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90話『つまり現状維持』



「最近地味な気がするぜ、あたし」


 お八のつぶやきに、とりあえずタマは筆を止めて顔を上げた。

 手元にあるのはお房の書き損じなどの裏紙である。そこに彼も絵を描いていたのだ。技術はともあれ、とりあえず裸の女を描こうという意図は見えた。

 緑のむじな亭、本日休業。その店内でのことである。

 客も他に居なければ店の主人もお雪を連れて、長屋の差配人としての挨拶へ出ていた。

 なおこの緑のむじな亭を表店にしている長屋の持ち主はお八の父親である。この店も藍屋の下請けになる古着屋か何かにしようとしていたところを、六科の亡妻でありお八の姉であったお六が奪い取って蕎麦屋を開いて以来、ついでに長屋の差配人として六科が家賃の回収や管理をしているのであった。

 ともあれ、店も休みとなれば酒を呑んだくれる居候二人も暇なので少女を連れて外にでかけ、タマは留守番をしていたのだ。

 そこにお八がやってきて、仕方なしに残っていたタマに一言愚痴を漏らしたのである。


「お八ちゃんもとうとう自覚したタマか……」

「何がだよ」


 頷いて優しげな目をするタマに、彼女は問い返した。


「自身が九郎兄さんとの恋とか愛に関して負け組な領域に入ってることを……」

「うーがー!」

 

 あんまりに率直な意見に、タマの襟首を掴んで前後に揺らした。


「取り返しの付かなくなる前に見切りを付けてそこそこの関係で妥協しておいた方が様になるタマー。ほーら僕みたく弟の位置でわりと満足ー」

「うるせえ!」


 がくがくと揺さぶるが、次第に手に力が抜けて大きくため息をついた。


「……こんちくしょうめ」


 涙目で呟いた彼女の両肩をタマは軽く叩いて頷いた。


「わかってるわかってるタマ」

「何がだよ馬鹿」

「お八ちゃんが、貧乳だけど女らしく料理や裁縫の練習をして出来るようになったこととか、貧乳だけど化粧の仕方とか覚えようとしたこととか、貧乳だけど守られるだけじゃ嫌だから武術の稽古も努力していることとか……」

「喧嘩売ってんのか!」


 ぐりぐりと頭突きのように額を合わせてタマの頭を押さえるお八である。

 彼は引きつった笑いを浮かべながら、


「お八ちゃんが頑張ってることは、僕も兄さんもちゃんとわかってるタマ。女らしくて、可愛い、いい子だって思ってるタマ」

「……んだよ」


 では。

 どうして自分の恋は実らないのか。

 お八はそう思って彼を睨みつける。


「でもなんというか……兄さんは好みが悪いから……」

「っていうかあいつの好みってそういやなんだよ」


 タマはこれまで聞き出したり、酔った拍子に彼が云っていたりした内容を自分なりに統合しての結論を持っていた。

 なんというか、九十五、六歳の老人並の九郎であるがそれ故に好みも変であり、


「──終わっちゃってる系の人が好みっぽいタマ」

「……なんだそりゃ」

「いや、なんこう……もはや後が無いというか自分が面倒見ないと他に誰も相手が居ないというか、そんな感じの相手だとくっつきやすい……と、思うタマ。そんなわけで兄さんに認められたらもう世間的に女としてお終いなのでオススメできないというか……」

