来る刻限(4)
ベッカーが『未完魔律調整体』にとって最大の攻撃手段であろう触手刃を切り落とした事で静寂が生じて数秒……一人と一体はチリチリと肌を焼くような緊張感の中で向かい合う。
微動だにしない銀の双眸と赤く血走るする一つの眼球、二つの視線が静かにぶつかり合い、その様子を遠目に見つめる流とフォルティナも固唾を飲み事しか出来ない。それでも状況はベッカーが優位に立っている事を示している。
しかし、その一方でベッカーも『分操俯瞰』によるジレンマに追い詰められている状況である事も確かだった。
優勢でありながら劣勢でもある、そんな突飛で異質な状況……それは長く続かない。
膠着した場で真っ先に動いたのは言うまでも無くベッカーである。
立ち姿から僅かに状態を傾け一歩踏み出した瞬間、ベッカーは瞬く間に『未完魔律調整体』との距離を詰め己が剣の間合いに捉える。
『――――』
間合いを詰めると同時に『未完魔律調整体』の歪な前肢めがけて横薙ぎの一閃を放つ。
剥き出しの筋肉が膨れ上がった上半身を支える要、左右どちらか一方の腕を切り飛ばしてしまえば『未完魔律調整体』は躯体のバランスを崩し一気に攻め入る事が出来る。
とは言え、自身の異形である肉体の欠点を知るのは向こうも同じ。鉛色の残光を残して自身の腕に迫る刃に対して後方へと跳躍、大きく距離を取って危機を脱する『未完魔律調整体』。
「逃がさん」
だが、触手刃を失った事は『未完魔律調整体』にとって最大の攻撃手段を失ったという事以上に、堅牢な自衛手段を失ったと同義だったのだ。
コレまでの戦いにおける苦戦がまるで嘘のように――『分操俯瞰』で対応可能になったとは言え――再び敵を間合いに捉えるベッカー。
今度は『未完魔律調整体』が跳躍するよりも早く右の前肢に一撃をみまう、それでも純粋な肉体強度も凄まじくやはり切断には至らない。しかし、ベッカーが切り裂いたのは右上肢の腱。時間が経てば再生による治癒が可能な程度の傷ではあっても、駆動の要と言える部位の破壊は『未完魔律調整体』の上体を地面近くに落とす。
僅かばかりの行動の阻害、その気を逃がすこと無くベッカーは更に踏み込み『未完魔律調整体』と交叉しながら斬撃を刻み込む。
喉元にあたる箇所から、右半身の肩、鬐甲、胸郭、大腿に足根と流れるように斬撃を浴びせ奔り抜ける。
(ナガレ殿のとっておきと比べるまでも無いが……どうだ?)
間合いに余裕を持たせて振り返り剣を正眼に構えるベッカー。『未完魔律調整体』を捉える眼差しには高揚感も憂鬱感もなく変わらず沈静のみ。
冷静でありながら空虚な眼が捉えるのは自身の攻撃によって生じた効果の有用性、その結果は言うまでも無く再生能力による治癒。だが、その速度は明らかに遅延している事が分かる程だ。
(間違いない、我等の支援攻撃とナガレ殿の一撃によって与えた時よりも傷の治りが遅い。体感的に再生速度は半分ほど落ちている)
尾の触手刃を切り落とした際にも確認した事だが、複数箇所への攻撃によって与えた傷は未だに治りきっていない。眼に見えて遅い再生速度の低下の要因はフォルティナへ放った火属性魔法――であるのだろうが、それだけでは此処までの弱体化は考えにくい。
(魔法具としての驚異的な性能ばかりに意識が向いていたが……やはりそうか)
『未完魔律調整体』が己の肉体として利用したキトとロワー二人の魔力、魔法具としての力を確かめるために戦った際に魔法を放ち奪われた魔力。そこから風属性魔法による流の『風製製統・風刃夙砲』の再現、フォルティナに放った高威力の火属性魔法と二度の魔法使用。
どちらも魔力の消耗は大きい――だが、『未完魔律調整体』の魔力には余裕があるはずなのだ。
そうでありながら魔法を放つ様子は無く、再生速度の低下が顕著に表れている。
(魔法具である以上、魔力供給が途絶えれば停止する。だが、所持者からの魔力供給が有る限り引き出せる力は個人差はあれど安定したものだ。しかし、この化け物の動きは明らかに衰えている。魔力総量の減少がそのまま動きに影響を及ぼしているのであれば、魔力供給という恩恵を受けていない)
これまでの戦いの中でもベッカー達は触手刃の多彩な動きに押されていた、その最中でも『未完魔律調整体』はその場を動くこと無く触手刃だけで戦闘を行っていたのだ。それ以降で動きを見せたのは今さっきのベッカーとの攻防のみ。
