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第一七話 アンデッドと回復魔法

 まだ夜の深い首都の城壁内をエルリックの背中に乗って駆けていく。


 ジルと直接会って話をしたのは久しぶりだ。“仲間”とはいえジルは国王。王と軍の大将を相手に緊張感ある攻防をしたせいで、一仕事終えた感が湧き上がってしまう。解放感とともに夜の屋外の空気を胸一杯に吸い込むと、存外に心地いい。


 星空を見上げ、しみじみと思う。こんな夜更けに、ついさっきまで都庁でジルとレネーと話していたのだ。何とも妙なことではないか。自国の首都、それも城壁内に忍び込んでいるというだけで意味不明な話なのだ。


「ラムサスさん。ソボフトゥルは今、使えますか?」


 半陶酔境に浸る私をポーラの声が引き戻す。


「ええ、使えます」

「ソボフトゥルは相手が眠っていても有効なのでしょうか?」

「相手の状態には関係ないと思います」


 対象からトゥールさんが情報を引き出す、というよりも、能力を発揮して対象の姿を写し取ったトゥールさんから私が情報を聴取する、という表現が正しいからだ。眠った相手を“転写”して情報を引き出した実績があり、その点は問題ない。昏睡状態の相手に試したことはないが、多分大丈夫だと思う。


「では、ゲルドヴァに行く前に少し寄り道していきましょう」


 私たちは壁外へ脱出後、ひとつの建物に連れていかれた。個人宅にしてはやや大きめの建物の正面玄関にポーラが近づいていく。そのまま扉に手をかけるが、鍵がかかっているらしく扉は開かない。ポーラは扉の前にしゃがみ込んで鍵をいじり始めた。


 まさか、錠破りをしようとしている?


 ポーラの横に立つ背高が、小さな道具をいくつかポーラに手渡す。ポーラは、道具を試してはすぐに諦め、また新しい道具を受け取っては錠破りを試みる。ポーラは数分とかけることなく錠を破り、扉を開けた。


 物は試し、と錠破りに挑戦したのではなく、この新種のアンデッドは解錠術というけったいな技術を持っている。錠破りの道具は土魔法で作り出した物なのだから、いつでもどこでも気分次第で盗みに入れる。エルリックは私に魔法訓練を施す前、水魔法と土魔法は汎用性が高い、なることを言っていた。汎用性のひとつがこれか……


 ポーラは中に入らず、背高だけが建物の中へと入っていく。


 声を潜めてポーラに話し掛ける。


「この建物は何なんですか?」

「国王が秘書と呼んでいた女性のひとりが寝泊まりしている場所です。私もああは言いましたが、あまり国王と大将に時間をかけられても困りますから、ラムサスさんの能力で秘書が信頼に足るか、敵に篭絡されていないか確かめようと思います」


 エルリックはジルの秘書に会ったことなどない。顔も名前も知らない秘書の住居を、なぜエルリックは知っている。


「さて、中に入りましょうか」


 背高が建物に侵入して少し経過した後、私たちも背負われたまま建物の中に入る。


 星明りのない建物の中は真っ暗で私たち人間の目では何も見えないというのに、エルリックの歩く速度が緩むことはない。暗闇の中、物音を立てずに滑らかに動くイデナの背中にいると、自分の身体が進んでいるのか静止しているのか次第に分からなくなっていく。周囲にエルリックの気配はなく、あるのは班員の気配だけだ。アンデッドは本当に気配が乏しい。


 右も左も分からない闇に浸り、体感一分ほど経過したところでひとつの明かりが辺りを照らす。マドヴァがマジックライト代わりに、指先に小さな火を灯したのだ。


 私たちはいつの間にか、とある部屋の中にいた。大きくはない部屋にベッドが二つあり、それぞれに人がひとりずつ眠っている。髪の毛の長さからして、どちらも女性のようだ。


「この部屋を含め、建物内の人間は全員深く眠らせておきました。小さな声でお話しする分には大丈夫ですよ」


 そう言ってエルリックは私だけを背中から降ろす。


「この部屋に眠る女性のどちらかがジャネタ・ペルコフさん。もう一方の名前は分かりません。どちらがジャネタさんかわかりますか?」


 ポーラは眠った二人の顔を動かし私の方へ向ける。その程度の刺激では起きないほど深い眠りなのだ。ひとりは知らない顔だったが、もうひとりはジルの鏡の中で何度か見たことのある女性の顔だった。


「この人ですね」


 私は見覚えのある女の顔を指差す。


「それは能力を使って確かめていませんよね?」


 名前の確認をしたことは確かにない。エルリックは思いの外、慎重だ。アリステルを、ちらと窺うも、アリステルには私の能力使用を差止める気がなさそうだ。


 意を決し、小妖精を召喚する。昨日は何事もなく喚び出せたが、今度はどうだろう。なにせ、前回はあれだけ見事に叩き切られた。今回はエルリックに頼まれてのこととはいえ、目の前に出現させるのはかなりの緊張を強いられる。


