91話『将翁と不思議な酒の話』
阿部将翁が飲みに来た。
さてここ最近はすっかり女性の姿しか見かけなくなった阿部将翁であるが、もとより得体の知れぬ存在であったと云うのに九郎にとってやや苦手な相手になっている。
と、云うのも彼女は依頼やら個人的な理由により九郎の不能を治そうと様々に提案してくるのである。
投薬、揉み療治、メンタルヘルスなどを行おうとしてきていささか閉口してしまう。
(思えば不能になったのはいつだったか……)
明確に何歳から男と云うのは滾らなくなるのか、詳しくは九郎も知らない。
若い頃に付き合いのあった背中に刺青の入った恰幅の良い社長などは、還暦近くとも若い愛人を作っていた。
自分はいつからだったか。還暦の頃は魔法学校で用務員をしていた。若い頃の無茶が祟り、足腰を悪くして現代日本人よりも老けていた気がする。やはり腰が悪いと駄目になるのだろうか。そんなことを思ったりもしたが。
ともあれ。
「いえいえ、今日は……珍しい酒が手に入ったもので、賞味しようと来ただけです、よ」
座敷に上がり、九郎の隣に座った狐面の女は独特の拍子でそう告げて、薬箪笥から取り出した酒壺を机に置いた。
「おや? この模様は大陸の壺だね。明代……のやたら高いのではなく、最近作られたものかね」
石燕が眼鏡を光らせながら軽く鑑定する。
「さすがお目が高い。これは康熙帝が作らせた窯で焼かれた清の壺ですぜ」
「日本にはあまり入ってこないものだろう?」
「ええ、そりゃもう。朝貢として送られてくるのは明代の陶磁器でございますから、ね」
「……」
九郎が軽く目を閉じてこめかみに指を当てて、
「こう……当然の様に知ってるつもりで名前を出しているがな。康煕帝とは誰だったかのう」
「清の四代目の皇帝だよ。まだ生きてるのだったかね? 確かもう六十年ぐらい在位してる筈だが」
「武芸や学問に優れ、冷静で甘言を嫌う性格をしている名君ですぜ」
「未来人ならば必ず歴史の試験に出るぐらいの中国史上で上位に入る万能系名君だと云うのに九郎くんと来たら」
「……歴史の授業を受けていたのは七十年も昔だぞ、覚えているものか」
九郎老人、年齢九十代後半は苦々しくそう告げた。
将翁は口元に人の悪い笑みを浮かべつつ、解説をする。
「それで康煕帝は科学技術も取り入れるのに熱心でして……煉丹術の技術も応用して作られた蒸留酒を──ちょいとした伝手から入手したので、ございますよ」
恐らくは、抜荷と呼ばれる密貿易でだろう。
「蒸留酒かね。それはいいね! 強い酒だから! 酒は値段・強さ・量の組み合わせがものを云うのだよ!」
「アル中の意見は違うな……」
呆れてため息をつく九郎。
誰とて一度は近くで売っている酒のアルコール度数と量を計算し、値段効率の良い酒を買おうとしたことぐらいはあるだろう。そのような気分なのだ。きっと石燕も。
ひとまず、将翁は壺の蓋を密閉していた、きつい縄を解いて口を開けさせた。
九郎と石燕が同時に覗きこもうとして軽く頭をぶつける。
「これは……随分と透明で、綺麗な酒だのう」
「壺の白磁が透き通って見えて、一見白色の酒なのかと思うぐらいだね。ほう……匂いも強いが香り高い」
コンビニで代金を汚い小銭で支払いながら店内でワンカップを飲んでいるのが似合う石燕であるが、高い酒にも目はない。
「玉米を材料にした酒で、ちょいとこのあたりじゃ飲めない味ですぜ。ま、飲んで見ましょう。ええと、柄杓柄杓……」
「柄杓ならここにあるよ!」
石燕が胸元から柄杓を取り出して将翁に渡した。
「……いつも持ち歩いておるのか?」
「船幽霊に会ってもいいように──ね!」
「底が破れてますぜ」
さすがに将翁もそれを少し振り回して、石燕に返す。
小さな、茶道で使うような柄杓を取り出して将翁は壺の中から酒を掬う。
「ささ、お二人共……」
「さすがに気分が高揚してきたよ。ほら、手の震えも止まっている」
「……」
石燕が先に湯のみを差し出して注がれた。九郎はじっと将翁が酒を三人分、酌をするのを観察していた。
(何か薬を盛ったような気配は無かったな……それに自分や石燕にも飲ませるのに怪しげな薬物は盛らぬか)
と、一応警戒していたのだが大丈夫だと判断して、解毒効果により酔いが浅くなる疫病風装を着るのを止めた。大体彼は酒を飲むときは疫病風装を肌蹴て上半身は黒の肌着になっている。
「清の国じゃ祝い事に使われる酒で縁起も良い」
「ふむ。確か清の国を作ったのは満州の女真族だったかね。蒙古ほどじゃないが騎馬民族で酒好きな筈だ」
「濃い匂いがしておるのう……」
九郎は透明の液体をくゆらせて揮発するアルコール臭が、懐かしいようなそこまで良い想い出でもないような気がしてかぶりを振った。
ともあれ、三人は割らずにそっと酒に口をつける。
口腔内の粘膜が灼けるようであり、喉の奥から芳しい果物のような、穀物の甘さを濃縮させたような匂いが沸き立ち、見た目の透明さから意表を突かれる味わいの変化に、
「む……」
「ぷはー……」
「こいつぁ中々……」
と、酒精の僅かな苦味に似た味に頬を綻ばせながらも強い酒を飲んだ後の、熱い吐息をするのであった。
舌が痺れるようで、痛くもあるが快い刺激でもあった。
「中々旨いな。強くてまるで洋酒のようだ」
「米や芋の酒に慣れている身としては……九郎くん、見たまえ! 涙が出てきた!」
「酒を飲みながらぼろぼろ涙をこぼすな。末期的に見える」
「悩まされていた飛蚊症や耳鳴り、強迫観念が一気に治ったよ!」
「踏みとどまれ。そこは崖っぷちだぞ」
「中華で一番な料理を食べた時の反応みたいな事を、酒で云ったらどうしてこう心配される内容になるのかね?」
二人のやりとりに、喉を鳴らして将翁が静かに笑い、
「酒はまだまだありますので、飲み干してしまいましょうか」
「ふふふ、余裕を持っているようだが将翁よ、この鳥山石燕と九郎くんの飲兵衛同盟で飲み潰してくれよう!」
