだが。
小唄はこの前に監視していた事件を起こして捕まりかけ、父親に叱られたのを思い出して赤面し否定した。
「べっ別に忍びなんかじゃないんですからね、私は。ちょっと雨次が心配だったから抜き足差し足で来ただけで!」
「恋は忍ぶものなんて誰が云ったのかのう……」
「忍ぶれど 色にいでにけり わが恋は 物や思ふと 人のとふまで……でしたね、平兼盛の」
「したり顔で唱えても。いや、歌の詠みは上手いが、名前だけあって」
渋面を見せる九郎であるが、小唄は得意顔であった。
「何せ忍びの技術は代々口伝で歌にして教えて───はっ!? 誘導尋問!?」
「お主どんどんボロが出るのう……ほら、優等生優等生」
「こ、こほん。雨次! ほら、そんなに落ち込むな」
小唄は雨次を引っ張って起こし座らせて、よれた襟元を直させる。
雨次は生まれつきの緩い癖毛と虚ろな表情が相まって、反応も薄くやたらと寝起きに見えた。
「ほら、顔に畳の痕が付いているぞ。ふふっだらしないな」
「いいんだ……僕みたいなのは畳で腐って死んでいくから……」
「また卑屈になって……雨次、いいか?」
小唄は咳払いをして、雨次の頭を両手で掴んで正面から目を合わせながら云う。
「お前の書いた物語が売れなかろうが、相手にされなかろうが気にするな! 私はちゃんと良さがわかっているぞ」
「……でも僕はこれで生活をしていたいんだ……」
「大丈夫だ、いざとなれば私が色々と足りない分を工面してやる。い、一読者として当然のことだからな! だからお前はお前の書きたいように───」
後ろで聞いている九郎の顔が露骨に引きつっていく。
まだ若く未来ある若者が甘美な泥沼に嵌ってしまうのではないだろうか。そんな危機感を感じた。
そんな時である。どたばたと足音を立てて誰かが部屋に近寄ってきた。
いや、この屋敷に寄り付く中で、そのような騒がしい人間は一人しか居ない。
「雨次ーどうしたんだー? 元気ないぞー!」
彼女は部屋に入るなり、毎日が盆と正月のような笑顔で雨次に話しかけてきた。
眼鏡を正して雨次がそこはかとなく体勢を整える。
「……お遊か」
「とー」
返事代わりにお遊が雨次に頭から飛び込むように跳ねて突っ込む。
それを慣れた動きで彼は何とか受け止めた。座ったまま前から掛かる少女の体重を受けたが、日頃鍛えている成果が出たか三回に一度は何とかこらえる事ができるようになり、今日はその一度のようであった。
しかし、
「ぬあー!」
お遊の飛び込むコマンドの余波を受けて、雨次と正面から向き合っていた小唄が跳ね飛ばされた。
床に転げてだらしなく足が広がり、利悟か伯太郎が見たら「よっしゃ!」と拳を握るような白い太腿が見えたが、九郎はそれよりも深刻なアレを見なかったことにした。
(ふんどしを付けていたような……そして雨次は定期的にふんどしが消えたり出てくるとか云ってたような……)
気のせいだと心の中で念じる。幸い雨次は気づいていない。誰も不幸にならない世界でいいじゃないか。
記憶から消去していると、小唄の非難の声が上がった。
「こら! お遊ちゃん、いきなり飛び込んだら危ないだろう! っていうか今私を露骨に空中で蹴り飛ばさなかった!?」
「……あたしはそんなつもり無かったんだけど、もしネズちゃんに当たってたならごめん……」
「小唄……そんなに強い調子で叱らなくても……お遊も悪気は無かったんだから……」
「あれえ!? 私が悪者になってないか!? 空中で足の屈伸を活かしたいい感じのを貰った気がしたけど偶然なら仕方ないのか……?」
「はぁ……」
微妙な子供同士の確執が生まれそうなので、九郎が歩み寄ってしゃがみ、お遊の頭に軽く拳骨を落とした。
「あいたー!」
「友達を蹴るでない。そして悪い方向に持って行こうとするな」
「……しゅーん」
お遊の上がりかけた卑劣な闇度を下げる九郎に、今度は小唄が慌てる。
「私そんな、九郎先生に怒ってもらう程じゃなくて……」
「お主はちゃんと避けろ。受け身も取らずに忍びだと云うのにだらしない」
「ううう……忍者違う違う忍者……」
そして雨次の肩にも手を置いて、
「雨次はもっと公正に原因を見ること。小唄が怒ったのも、蹴られたのではなくお遊が飛びつくのが危ないからだ。お主にもお遊にも近くに居るものにも」
「……確かに。お遊、せめてやるときは、周りに人が居なくて僕が立ってる時にしてくれ」
危うげな三人の子供たちにそれぞれ言い聞かせる九郎であった。
お遊はこくりと頷いてやはり笑みを見せ立ち上がる。
「わかったーじゃあやり直しねっ」
