第四一話 ユニティ 七 ディテクトカース
治癒師見習いのピルビットを治療室から退室させ、従者たちが治癒師マルティナの身体を拘束していく。
準備が整うまでの間、クローシェは静かに物思いする。
クローシェが行う特殊治療、“呪破”の標的はマディオフの王族が操る呪い、通称ロイヤルカースだ。
ロイヤルカースには謎が多く残っている。
明らかとなっているのは、術者が対象者に覚知されずに呪いをかけられる、ということや、呪いをかけられた対象者は洗脳された状態となって行動選択に変化をきたす、ということだ。
通常、非呪術的な手段による心理操作や催眠では、対象者に極端な行動を選択させることは難しい。ここでの極端な行動とは、自己ないし他者の命にかかわる行いを指す。
心理操作や催眠とは異なり、洗脳ではやり方や洗脳深度次第では自殺させたり、他者を殺害させたり、命がけの行動を取らせたりすることが可能だ。ただし、その場合でも対象者は『強制されている』という自覚がそれなりにある。
ロイヤルカースの場合、対象者は強いられている自覚が全く無いばかりか、行動選択の根幹となる思考、精神に変容をきたしていることすら気付かない。
隠密性と強制力が極めて高い洗脳手段、とも言い換えられる。
対象者は呪いがかかっている自覚がないのに、呪いを保護する行動を取る。誰かから、『これからお前の呪いを解くぞ』と宣言でもされようものなら抵抗を示すのは確実で、解呪から逃れるためなら暴力や殺人も辞さない。
拘束が始まる直前のマルティナも一時、微妙に抵抗姿勢を示したが、あれはロイヤルカースによる典型的な抵抗とは全く違っていた。典型的な対象者はどれだけ時間をかけて説明、説得しても耳を貸さない。マルティナのように数分で納得して治療を受け入れることなどない。
マルティナが非典型的な対象者である可能性を否定する根拠は特にないものの、ではその可能性の高低を問われるとなると、低いと答えざるを得ない。それでもクローシェが時間を費やして特殊治療を行おうとするのには理由がある。
クローシェは、マルティナの“異変”の裏にワイルドハントの影を感じている。ワイルドハントが話に絡むからこそ、ロイヤルカースはマディオフの王族以外かけられない、という情報が大きな意味を持つ。
もしもワイルドハントとマディオフ王族が結託しているのであれば、ウリトラスがワイルドハントと協力してヴェギエリ砦を襲撃した理由が途端に説明容易になる。
ウリトラスは王族から正式な認可を得るなり、あるいは王命を拝するなりしてワイルドハントに一時出向しているのだ。
この場合に問題となるのが、マディオフ王国が紅炎教を国教と定めている点だ。マディオフの紅炎教はアンデッド排除を絶対的な使命のひとつとしている。そのマディオフがワイルドハントと手を組むのはありえないことのようにも思われるが、ゴルティアの諜報部由来の情報が、そこにも突破口を与える。
マディオフは国民保護や国家安全保持を謳い、吸血種とアンデッドを排斥している。国民保護などという文句は通り一遍の建前に過ぎず、この際重要ではない。大切なのは奥底に隠れた本音だ。
吸血種とアンデッドを排斥する方針は長年続いているのだから、その本音がどこかから漏れ出て、国民の間で好奇心を刺激する噂話として実しやかに囁かれていてもいいはずだ。ところが実際は国民の大半が真実に近接した噂を入手できていない。
排斥方針に疑問を抱く者は全国で毎年いくらでも出現する。そういう新人探偵諸氏が捜査を開始して見つけるのは、それらしくはあるものの真実から巧妙に外れている風説が精々だ。風説のひとつは、マディオフの初代国王が吸血種とアンデッドを苦手としていた、と語る。大半のにわか探偵の疑問や好奇心はそこそこ納得できる風説を手に入れて終息する。しかし、諜報部は無価値な光り輝く石と砂を長年かき分けた末に、輝きもなければ美しい色合いもない玉、一定の信頼のおける情報を入手した。
風説は退屈に喘ぐ国民の好奇心を充足させる娯楽品に過ぎず、真実はもっとつまらない現実的なものだ。
話はマディオフがまだ地方で力を持つ一豪族に過ぎなった頃、現在のマディオフ領土が統一されていなかった時代まで遡る。
当代のマディオフの長、現在で言う初代マディオフ王は野心に燃え、盛んに勢力を拡大していた。強い指導者の陰には有能な参謀がいるもので、参謀は将来的にゼトラケインの支配階級であるヒト型吸血種ドレーナと衝突することを見据えていた。参謀の進言を受け、マディオフは国としてかなり早い時期から計画的かつ段階的に吸血種排斥の政策を執るようになった。
噂で語られているような、非理性的な好悪の感情で執られた思いつきの政策ではなく、一定の理性によって修飾を受けた野心に由来する政策だったのだ。
この時、排斥対象となったのは吸血種だけで、アンデッドが排斥されるようになったのはもっと後年だ。マディオフの歴史や政治に浅く広い知識を有する者は、アンデッドが排斥対象として後から追加された理由を、『紅炎教が国教に指定されたからだ』と考えている。実はこれも謬見だ。