「難儀な好みだなおい!」


 叫んだが、微妙に心当たりはあった。

 九郎は関わる女性を褒めこそするが、殆どが身内目線というか保護者めいているのである。

 いい嫁さんになりそうだと云う彼の評価はその通り、見合いをセッティングする親戚のようなのだ。

 何せ九郎の認識からすれば、自身がもう色々と男性機能も含めて終わっているのだから未来ある子供に対して、普通の目線では見れないのだろう。 

 終わっている自分と同次元に、相手を置きたくないのだ。


「あーくそ、終わってる系って言い方が残念すぎて……なんというかすぐさま終わってる感じな知り合いが浮かんでくるのが嫌だな」

「僕としてはむしろ……」

「ん?」

「いや、なんでもないタマ」


 タマは何か言いかけて口をつぐんだ。

 お八が思い浮かべた江戸でも有数に駄目な感じの女性とは別の人物に、妙な予感がしたのだが勘繰り過ぎだろうと首を軽く振る。


「そんなわけで、兄さんは普通に兄貴分として付き合うのが気楽でいいよ。一緒に居て、騒いで、楽しんで。それは別に恋じゃなくてもいいんだ。お八ちゃんも例えば兄さんが誰かと結婚したからといって、嫌いになったりしないでしょ」

「……まあ、な」

「それはきっと男女の好きというより、家族の好きってことなんだと思うよ。本当の恋ってのはそれはもう生きるか死ぬかになってくるものだもの。そのうちお八ちゃんもわかる時が来る。それまでは、憧れの兄さんとして想っているのもまた正解タマ」


 タマのそんな分析と云うか、説得に似た発言を聞いて。

 お八はするりと座ったまま彼の背後に回りこんでチョークスリーパーの形で彼の首を押さえた。


「ええい、あたしと変わらん歳なのに悟ったような事を言いやがって。むかつくぜ」

「ぐえー後頭部に薄い胸が!」

「だーまーれー!」


 暫く首を絞めるようにじゃれあって、彼女はタマの頭に顎を乗せながらぽつりと云う。


「まあ……あたしは楽しいと思うことをすることにするぜ」

「……それがなによりタマ」

「師匠のところで修行するのも楽しいし、家事が上達するのも楽しい。九郎や石姉、お房と遊ぶのも楽しい。きっとさ、こんな日が続けばいいと思ってるんだよ」

「僕と遊ぶのはー?」

「お・ま・え・は! 鬱陶しい!」

「ひどい」


 顎でつむじのあたりをぐりぐりと押しながらタマに云うが、彼は笑いながら肩をすくめた。

 

「ところでお前、何でまた絵なんて描いてるんだ? 石姉から習ってるのか?」

「うーん、技術は見よう見まねで覚えていってるけど、教えてくれた師匠は別に居るタマよ?」

「へえ」

 

 美人画は確かに独学にしては味のある絵柄であった。それは石燕の画風とも違う。

 よく女性を見ているからだろうか。全体はともかく、目元に関しては中々の色気がある絵である。


「最近見ないけど、陰間してた時から僕の助平精神は絵描きに向いている!って色々教えてくれてた人で、時間ができたからこうして今頃になって練習してるタマ」

「ふうん」

「まだまだ名乗れないけど、今の名前をもじった画号も付けてくれたタマ。将来はそれでちょっとでも絵も出せたら恩返しになるかなあって思うタマ」

「どんなだ?」


 タマは、筆で裏紙にすらすらとまだ使われていない己のペンネームを記す。



「[ウタマロ]───元気にしてるかなあ、麻呂さん」



 かつて常連だった助平な絵師を思い浮かべて、タマはしみじみと呟くのであった。





 *****





「者共、控えーい! 控え控えええ!!」


 響き渡る低音の耳に良い声が刀を振り回し暴れる無頼と忍びの者へと掛かった。

 しかし一瞬の油断が死を招く乱戦に於いて、誰も声に従う様子はなく剣戟の音と裂帛の気合を叫び散らしている。


「控えろー! 控え控えー!! 静まれええ! この紋所が目に───控ええええ! 下に! もっと下に!」


 必死に、その継ぎ接ぎだらけな袴の男が怒鳴るのだが誰も聞いていない。

 

