第四五話 学園都市と怪しい宿
不法侵入の直前、新種のアンデッドが私に警告する。
「この家には罠が仕掛けられているかもしれません。油断しないようお願いします」
平和な都市内の一軒家になぜ罠が仕掛けられている。この街区はそれほど治安が悪いのだろうか。
付近の住宅をさっと眺める。
空き巣や強盗事件が多発する危険地帯にありがちな、『我が家は警備に力を入れているぞ』と主張する、派手な侵入者排除機構は見受けられない。闇夜での目視ながら、外見上は安全が保たれた街区の様相を呈している。
そんな地域で住宅に罠を仕掛けるとなると、考えやすいのは職業柄、命を狙われる可能性がある人物、例えば国家要人や大企業の幹部が暮らす家だ。
狙いをつけた建物は『邸宅』と呼ぶには小ぢんまりとしているものの、実のところ高貴な人物が寝ているのかもしれない。その裏手に私たちはこっそりと回り込む。
恒例のスキル“壁登り”でサクサク二階の窓付近に辿り着くと、マディオフ行が始まって以来、初となる“仕事”の依頼が生じる。
「この窓や室内に罠があるか調べられますか?」
私は気前よく依頼に応じ、ポーたんに窓を調べさせてみる。
ポーたんは罠の存在を窺わせるような“意図”を何も読み上げない。
「窓の外側はクリア。室内を調べるには、窓が少しでも開いていないと……」
ポーたんもトゥールさんも身体は黒い靄状で、どんな小さな隙間にでも入っていけそうな見た目をしている。しかし、実際に出入りするには、ある程度の開口面積が必要になる。
「では、少し待ってください」
私には待機指示を出す一方、横ではヴィゾークが建物側方へ更に回り込んでいく。
窓脇でそのまま少し待っていると、窓そのものからカリカリと異音がし始めた。
窓の中を覗き込むと、室内でネズミが数匹、窓の鍵を外すべく奮闘している。
ゴキブリといい、ネズミといい、リリーバーは相変わらずワイルドハントらしからぬ小物を傀儡に選ぶ。
ヒトの手の代わりに口で鍵に噛み付き、数匹がかりで引っ張ったり押したりして鍵を外そうとする様は、さながらネズミの大運動会だ。服の脱ぎ着が上手くできずに四苦八苦する小さな子供を見ているときのような、つい手助けしたくなるもどかしさがある。
普段ならその姿に嫌悪しか感じないはずのネズミも、こうやって私たちのために何匹も頑張って共同作業をしてくれているかと思うと、心なしかかわいらしく見えてくるから不思議なものだ。
ネズミの働きのおかげで鍵が外れると、ルカは土魔法で作り上げた鉤付きの棒を窓の隙間に差し入れて窓をこじ開けた。いつもながら鮮やかな手口である。
ある意味、リリーバーの前身とも言える“氷の剣”と“青鋼団”。フライリッツで聞いた老手配師の話によると、両集団はハントを主要業務とするワーカーパーティーだ。しかし、ワーカーというのがあくまでも表向きの姿で、実態は盗賊団だったとしても、まるで驚きはない。リリーバーが持つ泥棒御用達の技術はそれくらい高い水準にある。
殺人、壁登り、錠破り、不法侵入、窃盗、薬物知識……リリーバーが保有している技能から導き出される過去の職業は、ちょっと後ろ暗い部分がある仕事、などという、かわいげのある領域にはない。
黒も真っ黒、これ以上ないほどにどす黒い。盗賊団という表現ですら温いくらいだ。
盗賊団よりも更に悪質かつ残虐な集団、殺しから誘拐、賭博、人身売買、危険薬物の密造、密輸まで何でも請け負う極悪犯罪者集団と言ったほうが、能力的には合致している。
凶悪犯罪という観点からリリーバーの持つ医学知識を振り返ってみると、治癒師でも薬師でもないのに人体のことを理解しているおぞましい闇の仕事が浮かび上がってくる。
人体の知識を持っているのは治す側の者だけではない。壊す側、それも猟奇的な壊し方をする者もまた……。
ああああ、どうしよう。過去の職業、分かってしまったかも……。
