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88話『絵師お房と奈良屋』


 江戸の大尽富豪とも云える豪商の代表は、材木商の紀伊国屋文左衛門と奈良屋茂左衛門───通称[紀文きふみ]と[奈良茂ならも]であるだろう。

 両者とも大火事の後に於ける、材木の大量需要に応える形で一代で巨万の富を得た商人達であった。

 云わば成金な両者は稼いだ金を競うように放蕩で使っていたのだが、後継ぎの差で紀伊國屋は栄えて、奈良屋は二代目──材木商としての二代目であり、奈良屋と云う屋号では五代目とすることもあるが──の奈良屋茂左衛門によって莫大な遺産は食い潰されつつあった。

 二代目が商業の才覚に欠けていた事を先代も知っていたので、


「下手な商売に手を出さず、手堅く暮らせ」


 と、言い残したと云われているが、そうはならなかったようである。

 昨年には江戸中の蕎麦屋から蕎麦粉を買い占め、吉原で江戸でこの日唯一食える蕎麦……と云う謎の贅沢を演出した際に、目に余る奢侈ぜいたくだと財政再建をしている幕府から叱られて財産の一部を没収されたりもした。 

 しかしここで、逆転の一手が打たれた。

 茂左衛門はこうなれば初代のように、材木商として再び儲ければ消費した財産は戻るとばかりに、材木に多額の投資をしたのである。

 それが、この度の火事で偶々ながら破れかぶれの大当たりを引いた。

 材木の需要が急増。江戸の町人だけでなく、大名旗本屋敷や寺社も焼けて注文が殺到したのである。

 

「神様仏様、飛縁魔様!!」


 茂左衛門は街で売られていた、大火の日に目撃されたという青白い衣を着た飛縁魔の妖怪画を喜んで拝むのであった。




 さて、大火事で焼けた家も多い江戸の街は、悲嘆にくれずに早速復興の勢いを見せている。

 材木が売れれば建築業に仕事が発生する。

 とはいえ、家を作るにはそれぞれの職人が必要になってくる。

 大工の棟梁を筆頭として大まかに以下の人材が居る。


・大工:現場監督。建築全般に高い技能を持つ熟練の職人。

・鳶職:基礎工事、足場組み、土台作りなど様々な人足。火消しの時以外は手伝いをしている。

・左官:壁塗り担当。土の調合からむらの無いコテ塗りまで、知識と経験が必要な上級職。

・建具師:ふすまの骨や欄間、格子などの部屋の仕切りを担当。

・錺職人:家具に使う金具などを担当。

・指物師:家具の木製品を制作。

・経師屋:ふすま、屏風、壁紙などの張替え。

・植木職:庭造り。武家屋敷などでは必須。


 と、まあ家を建て直すにも多くの職業の様々な人材が必要なのである。

 それでこの度に焼けたのは百や二百と云わない数の、民家や商店、屋敷が焼失した。完全に焼けずとも、焦げた家は修理をしなければならない。

 即ち、材木はともかく江戸では深刻な職人不足に陥ったのである。

 そうなればにわか職人がバイト感覚で名乗り出るのが江戸の職業選択の自由であるのだが、そこは棟梁がいい顔をしない。

 勿論棟梁としても喉から手が出る程に人材は欲しいのであったが、大店や金持ちの屋敷を建て直す際に、身元のしれない良からぬ輩が混ざった場合に仕掛けを施される事があるのであった。

 外側からの操作でどんでん返しによって塀の中に入れたり、床下から中に入れる[抜け]を作ったり、或いは部屋の間取りを記録されて盗賊の手引に売られたりと手口は様々だ。

 それでも雇わないわけにはいかないので棟梁は現場を回ったり面接をしたりと大忙しであった。

 職人不足をどうしたかと云うと、根性と賃金上昇でカバーする江戸の大工達であった。


「とりあえず屋根と壁だけ付けたから後はひと月後な! よしお前ら次の現場行くぞ!」

「材木は持ったか!?」

「あったよ角材!」

「でかした!」

「くそう、この握り飯が鮭だから……!」


 などと言い合いながら、一集団三十人前後の大工集団が駆けずり回って、ガワだけでも江戸の街を復興していくのである。

 

