93話『九郎、伊勢原旅籠に天狗めいた助言をする話』
六科の長屋に住む評判の女按摩、お雪の実家──と云うより、両親は現在遠江国浜松藩に住んでいる。
かつては江戸で乾物問屋をしていたのだが、大火事にあって店を失い娘のお雪も目が焼けてしまった。
お雪はその後治療をされて両親と遠州に帰るか、或いは火事で世話になった六科夫妻を後見にして、江戸にある盲人の修道施設とも云える検校の元で按摩なり、琵琶なりを学び手に職をつけるかと六科夫妻──というよりお六と話し合って本人の強い希望もあって江戸に残されたのである。
両親は遠州にあった乾物屋の実家に戻って、便りもそこそこに何年も娘と会わない暮らしをしていた。
「まあ、会い難い理由もあるのだろうなあ」
青空に染みて消えるような蒼白の衣を身にまとい、急ぎすぎもしない風の速度で空を進みながら九郎は呟いた。
彼は一人、お雪が口で手紙の内容を伝えて、それをお房が代筆した文を持ってそのお雪の両親に届けに行くところであった。
陸路ならば飛脚に任せて遠州まで往復三日程度だろうが、九郎が空路を行けば何せ疲れないし関所や川も無視できるものだから一日で往復出来る。
お雪と六科の結婚の報告である。
なんだかんだで九郎のフォローもあり、お雪の為を思って彼女を娶ることになった六科なのである。彼の本当の感情は察しにくいが、以前からお雪との関係は家族であるのでそう変わらないから良いか、と割りきったようだ。
もとより、人間らしい感情が乏しい男であり、亡妻のお六との結婚も強引だったので案外これでいいのかもしれない。
「しかし上から眺めていると今一どの辺りが遠州かわからぬな。標識でもついていないものだろうかのう」
若い頃は仕事で車に乗って遠隔地に出かけたものだが、その時は道沿いだったので現在地はすぐに知れた。トランクの中を見ないようにして大阪と東京の間を車乗り換えで移動する仕事とはなんだったのだろうか。気にしてはいけないのだろう。
しかし元現代人の感覚からしても、パッと上から見てここからが駿河、ここからが遠江と判断をつけるのは難しかった。何せ九郎は栃木も知らないような男だ。
だが、
「──っと、浜名湖だったか? あれは。じゃあこの辺かのう」
さすがに海岸線沿いにある、特徴的な形の湖はひと目でわかった。
確か浜名湖の近くに店があると、お雪から聞いていた。
当のお雪も見たことはないので伝聞なのだろう。それ以上の情報は店の名前[ばつや]と云うようだ。九郎は口伝えで聞いたので漢字はわからなかったが。
そうして九郎は一時姿を消して、浜松の城下町へ降り立った。
浜松藩は藩主は譜代の大名がなることが多く、ここで藩主を行った後は幕府の家老や重職につく出世コースなので、家格の高い藩である。
浜名湖と遠州灘で取れる海の幸や茶などは江戸や大阪、京都に産物を送っている。
故に、東海道を旅する人も立ち寄りさすがに城下町は人通りが多く栄えていた。
とりあえず九郎は胸元に入れてある財布を頼りに、近くの茶屋に寄って情報を得ることにした。
財布は石燕の手縫いであり、中に入っている金子も旅遊費として貰った小遣い───
(いや、己れの貯金を石燕に預けているだけで、決して石燕から小遣いを貰っているわけではない。うむ)
言い訳と云うか自己肯定をしながら瞑目し、首を振った。
充分に金は持っているのだが、お房から「誰かが管理しとかないと博打でスるの」と云われて必要なときに必要な分を出される、という形にさせられたのである。
その金の預け先が偶々石燕であり、自分の金を引き出している云わばATMみたいなものであって決して金の無心をしているわけではない。
そう思いつつ葦簀張りをしている茶屋の店先に出された、傘の下にある座席に座った。
「いらっしゃい!」
元気の良い、前垂をした茶汲み娘が声を掛けてくる。
九郎は腰に帯びたアカシック村雨キャリバーンⅢを外して座席に立てかけ、朗らかに頼む。
「茶と、何か軽い食い物をな」
「はいさ!」
大きく頷いて、娘は店に戻っていく。茶釜から柄杓で茶を汲み、まずそれを運んできた。
湯気の立つ茶を何度か吹いて、九郎は啜る。さすがに空を飛んでいたので体が底冷えしている。疫病風装の効果で凍えるほどではないのだが、常にひんやりはしているのである。
「うまい。さすがお茶所か」
程よい苦味が舌にそのまま染みるようで、落ち着く温かみがある。
続けて、出来合いの物だろうが軽い食い物が出てきた。
「浜松名物、鰻飯さ!」
「……軽い?」
「ここらの人も旅の人もぺろりとこれぐらいは食うよ?」
「……まあ、そうか」
旅人ならば腹も減っているし丼飯も食うだろう。例えば江戸の町人だと旅をしなくとも一日四合は飯を食う。多い者は七合ぐらい食うのも珍しくない。それが旅に出てちょっとの食事で満足が出来るものでも無いだろう。
しかし、
(浜松人はおやつ感覚で鰻飯を食うのか)
と、九郎は認識を改めた。江戸でも時々鰻は炉端焼きで売っているが、
(若い頃は鰻など、会社の刺青とか入ったお偉いさんから連れて行かれなければ食わなかったものだ)
『わしのところでは鰻の養殖もしてるけぇ、身元消したい奴居たら連れてきていいぞガハハ』とか云っていた記憶がふと蘇った。きっと冗談だろう。
鰻飯と云っても、現代で云う櫃まぶしのような鰻の蒲焼きを刻んで混ぜた飯ではない。
タレではなく白焼きにした鰻の身を解して、飯に混ぜて上から生醤油をかけまわしたものであった。
九郎は箸で一塊を摘んで、口に放り込む。まず生醤油の匂いがぷんと来て食欲を誘い、硬めの飯と白焼きにしているので香りの良く分かる鰻の身がほろほろと崩れて、旨い。
「醤油に生姜が入っておるな」
「美味しいでしょ」
「うむ」
ちゃりんと、茶汲み娘に銭を渡した。
醤油の掛かった3分の2程をばくばくと喰い、残った丼の飯に茶を掛けて鰻茶漬けにして平らげた。
食い終わり二杯目の茶を飲みながら九郎は茶汲み娘に尋ねる。
「ところで娘よ。ちょいと聞きたいのだが」
「へいさ! 看板娘に何でも聞いてよ!」
「看板娘とか云うにはそろそろ厳しくないかお主の年齢」
「いきなり失礼だなこの子供は!」
茶汲み娘推定年齢二十代後半は急にキレた。
いや、九郎が悪いのではあるが、単純な疑問を口走ってしまったのである。
「ちょっと気にしてるんだから黙っておいてよ! 遊女上がりだから歳食ってるのは仕方ないの!」
「そ、そうか。すまなんだ……」
「しかしあれだね。正直遊女より茶汲み娘の方が儲かるってこれ、世間で広まったら看板娘があっちこっちに筍みたいに増えそう」
「そうなのか?」
九郎は首を傾げた。
確かに、茶屋といえば看板娘という認識も九郎は持っていたが、江戸でも茶屋の店員をしているのは老婆や老人が多く、娘がやっている店は少ない。