だめだ、忘れよう。これは、気付いてはならないやつだ。
新種のアンデッドは、『過去の記憶が曖昧だ』と主張している。おそらくそこに嘘はない。では、“辛酸”の記憶の方はどうなのだろう。どれだけ正しく保持できているのだろうか。
記憶自体は正確でも、認識のほうが正しくないかもしれない。なにせ、この新種のアンデッドの感覚は一般人と大きく乖離していることしばしばだ。
事の周辺事情が露になるにつれ、“辛酸”が不当にリリーバーを苦しめたものではなく、『積み重ねた業に対する正当な報い』と判明していっても不思議はない。
もしそうだとすると、新種のアンデッドとして蘇った元極悪犯罪者集団に私は手を貸していることになる。『元』どころか、犯罪者なのは現在進行形の事実だ。
にわかに生じた疑念が私を著しく不安にさせる。
長く抱えるには耐え難いこの疑念、一刻も早く払拭したい。だが、こんなことを決して直接、新種のアンデッドに問い質してはならない。
聞きたい気持ちはすこぶる強い。聞いて、そしてルカに爽やかな笑顔で否定してもらいたい。
『前世は犯罪者? 全然違いますよ。我々はいつの時代も清く正しく生きていました。あまり怖いことを言わないでくださいね。かわいいラムサスさん』
こんな感じの返事が聞けたら何も問題はない。
でも、もし、私の問いに豹変したら……。
『気付いてしまいましたか~~~~~ラムサスさああああああァァアアアアん!!!! 我々は三年であなたを返そうと思っていたのに、我々のことを探ってはいけないと言ったのに!! あれほど言ったのにいいぃぃぃぃイイイイ!!!!!!』
ルカの美しい顔が醜く歪み、血走った目で私の首に両手を伸ばしては尋常ならざる力で縊り上げていく。
春を迎えてなお冷たい夜のマディオフの風が私の身体の熱を奪う。夜風はこんなにも冷たいのに、私の身体はジットリと汗で濡れている。
だ、大丈夫だ。まだ私は何も言っていない。新種のアンデッドに気付かれているはずがない。
でも、もしも差し迫る身の危険を感じたら、私はどうやってリリーバーから逃げたらいい? 私がここから生きてジバクマに逃げ帰る方法は存在するのだろうか?
生命存続に不安を抱いた瞬間、私の肩に物凄い力が加わる。
もう気付かれた!?
正体が分かってしまったことを!!
恐る恐る振り返ってみると、そこには心配そうな目で私を見るルカの顔があった。
肩も物凄い力で掴まれたように錯覚しただけで、軽く手を置かれているだけだった。
「大丈夫ですか、サナ? 顔色がとても悪いです。もしや、窓の隙間から物性瘴気でも流れ出てきて、気分が悪くなったのでは……?」
リリーバーは周囲により一層の警戒を払い、私を乗せるイデナは窓から少し遠ざかる。ルカはイデナに揺られる私のことを不安そうに見つめている。
これら一連の行動からポーたんは平常どおり、私を気遣うリリーバーの“意図”を読み上げる。
ああ、小妖精がいてくれて良かった。
召喚主の苦しみなど知ったことではない小妖精の定常報告が、妄想じみた恐怖に溺れる私を現実思考に引き戻す。
過去はどうあれ、リリーバーはリリーバーだ。私とジバクマの恩人たちで、師匠たちで、訓練時は常軌を逸する厳しさだけれど、いつも私のことを気にかけてくれている。
これは推測でも妄想でもなく、私が自分の身体で経験し、他の誰も持っていない能力で確かめてきた紛れもない事実だ。
昔、犯罪者集団だったとしても、良心の呵責があるからこそ私に『過去を探らないで』と言っているのかもしれない。
「私は大丈夫。大きな罠があった場合に備えて気を張っていただけ」
少し身振りを交えて返答すると、痺れるように強張っていた手足に感覚が戻ってくる。どうやら私は本当に恐怖していたらしい。
血液が再び全身に巡りだすのを感じながら、ルカの目を力強く見返す。
