0- 偏在は期待し待ち続ける
「…………ふあ~…………」
目を閉じ大きな口を開けて欠伸を溢したのは黒いふさふさの毛に覆われたずんぐりとした一匹の妖精猫。その可愛らしい見た目には不釣り合いな白衣に身を包み、目の前に広がる穏やかな水面で満ちた湖に釣り竿を向け糸を垂らしていた。
湖を囲む緑鮮やかな木々の合間をそっと通り抜ける風の音はそよそよと柔らかく鼓膜を揺らし、太陽の柔らかな日光の温かさは身体を優しく包み込み抗いがたい眠りへと誘う心地よさ。
妖精猫が腰を下ろす芝生も日光のによって程よく温められた最高の寝具に、そよ風に揺られカサカサと音を立てれば芝生と芝生に混じり咲く花々の甘い香りが鼻をくすぐる。
眠ってしまうには正に最適である環境、白衣を纏う妖精猫――グノーは欠伸と共に目元に浮かんだ涙を拭った。
「此処はいつ来ても天気が良いねぇ……このまま寝ちゃおっかなぁ」
「――そう堂々と横着しないでもらえないか、こちらの要件はまだ何も終わっていないのだから」
そんなだらけきったグノーを咎める声が湖畔に響く。
「やあ、クアス。元気そうで何より。でも、顔を見せて直ぐに仕事の話をするのはどうかと思うなぁ」
「貴方とは定期的に顔をあわせているんだ、毎回挨拶をする必要は無いだろう。それに仕事で来ているのだから、これ以上の小言は受け付けない」
クアスの足下には転移魔法の魔法陣が輝いてはいたが、残念な物を見るようにグノーに向けられた赤い視線は呆れのあまり光量を失っていた。それは魔法陣が消え、グノーの右隣に立っても変わらない。
「早速だが担い手の現戦闘能力に関して――」
「本題に入るのは早くないかなぁ? うん、それが目的で来てるんだから当然の事なんだけど他の五人がまだ来てないよぉ、もしかして眼が悪くなったりぃ?」
グノーは釣り竿を離す事はせず、キョロキョロと辺りを見回す。
ピクピクと揺れる耳も湖畔に近づいてきている者が居ないかどうか聞き耳を立てている。しかし、グノーの耳にそれらしい音は聞こえずくりっとした翡翠色の瞳にも待ち人の姿は映らない。
「貴方の元へ来る前に顔を出してきた、貴方と『煉影の血姫』エルマリア・ノイン・ヴァルファールを除いて全員が多忙だ。勿論私も含めて、時間を無駄にせず済むよう他の五人との情報共有は既に済ませておいた」
「いやぁ、相変わらずクアスは仕事が早いねぇ。早すぎて身体壊してないか心配になってきちゃったよぉ、身体がだるいとか疲れが抜けないとか熱が下がらないとかあるぅ? あるなら診てあげるけどぉ」
「無用だよ、自己管理は完璧だ。それより要件を済ませよう」
だらけたいという気持ちもあるものの、グノーは迅速に目的を遂行する事を優先して止まないクアスの身を按じるもクアスは自分の事ながら我関せずと話を続ける。
「私達が打ち出した計画ではルクイ村、シャルア、『敗者の終点』を経て略奪し力を高めた担い手へ『聖約魔律調整体』の投入。その戦闘によって戦闘能力を把握する予定だったが……彼の戦闘能力は『敗者の終点』でアンナ・コウザキ達の力を奪うまでもなく、こちらの想定を遥かに超えたものだった」
ノーハートの命の元、クアス達が進めている計画は本来であればシャルアにおいてエルマリアを、そしてラウエルを訪れる前に『敗者の終点』に達より杏奈達を手に掛ける。その過程を達成することでクアスとクアスが生み出した『聖約魔律調整体』と互角、もしくは上回る力を身に付けさせる算段だったのだ。
しかし、その計画も事後承諾になってしまったとは言えエルマリアの独断で変更。
杏奈達の元へ立ち寄り力を付ける前にラウエルでクアスとの戦闘になり、過程は違ってしまったが勝敗の結果は予定取りに名無の勝利で終わった。
「まさかアンナ・コウザキの――『傷重痛衣』が無い状態の彼を相手に善戦すら出来なかった事には驚かされたものだよ」
攻撃の意思が無かったとは言え『虐殺継承』を発動させていた名無を追い詰めた杏奈の異能、『傷重痛衣』は《輪外者》達の能力の中でも圧倒的な戦力差を覆す事を可能とする最強の能力の一角。