本格的に茶屋の看板娘ブームが到来するのは享保よりも少し先なのである。そうなると、江戸の明和年間(1764年~1772年)に出版された[娘評判記]と云う本では吉原の遊女を差し置いて看板娘が一躍取り上げられている程だ。
余談だがそんな本書きそうな──或いは普段から皆と妄想を語り合ってそうな連中がこの江戸には多い気がする。
茶汲み娘の話は続く。
「まあ例えばお兄さん、普通の妓楼となると借金のかたに売られるわけだから給料は出ないでしょ?」
「確かに。タコ部屋みたいなものだな」
「で、阿呆烏(私娼の売人)を仲介して身を売ると六割七割の跳ねは当たり前さ」
「割に合わぬのう」
「そのまま収入が入る夜鷹だって、安けりゃ一晩五十文(千円前後)。その点看板娘になると旅人は財布が緩いから、笑顔を見せるだけで二十文三十文ぐらいちゃりんと渡してくれるわけよ。それが一日に何人も来るわけだから」
「成程、確かに儲かるのう」
「あたしの妹なんかも、親のすすめで辺鄙な旅籠に奉公に行ったけどこっちのほうが儲かるってのにさ」
お房も店では相変わらず、タマが居ても店員をしているのはそういう利点があるのかもしれない。
「──っと話が逸れたのう。聞きたいのは店のことだ。乾物屋をしておる、[ばつや]と云う店を知らぬか? 知人から文を預かってのう」
「[ばつや]? ああ、あそこね」
彼女は一瞬考えて、思い出したようだ。
「老舗だったんだけど宝永の頃にあった大地震で潰れちゃって、十五年ばかり前に江戸から帰ってきた夫婦が立て直したってうちの爺さんから聞いたよ」
「そうかそうか、そこの江戸に残してきた娘が結婚することになってのう」
「そりゃめでたい。あの夫婦はちょっと暗い感じだったからね、喜ばして上げるといいさ。街道筋を向こうの四辻で外れて西の通りを進んでいけば見えてくるよ」
「ありがとよ。おっと、これは年を聞いた詫びも入れてな」
そして九郎は気前よく一朱銀(五千円程度)を渡して座席を立った。
何せ江戸では中々使えない──石燕が奢ってくるので──からか、旅先で財布の細くて縛るものが緩んでいるのであった。
茶汲み看板娘は「あれま」と受け取って目を丸くし、
「これならもうちょっと罵られても良かったのに。そしたら一両ぐらいくれたかも」
などと冗談めかして、歩み去っていく青白い衣を着た九郎の背中を眺めるのであった。
云われた通りに浜松の城下を歩き、半刻程進んでから九郎は渋い顔をして来た道を戻った。
「いかん。行き過ぎた。さっきのあれだ」
行けども[ばつや]の看板は見えなかったのだが、通り過ぎた店のことだと気づいて少し戻り、店を眺める。
[魃屋]と達筆に掘られた看板の掲げられている店である。店の入口は大きな暖簾がかかっていて、外からでは何を売っているかわからないが確かに乾物の匂いがした。
「[ひでりや]と読むのかと思ったがここだろう……」
確か前に、鳥山石燕の絵で[ひでりかみ]として紹介されていた妖怪に使われていた漢字だった覚えがあったのだ。
暖簾をくぐると店の中から、魚の程よく発酵しつつも乾いた匂いや、良く干された椎茸の日光臭などが長年店に融け合っている空気を感じた。
土産に一つ二つ買っていくのもいいか、と思う九郎である。
「はい、いらっしゃいませ」
見回して他に店員はおらずに、店の主人らしい質素な着物に前掛けをした、四十がらみの旦那が出てきた。
店では他に二人ほど雇っているのだが、それぞれ仕入れや卸しに出る為の人足なので店は夫婦が番をしているのだ。
(お雪に似ているとも似ていないとも云えぬのう)
それはお雪が目の火傷痕を隠すために前髪を垂らしているのが印象的だからだろうか。ともあれ九郎は話しだした。
「己れは江戸から来たのだがな、ここはお雪の両親がやっている店かえ?」
「──! はい、わたしがお雪の、父親となります」
はっとしたようになり、彼は九郎をひとまず店の中へ上げた。
畳敷きの間に座り、旦那が「少々お待ちを」と下がって行き暫くすると、痩せた妻を連れたって湯のみを持って現れた。
さすがに妻の方は旦那と同じく四十ほどだが、お雪の面影を感じさせる。
(さっきも茶を飲んだのだが)
と、思いながらも小一時間程歩いたので口を湿らすように飲むと、痩せたどころか小刻みに震えている妻が問いかけてきた。
「そ、それでお雪に何かあったでしょうか。病気とか……」
「もしや、悪党に……憚られるようなことを!?」
「んん?」
顔を真っ青にして不安そうにしている二人に、九郎が首を傾げた。
娘を一人江戸に置いて遠州で暮らす親なのだから、ある程度子離れというか、縁の遠い関係になっているものと思っていたのだが。
(随分と心配をしておるようだな……)
「お雪のやつが借金のかたに吉原へ───」
「うわあああ!」
「今すぐ! 今すぐ身請けのお金を用意しますので!! 店を畳んででも!」
「ごめん」
つい悪趣味な冗談を口走って、謝る九郎であった。
泣きそうな顔になっている両親の、お雪に対する情を確かめる為のことだ。
そんな自己弁護を胸の中でして、九郎は本題に入った。
「嘘だ。いや本当にすまん。ええとな、詳しくはこの文に書いておるだろうが、つまりはお雪が嫁に行くことになったから知らせに来たのだ」
九郎は内容は見ていないが、文を差し出した。
その紙よりも九郎の報告に両親は驚いたようで、口を半開きにして一瞬動きを止めて、慌てて身を乗り出した。
「えっ!? おゆ、お雪が……結婚を!?」
「それは本当ですか!?」
「うむ。今度こそ本当だ。相手は……お主らも知っておるだろうが、やもめ暮らしだった六科の後妻になるが、お雪からすれば初恋の相手らしいのう」
両親はすぐに、お雪の後見人であった無骨な男を思い出したようだ。
この前に六科に問い詰められて自覚された九郎や、六科当人の感覚からすれば「娘同様の相手と結婚するのは……」と思ったりもするのだが。
「安心した……! あの人ならば、お雪を笑顔にしてくれた彼ならば何の心配も……」
「そうだのう。心配はいらぬと思うぞ。少なくとも、お雪を騙したり浮気をしたりする男ではない」
六科以外はほぼお似合いと云うか、お雪の惚れっぷりがどうしようもないぐらいなので認められている関係なのであった。
しかしながら、腑に落ちないことがあって九郎は尋ねてみた。
「……ところで己れは、六科の店で居候をしているだけの他人なのだがな、聞いてみてもよいだろうか」
「何をでございますか?」
「お主らは娘のお雪を……よほど大事に思っておるのだろう? 近所の者に聞いたが、いつも思い悩むような顔をしていたと云うのも、お雪が心配だったからではないか」
「……」
二人は、顔を見合わせて項垂れる。