「分かりました。罠とか毒だけでなく、あなた自身の体調不良でも、とにかく何かしらの異変を感じたら、すぐに教えてください。ここに拘る理由はそれほど大きくありません。安全最優先で、直ちに撤退しますから」
「うん。体調は問題ない。窓も開いたし、中を調べてみる」
意図せずかけてしまった心配を払拭するべく、自分から調査続行を宣言する。
まったく我ながら、大事な依頼をこなす場面だというのに空想に没頭しすぎた。これは危険を伴う侵入なのだ。
目的意識を改めて強く持ち直し、心の有り様を『ワイルドハントの頼れる情報魔法使い、サナ』へ再設定する。
こそ泥アンデッドによって作られた窓の隙間からポーたんを室内へ滑り込ませると、それ以上操作するまでもなくポーたんはドアへ近寄っていき、自動的に“意図”を読み取って私に投げつける。
曖昧なイメージの塊である“意図”を読み解くに、どうやら室内には、『大きな魔力を見つけたら報知する』ことを目的とした罠が仕掛けられているようだ。
本当に罠なんてあるのだろうか、という呑気な私の疑いは、ポーたんの働きひとつで吹き飛んだ。
「室内には警報魔法の類がありそう。多分だけど、ドアの付近に一定以上の魔力を持った人間が近づくと、どこかに信号が送られるようになっている」
私はポーたんが佇むドアの付近を指さす。
ポーたんが読み取る情報は大まかなものであり、具体的にどれほどの魔力を持っていると罠が作動するのかは不明だ。常人以下の魔力しか持たないネズミであれば罠が反応することはないだろう、という推測の下、リリーバーはネズミを操作する。
ネズミはドアを遠巻きに眺めながら、あちらへ行きこちらへ行きして罠の本体を探し、本体を見つけたら今度は罠が作動する範囲に目星をつけていく。
見つけた罠は敢えて解除せずにそのままとして、罠の範囲には入らないように注意したうえで窓から室内に身体を滑り込ませる。
部屋は、中から見回しても特に目立ったところのない普通の一室だった。
大きな家具は寝台と学習机、そして机の横にある本棚だ。棚にはぎっしりと本が並んでいる。
備え付けの収納空間を開放すると、中からは黴の臭いが溢れ出す。収納されているのはいずれも男物の服だ。安物のようには見受けられない。
黴の臭いでふと思う。
この部屋には結構な期間、人の出入りが無かったのではないだろうか。
空気は心なしか淀んでいるし、星明りに照らされた窓の付近には薄っすらと積もる埃が見て取れる。部屋の中は全体的に整理が行き届いていることからして、この部屋の主は綺麗好きとみて間違いない。そんな部屋主がこのような塵埃の堆積を許すはずがない。
ルカは収納空間を一瞥しただけで興味を失い、今度は机の上に置かれた一枚の紙切れに目を移す。
ルカが紙切れを手に取り、ヴィゾークの前にかざす。
ルカが本や書類を持ってヴィゾークが読む、という共同作業の図は、暗所でしばしば見かけられる。
ヴィゾークはリリーバーに三人いる新種のひとりだ。目の部分はきっと生体ではなくアンデッドで、暗闇を苦にしない暗視能力があるのだろう。
星明りが射すだけの暗い部屋の中においては、私の目だと本棚に並ぶ本の背表紙の文字だって判読できない。ヒトの目しか持たないルカも暗闇では本を読めないはずだ。
ルカたちが紙切れを検めている間、手持ち無沙汰に本棚の本をポーたんで調べる。それによると、ここに並んでいるのは皆、教本のようだ。
ルカたちは紙切れに書かれた文字を読み終えると、それを先ほどと全く同じ位置に戻す。
「もうこの場所に用はありません。出ましょう」
窓を背にして話すルカの顔は表情がよく見えないが、何となく寂しそうな顔をしているように思われた。
◇◇
最初から閉じていたものはきちんと閉め、かかっていた鍵は再度かけ直し、一軒家を侵入前と全く同じ状態に戻す。