 私の緊張とはまた別に、小妖精側の問題として、エルリックを嫌って召喚に応じない、ということがないか心配したものの、トゥールさんは平然と姿を現した。黒く泡立つトゥールさんの靄の身体をエルリックがまんじりと見る。


 トゥールさんは誰かに姿を見られてしまうと一目散に逃げていき、しばらくは再召喚に応じない。しかし、エルリックに見られていても、トゥールさんは逃げ出さない。これが不思議で仕方ない。エルリックには本当に見えているのか? 誰かの姿を転写した状態でエルリックに見られた場合、トゥールさんは逃げ出すだろうか。それとも逃げないだろうか。どれだけ考えたところで実際に検証してみないことには、謎は謎のままである。


 転写後、即逃亡の懸念を抱きつつ、トゥールさんに寝入る女性の姿を転写させる。それでも何も変化は起こらない。


 謎の一部と不安が払拭できた私は、転写に成功したトゥールさんに“質問”する。


 ……


「この女性がジャネタ・ペルコフで間違いありません」

「では、彼女が国王にとって信頼に足る部下なのか、情報流出をしていないか、リオンに心奪われていないか、以上三点ほど調べられるでしょうか?」

「少しお待ちください」


 数分ほど時間をかけてジャネタを調査する。


 ……


 …………


 大丈夫、ジャネタは潔白だ。リオンにはまるで興味がないようだから、この先も問題ないだろう。


「ポーラさんが気にしている三点は全く問題ないです。ジャネタは忠実な陛下の部下です」


 腹心といってもよさそうだ。少なくともジャネタは自分で自分のことをそう思っている。


「こんな短時間で素晴らしい成果です」


 ジャネタはジルの部下といっても、魔力量的にはごく一般人だ。魔力の低い相手の調査は至って簡単である。時間はさしてかからない。


「これならもうお一方も調べて大将にお手紙を書く時間がありそうです。さ、ここにはもう用はありません。引き上げますよ」


 エルリックはジルの秘書の人数がふたりであることまで把握している。王の間から退室する直前、ポーラだけがジルとレネーと二言三言遣り取りしていた。あの短時間で秘書たちのことを聞き出したのだろうか。名前だけならまだしも、二人の住所まで正確に聞き出すのは無理だ。なにせ、エルリックは首都に来たことがない。口頭で住所を伝えられたところで、迷わずに秘書の家を訪ねることなどできるはずがない。ジルに教えてもらったのではなく、自分で突き止めたのだ。ここにきて謎の情報収集力を見せ始めたぞ、この新種のアンデッドは……


 訝りながらも、私は再びイデナの背中におぶさる。マドヴァの指先に灯った火が消えると、世界は再び闇に包まれる。真っ暗闇の中、イデナの背中で静かに揺られながら建物の外に出る。


 全員が建物から出ると、ポーラは扉の錠をいじり始める。解錠だけでなく、施錠までできるのか。盗み目的で建物に侵入する輩にとって、鍵とは基本的に開けるだけのもの。退出後に鍵を閉めることなどない。こういうところまで普通の泥棒とは一味違う。


 施錠を確認した後、エルリックは大きく移動を始めた。




 また別の建物に到着すると、先の建物と同じ要領が繰り返される。今回調べさせられたのは、ユイス・ハンコヴァという、これも鏡で何度か見たことのある女性だった。


 調査の結果、ユイスもシロだった。ジルはしっかりと人心掌握できている。人心というよりも、女心といったほうがいいか。秘書の心をがっちりと掴んでいるのはいいが、本妻と家族のほうが危ぶまれる。




 秘書二人の調査が終わると、次に向かったのはレネーの自宅だった。もう、何故エルリックがレネーの家の場所を知っているのかは考えないことにした。


 軍の大将の家にしては控えめな邸内にはポーラと背高だけが入り、二人は十分程度で戻ってきた。


「大将宛てに書置きを残しました。あれが人目に触れることなく大将に読んで貰えるように願いましょう」

「大将へ書置きするのではなく、直接陛下に言いに行けばいいじゃないですか」


 回りくどいやり方を選ぶ理由が分からずに、ラシードがポーラに尋ねる。


「今日はもう無理です。夜が明けようとしていますから、誰にもバレずに城壁を越えて出入りできません。国王は家に帰らないらしいですし、遅くなろうとも今日は家に帰る、と言っていた大将が適任です」

「それなら邸内で大将を待ったら――」

「大将の言う『今日』が明け方なのか、日の出後なのか、昼前なのか分かりません。いずれにしろ午前様です。ゲルドヴァはそこまで余裕が無いようですので、このまま首都を発ちます」


 せっせと食事に時間を費やすのはよくて、情報の確実な伝達のために大将を待つのは時間の浪費と考えている。エルリックの思考はよく分からない。


 結局私たちは、ジルとレネーの“仲間”二人以外の誰にも認識されることのないまま首都に入り、そしてすぐに後にすることとなった。


 そこからは馬車を一度も使わず、仮眠と食事休憩だけを繰り返し取りながらゲルドヴァに急行した。




    ◇◇    




 短時間睡眠を何度も繰り返したせいで日付感覚が曖昧である。私の記憶が間違っていなければ、現在は首都を発ってから一日半と少し、というところ。首都を出た翌日の夕方のはずである。私たちはゲルドヴァに到着していた。