「控えろおおお! いいか者共、話を聞けええ! 控えい控えい! 恐れ多くも───控えろー!!」


 一瞬留まったのだが再び争いが勃発して男は必死に呼びかけた。

 それを見ている観衆からどっと笑いが溢れる。

 どろんと太鼓を叩く音がして最も目立つ場所に立った男が改めて名乗りを上げる。


「この儂が江戸の旗本、徳田家の三男と知っての狼藉か!」


 見せつけるように出す紋所には葵っぽい紋が描かれているが、徳川のものではなくどことなくパチモノ臭い。

 そして斬り合っていた全員が頷き、声を合わせて叫んだ。


「知るかあああ!!」


 そして一斉にフクロにされる旗本三男。

 旗本を滑稽にこき下ろす内容で町人に人気な洒落本、[暴れん坊貧乏旗本三男]のお約束的シーンであった。

 客席で見ていた九郎は呻く。


「一体何者なのだ、旗本三男」

「設定が発禁食らう度にころころ変わるからあまり気にしない方がいいよ」

「いやね、貧乏って。だっていやだもの」


 ここは木挽町にある芝居小屋。

 木挽町と云えば歌舞伎興行が幕府公認で行われている芝居の町であった。 

 年がら年中芝居見物で賑わうこの町には、それらに集まる人を対象にした飲食店から娯楽施設まである一種の歓楽街でもある。

 九郎と石燕、それにお房は店も休みなのでぶらりと出かけたのであった。タマも誘ったのだが、


「陰間茶屋が多いところはちょっと昔のお客さんとか居そうで……」


 と、留守を申し出たのである。

 この辺りは芝居で子役の者などが生活費を稼ぐ為に春を鬻いでいることも多いのであった。

 タマ自身も昔は体を売っていて、今は全くの別人としての人生を歩んでいるので変に勘ぐられる相手が多いところは避けている。


「それにしても、天爵堂の書いているこの胡散臭い物語……舞台化までしているのか」

「そこそこ人気だったからね。彼は理屈っぽいのだが本人が嫌がるような馬鹿げた話を書かせると、結構大衆受けするのだよ。子興の猫耳同心もそうだったろう?」

「でも最近は天爵堂先生、雨次さんに名義貸して書かせてるって。代筆ね。やるこたうちの先生と同じなの」   

「ううむ……雨次も無名デビューよりは良いのかもしれぬが……」


 九郎はふと気になってお房に尋ねた。


「そういえば雨次のことは、さん付けなのかえ?」

「別にあたいはどうでもいいんだけど、呼び捨てにしたら周りにいる女の子から親しくなるなみたいな目線を感じたもの。他人行儀にもなるわ」

「牽制しておるのう」

 

 なるほどと頷く。そこまでお房は接点が無い方だが、とにかく彼の幼馴染二人は警戒心が強い。

 以前など晃之介の道場で明らかに自覚してからかっているお七に対してめらめらと闇の炎を燃やしていた。ついでにお八にも。とばっちりだったが。

 

「天爵堂の本業というか、本来書きたがっているのは考察とか論文とか辞典とかそういうものだからね。まあ時々トンデモな内容になっていくのが難点だけれど」

「トンデモはお主もそうだが」

「はい先生やってみてなの」


 お房から突然振られた石燕だったが、彼女は眼鏡を押さえながら語りだした。


「ふふふ、そろそろ初午のお祭りの季節だね? 初午とは稲荷明神の祭りで子供の健康祈願をして江戸中の稲荷神社で行われるのだよ。だがこれによって潜在的に基督教の祭りに参加していることに子供たちは気づいていないのだ!

 ナザレのイエスと云うのを知っているかね? 基督教に於ける神の子をそう呼ぶこともあるのだがこれを南蛮のラテン語で記すと[IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUM]となる。これの頭文字を取るのが略称になっていて、即ち[INRIいなり]──稲荷信仰とは基督教の隠れ蓑だったのだよ!」

「な、なんだってなのー!」

「更に神の子イエス……これに神を表すヤハウェの頭文字、ヤを組み合わせて出てくる名前は──[イエヤス]! そう、江戸幕府そのものが実は──!」

「よし、注目を浴びてきたから出るぞ」


 折しも芝居は幕間に入っており、九郎が考案した役者を使ったコマーシャル中──特許は取ってないのであちこちで行われるようになった──であったので突然ご禁制な考察を始めた喪服女は目立った。