 そんな中で、露骨に怪しい屋敷の工事をしている場所があった。

 怪しいと屋敷を繋げたら多くの人が思い浮かべる、神楽坂に咲く一輪の幽霊花こと鳥山石燕の屋敷であった。

 

「焼け跡を 邪悪な組織が 改造中」

「季語が入っていないよ」


 九郎が素直な感想を述べたのを、石燕は憮然と返した。

 その日は緑のむじな亭も休みなので、九郎は石燕にお房、タマを連れて屋敷跡の普請を見物に来たのである。

 知り合いの中で家が本格的に焼けたのは、石燕と火盗改方、町奉行所の同心屋敷であったが後者の者達は家が無いなら無いで、当面の間はそれぞれ奉行所と火盗改方の敷地内に大勢が泊まれるだけの居住空間は存在するのである。

 また街の治安維持や幕府の面目と云うことからも優先して再建されるのでそう心配はいらない。

 一方で不幸なことに根こそぎ吹き飛んでしまった石燕の屋敷である。

 元より呪われ系の地下で妖怪製造実験などを行っていると評判であった彼女の家である為に、中々大工が請け負いたがらなかったのである。

 仕事はよりどりみどりだと云うのに好き好んで妖怪館を手がけたいとは思わないだろう。


「だからと云って……」

「なんとも怪しさ全開タマ」


 子供二人が九郎の感想に同意を示した。

 石燕の屋敷を基礎工事している集団は──黒装束をつけている、怪しげな忍者集団であったのだ。

 なお黒装束とは便宜上のことであり、実際によく見れば濃く暗い色をしている感じだがそれが彼らの異様さを和らげることはない。おまけに彼らは一様に天狗面をつけているではないか。即ち天狗忍者である。怖い。

 黙々と、指示の声さえ飛ばずに時折目配せか忍法めいた印で合図をして作業を行っている。


「……どうしてこうなっておるのだ」

「いやね? どの業者もやりたがらないものだから困っていたのだが、あの千駄ヶ谷の甚八丸くんが関与している黒の組織が建築技術に優れている事を思い出したのだよ」

「確か……変な忍者遊技場を作っていた連中だのう。隠れ里とやらの」


 少し昔になるが、千駄ヶ谷の空き地に遊び場が急造で作られた事があるのを思い出す。

 そこでは手裏剣投げや水蜘蛛体験など様々な忍者的遊技を行えるアスレチックであった。

 江戸からほど離れた、隠れ里故に詳細は伏すがそこに住む忍びの術を伝えている村の者が、いっそ公開して認知度を上げつつ生活の足しにしようとそのような場所を作る計画があったのである。

 

「しかし隠れ里だから当然だが、参加者は集まらずにポシャったのだったか」

「そうだね。それを去年、江戸で開いてそれなりに盛況を受けたんだ」

「そういえば読売に宣伝が書かれてたわ。ひと月と持たずに撤退したみたいだけど」

「奉行所に目をつけられてね……まあ、それはともかく。彼らの技能は確かだから甚八丸くんに頼んで普請をしてもらっているのだよ」

「技能より目を引く点がありすぎるタマ……」


 天狗面を付けた黒ずくめが黙々と屋敷の基礎工事をしている。

 邪教の祭壇を作っていると思われても納得されるだろう。

 大きく石燕は頷いてタマの頭を抱き寄せるようにして頭を撫でた。


「そうだろうそうだろう! やはり普通の大工が建てたのでは稀少性も神秘度も欠ける! 天狗の建てた家となればこの鳥山石燕の名にも箔が付くと云うものだと思うだろう!」

「理屈はともあれ胸の感触で全肯定!」


 喜ばしく同意するタマであった。

 

「……まあ本人が納得してるならいいことか」

「それにしても先生。屋敷の間取り変えるのね。物置とか開かずの間とか錬金術の工房とかを止めて、普通に部屋にしてるわ」

「そこは入ったこと無いのう……」

 

 簡単な屋敷の図を紙に書いたものを見ながらお房と九郎は云う。

 以前までの石燕の屋敷は、大まかに分ければ[石燕の自室兼仕事部屋][子興の寝室][台所][風呂][その他]であったのだが、細かく仕切りを付け直して居住性をあげていた。