確かに、紅炎教は東天教と比べてアンデッドに敵対的だ。しかし、マディオフが紅炎教を国教に指定するよりも前、この土地で信仰されていた紅炎教は、現代ほど過剰にアンデッドを敵視していなかった。
ここまではほぼ事実と考えてよい、正誤の確かめられた情報だ。ここから先は断言する根拠に欠けた、ゴルティア諜報部の人間による推理、憶測の領域になる。
クローシェたちは、マディオフの紅炎教が現代の形になった理由をこう考えている。
マディオフの紅炎教は、教団内から自発的に生じた変化によってアンデッドを敵視するようになったのではなく、外部からの干渉によって変化をきたした。具体的には、マディオフの王族が、時の紅炎教指導者に契約を持ちかけた。『紅炎教を国教に指定する見返りに、教義の一部を改変してアンデッドを絶対排除の対象に定めよ』と。
この憶測が的中しているにせよ、外れているにせよ、マディオフがアンデッド排除の政策を執っているのは事実だ。もしも憎悪に駆り立てられてのことならば悲劇的な逸話のひとつでもあっていいようなものだが、不思議と王族や王族に近しい人物がアンデッドに襲われて命を落とした、という話は聞こえてこない。
感情的な理由が否定的となると、やはりここでも考えやすいのは何らかの利害である。
実際のところ、アンデッドを国から完全に排除するのは不可能だ。生命を持つものの大半は、命を失ってしばらくするとアンデッドになる。一部の例外を除き、アンデッドに転化しないのは植物や無脊椎動物くらいのものだ。草が生えれば虫が湧き、虫が湧けば鳥が寄る。極端な話、国を全て草の一本すら生えない不毛地帯に土壌改悪しない限り、将来にわたる完全なアンデッド排除はできない。ただ、それはそれで本末転倒な話である。
完全なアンデッド排除ができないにせよ、完全に近いくらいアンデッドを排除することならば可能だ。ここではそれを、表社会からのアンデッドの一掃、と定義しよう。裏社会にアンデッドを囲い込んで王族が得られる利益とくれば、半ば永遠の寿命を持つアンデッドの知識や技術の独占という発想に自然と行き着く。
そのように考えると、ロイヤルカースという技術そのものがアンデッドからの授かりものなのではないか、とも思えてくる。
呪い、呪術とは広義における魔法の一種に該当する。呪術は秘匿されやすいという特性上、ゴルティアにおいても他の魔法分野に比べて研究が遅れており、詳細不明な呪術は山ほどある。アンデッドが得意とする闇魔法から派生、発展した呪術体系が存在し、それがロイヤルカースという形でマディオフの王族に伝わった、と考える説は、否定的意見を多々貰いつつも、最近ではありえる説のひとつとして概ね安定した評価を得ている。
「準備が整いました」
特殊治療を準備完了させたビークがクローシェに恭しく報告する。
マルティナの全身は十重二十重に拘束され、暗器になりうる診療器具の一切が除去されている。
残っているのは柔肌に吸い付くように薄い防御性能とは無縁の診療衣と、首から下がる小さな装飾具だけだ。
クローシェにはその首飾りが魔道具のように見える。だが、拘束準備中、アッシュは首飾りを検め、『魔道具ではない』と判断した。眼力のあるアッシュがそう言うのだから、あれはただの飾りであって魔道具ではないのだろう。
宝石、貴石と呼ぶには貧相で鈍くくすんだ色合いの石をペンダントトップに奢った簡素な首飾りだ。石は装飾品として常識的太さの蝋引き紐により編み留められている。金属環ではないその紐だと、絞頸に用いるにもやや頼りない。
首飾りが武器になりえず、しかも魔道具でもないというならば、着用させたままでも問題はないだろう。
アッシュのハンターとしての眼力は頼もしくもあり、クローシェに自信を喪失させる自刃の類にもなる。
誰にも悟られぬように小さく小さく吐息を衝いてから、クローシェはマルティナの前に立つ。
マルティナの顔には、呼吸を妨げぬ程度の薄布が被せられている。
布の下からマルティナがクローシェに話し掛ける。
「呪破の最中、フランシス将軍は私と雑談する余裕がありますか?」
(何とも妙な質問をする。治療の邪魔が目的ではなさそうだが、正気とは思えぬマルティナのことだ。真意など分かったものではない)
「申し訳ありませんが、それは無理ですね。かなり集中しての作業になります。特別な用件でもないかぎり話し掛けぬよう、お願いします」
「そうでしたか。時間はどれほどかかるのでしょう?」
マルティナの語調には違和感がある。緊張は時に人を多弁にするが、マルティナの声からは全く緊張が伝わってこない。どちらかというと、退屈な特殊治療の間の暇つぶし方法を探しているような、例えるならば、調髪を受ける間に読む大衆紙でも求めているような気楽さがある。
「早く済めば、一時間ちょっとです。長くかかる場合は上限なしです。私にも時間が見積もれません」
「えっ!? そんなにかかるかもしれないのに、このような拘束をしているのですか? ユニティには拷問の専門家がいないのですか?」
(こいつは何を言っている?)