発動者の身体が、心が傷つけば傷つくほど、受けた傷が多ければ多いほど、大きければ大きいほど、深ければ深いほど――死に近ければ近いほどに戦闘能力を増大させる力。杏奈はその力の真価を十全に発揮し名無の脅威となった。
「そこはボクの管轄外かなぁ、ボクの役目はあくまで近くで見守る事だからねぇ」
「あくまで私個人の甘さと不備が招いたもの、貴方に責任を問う気はない。だが、今の経過からするに他に用意していた代案を破棄してしまっても構わないと思っているが、どう思う?」
「そうだねぇ……ボクとしては代案は残しておいた方が良いと思うなぁ。彼の力がボク達の想像以上に高められているとは言っても不測の事態って言うのは起こるものだからさぁ」
「あのブルーリッドの娘……レラと言ったかな? 確かに彼女の存在は私達の意図する所では無い。だが、排除しなければならないほどの懸念材料では無い……むしろ、担い手に全力を出させる為の起爆剤として有益な人材だろう」
これまでの戦いでレラが名無の近くで戦闘に巻き込まれたのはラウエルでの戦いのみ。しかし、その戦いにおいて名無はレラを、その過程でティニーを護る姿勢を貫いた。如何に名無が自分の為に動こうとも、それは間違いなくクアスとグノー、しいては魔王の思惑通り『誰かの為』に動いている事に何らかわらない。
名無にその気が無くてもクアス達に取って好都合である事に何ら変わりは無いのだ。
「レラと言う娘が障害となり得るように、助けとなる場面も多々あるだろう。彼女の存在も代案に組み込んで動く事としよう、当面の問題となるのは彼が『傷重痛衣』を何時使うかだ。それ次第で計画の完遂は大きく左右される」
「う~ん、今のナナキ君の力を考えるとぉ……使わなくちゃいけない時って中々無いんじゃ無いかなぁ」
「出来る事なら次の目的地での使用が望ましいが、『虐殺継承』は手に入れた力を瞬時に理解し使いこなす事も可能にする。能力を発動させなくても、どう使うべきかは既に彼も理解しているだろうな」
「使うかどうかは気長に待とぉ、ナナキ君がどの能力を使って戦うのか……こればっかりはボク達にも簡単に誘導できる物じゃ無いしねぇ」
「実に残念だよ、『』さえ使用してくれれば大幅な短縮が期待できたのだが……」
「いやぁ、本当にお疲れ様だねぇ。皆の頑張りには頭が下がるよぉ」
クアスは当然の事ながら、他の五人の役割を考えても自分が一番楽な仕事を請け負っている。エルマリアも楽をしている側と言えばそうなのだが、そ命を賭けた戦いの場に出る事が無かった我が身を思い返せば他にも思い当たる事が多いとグノーは水面に視線を落とし手にしている釣り竿を揺らす。
「頭が下がる思いなのはこちらの方だよ、『遍在の妖精描王』グノーシス・サーベイン」
「……何か想像してたのと違うねぇ?」
「何を考えていたのかは敢えて聞かないでおこう……だが、少なくとも私個人としては君の貢献は尊敬に値すると思っている」
クアスの思いがけない言葉にグノーは顔を上げたが、クアスはグノーと視線を合わせる事なく変わらず湖の水面を、前だけを見て語り続ける。
「グノーシス、貴方は魔族の中でも数少ない長命種でその長であった身だ。同族の命を預かる者としてその責任は決して軽くない、だと言うのに貴方はノーハートに寄り添う事を選んだ。同族に怨嗟の声を浴びせられようと、憎悪をぶつけられようと。彼に強制された訳でもないと言うのに……悠久の決別と従属の道を」
「そりゃ仲間とは喧嘩しちゃって帰りにくくなっちゃったし、ノーハートの手伝いだって他にやる事なかったからやってるだけなんだけどなぁ。そんな堅苦しくしなくても良いんじゃない?」
「貴方こそ幼稚な言葉を使って恰も何でも無い事の様に言う癖は直すべきじゃなかな。戦う力こそ持たずとも彼の隣に立ち、彼の願いに応え続ける。それは誰にでも出来る事では無いよ」
「まったく、何でボクの周りに居る子達はそう難しく考えちゃうかなぁ」
「難しく考えると言うよりも寿命の違いから来る価値観の形成によるものだろう」
人間や多くの魔族はグノーやエルマリアのような長命種のようには生きる事は出来ない。グノー達よりもずっと短い時間、限られた時間の中で物事を決めなくてはならないのだ。
