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86話『火事の後、居候な子興』


 江戸で起きた大火とも云える被害になった火事だが、不思議と江戸の人々の印象は薄かった。

 様々な場所から出火して百を超える火事場泥棒、放火魔が逮捕される大事件であったのだが、


「それよりもなんか凄い光を見た気がする」


 と、その夜に神楽坂のあたりから発生した謎の発光現象への印象が多く語られる。

 それに伴い、その夜に江戸の空を飛び回り大風を吹かせたり建物を破壊したりしていた妖怪も、怪光と同じくちまたの噂と云う形で一部の関係者以外の間では信憑性は怪談ぐらいに留まるのであった。

 ともあれ。

 火事で被害を受けた者も多くいる。火盗改や町奉行所の同心は屋敷が焼けて役宅を移し、日本橋では[藍屋]は左右から火で炙られた店の補修まで、九段下にある本店へ商売道具を移した。[鹿屋]も燃えかけたが、すぐさま修復に取り掛かられている。

 そのように様々に火事の影響で生活を変える人が現れていた。

 

 九郎の身近な場所だと、家が全壊した鳥山石燕とその弟子百川子興がそうである。

 一晩二晩は緑のむじな亭に二人共泊まっていたのであるが、


「狭い」

 

 と、石燕が言い出して新居ができるまで弟子を追い出すことにしたのである。

 

「うあああん九郎っちー! 師匠が小生を見捨てる気だああ!」

「落ち着け。まあ、泊まれる場所は見つけてやるから」


 そうして九郎は、石燕から支度金──彼女の家跡を掘り返して床に埋めていた財産を発掘したので十分にある──を貰って、浅草方面の平川が流れる近くにある、六天流の道場に連れてきたのである。


「うぇえ!? こ、ここは晃之介さんの道場じゃないの!?」

「このドタバタした時期に人を泊められる家なぞ、晃之介のところか天爵堂のところしか無いぞ。そして天爵堂のところに行くと子供のドロドロ展開でお主の胃が死ぬかもしれん」


 他の絵師仲間のところも火事で天や椀やしていて、とても転がり込めそうにない状況であった。

 無論宿なども殆ど埋まってしまっていて、大工による建築ラッシュが始まっているがそう簡単には屋敷も建て直せないだろう。

 それに、と九郎は指を立てて説明する。


「晃之介のところにはお七も住んでいるからな。あやつに常識やら家事を教えるのに男の晃之介では荷が重い部分もあるだろう。そこをお主が手助けする形になればよい」

「そうだけどさあ……」

「いいから頑張って泊めてもらえる様にお主もするのだぞ。ここが無ければ忍者屋敷とかになるからな」

「ううう、嫌なわけじゃないんだよ? でも気恥ずかしいっていうか……」


 渋る子興の手を引いて道場の扉を開く。

 てっきり音がしていないから鍛錬も休んでいるのかと思った九郎であったが、道場の中では晃之介とお七が左右に道場の端から端まで足音も立てずに往復で走り続ける訓練を行っていた。  

 室内や短距離で己の最速に至る歩法の鍛錬である。

 さすがに晃之介の方が早いが、お七も見事な体重移動で汗を浮かべながら速度を緩めずに走り続けていた。


「っぷはー! 師父! 客だ客! 休憩しようぜ!」

「む? ああ、九郎か」


 ぴたりと動きを止める晃之介に対して、お七は膝に手をついて肩で息をしていた。


「はぁー……怠ぃ。どうなってんだこの師父。速すぎて分身とか出てたぞなんか」

「あれは気配の速度だけ遅らせたり先行させたりしただけだ。っと、子興殿も一緒か。上がってくれ。お七は茶の準備を」

「うーい」


 返事をして呼吸を整え、すたすたと奥の台所へ向かうお七である。

 普段は茶と云うか、毒めいた草を煎じた汁程度しか出てこない晃之介の道場だが、柳河藩の武士なども訪れることがあるので来客用の煎茶を一応準備してある。

 お七の権限で自分の分の茶菓子まで用意して、一同は道場に座り向かい合った。


「それでどうしたんだ? 子興殿も」

「うむ。実はな、先の火事で石燕の屋敷が焼けただろう」

「ああ」

「あやつはむじな亭に泊めさせることにしたのだが、どうもうちも狭くてな。子興が悪女に追い出されてしまったのだ。ほれ、泣いたフリ」

「おろろ~ん」


 無闇にノリもよく、子興は袖で目元を覆って足を横に崩した。

 

