差し出す手、伸ばす手(3)
――深域内、森林区域
深域内においてフォーエンに暮らすベッカー達の主な食糧調達の場。
生のままでも食べる事が出来るクリやヤマモモ。タラノキにコシアブラといった木の実や木の芽から始まり、香辛料のサンショウ、山野草、キクイモとミョウガ。他にもタケノコ、キノコ、ハチミツ。
鹿、熊、猪などの野生動物を狩る事で生肉の調達も可能だ。鮮魚に関しても森の中にいくつか生け簀を造り、深域の外から持ち帰り保存や養殖といった方法が用いられていた。
そして今日も日々の食糧の補充に勤しむ男達の姿があった。
「これで猪十頭分の血抜きは終わりだな。ロワー、そっちはどうだー!」
「こっちも山菜、薬草の補充分は取り終わったぞ。ここいらで一息入れようぜ、キト」
「そうするか」
ロワーは血抜きを終えた最後の猪を地面に寝かせ血や泥で汚れた手を手拭いで拭い、キトは山菜や薬草が入った十は下らない数の籠を並べ終え二人分の水筒を取り出してその内の一つをロワーに手渡し二人揃って喉を潤した。
「ぷはっ……いやー、今日は思いの外早く終わったな」
「珍しく猪が見つけやすかったのが大きい、それも脂がしっかりのってる。これなら最近入ってきた若い新入り達にしっかり精を付けてやれる」
「ナガレにナナキのに、レラとティニーのお嬢ちゃん達だな。ティニーはまだちんまいが、他の三人はロワーの所の坊主と同じ年頃じゃねえか? どうだ、若いもん同士で話なり手合わせなりしたのか?」
「ナガレ君の方は何度か機会があったようだ、フォルティナの婿にと本人の同意無しにベッカーが良く連れ回している時にな」
「そうか、そうかっ! ナガレのやつ、あの跳ねっ返りの婿候補になっちまったか! ベッカーにしてみりゃ良縁中の良縁、何が何でも取りに行くだろうな。はーっははははっ!!」
「そう笑ってやるな、ナガレ君にとっては笑い事では無いんだぞ。もしかしたら此処で一生に一度の決断を下さざる終えなくなるかもしれんのだ」
今日までにベッカーに深域内を連れ回された事で、フォーエンの住人の多くと顔合わせを済まされてしまった流。勿論、流とフォルティナにベッカーほどの熱意も無ければ乗り気でもない。
流をフォルティナの婚約者として認識している者は一人もおらず、むしろ同情から手を差し伸べているものが殆どだ。本人達にその気が無くても外堀から埋めていけばあるいは……そんな考えがあっての行動だったかも知れないし、そうで無いかも知れない。こればかりはベッカーにしか分からない事だが、少なくともロワーやキトはそう考えていた。
「別に夫婦になっちまっても良いと思うがなあ。ナガレは良いやつだ、その上強い。気が強いとは言えフォルティナも根は真っ当だ、相性は良いんじゃねえか?」
「今の話に関しては俺も同意見だが……それより眼が行くのはナナキ君の方だな」
「あん? 何か悪さでもしたのか??」
「此処で悪事を働けば直ぐに分かるのは知っているだろう……お前も気付いているだろう、彼は相当な手練れだ。俺達全員が束になって勝てるかどうか、その域すら簡単に超えている程の」
「ああ、ありゃまじもんの別格だ。実力差なんて大概見りゃあ分かるもんだが……全く分かんねえと思わされるなんざ初めてだぜ」
「俺もだ、まさか数日空けて漸く相手を脅威だと認識できるようになるなどと経験しようとは……本当に末恐ろしい少年だよ」
ロワーは空いている左手に視線を落とす、彼の眼に映るのは微かに震える自分の手。
顔合わせをしたとは言っても、名無達に向かって刃を向けるという何とも物騒で失礼極まりないものだった。こちらに危害を加える気は無くても反撃を警戒していたが、それでも命の危険を感じる事は無かった。
だと言うのに、名無達と何のいざこざも無く平穏無事にその日を終わろうとした時、其処で初めて死の危険を体感させられたのである。
警戒はされても敵意を向けられた訳ではない、殺意を向けられたわけでもない。
武器も、魔法も、異能も何一つ使われる事が無かったと言うのに一日が終わる。そう一息ついた瞬間に名無との力の差を漸く感じ取る事が出来た。
この事実が如何に異様な事なのか、ロワー達は確かな畏怖を名無によって植え付けられた瞬間でもあった。
「幸いグノー様のお墨付きのある子だ。『反逆の境』に加わってくれるのであれば、これほど心強い人材はいないだろう」
「同感だな、魔王と戦う事になっても少しはこっちにも勝ち筋が見えてくるってもんだ。まあ、嬢ちゃん達二人を見りゃナガレと同じで良いやつなのは分かってるしな。こっちが要らんことしなきゃやり合う事はねえと思うが」
「そうだな。ティニーちゃんが風邪寝込んでしまった時も慌てふためいていたようだし、確かに要らぬ心配だったよ」
「久しぶりの来客だしな、気張っちまうのも無理ねえさ」
「ああ、俺達も俺達の役目を果たせば良いだけだのこと。客人を疑うという無粋な真似はこれっきりだ」
「おう、それが一番だ……で、だ。いきなりで悪りいんだがちと込み入った話をしていいか?」
「何だ、その神妙な顔は? お前らしくもない、言いたい事あるならはっきしろ」
「そうか? じゃあ遠慮無く言わせてもらうけどよ――」
――――――――――――ガキイィィィィィンッ!!――――――――――――
甲高い金属音と供にロワーとキトの二人はその場から大きく飛び退く。
二人が手にしていたのは猪の血抜きの際に、山菜や薬草を集める為に使用した小ぶりの剣鉈。どちらの剣鉈も研ぎ澄まされた刃に鈍色の輝きを纏い、薄らと強化魔法の魔力を帯びていた。
「……ロワー」
「キト……」
互いに鋭い眼差しを交わしあい、強化魔法によって何ら不足ない武器を握りしめ戦闘態勢を取るキトとロワー。言葉を交わしながらも二人が纏う一触即発の空気は、その密度を急激に高めていく。
……ぐちゅ……ぐぽっ……
視線の先で既に息絶えているはずの九頭の猪、その死した肉体の内側から血肉をかき混ぜる音と供に伸びる先端に禍々しい刃を備えた無数の触手を前に眼を見開く二人。
「おいおい……最近の猪はこんなおっかねえのかよ」
「軽口を叩いている場合かっ! どう見ても異常な状況だ、これは――」
戦闘態勢ではあっても初めて眼にする底気味悪い現象に即座に危機を感じ取るキト。そんな彼の、そして現状を理解し切れていないロワーの顔を顰めさせる光景が追い打ちをかける。
――ドヒュッ!