「いや、お主はそこまで強く無かろうが……」
九郎はふと、己の隣に座る狐面の女を見て。
(若者に絡み酒をするのはみっともないが……)
将翁はよく考えれば年上ですらある。そしてこのいつも捉え所の無い胡散臭い笑みを浮かべている相手が酔っ払う姿は少しばかり興味があった。
折角の強い舶来の酒だ。
「肴は己れがおごろう。お主も今晩はゆっくり呑んでいけ」
「おやおや、怖い怖い」
くすくすと将翁が口元を隠して嗤った。
つまみは大豆の煮染めと、海老を味噌でなめろうにしたものに薄切りの干し豚肉。
歯ごたえもよく、酒に合うむのであり一度飲み干した酒盃に再び三人分酒が注がれる。
「そう言えば、この酒はなんと云う名なのだ?」
九郎の問いかけに将翁が応えた。
「こいつは[白乾児]と云います、よ」
「え!? 今誰かパイの話したタマ!? おお拝な話タマ!?」
「いや、お主は接客しておれよ」
割り込んで来た店員のタマにツッコミを入れるのであった。
そうして、三人の酒宴は珍しく店が閉まっても続けられた───。
******
「う……」
九郎は眉に皺を寄せて、薄目を開けながら上体を起こした。
木戸を閉めていない店の窓からは朝日が見える。昨晩にお房から閉める様に注意を受けた気がする──というか確実に云われただろうことは予想できる──が、忘れていたようだ。
口の中から、昨晩感じた芳醇な香りとは似ても似つかない後悔の酒臭さを感じる。
「あー……いかん。記憶が吹っ飛ぶほど飲んだのは久しぶりだ」
げんなりとしながら頭を押さえた。
ここは緑のむじな亭、一階の座敷である。昨晩あのまま飲み続けて、ついには酔い潰れてしまったようだ。
途中からペースを上げる為に氷を作ってロックで三人飲みだしたのは覚えているが、それからどれだけ飲んだろうか。
つまみも切れたので座敷の机を片して広くし、床に酒壺を置いて飲みまくっていた。
「ぬう……」
どうやら潰れていたのは自分だけではなかったようで。
腰のあたりに左右から挟む形で、石燕と将翁が寝ていた。
さすがの薬師にして本草学者である将翁も強い蒸留酒をしこたま呑んで限界が来たようである。どの段階で限界だったかは覚えていないが、僅かな満足感を九郎は覚えた。
「しかし若かりし頃だったらこう、あれだな。少し慌てた場面かもしれぬ」
女性二人と酒を呑んで記憶を失って朝抱かれていると云う状況である。不能老人でなければ間違いの一つでも起こったかもしれない。
若干胸元辺りの着衣が緩んでいる将翁の着物を軽く直してやりつつ呟いた。
「はて?」
腰元にいる二人に、微妙な違和感を覚えつつ九郎は首を傾げる。
とりあえずしがみついている彼女らの手を外してもやはり違和感が拭えない。
「酔いがまだ残っておるのか?」
のそのそとサンドイッチ伯爵の寝床のような状態から這い出して、座敷から下りて立ち上がり伸びをする。
やはり視界が妙なので、
「顔でも洗ってくるかのう……」
呟くと、階段の方からお房が降りてきた。近頃彼女は、「空気を読むの」などと云って石燕の部屋で寝るようになっていた。六科がそこはかとなく寂しそうな背中をしていたけれども。
ともあれ、あくび交じりに彼女はタマを後ろに連れて足音を立てながらやってきていた。
「ちょっお房ちゃん! あんまり、ずかずか行くと子供には見せられないよ!な惨状になってたら教育に悪いから僕が先に様子を見るタマ!」
「何よ。げーで汚してたりお酒こぼしてたりしたらお店開く前に片付けさせないと」
「そうじゃあなくて……ってあれ?」
お房よりも先に、タマが九郎に顔を向けて目を見開いた。
「に、兄さん?」
「どうした、幽霊でも見たような顔をして」
「あら」
お房がやはり驚いた顔をして、九郎に駆け寄ってきた。
ぺたぺたと裸足で九郎の隣に立って、九郎の顔に向けて手を伸ばした。
(いや、しかし)
九郎は。
慣れ親しんだ──異世界のちみっ子エルフで──位置に来ているお房の頭に、軽く手を置いた。
彼女の頭は、九郎の腹の辺りまでしかなかったのである。そしてお房が手を伸ばしても、九郎の頭に届かなかった。
「九郎……あんた一晩でそんなに大きくなったの?」
「なあっ……」
慌てて板場の奥にある鏡を見に行く。
青銅製のあまり質はよくない金属鏡を布で磨いて己の顔を映す。
そこには、もう三十年あまりも変わらなかった少年時代の顔ではなく──正確な年頃は不明だが、二十代の青年の顔があった。
「うむ?」
野太い声。顔を向けると店の奥から六科が出てきて九郎を見上げる。
九郎のほうが背が高いので、身長も若い頃に戻っていることがすぐに分かった。少年時では五尺三寸余(160cm)程度だが、今は六尺(180cmぐらい)あるだろう。
違和感の正体は視点が高いのと、相対的に寝ていた二人が小さく見えた為だろう。
腕を組みながらやや面長になった気がする顔を撫でて、呟く。
「若返ったと云うべきか年を食ったと云うべきか……」
「意外と良い男じゃない」
「ありがとうよ」
ひとまず、慌てることも悩むこともできずに九郎は褒めるお房の頭を撫でた。
タマは顔に手を当てて九郎の方を指さしながらややうつむき、こらえるようにして震えている。
と、九郎が去った座敷からうめき声が上がった。
「う、うぐ、げ、ご、う……しょ、将翁……二日酔いの薬を出したまえ……」
「鬱金が一人分だけありますが……半量で七両」
「足元を見ているね……! 自分だけ使うつもりなのだろう……!」
などと苦しげに言い合う酔いどれ女二人に、九郎は仕方なさげに息を吐いて板場にあった桶を取り、精水符で水を波々と張って二人の元に持っていった。
「これ。顔でも洗って起きろ」
「うう、すまないね九郎くん……」
「……おや」
眼鏡を外して目元が[33]の字の様に瞼を閉ざし気味な石燕は気づかずに、取り出した手ぬぐいを水桶に浸して、それで顔を拭いた。