「で、他に泊まり先を探していたのだが、お主の道場ならもう一人ぐらい大丈夫だと思ってな。生活費は己れが払う」

「師匠のお小遣いからね」

「ええい、黙っておれ。ということで迷惑かも知れぬが、こやつをここに暫く置いてくれぬか」


 九郎の要求に、晃之介は面を食らったようにきょとんとした後で、難しそうに目線を逸らした。

 彼とて、石燕の屋敷が燃えて吹き飛ばされた現場に居た男である。彼女らの苦境は十分に理解しているし、手助けできることがあるのならば行う善性はあった。

 しかしこの、男暮らしのむさ苦しいところに──弟子で女っ気の無いお七はともかく、匂い立つ乙女な子興を泊めても良いものだろうか。


(いや……俺は手出しをしないのだが、彼女に対する世間の評判がどうだかな)


 未婚女が焼け出されたとはいえ、剣術道場などと云う場所に泊まっていたと云う風聞は彼女に迷惑になるのではないだろうか。

 ちらりと。

 彼女へと目線をやると、「よよ」と露骨に泣き真似をしているので、どうも毒気を抜かれる。

 お七もどうでも良さそうに、戸棚に隠していた落雁を齧っている。晃之介の家にある茶請けは意外に砂糖菓子が多い。いざと云うときの携帯性と活力補給に使えるからだが。

 頭に巻いている手ぬぐいを外して少し照れくさそうにしながら晃之介は告げる。


「まあ……子興殿がここに泊まっても良いと云うのならば、俺は彼女の安全を守ろう」

「うむ。良かったな、子興……子興?」

「い、いや……晃之介さんのところに泊まるんだなーって自覚してきたら恥ずかしく……」


 どうもお互いに意識するとぎくしゃくしているようだが、九郎は安心したように頷いた。

 彼の知識上、晃之介のようなタイプの人間は、


(鈍感と奥手が相まって滅多なことでは手は出さんが、それもよかろう)


 そう思えた。甲斐性が無いわけではないのだが、そのような性格の人間は良い奴ではあるものの良縁を逃しやすい。

 子興と相性がどうかは暮らしてみなければわからぬが。

 

「ほほぅん」

「なんだお主のそのいい感じの笑みは」


 お七が怪しげに笑っているのが不気味ではあったが。

 