その事から考えてみても『未完魔律調整体』は他者から魔力供給を受け活動しているのでは無く、奪った魔力のみで魔法具としての機能を維持していると考えるなら再生速度の低下の道理として無理筋では無い。
(ならば……)
地面を滑らせるように左足を前に、残している右足に重心を預け左半身を前方へ。『未完魔律調整体』に対して身体の側面を向ける事で、正眼に構えていた剣を顔の横へと構え直す。
攻撃と防御、どちらにも対応出来る構えからより攻撃に比重を置いた構えへ。自身の推察がたった今、ベッカーが『未完魔律調整体』の傷が治るのを待つ必要は無い。
構えを切り替えて間を置かず、ベッカーは地を蹴り自身を捉える眼球へと鈍色の切っ先を繰り出す。肩を軸に折り曲げられた肘はバネの様に伸び出され、そこから放たれた刺突はまさに流麗。
地を蹴り、間合いを詰め、突き穿つ。只それだけの動作ではあるが、触手刃による迎撃が無くなった事でベッカーの動きに無理に取らされていた猶予は消え、より早くより小さくより近く。
無駄の無い動きを取り戻した事によって攻撃の精度は跳ね上がり、精密な体捌きによる間合いの管理と体力の消耗を抑える余裕を取り戻した。
その一撃こそがベッカー本来の動きであり実力。現に繰り出された突きという点による攻撃を身体を大きく左に逸らすという、ベッカーや流達に強いた動きを今度は『未完魔律調整体』が取っていた。
しかし、結果は同じではない。
筋繊維が剥き出しの巨体を大きく動かし突きをかわしても、ベッカーは突き出した剣をそのまま横薙ぎに切り払い『未完魔律調整体』の右肩を切り裂いた。
『――』
関節の破壊には僅かに及ばない、しかし魔力が再生機能に割り振られている事で『未完魔律調整体』の動きは確実に巨体に見合う鈍重に傾いている。傾く形勢を決定的なものにすべくベッカーは止まらない。
横薙ぎに振り抜いた剣先を翻し、切り裂いた右肩へと振り下ろす。
その一撃が決まれば一気に形勢は決まっただろう。だが、それは『未完魔律調整体』も理解していた。如何に魔力切れによる活動限界が近づいていようとも致命傷に対する判断は早い。
動きが大きくなろうとも即座に回避行動をとってベッカーの追撃を逃れる――が、それでも追従するベッカーを振り切れる訳がなかった。
刃と刃がぶつかり合う、そこから生まれる夥しい火花とけたたましい剣戟の残響に変わり宙に舞うのは鮮やかに飛び散る血の花と鈍く静かな肉を切る音。
高音と低音、質の異なる音の羅列ではあっても戦いの苛烈さは変わらない。鈍色の刃が閃き、赤を纏い、また閃き赤を纏う。その繰り返しと同じだけ異形の魔法具が四肢に力を込め地を踏み砕き奔る音と共に土煙が立ち昇る。
(勝敗は決した、このまま一気に決着を付ける事も無理では無い……)
剣を、足を、思考を、攻撃の手を緩めること無く動かし続ける中でベッカーは口に出す事はしなかったが自身の勝利を確信していた。
今も尚、戦いは終わっていない。決定的な一撃を与えられている訳でもない。それでも手にする剣で『未完魔律調整体』の躯体に傷を刻み込む毎に彼の異形は動きを鈍らせている。加えて刻み込んだ傷に対する再生も、その言葉とは程遠い状態。
時間こそかかりこそすれ、このまま攻め続ければ『未完魔律調整体』が内包している魔力は底をつき活動を停止する。
そう結論づける事が出来るほどに形勢は覆り、此処から更に逆転をする為の手札を持ち合わせているとも思えない。終始劣勢に立たされた戦いの終わりが見えた事で、微かな揺らぎさえ見えない水面の如きベッカーの思考に『猶予』の二文字が浮かぶ。
ベッカーが思い浮かべた猶予の二文字、それは『分操俯瞰』による精神剥離の影響。発動してしまえば敵と認識した対象の息の根を止めなくては異能の解除は叶わない。異能が発動し続ける限りベッカーは自分の記憶や感情をを、フォルティナや掛け替えのない仲間達との思い出を、自分が歩んできたこれまでの人生を明確に自分のモノだと認識出来なくなってしまう。
そうなってしまえば果たしてソレは無事だと言える状態だろうか、ソレは死んでいないと生きていると言えるだろうか……ソレはフォルティナの父であると『ベッカー』という一人の人間であると言えるのだろうか。