「将翁も、面などつけていては目脂も取れぬだろう」
云って、九郎は手を伸ばして将翁の狐面を彼女の頭の上へずらす。
意外だったが──。
阿部将翁と云う幽玄とした女も、大人になっている九郎を見て口を半開きにし、目を白黒している。
(こやつの術や薬による、意図的なものではなさそうだのう)
そう思いながら九郎は己の手ぬぐいを濡らして将翁の顔に当てようとしたら、
「あ、いや、ちょいと───化粧紅が落ちちまうので」
慌てたように将翁が手ぬぐいを受け取って、振り向き九郎に背中を向けた。
薬箪笥から鏡と化粧落としを用意し、再びちらりと肩越しに九郎の顔を見る。
「どうした?」
「──い、いえ」
首をかしげるが再び将翁は背中を向けてしまった。
(しかし女は不便だのう、飲みで酔い潰れても化粧の心配を───)
ふと、九郎は石燕を向いた。
彼女は顔を手ぬぐいで覆ってごしごしと拭いて。
それを今度は首筋に持って行って顎の下から拭い。
更に耳の裏まで濡れ手ぬぐいで洗って、
「ふはー」
と、心地よさそうに声を漏らしていた。
「飲み屋のおっさんか、お主は」
完全におっさんのおしぼりワイパーであった。非常に物悲しい気分になる九郎である。
乙女度大暴落中の石燕は眼鏡をかけ直して、
「いいではないか九郎くんこちとらすっぴん美人に定評のある鳥山───」
彼女は言葉を止めて、しゃがみ目線を合わせている九郎の顔をしげしげと見た。
九郎はやんわりと、手のひらを向けて彼女に告げる。
「ああ、顔が変わってるーとか、年食ってるーとかそういう反応はもう出たから叫ぶでないぞ」
「なんで私の感想を拒否するのだね!?」
「いや、なんとなく」
あっさりと告げて九郎は腰を伸ばして直立した。
急に天井方向へ遠ざかった九郎の顔を追うように、石燕は座敷から下りて歯の低い下駄を履き、九郎のかなり伸びている肌着を掴みながら立ち上がった。
彼が着ている黒の肌着は腹掛と呼ばれる、紐で長さを調節するものなので体が大きくなっても一応平気なのである。股引はやや窮屈になっているが。
九郎の隣に並び、身長がかなり追い越されているのを見上げて確認して呟いた。
「く、九郎くんに背を抜かれた……私の方が僅かに高かったから維持していたお姉さん的な余裕が……」
「そんなのがあったのか、お主」
「急にどうしたのだね九郎くん! 大人の階段登っちゃったのかね!?」
「わからん。いや、お主の云ってる意味も」
適当に返事をする九郎である。
石燕は何やら慌てふためいて、将翁へ向き直り呼ぶ。
「こういう怪しい現象の犯人は一人しか居ない! 何か薬を盛ったか術を掛けただろう将翁!」
「──とんでもございませんぜ」
彼女はすっかりと化粧をやり直して、目元に紅をつけた公家の娘めいた整った顔で石燕に応えた。
「あたしゃ、珍しい酒を持ってきただけで今回は何もやっておりません」
「今回は?」
「敢えて云うなら──そういえば」
九郎の言葉を無視して続ける。
「中国にこんな話がございます。この[白乾児]は祝い酒として振る舞われるだけあって、高価なものでして。祝い、と云うと急なものを除けば新年の祝いに一杯づつ飲むのが習わしでございました」
「ふむ」
「ところがある家で、そこのまだ年若い息子がこれは美味い酒だと、祝いで余った酒を十杯、二十杯と酔って呑んでしまいまして。すると年の祝い酒だと云うのにけしからぬと、生を司る南斗星の神が飲んだ分だけ息子に年を取らせた……という伝承があるんですぜ」
その説話に反応したのは石燕だった。
「なに!? とするともしかして鏡で確認していないけれど私も年を取っているのかね!? あら、ふぉう!?と驚くような年になっていたりするのかね!?」
「落ち着け。お主らはそのままだ」
「石燕殿」
将翁は顔を傾けながら、人の悪い笑みの形に口を吊り上げて石燕に云う。
「───酒を飲んだからといって一晩で年を取る筈がないでしょう。常識で考えて」
「むきー! 思わせぶりな話をしたのはお前の方ではないか!」
「なに、普通人はともあれ、九郎殿自身の体は非常識なので、或いはと思って……」
九郎もどう判断していいやらと、首を傾げる。
もともとが魔女の土壇場魔法で若返ったので、どんな異常が起こるか不明なのである。
或いはその不老の魔法が解けたのかもしれないし、年代が変更されただけかもしれない。一時的なことかどうかもわからなかった。
将翁は別の例を出した。
「もう一つ事例として、中国の江南に明旦丁と云う学士がおりまして。江南に明旦丁ありとまで呼ばれた彼でしたが、[黒幇]と呼ばれる道教系の秘密組織に、呪術で少年の姿に変えられてしまい……この白乾児を飲んだ時、一時的に姿が戻ったという話が───あったような、なかったような……」
彼女は息を呑むような愛らしい笑みを浮かべて、
「忘れてしまいました」
「忘れてろ。急に胡散臭くなったぞ」
九郎が振り払うように告げた。
「まあ、とりあえず原因はわからんのだから現状維持しておくかのう───ところでタマや。お主はさっきから何か言いたそうにこっちを見ているが……」
九郎の呼びかけに、一同はなんとなく彼の方を見る。
わなわなと震えていたタマは絞るような声音で告げる。
「兄さん。兄さんはこれまで、まだ姿形が子供だったから風評被害だとか穿った見方だとかケチのつけようがあって、婉曲的な表現をしていたけど……」
「うん?」
タマは顔を上げてびしりと指差し、はっきりと告げた。
「大人になったら顔つきからしてもうヒモじゃん!」
あんまりな感想であった。
「……おいこら」
「凄いヒモ顔! 絶対女の家に転がり込んで食い物にしてるって顔してるタマ! びっくりだよ!」
「……」
「……」
「……」
「お主ら……何故黙って目を逸らす」
これまではまだ細長い物を縛る道具と云う感じだったのが、もはやヒモ断定である。