犯行の痕跡を消滅させた私たちは住宅街を抜けて歩いていく。すると、大きな建物が連なる区画が見えてきた。ここに立ち並んでいるのは大学の施設なのだろう。
正面からして立派な建物のひとつにリリーバーは臆することなく入っていく。外から見るに、いくつかの部屋の窓からは光が漏れている。つまり、内部には警備員以外にも起きて活動を継続している人間がまだ複数いる。
いかに足音を消しているにせよ、これほど堂々と廊下を歩いてしまって大丈夫なものだろうか。誰かとすれ違いでもしたら、どうする気でいる。
……いや、大丈夫か。
ゲダリングやジェラズヴェザ、それとエイナードを走り抜けた時を思い出しても、リリーバーの進む道には人が誰もいなかった。人と遭遇したのは情報源となる獲物を探していた時だけだ。
こういう人目を忍ぶ場面では、傀儡で先回りして進路の無人を確かめているのだろう。
リリーバーは侵入者とは思えないほど大胆かつ気安い様子で建物の奥へ進む。迷うことなく角を曲がっては差し掛かった階段を上り、どこか一点を目指してスイスイと歩む。
リリーバーに頼り切りで油断していてはいけない。私も私で感覚を研ぎ澄まし、周囲の気配を探る。
集中力を高めてみると、やはりそこかしこに活動中の人間の気配がある。研究か実験か執筆か、とにかく何かしらの活動に勤しんでいる。
気配は私たちが歩く場所からずっと遠い所ばかりではなく、廊下の壁一枚隔てた近場からも漂っている。しかしながら、誰も廊下には出てこない。私たちの気配を感じ取れる鋭敏な人間はこの建物内にいないのだろうか。
……少し私の考えは荒んでいるかもしれない。ここは民家の廊下ではなく大学の廊下なのだ。夜間とはいえ、廊下を歩く人の気配がしたくらいで、わざわざ確認のために出てくる人間はいないか。
それに、私たちが足音を消しているのも別に不自然ではない。夜更けに大きな足音を立てて歩くほうが人としておかしい。
私たちはそのまま誰ともすれ違うことなく歩き続け、その足は、とある一室の扉の前で止まった。扉横に掲げられた表札には、『実践水魔法第二講座 教授室』と記されている。
水属性は、あまりリリーバーのイメージではない。リリーバー八人の中には水魔法を物凄く得意としているメンバーがいない。リリーバーが用いる水魔法は、今の私よりはもちろん上手いけれども、あくまでその程度のもの。土魔法や火魔法に比べると大分見劣りする、親近感を抱ける威力の魔法しか行使できない。
私の水魔法がこのままの勢いで上達していけば、数年以内にリリーバーの誰よりも水魔法が上手くなれる、とこっそり思っている。
さて、そんなリリーバーの中に大学で水魔法を修めたメンバーがはたしているものだろうか。
少し手持ちの情報と組み合わせて考えてみる。
リリーバーはフライリッツで“辛酸”について、『嵌められて人の世界から脱落した』なる言い表し方をしていた。
生前のセリカあるいはダグラスが大学生時代に、この講座で水魔法を学んだが、卑劣な妨害にあって単位を落としてしまった。妨害は何年も続いたために留年を繰り返す羽目になり、そのうちに在学年限が過ぎて大学から除籍され、そのまま落伍者となって命を落とした。
強い怨念は記憶の継承に寄与し、新種のアンデッドをこの世に産み落とす原因となる。そして、新種は積年の恨みを晴らすため、今日ここに舞い戻った。
それなりに筋道が立つように考えてはみたものの、実に下らない仮説となってしまった。こんなどうしようもない復讐を目的として遥々マディオフまで連れてこられたのでは、あまりにも私が報われない。
なーんてね、ふふふ。
一軒家での恐ろしい説よりもずっと気楽に考えられる説を思い浮かべたことで、未だに緊張過剰気味だった私の心がまた少し軽くなる。
私が色々と考える一方で、ルカは何も考えていない顔で教授室の扉をノックする。
わわわっ! なぜノックした!?