「ところで姐さんよ、寝る布団は熊の毛皮と羚羊かもしかの毛皮どっちがいい?」

「ええ!? 動物限定なの!?」

「い、いや。ちゃんと子興殿には普通の布団が……って仕舞いこみっぱなしだったな、干さなくては」


 慌ただしく引っ越しの準備を始める道場であった。





 *****





 数日後。

 緑のむじな亭の奥まった座敷、助屋九郎の相談所兼、石燕の船月堂塾となった場所では九郎が気だるげに昼酒を飲んでいた。

 その隣に一つの席に二人で座るように、石燕とお房が並んで机の上にあるオリジナルの妖怪画を描いては捨ててと様々に試行錯誤している。

 三人は机に布団を掛けて天板を敷き、炎熱符で炬燵を作ってのんびりとしているのである。 

 机の上に置かれている、九郎のつまみとお房の好物の妥協点が、みかんであった。


「九郎。もう一つ取ってなの」

「あまり食い過ぎると体が黄色くなるぞ」


 云いながら籠に山を作っているみかんを一つ、お房に転がした。

 そのみかんはこの前の火事で日本橋にある薩摩交易店鹿屋の被害を食い止めたことで、鹿屋黒右衛門から、


「温州みかんでございます」


 と、渡された礼であった。

 街は大きく焼けて、ここ一番で売り出しを行おうにも店に仕入れる材料も乏しいので緑のむじな亭は平常営業でしか無いので割りと暇であった。

 幕府で備蓄米を諸藩からも出させて救済を行っているので、デパ地下の試食感覚であちこちの炊き出しに向かっているのか客が少ないのである。

 そんなわけで炬燵にみかんを食いながら、意外に酸味が良く皮の食感もいけるので酒に合わなくもないと九郎は怠けているのである。


「しかし温州みかんか……さすが薩摩だけあって、中国の温州と取引があるのだろうか」


 もちゃもちゃとみかんを食いながら九郎は呟く。種が入っていないので食いやすくて良い。

 隣に座る石燕が、九郎の剥いたみかんを一粒取りながら云う。


「温州は柑橘類の名産地でね、古くから様々に栽培されているのさ」

「ほう」

「まあ薩摩から入ってきたこの温州みかんと、中国の温州は関係が無いけれど」

「無いのかよ」


 彼女は眼鏡を光らせながら、「ふふふ」と笑って云う。


「このみかんは薩摩か肥後のあたりが原産地だよ。しかし考えてもみたまえ。現在多く流通しているのは[紀州みかん]だが、これに対して[薩摩みかん]などと売りだしても良い印象は与えられないだろう」

「そういえば薩摩芋も[甘藷]と江戸では呼ぶのう……」

「というわけで舶来した品のようで有り難みのある[温州みかん]と呼ぶことにしたのではないかね。おいしい」


 酸っぱいのに当たったのか、目を細めて味わう石燕である。

 なお余談ではあるが後に欧米に輸出されるようになった温州みかんの名称はもはや憚ること無く[SATSUMA]である。栽培するのでそれに記念して街の名前を[サツマ]にしたアメリカの街もあるぐらいだ。増える薩摩。増やす薩摩。そのキャッチフレーズで親しまれるみかんであった。

 世界に広がる薩摩を夢見ながら九郎が酒をゆっくり飲んでいると、お房が声を上げた。


「できたの。妖怪[煙々えんえんら]」


 と、九郎が目を向ければ、家の屋根から立ち上るように不定形な煙のような、風のような妖怪が墨一色で描かれている。

 

「特徴としては煙いわ。悪い妖怪なの。だって煙いもの」

「煙いと悪いのか」

「それはそうよ。想像してみて欲しいの。どんなに美味しい食べ物とか飲み物とかでもそれからぶふぁーってむせる煙が上がってたら嫌じゃない?」

「嫌だな。嫌だが、なんとも云えない光景だ」


 手元のみかんから凄い勢いで煙が立ち上がって居たら確実に放り捨てるだろう。

 意味はわからないが、嫌な感じはわかった。

 次に石燕がさっさっと手元の紙に筆を走らせて書き上げた妖怪画を見せてきた。

 

「ふふふ九郎くん! こっちの妖怪はどうだね!? 名づけて[炎散ほのおはらら]!」

「パクリ臭い」

「あれれ? 私は泣かないぞーう?」


 一刀両断で返されて石燕は眼鏡を外して目元を抑えた。

 九郎は炬燵の天板にべたりと上体を倒しながら、二人を見る。


「というか、火事の後で火事関係の妖怪絵を売り捌こうと云うのは不謹慎めいていないかのう」


 彼の言葉に石燕が表情を戻して云う。


「いやいや、そんなことは無いのだよ九郎くん。むしろこういうのは災害の後だからこそ売るべきものなのだ」

「ほう」

「例えばそう古い話ではない。元禄地震が起きた時にはこう云う絵が流行った」


 さらさらと彼女が書くのは、大鯰が武甕槌神タケミカヅチノカミに踏みつけられている絵であった。

 ひと目で鯰を踏んづけているのがその神だとわかったのは体に[タケミー]と渾名が書かれていたからだが。

 

「これは地震を起こした鯰を、鹿島神宮の武甕槌が成敗している絵だね。確かに災害は起きて、壊れた家屋に失われた命はあるがそれを悔やんでいても先には進めまい。このようにおのれ鯰めと云ったような気分で乗り越えていかねばならないだろう。

 故に、地震を起こした鯰や、火事を起こした妖怪などを題目に上げて広めることでやり場のない憤りの向かい先を作るのが我ら作家の役目ではないかと思うのだよ。だから房と共に火事妖怪を創作しているのだね」