九郎が半眼で云って、抗弁する。
「というか何だヒモ顔って! 顔でヒモかどうかわかるものか!」
「いいやこれは絶対ヒモだってわかるもの! 見た瞬間ヒモっぽいって感想が生まれたもん!」
「己れはヒモじゃないし、ヒモになったことだって……一度も……」
九郎は天を仰いで、大きく深呼吸した。そして誠意たっぷりなヒモ顔で宣言する。
「無いぞ!」
「うそくさ───!」
思わず、その場に居る全員──六科や将翁すら叫ぶのであった。
*****
とりあえず九郎は疫病風装に着替えた後で出かけることにした。
店の座敷にいつものように居ては、来る常連来る常連に奇異な目線で見られて説明が面倒くさい気がしたのだ。
なお解毒効果のある疫病風装を纏っても特に体の変化は起こらなかった。それにこの神話級な衣は自動でサイズ調整までされて違和感なく着れている。
そんなわけで町に出たのだが、
「いつもと視点が違うと気分がいいのう」
天気も良い人通りを九郎と、石燕に将翁もついて出歩いている。
「将翁も来るとは珍しいね」
「ま、妙な変化で体調に異常があればことでございますから、ね。医者のあたしが目を離すわけにも」
「そうだのう。急に気がついたら老人になってたりしたら怖いぞ、己れも」
頷きながら九郎は苦笑して将翁の肩を叩いた。
「健康な体なら良いが、明らかにやばくなったら頼むぞ先生よ」
「さて、任せてくれと云うのは容易いがあたしにも原因がわからぬとなると、どうだか」
「九郎くん! 私は頼らないのかね!?」
並べば高下駄分九郎と顔が近い将翁へ頼み事をしている九郎に、反対側から石燕が主張した。
九郎は顔を向けて云う。
「いや、お主に何が出来るのだ」
「……か、介護とか。あとお金出したり……」
「己れはヒモじゃないからな」
「こだわるね……」
彼の断固たる口調に石燕は苦い顔をする。
ともあれ歩きながら九郎はそれとなく気づいていた。
(目立っておるのう……)
と、通りを歩く町人らの視線が一度はこちらに向くのであった。
何せ鮮やかな目を引く蒼白色の衣を着た、当時の平均体型からすると頭ひとつ高い九郎と、その両隣に喪服眼鏡の女に狐面の薬師の美女二人である。
芸人一行のような雰囲気を出していても不思議ではない。
しかし何故か、
「なんか懐かしい気がするのう」
「? どうしたのだね九郎くん」
「いや、昔もこんな珍奇な目を町中で向けられていた気がしてな。お主らのような変人でも連れて歩いていたのだろうか」
そんな事を思い出したので、別に恥ずかしくはなかった。
「確かこの前に朝からうどんを出しておる店があるから、腹ごしらえに寄っていくかのう」
「[長命屋]だね。コシは無いがあのふわっとした柔らかなうどんの店だ」
「酒で荒れた胃には優しいですぜ」
三人でぶらりとうどん屋に立ち寄る。
「いらっしゃい」
「うどんをな、湯で三つ」
「はいよ」
座敷に上がって暫し待つと、盆に載せられてそれぞれ運ばれてきた。
この店のうどんは茹でたうどんを湯ごと丼に入れて泳がせ、別皿の温かいつゆに浸して食べるという方式である。夏場はこれが水に泳がせたうどんと冷えたつゆになる。
「このなんとも優しい味がありがたいのう」
「三河の方の味付けだね。だしの効いたつゆにたまり醤油を使っているのだよ。昔から三河のあたりではたまり醤油の文化があってね──」
「あたしゃ、お揚げが欲しいところですが、ね」
などと言いながらつるつると食べている三人であった。
店主はちらりとその様子を見て想像する。
控えめに見てヒモ顔の男と、妙齢の女。それも疲れた様子である。きっと二人で一人のヒモを養っているとかそういうあれなのだろう。
とてつもないドラマ性を感じながら感慨深く頷く店主(四十二歳独身)であった。
食後にもぶらりと出かけて、浅草寺に参拝に行く。
特に用事がなくてもこの寺のあたりは毎日お祭りのように屋台や見世物が開かれている。
甘酒を買うときに財布を石燕から出して貰い、九郎は瞠目して悩んだ。
「どうしたのだね?」
「いや、確かに背が高い状態で女から財布を借りると絵面がアレだな、うむ」
「似合ってますぜ」
「褒め言葉に聞こえぬ」
緋毛氈の敷かれた長椅子に座り、複雑な顔をしながら白く僅かにとろみのついた甘酒を飲む九郎であった。
色々と回った後で、次に晃之介の道場にでも寄ることにした。
市中から幾らも歩かないのに景色はのどかな農村が広がり、その中でぽつりと真新しい建物が道場として建っている。
看板と、挑戦者求むの張り紙が相変わらず張ってある入り口から入って声を掛けた。
「おうい、やっとうの先生よ。おるか?」
道場内を見渡すと、晃之介とその弟子の少年少女が鍛錬を行っていて、隅で子興が見学していた。
晃之介は九郎を見て戸惑いながら返事をする。
「九郎の……兄か誰かか!?」
「ええ!? そんなの居るのかよ!?」
九郎は笑いをこぼしながら、晃之介とお八に向けて告げた。
「いや、当人だよ。ほれ、怪しげな術で体が縮んでいたのだから、急に大きくなることもあるわな」
「う、ううむ。確かにそのじじ臭い喋りは九郎……だな。しかしなんだ……意外に背が高い」
晃之介が自分の手ぬぐいを巻いた頭の上に掌を当てながら、九郎との身長差を図る。
大体二人共同じぐらいだろうか。晃之介としても、江戸では中々見ない上背なので伸びた九郎に驚いているのである。
「日常的に変な事を受け入れてる……」
九郎ならば多少奇妙な現象が起きても不思議ではない、と知り合いは考えるようだ。
道場の中で一番、髪がぼろけて衣服もほつれ、汗を掻いている雨次が息を切らしながら変な現象に唖然としていた。
基本的に彼は弟子の中で一番身体能力に劣るので、よく転がされてぼろぼろになるのだ。
お八があわあわとしながら、奇妙な手つきで九郎に近づいて彼の着物を引っ張った。