「ならば何故──お雪と共に暮らそうとはしなかったのだ?」
「それは──」
言葉に詰まったようで、母が息を呑んで口元を押さえた。
父親の方が、代わってぼそぼそと喋り出す。
「──お雪の為、でございます」
「……ほう」
突っ込んで聞いたものかと九郎は少し悩んだが、父親は語りを続けるようであった。
「あの子は元々目の昏い生まれだったからか、子供の頃から心が冷えきったような性格をしておりました。何が楽しくて、何が楽しくないのか。美しいものも醜いものも違いがわからず、言葉で笑わせようとしてもやはり物の見えない、無知な子供相手では常識も違ったのでしょう……」
「いえ、わたしら親がしっかりと、分かってやらねばならなかったのです。子供を産み落とした責任として、この世は楽しいものだと教えてやらねばならなかったのです。しかし、うまくいかないまま月日は流れ、ある時に火事に遭い……」
母親の方は、もはや懺悔するように俯いて、手を固く握りしめている。
「この手で、掴めなかったのです。火の中に残してきてしまって……それで、目を」
「だけれども──」
暗い顔を、下手糞な自嘲に歪めながら父親が云う。
「あの子は、六科さんに助けられて、初めて笑ったのです。それから、あの夫妻と遊ぶときは見たことがないように、楽しそうにしていて……わたし共では、きっとあの子を幸せにできないと……」
「お雪はわたし達と居るときは、申し訳無さそうな顔をして……目の傷を向けられる度に、責められているようで」
「そして、江戸を離れるときにそれまで自分の意見は少なかったお雪が、はっきりと江戸に残ると言い切ったことで……ああ、わたし達は親として何もできなかったのだと……」
「……だから、これまで会いに来なかったのか」
九郎の言葉に、父親が応えた。
「何度か、江戸に足を運んでお雪の様子を見に行ったこともありました。遠くからでしたが、やはり六科さん達と幸せそうにしていて……そこに、とても近づくことなどできませんでした……」
「……」
「だから、娘の結婚を祝いに顔を出すことも……持参金を、どうか代わりに持って行ってくだされ」
「まあ、待て」
九郎は手のひらを二人に向けて、告げる。
どうも結婚の報告に来たのに場の空気が死んでいる。苦々しい思いで頭を掻いた。
(結婚と云うのはもっとこう、皆に祝われて親戚一同幸せにならねばいかんのだが)
そう思いつつ、放置されていたお雪の文を九郎自ら開いて床に広げた。
代筆したお房の書く文字は、自身──子供でもわかるようにやたら読みやすい。
「お主ら親の気持ちはわかったが、一方的に押し付けては昔の心を閉ざしたお雪相手にしていたのと変わらぬぞ。これにはお雪自身がどう思っていたか書いてあるだろう。読むといい」
恐る恐る、といった様子だった。
目の見えない娘からの手紙は初めてで、二人はどんなことが……或いは恨み言かもしれないと目が滑りそうになる。
その具合に、
「悲観的な親だのう」
と、思わず呟く九郎である。
お雪は、六科に関して暴走することもあるが───九郎が見る限り、優しい心の娘なのだ。
その手紙には、時候の挨拶に両親の健康を気遣った文言、結婚の報告。それから───。
以下のようなことが、書かれていた。
『父様がこれまで、何度もわたしを心配して見に来てくれたことは音で気づいていました。ただ、こちらから声を掛ける勇気が無くてすみません。
わたしの傷のことを気に病んで、父様と母様がいつも苦しそうにしていたことだけがずっと気残りでした。一緒に居ると二人が辛いと思って離れることにしたのです。
幼いわたしは言葉や態度にすることができませんでしたけれども、決してわたしは恨んだりも、嫌ったりもしていませんでした。
お雪はこれまで幸せでした。これからも幸せになります。だから一度、どうか会いに来てください。きっと今度こそ、一番の笑顔で迎えます。
母様も、わたしを産んでくれてありがとうございました。きっと幸せになります』
紙を水滴が打つ音がして、幾つもの滲みが文に生まれた。
嗚咽を殺して涙するお雪の父母相手に、九郎は立ち上がって背中を向け、去ろうとする。
そして、声を掛けた。
「大商人や武士の結婚ではないのだ。別にいつだって祝いの宴はあげられる。だから、江戸に来てやれ。お雪は待っておるぞ」
「は……はい……」
涙ぐんで頷く言葉を聞いて、九郎は外へ歩き出して感慨深く呟くのであった。
「親子だものなあ……そりゃあ、仲良くしたいよなあ」
土産に乾物を買おうと思っていたのだが。
思った以上に湿っぽい乾物屋になったので、それは諦めて九郎は店を出るのであった……。
******
「お雪の両親はこれで良いか、さてと」
用事を済ませて再び空へ飛び上がり、江戸を目指す。
「風情はないが便利ではあるのう……ただ石燕は連れていけぬか。あやつ高いところ駄目だから」
空の一人旅。もとより、短時間はともかく長時間他人を疫病風装に触れさせて飛行するのは不便な面も出てくる。
一番は風防の関係だろうか。装着者である九郎自体には衣の自動効果で空気の流れが壁を作るのだが、担いでいるものなどは上空の風をもろに浴びるだろう。病弱な石燕などは恐らく一発で風邪をひく。
「……しかしこの時代だと見られても鳥だ飛行機だと騒がれぬのは良かった」
遠目に空を飛んでいる九郎を発見しても、恐らく天狗を見た程度の騒ぎしか起きまい。
現代と違い写真に撮られることもないので九郎の個人特定もできずに、よくある妖怪話として処理されるだろう。九郎も、この世界に来て二年も立つので開き直るのに慣れてきている。世間ではまだ妖術にまじない、祟りに神仏などが信じられているのだ。
と、九郎が気ままに空を飛んでいる時である。
「む?」
にわかに、空から巨岩が転がるような音が聞こえた。
見上げると近くに分厚い雲が見える。どうやら雷のようだ。九郎は顔をしかめた。
「雨が降り出すのか? 困るのう」
嫌そうにそう呟いた次の瞬間であった。
光った。
「え」とか「べ」とか云う言葉が九郎の口から漏れた。
頭皮を引きちぎる程に髪の毛を引っ張られる感覚。
両目を内側から錐で穴を開けられた激痛。
全身の肉が一気に引きつけを起こしたようだ。
刃を突きれられた痛みは体内から外に、蚯蚓腫れの形を残して痕に残る。
次に音だ。鐘の中に入れられて叩かれた轟音に近いものが、頭蓋を揺らすように聞こえた。
雷に打たれたのだ。
目がチカチカして破裂したように何も見えない。
体が硬直して動かず、制御を失ったまま地上に落ちていく。
自動で風を伴う打撃を回避することが出来る疫病風装だが───空から唐突に降ってくる、質量の小さい雷には反応せずに直撃を食らった。
(雷を切り裂くとか避けるとかそもそも不可能だろうあやつらめ……!)