マルティナの発言にクローシェは動揺する。
これから行うのは呪破であって拷問ではないが、マルティナがロイヤルカースに冒されていた場合は拷問と大差ない現象が起こるのだから、この際、その違いは問題ではない。
マルティナの声色には、こちらを揺さぶろうという意思が含まれていない。おそらく、ビークたちの拘束には拷問の素人が犯しがちな何らかの瑕疵がある。ただし、具体的に何がどう拙いのかクローシェには分からない。
ユニティには拷問の専門家などいない。クローシェも工作員として、自分が拷問を受けた場合に苦痛を耐える心得は備えているが、自らが拷問官として拷問を行う際の専門知識は有していない。
クローシェは少しばかり脅しの意味を込めて低い声で返答する。
「今まで誰にも抜け出されたことのない拘束です」
マルティナはそれを聞くと、はあー、と呆れたように長息を衝き、聞き取り困難なほど小さい声で何言かを呟いた。不出来な学生から的はずれな解答を聞かされた教師のような反応だった。
クローシェの耳には、『ミシュマシュか』と呟いたようにも聞こえた。
ゴルティアでも稀にしか聞かない、ましてやロギシーンでは一度も聞いたことがないゴルティア古代語に由来する悪口が、まさかマルティナの口から飛び出すはずがない。
(寄せ集め……か)
マルティナが今度はよく聞こえる声でクローシェに言い放つ。
「もういいです。早く始めて早く終わらせてください」
声から察するに、マルティナは再びこちらへの、いや、クローシェへの興味を失っている。
言外に、『期待はずれだ』と愚弄されたクローシェはマルティナに反発を覚える。
怒りに耐えてクローシェはチラリと横を見る。
マルティナの視界を塞いだ後、アッシュたちは抜剣して臨戦態勢になっている。武器を構えていないのはマルティナとクローシェだけだ。
呪破には極めて高い集中力が要求されるため、治療の間、クローシェは完全に無防備になる。何か不測の事態が起こった場合、例えば誰かがクローシェを攻撃してきたとして、クローシェにはそれを避けるも防ぐもできない。防御の全てはアッシュと従者たち任せだ。
命をあなたたちに預ける、という意味を込めてクローシェが首肯すると、アッシュたちは力強く頷き返した。
命を託したクローシェは、厳重に拘束されたマルティナの身体に両手をかざす。
クローシェの手から放たれた淡く光る魔法がマルティナの身体を包み込み、ジワジワとマルティナの体内へ滲み込んでいく。
クローシェが行使しているのは、身体を解析する情報魔法の一種だ。一般的な治癒師が用いる解析魔法とは違い、病気や内部損傷を発見できない。
クローシェの解析魔法で見つけられるのは、簡単に言うと“魔力の絡まり”だ。ロイヤルカースでは、この絡まった部分を探す作業である呪い検出が、他の並の呪いと比べて段違いに難しい。ただし、一旦、発見さえしてしまえば、絡まりを解く作業、呪い解除は呪い検出よりもずっと簡単だ。もちろん解除工程は解除工程でそれなりの難易度があり、工程完了までにはある程度の時間を要する。ただ、この呪い解除工程だけは少し腕が立つ治癒師でも可能ではないか、とクローシェは睨んでいる。
工場における製造ラインと違い、前工程だけをクローシェが行い後工程を他の治癒師に譲る、ということが不可能なため、最初から最後まで通しでクローシェが行うしかない。それゆえ、本当に呪い解除が他の治癒師にできる難易度なのか確かめる術はない。
では、魔力の絡まりを探す作業とは具体的にどのような内容なのか。これを的確に言い表すのは難しい。少なくとも、真っ白な大地と青く澄んだ空が広がる世界において、どこかの地面に突き立っている真っ赤な看板を探すような、見つけた瞬間にそれと分かる容易な仕事ではない。
人体には隅々まで血管、神経、リンパの路が張り巡らされており、それは所によってスパイダーウェブのように複雑に交差している。人体を刃物で切って開けば、名前のついた太めの血管や神経はそれなりに簡単に見つかるのに対し、手足の末端に伸びる極狭小な透明のリンパ管を見つけるのは難作業だ。
血管や神経等と同じように、魔力もまた人体の隅々まで通っている。魔力の絡まりを見つけるには、まず魔力の流路を探す必要がある。この魔力の流路探しの難易度は血管同定や神経同定よりも、リンパ管同定の難易度に比較的近い。しかも、魔力の流れは目に見えない。
一般的なヒトの目は“魔法”という事象は観測できても、“魔力そのもの”を視認することができない。魔力そのものを視認できるのは、魔眼を持つ限られた存在だけだ。ゴルティアの広大な国土の中において、昔はそういった魔眼を持つ民族をはじめ、特殊な技能や才能を有する少数民族が多数いた。それらの少数民族は、融和を是とするゴルティア公国の拡大とともに、つまりは時代の流れによって血が薄まり、消えていった。今では、魔眼持ちのヒトは莫大な人口を抱えるゴルティアでも数えるほどしかない。
魔眼を持たないクローシェは、魔力を目で見ることができない。魔力を捉えるのは、クローシェの手から放たれる情報魔法だ。呪い検出とは、情報魔法を体内へ滲入する手として用い、その手で魔力の溜まりや流れを触覚で感じ取る作業のようなものである。
