89話『死神と、石燕の亡夫の話』
緑のむじな亭に石燕が居候するようになって暫くのことである。
相変わらず九郎と自堕落に過ごしたり、生徒であるお房との物理的な距離が近くなったので指導日が多くなり、絵描きを店の中で行っていたりと日々を送っていた。
そんなある日、石燕が思い出したようにふと云った。
「……そういえば今日は命日だったなあ」
彼女の隣に座って、みかんの白い筋を剥いていた九郎は胡乱げに聞き返す。
「命日? 誰のだ」
「私の亡き夫のだよ。九郎くん、私が未亡人だと云う設定を忘れたのかね」
「設定て……ああ、そういえばそれで喪服をいつも着ているのだったな」
思い出したように、毎日変わらぬ喪服──家が吹き飛んだ後も二着ばかり新調して持ってきた──を着ている石燕を見て頷く。
変人がする変な格好なそれかと認識しそうであったが、確か彼女の夫が亡くなってから偲んで喪服のままなのだと思い出す。
彼女は不敵な笑みを浮かべながら、
「ふふふ! なにせ喪服カッコイイからね! 一つだけ云える真理がある……女は黒に染まれ! 外野が私にもっと輝けと囁いている!」
「どこの外野だ」
また変な事を叫びだした石燕に呆れたツッコミを入れた。
九郎が筋を剥いたみかんを一房ちぎって口に放り込み、味わった後で云う。
「思い出したが吉日と云うわけで墓参りにでも行こうかね。彼から受け継いだ家を吹き飛ばした報告に」
「墓参りか。それは良いことだのう」
「なにせ死んでから一回も行ってないからね!」
「そこはしっかり行けよ」
一年忌も何も会ったものではない発言に、半眼で呻く。
彼女は皮肉げに肩を竦めながら、
「何せ亡き夫は仏教徒ではなくてね、世間体上は寺に葬らせて貰ったが、墓も要らないと明言していたぐらいで。世間体で作ったけど」
「仏教徒でないというと……隠れキリシタンとかか?」
「いや、単に三途の川渡し賃さえも払いたくないという守銭奴だったので死後三途の川に行かないようにと宗心を否定していたのだよ」
「ある意味徹底しているのう」
石燕は九郎の手を引いて誘う。
「それじゃあ九郎くんも付いてきてくれるかね? 水桶は重いし花の一つでも買っていかねばならないからね」
「まあ……暇だから良いが」
「なあに、ちょっと手を合わせるだけさ。帰りに旨い大根鍋を出す店にでも寄ろうではないか」
そうして、彼女に連れられて九郎はその日墓参りに出かけることにしたのであった。
*****
庶民がしっかりとした墓石を置いて墓を作るのは江戸時代になってからだと云われている。
徳川の幕府を開いて江戸に多くの人口が集まった、それは同時に多くの墓が必要になることであった。
百万都市と云われているが、大雑把に考えれば数十年後には百万人分の墓ができるのである。
そうなれば家族の墓も区別が付くようにと、武士身分で行われていた墓石に名を彫り場所を示す事をするようになってきた。
石燕の亡き夫の名は虎之助と云って、その墓所は江戸の市街から離れて目黒の大円寺にあった。
「いやね、長い結婚生活ではなかったのだが、まるで彼の家族構成も知らなかったのだよ。話してくれなかったしね」
「ほう」
「それで死んで初めてあれこれと調べたところ、縁者は居なかったが両親はここに葬られてあることがわかったので墓もここにしたのさ」
途中で買った菊の一輪挿しを石燕は持って、そう説明した。
水を入れる柄樽を持っている九郎は隣で歩く石燕に顔を向けながら云う。
「前から思っておったが、どうもお主の結婚生活というのがこう……ヘンテコだのう」
「それは仕方ないことさ。相手も、別に結婚など興味は無い様子だったからね。三大欲求を金で凌駕するというか……とにかく金を貯めるのが好きな老人だったのだよ」
そうして二人が立ち止まったのは、ひと目で異様な模様がわかる墓石であった。
緻密な絵柄の彫り筋が墓石の一面にびっしりと描かれており、金が掛かっているのが知れる立派なものである。
石燕は胸を張りながら、
「墓石に金を使うなと云っていたけど、まあ本人が死んだからいいではないか。浄財として寺にもたっぷり寄進させたよ」
「この絵は……石燕の絵柄だのう」
「うん。よくわかったね。これは妖怪[金霊]を描いたものさ。隣には[金だまは金気也 唐詩に 不貪夜識金銀気といへり 又論語にも富貴在天と見えたり 人善事を成せば天より福をあたふる事 必然の理也]と解説も掘ってある」
「……ええと」
「善人で無欲なら自ずと金が舞い込んでくるという意味だね。この妖怪はその舞い込んでくる金の化身みたいなものだよ」
それはなんとも、と九郎は呟いて閉口した。
なんとも、金貸しで儲けた男の墓に掘るには皮肉げな文言である。
嬉々として石燕の解説は続いている。
「[不貪夜識金銀気]とは詩聖・杜甫が詠んだ詩の一節なのだがね、山奥で暮らしている友人に、彼みたいな無欲な人間にこそ金運が来るんだろうなあって不幸人生満載な杜甫は歌ったのだね!