 街の中心部は通らず、辺縁をぐるりと回りこむように駐屯地へ向かう。駐屯地は昨年と異なり、街の周囲以上に物々しい警戒態勢が敷かれていた。アリステルが代表となり、中へ入る許可を取る。髑髏仮面のエルリックの姿はワイルドハントと一目瞭然だ。警備兵たちはエルリックを見て可哀想なほどに怯えている。


 ジルとレネーが手回ししてくれていたおかげで、抵抗は受けることなくエルリックと駐屯地に入る許可が得られた。恐れおののく警備兵の横を通り中に入る際は、恐怖のあまりに背中から斬りかかってこられやしないか背筋が冷えたが、結果的に何も手出しされることはなく、私達は比較的すんなりと駐屯地に入ることができた。


 駐屯地内、軍側の棟の中へ入ると、アリステルひとりだけが司令室へ呼び出される。司令室に向かおうとするアリステルをポーラは呼び止め、耳元で何かを囁いた。




 司令室に向かったアリステルを待つこと十分、私たち三人と一緒に大人しく待機していたエルリックが突如、動き始めた。誰に呼ばれたわけでもないのにポーラ、背高、フルルの三人が司令室へ歩いていく。


「どこへ行くんですか?」


 呼び止める私に対し、ポーラは横顔だけこちらに向けて口に人差し指を当て、こちらの口を封じる。


 軍の施設内でおかしな動きはさせられない。三人の後に私も黙って付いて行く。


 司令室の前には見張りがひとり立っていたが、背高は静かにその見張りを眠らせると、そのまま司令室に入っていった。私はエルリックのおかしな動きを全く止められなかった。




 背高たち三人が司令室へ入ると、すぐに中から怒鳴り声が響き始めた。無断で部外者が司令室へ入っていくのだから怒号が飛ぶのは当然のことである。怒鳴り声は次第に大きくなりながら一分前後続いた後、尻切れるように小さくなって途絶えた。


 怒声の途絶を合図にしたかのようにエルリックの残りのメンバーが司令室に入って行く。その際、ほんの少しだけイデナがジェスチャーを出した。私たちにも付いてこい、と言っている。


 私たちもエルリックに続いて司令室の中へ入る。


「えぇっ!? これはどういう状況ですか」


 部屋の中に広がる光景を目にしたラシードが叫ぶ。


 司令室の中ではアリステル、バイル、ポーラ、背高たちが、ひとり床に倒れ伏す将官を囲んでいた。


「ラシード君、お静かに。さて、ズィーカ中佐。そちらのバイル・リッテン少将は“仲間”と考えていいのでしょうか?」


 ポーラに問われ、アリステルが頷く。


「ではラムサスさん。ここで寝ている中将が信頼できる方か調べてください」


 床に倒れているのは中将だった。ここの中将と言えばミゲル・プストクだ。ゲルドヴァに駐屯する軍と、そこからゲダリング方面最前線までの指揮を執っている。


 エルリックの指示に従い、ミゲルの調査を行う。




「どことも内通はしていないようです。エルリックを犠牲にしてでも前線を維持しようという気骨だけがあります」


 ミゲルは司令官として国防任務を忠実に全うしている人物だ。それが確認できたポーラは鷹揚に頷く。


「彼には士気を上げてもらうため、その前線とやらに一緒に来てもらいましょう。この場に残して、後々我々を討伐するための部隊を編成、派遣されても困ります。一応ここを出る前にリッテン少将も調べておきますか、ラムサスさん?」


 バイルは最初から“仲間”だ。殊更に調査する必要はない。しかし、私がバイルのことを調べたのは何年も前の話。エルリックを安心させるためにも、仲間のままでいることを再確認するためにも、私はバイルを調査した。


 バイルは覚醒しているのだから、トゥールさんにはそのまま姿を転写させられない。決して振り向かぬように注意を与えてバイルに壁側を向かせ、それからトゥールさんにバイルの姿を転写させて“質問”を行う。


 こうやって起きている本人の目の前、というか背中の真後ろで堂々と調査するのは初めてのことだ。別に横で会話をされても余程うるさくしない限り調査の妨げにはならないのだが、全員一言も発することなく私の調査完了を、固唾を呑んで見守っている。


 結果的にバイルは何も問題なかった。それをこの場の全員に告げると、バイルは壁と見つめ合うことをやめてこちらを振り向く。バイルはなぜか汗だくになっていた。内通者ではないのに、何をそんなに怖がることがある。ただの緊張しいなのか、私が調査に失敗してバイルを裏切り者と誤認するのを恐れていたのか、それとも変態的な趣味でもあって、それがバレるのを恐れているのか、真相は不明である。