並ぶとまさに、大人と子供だ。
「き、聞いてねえぞ……」
「ん? どうしたのだ、ハチ子や」
「う、うぬー! なんかこう……ずるくねえ!?」
「何がだ」
やはり丁度いい頭の位置なので、お八の頭に手を置いて憤慨している彼女を押さえる。
にたにたと嗤いながらお七が近づいてきて、お八を引き剥がしつつやや離れた場所でヒソヒソと話しかける。
「うんうん、わかるわかる。どう見ても並ぶと娘か妹状態だもんな。ギリで九郎のあんちゃんが子供状態だと見れなくもなかった組み合わせだけど、こうなっちゃあ完全に女の子として見られてなかったってのが丸わかりだもんな」
「うるせえ! 本気でうるせえ!」
こうなって見るとお八本人にも自覚できたことを云われて、涙目で叫ぶ。
幾ら江戸の世では十代で嫁に行く時代とはいえ、九郎は立派な大人で自分は子供なのだとどうしても成長した姿になられてはわかってしまうのであった。
「だってほら、見てみろよ」
お七が指差すと、九郎の両隣に入ってきた石燕と将翁が並んでいる。
「例えばあたしとあんたがあのあんちゃんの両隣に並んでいる状態と、あの三人。どっちがお似合いか百人に聞いても同じ答えが返ってくるぜ」
「なんだ手前はあたしの心の闇か何かか! 打倒して成長する場面なら相手になるぞおらああ!!」
「けっへへェ! 師姉が怒ったー! うひょー師兄助けてー!」
「僕を盾にしないでくれ!?」
暴れだした子供達であった。
それを見て九郎が首を傾げて尋ねる。
「あやつらは何をしているのだ?」
「斬新な稽古だね」
「こいつぁなんとも」
さっぱり理解できていない九郎に、ため息をつく。
そして石燕は子興の姿を見て、呼びかけた。
「さっきから何か言いたそうに黙ってて、どうしたのだね子興」
すると堰を切ったように子興は近づいてきて、九郎を指差して叫んだ。
「九郎っち───すっごいヒモ顔!」
「……」
「……」
「またか。というかお主までタマみたいなことを」
がっくりと俯いて九郎は落ち込む。
人を顔つきで判断しないで欲しい。最近の若いものは思いやりが足りない。そんな嘆きも虚しく彼女の言葉は続く。
「なんかもう雰囲気がね、複数の浮気相手からお金借りて遊びまわってた小生のお父さんに似てる! ヒモの中でも最悪な、浮気症のヒモに似てる!」
「だーまーれー」
「まあそれが原因でお父さん刺されて死んで一家崩壊したんだけど……九郎っちも気をつけてね?」
「何に気をつけるのだ、一緒にするな」
顔を輝かせて懐かしそうに嫌な目線を九郎に向けてくる子興の頬を両手で押しつぶしながら、九郎は藪睨みに見るのであった。
何が悲しくてシリーズ人間のクズみたいな相手に似ていると云われなければならないのか。
そんなに自分はアレか。
人間性を否定されているのではないかと不安になってきた九郎は咳払いの音に、晃之介へ顔を向けた。
「ところで勝負、九郎も体が勝負大きくなったのだから勝負今しかできないこととか勝負やりたいことを勝負やるべきじゃないだろうか。例えば俺と勝負するとか」
「凄まじく勝負したそうな心が言葉に漏れまくっておる!」
そわそわチラチラと、晃之介の武芸者魂が疼いていた。
子供の体でもいい勝負が出来る九郎である。それが大人になっているのだからより強くなっていると見ても当然だろう。
無論、戦闘の経験が急に増したり膂力自体が変わったりはしていないのだが、晃之介はとても戦いたそうであった。
そこにお七の野次が飛ぶ。
「おっ、あんちゃんと師父がショーブするってよ! ほらほら弟子としては見学しねえと」
「誤魔化しやがって……! ええ、くそ、でも気になるぜ」
「どっち応援すればいいんだろうなあ」
と、見てくるので九郎は怯んだ。
しかし体の調子を見るには、動かすのが一番ではある。晃之介の稽古に付き合うのも時々はあることだ。
だから頷いて、
「よし、では己れを倒せば子興を嫁にくれてやろう」
「な、なんでさー!?」
急に景品に出された子興が抗議の声を上げて九郎にしがみついた。
彼は半眼で見下ろして、
「己れをろくでなしの親父と似ているとか云った罰だ」
「だってヒモ顔なのは本当なんだよ!」
涙目になる子興だったが、他にも理由はある。
それとなく同居している子興と晃之介への後押しであった。純情と乙女を拗らせているこの二人は、仲が進まない。晃之介は九郎が散々人を押し付けているように、信頼出来る男なのでおすすめの物件なのだが。
晃之介は少しだけ口を開閉して戸惑いつつも、照れを気合で押し隠そうとした。
「お、おう! 望む所だ!」
「望む所なんだね晃之介くん……」
「混乱しているのでしょうぜ」
見守り組に入った石燕と将翁が人の悪い笑みを見せている。
******
こうして道場では急遽、九郎と晃之介の勝負が始まった。
慣れてない体で武器を振り回すのは違和感があると云うので、素手の勝負である。こうなれば自動回避の着物を脱いで戦わなくては、勝負が成立しない。
「それじゃあ規則は、道場の壁に叩きつけられるか、床に押さえ込まれるか、参ったと云えば決着で」
「ああ、宜しく頼むぞ、九郎」
間合いを離して、お互いに素手の構えを取った。
右手を引いた構えをして九郎は足の指で床を掴むように力を込めて、思う。
(ジグエン団長に格闘も習ったな、そう云えば)
殆ど使うことは無かったが、戦場で武器を捨てた後の戦い方である。
それに洗練されているようには思えなかったが、教えられた内容は悪いものでもない。そう思って体を動かす。
(ジグエン流───真っ直ぐ行って右ストレートでぶっ飛ばす)
技名を心の中で唱えて、その名の通りの動きをする。
疾い。体格が大きく変わっているので相対する晃之介が感じる動きは違う。
小さい時は目にも留まらぬ、と云った風であり、大きい時は気がつけば目の前に近寄っていた様に思えた。
(往なし──否、速い! 受け止める!)