ちなみに全く無欲ではない杜甫の親友代表──というか杜甫は2~3人ぐらいしか親友居ないのだが──の李白など襄陽の地で遊びまわるのに使った金が三十万金と自称しているとんでもない浪費家だったりするのだよ! 結局金回りに欲の多寡は関係あるのか疑問だね!」
李白自身は遊びまわるのではなく、人の救済に使ったと自称しているが当時の襄陽は歓楽街である。怪しいものだ。しかも「救済したんだぜ」と就職の履歴書に書くという自賛っぷりであった。官僚からは完全にスルーされたが。
大方、落ち込んでいる人を誘って飲みに出かけていたのを救済と主張しているのではないだろうか。金の出処は不明だが、一説によればその直前に結婚した嫁の実家から持ちだしたと云われている。
「しかし李白はフカシを喋ることで有名でもあってどれだけ使ったかは正確にわからないね。故郷では武侠系で剣術に優れて悪漢を切り倒したこともあると主張していたが、いざ暴漢に襲われたら官憲に助けて貰ったり。しかもよほど感謝したのかその助けてくれた官憲にお礼に贈った詩の数が個人に贈った番付上位に入るという……」
「まあそれは良いが……」
九郎は石燕の李白トークを聞き流しながら虎之助と刻まれた墓に、桶から汲んだ水をかぶせて尋ねる。
「そういえば、この虎之助と云う男はどうして死んでしまったのだ?」
「ふむ……死神がね」
「死神?」
振り向くと、石燕はなんとも言い難い目付きを九郎に向けて、そう呟いた。
彼女はゆっくりと告げる。
「この虎之助と云う人物はね、とにかく金を集める事が好きだったのだよ。飯は塩粥で十分。酒は飲まない。女は抱かない。博打は打たない。寝床は一畳で十分」
「その割には、お主の屋敷は大層に広かった気がするが」
「ああ、それはね。仕切ることこそできたが、やけに部屋数が少ないと思わなかったかね?」
「そういえば、確かにのう」
思い出すに、石燕の屋敷は仕事部屋兼居間兼石燕の寝床な大部屋に、子興の寝床ぐらいにしか別れておらず、他は台所と風呂場と厠ぐらいであった。
荷物や箪笥などをごちゃごちゃと置かれていたのでがらんとはしていなかったが、屋敷にしては部屋は少ない。
「あの屋敷は集めた金を置くために広く作ったのさ。虎之助が生きていた頃はそれこそ家の中は箱だらけ。空箱も多かったね。いつかその箱全てに金を詰め込むのだと語っていたよ」
「凄まじいものがあるな」
「ちなみに風呂があるのは、金貸し湯屋に入らず──、と言葉があるぐらいだからね。嫌われ者は下手に薄暗い不特定多数が居る場所にいけないものなのだよ」
贅沢もせずに、管理も大変になるのに、金を集める為だけの人生とはどういうものなのだろうか。
石燕の話は遡り、虎之助と出会った頃になっていた。
「金は天下の周りものと云うし、宵越しの銭は持たないのが良いとされているだろう? それはある意味、その通りでね。九郎くん、金と云うものはね、呪いが掛かっているのだよ」
「呪い……か」
「小判一枚、銀一朱、銭の数枚で人は嘆いたり悲しんだり喜んだりを込めるだろう? 即ち、金とは人の因果がついてまわるものなのだ。一つ一つは小さなものだろうが、それが巨額となり、そして出て行かず溜め込まれるとなれば因果はやがて報いを起こす。よくないものを呼び寄せる──とされている」
「……妖怪か」
頷いた。
そうでなくとも、誰が触れたかも知れない金が山ほど生活空間にあり、そして普段の生活習慣が悪いとなればまさに呪われたかのように病気を起こしかねないだろう。
石燕は続ける。
「私は彼に死神が取り憑いているのを視た。だから云ってやったよ。『そこの君。そのままでは好きな金稼ぎができなくなるよ。この私が助けてやろう』とね。まったく、見ず知らずの相手だったのだが」
「怪しげな勧誘に聞こえるのう」
「私はね、死神を倒したかったのだよ。誰に取り憑いていようが、とにかく」
そして墓石に菊を二輪飾って彼女は自嘲の笑みを浮かべていた。