畏怖に動きを止める二人をあざ笑うかのように不気味に蠢く触手は自身が生え伸びる猪とは別に、既に血抜きが済み後は肉となるだけとなった猪の骸に己の刃を刺し入れた。
毛皮の上からでも分かる程に死骸の中を蠢き、獣であれど死後の尊厳を玩び蹂躙するその様は悍ましい以外の言葉で言い表す事は出来ない。だが、それだけで満足できるはずもない示すかのように、死した獣達の躯体が宙へと大きく飛び跳ね動くはずのない四肢をもって立ち並ぶ。
一見すれば甦ったかのように見える。しかし、立ち上がった獣たちの眼に光はない。生あるものの光を代わりに灯すのは、額から蠢き出た人の拳ほどの大きさはあるたった一つの血にまみれた眼球。
木々の枝によって作られた天蓋を、その隙間から覗く灰色の空を、草木に覆われた地面を……眼に映る全てを焼き付けようと決して一点に停まる様子は無い。だと言うのに、その眼が捉えて放さないのはこの場に存在する二つの命――次なる獲物の姿。
『!!』
その向けられた九つの血濡れた視線に、ロワー達の背筋に怖気が奔る。
が、湧き上がる畏怖に止まる事無くロワーはなりふり構わず全力で魔力を高め、キトは異形と化した十体の化け物へと向かって突貫する。キトの背には既に無詠唱による炎の槍が顕現しており、手にしている剣鉈も炎を纏っていた。
秒にも満たない僅かな時間……。
深域内で起きてしまった異常の周知、その防衛と牽制。
二人の選択は最適、行動は最速。一言も発せずとも最短であろう時間で行われた役割分担は戦場に立つ者の所作としてまさしく歴戦の戦士のもの。
けれど、それは同時に自分達が迎える結末を理解していたからこその最善でもあった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
二人の胸からは地中から突き出た触手の刃が突き出ていた。
それは傀儡となった九頭の猪の体内をまさぐっていたものではなく、九頭の異形が向ける視線によって意識が逸らされてしまった本体である最初の一頭。その四肢から僅かな音を、振動を、気配すら出さず伸ばされた凶刃。
全くの死角からの一撃。
これが地中からの攻撃でなかったならキトの援護で二人とも命を落とす事は無かったに違いない。だが、敗北の事実は変わらない。
それでも――
「今の魔力の高まりは?」
「一瞬だったけど、さっきの魔力はロワーさんの……まさかっ!?」
「敵襲のようだな、深域の特性を考えればそう簡単に侵入するのも容易ではないはずだが……」
近しい者に這い寄る死、沈痛な問答に入ろうとしていた名無とフォルティナに――
『……どうかしましたか、ティニー様?』
「ティニーちゃん……??」
「だれか、だれかのまりょくが……きえちゃった……」
「魔力が消えちゃったかぁ、ボクの知ってる限り死にそうな子達はいなかったけどねぇ。ふむぅ、これはもしかしてってやつかなぁ」
命を救い労る事の出来る術を学ぶ最中にいたマクスウェル、レラ、ティニー、グノーに――
「騒ぎは森の方向からか……ナガレ殿はナナキ殿の元へ。詳しい状況は分からぬが仲間が命を落としたようだ」
「仲間が死んだって……ベッカーさんはどうするんですか! 」
「今、森に一番近いのは我だ。原因究明と被害拡大を抑える為には此処で足を止めているわけにはいかん」
「で、でも――」
「なに、心配無用! 異変に気付いた屯所の者達も動くはずだ、それでも加勢を申し出てくれるのであれば一刻も早くナナキ殿と合流してくれ。ナナキ殿であれば我が戦闘に入れば直ぐに場所を見つけられるだろう」
「分かりました……名無を連れて戻るまで無理しないで下さいよ!」
「うむ、善処しよう!!」
明日にも死にゆと口にしたベッカー、その言葉に動揺し佇んでいた流。
それぞれの場所で、各々が時間を過ごしていた名無達へ。深域に降りかかる危機を知らせることが出来た、何一つ有益な情報を残すことが出来なくとも……それは間違いなく二人が残す事ができた猶予という名の勝利だった。