 舞台上で初代松本幸四郎が茶の宣伝をしているのを尻目に、そそくさと三人は芝居小屋から出て行くのであった。

 外の道を歩きながら九郎は手を引いている石燕を半眼で見ながら云う。


「まったく。基督教がどうとか白昼堂々叫んでおったら火炙りにされるぞ」

「安心したまえ。規制されてるだけあって専門用語とか出てもほぼ珍紛漢紛にしか通じないよ」

「駄目よ。口は災いのもとだもの」


 左右を九郎とお房に挟まれて叱られるいい年した女の姿があった。

 

「なあに、いざ火炙りに連れて行かれても、九郎くんが助けてくれるだろう」

「また放浪生活に戻らされるのか己れ」

「先生が放浪してたら3日で死にそうだわ」

「酷いな評価が! ……ふふふ、しかしそういえば基督教と妖怪が奇妙に混ざる変な話もあるのだよ」


 石燕は再び歩きながら語りだす。


「基督教は禁止されているがなんと世の中には公然と、基督教の司祭を象った木像を拝んでいる寺があるのだ。まあ、拝んでいる当人達は知らずにだがね」

「ほう」

「足利郡の上羽田村にある寺でね」

「……足利郡?」


 九郎はぴんと来なくて首を傾げた。

 お房が「確か……」と思い出しながら九郎に説明する。


「ほら、江戸からずっと北に行ったところなの」

「ううむ?」

「日光よりはちょっと下あたりで……」

「ああ、栃木か」


 九郎は朗らかに笑いながら片手を上げた。


「それじゃわからん」


 栃木はわからない。九郎にとって栃木は何があるのか不明な地域なのであった。

 ひどく微妙な顔をした石燕だったが、解説を続ける。


「そこの龍江院と云う寺に祀られている像があってね、なんと夜な夜な狢に化けて不気味な歌を唱えながら徘徊していたという……! それを聞いた私は現地に向かった!」

「それで、どうだったのだ?」

「拝見したところどうも作りが西洋の像めいていてね、じっくりと調べたら持っている巻物に[エラスムス][ロッテルダム]と氏素性が書かれていた」

「えらすすむ?」


 お房が首を傾げて聞きなれない言葉を繰り返した。


「欧州の宗教改革時代に於ける有名な神学者で、司祭だね。ルターに影響を与えたり、神聖ローマ皇帝カール5世にも仕えたりしたんだよ」

「どこからそういう知識を手に入れるのか、お主は」

「長崎で! 阿蘭陀人に!」

「とりあえずそう言えば大丈夫だと思っておらぬか」

 

 訝しげに九郎が彼女の顔をのぞき込むが、一点の曇りも無い笑顔であった。

 

「いや何このカール5世に関しては親近感が沸いてね」

「なんで皇帝にまた」

「非常に忙しい生活をしていたそうで、朝から元気を出すために酒を呑んでいたらしい」

「嫌な共通点だな」

「それで痛風だったとか」

「自重しろよ」

 

 ともあれ余談はそこまでにして、石燕は腕を組んで薄く目を閉じ、感慨深そうに締めくくった。


「二百年も前の基督教司祭エラスムスの像が何の因果か日本に流れ着いて拾われ寄贈され、中国の船を発明した貨狄さまとして寺に祀られている上に妖怪扱いを受けているとは中々奇妙で面白い話ではないか」

「まあ、本人もそんな扱いを受けるとは思わなかったろうに」

「ふふふ、珍しいことではないがね。本人の死後に逸話を盛られたり、変な属性をくっつけられたり」

「……暴れん坊旗本三男も似たようなものだろうか」

「そうなの? まあ元の人は知らないけど、ろくな目に合わないのね」


 さすがに将軍をもじった元ネタとは、江戸の町人も気づいていないだろうと九郎はヘンテコ活劇を思うのであった。

 しかし、芝居までやって記録が残っているので、未来の昭和に復刻で時代劇にされたらなんともアレな気がしたが。

 