「当然虎之助からすれば胡散臭い相手が近づいてきたのだが、金稼ぎができなくなる、という言葉には引っかかったようだね。そうして彼の生活習慣を改善する為に家に住み込んで片っ端から掃除をしたり、規則正しい睡眠時間を取らせたり、滋養のある料理を作ったりと……頑張っていたなあ当時の私」
「ふむ。お主もそういう時があったのだな」
「ちなみに料理の材料を集めるにも虎之助の金ではなく、私の自費で行っていた。彼は自分の金を払わないのが私が住み込んで世話をする条件だと云ったからね」
「そこまでしてか」
無償だと云うのに甲斐甲斐しく面倒を見てくる女。とても夫婦とは云えないような状況であった。
「まあ、有り体に見れば財産目当てに見えただろうね」
「自覚はしておるのか……」
「財産は正直どうでも良かったのだがね。一応暮らしていける程度には当時から売れてはいたし、知り合いも多かった。とにかく私は、死神を跳ね除けようとしたのだ。彼を選んだ理由は、まだ間に合う相手だと思ったからなのだ」
医者ならぬ、妖怪絵師が──何故、人の死を回避させようとしたのか。
九郎は疑問に思ったが、口は挟まなかった。
どちらにせよその結果は、目の前の墓石にある。
「虎之助からも散々財産はやらんと云われたが、その度にそんなものは要らない、だいたい遺産目当てなら長生きさせようとするはずがないだろうと云い返してやったよ。彼も次第に私の行動に困惑してきたようでね、ある日に聞いてきた。
『お前はおれが死神に取り憑かれていると云うが、それならば何月の何日に死ぬと云うのだ』
私はきっぱりと日付を応えたよ。その日よりも一日でも長く生かす事が目的なのだとね」
「……命日が、わかっていたのか?」
「さて、ね。その時の私の目は霊感が今より強かったから、見えていたのかもしれない」
魔眼、と名乗る彼女の右目は、僅かに色が左目よりも濃く光を反射しない黒さを見せている。
それには神霊妖怪や、世界の真理が映るのだと云う。
しかし彼女は自分のことだと云うのに、どこか他人事のように呟いた。
「ともあれ寿命を告げられてさすがに虎之助も思うところがあったらしい。暫く結婚ともなんとも言い難い、健康的な生活にも慣れたのだろう。彼はこう提案した。
『その命日より長生きできたなら、お前の事は信じて財産狙いでなかったと認めよう。金は分けてやらんが』
それで多少は協力的になってくれてね。病気も患う様子は無かった、穏やかな生活が続いた。私は上手くいったと思ったのだがね……」
墓石を指で触れて、石燕は物憂げに云う。
「結局、予言していた日になった途端彼は倒れてね……心の臓に掛かる病のようだったから、手の施しようも無かった。しかし、金の亡者であった彼はその日になって、憑き物が落ちたように笑い、気にするなと云って手を握ってくれた」
「そうか……」
彼女は手を合わせてほんの数秒だけ目を閉じた。
そして立ち上がる。自分が意匠して彫らせた金霊を見て、
「ああいう顔をする人だからこそ、金運に満ちていたのだろうと思ってこれを彫らせたのだよ。まあ死神退治に失敗した私は遺産を貰って酒浸りになったのだがね!」
「ふむ、確かに出会った頃のお主は体臭がほぼ酒の匂いだったというか……一発で駄目な感じの末期だったからのう。今は少しマシになったが」
「なあに、私とて振り切ったのだよ。悩んでばかりでは仕方ないからね。大体別に私が悪い事をしたわけではないのだから」
それでも。
どこかしこりがあるような、苦味の残る表情で石燕は笑みを浮かべていた。
彼女は振り向いて云う。
「気にするな、と彼が告げた言葉が近頃ようやく染みてきてね。さて、九郎くん。酒でも飲みに行こうか」
「そうだのう」
先に歩き出した石燕の九郎は少しの間立ち止まって見ていた。
夫婦と云う愛情よりも、妙な関係であった石燕と虎之助。金にのみ執着する男と、死神に対抗する為に近づいた女。噛み合わぬ目的で同居していたそれは果たして幸せな暮らしだったかはわからない。
(だが、少なくとも寂しくは無かったであろうな、虎之助)
墓へと視線を向けて、その主に対して九郎はそう思った。