お遊は雨次から離れて、部屋の外へとことこと出て行った。
そして何事も無かったかのように再び戻ってきて、正座したままの雨次の膝の上から、対面になるように座る。
「よしっ問題ないわね!」
「待て待てお遊ちゃん普通に対面座位になるのはどうかと思うぞ!」
「たいめんざい?」
きょとんと、蒲鉾って魚で出来てるの?と無知な子供が聞くように首を傾げるお遊である。
ため息混じりに、半眼で雨次が呻いた。
「小唄……お遊に助平用語を教えようとしないでくれるか、こいつは純なんだから」
「私が悪いのか!? ああもう、そうだよどうせ父親が助平大入道だからその娘の私も変な知識ばかり持つさ! お遊ちゃんの蒲魚ぉぉ!」
「泣かせるなよ雨次」
「わからない……どういうことなんだ……」
戸惑う雨次であったが、膝の上に座って自分を見上げてくるお遊のくるりとした目と視線が合うと、彼女がやおら口を開いた。
「雨次、お芝居の仕事駄目だったんだって?」
「どこで聞いてくるんだろうな、皆」
「ネズちゃんのお父さんが言い触らしてたよ」
情報源を聞いた途端小唄の目が吊り上がった。
全身からどす黒い気配を滲み出してどこからか取り出した朱色でしゃれこうべの模様が描かれた小瓶を取り出していた。
「あの阿呆父……ふんどしに辛子を塗ってやる……」
「ま、まあ事実なんだからそんなに気にするなよ小唄」
「そうそう。雨次が下手したのが悪いんだー」
お遊からきっぱり云われて、落胆はするものの先程までの落ち込みは無い様子で軽く息を吐く雨次である。
(薩摩人の熱演も取り締まりの原因というか……そもそもスポンサーの黒右衛門が薩摩系で書いてくれって頼んだのもあるのだがなあ)
そこまで落ち込むようなことではない、と思っているが本人の気持ち次第だろう。
お遊の言葉は続く。
「だけど、最初から何でも上手く行く人なんて居ないんだ。だから雨次も、いっぱい失敗して、でもそのうち絶対上手になるから気にするなよー」
「……そうかな? そう、だな。うん、そうありたいと思うよ」
「誰かみたいに下手なままでもいいとは云わないから、頑張ることっ」
当て擦られたような小唄は慌てて取繕う。
「違っ私そんなつもりじゃ……」
「なんかお主その台詞似合うのう……」
「余計なお世話です!」
負け組めいたというか。お節介の行き過ぎというか。そんな既視感すら感じる小唄に僅かながら同情する九郎であった。
幼馴染二人に、それぞれ方向性こそ違うものの慰められた雨次はどうやら落ち込んだ気配も消えたようだ。
そして、再び部屋に入ってくる者が二人居た。
居候の少女茨に連れられて、単衣をまとった気怠げな老人天爵堂がのそりと姿を現した。
九郎や雨次もよく眠たそうだと人に言われる目つきだが、天爵堂の目つきはその眠たげな眼差しが「起こされて機嫌が悪そう」に見えるような顔つきを相変わらずしている。
しかし彼は平常通りの声音で部屋の様子を察して、
「おや。脚本が取り締まりを受けて落ち込んでいたと茨から教えられて連れて来られたのだが、もう平気なようだね」
しわがれた声で、面倒そうに云う。
一応は居候の、年の離れた息子みたいな雨次を消極的に気遣いに来たようであった。
そのままひょいと立ち去ろうとしたようだが、茨から袖を掴まれてその剛力に足を止める。
「……」
「やれやれ」
彼女の腕力で掴まれては岩に服が挟まったように動かなかった。茨は特異な体質で、晃之介や甚八丸には及ばないが、普通の男以上に力がある。
仕方なさそうにして天爵堂は雨次の前に座り、手で追い払うような仕草をしてお遊と小唄を退かせた。
一応は読み書きや歴史、儒学などの教師である天爵堂の指示に従う二人。
そして白髪頭を掻きながら雨次に告げる。
「書き物が規制されたようだね」
「うん」
「よくやった」
「えええ」
まさかの褒め言葉に雨次は呻いた。
天爵堂は目を細めながら、
「物書きはね、規制されてなんぼのものだよ。僕だって何冊も版木ごと燃やされているんだ。登竜門さ」
「そういうものかなあ」
「大体だね、政権が出版物を規制すると云う風潮が気に食わない」
「うわ、天爵堂の政治批判が始まる」
九郎が嫌そうな顔をしたのをちらりと老人は目線を向けて、咳払いをした。
「ともあれ、後世から見たときに歴史の中で、文化が豊かな時代に於ける出版物の目安がなんだか分かるかい?」
「ええと……たくさん色んな種類が出ている、とか?」
雨次の答えに顔を顰める。望んだ答えではないようだ。
「その時の政治を批判している本や瓦版がどれだけ残っているか、だよ」
