アーシュ16歳8の月穏やかな日々
結局、お茶代とドーナツ代はコサル侯がどんと出してくれたので問題なかったが、お茶を冷たくする水筒を譲るようにお願いされてちょっと大変だった。先のことを考えて予備はあるが、ここで使ってしまってもいいものかどうか。フィンダリアにはガガもあることが分かって、長期的には、子羊亭の展開も考えたいからだ。
「発注はしているんだけど、追いつかないなあ」
「あんまりメリダに注文が集中しても困るしね」
ダンと相談して、結局、発注してさらに予備ができたらということで今回はお断りした。
だいたい二週間くらいは国境のこの町に留まらなくてはならない。それなのに、「中央の許可が下りていない」ということで、付近を観光するのにもお付きの人がわらわらとついてきて、うっとうしいことこのうえない。
「それならば、思い切ってドーナツ屋さんを開きましょう」
というサラの提案で、結局国境から一歩も進めないままで、なし崩しに出店をすることになったのだった。国境の兵舎前の割と広い場所を借りて、主に国境を越えて来た人にドーナツを売り、お茶を売る。兵も買いに来たし、町の人も買いに来た。ドーナツは帝都で食べたことのある商人もおり、懐かしがられたりもした。
朝早くは兵舎で訓練、国境を人が通るころになるとドーナツとお茶を売る。国境から町の繁華街はすぐなので、物珍しさから客は多い。領主館に泊めてもらっているので、宿泊代はかからないし、お昼を過ぎて客足が落ち着いたら町を見て回ったり、馬を借りて郊外に出たりと、結果が来るまでじりじりした日を過ごすのだった。
ナズのお父さんは、最初だけいてフィンダリア側との緩衝材になってくれたが、
「早くナズにも会いに来てくれ。事業の後押しも忘れていないからな」
と言って商売に戻っていった。
「お茶はいかがですかー」
「冷たいですよー」
元気に客を呼んでいるセロとウィルに、ケナンをはじめフィンダリアの面々はあきれたような目を向けている。
「あんなに強くて、生意気で、人に頭なんか下げたこともないって顔をしているかと思えば、平気な顔で物を売って、客に頭を下げてもまったく気にしていない。なんなんだ、あいつは」
剣で負けたくせにまだ納得のいかないケナンは、毎日セロに挑んでは負けている。叙爵されたといってもしょせん一代限りの成り上がりだ。時々粗野な物腰も垣間見える。しかも高校を出たての年下だ。それなのに、剣だけでなく何においても負けているような気がしてならないのだ。
「セロ、ウィル、少し休んで?」
少女の涼やかな声がする。
「アーシュこそ、無理するなよ。暑いからな」
もしかするとこの少女のせいかもしれない。たぐいまれな力を持つという少女。ただの美しい少女にしか見えないのに、剣も強い。そう、そんな少女を婚約者に持っている生意気な若者。私たちにはない、自由まで持っている。
「ケナンさん、みなさん、お茶にしませんか」
涼やかな声がこちらにもかかる。ついふらふらと寄って行ってしまうのも仕方ないではないか。あの生意気そうな目が面白そうにこちらを見ているにしてもな。ケナンは段々と若者たちに魅かれていく自分を止められないのだった。
そんな穏やかな日が10日ほど続き、そろそろ中央からの使者が来ないかなあと思っていたある日の午後、地面がどん、と跳ね、しばらくして遠くから微かに大きな音がしたような気がした。地震だろうか。この世界では初めて経験するものだ。しかし揺れは一瞬で、そのあとは少しの振動があっただけだ。
私は地震に慣れているからあまり気にしなかったが、町では大変な騒ぎになっていた。こんな現象は今まで一度もなかったというのだ。一晩経って落ち着くどころか、原因もわからないのに親戚を頼って出て行こうとする者さえいるありさまだ。キリクから来ていた旅人が、
「大雨の後に山が崩れた時があって、その時に地面も揺れた」
という伝承を話していたが、フィンダリアは平原と低い山しかない。最近大雨もないので、そういったことはなかろうということだった。しかし音はキリク方面から聞こえた気がする。ウィルとマル、サラは難しい顔をしていたし、商売どころではない雰囲気になっていた。
「なあ、みんな」
ウィルがその夜みんなを集めてこう話しだした。
「そろそろ中央からの使者が来るかもしれないこんな時だが、俺、この揺れのことがどうしても気になるんだ。メリダでも地面が揺れるなんて不気味な経験はないからな」
私たちはうなずきあった。地震ともちょっと違う気がした。
「俺一人でいい。ちょっとキリク方面にようすを見に行きたいんだ。キリクに行くって言えば、フィンダリアのやつらもついてくる必要はないだろ。キリクとの国境まで馬で行って、とにかく情報を集めてくるよ。その間に使者が来て許可が出たら、お前たちだけ先に出発していていい。どうせマリス方面だろ」
「いっそのこと全員で行くか」
セロの言葉に、サラがこう言った。
「馬に乗るなら、私のほうが慣れてる。私も行く」
「しかし、サラは体力が……」
「剣ができないからって体力がないということではないわ。私はキリクの平原育ちよ。一年しか馬に乗っていない人とは鍛え方が違う」
確かに、屋台をやって朝から晩まで活動していても、サラはまったくへこたれない。いつも機嫌よく働いている。ドーナツが好きなだけかもしれないが。
「でもな」
「ウィル、二人で行けよ。俺たちもそのほうが安心だ」
「そうだな。フィンダリアには急ぐ旅でもない。ここで待ってるから」
セロの後押しに、ウィルはサラを見やり、その強い目についに降参した。
「お前のほうが故郷が心配だよな。わかった。明日準備ができ次第サラと一緒に出発する」
しかし、ウィルとサラだけで出発することは結局なかった。
次の日の朝、国境までたどり着いてきたのは、キリクとの国境の兵士五人だった。息を切らし倒れこむ五人の元に急いでコサル侯が駆けつけた。
「キリクの入り口の狭間で、大規模な崩落があり」
「なんと! あの狭い道でか!」
「どれほど崩れたのか見当もつかぬほどで。今キリクとの連絡は完全に断たれています」
「被害は!」
「狭間を通っていたものはおそらく……それより、崩落した山肌から、魔物があふれて」
「魔物だと!」
「キリクとの国境は兵が少ないんだ! ここからも兵の派遣をお願いします! そしてすぐにフィンダリアと帝国とに連絡を!」
コサル侯はありえない事態に一瞬考えることを放棄しそうになったが、ふと生意気な若者たちの顔が浮かんだ。魔物。冒険者。
「帝国の若者たちを! 今すぐに呼び出せ!」
崩落も魔物も、本来こちら側の国境にはすぐには関わりないこと。しかしキリクとの国境もこの北部の管轄だ。兵が派遣されてきた理由は、事態がとてつもなく大きいからに違いない。使えるものは何でも使う。まずは方針を決めなければならない。コサル侯は汗のにじむ手を握りしめた。
10月12日2巻発売記念更新7日目。
同日電子書籍1巻発売です!
ちょっとヘロヘロ。