クローシェの魔力が作り出した体内へ滲入する手が丹念にマルティナの身体を浚う。床一面に厚く敷き詰められた藁を浚うようにマルティナの身体を何度も浚い、繰り返しの果てに藁の中に紛れ込んだ一本の撚り糸を見つける。これこそがマルティナの身体を流れる魔力の通り路だ。
見つけた撚り糸を慎重に辿っていくと、撚り糸は次第に集まり合流して一本の大きな紐となる。紐は綯われて縄になり、マルティナの全身の魔力網に繋がっている。
呪いを探すとは、この膨大な魔力網の中にある絡まり、いや、誤りを探す作業だ。ナナフシが木の枝や葉脈に擬態するように、ヤマネコが木々や茂みに擬態するように、ロイヤルカースはこの魔力網の中に隠れ潜み、本物の縄や紐のフリをしている。クローシェはこの魔力網の一本一本を体内へ滲入する手で触って滑らかさや太さ、弾力、温冷感等を正常な部位と比較し、それが本物か偽物か判定する。
では、本物とは、正常部位とはどこなのか。それは誰も教えてくれない。おそらくこれは正常な魔力の通り路であろう、と思われる部位を、正誤判定表の正解代わりとして暫定的に定め、それを基に少しずつ正常と言えそうな部位を広げていく。ある程度まとまった範囲を“正常部位”と判定したら、そこを足場にして更に判定範囲を広げていく。
解呪は別にクローシェの専売特許ではない。解呪技能を習得している治癒師はそれなりに居る。ただし、並の治癒師はロイヤルカースを解除できない。彼らがどこで躓くか、というと、この呪い検出の工程で躓く。ゴルティアにはクローシェ以外にも数名、ロイヤルカースを解ける治癒師がいる。ただし、ほぼ全員が民間の治癒師であり、クローシェのような軍籍の工作員ではない。
他国に潜入する工作員は、その国で“自給自足”に近い生活が強いられるため、幅広い技能を習得している。治療技能もそのひとつで、解呪能力を持つ工作員の数はひとり二人ではない。しかし、ロイヤルカースを情報魔法で見つけられる工作員は、わずか数名だ。工作員になれるのは、軍人の中でも選りすぐりの成績上位者だけであり、工作員に選出された時点で軍から認められた万能の秀才と言える。その万能の秀才たちが何十、ひょっとすると何百人と長い年月をかけてマディオフに送り込まれ、その数多の秀才たちの中でロイヤルカースを見つけられるのがたった数名だ。
ロイヤルカースの検出に成功した数名の治癒師と工作員らは、全員例外なくロイヤルカースの解除に成功している。ロイヤルカースの発見は、即ち呪いの解除成功と言ってしまってもいい。
呪いには解除の容易なものと難しいものがあり、難しい呪いの解除を指して、治癒師たちは“呪破”と呼ぶ。呪破の要件は一応、他にもあるのだが、“解呪”の上級技能を“呪破”と考えておけば概ね間違いない。
解呪スキルではロイヤルカースを解けない。ロイヤルカースを解除できるのは呪破スキルだけだ。マディオフに潜入する工作員とユニティの人間たちに限っては、呪破という言葉をロイヤルカースの解除と同義として用いている。
「アッシュ将軍。つい先程耳にしたのですが――」
特殊治療開始前に雑談は慎むよう釘を刺しておいたのに、マルティナはクローシェの特殊治療を受けながらアッシュに話し掛ける。
「治療中は私語を慎むように言われただろ」
アッシュがすかさず注意する。
しかし、マルティナはそれを意にも介さず話を続ける。
「そうは言われてないです。それに、言われたとしても私はそんなものに同意などしません。フランシス将軍には話し掛けないので、是非、私との会話に応じてください」
話し掛けられたアッシュは、マルティナの言うことなど無視すればいいのに、大義そうにマルティナの頼みを了承する。非情に徹しきれないアッシュの欠点といえば欠点かもしれない。
クローシェの特殊治療は誇張抜きに繊細な集中力を要する。迂闊にマルティナの私語に苦言を呈そうとすると、やっと発見したマルティナの魔力網を見失いかねない。そうなると、治療工程は最初からやり直しだ。
クローシェはマルティナの私語を敢えて無視し、再び特殊治療に集中力を傾ける。
たとえ雑談がマルティナの仕掛ける謀のひとつだとしても、賢しいアッシュは油断しない。むしろマルティナが油断をさせようと躍起になればなるほど、アッシュの頭脳は冴え輝くだろう。ならば、クローシェは自分の作業に集中し、一秒でも早く特殊治療を終わらせるだけである。
マルティナの身体に張り巡らされた広く長い伸びる魔力網を、クローシェは体内へ滲入する手で一つひとつ入念に調べる。この気が遠くなる特殊治療をクローシェは百回近く成功させてきた。
成功しなかったのは、いずれもロイヤルカースに冒されていなかった者なのだろう、という最終判断を下している。
マルティナの場合、特殊治療開始前の遣り取りではロイヤルカースに冒されているのかどうか、よく分からなかった。マルティナの反応を見る限り、九割方、冒されていない、と思われる。しかし、変法のロイヤルカースに冒されている可能性が一割ほど残る。
絶対に有ると分かっているものを探す作業と、有るかどうか分からないものを探す作業とでは、難易度が大きく変わってくる。
多分無い、と思って探すと検出率は低下する。きっと有る、いや、必ず有る。そういうつもりで呪いを探さなければならない。