 これならば一部屋に数人ずつ泊まれば、知り合いを集めて十人は宿泊できるだろう。

 彼女はほんわかしたタマを離して告げる。


「うん。また九郎くんに吹き飛ばされても良いように、道具類は蔵を増やしてそこに仕舞おうと思ってね」

「しょっちゅう己れが破壊するような事を云うな」

「それに私は居候になって思ったんだ……大事なのは頼れる人の温かみだと。だからもし、次に九郎くんや房が火事で焼け出されてもうちで引き取れるようにと部屋を配置しているのさ」


 彼女は薄く目を閉じて真摯な様子でそう告げる。

 屋敷が無くなり、緑のむじな亭の二階で寝泊まりしているものの自宅よりも住みやすさは下がっている筈だ。

 しかし彼女は弟子であり従妹の優しさと、九郎やタマなどのおかげで生活に不満は感じないのだ。

 

「なんという人と人の絆だろうね。情とはとても尊いものなのだよ。皆で手を結び教主を称える歌を叫びながら窓に石を投げて世界平和──!」

「ははあ。これは九郎を囲うときの部屋なのね」

「……」

「……」


 お房の。

 あまりに率直な意見に思わず無言になる一同であった。 

 石燕は目を逸らした。


「ち……違うからね?」

「まあ、時々は飲みに来て泊まることもあるからその時に使えばよかろう」


 どうも彼女の声が可哀想な響きを含んでいたので、九郎はため息混じりに応えた。

 居候、と云う身分を緑のむじな亭から石燕のところに移す事を考えたことも、無いでは無かったが。

 割りと愛着の湧いている店であるし、お房から二人で暮らすと自堕落になってしまうから止めろと、実に現実感のある制止を受けているので当面は引っ越す予定はなかったが。


「ちなみに前までどうしてたタマ?」

「同じ部屋で寝てたな、そういえば」

「ふふふおかしいな……!? 距離が遠ざかった気がするよ……!」


 などと話をしていると、身なりの良い──高級そうな着物を纏った、町人髷の男が伺うように後ろから話しかけてきた。


「あの……こちらは妖怪絵師、鳥山石燕先生のお宅では?」

「そうだが、君は?」


 やおら振り向いて尋ねると、相手の男は深々と礼をして挨拶をした。


「申し遅れました、わたくし、材木商の奈良屋で手代を務めさせて頂いています達蔵たつぞうと申しまして……」

「ふむ? 材木商の奈良屋と云えば今まさに大儲けの真っ最中の店だね」


 その一世一代の博打とも云える投資の成功は耳に早い者には既に知られている。

 達蔵と名乗った手代は、頭を下げたまま要件を告げた。


「それでうちの主が、鳥山石燕先生のお描きになられた[飛縁魔]の妖怪絵を大層気に入られて、ぜひ作者に屏風絵に描いて欲しいと……」

「成程、そういうことかね」


 石燕はにっこりと笑みを作って、お房の肩を掴み手代の前に出した。

 きょとんとする男に彼女は高らかに云う。


「この御方こそ江戸に名高き百鬼妖怪千夜行、本朝三奇──東西の鎌鼬に南国の河伯、北国の魍魎に合わせて江戸の妖怪代表、鳥山石燕とはこの子の事だよ!」

「ええええ」

「ちょっ!? 先生!?」

「彼女は自宅を無くして困っているものでね、報酬と同時に木材を卸してくれれば喜んで屏風絵を描くだろう!」


 石燕は朗々と、お房を石燕と紹介して仕事を押し付ける気満々であった。

 じろじろと手代は、まだ十になるばかりのかむろ髪のおかっぱ頭な少女を見て云う。


「し、しかしこんなにお若いとは……」

「何を言っているのだね! ほらこの生年が記録された帳面を見たまえ! [正徳二年(1712年)ニ誕生ス]……つまりまだこれぐらいの年代でおかしくはあるまい!」

「それ先生が年齢詐称する為に作った……」

「ほら! よく見れば座敷わらしか河童みたいで妖怪っぽいだろう!」


 微妙に悲しくなる証拠であったので、大声で遮る。

 石燕はお房の肩を抱いて後ろを向かせてひそひそと言い合う。


「屏風絵を仕上げるのも修行の一つだよ。大体、あの色付きの飛縁魔は房が描いたものだろう。私は墨絵ばかりだぞ」

「うっ……そ、それはそうなんだけど」


 お房も言葉に詰まる。