老いれば一人で居るときは、ふと必ず寂しくなるものだからだ。
九郎は自分も異郷の地でそうなる筈だったので、共感を覚えるのであった。
*****
当時の目黒は松平家の大きな屋敷が幾つかあったが、近くには百姓地の畑だらけの土地であった。
生源寺近くの道沿いにその畑で取れる新鮮な野菜を使った料亭がある。
料亭、と云っても懐石を出すような豪奢なものではなく、主な売り物はそれらの野菜と豆腐を味噌鍋で煮たものと、酒であった。
土鍋にふつふつと濃い色の味噌を溶いた汁が沸いていて、それを覆い隠すように細切りにした大根が大量に入っている。
少々しんなりとして味噌の味を吸い込み、柔らかくなった大根が酒によく合う。
九郎と石燕は昼間だと云うのにすっかり酒肴を嗜んでいるのであった。
「──それで虎之助は一人でやってる金貸しだけあって、喧嘩は滅法に強い上に悪知恵が働くという悪老人でね。金を返せなくて襲いかかってきた浪人を半殺しにして刀を売らせたり、振る袖もない無頼を半殺しにして見世物にして金を稼がせたり、開き直った武家を半殺しにしてお上に密告して家ごと取り潰させたり……」
「半殺しにするのは基本なのか」
「基本らしい。『人間は半分ぐらい死んだ方が素直になれる』とかなんとか。今思えばあれは大陸の拳法を使っていたね、虎之助」
「何者だよ本当に」
酒を飲みながら石燕の亡夫の話で盛り上がっている。
これまでは殆ど聞かなかった話題であったが、彼女もこの際と思ったのだろうか、饒舌に──ほんの短い間に近くに居た金貸しの老人について語った。
「まあ少なくともモテない顔つきだったね。影兵衛くんに天爵堂を足して割らないような凶悪な顔つきな上に無愛想な金貸しだ」
言わずもがな影兵衛はどう見てもやくざか人斬りな顔つきをしているし、天爵堂も偏屈頑固爺であるとひと目で分かる目付きである。九郎はそれらを足した想像して苦い顔をした。
「よくそんなで金を借りに人が来たな」
「そこなのだよ。彼は人の不幸の現場に居合わすのが得意でね。証文と筆と前金を常に持ち歩いて、物入りになった相手の前に現れては貸し付けて行くという……都市伝説にでもなりそうな存在だね」
「キャラが濃いのう……」
殺し屋めいた雰囲気の老人で中国拳法使いの守銭奴金貸し、趣味は半殺しと人の不幸に付け込むこと。
平穏な老後を過ごせるとは思えない属性である。
「勿論善人では無かった。彼が死んだことで救われた者も沢山居るだろう」
実際に、まだ取り立てていなかった証文を石燕が名主や証人を呼んで目の前で焼き払ったのである。
残していても石燕自身に取り立てる能力も、意志も無かったのでやったことであった。
「それでも、死なないようにと願っていたのだよ。まあ、勝手なことだがね」
「死神を相手にする為に、か」
この妖怪絵師は度々、妖怪を目にすることがあると主張しているが。
彼女の目にした死神とはなんだったのか、九郎には想像も付かなかった。
それでも。
何かに気づき、使命として一人の老人の最期を看取った彼女に対して悪く思うことは無かった。決してその遺産にて自分もこの料亭の酒を飲んでいるからではないが。
「そういえば己れが居た異世界にもおったぞ、死神。一級神格だから見たことは無いが」
「ほう?」
「死んだ生き物の死後の魂を循環やら転生やら浄化を行う激務……と聞いたな。あの世界は死んでも生まれ変わると云うのが周知のことであった」
「それはなんとも、仏教を持ち込めば一大流行になりそうな世界だね」
何せ一柱の神が一つの星殆どの魂を扱うのだから忙しさも大変なものなのだろうと九郎はイメージしている。
実体が無く殆ど概念体なのだそうだからそういうシステムが組まれているのかもしれないが。
「とはいえその死神が実際に地上に現れて命を奪っていく事は無くてのう。勝手に魂は集まるのだが、その集める役目が居てな」
「役目……というと税務官みたいなものかね」
「うむ。[告死妖精]と云ってな」