「そう言えば芝居を出てどこに向かってるのだ?」


 九郎の質問に石燕が応えた。


「最近は暇を見てタマくんが絵の練習をしているだろう?」

「ああ、自分で描ければどんな性癖でも思いのまま、とか意気込んでおったな」

「それで今のところは房にあげていた予備の筆ぐらいしか持っていないから、良いのを調達しようと思ってね」


 彼女はやや渋面を作って勿体なさそうに云う。


「屋敷にはごろごろ絵の道具など置いていたのだが何分すべて吹き飛んでしまったからね……」

「……おのれ、道摩無法師だな。うむ」


 顔を逸らしながら、屋敷をつい全壊させた九郎は呟いた。石燕には目撃されていないから大丈夫だろう。そもそも半分以上燃やされていたので無罪だ。


「このあたり、画材屋さんあったかしら?」

「何せ歌舞伎芝居の町だからね、広告やら役者絵やら需要は沢山あるし、私の師匠筋の狩野派本拠もあるのだよ」

「お主の師匠か。お主も弟子期間があったのだな」


 今ではすっかり弟子持ちの売れっ子絵師ではあるが、修行などをしたのだろうかと九郎は聞いた。

 石燕は自嘲気味に笑いながら、


「いやあ、師匠のところには兄弟弟子も沢山居るのだが嫌われていてあまり顔を出さないのだよ。そこに通っていた時から、『遠近狂ってない?』とか『いつも同じ角度の顔を描いてるね』とか『わざと崩すのは基礎ができてからにしないの?』とか周りに言ってたら非常に煙たがられてね。さっさと独立しろと追いだされたよ」

「妖怪・上から目線か、お主は」


 嫌な感想をつけてくるタイプであった。

 

「そして、良い筆などは店売りではなく大手の絵師や版元に卸しているからね。ちょっと我が師から譲り受けて来ることにしよう──っと、ここだよ」


 木挽町本町の一角に、二百坪以上はありそうな敷地の屋敷があった。

 そこが狩野派の分家で木挽町家と呼ばれる狩野周信の住居であり、その門下生なども住み込んでいる場所である。

 門番などは、あくまで絵師の屋敷な為に居ないが立派な作りの門を彼女はくぐって中に入る。

 そして玄関から声を張り上げた。


「頼もうー! 皆の偶像系美女絵描きの石燕さんがやってきたのだよー」

「美女絵描きて」

「あたいはさしずめ美少女絵描きなの」

「お主ら師弟だなあ」


 ぼそぼそと目立つ彼女の背後で言い合う二人であった。

 そして彼女の来訪に、屋敷の玄関先にある、様々な絵を飾ってある詰め所に居た数人の若い絵師はぎょっとして慌てだした。


「うわあああ! 妖怪[素晴らしい才能です]が来たぞー!」

「自作絵を隠せッ! 褒め殺されて取り返しの付かないことになるぞ!」


 慌てて奥に叫びながら逃げ出す絵師達であった。

 冷や汗を垂らして引きつった笑みを浮かべている石燕に、左右から九郎とお房が覗きこむ。


「今度は何をしたのだ」

「い、いや。反省点を活かしてどんな小さな良い所でも見つけて相手を褒めるようにしたのだがね。それで無駄な自信を身につけた絵描きが世間でぼろくそに貶されて筆を折ったりしたようで……」

