マルはアーシュの夢を見る8
「は、今なんと」
「お断りしますと」
「まさか」
エルドアンとアヤズは二人とも口をぽかんと開けてアーシュを見ている。それでも、エルドアンのほうは立ち直るとさらに押してきた。
「お友だちの商人の方にも中央での仕事の声がかかっているはずで、なおのことマリスにこだわる必要はないと思いますが」
ダンが私のほうを向いた。お友だちの俺はその件は承知していないからなと目が言っている。私はわかっていると軽く頷いた。
「あ、婚約者の方、婚約者の方については船の仕事だそうで、いないことも多いでしょう。なおのこと中央で暮らされたほうが安心です」
アヤズも立ち直ったようだ。まるで自分たちがお守りしますからというように力強くそう保証した。アーシュがあきれて領主を見ると、
「辺境部の貴族の奥方や家族は、年に半分以上は中央に行っているものも多いのでな」
と説明してくれた。彼らにとってみれば特におかしいことではないようだ。
セロがちょっと情けない顔で私とダンを見た。ダンは苦笑し、私も思わず気の毒にと言う顔をしてしまった。彼らはどうも船の仕事が何かはわかっていないようだ。
「マルのその顔はその顔でなんか腹が立つ」
そしてセロはぶつぶつ何かを言っている。それにしてもあきれてしまう。フーブの町のことも、狭間が一年近く通れず、キリクが苦境に立たされていたことも他人事か。だからこそ航路が開拓されたことも、セロの船の仕事の価値もわからないのだろう。
「何を誤解しているのかわかりませんが、私はここに住みたくて住んでいるので、中央のほうがよいと言われてもここから移る気はありません」
向こうからアーシュの静かな声がする。
「こんな良い条件なのに?」
「私は別にどこででも宿屋がしたいわけではないのです。まして病については、既に対策は私の手から離れています。学びたいことがあるのならば、改めて帝国へ行ってください。フィンダリアでも、キリクでも快く受け入れてくれるようになっているはずです」
アーシュのいるテーブルに沈黙が落ちた。完璧に断っている。迷うそぶりもなく。
「あ、しかし、アーシュ殿ほどの実績を持つものが、ここで何もせずに暮らすなどと、もったいないことです」
エルドアンは断られると思っていなかったのか、そう説得をはじめた。
「エルドアンさん」
「あ、ええ、はい。何でしょう、アーシュ殿」
「エルドアンさんの奥様やお母様は、毎日何をして暮らしているんですか」
「何を、と、私は妻はいないが、母は家の管理をして社交をしております」
「私も」
アーシュは静かに続けた。
「ここで家の管理をして、町の人と静かに暮らし、ついでに宿屋をやろうかなと思っているだけなんです。なぜ中央に行ってそれ以上のことをやらなければならないんでしょうか」
「それは、だが実際に帝国では病の者を救い、フーブでは活動的だったと聞き及んでおります。むしろなぜやらないのかと聞きたいくらいです」
やる力があるからやればいい、と気軽に言うのだ、この人たちは。
私はアーシュと暮らした日々を思い出す。今思うと、毎日お休みの日以外きちんと働いて、ギルドで訓練して、幼かったというのに、必死で生きてきた。だからこそ強くなったし、いろいろな力をつけてきた。そして目の前の人が困っていたら、その力を躊躇なく使ってきた、それだけなのだ。
「私はマリスが好きです。この町の人で病の人がいれば手を貸すでしょう。仕事のない人がいれば雇うかもしれません。でも、それはすべて私の気持ちでそうすること。国というものに私のやるべきことを決められたいとは思わないのです」
「しかし、困っている人は中央にもいて」
「では伯爵たるあなたがたがやりなさい」
アーシュがぴしゃりと言うと、また沈黙が落ちた。
「確かに私がやれば病の治療も効率はいいでしょう。しかし私がいなければできない治療など、一時しのぎに過ぎません。だからこそ、帝国ではたとえ時間はかかっても、医師とその手伝いだけで治せるような仕組みを作ってきたのです。それにフィンダリアが乗り遅れないようにと助言したのも私です。フィンダリアはナズの国、つまり友達の国だから」
「あ、う」
「フーブでも同じです。いずれフィンダリアの人たちが、自分で経営できるようにと、あえて私の手を外してきたのですよ。急に出たと言いましたが、急ではありません」
アーシュは二人をじっと見つめてこう続けた。
「私はいつでも、自分がいなくなっても何とかなるように行動しているだけです」
セロの膝の上に置いていた手がぎゅっと握られた。アーシュがそうするのは、おそらくアーシュが残される人々のことをきちんと考えているから。そして。
「いつ俺が旅立ちたくなってもいいように、か」
セロは本当に贅沢だ。アーシュの思いを一心に受けて、未だにわかっていなかったのだから。
「それでも」
「もうやめたまえ、君たち」