全身に広がる魔力網を一巡り浚ったら二巡目を行い、それが終わったらダメ押しで三巡目を行う。
マルティナの身体を三度、総浚いしても、ロイヤルカースと断言できる誤りは見つからなかった。違和感が何も無かったのか、と問われると、それもまた答えに窮するのだが、少なくともロイヤルカースは無いようだ。
クローシェはマルティナの体内に沈み込ませていた意識を現実へ引き戻す。すると、それまで呪破を邪魔する雑音でしかなかった音が、言語として意味を成し始める。
「オレツノに出現したゴブリンキングはどうするのです。もしかして、アッシュ将軍たちが討伐に向かうのですか?」
「何度も言っているだろ。そういう機密情報は話せない」
「そのとおりです」
マルティナとアッシュの会話にクローシェが割って入る。
「関知無用でお願いします」
こうやって機密を探ろうとするのは、マルティナが“敵”であることの何よりの証明だ。しかし、マルティナを操る“影”がギキサント関連の存在なのか、面談と特殊治療を経ても確定させられなかった。ロイヤルカースに冒されていないのはほぼ間違いないが、そのせいでワイルドハントとマディオフ王族、そしてウリトラスの関係性が再び闇の中に隠れてしまった。
マルティナの立ち位置を確定させられなかった以上、現時点ではいかなる情報も流してはならない。囮捜査目的に情報を流すならば、アッシュが率いるゴブリンキング討伐部隊、ストライカーチームが責務を果たしてロギシーンに戻ってからにすべきだ。
「左様ですか。それで、フランシス将軍は私の身体を冒す呪いを解除し終えたのですか。それとも、疲れて休憩ですか?」
アッシュとは感じ良く話すのに、クローシェと話し始めるとマルティナは途端に嫌味たらしくなる。マルティナは部下のピルビットにも案外に優しい話し方をしていた。男には媚びて、同性の女に対しては冷たく当たる“男好き”の女そのものだ。
クローシェは努めて無感情に答える。
「特殊治療は終わりです。マルティナ先生の身体はいかなる呪いにも冒されていませんでした」
「それはありがとうございます。では、勝手ながらアッシュ将軍がゴブリンキング討伐に行くものと愚考し、アッシュ将軍の無事と武運をお祈りさせていただきます。そしてフランシス将軍には、くれぐれもアッシュ将軍の御身を守っていただくよう切に切にお願い申し上げます」
「部隊運用に関しては何も言えませんが、ユニティが常に最善を尽くすことだけはお約束します」
クローシェはストライカーチームに組み込まれていないため、ゴブリンキング討伐においてアッシュの身を守る役割は担えないが、敢えてそれをマルティナに教える理由はない。
一般化したクローシェの回答に、マルティナが鋭く詰め寄る。
「嘘ですね」
マルティナの答えにクローシェは胸ぐらを掴まれたように錯覚する。
(また揺さぶりか。それともマルティナは何かを知っているのか?)
「……嘘とはどういう意味です」
「私には、フランシス将軍が命を懸けてアッシュ将軍を守ろうとしているようには見受けられません。だから、無礼を承知でお願いしているのです」
マルティナの言葉を聞き、クローシェは自らの後方に危うさを覚える。
マルティナが揺さぶっているのはアッシュでもクローシェでもない。治療室に居合わせた従者たちだ。
従者たちに迷いが生じてしまうと、“敵”と戦うことは著しく困難になる。
(……庁舎会議室でピルビットの話を途中で遮ったのは失敗だったかもしれない。世道人心を乱すのがこいつのやり口ならば、その魁であるウラスでの手法を念入りに聞いておくべきだった……)
クローシェは下唇を噛んでしまいそうになるのを抑え、冷静さを保ち返答する。
「それはマルティナ先生の杞憂です。心配せずとも、私も従者たちも身が朽ちるまで総大将の輦輿を担ぎ、朽ちた後も次の担ぎ手の踏み台や礎となる所存です」
[輦輿――れんよ。貴人の乗り物]
「フランシス将軍は高尚な願いを持っていらっしゃる。だからこそ、フランシス将軍の今のお言葉は真実たりえないのです」
「なっ……」
ユニティが掲げている理念を現実のものとするべく、クローシェは奮戦している。
マルティナはその理念から真実を穿ち、クローシェの発言の嘘を暴いた。
特殊治療を終えたクローシェの手は既に自由となっている。空いたクローシェの手が、闇の中で消えてしまった灯りを探すように右往左往しながら帯剣に伸びる。
剣の柄を探り当てたクローシェは柄を深く握る。
マルティナはまだ拘束されたままだ。今なら一突きで絶命させることなど容易い。しかし、マルティナを刺した瞬間、マルティナに感化された従者たちが後ろからクローシェに襲いかかってきそうでならない。
かといって後ろを振り返ると、今度はマルティナが拘束から抜け出してクローシェに襲いかかってきそうだ。
ぎいい。
背後からひとつ、金物が滑り擦れる、少し長い音が響いた。
クローシェは、それが刃物と鞘が擦れる音であると確信し、刺突剣を抜いて即座に後ろを振り返る。
クローシェが剣尖を向けた先にいたのは、クローシェの従者ビークだった。
ビークは剣を握っておらず、無手である。
(ビークの剣は!?)