まさかこんな大きな音を立てると思っていなかった私は、ノックひとつに仰天してしまう。
……。
教授室の中からは何も返事がない。
ルカは驚きに喘ぐ私をちらりと見ると、いたずらっぽく笑う。
「ノックする前から室内に誰もいないことは分かっていました。ちょっとあなたをからかっただけです。ビックリしました?」
「それはするよ。ああ、驚いた。あまり変なことをしないで」
驚きのあまり、ポーたんが読み上げる“意図”も頭に入ってきていなかった。リリーバーは私の緊張緩和を目的として、鎮静魔法の代わりに私をからかったのだ。
「それは失礼しました」
私の驚きっぷりを堪能したルカが扉に視線を戻す。そして、ヴィゾークから土魔法の鍵を受け取ると、一捻りで錠を開けた。
この一発解錠が、またしても私を驚かせる。
今までリリーバーが錠破りをするときは、早くても十秒近くは時間がかかっていた。それが今は一瞬で開けたのだから、鍵の形状を最初から知っていた、と考えるのが自然だ。
なぜリリーバーは大学の、それも教授室扉の鍵形状を知っている。
無断侵入を幾度となく繰り返した結果、教授室の複製鍵を作り慣れてしまっている、とか、魔法の複製鍵どころか実物の複製鍵を持っている、とか……。
あるいは複製鍵ではなく、実は純正鍵を持っていて……。
それはないか。純正鍵を持つとなると、メンバーの中に元水魔法教授がいることになってしまう。水魔法が上手くない水魔法教授など、いい笑い種だ。
いざ、教授室に入ってみると、中は乱雑に本や書類が置かれている。ついさっき侵入した住宅一室の整理整頓ぶりとは程遠い散らかりようだ。ここの教授は間違いなく片付けが不得手だ。
ルカとヴィゾークは慣れた素振りで積み上げられた書類に目通ししながら、退屈を持て余す私に雑談を振る。
取り留めない会話を交わしつつ、手持無沙汰に私は窓から外を眺める。
立派な大学だ。
万国の原則として大学は蔵書が多く、それゆえに木造建築を嫌う。一帯の建物を見る限り、マディオフの石造建築の技術はジバクマよりも数段上のように思える。石造建築で採用されるのは組積造、そしてこの建築様式は……。
そういえば、私が持っている建設の知識はリリーバーに由来するものだ。衒学する気分でうっかり建設の薀蓄を語っていたら、教え主のアンデッドから嘲笑されるところだった。
想像の中のルカが私を明け透けに嗤って見下す。
私にとっては薀蓄でも、教え主のリリーバーにとっては雑学程度の浅い知識で、しかもワーカー業に実際に従事していたリリーバーと違って実務経験が一切伴っていない。
伝説の魔物を倒す勇者のお伽話を聞いただけで魔物討伐の何たるかを分かった気になり、大人相手に『ねえねえ、ドラゴン倒せる? 僕、倒せるよ。倒し方知ってるもん』と大言を吐く幼子よりもなお滑稽だ。
未遂で済んだはずの衒学行為に、ついつい恥ずかしくなって俯いてしまう。
恥の感情に泥む私の横で、土木建築アンデッドは着々と書類を読み進める。棚に綺麗に並んだ書物にはまるで手を付けず、整理されていない散らかった書類の表層だけを読み漁る。
それだけで必要な情報が得られたのか、ルカたちは全ての書類を丁寧に元の乱雑な状態へ戻していく。
「人に会いに来た、というのに、目的の人物はどうやら学園都市を留守にしているようです。第一線は退いていたから、大氾濫が起こっているとはいえ大学にいると見込んでいたのに、当てが外れました」
第一線を退いていながらも未だに大学構内、しかも施設の中でもかなり良い場所にこうやって専用の教授室を用意されているのだから、さぞかし実績があって、今なお多大な権力を持つ名誉教授なのだろう。
しかし、なぜ大学の名誉教授が大氾濫で声掛けされるのだろうか。どれほど水魔法に造詣が深く、研究と教育能力に長けていようとも、所詮は大学教員。魔物討伐に助力を請われるとは、どうにも思えない。
求められるのは権力ではなく戦闘力。老体を大学構内から引っ張り出すより、若いシルバークラスのハンターをひとりでも二人でも駆り出すほうが大氾濫対応としては適当だと思うのだが……。