ついに領主がうんざりしたように止めた。
「わからないか。アーシュは今はマリスにいてくれる。しかし、旅立ちたくなったらどこにでも旅立つと言っているのだ。そして旅立つ先はおそらくフィンダリアではないぞ」
アーシュは膝で重ねた手を見ている。
「ここマリスは穏やかな土地ではある。しかしこれと言った産業もなく、民の暮らしは豊かとはいえない面もある。しかしアーシュたちがここに来た。それは数年前のことだ。それをきっかけに、ダンが石鹸の工場を作り、セロが港を利用し、次第に豊かになってきたところなのだ。これにフィンダリアの中央は何もかかわってはいない。それどころか、石鹸の工場を中央に移し、このあたりの雇用をなくそうとする始末だ」
「それは」
それはと言ってはみても、事実はその通りなのだからそれ以上何も言えるわけがない。
「アーシュがいてくれるのは、産業がどうということ以上に、私と妻にとっては楽しいことだ」
領主はそう言ってアーシュを優しい目で見た。アーシュもにっこり笑っている。
「だからこそ、この気まぐれに訪れた幸運の美しい蝶を閉じ込め利用しようとしてはいけないと私は思っているよ」
「領主さま、私はただの女の子ですよ」
アーシュはくすぐったそうに手をパタパタした。かわいい。しかし、そろそろ私たちの出番だろう。私たちはガタガタと立ち上がり、アーシュのもとに歩いて行った。
「なんだ君たちは」
エルドアンは不審そうに私たちを眺め、ダンに目を留めると、
「君は帝国の商人では……」
「そうです、アーシュの友達の商人のダンといいます」
ダンは話を聞いていましたよという意味を込めてにこやかに微笑んだ。
「そして俺はアーシュの婚約者のセロだ」
「君が、船乗りだという……」
「そして私が、キリクのマーガレット。族長の息子の婚約者です」
「その色合いは確かに。なぜここに……」
なぜここにも何も、オーランドがきちんと連絡していたはずなのだが。
「ほんとに中央は何をしているのか。アーシュという女性が、どのようなかかわりを持って何を動かせるのかきちんと知ろうともせず、利用することばかりを考えて」
領主があきれたようにそう言った。ここは私たちがきちんというべきだろう。
「私たちは幼馴染で、ずっと一緒に生きてきました。アーシュになにかあれば、キリクが動きます。そして帝国の皇弟アレクが動く事をお忘れなきよう」
「そしてたかが船乗りの俺だが、俺が船を止めれば、海運はフィンダリアを外し、キリクと帝国のみになる。そしてメリダの魔道具が手に入りにくくなることを忘れないでほしい」
「私はアーシュの友達の商人にすぎませんが、帝国、キリク、フーブを結ぶ販路を、そしてフィンダリアの石鹸事情を抑えているのが私であることも覚えていてくれると助かります」
私達はアーシュの肩にそれぞれ手を置いた。アーシュはまっすぐフィンダリアの二人を見た。
「ただ放っておいてくれるだけでいいんです。ここで静かに暮らしていけたらきっと」
使者たちはやっと納得したようだ。
「わかりました。私たちが心得違いをしていたようです。一度中央に戻って、この話をきちんと伝えましょう」
アーシュの言う、きっと、の先はわからないけれど。海を越えて、大陸を駆け回った私たちの旅は、ここでひとまず終わりということになるのだろう。
使者は立ち上がって、退出しようとした。
「あら、ここは宿屋ですよ。よろしかったら、今日はこちらに泊まってはいかがですか」
アーシュがいたずらな顔で微笑む。
「俺がお茶をいれますよ」
「私が給仕しましょうか」
「じゃあ、私は馬の面倒でもみましょうか」
アーシュに重ねた私たちの言葉に使者は大慌てだ。
「と、とんでもない、今日のところは一旦戻ります!」
「まあ、残念」
そして私たちは、ここから改めてそれぞれの道を歩み、それでも決して心は離れることなく。
メリルの子羊は、この大陸に根付いていく。
「ああ、疲れた。もう一度お茶にしようか」
「今度こそ俺がガガを入れるとするか」
「いや、アーシュにしてくれよ」
「マルもアーシュがいい」
「なんだよ、まったく」
きっと笑い声と共に。
[完]
作者も自分で話を書いていて、フィンダリアには特にいい所もないのに、なぜアーシュはそこに居たがるのかはずっと疑問でした。今回の話を書いてみて、やっとそうだったのかと納得しました。これで番外編、おしまいです!
そしていよいよ、3巻の発売です! 11月12日、「異世界でのんびり癒し手はじめます」1巻と共によろしければどうぞ。「この手」3巻は電子も12日に発売です!
そしてもう1つお知らせです。作者の別のお話「転生幼女はあきらめない」書籍化します!主人公は一歳児。よちよちしながらも、運命に力強く立ち向かう、笑いあり、涙ありの愉快なお話です。よかったらまず、「なろう」で読んでみてください!下のマイページからどうぞ。