「一人ぐらいじゃこうはならないでしょ。何人犠牲に出したの先生」

「に、二、三人ぐらい……?」

「……」

「合同誌とか合わせたら十人以上……かな?」


 仲間にろくな目を合わせない絵師であった。

 そもそも自分のところに弟子入りしてくる相手も、殆どは面倒臭いとこの木挽町家へ押し付けるような女である。

 教育方針が噛み合ったというか、辛抱強い麻呂や子興、そして素晴らしい才能のお房ぐらいしか彼女はまともに教えていないのであった。


「いや、合同誌出すって聞いたから褒めた立場上私も寄稿したのだよ!? しかし世間の評価は、『あの合同誌石燕先生以外下手くそだったな、金返せ』とかそんなんで……」

「もういい、やめろ。悲しくなるから」


 言い訳がましく、困った顔で述べる石燕の言葉を止めた。

 ドロドロした江戸の作家事情である。

 詰め所から逃げた絵師の代わりに、一人の背筋が伸びた男が奥からやってきた。


「これは鳥山先生。このようなところで会うとは奇遇ですね」

「おや? 田所くんではないか」


 やってきたのは、江戸でも大手版元に入る為出版と云う版元に勤めている田所無右衛門と云う男であった。

 

「丁度、先生に考案して頂いた様々な絵師が描いた妖怪絵の札を、御神籤のように売って無作為に手に入れ集める……という玩具の企画を持ち込んでいたところでして」

「そうかね。周信師はまだ生きていたかね?」

「ええ。今は奥で佐脇先生と話し合っていますよ」

「ふむ。ひとまず上がるとしよう」


 石燕が下駄を脱いで玄関に上がるので、九郎とお房もそれに続いた。

 勝手知ったるとばかりに彼女は堂々と廊下を歩いて家主の部屋を目指す。

 絵師の屋敷だけあって建物よりも庭が広く、丁寧に整えられている。池や花などもあり風光明媚な作りであった。九郎はきょろきょろと見回して感心する。


(呪われたような石燕の屋敷とは大違いだのう)


 そんなことを思っていると、彼女は一つの部屋の前で立ち止まって躊躇わずに障子を開け放った。


「元気にしているかね我が師よ! ところでいい筆をくれたまえ!」

「いきなり何だ、馬鹿弟子め」


 むすりと返したのは頭も禿げ上がった六十がらみの老人である。

 座敷にあぐらで座り背筋をぴんと伸ばしていて、鳶色の着物を羽織っている。

 名を、狩野周信と云った。

 

(やくざの親分みたいだな)


 などと九郎は思った。

 彼の対面に正座で座っていて、振り向いて石燕を仰ぎ見たのは三十代の中年の男である。落ち着いた藍色の着物に、首には手ぬぐいを巻いていた。

 朝起きたら玄関先に首吊死体があったかのような顰めっ面をしている学者風の彼は妖怪絵師の佐脇嵩之だ。


「まあそこに座れ、馬鹿弟子───っと」


 周信は石燕に続いて顔を見せたお房を見た瞬間に破顔して自分が座っていた座布団を出した。


「お房ちゃんも来てたのかあ、ほうらこっちに座りなさいお茶とお菓子も用意するよーう」

「わあいおじいちゃん。お小遣いも」

「もちろんだよーう」

「ちょろいの」


 彼女はなされるがままに座布団に座ると、ナチュラルに嵩之に出されていた手をつけていない羊羹と茶がお房に回った。

 そして石燕には客未満を見る目で、


「馬鹿弟子はその障子の桟にでも座ってろ。破門にすっぞ」

「この対応の違い! ええい才あるものは憎まれるものだね!」

 

 お房にはやたら甘いが、石燕に対して当然ながらいい感情は持っていない周信であった。

 師の勧めを無視して石燕は普通に畳に上がり込んで座った。すると嵩之が、玄関先の首吊死体を自分以外の誰かが片付けてくれた、程度に表情を和らげて、


「お目にかかるのは初になりますか、鳥山石燕先生。絵描きをしている佐脇嵩之と申します」

「はじめましてだね、佐脇嵩之先生。君の妖怪絵も拝見させて貰っているよ」

「いやはや、私の絵など先生の絵に感銘を受けて描いたものばかりで」

「ふふふ、謙遜を」


 そして石燕の隣に座った九郎にも目を向けて、


「やあ。そう言えば鏡を手入れしていったけど大丈夫だったかい」

「うむ、綺麗になっておった。お主は何故ここに?」


 九郎の問いかけには周信が応えた。


「この佐脇の師匠をしてた一蝶は俺とも知り合いでな。狩野派からは破門を食らってたやつだが、その弟子のこいつにまで関わらねえってのも不義理だからよ。そこそこ付き合いしてるんだ」