 私がバイルを調べている間に中将はポーラたちによって戦闘服に着替えさせられていた。


「司令部で指揮を執る将官にも戦闘服ってあるんですねえ」


 エルリックは自ら着させた戦闘服姿の中将をシゲシゲと眺めた後、麻袋の中に押し込んだ。


「中将はどうなるのでしょうか」

「二、三日は眠っていてもらうことになります。起きた時には……そうですね。彼には英雄役を担ってもらいたいところです。その後、中将が砦に留まるか、こちらの駐屯地に戻ってくるかは本人の心次第。我々にはどうでもいいことです。あと、今のうちに中将名で指令書を作成しておきましょう。『エルリックにはレンベルク砦の内外において自由に行動させるべし』という内容のね」


 レンベルク砦はゲルドヴァの北方に位置する、今ではジバクマ最北西の砦のひとつだ。おそらく現在はその砦付近が、オルシネーヴァ軍との戦闘の最も激しい地点となっているのだろう。


 ポーラは机を漁って書類を見つけると中将の筆跡を真似始めた。


「はい、できあがり。少将も署名をお願いします」


 なんとも手慣れた様子でポーラは指令書を偽造すると、そこに少将が署名に応じる。


「あとはジバクマ軍の方式に則って封をしてください。向こうの砦の責任者に渡すものです。きっちりやりましょう」


 指令書は軍における公式文書だ。その偽造をなぜこうも手際よく進めることができる。本当に正体不明のアンデッドである。


 アリステルはポーラから指令書を受け取ると、中将の机の中から封筒を探し、封蝋を見つけては封筒に垂らして判を押す。エルリック直属の部下のようにまめまめしく働くアリステルを見て、私はなんとなく遣る瀬無い気持ちになった。


「では、レンベルク砦の防衛はお任せください」


 シーワは中将の入った麻袋を両手で抱えた。人間ひとりが入っていそうな謎の大荷物を抱えて駐屯地を出ようとするワイルドハント。その絵面は怪しさの極みでしかない。バイルが少し時間をかけて“出口”を整えてくれたおかげで、不審なワイルドハントとアリステル班は穏便に駐屯地を後にすることができた。


 太陽が沈んだ後の薄暮の時間、私たちは最前線のレンベルク砦に向かって走りだした。




    ◇◇    




 私たちがレンベルク砦に着いたのは深夜だった。見張りの視界に入る前に、私たちは背負子から降ろされ、麻袋から取り出された中将はシーワの背中に背負いなおされた。


「名を名乗れ」


 砦に近付く私たちを見つけた見張りが横柄な声でこちらに誰何(すいか)してきた。


「我々は首都防衛部隊中佐、アリステル・ズィーカ及びその指揮班です。ワイルドハントのエルリックとともに応援部隊として派遣されました。ゲルドヴァ駐屯軍司令プストク中将閣下も御成りです」

「中将閣下が……? ワイルドハントを連れて……? 何を言っているのかよく分からんが……ちょっと待っていろ」


 困惑した見張りのひとりは砦の奥へ姿を隠し、しばらくすると何人か仲間を引き連れて戻ってきた。やってきた仲間がこちらに情報魔法と思われる何らかの魔法を行使する。


「確かにズィーカ中佐とワイルドハントのようだ。それで、中将閣下はどうなされたのだ。怪我をしていらっしゃるのか?」

「閣下は疲れて休んでいらっしゃるだけです。ワイルドハントだけでは不安だろうと、ご足労してくださったのです」

「申し訳ないが、閣下を起こしてもらえないか。直接確認を取りたい」

「それが深く眠っていらっしゃって、目を覚まさないのです。閣下だけ門の前に寝かせますので、どうぞ調べてください。お身体の横に、閣下の指令書も置いておきます。こちらはサングレン大佐へ渡してくださるようお願いします」


 シーワが中将を門の前に寝かせた後、全員門から離れて一定の距離を取る。


 中将以外、誰も門の付近にいなくなったことを見張りが確認すると、門がゆっくりと開いていく。門の開閉音という大きな音がしても中将はぐっすりと眠ったままである。砦の中から出てきた軍医らしき人物と数人が中将に寄り添って身体を調べる。


「外傷はなく、脈と呼吸は落ち着いています。毒も検出されません。本当に眠っているだけのご様子です」

「毒ではなく薬で眠らされているんじゃないのか?」

「毒と薬の基本的な違いは使い方と致死量にあり、成分的には必ずしも違いが――」


 軍医は言葉の枝葉末節に拘って見張りの揚げ足を取る。神経質なところは、アリステルたちよりも軍医として正統派な印象を私に与える。


「言葉の定義などどうでもいい。問題は、なぜ閣下がこちらにいらっしゃるのか、ということだ」

「普通、供回りは駐屯地の部下を使うだろう。特殊部隊とはいえ、首都防衛部隊の人間を護衛にするか?」

「誰を護衛にしようと、ゲルドヴァを出て最前線に来るのはおかしいだろ」

「おい、『おかしい』は言いすぎだ。下手をすると軍法会議ものだ」


 横たわる中将の周りで繰り広げられる議論が熱を帯びる。


「閣下御本人なのだから、何はともあれ砦内へお連れしよう」

「砦内のどこへ? 高位将官用の部屋などないぞ」

「判断を仰ぐという意味でも、大佐のところがいいんじゃないか?」


 兵たちがお互いの顔を見て頷きあう。


「お前たちはしばらくそこで待て」


 砦の兵たちは私たちをその場に残し、門の中へ戻っていった。




「本当にこれで大丈夫なのでしょうか?」


 アリステルが不安そうにポーラに尋ねる。


「中将は、そう簡単には起きないはずです。睡眠薬に拮抗作用を持つ薬を投与されるとか中和する魔法をかけられたところで、あの眠りからは覚めません。指令書を読んだ彼らが我々を中に入れてくれると良いのですが、最悪矢を射かけられても皆さんを守りながら下がるくらいはできます。でもそれはないでしょう。皆さんが医療班だからこそ実行に移すことのできる侵入方法ですね、これは」