見ると、ビークの剣はすっぽりと鞘に納まっていた。
それもそのはず、クローシェが特殊治療を始める直前、その場の全員が戦闘態勢を整えていたのだ。先程の金属音は、抜き身の剣が鞘に納まる音に決まっている。
剣を向けられたビークが悚懼して尋ねる。
「あ……あの、フランシス次将。もう、拘束を解除してもよろしいでしょうか?」
ビークの手掌は、全身拘束具で雁字搦めになったままのマルティナの身体を指している。
拘束具に繋がれた状態というのは身体にかなりの負担がかかる。特殊治療の成否を問わず、終わったならば早急に解除すべきだ。クローシェは、日頃の特殊治療では終了、即拘束の半解除を常としている。
「ええ……。お願いします」
マルティナの不気味な発言に従者たちが動揺してしまうのを危惧したクローシェだったが、誰よりも自分が正気でなくなっていた。
アッシュがクローシェの腕を引き、クローシェの晒した異常な反応の理由を耳元で問う。
「特殊治療の間に、マルティナから何らかの魔法干渉でも受けたのか」
「いえ」
クローシェは鬱然と答える。
「集中するあまり、神経過敏を引き摺ってしまいました」
クローシェはそれだけ言って、逃げるように室外へ出た。
治療室の外の空気を肺一杯に含み、室外を見張っていた従者たちに首尾を問う。
「何も異常はありませんでした」
従者たちは、室外が小康状態を保っていたことを報告する。
クローシェはそれだけ聞くと、逃げ出したばかりの治療室に再び戻る。
マルティナの拘束はもう残り僅かとなっていた。
全員が武器をきちんと鞘に納めてから、マルティナの顔を覆う薄布と最後の拘束を外す。
自由になったマルティナが寝台上で身体を起こし、全身の関節を屈伸しながら尋ねる。
「フランシス将軍には無礼なお願いをしてしまいました。あれは忘れてください。そんなことより、次の話をしましょう」
「……何の話です?」
(今度はどのような奸計を仕掛けてくる?)
クローシェは心の冷え込みを感じながら質問の意味を尋ね返す。
「何って、瘴気の話ですよ。私の身体がロイヤルカースに冒されていた場合に呪いを解くこと、この近辺で発生している瘴気を調査すること。その二つを目的として本日はこちらにいらした、と言っていたではありませんか」
「ええ、そうでしたね」
胡乱な返答したクローシェにアッシュが目配せする。
それにより、クローシェは自分がどうやら失言してしまったらしいことに気付く。
特殊治療の間、マルティナとアッシュとの間でどんな会話が交わされていたのか、はっきり言ってクローシェはほとんど分かっていない。耳に入り脳に届き意味を理解できたのは長い会話のほんの一部で、他は雑音にしかなっていなかった。
瘴気の話もある程度交わされたものだと思い、不用意な返答をしてしまった。
心なしか、クローシェの背中に刺さる従者たちの視線まで冷たいように感じる。
このままマルティナの調子に合わせて会話に応じていると、混乱の解けきっていないクローシェは失言を重ねることになる。
クローシェは自分の心持ちを、会議で手抜かりのある報告をした部下を叱責する際のものに強制的に塗り替えると、自分の呼吸でマルティナに問う。
「瘴気については、ユニティから派遣したハンターが数度調査に訪れています。もしもマルティナ先生がハンターに提供し損ねた情報を持っている、というならば、是非、今ここで私たちに教えてください」
「ハンターは私の所に訪ねてこなかったので、どの情報がユニティに提供され、どの情報が提供されていないのか、私は存じ上げません」
「重複していても構いません。手短にお願いします」
「そうですね……。瘴気は物性瘴気ではなく、魔性瘴気です。人体への侵害性は軽度であり、一呼吸で即座に死に至ることはないでしょう。とはいえ、常人では数十秒と耐えられません。あと、瘴気の出現には法則性があり……」
(法則性だと!?)
報告書に書かれていなかった部分まで瘴気の詳細を語るマルティナの口が途中で止まった。マルティナの目はクローシェの後方を見ている。視線の先にいるのはおそらくビークだ。
場馴れしているアッシュや、仕切り直しによって心を落ち着けたクローシェは、マルティナから新情報を語られても動揺を表に出さない。
しかし、従者たちはアッシュとクローシェほど無表情を徹しきれなかったのだろう。どちらかというと感受性の強いビークが表情を顔に出してしまい、マルティナはそれを察したのだ。
「ユニティの雇ったハンターは、そんなことも報告していなかったのですか……」
マルティナは、また一段階ユニティに対する評価を下げた、とでもいうように残念そうに頷く。
「失礼ながら時間の関係上、邪推は求めていません。情報提供だけお願いします」
急かすクローシェにマルティナは鼻息を吐いて続きを語る。
「では……法則性というのは瘴気が生じている時間割合です。日中は瘴気発生時間が多くを占め、夜間はどちらかというと途絶えていることが多いです。そのため、地下に保管してある物品は夜に回収に行くと都合がいいですね。私が知っているのはそれくらいのものです」
時間的な法則をマルティナが知っているのを不自然に思ったクローシェは、それについて尋ねる。
「なぜマルティナ先生が瘴気の発生しやすい時間帯を知っているのです。先生は自分で物品を取りに行っているのですか?」