言葉足らずアンデッドはそのまま部屋を出ると、扉に鍵をかける。解錠が一発なら、施錠もまた一発だった。複製鍵だと、解錠にも施錠にも微妙なコツを要することがある。開け閉めの滑らかさは、複製鍵ではなくて純正鍵の可能性をやや優勢にする。
純正鍵を持っている、という仮説に基づき、現状を俯瞰してみよう。
リリーバーは昔、水魔法の教授と何らかの関係があり、純正鍵を渡されていた。当時の正教授は、現在では名誉教授となっており、正教授時代に築き上げた多大な権力は、今も大学に残る教授室という形で反映されている。
リリーバーは異端者の謎を解き明かすため、名誉教授の権力を求めてここを訪れた。だが、あらゆる人材を徴用するマディオフ軍によって名誉教授もまた召集され、大学からいなくなってしまった。
即興推理の割に、悪くないように思う。
リリーバーが名誉教授と関係をもったのは生前だろうか。それとも新種ないし従来型のアンデッドと化してから知り合ったのだろうか。
もしもアンデッド化した後に得た知己だというならば、アンデッドの存在を許さないマディオフという国において、名誉教授もかなりの危険人物ということになる。
ハッ……。実は、教授からして新種のアンデッドという可能性も……。
それならば年齢は関係なくなるが、それだと国はその教授がアンデッドだと知りながら大学在籍を許していることになる。
『水魔法講座名誉教授の正体は新種のアンデッド説』は現実的ではない。
……なかなか辻褄の合う説を考えるのも難しいものだ。それもこれも、リリーバーという集団が型破り過ぎるせいだ。
◇◇
型破りアンデッドが次に向かったのは事務棟だった。
教授室があった建物よりは漏れる光の少ない事務棟の一室に、鍵開けアンデッドはまたしても一発で錠を破って悠々と侵入する。
教授室の錠も事務室の錠も簡単に開けられるとなると、持っているのは純正鍵ではなく親鍵という可能性が俄に出現する。
親鍵は教授であっても持てるものではない。教員とは異なる立ち位置の管理責任者が持つものだ。親鍵を何者かに盗まれた場合、錠は総取り替えを余儀なくされる。それが取り替えられていないのだから、リリーバーの中の誰かが過去に親鍵を盗み出した可能性は限りなく低い。
では、なぜこの新種のアンデッドはあちらでもこちらでも鍵を一発で開けられる。
……。
…………。
無理だ、解けない。情報過多で頭が混乱してきた。このとぼけた頭では物事を筋道立てて考えられない。今は見たもの聞いたものをそのまま記憶して寝かせておき、解析は冴えが戻ってから改めて行おう。
断片的な情報から一々考えを組み立てても組み立てたそばから崩れていくばかりで、一向にまともなものが組み上がらない。
リリーバーは部屋に入ると書類を漁り始める。
都庁、役所、教授室、事務室。書類あるところ、リリーバーの書類漁りあり。
トレジャーハンターになったら、土を掘ることより資料掘りの重要性を声高に訴えるに違いない。
資料掘りアンデッドの横で、私は教授室以上の退屈さに苛まれる。何しろ、ここは眺めがよくない。私の興味を惹く表題の本はどこにもないし、窓から見える夜景があまり美しくない。さっきの部屋は教授室だけあって、それなりに窓からの眺望が良かった。
事務室を眺めても楽しくないので、見ていて楽しいルカの巧みな書類捌きと整った横顔を鑑賞することに決める。
ふと、ヴィゾークと二人で書類を読み解くルカの表情が険しくなった。目的の情報を掘り当てたのか、それとも予想より悪い情報を掘り当ててしまったのか。
観客には何も解説しないままルカは書類を元に戻す。
それで用事は終わりとなったようで、私たちは学園都市を後にすることになった。
つい数時間前に通ったばかりの道を逆進して王都へと歩いて帰る。
◇◇
都内に着くと、リリーバーは宿泊場所を求めて繁華街からほどない場所を走る一本の通りに入っていく。
もう深夜という時間は過ぎて未明に突入している。こんな時間に訪ねて部屋を取れるものなのだろうか。