六天流[臥処]。体内の力の流れを腕に集中させて硬め、相手の攻撃を受け止める術だ。木剣で思いっきり殴られても痣の一つもできないぐらいに防御能力が高まるのである。
攻撃のタイミングを完全にあわせる[邪須賀]では対処不能な一撃を待ち構える。
九郎の拳が晃之介の交差させた腕に当たる。いや、九郎の拳の狙いを見極めて絶妙に晃之介が防御を拳に重ねさせた。
ど、と大太鼓を鳴らした音がした。
拳が振りぬかれて、晃之介が床に両足を擦りつけながら背後に拳打の衝撃で下がる。
「──やるな! 攻撃に重みが乗っている」
「力は変わらぬが、体重差だろうなあ」
ガードを外して晃之介が前に踏み込んできた。
九郎も牽制の左手を、彼の頭狙いで連続して放つ。
危なげなく晃之介はそれを手で打ち払い更に接近。
掌底を九郎の脇腹狙いで打ち込んだ。
「つっと」
慌てて僅かに後ろに跳んでそれを回避。
更に晃之介が踏み込んで連撃が見舞われる。
「[昇り竜]──!」
下から打ち上げる打撃だ。溜めから出されるアッパーはまともに喰らえば大人が上方向に吹き飛ぶ。
九郎はぎりぎりで相手の腕を取ってその一撃を逸らすことに成功した。
そして晃之介が打ち込んできた手を掴んだまま、投げ飛ばそうとするが──。
(軽っ!?)
まるでビニール人形でも掴んだかのような手応えの軽さに、九郎の投げ動作が崩れる。
人は何かを持ち上げる時、必ずその重さを予め考慮して力を掛けるものだ。それが外されたのだから意表を突かれるのも当然である。
これもまた、晃之介が力の流れと体重移動の感覚を応用して体を一時的に軽く動かす技であった。これを使えば相手の持つ剣の上に乗ることも可能になる。
そして九郎の投げが失敗した瞬間、体が上下逆さまになっているのは九郎の方だ。
「六天流──[投げ返し]」
床に腹から叩きつけられて、息が詰まる。腕を極められる前に、腕力で床を押して体を跳ね上げながら開いた手で背後を払う。
手を開いたのは僅かでも晃之介の体に引っ掛けるためだ。
指の二本が彼の道着を掴んだ。
「いよっと!」
おっさん臭い気合の声で、その小さく掴んだまま晃之介を強引に投げて間合いを離す。
無双の腕力を持つ九郎の力には無理に逆らわずに晃之介も距離を取った。
二人共再び駆け出せる遠さに居て、再び動いたのは九郎であった。
今度は奇妙な足取りで晃之介に接近する。
迎え撃つ晃之介が軽い拳打を放った。軽い、と云うが頭に喰らえば脳震盪は確実だ。これは引きを意識した打撃で、当たった瞬間に手を戻し次の攻撃に移れる。
だがその手は九郎に当たらない。彼の姿が掻き消えたように感じただろう。
気配のみを手繰り──
「ジグエン流[ガイスト歩法]」
背後に居た九郎に回し蹴りを見舞う。
ガイスト歩法とは特殊なフェイントと脚さばきで、正面から相手の背後を取る歩法であった。まさに幽霊がすり抜けたように相手の後ろに回ることが出来る。
これは体格が大きくなければフェイントや移動速度の加減などで再現できないと云う、普段の小柄な九郎は使えない技術だ。
というか若い頃も使えなかった。しかし、
(相力呪符で、習った通りに体が動く)
身体能力を向上させる術符に感心しながら晃之介の回し蹴りを受け止めつつ──丸太で殴られたような痛みだったが──ショルダータックルを体勢が半端な状態の晃之介に叩き込んだ。
「がっ!」
巨象のような踏み込みに全体重を載せた九郎の体当たりは、晃之介の体に突進する猪が激突したのと同等の衝撃を与える。
骨が軋む。息が絞れる。
体を宙に浮かせて吹き飛びつつ、地面に拳を叩きつけてブレーキを掛けて壁際で晃之介は立ち上がった。
痛みはあるが、獰猛な笑顔を見せる。
「楽しいな」
「そうかえ」
同じ高さの目線になった好敵手が、嬉しい。
「やはり強くなっているぞ、九郎!」
晃之介が飛び込んで来る。
一撃ごとに肉が叩き伸ばされるような乱打に九郎は対応する。
全ては受けきらずに体に突き刺さり、力を奪う。
「どっせい!」
真上から来る九郎の打ち下ろしを臥処するが、衝撃は貫通して全身を潰すようであった。
直撃すれば危険だが武術の練達は低い動きなので読める──が、受けるだけで危険信号が感じられる強さであった。
そして驚嘆するのは九郎の耐久性である。体重が増して明確に上がっている。晃之介は思考しながら攻撃と防御を続けていた。
(こちらの攻撃は当たっているが、九郎の攻撃は受けるので精一杯だ! 一発でひっくり返される)
九郎にしても勝負を安請け合いしたかと思うぐらい全身が痛いのだが、思う。
(攻撃は殆ど晃之介に受け止められるか、衝撃を流される。やはり技量の差は歴然だのう……)
そうして互いに一歩も引かぬ殴り合いを続ける。時折どちらかが吹き飛ばされ、しかし再起して戦いが続く。
それを見ている弟子達は呆然としていた。
「師匠と九郎、強っ……」
「僕が入ったら一瞬でボロ雑巾になる自信がある」
「嫌な自信だなおい」
女三人組も茶を飲む間もなく冷ましながら観戦していた。
「ううう……こ、晃之介さん、頑張れー」
「声が小さいよ子興。というかお前はびっくりするぐらいへたれだね。消極的にも程がある」
「師匠に云われたくないよ!?」
「おや、お互いにそろそろ限界で、決着が尽きそうですぜ」
そう云うとやはり全力で格闘をしていて、体力が無くなってきた二人は離れて肩で息をしていた。
しかし顔にはまだ勝負を諦めていない笑みを見せている。
「はあ……はあ……やるな、九郎」
「ふう……しんどい……次で決めてやろう」
九郎はよろよろと、最初の構えに戻し晃之介に告げる。
「己れの必殺、[真っ直ぐ行って右ストレートでぶっ飛ばす]で終わりにしてくれる」
「す、すとれえと? いや、それならば俺もお前にまだ見せてなかった技──[加雲打]で決めてやる!」
「……なんとなく想像がつく名前だが」
ぼそりと云う九郎であったが。
互いに構え直して──再び九郎が俊敏に間合いを詰めた。
右手を引き、相手に打ち込む動きを見せる。
素早く近づき剛力で殴るという、まさにジグエンの流派そのものな、技と云うのも簡単な戦法であったが。
それ故に本当に身体能力の高い者が使えば驚異になる強さを持つ。
晃之介が九郎の動きに合わせて己の拳を振るい逆襲する───。
(──なんだ!?)