――今ならまだ、もしかすれば自分は自己を失わずに済むかも知れない。
凪いだ水面が微かに揺れ動く、そんな心の僅かなざわめきが次第にはっきりと大きくなっていく。
が、
(フォルティナとナガレ殿の生存無事が最優先。最早、我が心は死に体。我が心を惜しむべき時はとうに過ぎたのだ)
今が好機と焦り魔力を奪われる無様を晒すわけにはいかない。勝敗が決したと確信出来る程の状況だろうと、この身の魔力を多大に奪われてしまうような事になれば『分操俯瞰』が発動していようと勝ち目は無い。
(手堅く削り押し通す、二人を守り通しこの戦いに幕を引けるのであれば是非も無い)
異形の魔法具を相手取りながらも微かに顔を覗かせた欲を最も安全かつ効率的回答で押しつぶし、波一つ無い鏡面の如き精神を取り戻す。その間にもベッカーは攻撃の手を緩める事無く『未完魔律調整体』に無数の剣戟を刻み込んでいた。
剥き出しの筋繊維には幾つもの傷が付けられ、血が滴る様は眼を背けたくなるような惨さ。しかし、その姿こそが異形の魔法具がベッカー達の仲間に行った仕打ちその物であり、敗北すれば『反逆の境』に住まう者達に襲いかかるであろう光景。
如何に惨い行いだろうと止まるわけにはいかない、コレが人を相手にしたものであったなら既に流から静止の声が上がっていてもおかしくなかっただろう。だが、異形にて異質な物言わぬ魔法具を前にしては方法はどうあれ破壊する事こそが道理。
最早、再生の体をとる事も出来なく成った『未完魔律調整体』は無情な刃を振るうベッカーの猛攻に耐えきれず、とうとう後肢の膝を地に着ける。前肢はまだ屈する事無く地面を踏みしめているが、こちらも近づく限界に脚を震わせていた。
(内包する魔力も心許なくなってきたと言った所か……此処で機動力を完全に奪い逃走、フォルティナ達への強襲の阻止。そうすれば時間を掛ける事の憂いを断つ事が出来る)
後肢の膝が地に着き、前肢の動きも乏しい物になり回避行動を取る事も儘ならない状態にある『未完魔律調整体』に更なる追い打ちをかけ勝利をより盤石なものにすべくベッカーは全身を血に染めた異形の魔法具から大きく距離を取る。
距離にして十メートル程、刃に付いた血糊を振り払い鈍色の輝きを取り戻した剣を右肩に乗せるように構え腰を深く落とす。足の裏でしっかりと地面を踏みしめ重心を落とし前傾姿勢へ。
次に放つ一撃の破壊力を高める為の速度を生み出すための助走距離、狙うは右前肢の足首にある腱。眼球を除き『未完魔律調整体』の体躯の中で最も脆い部位。この一撃でも魔力を使い切らせるほどの傷を負わせる事は出来ない――だが、些細な傷であろうとも最大限の成果を。
身体の重心が前方へと完全に傾いた瞬間、蹴り抜いた土煙を残しベッカーの姿が消える。フォルティナ、流、そして『未完魔律調整体』――その場にいる誰の眼にもかき消えたように見える程の速さを持って駆け抜け一撃を叩き込むベッカー。
『未完魔律調整体』の右前肢の足首には今まで一番大きな切り口が刻まれ、勢いよく血飛沫が噴き出す。ベッカーが狙い澄ました一撃は現実のものとなり、完全に『未完魔律調整体』の動きを止める事が出来るだけの傷。
此処から再び猛攻をかければベッカーの、ひいては『反逆の境』の勝利が確実なものとなる
(――――なに、が――――)
契機となるはずだった。
『未完魔律調整体』へ狙い通りの一撃を叩き込み駆け抜けた、その事実は確かにベッカーが思い描き現実のものとした成果。だが、その成果にただ一つ異なる結果が異物となって混ざり込む。
「父さんっ!?」
ソレは光景という視覚情報の一部へと成り下がり、
「ベッカー……さん」
ソレは声を上げた者達の眼に烙印の如く焼きつき、
『――――』
ソレはごぽり、と鈍く纏わり付くようね音と共ににベッカーの口から溢れでる。
――だが、湯水の如く吐き出された色鮮やかな鮮血は口のみならず、僅かに心臓をそれた右と左。それぞれ一箇所ずつ胸部と腹部に子供の拳程の空洞から何も無い空中に流れ滴り落ちていく。
その光景に力の優劣も、戦況の有無も、均衡の是非も不要。
これまでに積み上げられた戦闘という過程の果てに至った結果、その事実のみが残酷なまでに残っていた。