「おお……存外にまともな理由であったのだな」


 思わず感心する九郎であった。石燕の絵のパクリっぽさはともあれ。


「しかしなぜ武甕槌が鯰を?」

「武甕槌を祀る鹿島神宮は、地震を治める要石の神社だからね。一方で鯰はそのライバルと云うか……相撲で勝負をしたら両腕をぶった切られたというか……そんな感じの建御名方タケミナカタと関係があるのだよ。あと大鯰が地震を起こすのは仏教的な理由もあってね、金輪際と云う須弥山の下──」

「その話長くなるか?」

「うんそうだね!」

「じゃあ別に言わずとも良いぞ」

「泣けてきた」


 再び石燕は泣き真似をする。だがすぐに気を取り直して、

 

「ちなみに鯰絵ではこんなものもある」


 続けて石燕が描いたのは、鯰を瓢箪で押さえている絵であった。

 お房も見やりながら首を傾げる。


「これは[瓢鮎図ひょうねんず]と云う絵でね。口が細い瓢箪で鯰を捕まえるにはどうすればよいか、と云う禅問答から来たのだね。さあ皆も考えて見よう」


 続けていつ入れていたのか、炬燵の中から瓢箪──恐らく温めておいた瓢箪酒を取り出して机に置いた。 

 口は細く、とても魚は入りそうに無い。

 九郎が「あー」と少し悩んで答える。


「……実は誰も観測していないだけでその瓢箪の中には既に鯰が入っている」

「入っているかいないかではなく、入れる方法なのだがね」

「簡単なの。瓢箪の蓋を開けて、鯰を入れて、蓋を閉める。三手で出来るわね」

「明確すぎて色々目を瞑っていないかね房よ」

「『おい鯰!』って呼んだら鯰が返事をして、瓢箪に吸い込まれるってのはどうタマ?」

「西遊記かね」


 近くで聞いていたタマも案を出す。

 石燕には笑みを浮かべながら、


「これは禅の公案だから、明確な答えは無いのだよ。だから全員正解をあげよう。花丸だ」

「……ちなみに石燕はどう答えるのだ?」


 九郎の問いかけに、彼女はもう一度筆を取って紙に鯰の絵を描いた。

 それをくるくると丸めて細くし、瓢箪の口に入れてしまった。


「はい、これで解決と。さあ将軍様、あとは鯰を絵から出すだけですとね」

「一休さんか」


 彼女は悪戯っぽく笑いながら、瓢箪から湯のみに酒を注いでぐいと飲んだ。

 そしてむせる。


「……墨の味がする」

「そりゃ描き立ての絵など入れるからなのよ先生」

「安心しろ石燕。ロシア人にとってはインクは酒の一種らしいぞ。インク瓶は一気飲みするものだそうだ」

「そこまで堕ちてないよ……」

「あいつら、接着剤を水に溶いて飲むからのう……」

 

 などと団欒の時間を過ごしていると現れたのは本日の相談者であった。

 うなだれたように店内に入ってきて、うなだれたように座敷にやって来て、うなだれたように炬燵に入って寝転がる。

 そんなうなだれた女──子興であった。


「……お主の弟子だぞ」

「やだなあ、風邪でも引いたのかね子興」

 