天爵堂の考えに雨次は目を丸くした。
「爺さん、それ悪いんじゃないのか? 悪口の記録が残っているって」
「とんでもない。いいかい? どれだけ政治が優れていようが、万人が万人すべて満足する社会なんてあり得ない。必ず少数の不満を持つ者が居るんだ。その意見を黙殺する社会は、大多数が幸福だろうが文化としては下だ」
「……」
「逆にいかに民衆から酷く罵られて批判文が出回ろうが、それを規制しない政治家は後世で評価されるものだよ。人気を取るよりやるべきことを優先し、批判の矛先を自分で受けて弾圧はしなかったんだ。どこかの誰かみたいに、一般民衆にまで貧しさを強制したりはしないはずさ」
皮肉げに天爵堂はそう告げた。
これより数十年後になる田沼意次の時代だと、多色刷りの風刺画などで散々批判を浴びる状態だったが、文化としては隆盛を誇っていたことを予見するようであった。それ以後に行われる天保、寛政の改革が時代を逆行して文化を衰退させたこともあるが。
「だから程々に、死罪を受けないぐらいには幕府批判をしておいて後は随筆にでも残しておけば後世に評価されるよ」
「後ろ向きなのか前向きなのかわからぬのう、お主」
「どちらでもいいさ。いいかい」
雨次に対して、物書きの先達としてか自分と似た匂いのする、血の繋がらない後継者と見ているのか。
真面目な声音で云う。
「信念がある文を書きなさい。誰に認められなかろうが、自分の正しさを信じて文章を書いている限り、物書きと云うものは不幸ではない」
天爵堂の言葉を噛みしめるように、雨次は頷いた。
深いため息をついて、天爵堂は立ち上がり背中を向けた。
「どうも君を見ていると、あれこれ云いたくなる。僕だって先は長くないんだけれどね。まあ、色々本を書いて残してるから、その時はそっちを参考にしなさい」
そう言い残して、すたすたと彼は自室へ戻っていくのであった。
背中を見送り、九郎は物哀しい気分に包まれる。
あの老人も七十近い高齢で、この時代では長生きしている部類だ。いつお迎えが来てもおかしくはない。
他に家族も居ないので、残されるのは雨次に対して不器用に教えているのだろう。
「枯れ切った新井殿でも子に何か残そうとしているのに九郎殿と来たら……」
「いつの間に入ってきた、そして後ろから急に声を掛けるな将翁」
ぼそぼそと耳元で語りかける、突然出現した狐面の女の脇腹を突く九郎であった。
厭に色っぽい声で倒れる将翁と彼女を足で踏んで押さえつける九郎を見て、子供達は九郎の爛れた人間関係を反面教師に……するのであろうか。
******
それから、手鎖を受けた黒右衛門のところも訪ねて行った。
案外元気そうで、むしろ薩摩人からの株が上がったと喜んでいたので一安心だ。
彼に渡していた雨次の脚本を受け取り、それを再び雨次に手直しをさせて別の芝居座にそれを応募したところ、試しに上演が決まるのであった。
九郎は石燕らと共にそれを見物に出かけたのであるが、
[忠忍蔵]
「いいか? まず二人の美女藩主が俺の事を取り合ってるとするだろ? 『あたいの尋蔵に手を出すんじゃないよ泥棒猫!』『尋蔵はあたしのものだよ!』そして殿中で言い争いが発展して刃傷沙汰になったんだ」
「わかるわかる。その二人が実は淫靡な関係で……って」
「すぐに女の子二人が居る設定だと同性愛にするのやめてくれない!? 俺の妄想なんだぞ!」
「お前こそおれのゆるーい日常系の、女ヶ島妄想ですぐに自分登場させようとするだろ!」
「決め台詞思いついた! 『僕の殿中に入った狼藉者の君を捕まえたよ』」
「『今晩君の藩邸に討ち入りしたいね』」
「あーダメダメ助平すぎ」
こうして忍者装束を着た四十七忍がグダグダと会話劇を繰り広げるという謎の芝居であった。
隣り合って座った九郎は頷いて石燕に云う。
「雨次と天爵堂。云うことは真面目なんだが作る物語はB級というか、馬鹿系だよな……」
「なんなのだろうね、あの論文や辞書を作るときとの作風の違いは……」
少なくとも奉行所の手入れは入らなかったが、残念ながら絵面が酷く地味な不人気により打ち切りになる忠忍蔵であったという……。
「というかあの忍び達、お主の屋敷を工事している連中ではないか。いや、見分けはつかんのだが」
「合間に雇われたみたいだね……」
「工事は進んでおるのか?」
「ふふふ! 屋敷に仕掛けられたどんでん返しで鼻を打ったり、抜け道を通ったらお尻がつっかえたり、隠し戸に酒壺を試しに入れたら引っかかって出てこなくなったり……色々改修させてるよ!」
「生活、大丈夫かお主……」




