07 差し出す手、伸ばす手(1)
空を厚く覆う灰色の雲は変わらず天高く鎮座し、されど雨が降る気配も見せないまま……。うつろう時間だけが過ぎる屯所の中で何をするでもなく名無は一人、瞼を閉じ壁に背中を預け腰を下ろしていた。ベッカー達に留守を任され、彼等の帰りを待つ。
それが今の名無に課せられて果たすべき役割ではあったが、外敵による侵入の可能性が極めて低い『反逆の境』では殆ど意味をなさない。ここにレラやティニーが居たなら二人の会話がきっかけとなって和やかながらも賑やかに、マクスウェルが一緒であれば収集した情報の精査を行いレラ達とは正反対な殺伐とした空気が流れていたかもしれない。
「………………」
しかし、そのどちらでもない静けさだけが名無と共にある。
日の光が足りないうす暗さ、冷めたような空気、物音一つ波打たない屋内……まるで取り残されたような静寂がそこにはあった。
このままでは名無も伽藍洞にも似た気配に溶け込み消えてしまうのではないか。そんな空気が流れ始めようとした時、
「戻ったわよ……って、ナナキさんしかいないじゃない」
「フォルティナ」
空虚な時間を終わらせたのは驚きと共に呆れたような声音を吐いたフォルティナの一声。時が止まっていた空間に再び動き出し、開かれた屯所の扉からは熱を取り戻すようかの様に光が差し込む。
「ベッカーさん達は他の屯所にマスクを配りに出た、流も一緒だ」
「それでナナキさんは留守番をさせられてる、と」
「そういう事になるな、君の方はマスクを無事に配り終えたようで何よりだ」
フォルティナが屯所の扉を開ける前から、『虐殺継承』によって強化されている聴覚によって彼女が一人で向かっている事に気づいていた名無。フォーエン全域――とまではいかないが、意識を集中することでマクスウェルの索敵範囲に迫る広さの音を高い精度で聞き分ける事が出来る。
その聞き分けた音の中にレラ達の足音や声が耳に届かない時点で、フォルティナが単独で動いていると断言できるのは自明の理だった。
「事前に説明させてもらったが、マスクの詳細を伝える際に問題は無かったか?」
「特に何もなかったわ、強いて言うなら作りが単純だから本当に効果があるのかって首を傾げられたくらいかしらね」
「そうだろうな」
「でも、安全な物だから心配いらないってちゃんと説明してきたから安心して。そういう物なんだって分かってくれるくらいには話をしてきたから」
上り框で腰を下ろし一息つくフォルティナ。
フォルティナという信頼できる相手からとは言え、未知の道具と言っても過言ではない物を直ぐに受け入れろと言うには難しいものがあるだろう。現にフォルティナの文言からしても要点をかみ砕いて根気よく言葉を交わしてきた事が伺える。
「レラ達はどうしてる?」
「まだ家の方にいると思う、私がマスクを持って出る時には猫先生も一緒だったから四人でゆっくりしてるんじゃない?」
「なら、良かった。回復したとは言ってもティニーは病み上がりだ、あまり活発に動き回るのは身体に良くないからな……我ながらどうかとは思ってはいるが」
ティニーの事を気遣いながらも溢す自嘲の言葉に苦笑を浮かべる名無。
『敗者の終点』でも名無達の力になりたいと行動を起こしたティニーに対してレラと意見の食い違いが起こった。互いに意見が違うからと言って争う事も険悪な空気になる事も無かったが、それでも名無が必要以上に干渉してしまう事がありありと浮き彫りになった事は間違いない。
それも彼の在り方から来るものだろうが、ティニーを心配する心情も嘘は無いのだから簡単に割り切れる事でないことも確かだった。
「……聞きたい事があるんだけど、良いかしら?」
「俺で答えられる事であれば」
その事を理解しつつも治さない、そんな自分に苦笑を浮かべる名無から顔を背け完全に背を向けるフォルティナ。こうして無防備な背中を見せたまま言葉をかわす姿は気を許したようにも見えるが、名無には打ちひしがれる背中にしか見えなかった……それも信用や信頼が映る背中ではなく、諦観と悲壮がひしひしと伝わってくるような酷く覇気のないものに。
「ナナキさんは……親とはどうだったの?」
「どうだった、と言うのは?」
「ナナキさんは私達と同じで魔族を虐げるような事はしないじゃない。けど、ナナキさんの両親はどうだったのかなって……親子で仲違いする話は珍しくないから」
教育機関らしい施設がないこの世界では社会常識から情操教育まで、基本的には保護者である親が一手に受け持つ事が一般的だ。だが、その中で些細なきっかけによって魔族を想う事の出来る良心が芽生える者も出てくる。
このフォーエンはそんな感性を持つ者達が集まってできた街だ。しかし、名無は外部の人間。出来損ないの烙印を押され、魔族であるレラと共に旅をしグノーとも既知の関係……家族間の関係が良くないのではとフォルティナでなくとも勘ぐってしまうだろう。
しかしながら、その勘繰りは意味の無い事でもある。
「俺と両親の関係は良好だったよ、魔族の事をどう思っていたかについては分からない。俺が七つの頃には死別してしまったからな」
「それは病気、それとも……」
「人間同士のやり取りだ、それも珍しい事でない事は君も知ってるだろう? だから気にしなくていい、話を続けてくれ」
「今の話を聞いた後でこんな事聞くのは、無神経だってわかってるけど…………」
名無の両親が既に他界してしまっていた事実にフォルティナの声音が小さくなるが、先を促す言葉に一息入れ僅かばかりの沈黙の後……
――――家族が死ぬって分かった時、ナナキさんはどうしたの?――――
声を震わせ、肩が戦慄き、後悔に染まる自分の赤い双眸が捉える頼りない掌を見詰めるフォルティナ。それらは名無の眼に映る事は無くても彼が見る、彼女がさらす華奢な背中が己の無力さを嘆いている事を静かに曝け出していた……。