「質問を質問で返すようですが、あなた方はウチのピルビットを本部へ連れて行きましたよね。ピルビットはきちんと事情を説明できなかったのでしょうか?」
マルティナは、繰り返される程度の低いクローシェの発言に辟易した様子だ。
「彼は丁寧に説明しようとしてくれたのですが、時間の関係で私が無理矢理話を途中で終わらせました」
「そうでしたか。これはシュピタルウラゾエの治療内情になりますが、地下の保管区域には治療に必須の物品は特段ありません。ただ、必須ではないものの、それらを使わないと治療効率がどうしても低下します。私や私に付いてくれているピルビットら陪診者たちは、瘴気の危険度や法則性を冷静に評価できていたため、連夜、自分たちが必要とする分だけ物品を取りに行っていました。夜間の回収作業については全く隠していません。同僚治癒師たちは私の話をあまり信じてくれませんし、院長のアーロンは安全第一主義のため、物品を取りに行く私たちに良い顔をしていません。難しくも何もない、ただのお恥ずかしい話なのです」
聞いてみると、どうやら夜間の回収作業にもウラス内における政治話が見え隠れしている。だからピルビットは一度目の聞き取りの際、それをクローシェに教えてくれなかったのだ。
ユニティ庁舎の会議室において、アッシュの前で行わせたピルビット独演を妨げなければ、きっとその部分も言及されていたのだろう。
「他に瘴気に関してめぼしい情報はありません。瘴気症に卓効を示す治療はありませんが、将軍方が地下の調査に赴いた際に瘴気に身を冒されましたら、私をはじめ、シュピタルウラゾエの治癒師が全力で治療にあたる所存です」
マルティナは言い終えると姿勢を正す。対話は終わりのようだ。
「情報提供に感謝します。マルティナ先生」
「いえいえ、こちらこそ不詳の身を気にかけていただけたばかりか、呪破の御業に触れることができ、感謝と感激に震えております」
マルティナは謝意の伴わない謝辞を形式的に呈した。
クローシェは退室の挨拶を述べる。
「では、私たちはこれからウラス地下へ行き、瘴気の調査を――」
「ちょっと待ってくれ」
時間の無さと居心地の悪さに一刻も早くこの場を立ち去ろうとするクローシェをアッシュが止める。
「マルティナ先生。そのペンダント、少し見せてくれないか?」
「こんなつまらない物に興味がおありですか? いいですよ、どうぞ」
アッシュが気に留めたのは、特殊治療前に着用を許可したはずの首飾りだった。
(今更、何が気になるというのか)
マルティナはペンダントを首から外して従者に渡し、従者から受け取ったペンダントをアッシュがしげしげと眺めて言う。
「これは精石だったのか……」
アッシュの発言にクローシェは相当な憤りを覚える。
精石は魔道具の動力源になる。この世には、まだ誰も知らない恐ろしい効果を持つ魔道具が無数に存在するのだから、動力源になる精石をマルティナにそのまま持たせていたのは、とんでもなく危険な行為だ。
アッシュはクローシェの怒りを露とも知らず、そのまま精石の寸評を述べる。
「俺ではあまり正確な鑑定ができないが、ウェッデルライト系統の石に見える。多分、何らかのワーム種の精石だ。サンサンドワームの精石とは少し違う感じがするから、ハイランドワームか、ノーフォークワームか……。ワームは種類が多すぎて、それ以上は分からない」
「さすがはアッシュ将軍です。日頃、身につけていた私も、それが精石だとは存じませんでした。高価な物なのでしょうか?」
「産出した魔物によって価値は変わる。気になるなら魔道具店か骨肉店に持っていくといい。ただ、期待するほどの価値はないと思う」
マルティナの発言に不審な点を見出したクローシェは、それを尋ねる。
「マルティナ先生。そのペンダントは貰い物でしょうか?」
「もしかして、恋人ですか?」
いつの間に治療室に入ってきたのか、いい加減、空気の読めないピルビットが大真面目な顔でクローシェに続けて質問する。
マルティナは少し面倒くさそうな顔で二人に答える。
「それは自分で購入しました」
「どこで?」
前傾気味に尋ねるクローシェの勢いに、マルティナはやや引きながら答える。
「エロゾリム通りの露店です。同じような物がいくらでも売っています。それほど気になるならそれは差し上げます」
マルティナの言葉の真偽を確かめるべく、クローシェはアッシュを振り向く。
すると、アッシュは諦めたような顔で首を左右に振り、首飾りを従者に渡してマルティナへ返却した。
「魔力が尽きて用済みとなった精石とか、あまり用途のない精石が魔道具店以外の場所で見つかるのはそれほど珍しくない」
クローシェの不安はまたも外れてしまい、一層、いたたまれない気持ちになる。
走って逃げ出したい気持ちを抑えて、クローシェは必要なことだけを淡々とマルティナに告げる。
「何度も何度も大変失礼しました。私たちはこれから建物地下に向かって瘴気の調査を行います。マルティナ先生はここでしばらく休んでいてください。特殊治療はあれでなかなか患者への負担が大きいものです。万全を期し、従者を二人、このお部屋に残しておきます」
特殊治療が患者にかける負担というのは半分嘘である。患者が本当にロイヤルカースに冒されていた場合は身体に生じる負担は確かに大きいが、ロイヤルカースに冒されていなかったマルティナは特に支障をきたしていないはずだ。ただし、クローシェが行使した情報魔法ではなく、身体拘束による物理的な支障、つまり全身の凝りくらいであれば多少あるかもしれない。