言葉も出なかった。鼻孔の粘膜が焼け焦げた匂いに具合が悪くなりつつ、江戸に居る超人共への妬みが場違いに浮かんだ。
雷は必殺攻撃なのだ。おかしい。自分が使うと大抵効果は今ひとつなのに。
理不尽に思いつつ九郎は落下中に、走馬灯のように声が聞こえた。
『くーちゃん……くーちゃん……聞こえているかい?』
誰かの声しか、もはや聞こえない。風のうねりも耳には届かない。
『なんか最近日本で、青色で細長い縛るグッズが売れてるらしいんだけどくーちゃん関係あるの?』
クッソどうでもいい情報を最後に、九郎は意識を失った……。
******
相模国、伊勢原にて。
何をやっても人並みな人生を送っていた女が居た。
生きているというより過ごしているという内容が彼女の人生には相応しいだろう。
すなわち、過ぎ去るのをただ待つような生き方である。
女の職業は女将であった。
生家は旅籠だったのだが、微妙に街道から外れているので決して人が混みあうことはない。儲かるときは雀の涙程の貯金ができて、儲からない時期にそれを食い潰す。これから先大繁盛する見通しも立たず、かといって十年二十年先まで続くかどうかも運次第という微妙な旅籠である。
伊勢原は大山詣を行うために訪れる旅人は絶えないが、そんな中で売れていない旅籠だというのだから余程だろう。
別段、特別にこの旅籠が悪いわけではない。
だが他の宿に比べて安いわけでも無ければ飯盛女を雇える金も無かった。板場の料理人だけは京都で修行した下り者とでも云うべき、腕の良い職人が居座っているが正直評判は良くないので腕が良いというのは自称だ。
婿として店を切り盛りすると意気込んでいた旦那は若くして病で亡くなり、旅籠はやはり沈みかけの船めいた雰囲気で、その日も客は訪れてこなかった。まだ大山詣りの季節でもないと云うのも理由だったが。
街道を歩く客を呼び込んで引き入れられるのは街道沿いに並ぶ旅籠ぐらいだ。
道を外れて連れて行けるのはアレな目的の客が泊まる宿ぐらい特典が無ければ無理だろう。
彼女の旅籠では、主である女将と、小さい頃から丁稚働きしている若い女中一人、謎の板前合わせて三人しか居ないのでアレな対応をする暇などないし、不特定多数とアレするなど性格的に無理であった。
寂れた旅籠の女将として、いつ破綻するやも知れない暮らしをして一生朽ちていく。
と云うか、ついこの前に風呂場の修繕と給金の滞りで借金をこさえたばかりだ。この借金も作ったり返したりと繰り返しているが、今度はどうなるか見通しも立たなかった。
どうにかしないといけないとも思うのだが、その方法もわからずに、きっかけも掴めなかった。
───その日までは。
「大変です!」
女中のお菊が、番台で居眠りをしていた女将の耳に響いて彼女は顔を上げた。
「どうしたんだい」
眠たげな声を出すと、年若い女中は雷が鳴り始めたので洗濯物を取り込んでいた裏庭を指差して叫んだ。
「女将さん! 空から男の子が!」
「……なんだって?」
「ノリが悪いなあ、もう! 早く来てくださいよ!」
女将の手を引いてお菊は裏庭へ向かった。
そんなに急いでどうするというのか。空から物体が落下しているのならば間に合う筈もないので茶でも一服して心を落ち着かせてから臨まねば、お昼に食べた若竹煮ぶっかけご飯を戻してしまうのではないだろうか。
理不尽を感じつつも現場に辿り着くが、地面には潰れ死体は落ちていない。
「ほら、あれ!」
お菊が指差すので、目元に手で日陰を作りながら見上げると───。
丁度、2階建てをしている宿の屋根ぐらいの高さから、綿毛を落とすよりも緩やかな落下速度で、横向けになった人が落ちてきていた。
雷に打たれて落下してきた九郎であった。
地面にそっと、寝返りを打つほどの衝撃もなく九郎の体は降り、倒れた。
女将とお菊が見るに、その体は蒼白の衣に包まれて、腰に見たことのない帯(術符フォルダ)を付け、真紅の鞘に収められた太刀をつけている。
この世のものとは思えない。
つまり、
「お、女将さん、もしかして大山の天狗様じゃないですかこれ!?」
「そういえば爺さんにも父さんにも聞いたことあるねえ……大山は天狗の住処だって。悪い事すると攫われちまうって」
「……この天狗様は、まさかさっきの雷に打たれて落ちてきたんですかねー」
「それはなんとも、間の抜けた話だけど……下手に恨みを買っちゃ不味い。どうせ部屋も余ってるんだ、うちで寝かせよう。お菊、怪我してるみたいだからサラシと湯も持ってきて」
「はい!」
ばたばたと足音を立てて駆けていくお菊を見送りながら、とりあえず女将は天狗を宿に運ぼうと屈んで持ち上げようとした。
「意外と顔は幼いんだ、天狗。何百歳か知らないけど、さっと」
苦しげに目を瞑っている九郎の顔を見て、そう呟いた。
古来より、人より上位の妖怪──鬼や山姥や化身などを助けたら、恩返しで救われると云うことを女将は知っていた。
もしかしたらこれがきっかけになるかもしれないと、天の助けならぬ天狗の助けを祈りながら、彼を部屋に送るのであった。
ぽつりぽつりと雨が落ちてきていた……。
雷に打たれた時の症状は幾つかある。
代表的なのだと、まずショックで心停止や呼吸停止。電気が体の表皮や体内を突き抜けて、内外を火傷させて更に皮膚を破る。鼓膜は破れて目は白内障などの原因になる。電磁パルスの影響で体内の電気信号が不調になり麻痺が起こる。脳が損傷して記憶障害などの可能性もある。
とにかくヤバイ。九郎が普段使う電撃符は自然現象の雷に比べて威力は低いが、人に向けてはいけない破壊力を持っている。
九郎は飛行中に直撃を食らったわけだが、危うく命を落としかける怪我に対して胸に刻まれた魔術文字[存在概念]が発動して自然治癒で治るレベルまで急速に体を修復させた。
この魔術文字の効果は大まかには、「殺されない限り死ににくい」といったようなものである。不死ではないが、突然の大怪我などに対応してくれる。
それで多少は痛みや引き攣り、痺れが残るものの何とか助かった九郎は一晩眠りこけ、翌日の昼前に目覚めた。
「死ぬかと思った」