 それだけ言うとポーラはアリステルに耳打ちを始めた。またアリステルで何かしようとしている。


 しばらくすると門が開き、アリステル班にだけ入砦許可が下りた。エルリックは引き続き砦前で沙汰待ちだ。ポーラは不満気に首を傾げつつも、私たちに先に行くように促す。エルリックは二の手、三の手を用意していないかもしれない。となると、ここからはアリステル頼みとなる。




 砦の中は篝火(かがりび)が焚かれ、夜だというのにある程度の視程が得られていた。レンベルク砦に入るのは初めてのことだ。最前線を長く維持している砦だけあってかなりの広さがある。篝火程度の薄明かりでも分かってしまうほど大きく破壊を受けた防壁や建物が、まさしく戦争の只中であることを私たちに再認識させる。


 夜間だというのに哨兵の数はかなり多い。防壁に立って外を見張る者だけでなく、砦内を巡回している動哨がそこかしこにいる。砦内の総兵数が分かるというものだ。


 私たちは砦内に無数に張られた天幕のひとつに案内された。私たちは天幕内で待機となり、アリステルだけが別の場所へ連れていかれた。アリステルがこれから会うのは砦の指揮官か、もう少し下の立場の者か。いずれにしろ、舌先で上手く丸め込んでくれることに期待だ。


 寝袋すらない天幕の中、地面に腰を下ろし、気が休まらないままアリステルが戻るのをただ黙って待つ。


 エルリックは今も門の前で待ってくれているだろうか。痺れを切らしていなくなったり、まさか砦を攻撃したりはしないだろうか。エルリックが予想外の行動を取ることは全然珍しくない。どんな突飛な行動を取るか、考えれば考えるほど不安になる。




 天幕内でたっぷり一時間は過ぎた頃、ひとりの兵が現れて私たちを天幕から連れ出す。さっき天幕に案内してくれた兵とは別人だ。名も名乗らぬ見知らぬ兵に付いていき、砦内の、とある建物の中へ足を踏み入れる。建物は扉を開ける前から独特の臭いを放っていた。化学薬品の臭い。血の臭い。そして何かが腐る臭いだった。建物の奥からは、幾重にも重なって人間の(うめ)き声が聞こえてくる。ここはこの砦の救護棟だ。


 階段をひとつ上がって二階の廊下に出ると、そこにはアリステルがいた。私たちに気付いたアリステルは、隣に立つ男へ紹介してくれた。


「軍医のイジー・トゥシュです」


 そう名乗ったのは、先ほど門の前に出てきて中将を診察した男だった。イジーの汚れ切った白衣と窪んだ眼、こけた頬が疲労の濃さを物語っている。夜番で起きている軍医はイジーだけで、他に医療班で起きているのは衛生兵だけ、ということだった。


「軍医の数も治療物資も全く不足しているにもかかわらず、傷兵は増える一方だという。呻き声でもう分かっていると思うけど、痛みで眠ることもできずに苦しんでいる兵が多数いる。僕たちも早速治療に参加しよう」


 特殊班ということで忘れがちであるが、アリステルたちは軍医である。こんなに戦闘力の高い軍医三人というのも珍しい。ただ、これは状況故に特殊任務についているだけのことであり、本職は傷病兵の治療なのである。久しぶりに軍医としてアリステルが私たちに指示を下す。


「軍医の本領発揮ですね」


 背後から聞こえた声に振り向くと、ひとりの兵に案内されたエルリックたちが、今しがた私たちが上がってきた階段から姿を現したところだった。どうやらアリステルは指揮官を上手く丸め込み、エルリックに入砦許可を与えることに成功したようだ。


 歩いているのは九名なのに、聞こえる足音は案内役の兵ひとつ分だけ。他人と一緒にいるところを見ることで、エルリックの気色悪さを思い出す。案内している兵の顔色が若干悪いのは、疲労だけのせいではないだろう。


「我々もお手伝いしましょう。ズィーカ中佐仕込みの医療知識がそれなりにありますし、回復魔法も少しは使えるんですよ」


 エルリックは確かに回復魔法や解毒魔法もアリステルに教わっていた。しかし、目の前で使ってみせたことは一度もない。エルリックの面々がいかに魔法を得意としていようとも、アンデッドが回復魔法を使うとはどうしても考えにくい。