従者をマルティナの横に置くのは、見守らせるためではない。監視させるためだ。
地下調査中、アッシュとクローシェの本隊が前後二方向から襲撃されないようにするため、マルティナの横には是が非でも監視を置いておきたい。
瘴気が発生している点を踏まえても、戦力を一箇所に集中させるのは避けたほうがいい。
マルティナは、見守りなど不要、と従者の配置を拒否したが、クローシェと数度問答して、それが監視であることを察すると、案外にすんなりと了承した。
一行は受付まで一度戻り、ギンガの案内を聞いてウラスの地下へ向かう。
隊列を整えた一行が慎重に階段を降りて地下に到達するも、瘴気は影も形もない。
注意深くクリアリングしながらウラス地下を探索する。それなりに広い地下階をぐるりと一周回っても、瘴気はおろか、これといって目立つ魔物の痕跡は見つからなかった。あったのは、治癒師マルティナや受付嬢のギンガが言っていたとおりの、不自然な点のない医療物資等ばかりであった。
「どうですか、総大将。一周回った感想としては?」
「痕跡の無さからして、少なくともグリーンタートルやヴェノムヒッポではないな。先行ハンターたちの調査感想と全く同じさ。それ以上詳細に調べる……それこそマウスくらいの小物の流入出口を探すぐらい入念に調査するとなると、まるで時間が足りない。今の三倍、四倍の時間かけても、全然足りないくらいだ」
ウラス地下階の床面積はかなりのものだ。しかも、物資が山と積まれている。仮に山積みされた物資の下に“影”の秘密の出入り口があったとして、それをくまなく探すとなると並大抵のことではない。しかも、瘴気発生時に備えて常に退路を確保しなければならない。
実際に現場を訪れてみて、瘴気調査が予想以上に難作業であることをクローシェは理解する。
アッシュは元ハンターなのだから、そんなことくらい分かっていたはずだ。それならそうと事前に言ってもらいたいものだ、とクローシェは声に出さずに憤慨する。
不意に、地上階段の方角から笛声が聞こえた。笛声に続き、従者のひとりがアッシュらを呼んで叫んでいる。
「どうやら時間切れのようです。戻りましょう、総大将」
クローシェの指示を受け、一緒に地下を巡っていた従者のひとりが応答の笛を吹く。
クローシェたちは大きな収穫の得られぬまま地上へ上がり、そのまま治癒院ウラスを後にした。
◇◇
庁舎への帰路、馬車内でクローシェはアッシュに尋ねる。
「総大将。マルティナ女史を見た感想はいかがですか」
「何と言ったものか……。話に聞いたよりも、変な人だったな」
それでは見たままだ。マルティナの反応は、もっと示唆に富んだものだったはずだ。総大将を努めるアッシュに限って、こんなおざなりな感想は許されない。
「そうではなくて……。総大将は以前、彼女とよく似た人物に会ったことがないでしょうか。見た目ではありません。雰囲気です。雰囲気がよく似ている人物と会った覚えはないですか?」
「あんな知り合いはいない。あれだけ独特なら、否が応でも記憶に……ん……?」
アッシュの舌が途中で空転する。
「おかしいな……。言われてみると、ああいう人物に会ったことがあるような気がしてきた。一体どこで……」
「それはいつの話です」
「ちょっと待ってくれ。俺もまだ半信半疑なんだ。確実に会ったとまでは言えないし、すぐには思い出せそうにない」
「できるだけ早くお願いします」
クローシェに急かされ、アッシュは頭を抱えて悩み始めた。
クローシェはウラスで見たマルティナの反応を思い返す。
マルティナはアッシュのこともクローシェのことも知った様子であった。反応の何割かは演技だったのかもしれないが、アッシュの八股発言などは、クローシェですら知らなかった話だ。アッシュと恋愛当事者たち以外は誰も知らない秘密か、というと、そこまでのものではないようだが、記憶を失っているはずのマルティナが知っているのは間違いなく不自然だ。あのマルティナはアッシュの過去について何かを知っている。マディオフの一般人も、ゴルティアの諜報部も知らない何かを……。
クローシェは、マルティナに“異変”を起こした犯人として、ワイルドハントを未だに疑っている。そのワイルドハントの構成員はアンデッドやドレーナだ。どちらもヒトとは比較にならないほどの長い時を過ごせる種族であり、寿命的な意味では幼少時のアッシュに会っていてもおかしくない。だが、最終接触がさすがにそこまで昔となると、アッシュが出会いを思い出す可能性は低いだろう。
(私は私で思い出さないと……)
マルティナはクローシェのことも知った風だったのだから、アッシュに任せるばかりでなくクローシェも自分の記憶の糸を手繰らなければならない。
しかし、マルティナが見せた奇矯な態度、言動をアッシュが知っていそうなのに対し、クローシェのほうはあんな変人に会った覚えがとんとない。本当に以前会っていたというならば、名前は覚えておらずとも、片鱗や輪郭はいつまでも記憶に鮮明に残りそうなものである。
それが記憶に尋ねてみても、うんともすんとも言わないのだから、不思議なことこの上ない。
(こうやって思い出せずに私たちが悩むところまで、“敵”の計画のうちなのだろうか)
クローシェとアッシュは、そのまま馬車の中で見つからぬ記憶を探し、声も無く苦しみ続けた。