これで何度目になる臨死からの目覚めだろうか。快復と同時に口から出たのはそんな言葉だった。
むくりと上体を起こして座ると、背筋がやけに突っ張るようで、体中が筋肉痛を刺々しくしたような痛みが襲い、
「痛いのう……」
額に手を当てて目を閉じて左右に振った。
──そして、
(ここはどこだろうか)
その疑問と同時に、布団の側の気配が後退りしていくようだった。
「お、女将さーん! 天狗様が起きたですよー!」
どうやら鼓膜は破れなかったか再生したらしいことを、キンキンと高い女の声で自覚して九郎は顔を向ける。
「何? 天狗?」
軽い頭痛を覚えながらも、畏れたような顔でこちらを見てくる女中を九郎は確認した。
それから誰か近づいてくる音がして襖が開かれた。
入ってきたのは女将だ。年増──いや、石燕と同じぐらいの妙齢の女性だ。
年の割に顔立ちが整っているのは子供が居ないからだろうか。しかし、
(疲れ目をした女だのう……)
そんな印象を覚えた。
「天狗様、御加減は如何でしょうか」
「うむ……」
そして九郎は記憶を辿り、雷に打たれて空から落ちたことを思い出したので、降ってきた自分を天狗だと思っているのだろうと即座に把握した。
普段から天狗の振りをして飛んでいるからこその察しの良さだ。
ともあれ、相手は知り合いでもなんでもないので下手に身分を証すよりはこのままでいいかと思い、
「いや、助かった。空を飛んでいたら雷が落ちてのう」
「そうでしたか、怪我の具合からもしやと」
「天狗様でも雷に打たれるんですね」
「そうだのう。己れも初めてだ。天気の悪い日は飛ばぬようにせねばな」
自然と信じられている様子なので九郎はまあいいかと思いつつ、近くの窓に視線を移した。
やはりまだしとしとと雨が降り続いているようだ。飛んで帰るのは危険だ。
(皆も雨で足止めを食らったと、一日二日ぐらい遅れても思ってくれるだろう)
九郎は再び視線を戻して問いかけた。
「ところでここはどの辺りだ?」
「伊勢原の宿場町ですよーここはその旅籠なんです」
「なんと。それは迷惑を掛けたのう。部屋を借りてしまって」
「いえ、他にお客もおりませんから……」
曇った顔をする女将である。
九郎は手を握ったり開けたり、体の筋を伸ばしたりしながら調子を図る。万全ではないが、動けない程でもない。
もう一泊程していくのもいいが、どうも女将が頼み事がありそうな雰囲気を出しているのである。
普段から助屋などと、他人の世話を焼いているだからそれはすぐに分かった。
(大抵、この客の来ない旅籠経営とか借金とかのことだろうなあ)
察しの良い九郎であった。人の悩みなど、金か人間関係か仕事か健康の四つで九割を越える。
「とにかく助かった。何か礼をせねばな。金銀財宝を渡せるわけではないが、何か困ったことがあれば相談に乗ろう」
ぱっと、女将の目に光が灯ったように見えた。
******
街道に面しておらず、旅人が通りかかるような立地ではない旅籠の再建。
立地はどうしようもないとして、九郎がまず確認するに、
「月にどれくらい客が入るのだ?」
「そうだねえ、十五人……ぐらいかねえ、月によって違うけれど」
「大山詣りの時はもう少し入るんですけど」
「十人か。それでこの旅籠の泊り賃は……」
「一人、二百五十文」
「とすると……」
九郎は頭の中で計算をする。
ざっと計算して月に3750文の収入。現代とは様々な物価が違うのであるが、月収75000円と云うことになる。
限りなくしょぼい。この収入から宿の維持費に三人の生活費と、お菊と板前に給料を払うわけである。
これで暮らしていけるのかと云うと、何とかやっていけるというのが当時の事情であるのだが、決して儲けてはいない。
「で、部屋数が五あるわけだからひと月の最大客数は百五十。十分の一しか活用しておらぬわけか……」
「そうは云ってもねえ」
ため息混じりの女将に、九郎は厳しく云う。常に満室というのは殆どあり得ない理想値だが、敢えて大きく物事は伝える。
「よいか、本来ならば月に九両は儲けれると云うのに今は一両にも達していないのだぞ。相当駄目だのう」
「はあ……でもどこが駄目やら。場所が悪いのは分かるんだけど……」
頷いて九郎は提案する。
「己れも来たばかりでどこを直せばいいかわからんからな。見て回ることにしよう。まずは店を良くし、次は宣伝だ。とりあえずやってみるぞ。二人共ついて来てくれ」
「わかったよ」
「はぁい天狗様!」
そうして、女将と女中のお菊を連れて九郎はひとまず一階に降りるのであった。
玄関口の広間を見渡す。番台と書かれた女将の定位置の背後には帳簿などを入れる小さい引き出しが多い箪笥が置かれていて、目立つところに[失せ物存ぜず]──貴重品の管理は自分でと注意書きが貼られていた。
「ふむ、結構広いのう。ガランとしているのが目立つが」
広間から続いている廊下を進み、風呂場へ入った。
三、四人は入れる木の湯船と、隣に外に竈がある湯を沸かす大釜が置かれている。そこから熱湯を汲んで、水で薄めて湯を張るようだ。
「中々立派な風呂だが……」
考えるように頷いて、次の場所へ足を進めた。
二人の案内者は九郎の反応を不安げにしながら、旅籠の食事を出す板場へと連れてきた。
「板さん、ちょっと失礼するよ」
「なんだ」
ぶっきらぼうに言葉を返したのは、静かな口調だが女の声であった。
作務衣を身に纏い、包丁を片手に今朝方掘ってきた筍を切って鍋に放り込んでいるのは女将よりは年下に見える、女料理人である。
女将が紹介する。
「天狗様、こちら板前の板さん。名前を名乗らないからそうとしか呼べないんだけど」
「名などとうに捨てた───今の吾輩は流星のように儚く輝く一振りの包丁に過ぎない」
変なポーズを決めながら自分に酔ったようにそんなことを云った。
九郎は頷いて、
「痛いやつだからイタ子ということだな」
「侮るなよ天狗め……!」
軽口に対して九郎の顔近くの壁に突き刺さるように、包丁を投擲したのだが──。
キャッチボールを取るような気軽さでそれを摘んで受け止め、九郎は表情も変えずに投げつけられた包丁を指でへし折った。
「折ったああああ!? 吾輩の一振りの包丁ー!」