 確かに彼女自身が仕上げた、飛縁魔の浮世絵も少し高かったが色付きの版画を鳥山石燕の名義で売りだしたのである。

 師が弟子に代筆させるのも、逆に弟子が師の名を名乗り絵を売るのもよくあったことだが、彼女らに関しては予めそうすると取り決めしていたことである。

 それが大金持ちの目に止まり、仕事が舞い込んだのだからこれは当然お房の仕事となる。堂々と石燕が自宅用の木材を要求してはいるが。

 しかし、確かに。

 向こうから依頼された仕事の一つもこなせないようでは絵師としてやっていけないと思ったお房は気合に両手を握った。


「よし、あたい頑張るの」

「その意気だよ。私は屋敷の普請であれこれ指示を出さねばならないからね」


 お房は腰に手を当てて男に向き直り、告げた。


「確かにあたいが描いた絵なの。売り出し中の若手絵師なあたいに目をつけるとは中々のものよ。有名になった後で価値が出るわ。だって価値が出るもの」

「おおっ、それは頼もしい。飴とか食べます?」

「ん。頂くの。じゃあまずは屏風を見てから構図を決めるから案内をするの」


 偶然持っていたきなこ飴を受け取り、口に放り込むお房。

 年齢相応の反応であるが故に、九郎はそこはかとなく不安になった。


「己れもついていくことにする」

「当たり前よ。九郎、ちゃんと付いてきてよね」

「当たり前だったのか……いや、まあ……子供だからのう」


 そうして奈良屋へ向けて二人は行くのであった。

 ふと、石燕は隣で手を振って見送るタマに尋ねる。


「君は行かないのかね?」

「あ~……なんというか奈良屋の御主人、茂左衛門さんは……昔のお客だったからちょっと会いたくないので」

「それは確かに……うん?」


 石燕はふと疑問がよぎった気がして、小首を傾げた。


「陰間であった玉菊太夫のお客……というと」


 



 ******

   

 


 

 奈良屋が儲けて何をやったかというと店舗を増築することだった。

 材木商と云う商売柄、取引の現物は外にあるので無駄に店を大きくする必要は無いのだが、こう巨大さは人の心を豊かにすると信じているばかりの大店であった。

 火事の直後だと云うのにやたら羽振りの良い、関わっていると反資本主義に目覚めかねない店内に案内され二階へ通された。

 

「いらっしゃいませ、わしが二代目奈良屋茂左衛門で御座います」


 そう告げて二人を出迎えのたのは、小柄ながら信楽焼の狸が人に化けたような、ふっくらとした中年の男であった。


「楕円形だな」

「はい?」

「いや、なんでもない」


 思わず九郎が直立したラグビーボールのような印象をそのまま口にして、すぐに誤魔化した。

 だが彼は疑うようにじっと九郎を見続けているので、話の矛先を逸らすために九郎は云う。


「この娘が妖怪絵に定評のある、お房だ。鳥山石燕とも云う。己れは保護者だから気にするな」

「はあ……」

「で、あたいに描いて欲しいってどの屏風なのかしら?」


 お房の問いに、茂左衛門は頷いてふすまを開けるとそこには折りたたまれた屏風が出てきた。

 

「うわ」

「ぬう」


 呻く。

 その屏風には既に金箔が張られていて、それだけで光り輝いているようであったからだ。

 広げると四枚になる屏風だ。広げて、その真ん中にお房は座り込んで呟いた。


「なんかこう、眩しいの。金って不思議よね。だって金色だもの」

「落ち着け」


 九郎に引っ張られて起き上がらされるお房である。

 同時に彼女は正気に戻って、はてと腕を組みながら思う。

 屏風絵を描くとなると家に持ち帰って、一枚ずつ床に置いて描いていこうと計画を立てていたのであるが。

 既に金箔も貼った屏風絵では、持ち出すこともできないだろう。それに金に弾かれないように絵の具を調合しなければならない。自分の色付きな絵を見て依頼したのだから、石燕風の墨絵では駄目だろうし、この金の迫力に負けかねない。

 お房がじっと屏風を見ながら仕事を内容を思案しているのを、九郎は、


(いつもながら、絵への真剣さは子供ではないのう)