 より考えやすいのは、背高たちではなくポーラが回復魔法を使うこと。ポーラの魔力は人並みだ。ポーラが治療に当たると魔力はすぐに枯渇してしまいそうだが、手がひとつでも多いに越したことはない。




 エルリックを連れてきてくれた兵は、イジーの耳元で何かを囁きその場を後にした。


「あなた方がワイルドハント……。まさか治療も手伝っていただけるなんて。ありがとうございます」


 イジーはエルリックが治療に加わることにまるで抵抗を示さない。ポーラにも畏まって自己紹介をしている。


 存在を素直に受け容れてくれるのは話が早くて大助かりなのだが、アンデッドのワイルドハントに全く警戒しない、というのも、それはそれで不安になる。エルリックという非常識な存在のせいで、私まで矛盾した感情という名のモヤモヤを抱えることになってしまった。


「ご丁寧にありがとうございます。トゥシュ先生はお疲れのご様子。我々は今到着したばかりで活力に満ちています。先生は休んでいただいても結構ですよ?」


 アンデッドとは偽りの生命を持つ存在であり、云わば動く死体だ。『元気一杯の死体』なる表現をポーラにされると、一言物申したくて仕方ない。ああ、言いたい言いたい言いたい……


「いえ、そういうわけにはまいりません。現場を把握している人間がいないと、診療に無駄な時間が掛かります」

「そういうものなのですね。勉強になります。では、せっかく軍医が複数いることですし、チームを分けましょう。少し仕切らせてもらいますよ、よろしいですか先生、ズィーカ中佐?」


 ポーラは現場責任者であるイジーと班長たるアリステルに許可を取ると、チームを三つに分割する。班の内訳はそれぞれ次のようになった。


 イジー、アリステル、背高、シーワの最重症者を回る班。


 サマンダ、私、イデナ、フルルの重症者を回る班。


 ラシード、マドヴァ、ノエルの重から中等症者を回る班。


 衛生兵は各班に数名ずつ割り振られた。


 先程までそこにいた二脚は、気がついたらどこにもいなくなっていた。腕のない二脚は回復魔法を使うことも包帯を替えることもできない。治療の役に立たないことから、この場に居づらくなったのかもしれない。


 口役のポーラは班の間を行ったり来たりするらしい。人員の割り振りを見直して気付く。この班分けを見る限りだと、ポーラは回復魔法を使わない、ということだ。私の予想は早速外れた。では、回復魔法を使えるエルリックのメンバーとは……




 ポーラは、考え事をする私の傍に来ると耳元で囁いた。私は為すべきことを為せ、と。その言葉が意味しているのは内通者探しである。


「紙に書き留めていいですから、回った人物の名前は忘れないようにしてください」


 ポーラはひとつ注文を加えて私の肩を叩き、パタパタとアリステルのほうへ駆けて行った。


 ……パタパタ?


 ポーラの足音が聞こえるのは珍しい。珍しいどころか、ここまでよく聞こえるのはもしかすると初かもしれない。ポーラはわざと足音を立てている?




 衛生兵に案内されるサマンダの後ろを私は付いて行く。やってきたのは、それは広い病室だった。傷病兵はだだっ広い部屋の床、薄手の敷物の上に寝かされている。


 病室内は廊下よりもずっと臭いが強い。臭いだけでも吐き気がこみ上げてくる。傷病兵を灯りで照らすと目を背けたくなるような汚れた包帯が見え、その包帯の下には見ているだけで痛みが伝わってくるような惨い傷口があった。


 サマンダは手短に全身を診察すると、回復魔法を使い始めた。回復魔法を受けて傷口が徐々に塞がっていく。


 やはりサマンダの回復魔法は見事だ。いずれはアリステルを超える回復魔法の使い手になれるだろう。意味のない呻き声しか上げていなかった患者は落ち着きを取り戻し、安らかな寝息を立て始めた。


 治療が上手くいったことにサマンダも安堵する。最初の患者の治療を恙無く終えたことに私も少しだけほっとしていると、横へポーラがパタパタと駆けてきた。


 足音は取り立てて大きくないが、ポーラから足音がすることに違和感が拭えない。ここではずっと足音を立てるつもりなのだろうか。


 ポーラはサマンダに耳打ちを始めた。イデナを指差しながら何かを説明している。耳打ちを終えると、ポーラはすぐに去っていった。


 サマンダは怪訝な顔をしたまま診療記録(カルテ)に書き込みを残すと、次の傷病兵の下へ向かった。




 二人目の傷病兵の診察をサマンダは先ほどと同じく手早く行う。患部に一通り目を通すと、今度はイデナに指示を出し始めた。指示を出すサマンダの顔には、くっきりと不信の色が浮かんでいる。絵に描き残しておきたいくらいの分かりやすい疑惑の眼差し、苛立った声、どちらもサマンダには珍しい。