体を思いっきり背後に引っ張られたような感覚に晃之介は背筋が粟立った。
九郎の拳はまだ触れていないし、自分の打撃も成功していない。目の前に九郎の姿があり、間合いからは遠い。
いや。
更に九郎の体が遠ざかったのを加速した意識で捉えた。
見えるのは──九郎が拳を振るおうとした体勢のまま、こちらに伸ばした足であった。
「必殺──[真っ直ぐ行って右ストレートでぶっ飛ばすと見せかけて蹴り飛ばす]」
油断した。
晃之介は己の腹に蹴りを受けたことを自覚して、その衝撃で吹き飛ばされているのだと理解し──道場の壁に叩きつけられるのであった。
フェイントであった。
引っかかったのは疲労で集中力が鈍っていたのと、晃之介がまだ若いこともあったが──。
九郎はこれまで、少年の体で戦っていた時も殆ど蹴りを使ってこなかったので、自然と蹴りは不得手なのだろうと錯覚していた。
体が小さければあまり効果は出ないし、間合いも短い。しかし手足も伸びたこの身長ならば、蹴りは長いリーチに強い威力を持つ武器となる。それを最後の一撃まで隠していたのである。
わざわざ事前に予告して騙してまで。
「──完敗、だ」
己の背中で破損した壁に凭れ掛かりながら、晃之介は悔しさを滲ませつつ──嬉しそうにそう云った。
「晃之介さん!」
慌てて子興が彼の元に駆けつける。その途中で嘆いた。
「この場合普通、九郎っちが勝っちゃう!?」
「あーいや、すまん」
娘を欲しければ俺を倒せ! と云って本気で婿を倒しに掛かる父親のようであった。
大人げないにも程がある。
「己れも痛いんだけどな、全身を強く打ち死亡しそうだが」
「いやいやさすが九郎くん。いいところを見せてくれたね!」
「ちょいと商売でもしときますか、ね」
将翁が薬箪笥を開けて、雨次相手に売り込みだした。
「これと、これと、これ……請求書を晃之介殿に渡して置いてください、よ」
「はあ、どうも……うゃっ」
「どうした雨次変な声出して……高っ」
「あーあ暫く根深汁と飯だけだぜ」
傷薬などを晃之介が居ないうちに販売契約させる将翁であった。
とりあえず晃之介の介抱は子興に任せて、
「あーそれじゃあお主らも練習頑張れよ」
「なんだ、もう行くのかよ」
「子興に恨みがましく見られたくない」
視線を向けつつ後ずさりで道場の入り口へ向かう。
苦しげな晃之介が手を伸ばしながら、
「九郎……次の勝負を……」
「嫌だのう……次は騙せぬだろうし」
「負けてもその分強くなるという物語の主人公系だね、晃之介くんは」
「しかもここ一番では負けて死んだりしないというやつですぜ」
言いながらそそくさと道場から退散する三人であった。
******
「あー体痛い」
「男の勲章ではないかね九郎くん」
「ま、見たところ残りそうな痕はなさそうで」
再び賑やかな市中の、道に面した茶屋で休みながら九郎は熱を持ちだした痛みに呻いていた。
「そう言えば九郎くん、子興を賭けるとか賭ないとか、珍しい事を云ったね」
「ん? ああ」
九郎が積極的に二人をくっつけようと行動したのに石燕は疑問を感じて問う。
彼は普段、見守る立場を多く取っているのだが、あそこまで直接的に云うのは珍しい。
「戯言だよ。己れにどうこうする立場があるわけでもないが、ああして云えば意識しあうだろう。それに負けたら勢いで囃し立ててやろうかと思っておったが」
「勝ってしまいましたね」
「うむ……そっちの方が己れ的に珍しい」
そんなことをしたのも。
九郎は、密かに思う。
晃之介も、子興も、そして自分も共通していることがある。
肉親がこの世に居ないと云うことである。あの二人はもう大人だから保護は要らないが、親などが勧める縁談などは誰も持ってこないだろう。
だから、お節介を焼く第三者として動いたのではないか。
明確に自分の意識を説明できるわけでもないが、なんとなく九郎はそう思った。
遠い目をしながら感慨に耽っていると、視界の端に何かが映った。
その男は通りの向かいにある店の椅子にどっかりと座りながら、ピュアな眼差しで九郎を見ている。
強いて云うなら獲物を見つけた凶悪な殺人鬼顔の、二本差しの無頼漢ってところかな──。
(うわっ……良くない影兵衛)
彼は目の前で刀の鯉口を切りながら九郎に話しかけてきた。
「殺ろう」
「確定的な口調かよ!?」
「だって九郎手前拙者と殺りあう為にわざわざ大きくなってうわありがとう九郎愛してる殺し合おうちょっとそこの路地裏でいいか!?」
「逃げるぞ! 何でこの街には背が伸びた程度で戦いたがるバトルジャンキーが多いのだ!」
「あっ手前っ透明化して飛んで逃げるな! 拙者と戦いやがれええ!!」
石燕と将翁を小脇に抱えて逃げていく九郎であったという。
******
迂闊にむじな亭に戻ると影兵衛に補足されそうなので一日、三人でぶらぶらと遊び。
夜になって九郎は昨晩の深酒を反省し今日は飲まずに寝るか、と部屋に戻っていた。
「──で、何故まだ居るのだ、お主ら」
布団の隣で正座している石燕と将翁にツッコミを入れる。
石燕は将翁へ向いて云う。
「ほら! 云われているよ将翁! もう帰りたまえ!」
「いや石燕。お主の部屋も隣だからな?」