 などと感心するのであった。

 茂左衛門が女中に持ってこさせた茶を畳に置いて、


「ま、ま、お二人共。ゆっくりしてくだされ」

「妖怪よね?」

「は」

「この屏風、妖怪を描く数とか、構図とかはこっちが決めてもいいの?」

「え、ええそれはもう。ただ、先生の描かれた飛縁魔は是非入れていただければ……」


 と、短い質問をしてお房は再びじっと屏風を見て考え込みだした。

 

「仕上げまでどうせ一日二日では終わるまい。ひとまずはフサ子の判断待ちだな」


 苦笑して床に座り、茶を飲むことにした。

 だが何故か九郎が座るとそのくっつくほど隣に茂左衛門が座る。


「?」

「まあ少しだけ、少しだけ」


 思うと同時に九郎の胸元に手を入れてきた。




 ******




 一階で働いていた奈良屋の者共は、急に天井に穴が空いて主人が降ってくると云う不幸に見舞われた。


「旦那様ー!?」

「天井を突き破ったー!?」

「おい、畳から抜けないぞ! お前らも引っ張れ!」


 一方で二階の部屋に残っているのは九郎とお房だけである。

 お房は騒ぎなど耳に入らぬとばかりに、角度を変えたりしながら屏風を見て時折聞こえない程度の言葉を呟いている。

 九郎は固く握った拳を畳ごと破壊した床に突き刺している。

 急に胸に手を、あからさまに嫌らしい雰囲気で突っ込んできた茂左衛門を瞬時に襟首を掴み床に叩きつけたのだ。

 彼は今、素手で亀虫を潰したかのような顔をしている。

 

「なんだったのだ、あれは……いや、想像したくないというか……」


 そう、この店の主人こと成金の奈良屋茂左衛門。

 かつて玉菊への常連だっただけあり───男色趣味である。

 しかもどちらかと云うと女顔というか、童顔系の少年が好みであるようだ。

 そしてこの場にやってきた九郎は背は低くないが、眠そうにした顔つきは見ようによってはマニアックな人気がある程度には整っているので守備範囲内であったのだ。

 

「危なくないか、ここ……」


 思い悩んでいると勢い良く入り口のふすまが開けられた。


「何も危なくなどありますまい!」

「うわっもう上がってきた」

「いいですか普通に考えてくださいこの奈良屋茂左衛門が客人をいきなり衆道するような無礼者に思えますか」

「思えますかもクソも」


 嫌そうに九郎は見上げるが彼は誠実なきらきらした顔で手元の箱を上げた。


「それで幾らですか?」

「は?」

「百両か? それとも二百両か? どれだけで体を売ってくれるんですこの欲しがりさん」


 

 

 ******




 店の外であれこれと材木置場への連絡指示を行っている奈良屋の者が居たが。


「うわー!? 旦那さまが水平に二階からすっ飛んで行ったー!?」

「隣町に堕ちるぞー!」


 外で騒ぎが起きたようであったが、相変わらず部屋の中ではお房が屏風に唸っていた。

 茂左衛門を外に思いっきり投げ飛ばした九郎は無駄にこみ上げた吐き気を、大きく深呼吸することで収める。

 窓の高さは地上から数えて一丈半(約4.5m)、相力呪符の力を発揮して怪力を用いて三十間程度(約50m)はぶん投げたであろうか。

 

「いかんな……発作的に殺人をした気がするが……不可能犯罪ということで誤魔化せぬだろうか」


 それだけの力で投げられ、落下すれば当然死ぬだろう。

 だが悍け的にそれ以外の選択は選べなかった。陪審員が居るならば同情してくれるかもしれないが、ここは江戸の街だ。連座で居候先に迷惑が出る前に、証拠を隠滅しておくべきか。