 イデナはサマンダの指示を聞き終えると、指示内容に従って回復魔法を使い始めた。イデナに回復魔法をほどこされた患部はみるみるうちに傷が塞がっていく。


 信じられない光景だった。イデナの回復魔法はサマンダの力量を超えている。アリステルにも引けを取らないかもしれない。


「わー、きれいに治りましたね」


 横の衛生兵が小さい声で素直な感想を聞かせてくれた。


 傷口はなくなり、薄っすらと残った傷跡を隠すように衛生兵が衣服を着直させる。


「では、次はこっちの患部を……」


 苛立ちが無くなった代わりに今度は動揺した声で、より軽い傷口に回復魔法をかけるよう、サマンダがイデナに指示を出す。


 しかし、サマンダが指示を終えてもイデナは凝立したままだ。


 そこへまたポーラが駆けてきてサマンダに耳打ちをする。そして、またすぐに去っていく。


「今日の診察はこれで終わりです」


 ポーラから何を聞かされたのだろう。サマンダは苦々しい表情を浮かべて二人目の傷病兵に対する診察の終わりを告げると、強い筆跡でカルテを書き始めた。




 傷病兵はいくらでもいる。診察はその後もまだまだ続く。


 サマンダは診立てをするとイデナに指示を出す。イデナが回復魔法を使って治療を行い、サマンダは魔法を使わない。イデナの回復魔法を見ながら、サマンダはカルテを書いていく。回復魔法と診療記録が終わると、更衣は衛生兵に任せて、もうひとりの衛生兵と一緒に次の傷病兵のところへ行く。この繰り返しだ。


 イデナはしばしば指示に従わずに沈黙を守ることがあり、そうなるとすぐにポーラが飛んできてサマンダに何かを喋っていく。すると、その度サマンダが不機嫌になる。


 苛立ったサマンダの横にいるのは少し辛い。膨れたラシードの隣にいるよりもずっと身の置き所がない。


 サマンダが書き込んだ後のカルテには、私もトゥールさんで行った調査の記録を残していく。もちろん私だけが分かるような書き方で、だ。


 傷病者たちを調べるのは思ったよりも容易だった。トゥールさんの能力による調査の所要時間は、標的の魔力の多寡によって決まる。標的の体調が悪化して魔力が減っているときは、それが“質問”の冷却時間(クールタイム)の減少としてリニアに反映されることを、傷病兵の調査を通して理解する。




 診察は夜明けまで続いた。患者の重症度が高いほど回復魔法操者の魔力消費は大きくなる。イデナの魔力がいつ尽きるかと思っていたが、最後までイデナが魔力切れになることはなかった。途中、何度か数分間中座した以外には纏まった休憩を取ることなく、夜通し回復魔法を使い続けた。


 まだまだ診察していない傷病兵はたくさんいたが、夜が明けて終了になったのは、別の軍医が起床して救護棟に姿を現したから、というのと、サマンダの集中力が限界を迎えていたからだった。私でも横で見ていて分かるくらいサマンダはミスが増えていた。今書き終わったカルテにも、怪我の部位を『左後脚』と書いている。軍医は軍馬や軍用犬の診察も行うが、今日は人間しか診察していない。集中力が切れているのは、別の場所で診察を行っていたラシードも同じだったらしい。




 病室という名の患者が床に寝かせられただけの広間を離れ、廊下に再集合する。別行動をしていたのは数時間程度のことでしかないのに、ラシードとアリステルの顔を見るのは随分と久しぶりなように感じた。起きだしてきた軍医に対して、アリステル班とエルリックは挨拶する。


 その軍医はサーリ・チャクノフという男だった。年齢はかなり高い。アリステルとライゼンの中間くらいの老け方だ。この砦の軍医を統括する立場だというのに、早朝診察を開始するのが一番早いのだから熱心な男だ。顔はむさ苦しくて全く好人物には見えないけれど、高い治療意欲だけで好感が持てる。


 サーリに診療の進捗状況を説明するイジーは、深夜に見た時よりもずっと生気があるように見えた。イジーは、背高の回復魔法に発奮させられた、ということを何度も喋っていた。




 私たちはしばらく休息の時間が取れることになった。


 アリステルが徹夜明けなのに平然としている一方、ラシードとサマンダは見るからに疲労困憊となっていた。サーリに対する治療の引き継ぎを聞くに、回復魔法を行使したのは背高、イデナ、マドヴァの三人だ。アリステルたち軍医三人はほぼ魔法を使っていない。診立てを行い、指示を出して、カルテを書いただけ。しかし、ラシードたちはエルリックの訓練後と同等か、ともするとそれ以上にぐったりとしている。軍医として診察に当たるのは、訓練や魔物との戦闘とは全く異なる緊張を強いられるのだろう。二人は食事を取った後、倒れるように眠りへ落ちていった。




 エルリックはまるで疲れていないことを誇示するかのように、哨戒に行ってくる、と言い残し、砦から出ていった。疲労とは無縁のアンデッドとはいえ、魔法を使えば魔力は減る。もしオルシネーヴァ軍と接敵して戦闘になった場合、背高たち三人の魔力は大丈夫なのだろうか? 人間であるポーラの身体疲労も心配だ。


 気になることは多々あれども、診療の介助をしながら調査を行っていた私も徹夜明けで眠たい。先に眠る二人を追いかけて私も休もう、というところで、アリステルが私たち三人に宛がわれた部屋を訪れてきた。ひとり部屋から出て、人気(ひとけ)に注意しながらアリステルと情報を交換する。