その単語を口にした時、九郎はどことなく懐かしい気持ちになった。
異世界では常識であるので、説明するのは江戸に来てこれが初めてな筈だったが。
「もともと死人の枕元に立って連れて行く役目を与えられたのだが、それでは幾らおっても足りぬということで存在しているだけで一帯に於ける死者の魂を死神に送る中継役の力を与えられた死神の使いだ」
「ほう。それはなんとも……不吉な扱いを受けるだろうね」
「そうだのう。死人の名前を呼んで連れて行く、と云われていてな、それで逆に名前を呼ばれたら死ぬと思われ、話しかける者はあまり居なかったそうだ」
「詳しいね九郎くん。知り合いにでも居たのかね?」
石燕の質問に、九郎は苦笑して返した。
「そうだな、居たのかもしれぬ。どうも年を取ると忘れた事が多くなる」
鍋の大根を食べて、酒を口にした。
「食った覚えの無い料理。
聞いた記憶の無い歌。
見た想い出が無い景色。
そんなことを時々感じてのう……体は若返ったが、脳は案外そのまま、ボケて来ているのかも知れぬな」
しみじみと呟く。
イリシアの生まれ変わりを見つけない限り老けない体で、頭だけ老化してしまうのは少し恐ろしい気がしたが。
ふと、石燕がこちらを何処か悲しそうに見ていることに気づいて九郎は慌てて云う。
「いや、そうそうボケてもいかぬな。大体、告死妖精の知識は魔法使いの蛇女アタリと云う名の娘から聞いた話だとしっかり覚えておるぞ。あやつは魔法協会に所属していてな……まあ、どういう話の流れで聞いたかまではよく思い出せぬが」
弁明のようだが、こうして1つずつ思い出す事こそがボケ防止に繋がるのだと信じて語る。
「ううむ、懐かしいな。アタリは中々の美人だったが腰から下が大蛇になっていてな、死ぬほど酒癖が悪い上に酔っ払うと噛み付き癖があって飲み会で絡まれて体中噛み痕を残された時は散々───石燕? どうした、目が据わっているぞ」
「いやいや、九郎くんはモテていいねえ」
「含みがあるのう……」
何やら、女の面倒くさい部分に触れたようだ。女と二人きりの時に他の女の話を云々とかそういうあれだと悟った。
別に色のある話ではなく、散々スフィに説教されたという失敗談なのだが。
九郎は頷いて、
(酒で誤魔化そう)
そう決めて石燕に次から次に酌を注いでやるのであった。
夕方になり、酔っ払った石燕を連れて帰路についていた。
料亭の支払いは当然石燕の財布から払うという慣れた動作である。
千鳥足な石燕に肩を貸してやり、緑のむじな亭へ戻る。
「ううう、九郎くん……聞いているのかね……」
「そうだのう」
うっかり飲ませすぎたのか、取り留めのない事を繰り返している石燕に生返事をする九郎である。
「九十九里浜に流れ着く、未確認飛行円盤を探しにいかなくては……」
「流れ着いて発見されてる時点でただの円盤ではないか」
「それこそ東の海に沈んだ夢大陸の文明……」
「雑誌に寄稿しておけ、適当に」
などとぐだぐだと話をしながら帰っていた。
そしてぽつりと、石燕こんなことを呟いたのを九郎は聞く。
「……私が虎之助の寿命を言い当てたが、『私が虎之助の世話をした結果の寿命』を言い当ててしまったのではないだろうか……」
「石燕」
「下手に日付を言い切ったのでそれが精神的な負担になり、結果的に的中したとしたら……私が倒すべき死神は私自身だったのではと……」
九郎は目を前に向けたまま、告げる。
「気にするな、と云われただろう」
「……」
「寿命がいつだろうと、虎之助がどう思っていたのか今ではわからずとも、お主が最期に看取った相手の顔と、お主自身が想ったことだけが真実だ。後は、良いように受け取るのが残された者の務めだよ」
「……そう、思うことにするよ。ありがとう、九郎くん」
死ぬと告げられて変な女に纏わりつかれても。
最期に笑って死ねたのならば救われたではないかと、九郎は少しだけ───ほんの少しだけ、虎之助が羨ましくなった。
(己れも、死ぬときは皆の想い出をすっかり思い出して、楽しい気分で死にたいものだ)