 そのようなことを真剣に考慮していると、再びふすまがスパンと開かれて土埃で汚れた茂左衛門が再々登場した。


「懲りぬな、お主……!」

「成金の意気地は己を省みないことにあるので──!」

「近づくでないわ戯けが!」


 九郎が当て身で気絶させようと殴りかかると、相手は見た目に寄らない俊敏な動きで九郎の顎狙いの掌底を捌いた。

 人差し指と中指を尖らせた独特の構えで九郎に逆に突きかかる。

 その動きには独特でありながら洗練された流れのようなものを感じる、強かな力を感じた。


「くっ!?」


 当たると危険と予知した九郎は身を捩り躱そうとしたが、その回避動作に合わせて相手が踏み込んで一寸の間合いに入り込まれている。

 ぞくりとした。

 ホモに触れられる距離に迫られているのだ。

 怪しげな掌法の構えを左手にした茂左衛門が触れる前に、九郎は迷わずに疫病風装の回避能力を作動させた。

 空気の微弱な流れを掴みとって僅かでも回避する隙間が存在すれば避けきる、掴めぬ動き。

 それを九郎の纏う着物が行わせて自然と九郎は相手の左後方へ回り込み、回避能力を切って蹴りを叩き込む。

 疫病風装の自動回避における難点としては、徒手格闘を仕掛けると相手が僅かでも受けようとすれば勝手に回避に動きが変更されるのである。受け止められればそこで捕まるという判断が衣によって行われているのだろう。

 お八による改造で自在に切り替えができるようになったので、好きなタイミングで自動回避をオフにして蹴る殴るを行えるようにしてある。

 ともあれ、九郎の常人ならば内蔵に損傷さえ与えかねない強力な蹴りを受けた茂左衛門は、毬のように部屋の壁にぶつかったが──。


「……無傷!?」

「ぬふふ……材木商となれば材木に押し潰され、呼びかけた大工が振り向いた拍子で殴られ、紀伊國屋としのぎを削る為に角材で決闘するのも日常茶飯事。多少の攻撃は効きませんなあ」

「なんだろうこの納得いかない感じ」

「大人しくわしの手に堕ちてくだされ……」

「……あんまり使いたくないんだがのう」


 お房がこちらを見ておらず、相変わらず何も騒動には関せずという態度で考えを深めているのをちらりと確認して。

 九郎はあまりに話が通じない、材木商のホモに対して軽く手を振った。

 ぞわりと。

 彼の影から湧き出たとばかりに、微細な黒い粒が手元に集中して──それは小さな鎌へと形を創りだした。


「えっそれはどこから……」

「ブラスレイターゼンゼ──[病状悪禍レベルバースト]」


 病毒の鎌、ブラスレイターゼンゼ。

 九郎がこの江戸に持ち込みたくなかった道具だが、使い方さえ慎重に行えば───。

 目の前の男を、非致死性であり感染しない病へと即座に罹病させられるのである。


「あ、あああ、痒い、かゆ、かゆっ……」

「一階に戻り看護を受けるのだな。そのうち収まる」

「頭が……それよりも尻が、うわああああ!!」


 どたばたと茂左衛門は部屋を飛び出て階段を転げ落ちるように逃げていった。

 九郎が彼に感染させたのは[頭がでかく腫れて、尻が死ぬほど痒くなる病気]である。

 尻を掻き過ぎて傷が残るかもしれないが、特に後遺症もなく一日から一週間で収まる奇病であった。

 大きくため息をつきながら九郎は、お房の肩を叩いて、


「フサ子や。どうもここの主人はおかしいぞ。仕事を受ける必要もあるまい。帰らぬか?」


 そう話しかけたら、彼女はしっかりとした眼差しで九郎を見返してきて当然のように云う。


「ここの主人とどうこう関係してるのは、九郎個人の問題なの。あたいは仕事を受けた。この屏風に絵を描いて報酬を貰う。それだけなの」

「いや、しかしなあ……」

「九郎のこだわりやら嫌と思う相手やらと、仕事はまた別よ。だって別だもの。だからやるわ」

「……」


 確かに。

 別にここの主は、九郎を狙って呼び寄せた訳ではなく、お房の絵を評価して呼び寄せたのである。

 九郎に迫っているのは別の案件であると云うのもわかる。

 わかるが……。


「すさまじい変態のところに、お主を仕事に行かせて心配しないわけが無いのだよな……」


 ショタコンの変質者の家に、守備範囲外だとはいえ十にしかならない娘を預けて安心できる者など居ない。

 しかし彼女の決意は固いようで、


「そ。なら問題が起こらないように、しっかり見張ってて」

「己れの精神が削れる問題だな……」


 九郎ががっくりとして───。

 その日から暫く、奈良屋の金屏風に絵付けへ行くお房についていき、度々やってくる茂左衛門を撃退する羽目になるのであった。

 一切お房には危害を加えようとはしていない上に、彼女の雇い主なので最終手段が取れない九郎である……。





 ******





 そうして、やがて。

 奈良屋の金屏風に描かれた妖怪絵は完成した。

 四枚の屏風に左から色鮮やかな妖怪が、戯けるようにして活き活きと描かれている。それらの表情には人を脅かす妖魔ではなく、暮らしの隣に居る不可思議なお化けとしての楽しさがある絵である。