「ラムサス、何か分かった?」

「中尉と一緒に回った傷病兵たちからは何も。問題のない兵ばかりでした。それよりも、イデナは凄いです。班長を彷彿とさせる高水準の回復魔法を披露してくれました」

「それはこちらも同じだ。背高はこれだけの長時間、息継ぎもせずにずっと魔法を使い続けた。魔力残量を気にせず治療に集中できる、というのは計り知れない長所だ。それを考えると、エルリックの回復魔法は僕以上かもしれない」


 一見したところ冷静そうだったアリステルは、話してみると私以上に気分高揚となっていた。


「班長の教え方が良すぎたのかもしれませんね」


 間接的なアリステルの功績であることを私が主張すると、アリステルは首を横にふる。


「彼らは僕が教える前から何らかの医学知識を持っていた。深くはないけれど、僕よりも横に広い。ジバクマにはない引き出しがある」


 少なくともポーラをドミネートで操る者がジバクマ出身ではないことは分かっている。エルリックの持つ医療知識の多様さはそれに矛盾しない。


「彼らは本当に何者なんだろう。ゼロナグラ公はそれなりに医学を理解していたようだけど、外国の医学には手を伸ばしていなかった。ゼロナグラ公の生まれ変わり、というだけでは到底説明がつかない」


 ダニエルは人体にまつわる知識をそれなりに持っていた。しかし、ダニエルが回復魔法を使いこなした、という話は聞いたことがない。回復魔法はアンデッドに対して効力を発揮しない。ダニエルがそんなものに興味を持っていたとは思えない。生まれ変わりだとするならば、新種として生まれ変わった後に回復魔法を習得した、というほうが成り行きとして自然だろう。


「正体が何であれ、彼らは僕たちの僚兵の命をいくつも救ってくれた。このオルシネーヴァとの戦争に片をつけられたとして、その先も彼らの力を借りられたら……本当に“仲間”に加わってもらいたいとすら思っている」


 軍人仲間を治療してもらったことに心を強く動かされているアリステルを見て、やはりアリステルの本職は軍医であり、心優しい人間なんだな、と思う。不快感を(あらわ)にしていたサマンダにしてもそうだ。エルリックの剣を見ても、攻撃魔法を見ても、そこそこ恐れこそすれど、今日のような強い感情を示したことはない。自分が軍医だ、という自負があるからこそ、エルリックが持つ治療能力を見て感情に揺らぎが生じたのだ。


「エルリックは戦後の予定を既に立てています。あれは決して私たちを謀ろうとした発言ではありません。戦後やろうとしていることこそがあの者たちの目的であり、私たちに協力する真の動因。引き続き協力を得るのは難しいと思います」

「でも、三年と言っていた。それからでも全く遅くない」


 国という大きなものからしてみれば、三年というのはそこまで長い年月ではないだろう。しかし、私個人にとっては貴重かつ長い歳月である。


 私は本当に三年もマディオフに滞在することになるのだろうか。仮にオルシネーヴァを滅ぼすことになったとして、その後ジバクマがマディオフと戦争することになったら、そこに忍び込む私はどうなる。しかも、人間だけで忍び込むならともかくエルリックと一緒だ。オルシネーヴァとマディオフに広く浸透している紅炎教は異常だ。紅炎教の理念は確かにアンデッドに対して敵対的だ。しかし、人間に対して友好的なアンデッドまで殲滅しようとするのは、オルシネーヴァとマディオフの紅炎教だけと聞く。ジバクマやゴルティアの紅炎教は、ここまで強くアンデッドを排斥しない。


 マディオフに至っては、紅炎教が国教に指定されている。国全体が異常な宗教観に浸ってしまっている。かの国では紅炎教の教義に疑問を呈する真っ当な感覚の持ち主はいないのだろうか。いたとしても、国という魔物に抹殺されてしまうのかもしれない。そんな異常思想の浸透した危険な国をエルリックと一緒に訪れたくはない。


 撹乱目的だろうが、エルリックはここまで私たちに対する要求を変えてきた経緯がある。オルシネーヴァを下した後、私を連れていく、という件も変更するか、あるいは無かったことにしてもらいたいものだ。


「私にとって、三年というのは実に長い月日です」

「多分、あれは彼らなりの交渉術だ。きっと、もっと早く帰ってこられると思う」


 交渉術、というのならば、三年よりももっと長い可能性だって否定できない。


「ただ、まずは目の前の苦境を乗り越えないといけない。そのためにはちゃんと身体を休めないとね。寝る前に引き留めてごめん。ラムサスもしっかり休んで」


 浮かない顔をしてしまった私の肩をポン、とひとつ叩いてアリステルは去っていった。


 そういえば、中将は今どこで何をしているのだろう。誰かが、大佐の部屋に連れて行く、とか言っていた。エルリックの目論見通り、数日間眠り続けるとなると、いつか傷病者の病床に混じって寝かせられることになるかもしれない。


 有り得る近い将来の不可思議な光景を思い浮かべながら、私も眠りに落ちた。

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