「包丁を乱暴に使うものは料理人の風上にもおけぬのう」
「乱暴に! 乱暴に折ったよね今!」
「はっはっは」
「くそっこれで勝ったと思うなよ!」
板子は涙目で、作務衣の帯を解いてばっと広げた。
その内側に多数の包丁が縫い付けられている。
「吾輩のお給料貯めて集めた包丁はまだこんなにあるんだからな!」
「それ転んだ時危なくないかのう」
「この前血が出た!」
「やめとけよ……」
この板子(仮名)と云う娘、京都の料亭で女中をしながら料理人から技術を盗んで覚えたそこそこの腕前なのであるが。
京都ではどこに行っても女料理人など雇ってはくれないのであれこれと東海道を放浪しながら、女中ではなく一人前の板前として雇ってくれるところを探した末に──。
この人手不足かつ儲かってない旅籠に辿り着いたのであった。
宿が儲からずに給料が滞り気味でも去らずに残っているのもその辺りに理由がある。
げんなりしながら彼は手を振って指示を出す。
「この店で普段客に出す料理を一人前作っておいてくれ。あと握り飯もな」
「ふっ任せておけ、地獄曼荼羅包丁が火を噴くぜ」
「噴くな」
とりあえず料理の味も見ておかねばならない。
彼女が作っている間に他を回る。僅かな土地だが裏庭があり、そこに洗濯物を干せるようになっていた。
「お客の洗濯物などを洗ってここで干すこともあるのです」
「それはいいことだのう」
「わたすがやるのです」
えへんとばかりに胸を張るお菊に微笑ましくなる。
九郎は庭の片隅、竹のすだれが掛けられた場所に二尺余りの原木が置かれているのに気づいた。
「あれは薪か?」
「いや、あれは椎茸栽培用の原木だよ。このあたりじゃあちこちやってる」
「ほう。どれ位採れるのだ?」
「採れない」
「えええ……」
がっかりしたように半眼で九郎は、心なしかだらしなく見える原木を睨んだ。
「何せ何で生えるかさっぱりわからないんだ。切れ目を入れておけばいいとも聞くけどさ。そりゃ生えたら大儲けだけど……皆、富くじ感覚で数本家に転がしてるぐらいだね。中には一気に栽培しようと、原木を大量に調達して結局生えずに消沈する人もいるぐらいで」
「ははあ、椎茸が高いわけだ」
納得して頷いた。
江戸でも椎茸を出している店はあるが、基本的に時価だ。採れる時期に頼まねばとんでもない値段の干椎茸が使われる。
蕎麦の出汁に使っている店も一件あるがほぼ酔狂のようなものだろう。或いは客引き用で、他の高い酒などで帳尻を合しているのだろう。
そして再び九郎達は二階に戻り、部屋の間取りなどを見る。四畳の部屋が左右に並び、畳敷きの室内は煙草盆と行灯、枕屏風がある程度だろう。
部屋を仕切る襖の立て付けなどを九郎は開け閉めして確認している。
「うーむ」
「どうです? 天狗様」
「色々やるべきことは見つかっておるが……」
と、言い出した時に部屋の扉が無遠慮に開けられた。
「吾輩の創りし天魔覆滅的食事───喰らう用意はできているか」
「うむ、至って普通の料理だのう」
「ちなみに、一応夕食だけお出しということになってるんだよ」
女将から注釈を受けて、ひとまず膳を受け取って九郎は座り込んだ。
「強壮の白露掛けし邪悪なる飯と、透明たる潮に浸かりし若き生命の邪悪汁に、邪悪な魚の塩焼きだ」
「最後辺り名前つけるの面倒になってるだろ」
つまりは、白飯に山芋を摩り下ろしたとろろ。すまし汁に筍を入れたもの。魚の塩焼きである。まあ、本人曰く邪悪な。
「ふむ」
九郎は箸を付けて、出汁で味を付けて伸ばされたとろろを飯に掛けてずるずるとすすり込んだ。芋のねっとりとした粘性が米一粒一粒を纏い、するりと胃に落ちていく。
すまし汁で口を潤す。干し魚の出汁を使ったすまし汁に、筍の味も溶け出して旨味が強い。柔らかく煮こまれた筍も、一晩寝込んだ後の九郎の胃には優しかった。
魚の塩焼きも下品にならない程度に粗塩が振られていて、皮を焦がさないように丁寧に焼かれていて火もしっかり通っている。
どれも良い味であった。
「いつもこんな風な物を?」
「無論」
頷く板子を見て九郎は先程板場から失敬してきた小さな徳利──醤油が入ったそれを、料理の全てにぶっかけた。
濃い茶色が染みていく丹念に作られた自分の料理を見て、板子が叫ぶ。
「ああっ邪道ォ──!!」
「やかましい」
ぺしりと九郎は身を乗り出した板子の額を叩いて座らせた。
そして醤油を掛けて濃い味になったそれを一気に平らげながら、渋い顔で云った。
「女将よ、このままでは旅籠の未来が暗いと云っていたがのう」
「はあ……」
「未来どころではなく、この旅籠は明晩にでも潰れるぞ……!」
「ええっ!?」
九郎天狗の言葉に、一同は凍りつくのであった……。
******
「まあ、嘘はとりあえず1つずつ改善していこう」
「嘘かよ!」
一同があっさりと手のひらを返した九郎に、異口同音でツッコミを入れた。
ひとまず少しでも危機意識を持たせるために大げさにする九郎である。
何せ、金を掛けずに旅籠を立て直すとなると従業員のやる気と手間ぐらいしか使えるものが無いのだ。奮い立ってもらわなくては困る。
彼はまず、飯の膳を指差して板子に告げる。
「まずは飯からだな。味はそこそこ良いとは思う」
「ふっ」
「だが味が薄い。あと量が少ない。病人食か何かか」
ぐしゃりと板子が床に倒れ伏した。
そして、
「包丁が刺さったー!」
「更に馬鹿ときた……三重苦だのう」
ひとしきり転げまわった板子が落ち着いた後に告げる。
「旅籠に泊まるのは旅人だろう。一日歩き詰めて腹も減ってる汗も掻いた、そんな時は塩辛くて量の多い飯がありがたいに決まっておろう。そこらの茶屋でも出しておるぞ」
「う、うぐぐ……」
「一番客が嫌う店は[不味い]ではなく[量が少ない]だぞ。不味くて量が多ければ残せばいいからのう。味噌や醤油をべったりと使え。喉が乾くぐらい塩辛い汁物が疲れた体には丁度良い。飯も山盛りで出せ」
「し、しかし吾輩が学んだのは京都の───」
食い下がろうとする板子の頭を正面からがしりと掴んで九郎は低い声で云う。
「自分の為に飯を作っているのか。それを出すのはこの店であり、食うのは客と違うのか。自分が満足するのと店と客が満足するのどっちが偉いんだ」