 それの完成を見に来たのは師匠である石燕にタマ、父親の六科と姉のようなお雪にお八もやってきた。


「どうよ、あたいの屏風絵は!」


 腰に手を当てて、胸を張りながら云う彼女に次々と賛辞が上がった。


「うわあ……なんだ、正直絵がうまいってのはわかってたけど……すっげえな! お房、お前すごいぜ!」

「うむ。上手だ」

「そうでしょう、そうでしょう。見えないのが残念ではありますけど……お房ちゃんなら、上手な筈ですよう」


 家族とも云える三人は感動したように声を上げた。盲目のお雪も、疑いようもなく素晴らしいと信じて喜んでいる。相変わらず無表情気味な六科だが、口を半開きにして何度も頷いていた。

 師匠の石燕は優しい笑みを浮かべて目を細めている。

 タマが指をさしてお房に尋ねた。


「この一番左の飛縁魔と、そこから屏風に並んだ妖怪って……妙に統一感が無いけど、もしかして僕達?」


 彼の問いにお房は頷く。


「そうなの。九郎が飛縁魔であたいがお金一杯儲かる座敷わらし。先生は鳥っぽいから姑獲鳥。タマとお八姉ちゃんは纏めて化け猫の雄雌。一番右の絵は化け狢のお父さんと雪童子のお雪さん」

「げっなんであたしはタマ公と同じなんだぜ」

「だって猫っぽいもの。結構二人共お似合いだわ」

「まあ僕はネコでもタチでもいけるんですけどね!」

「黙りやがれ」


 お八から首を絞められるタマであった。

 九郎は絵の向きからして、先頭というか代表として描かれた飛縁魔──目付きが眠たげだが笑みを浮かべている、青い衣の妖怪を見て云う。


「というか、何故己れが飛縁魔なのだ……」


 飛縁魔は江戸時代の[絵本百物語]と云う、これより時代は下って発行される書籍に記録されている妖怪であるが、この本は様々な伝奇などを集めた本なのでそれ以前──この時代から囁かれていた怪異であった。

 即ち火の魔縁──空を飛び炎を飛び火させる天狗の類の噂である。また、八百屋お七が火を付けて回ったという巷説から女妖怪とも云われている。

 しかしながら、お房の描く飛縁魔は九郎がモチーフであった。

 彼女は云う。


「だって飛縁魔って、飛ぶ閻魔でしょ。閻魔様はお地蔵様。お地蔵様は子供を守る菩薩だもの」

「……というと?」


 お房は笑みを浮かべて応えた。


「九郎はいつも飛び回って、子供を助けて回ってるから飛縁魔でいいの」

「……」


 その言葉にどうも──。

 むず痒くなって、苦笑いで頭を掻く九郎であった。

 お房も、九郎をいつも見ているのだ。彼に働けだの、怠けてたら駄目になるだのとは云うが──彼を格好良い相手だと思っていて、こうして主役にした絵を描いたのである。

 いつか贈った簪をつけているお房の頭を撫でて、


「ありがとうよ」


 と、九郎は疲れが安らいだような声で彼女に礼を云った。

 他の皆も和やかな雰囲気で、十歳の少女が描いたとは思えぬ立派な金屏風を再度見るのであった。

 


「いやあ、素晴らしい! うちの家宝にしますよ!」



 ──それがこの男色趣味の成金の持ち物になるのでなければ、もっと感動的だったのだが。

 微妙にぶち壊しのような気分で、顔を見合わせるのであった。唯一お房のみが、支払われた小判に眼の色を変えて喜んでいた……。

 

  









 ******





 余談だが。

 子興はそれを後で見て勢い込んで尋ねた。


「お房ちゃん小生は!?」

「んん……? え、ええと、子興ちゃんならほら、この姑獲鳥先生の手に持ってる赤子とか」

「姑獲鳥の構成部品じゃん!! 忘れられてたああー!」


 と、一人だけむせび泣いたという。



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