霞がかった記憶の靄もそのうち取れればよいと思いながら。
石燕の目元が落ちかけて、足元が覚束なくなってきたので彼女を抱えて九郎は進むことにした。
背中の首元で、石燕の寝息が僅かに聞こえる。
「酒臭いのう」
そう愚痴を呟いた。
******
昼間から石燕を酔い潰す程に飲んだのだが、夜は夜で別の飲み会に呼ばれている事を、
「駄目男なの」
「うっ……ま、まあ許せ」
と、ばっさりお房に云われつつ九郎は石燕を家に置いて夕も暮れてから出かけていった。
何せこの前の火事の件で九郎を呼び、どうしても宴でも行わねばならないと強い誘いだったのである。
別に行きたくは無かったのだが、相手の立場もあるのでやむを得ず参加することになった。
「おう、九郎どんが来たど!」
「今宵は肝練じゃ! ぬっしら、命を惜しんでなかぞ!」
「よか!」
「来たくなかった」
凄く嫌な宴ではあったが。九郎はげんなりと呻いた。
そう、薩摩藩邸で秘密裏に行われる肝練の儀式である。藩邸の中ならば多少銃声がしても平気であるし、記録に残さなければ江戸で行うことになんの問題があろうか。
天井から二本の荒縄をぐるぐると巻いて垂らし、その先端に火縄銃──なのだが、今回はそれよりも大口径の弾丸が発射可能な薩摩式キグルミ[きもねりん]がぶら下がっている。
それを取り囲むように膳と酒が用意されていて、きもねりんの導火線に着火してぐるぐると回しながら誰かに銃弾が当たろうとも、恐れずに酒宴を続けるという心の鍛錬方である。現代でもサツマンルーレットとして行われているとかいないとか。
ともあれ、薩摩人にやたら気に入られている九郎は度々これに呼ばれているのであった。
「さあ皆ん衆! もそっと囲めい!」
全員が席に座り隙間が無いように狭まってから死の回転は始まる。
九郎は諦めたような顔で、
(疫病風装が手に入って何が良かったって、これだよなあ)
と、自動回避の能力を持つ着物に感謝するのであった。
実際に、魔王城近くの砂漠で狂戦士と戦った時は背後から自動砲台の援護射撃を受けつつ飛び回ったが当たらなかった実績があるので火縄も大丈夫であろう。
避けてはならない、と云うのが肝練のルールであるのだが、そもそもこんな至近距離での銃弾を避けられるわけがない。つまりは情けなく発射される前から身を捩ったり怯えてはいけないということである。
疫病風装の場合はすり抜けると云った風な回避を行うので、避けるというか当たらなかった、に近いので薩摩のルール違反にはならないだろう。
他の薩摩人に当たるのは、まあなんというか必要な犠牲として諦めようという心境には至っている。
「よし! 肝練始めい!」
「怯えてはならぬ! 当たっても痛いと云ってはならぬ!」
「よか酒じゃと楽しめ!」
「うむ! うまか!」
怒鳴り声と共に始まったようなので、九郎も箸を伸ばして刺し身を取った。
小皿に薄いピンク色のぷりぷりとしたものが乗っていて、醤油が垂らされている。
魚の肝だ。これを醤油と混ぜて、刺し身にまぶすとねっとりとした濃厚な味に淡白な白身の味わいが合う。
焼酎で舌に染み付くような味わいを流して、九郎は猫のように目を細めた。
「うむ、旨いな。カワハギの刺し身と肝か? 絶品だのう」
九郎の気楽な様子に、一同が注視して脂汗を垂らしながら叫んだ。
「……見晒せ! 九郎どんの肝の据わり方を!」
「よかな! さすが九郎どんじゃ!」
「フグの肝を食うのにいッッちょも怯えちょらん!」
ぴたりと。
九郎の箸が止まった。そして薄切りの刺し身を見やる。
どうやらこれは、火縄とフグの二重に鉄砲を使った肝練のようだ。肝だけに。
(そういえば六科の嫁も、晃之介の親父もフグの鉄砲で死んだと聞いたのう……)
再び箸を動かす。
「でも良いか、旨いから」
「よかよか!」
※九郎は特殊な装備アイテムを使っています。真似はしないでください。
疫病風装で解毒されるのでフグも気にせずに食べる九郎に、一目置く薩摩人達であった。
江戸の夜を、今日も銃声が響いて聞こえる……。