「ひうっ──」
「京料理が食いたければ京に行くだろう。旅の途中は旅の途中の飯を出せ。連泊する者が居れば品目を変えつつ、薄味も出して良い。わかったな」
耳元で囁かれる九郎の脅しめいた言葉に、板子はがくがくと震えながら頷いた。
「次に玄関口の広間だな。まずは[失せ物存ぜず]と書いてあったが……」
「ああ、宿の中で枕探しにあっても保証しないって文面だけど」
枕探しとは、就寝時に枕元に置いておいた金品を盗んでいく旅先の強盗の事である。
意外と旅で疲れているから気づかないもので、特に東海道が整備された江戸期にはかなり被害は多かったようである。
九郎は続ける。
「客の荷物や貴重品などは預かれるようにしろ。預かり札を用意して番号でも振っておけばいい。客間の盗難を管理するのは難しいが、預かった荷物をまとめた場所程度ならば出来るだろう。盗人も旅籠から直接金を盗むのは少ない」
「成程……」
「それと広間に場所があったからな。そこで握り飯を一つ八文ぐらいで販売しておけば副収入になる。部屋で食う者も旅の弁当にする者も需要はある」
そして、
「風呂場の脱衣所には手拭いを予め何枚も置いておけば態々部屋から手拭いを持ってこないで済む」
「そんなことしたら持って帰られるんじゃ……」
「近くに『使用済み手拭いは洗濯をするのでここに入れるべし』とでも書いた籠を用意しておけ。それでも持って帰る相手用に、手拭いにはこの旅籠の名前と伊勢原と場所を縫いつけておけば持って帰った相手の土産話になり、宣伝になる。旅籠の名前はあるのか?」
「ないですね」
「後で決めるぞ」
更にそこらの襖を指差して九郎は云う。
「戸を細工して内側からつっかえ棒を使えば外から入れぬようにしろ。防犯設備のある宿と云うだけで客は安心する」
普通、この時代の旅籠は相部屋ばかりに鍵などついていないのだから盗難もよく起こるのである。
旅籠でそれなのだから、宿賃が五十文程度な木賃宿などはもう野獣の巣だ。妙に男が多い二十四時間やってるサウナに泊まるぐらい危険だ。
「良いか、普通の旅籠には立地で勝てぬし、値段は木賃宿に勝てぬ。ならば客層を選んで勝負を仕掛けるのだ」
「選ぶというと?」
女将の言葉にうなずき、九郎は告げる。
「旅籠の名前を[夫婦宿]にして、夫婦や男女の旅客を捕らえるのだ」
「な、なんだって」
「客を選ぶって……それじゃあ逆に減るのでは」
「利点がある」
九郎は指を立ててあたかも背後に黒板でもあるかのように解説をする。
「まずはこの宿では飯盛女などの娼婦を雇っておらぬから、男一人では持て余す。しかし夫婦ならば問題は解決だ。二人個室だしのう。それに女の客と云うのも、如何わしい旅籠よりはこちらの方が好感を持つ。変に持て余した男客に迫られても嫌だろう」
「それは確かに……」
「一部屋に二人入れることで客単価を上げる。すし詰めにするよりはそれぐらいのほうが客もゆるりと出来る」
「大山詣は女人厳禁なんだけれど……」
「その場合は旦那がお参りしている間、嫁は伊勢原を回ってもう一泊と云う形で二泊分料金が取れる機会と思え」
だが、と続けて云う。
「仲間が居ると愚痴りやすくなるのが人間というものだ。やれ飯の味が薄くて量が少ないだの、風呂場がびたびたに濡れて汚れているだの、財布を盗まれて散々だのと旅の疲れもあって何か一つでも悪いところを見つけたら、魚の小骨一つでも文句をつけてくる。そうしない為にも、不満点は直さねばならぬ」
「ははあ……」
「そして目新しい宿に満足の行く対応を受けたとなると、旅を終えた夫婦はあれこれと土産話をする中で『伊勢原に夫婦用の旅籠があって』と口にするだろう。するとそれを聞いた別の客が来た時にここに来るという寸法だ。この時代リピーターは望めぬから口コミで宣伝を広げて貰わねばのう」
「りぴー?」
不思議そうに首を傾げる女中を無視して、九郎は告げる。
「これぐらいなら今日からでも変えられるであろう。後は宣伝だな。己れがちょいと、街道の茶屋に噂話をばら撒きながら客引きをしてくる。お主らは準備!」
「は、はいです!」
「ええと、お菊は番台の張り紙を変えて、仕舞ってた手拭いを探して出しておいて。板さんは味噌と醤油を買い付けて。あたしは部屋の仕切りを細工するから」
「ううう、吾輩の料理……」
どたばたと三人の女達が動き出したのを見て、九郎は霧雨のような細かい雨粒の降る外に塗笠を被って出て行くのであった。
******
そして通りの茶屋にて店員に、
「そこの筋を曲がったところにある旅籠は夫婦向けになってのう。もし宿を探しておる女連れの旅人が居たら勧めて置いてくれぬか」
金を握らせることでにんまりと笑って頷く店員ばかりであった。
伊勢原は街として開かれてまだ百年足らずであり、住民も寄せ集めの土地の者が多く深い関係には無い。
だからどこの旅籠を贔屓にしている茶店、と云うのも少なく、賄賂を渡しておけば容易くこちらを勧めるだろう。
他にも幾つか店に寄りつつ、一つの茶屋で、
「そういうことでしたら、丁度こっちのお客さんが夫婦連れで旅をしていますよ」
と、云われた。
二十代の若い夫婦である。雨に濡れてやって来たが、この街で宿を探していたようだ。
宿を出て二刻程。
一組の客ぐらいは対応出来るだろうと判断して九郎はその客を[夫婦宿]に連れてきた。
「いらっしゃいませ」
お菊と女将、それに慌てたのか板子まで並んで客を出迎えた。
「雨の中ようこそおいでくださいました。お菊、手拭いを」
「はいです!」
「さあ、上がってくださいませ。湯がじきに沸きます。当旅籠はお部屋に鍵がかかりますが、大荷物や笠、蓑なども責任を持ってお預かりさせて貰います」
夫婦は顔を見合わせて、
「それは助かる。では草鞋も頼むぞ」
「はい。陰干ししておきますので……」
そうして客の足を水桶と手拭いでお菊が拭いて、二階へと案内した。
「この棒で中から押さえるのが鍵になります。お二人共部屋から出るときは、女将に荷物は預けられてください」
部屋の鍵はつっかえ棒をするだけの簡単なものだがそれでも安心だっただろう。