 いきなり辛気臭い彼女の様子に、石燕が云う。


「ううっ、師匠~!」

「どうしたのかね。晃之介くんのところでは毎日熊肉しか出なくて顎が疲れたとか?」

「食事に毒を少量混ぜて耐性を得る訓練をやってるとも聞いたが」

「違うよ!? っていうかそんな魔境に泊めさせようとしないでよ!」


 がばりと顔を上げて子興が云う。

 彼女は情けない顔をしながら九郎と石燕を見つつ云う。


「晃之介さんのところに泊まるようになったわけじゃない、小生」

「うむ」

「それで、お七ちゃん居るとはいえ、独身男性な暮らしだからここはひとつ張り切って家主の生活をよくさせようと思ったんだけど……」


 彼女がここ数日の生活を語りだす……。




 *****




 子興は道場にある、晃之介の私室とも云える畳の部屋で寝泊まりをすることになった。

 六天流の道場は大きく分ければ、道場・台所・寝室と三つの部屋に分かれている。部屋数が少ない方が安く建てられたのでそうしたのだが。

 庭には井戸があるが、これは彼の父が存命だったときに掘り当てたものである。飲水として使えるので近所の農家も時折貰いに来る。

 後は保存食や様々な道具を置く納屋が外にある程度であった。

 ともあれ、客である子興を部屋に寝かせて道場に晃之介とお七は羚羊の毛皮を敷いて寝ることにしていた。

 これも最初は、


「ええと、押しかけたのは小生なのだから小生がそっちで寝たほうが……」


 と、主張したのだがきっぱりと、


「いえ、道場は朝早くに鍛錬で使うこともありますので。それに預かった女性を粗末に扱うわけにはいかない」

「心配するなって。あたしも師父も別にどこででも寝られるんだから」

 

 二人が云うので少しばかり悪い気はしたが、畳に布団で寝ることになったのである。 

 

(明日は朝に早起きして、美味しいご飯作ってあげよう……)


 そう思いながら、九郎の術符クリーニングでふかふかになった晃之介の布団を被った。

 彼女の使っていた布団は屋敷と共に吹き飛んだし、この大火事でどこも物不足になっており、布団などは真っ先に店から消えたので買おうにもできなかったのである。

 そして目をつむって暫く。


「……お、落ち着け小生……」


 微妙に寝づらい。

 布団に他の人の──まあつまり持ち主である晃之介の匂いがあるのだ。

 九郎がふかふかにしただけあって、嫌な匂いではない。

 しかしこの男っ気の無かった負け組人生を歩んでいた子興。寝るときに男の匂いがすると云うのはなんとも奇妙な感じで変な考えが浮かんでは消える。

 

「九郎っちあたりは別に大丈夫だったんだけどなあ……」


 と、時々石燕の屋敷に泊まっては、飲み会の挙句に三人並んで寝たりしていた九郎相手には何も思わなかったのだが。むしろ、落ち着くような線香みたいな匂いであった。

 晃之介の布団は目を閉じれば近くに彼が居るような。


「ううう、どうしちゃったんだろう小生……」




 ******




「ああっ九郎と先生が凄いどうでも良さそうな顔で寝転がり始めたの!」

「ちゃんと話を聞いてよー!?」


 並んで炬燵に深々と足を突っ込んで、背後にある座敷の仕切りをずらし寝転がる姿勢を作った二人であった。

 無駄に息のあった行動である。


「いや……なんというかこう三文恋愛話を聞かされてものう」

「匂いて。ちょっと引くよね。布団か何かやつておられる?」

「師匠が云うかな!? 師匠が云うかな!?」


 身を乗り出して指を向け、唾を飛ばしながら彼女は叫ぶ。


「師匠だって九郎っちの布団とか被って凄い笑顔だったじゃないか!」

「ふふふそんな馬鹿な。私などこうしても」


 云いながら九郎に擦り寄って無造作に抱きつき、ふんすと彼の首筋の匂いを嗅ぐ石燕。

 そして恍惚とした。


「ふう……まあいいじゃないか許してあげよう九郎くん」

「離れろ」

「額が!」


 無闇に寛容になった石燕の額を指で弾いて遠ざける九郎であった。

 赤くなりひりひりとする額を押さえながら、石燕は子興に先を促した。


「その辺りの面倒くさい感情の動きはどうでもいいから要点をいいたまえ」

「面倒くさい度では師匠が上だからね多分……」


 口を尖らせながら子興は続ける。




 ******

 



 そんなこんなで晃之介の布団でドキドキしたりしながら夜更かしをした子興であった。

 一度厠に立った時に道場を覗いたら、羚羊の毛皮の上で並んで寝ている晃之介とお七であったが──。

 よく見るとお七は片手に小刀を持って晃之介の方へ突き出しながら寝ていた。

 晃之介はそれを指で挟んで受け止めたまま寝ていた。

 寝ている時に一度だけ奇襲をしてもよい、と云う互いの鍛錬上の取り決めであったようだが、奇襲に失敗したままの体勢で寝ていたのである。

 中々物騒な関係である。

 それからまた布団に戻り、やがて眠りについたものの彼女が起きたのはもう日も昇った朝であった。

 普段ならば朝食の準備の為に日がまだ海の向こうにある薄暗い時間に起きるのだが、生憎と晃之介の道場までは魚売りもやってこない。

 若干の寝坊をしたと自覚しつつ、


「ま、まあ……晃之介さんはまだ寝てる……よね?」

 