身を置く環境にも左右される事柄ではあるが、寿命という生物の終着点の残りが後どれほどか。その差が価値観を決定する大きな要素の一つだろう。
「何にせよ、貴方は私を含め全七名の選定騎士の誰よりもノーハートに貢献している。それが貴方の言う他に成すべき事が無かったからだとしてもな」
クアスはシルクハットを軽く乗せ直し踵を返した。
「行くのかい?」
「ああ。担い手達が次の計画地点に辿り着くまで暫くの間は貴方に任せる他ないが、今手を付けている実験も幾つかあるのでね。急かす気はないが経過観察と報告は忘れずに頼みたい。内容次第で予定を切り替えるかどうか判断する」
「分かったぁ、もうちょっとしてから動くねぇ。今、ボクが一番優先しなくちゃいけないのは今日のご飯の確保だからぁ……朝ご飯もまだしぃ」
握る釣り竿を小さく揺らし水面に揺れる浮きを見つめるグノー。
日は空高く昇っており丁度昼頃といった時間だろう、言ったとおり朝食にありつけていない事を証明するようにグノーのお腹から腹の虫が鳴り響く。
「そうか、食糧調達を妨げてしまったようだ。邪魔者は疾く去るとしよう」
「別に邪魔にしたつもりはぁ……あ! クアスがま――」
魔法を使って魚を獲ってくれないかなぁ……、そんなグノーのお願いが届く前にクアスは転移魔法を発動させ去って行った。
何とも判断しづらいタイミングではあったが、クアスに悪意は無かったに違いない。湖畔から居なくなったクアスの背中を思い浮かべながら、グノーはゆらゆらと当たりとは無縁な揺らめく浮きを見ながら背中を丸める。
「うん、やっぱりクアスはのんびりする事を覚えた方が良いねぇ。あんまり仕事熱心でも頼み事出来ないと、こうしてボクみたいに困っちゃう子が出てくるわけだしぃ」
うんうんと自分の唱える持論に満足気に頷くグノー。
無駄なく迅速に自分がすべき事をこなし結果を残す、それは仕事をこなす者にとって尤も効率の良く理想的な職務姿勢。しかし、グノーの言うように無駄が無くては予定外の業務が舞い込み対応出来なくなる事もある。
そう言う意味ではグノーのように時間に余裕を持たせ予定を組み直せるようにしておくことも間違いでは無いのだ。もっとも、彼等に取って最も重要な事はノーハートが掲げる目的を完遂することであって、グノーの朝食兼昼食。もしかすれば夕食となってしまうかも知れない今日最初の食事を確保することでは無い。
その事を鑑みれば如何にクアスが颯爽とこの場を後にしたとしても、グノーの不満に真摯に対応する必要性は無いだろう。
「……まあぁ、のんびりしすぎちゃうのはオススメしないんだけどねぇ」
彼の王の宿願を成就させるべく長い時を供にする、それを選んだ事に後悔は無い。
妖精猫と言う種族から外れ、同じだった妖精猫よりも長く生る自分を真に知る家族は、仲間は、友人はもう一人もいない。時が移ろい、住処は転々とし、薬師として、魔族として。魔族、人間の垣根を越えて助け、争い、笑い合い、涙し……数え切れないだけの出会いと別れを繰り返してきた。
何度繰り返しても慣れることは無い。今もエルマリアやクアス、他の選定騎士達や出会う同族に人々と触れあう事で孤独だと感じた事は一度としてなかった。
けれど……この世に生を受け気がつけばおよそ二千年、同時に見送った命はもう数え切れないほどだ。見送ってきた事で死に対する恐怖が強くなった、という事は無い。
ただ、何も感じなくなってしまっている自分がいる。その事にさえ何も感じない、怖いも悲しいも、楽しいも怒りも。
その場に適した感情を選んで、それらしく振る舞っている。
息をしている、心臓も動いている……それでも何の熱も無い人形になってしまったかのような気分がずっと続いている。
だからこそノーハートと供にいる事が出来るとも言えるのだが、それとは別にやはり生きている実感というモノを思い出したい……様な気がしているのだ。
「ナナキ君ならそれを思い出させてくれそうだなって気がするんだけどぉ……はてさてぁ、これからどうなることやらだねぇ」
グノーは名無の頑張りに望みを掛けながらも、気負うこと無く未だ当たりの無い釣り竿を握って今日一番の食事の到来を気長に待ち続けるのだった。