ルカの表情を見ても、宿泊を断られることへの不安はまるで窺えない。いつもどおり自信満々だ。
飛び込みアンデッドの自信を私まで信じるのは、いかがなものかと思う。
宿が取れずに野宿となっても必要以上に落胆せずに済むよう、悪い場合の心構えだけはしておく。
結果、私の不安は杞憂に終わった。訪問した一軒目の宿で何の問題もなく空室が見つかり、受付員から特に嫌がられることも億劫がられることもなく、いたって普通に部屋を借りられた。
……いや、表現に正確を期すならば、問題はあった。宿泊可否の問題ではなく、宿という施設の品位や等級の問題だ。
その宿はなんと言ったらいいか、初めて見たのが夜だからかもしれないが、閉鎖的かついかがわしい雰囲気がある。より率直に言うと、この宿の訴求力は圧倒的に“性”に偏っている。
ここは所謂、同伴宿とか連れ込み宿と呼ばれる宿泊所なのだろう。ジバクマに存在する性風俗産業の宿泊所よりずっと陰鬱かつ排他の雰囲気があり、犯罪やそれを手引きする反社会的勢力を想起させる危険な非日常感が宿の内外に濃厚に漂っている。
私たちの対応に当たった男の受付員は目つきが怪しい。瞳に別世界でも映っているかのような、幻覚的な眼差しをしている。一般人が気兼ねなく出入りできる店や宿では絶対に店頭、番台などの人目につく場所に配置されない類の人間だ。しかも、妙に立派な体格をしている。
この気色悪い受付員がこれから眠りにつく私たちの部屋にいきなり入ってはこないだろうか、と思うと、ゾゾゾと肌が総毛立つ。
睡眠を必要としないアンデッドたちが未明でも日の出後でも警戒を続けるのだから、私にもルカにも危険が及ぶことはない。理性ではそう分かっている。だが、理解と情動は別だ。安全が保証されていても、気分の悪さは全く否めない。
受付での宿泊手続きを済ませて、いざ、客室へ向かう。受付員は部屋番号と位置を説明するだけで案内のために先導することも後ろを付いてくることもなく、私はそれだけで少しホッとしてしまう。
受付から続く通路はとにかく長く狭い一本道だ。日常生活では目にすることのない奇妙な形状をした様々な物品が多数置かれて通行不便な通路を進むと突き当りにぶつかる。そこから伸びる階段を一階分上ると、また狭い通路を通り、突き当りでまた階段を上る。図面に落とせば、おそらく単純なつづら折り構造だ。
私たちが取った客室だけでなく、全ての客室が一本道を通らないと辿り着けない構造になっている。一本道の途中途中に客が既に入っている部屋への扉がある。寝静まっているのか、大半の部屋は物音がしない。少数の部屋からは賑やかな物音と男女のくぐもった声が聞こえてくる。
そういう目的の宿とはいえ、こんな遅くまで励むものとは知らなんだ。魔物が暮らすフィールドではなく、ヒトが住む街の中にも、まだまだ未知の世界はあるものだ。
連れ込みアンデッドは私が宿を物珍しく思っていることに気付いた様子で、控え目な声量で私に尋ねる。
「一本道の終点には何があると思います?」
「うーん。普通に考えたら屋上だけど、違うんだよね」
「屋上とは繋がっていませんし、非常用の脱出階段なんて気の利いたものもありません。待ち構えているのは何の風情もない行き止まりです」
ルカは含みのある笑みを浮かべて正解を述べた。
「えー、何それ。奥側の部屋への出入りが不便すぎる。全然、合理的な作りになっていない」
私がそう言うと、ルカの表情がやや不満気なものへ変化する。私の反応がお気に召さなかったようだ。
「不合理なばかりではありません。納得できる合理性があります」
不満気アンデッドは思わせぶりな発言をして、また私をじっと見る。
何とも言えない皮肉さを感じ、私はつい苦笑してしまう。
するとルカは諦め顔で頭を振る。
「この一本道は、連れ込んだ女に逃げられないようにするためには理に適った構造なのです」
同伴アンデッドは強姦目的に女を攫った経験でもあるような危険発言を始めた。性別の存在しないアンデッドらしからぬ発言のようでもあり、新種ならではの発言のようでもある。