 そう祈りつつ台所へ向かうと、お七が既にそこに立っていた。


「あん? おう、お早うさん。もうメシできるから顔でも洗ってくれば?」

「し、しまった……ごめんね手伝わなくて」

「いや、いつもやってることだしよ」


 彼女はぼさぼさの頭を掻きながら、椀に注いだ味噌汁を一口飲む。


「まー適当だけどこれでいっか」


 活躍の場を失った子興は所在なさげに尋ねる。


「あの……晃之介さんは?」

「師父なら朝の走り込みに出て行ったぜ。メシは交代で作るようにしてるんだ」


 どうやら彼女の起床時間は家主にも負けていたようである。少し落ち込む子興であった。

 そしてお七は炊きたての飯を釜から茶碗に山盛りに用意する。

 釜に残った飯は保温用の竹籠に入れたお櫃に移しておく。米は朝一度に二升ばかりも炊いていて、それを一日で食べるのである。 

 飯と味噌汁。それに塩漬けの野菜と炙った干物と云う、独身男性にしては割りと豪華に品目を出している朝食であった。

 普段は根深汁に飯だけと云うことも珍しくないので、家にやってきた子興に多少なり気を使ったメニューにするように指示をしておいたのだろう。

 

「さっ道場に持って行こうぜ」

「はーい」


 盆に載せた皿を持って二人は道場にて朝食を並べた。

 すると丁度良く、晃之介も走りこみから帰ってきたようである。袴にニ刀を差して背中に弓を背負い、討ち入りのように走る姿は、この辺りの農家では住み始めた頃こそ驚かれたが、近頃はごろつきや害獣もめっきり近寄らなくなったので有難がられている。

 彼は爽やかめいた汗を軽く手で拭いながら道場に入ってきた。


「できているな。子興殿もお早うございます」

「おっ、お早うございます!」


 どうも夢見が良くて寝過ぎた彼女は声を詰まらせながら無駄に大仰に頭を下げて挨拶をした。

 そんな彼女に対して下衆笑みを一瞬浮かべつつ、お七が濡らした手ぬぐいを持って晃之介に近寄る。


「ほーら師父。汗を拭いてから食えよ」

「む? ああ、すまないな」


 彼女は手ぬぐいを持ったまま彼の頬にぴたりとつけて手渡した。

 それを見て子興は手をわきわきとさせる。


(ああっそれやりたかったのに……!)


 その様子を背中で感じて胸中でけらけらと笑うお七であった。


「とにかく食おう。子興殿も座ってくれ」


 そして三人で向かい合うようにして朝食を食べ始めた。

 子興は普通盛りだが、朝から走り出すだけあって食事量も多い晃之介とお七は山盛りの飯を勢い良く食べている。

 何ならお七の料理に対してお姉さんとしてアドバイスでもしようかと思っていたのだが、


(うう、普通にこのお味噌汁美味しい……小生ほどじゃないけど、自信満々に教えるほど悪くはない……)


 と、普通に食べられる味なのである。

 例えば六科の作る料理の様に、三十点程度しか評価のできない不味い料理を助言ですぐに六十点ぐらいに引き上げれば劇的な変化でわかりやすいだろう。

 しかしお七のように、最初から七十点ぐらいの合格ラインにある料理を劇的に美味くする事は難しい。そこから先は好みの問題でもあるからだ。

 なお、別段工夫をしているわけではないのだが、晃之介の家にある味噌は九郎の助言により鰹節の粉が混ぜ込まれていて、出汁を取らずにそのまま湯に放り込んでもそれなりに鰹出汁の味がする味噌汁になるものであった。

 呑みながら保存食を色々考えていた時に提案した味噌の味付けである。

 

「──興殿? 子興殿」

「はっ!? ど、どうしたんですのだ晃之介さん!?」

「いや、難しい顔をしているから……口に合わなかったか? 何せ料理とも云えない男の飯だったからな」

「おいおい師父。作ってるのがこんなに可愛い可愛いお七ちゃんだってのを忘れんなよ」

「美味しいよ! うん、なんかこう普通に美味しくて! 晃之介さんって朝から干し肉齧ったり野草を食べてたりしてそうだなあとか思ってて……って何云ってるんだろう小生!」