「僕の師匠は最近亡くなったけどね。まあ、波瀾万丈な人だったから。島流しさせられたり」

「島流し系絵師って麻呂さんだけじゃないのね」


 感心したようにお房が羊羹を頬張りながらそういった。


「馬鹿弟子はどうしたんだ?」

「ふふふ、私にも新たな生徒ができそうでね。餞別に絵筆を見繕ってやろうと思うので一番良いものを頼むよ!」

「ぺーぺーの新人に一番良い筆なんて持たせられるか」

 

 彼はそう言い捨てると、隣の部屋に向けて「おい」と呼びかけた。

 弟子の一人が襖を開けて姿を現すと、


「昨日卸したての練馬筆があったろう。あれ持ってこい」

「はい」


 そして向き直り石燕に云う。


「筆なんてのは新人の時に新しいの使って、一人前になることには使い続けたそれが名筆になってるってのが一流の証だ」

「まあ私は鼠の髭でも絵が描けるけどね」

「うるせえ。とにかく、職人の腕は確かなところから買ったやつだから大事に使え」


 そうして、真新しい筆と墨壺を弟子に持ってこさせてそれを石燕の目の前に置いた。

 しかし彼はやはり苦々しそうに、


「いつ見ても縁起の悪い馬鹿弟子だな。いつまで喪服着てんだお前」

「何を云ってるのかね。師のところに通っていた時は普通の格好だったとも」

「普通じゃねえって自覚してるじゃねえか……ああ、そうだ」


 彼は名案とばかりに手を売って、嵩之と石燕を交互に見た。


「よし、お前ら結婚しろ。佐脇は嫁さんを亡くして、馬鹿弟子は旦那を亡くしてるしな。歳も近いから丁度いいだろ」

「駄目だ! 絶対駄目だ!」


 叫んで畳を叩いたのは石燕であった。

 思わず隣に座っていた九郎も驚く。

 彼女の強い拒否に少しばかり場が静まり返り、視線が集まった。

 石燕は真剣な顔で云う。


「話に聞いたところ、佐脇くんは男やもめながら非常にまともに暮らしていて、商売も絵も成功しつつ精神的にもかなり頼りになる感じだろう」

「お、おお。俺が云うのも何だが今どき珍しいぐらい……」

「それが駄目なのだよ! いいかね!」


 彼女は主張する。


「もっとこう、世話をしなければ駄目になり続けるような相手がいいのだ! ふふふ仕方ないなあって少しだらしないぐらいが丁度いいのだよ! 私の好み的に!」

「……」

「……」

「石燕」


 九郎が彼女のアレな告白に肩を叩いて、心底哀れんだ顔をした。


「お主、趣味悪っ……駄目男に騙されるぞそれ……もうちょっと人生考えた方が……」

「うがー!」


 自覚のない九郎の発言に、石燕が頭を抱えた。

 お房が茶を飲み干しながら、


「似たり寄ったりなの」


 そうほのぼのと呟くのであった。

 嵩之も苦笑して、


「僕も再婚はまだ考えられませんよ。何せ────」


 彼は首に巻いていた手ぬぐいを取って、見せた。

 手の形に見えるような、どす黒い痣を。



「──夜な夜な、死んだ妻の亡霊が首を絞めに来るぐらいなのでね」


 