旅は楽しいものだが、寝るときにまで気を使って注意をしていなければならないと云うのは疲れるものである。
そして夫婦は風呂に入り、設置された手拭いを使う。何気ない心遣いが良い。
女中に頼んで洗濯物を洗って貰い、部屋に戻って食事を待った。
出された料理は九郎が食ったのと打って変わったものだ。
飯を炊くのに醤油と塩、酒を僅かに入れた桜飯。筍に木の芽味噌を和えた小鉢。暖かで菜っ葉の入った味噌汁。邪悪な焼き魚。
味が濃い目で、桜飯の量もたっぷり盛っている。
運んできた板子が説明をする。
「──こちらの味噌汁に入っているのは、土地の名産[子易菜]です。夫婦には縁起がいいかと」
「あらまあ、嬉しいねえあんた」
「至れり尽くせりだな」
真剣に出汁を取っていた時より手間も掛かっていない料理だが、満足そうに二人は食べていた。
嬉しそうに完食して、お代わりを頼む姿を見た板子に九郎が告げた。
「料理人は食べた者の笑顔の為に作る……そうであろう?」
「──どうやら吾輩が見失っていたようだな、天狗殿。いや、門前の小僧で天狗になっていたのは吾輩だったか」
憑き物が落ちたように、にっこりと微笑む板子であった。
九郎も頷いて、遠い目をする。
(こやつら、天狗からの助言だと思っているからと云ってちょろいのう……)
突然降って湧いた男の改善提案をあっさり受け入れて、すっかり改心したりしている様子に逆に不安になる九郎であった。
悪いコンサル詐欺に引っかからないだろうか。そう思ったりもした。
ひとまず、雨もまだ上がらないので九郎はその晩も泊まり───。
翌朝、夫婦が出発するのを見送った。
二人は握り飯を昼飯分購入して、
「ありがとう、世話になった」
「いいお宿だったよう、帰ったら自慢しないと」
その言葉に女将は頭を下げて、
「またのお越しを」
と、良い声で送り出すのであった。
その様子を見て、九郎は腕を組んで云う。
「どうやら、旅籠のやりがいを思い出したようだのう」
「旅人が休むだけの場所ではなく、旅人の思い出になる場所に旅籠もなれるんだね。ありがとう天狗様、あたしは色々と……腐れてたみたいだ」
「うむ。まあそんな感じだ。多分」
適当に九郎は肯定した。旅館の再建など正直やったことはなく、サービスの度合いを時代レベルから引き上げただけなのだが、当人らが満足ならばいいだろう。
後はたゆまぬ努力と、運次第だ。
「それと、最後に贈り物だ」
云って、九郎は三人を引き連れて再び、自分が落ちてきたと云う裏庭に出た。
空は晴れ渡り、どこまででも飛んでいきそうな風が気持ちよく吹いている。
女将は裏庭に置かれたものに気づいた。
「あれ、椎茸の原木が増えている……」
「街で買い付けてきた。そして───」
ぞわりと。
九郎の手元に、黒くて微細な虫が集まったような──音と、色が発生した。
病毒の鎌、ブラスレイターゼンゼ。
突然九郎が漆黒の鎌を取り出したので、女達が一歩後ずさった。
それを出現させた九郎は、疫病風装に意識を込める。
「椎茸の種菌は……これか」
無数に存在し周辺にある菌類からシイタケ菌を発見して、増幅する。
「[菌床感染]」
そして九郎が軽く鎌を原木に向けると、目には見えないシイタケ菌が杭のようになり無数に原木を穿った。
本来は対象に病原体を直接打ち込む、病の操作技術の一つである。
例えば発酵食品を作るなどは温度によって増減する菌量の調節を長期的に事細かにやらねばならないといけないので酷く面倒であるが、元から椎茸の生える土地で原木にシイタケ菌を打ち込むまですれば後は放っておいても勝手に生えてくるだろう。
ブラスレイターゼンゼを消して、振り向く。
「これで今年は、あの原木から椎茸が生えるぞ。天狗の術だ」
「ほ、本当ですかぁ!?」
「うむ。まあ、一回限りだがのう」
そして九郎はゆっくりと空に舞い上がる。
「世話になったのう。それじゃあ己れはこれで。達者でな」
「あ、あの天狗様!」
「なんだ?」
女将が呼び止めるので、九郎は空中で一時停止して見下ろした。
手を伸ばしている三人からは、名残惜しそうな表情が見える。
「もう少しここに居られないのかい? というか婿にならないか!? 未亡人なんだけど!」
「うわどさくさで何云ってるのです女将さん。でも天狗様ももう少しゆっくりしていってもー」
「焦りは死を招く甘美なる罠。急がば回転せよ」
何やら引き止めに掛かっている様子だが、九郎は苦笑して頬を掻きながら応えた。
「あー、いや。己れは婚約者が居るからのう」
そう告げると、露骨にがっかりしたようで手が引っ込んだ。
九郎は再び「じゃあ、縁があればまたな」と声を掛けて空高くへ舞い上がって東へと消えていった。
それを、三人はいつまでも見送っていた。天狗に化かされたような、不思議な体験を胸にして。
*****
「こう……断る理由としては申し分無いと思うのだが、婚約者が居るって」
一人、空を飛びながら九郎は自問自答のように呟いている。
「嘘は云っておらぬし、相手をそう傷つけぬ良い理由だ。己れの胸も傷まない……筈なのだが」
どこからとも無く額に浮かぶ汗を拭って、苦笑いのままで言い訳がましく呟く。
「妙に後ろめたいというか……何だこの、多用すると地雷になりそうな感じは。危険だな、うむ……」
そんなことを言いながら、江戸へと向かう。
ふと、九郎は思いついたことを口にした。
「伊勢原から帰ったら江戸なのである──か」
嘘余談のような何か
******
───とある未来、幾年後。
ふたり旅で江戸から出発した九郎ともう一人は、伊勢原に立ち寄った。
ふと以前に口出しをした宿が気になり、顔を出すとそこは繁盛をしていて九郎達の泊まる部屋で最後であった。
女中のお菊も板子も旦那を貰い、女将だけ取り残されているという事態であったが客は途絶えないようだ。
愚痴のようなことを女将から云われて、同伴者からからかわれたりした。
そして九郎の旅の友が例の婚約者かと聞かれて、九郎は肩を竦めて笑った。
代わりに応えるとばかりにもう一人が口を開き────。
麻呂「はぁあああああい!! 麻呂でしたああああああ!!」