「ははは、面白いな子興殿は」

「え、えへへ」

「さすがに客が来ているときはそんなことはしないし、やるにしても時々だ」

「……」


 時々保存食の消費も兼ねて質素さは増すらしい。

 ともあれ、お七が家に来たことで食事状況がかなり改善されたのは確かであった。

 弟子とは云え、育ち盛りで預かった少女の体を作る為にもまともに食べさせているのである。

 慌てる子興を尻目に、やはり下衆笑みを浮かべたお七がゆっくりと晃之介の顔に手を伸ばした。


「師ー父ー、行儀悪い食い方してるから、米粒ついてるぜー?」

「む──っと、おい、子興殿の前で」

「ふあー!」

 

 晃之介の頬についた米粒を摘んで取り、食べるお七であった。

 子興が震えつつ喉に詰まらせた飯を、味噌汁で流し込んだ。

 

「ふ、二人はいつもそんなことを……?」

「いやー師父ってこう見えてだらしねえからさー」

「やめろ。まったく、困った弟子だ。子興殿、その、なんだ。勘違いしないでくれよ? こいつはなんというか……馴れ馴れしい弟みたいな」

「ちぇっ女の子ですらねーぜ」


 いいながらもにたにたと笑うお七である。

 ともあれ胸が平坦であり、なにより弟子なので全くお七を女とは意識していない晃之介ではあるのだが、地味に精神攻撃を受けた気分になる子興であった。

 呆然としながらぱくぱくと朝食を片付けて、その茶碗をお七が洗い子興が絵筆を片手に部屋の机の前にぼーっとしていて、気がつけば昼であった。

 やはり彼女が慌てて台所に立ち入ったら、お七が食事を用意していた。

 三人で再び食べて、午後にはお七と晃之介を伴い三人で買い物に出かけた。


「師父日和ったな」


 二人きりで出かける機会だったのに、自分を付きあわせたことにお七は笑いを禁じ得ない。

 いっそお七と二人で行かせようかと晃之介も悩んだのだが、火事場泥棒やらが跋扈した火事の後である。江戸の治安も悪化していて、大勢の同心が見廻っているとはいえいつもより危険が多い。故に、弟子と二人きりで行かせるのも不安だったので三人で出たのである。