 妖怪絵師、佐脇嵩之。

 鏡屋を営む彼の店の鏡には、何か良くないもの映ると云う──。

 2月の冷えた室内が、更に底冷えするような風が吹いた。





 *****





 一方で藍屋に差配人としてお雪を連れて顔を出していた六科は。

 しきりに義理の父親──亡妻の親である良助が頷いていた。いつもは簡単に家賃の引き渡しをして返すのだが、その日はお雪も居たので家に上げたのだ。

 そして呟く。


「そうか。ようやくお前も再婚か……」

「うむ?」

「いや、わかってる。お前がお六の事をようく想っていることも。しかしな、私からしても孫とも云えるお房を育てるにはお前だけでは大変だったろう」

「うむ」

「何度引き取ろうとしてもお前は自分で育てると……周りの人達の助けもあって立派に育てた。お六もあの世で喜んでいるだろうさ」

「うむ」

「義理は果たした──と云ってもいいのかもしれない。お六だって許してくれるだろうし、私らに負い目に感じることもない。お前だってまだまだこれからなんだ」

「うむ?」

「それにしてもあの小さいお雪が、か……昔うちにお六が連れてきたこともあったが……しかしお六が死んでからも支えてくれていたんだな。ぐすっ」

「うむーん?」


 何故だろう。

 六科は他人から見ては判別の付かない思案顔で、妙に話が噛み合わないのを感じていたが口下手な彼は指摘ができない。

 いつも通り家賃を持ってきて、この日はたまたまお雪も天気が良かったので彼女も散歩がしたいと連れてきただけなのだが。

 隣に座っているお雪は良助相手に嬉しさと恥ずかしさを混ぜたように受け答えをしながら、口元は嬉しそうな笑みであった。

 記憶をたぐり何が問題だったかを探る六科である。

 まず良助と対面してこう云われた。


「まさか六科、お前……」

 

 そして、お雪が対応した。


「今日はその、挨拶に来たのです……」


 六科はそれを思い出して頷いた。

 今日は挨拶に来た。それだけだ。


(何も問題があったように感じないが)


 だが彼の思考は肩を強く叩かれたことで遮られた。

 何やら聞いていないところで話は進んでいたようだ。感じ入ったように良助が泣き笑い顔で、


「そうか、頷いてくれるか六科! お前は本当に……いいやつだってことはわかっていた! あのお六を嫁に貰うぐらいだからな! あのお六を!」

「うむァ……」


 よくわからないままに。

 事態が進行している気がして、六科はとりあえずこの場をどう切り抜けるか、考えを巡らせるのであった……。






 *****





 店に戻って、九郎一行。

 休みの店内ではタマとお八が将棋で勝負をしていた。


「なんだ、来ておったのか」

「おーう。くそっ猪口才だぜタマ公」

「負けたらお八ちゃんを見て絵を描くタマよー!」

「うわあこいつ勝手に服を外して描きそうで負けられねー!」


 などと白熱して戦っているようであった。

 ふと、お八が将棋盤から顔を上げて九郎に向き、声をかけた。


「おー、そうだ九郎」

「どうした?」

「あたしが行き遅れまくって旦那の貰い手が無かったら九郎貰ってくれるかー?」


 お八の、その問いに。

 九郎は苦笑して彼女の肩を叩いて笑顔で云う。


「ハチ子ならきっと良い男が見つかるだろうよ」

「……当たり前だぜ」

「後が無くなったら貰ってやるから安心して相手を探すのだぞ」

「……おう」


 お八は再び盤面に向いて将棋の続きをした。

 彼女がどんな表情をしていたか。

 対面しているタマは、苦笑した笑顔を見せている。

 それを聞いていたお房が云う。


「あら。じゃああたいも行き遅れたら九郎に責任を取らせようかしら」

「己れは駆け込み寺か」

「ふふふ九郎くんは子供に大人気だね! ……ん?」


 石燕は皆に背中を向けて、ぶつぶつと呟く。



「現在進行形で末期的なのに私の立場は一体……」



 予約はお早めに。  






終わってる系女子代表コメント

ヨグ「……意外と多くなーい? 終わってる系な女子」

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