「ほら……体が急に変わった副作用で、膝の皿が突然溶けたとかそういう状況に対応する為に医者のあたしが泊まり込みで」
「何だその具体的に痛そうな怖い症状は」
こほん、と将翁は咳払いした。
「では、診察をしたら今日のところは帰りますので……」
「診察? なんのだ?」
云うと、彼女は座っている九郎に対して身を乗り出して近づいた。
思わず九郎が後ろに体を倒すが、ぐいぐいと将翁が体を寄せて押し倒すような体勢になる。
「──不能が治っているかどうか」
「いや、待て」
「なあに、ちょいと触って確かめるだけですから」
「止せ。というか止めろ石燕──石燕?」
異様な圧力に九郎は冷や汗を垂らしながら援軍を求めたが、当の石燕は、
「あれ? 急に眼鏡が曇って何も見えないよ? うん?」
わざとらしく眼鏡を外して布でゆっくり拭っていた。
傍観するらしい。彼女も色々あれども、九郎の不能問題には興味があるらしい。医者の指示に従うようだ。
嫌な所で結託されて九郎は心の中で毒づいた。
「己れのあっちの方はどうでもいいから退け」
「医者として見過ごせないことですので。医療行為であり一切厭らしいものでは、ないんですぜ」
「顔つきが厭らしいわ馬鹿たれが───っと!?」
その瞬間、九郎の体に内部からの痛みが走った。
魂に刻まれた魔術文字が胸元に浮かび上がり、青白い光を放つ。
高温の油で物を揚げるような音と、九郎の「ぐ」と云う苦悶の声と共に彼の体は薄く光に包まれて───。
光が収まった頃には、元の十四、五歳ぐらいの少年へと姿を変身させていたのである。
「九郎くん!? 戻ったのかね!?」
「ちっ──」
「将翁? 今舌打ちした?」
「とんでもございません」
呼びかけに九郎は、非常に渋い顔をして応える。
「へ、変身する時……膝の皿が溶けたような激痛が……今は無いが……何だあれ」
「……そりゃまた、ご愁傷様で」
「微妙に冷たくないか将翁」
少し機嫌が悪くなったような将翁はともあれ。
こうして、唐突に大人になった九郎は一日で元の姿に戻ったのであった。
事態が収まったのを察知して隣の襖が勢い良く開けられた。
「というか助平するならもっと静かに! 夜遅くしてくれないとお房ちゃんの教育に悪いタマー!!」
お房を連れたタマからの苦情である。一同、気まずそうにした。
あくびをして眠たげにお房が、九郎を見て云う。
「あら。戻ったの」
「そのようだな」
「ま、どっちでもそう変わりはしないの。良い男ってのは」
「……ありがとうよ」
そして寝床へ戻っていくお房を見送って、タマは目頭を押さえて云う。
「かあーっ! あの菩薩っぷり! それに引き換えこの駄肉系熟女達は──!」
「不名誉な呼び名を付けないでくれたまえ!」
などと云うのがこの事件の顛末であったという。
*****
その晩の、夢の中で。
いつものヨグの固有次元の本世界で九郎は彼女の招待というか拉致を受けて付き合わされていた。
上機嫌そうにヨグが云う。
「体は子供! 頭脳ははしゃぐ老人! その名はザ・くーちゃんにヨグ博士の探偵グッズをプレゼントしちゃおう!」
「お主……人の生活の覗きは止めろよ」
「それではまずこれ!」
九郎のツッコミは無視されて彼女は机に発明品を載せる。
「[犯人追跡メガネ]! 周囲の地形をレーダー風に示せるよ! あと防弾!」
「便利そうだがどうしようもなくパクリ臭い」
「ふふん、これらを見てもそう思うかな?」
続けてヨグが並べるのは、
「[麻酔銃付きメガネ]に[変声機付きメガネ]!」
「全部メガネかよ!?」
「我ってばメガネ男子好きだから……今なら[キック力増強メガネ]と[太陽電池式ターボエンジン付きメガネ]もセットで!」
「どんなメガネだ!」
ヨグは並んだ眼鏡の前で悲しそうに云った。
「しかしくーちゃんはメガネをマストアイテムにしても、理解が無いから困る。きっと最終回でメガネを突然投げ捨てて戦いだしてファンをキレさせるタイプ」
「何か嫌なことでもあったのか」
「まーとりあえずくーちゃんの道具袋に何個かランダムでメガネを送っておくね! 活用しろよな!」
翌日、朝食の席の事である。
「あら? 九郎だけ何食べてるのよ」
「弁当箱付きメガネ」
「二度と登場しなそうな珍妙な道具だね……」
おかずはヨグの手作りであったという……。
*****
「ところで将翁。あの例の白乾児ってお酒、幾らぐらいで手に入れられるのだね?」
「抜荷の御禁制品でございますから、ね。ごにょごにょ……」
「うっ、た、高いではないか……」
「……まあ、あたしも折半しますので。また手に入れておきましょうかね」
他にも事情を話すと入手費用を出費してくる者達が何人か居たそうな……。
※大体の身長目安(敢えて江戸時代の平均身長を考慮せずに、現代風に換算してます)
お房:130cm前後
お八、お七:150cm前後
雨次:150cm台前半
タマ:150cm台後半
九郎、子興、ヨグ:160cm前後
石燕:160cm台前半
将翁:160cm台前半+高下駄10cm
影兵衛:170cm台半ば
六科:170cm台後半
晃之介、大人九郎:180cm程度