 食料やら、子興の画材やらを購入してまた道場へ戻った。

 意気を取り戻した子興が、


「晃之介さん! 小生も家事とか料理とかしますからね!」


 と、云うが彼は宥めるように、


「客である貴女の手を煩わせるわけにも。ああ、それならばお七の奴があれこれするのを、監督して貰えませんか」

「お七ちゃんの?」

「あいつを預かったのも、生活力を学ばせる為であるので。子興殿ぐらいしっかりとした、その……素晴らしい女性ならば見本となるでしょう」

「まかっ任せてください!」


 晃之介が照れながら[素晴らしい女性]などと云うものだから有頂天に子興は頷くのであった。

 それを後ろから見ていた下衆ニックスマイルのお七である。

 それから。

 子興が後ろから見守る中で行われる、お七の炊事に洗濯、掃除や縫い物などの家事はどれも女性として水準を満たしているようであった。

 不具合があれば指摘する子興はやるべきことがない。

 何もせずに作ってもらった晩御飯を食べて、柔らかお布団で寝た。

 次の日も朝起きたら料理ができていて、特に仕事はせずに絵を描いて過ごしていた。

 寝る。飯を食べる。湯屋に行く。絵を描く。それ以外は何もせずとも、どこまでも自堕落になれる生活であったのだ……。




 *****




「それじゃ駄目なんだよう!」


 机を叩きながらみかんを吸うように食べて子興は主張した。


「上げ膳に下げ膳、自分の好きなことだけやって生きるなんて結構辛い! したり顔で過ごせるほど図太く無いんだ!」

「うむ……ここにしたり顔で過ごしていた見本が居るぞ。お主の師匠だが」

「何もしない、をしているのだよ!」


 おもむろに、子興から世話をされまくった生活をしていた石燕は主張する。

 これまで彼女の世話をしていたせいで、すっかり家事をしない暮らしをすると危機感を覚えるようになってしまった子興であった。

 お房が濃い目の茶を飲みながら、


「まあ、先生はここに来てから割りと働いてるけど」

「え? そうなの?」

「そうだのう。朝はしっかり起きるし、飯は己れの当番を変わってくれているし。洗濯も纏めてやってくれているし、お雪の部屋の掃除もしていた」

「これぐらい居候として当然かね!」

「くう……! 変にやる気出して師匠め!」


 と、自堕落生活から主婦生活に移っている石燕であった。

 人から与えられればどこまででも堕ちるが、やれと云われれば普通にできる。

 そこはかとなく隣でゴロゴロしている九郎と似た性質を持つのである。

 

「九郎っちー! このままじゃ小生、晃之介さんに働きもしない駄目女だって思われるー!」

「客扱いだからのう。弟子であるシチ子より働かせるわけにもいくまい」

「別にいいんだよ小生お七ちゃんより働いても! っていうかあの子、完全におちょくる目的で晃之介さん相手にイチャつきに行ってるよ絶対!」


 ここ数日を思い出しながら訴えた。

 晃之介の汗を拭う。晃之介の米粒を取る。晃之介にあーんをする。晃之介と二人で水浴びしている。晃之介と並んで寝てさり気なく抱きついている。

 どれも子興が来るまでは、わざわざ意識してやらなかった行動である。あーん以外は嫌がらない、特に気にしない晃之介であったが。

 それを見て躊躇う子興を意識しながら笑い声を堪えていたりしていた。

 思わず鍛錬に来たお八と雨次も、


「お前、そんなに師匠と仲よかったか?」

「なんかこう、非常に相性悪そうな気配を感じるから僕を見ないでくれてありがたいです」


 などとそれぞれ云うぐらいであった。

 九郎はため息をつきながら、


「つまり、晃之介の家を出たいと?」

「そうは云ってないよ! でもさあ、お客扱いはちょっと小生の性に合っていないというか……晃之介さんがいい人だから、気を使ってくれてるのはわかるんだけど……」

「子興よ」


 九郎は手元にあった[瓢鮎図]を彼女に見せた。


「あれ? それ知ってる。ええと、瓢箪で鯰を捕るにはどうすればいいか、だよね?」

「うむ。思うにな、これは無理やり狭い瓢箪に鯰を入れる姿を想像するからよくわからんのだ」

「つまり?」

「捕まえる人と鯰が話し合って、瓢箪に入ったことにしようとお互いに納得すればよかろう」

「ええーと……」


 九郎は半眼で告げる。


「つまり、周りがあれやこれやと意見を出すより、晃之介自身に云うのだ。客ではなく、共に暮らす者として扱うようにと頼むのだな。わかるな?」

「! ……それってつまり」


 子興は両手をぐっと握った。

 客ではなく。家事を取り仕切れて、お七の世話にもならない立場。

 それは即ち───家族になるということだ。

 

「……わかった、九郎っち! 小生、ちょっと晃之介さんと話してくる!」 


 そう言い残して、子興は座敷から下りて外へ去っていった。

 道場へ向かうのだろう。それを見送りながらお房が呟く。


「大丈夫かしら子興さん」


 九郎はしみじみとした顔で頷いた。


「うむ……あの顔───大丈夫ではないな。あやつも相当ポンコツなようだ」




 ******




「晃之介さん! 小生を今日からお姉ちゃんって呼んでください! そう信じてください!」

「待て、一体どういうことだ子興殿!」

「お姉ちゃんならお世話して当然だから! お七ちゃんも妹みたいなものだから!」

「落ち着け!? なんでそうなるんだ!」


 晃之介の家族になる──つまり姉になると決めた子興はそんな馬鹿丸出しなやりとりをするのであった。

 

「ぶふぉっ……くははははっ飽きねえなこの二人!」


 それを見てお七が腹を抱えて笑う。



 こうして、紆余曲折あって子興も晃之介の家で客扱いではなく、家事を分担して行う形で落ち着くのであった……。






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