「例えば、私やあなたのような女だけで入り口から出ようとしても、あの受付員がまともであれば、絶対に通してくれません」
あの見るからに薬物乱用者のような受付の男のどこをもって『まとも』と捉えればいいのだろう。目腐れアンデッドには、あの不審な男が良識人に見えている。
私は抗議の念と少しばかりの苛立ちを込めて反論する。
「なんで? 無理矢理、事を運ぼうとする男から逃げ出す女性だっているかもしれない。まともな受付員だったら、なおさら通してくれてもよさそう」
「それは違います。女の意志を無視し、全身を拘束して担ぎ込んだならば別として、こういう場所に自分の足で踏み入った時点で男女間での契約は成立しています」
「でも、入室後に男から、一般感覚では受け入れ困難な特殊嗜癖を打ち明けられることだってあるかも……」
「そういう社会通念から逸脱する行為や、事前契約から外れる行為の強要が生じたとしても、受付員は脱走を許しません。それでも受付員に味方をしてほしいなら、受付員の前で契約変更の話し合いを行うのが、現実的な選択かと思います。宿としても問題は避けたいですから、理性的に話し合えるよう、仲立ちの真似事くらいはしてくれるかもしれませんね」
新種のアンデッドはいやに連れ込み宿に詳しい。このまま一緒に部屋に入ってしまっていいものか、やにわに心配になってしまう。
けれども私は逃げられない。逃げようとしても受付であの薬物乱用者に邪魔される。
前は幻覚に踊らされた気狂い、後ろから性豪アンデッドに挟まれたら、私の助かる道はどこにもない。
私の渋い表情を、納得のいかぬ顔と思ったのか、新種のアンデッドはさらに説明を続ける。
「あなたは、受付員が女を脱走させない理由にまだ察しがつかないようですね。行為後や、あるいは行為の前でも、飲み物に薬を仕込むなどして、男が寝入った隙に金品を持って逃げる女は結構多いのです。だからこそ、警備員を兼任している強い受付員は、きちんと仕事をしている場合、女だけで入り口から抜け出ていくことを見逃しません。むしろ、女単身の通過を許すのは職務怠慢と言ってもいいくらいです。見たところ、あの受付の男はそれなりに強そうでした。戦闘力の推定では、ゴールドクラス相当というところです。普通の女だと数人でかかっても手も足も出ません。おそらく、男は急所攻撃や、ちょっとした暗器に対する備えもあるはずです。近接戦闘力に欠けた女は、えてしてそういう手段に頼りがちですからね」
ルカの言葉の端々からヒシヒシと感じられる含意は、悔しいことにポーたんの拾う“メッセージ”と見事に一致している。
謎掛けアンデッドは、『性に関連した犯罪は男が女に対してはたらくもの』という私の硬直した思考をいたく残念に思っている。
これはしまった。
新種のアンデッドは私の柔軟な思考が見たくて謎掛けしてきたのに、感情に囚われた硬い頭という無様も無様な間違い方をしてしまった。
たとえ満点の正解はできなかったとしても、もう少し試問アンデッドの意に適う回答をしたかった。受付員とリリーバーの挟み撃ち、などと、下らないことを考えている場合ではなかった。
性産業事情に疎かったのも悔やまれる。こういうのは、軍人ではなく憲兵が専門だ。解散してしまったアリステル班をもっと長く続けるか憲兵に異動にでもならない限り、このような知見を得る機会はなかったであろう。
後悔はほどほどにして、切り替えよう。
この妙な作りが男や宿からすれば合理的であることは分かった。だが、安全性についてはまた別だ。これで火事でも起こった日には、この宿は逃げ道のない処刑場と化してしまう。
壁登りのスキルで壁でも天井でも自由に這い回り、必要とあらば簡単に突き破れるリリーバー一行は例外中の例外として、少し腕が立つ程度の人間では、火の手が回ったとき、建物から脱出する術がない。
よくも、こんな怪しくて危険な場所に男と一緒に入ろうという女がいるものだ。しかも、恐らくは、あまり気心の知れていない男と。
私なら絶対に……。
気心は知れていても、二年経っても一向に得体が知れないへんてこアンデッドとこの宿に泊まろうとする私は、世間一般からはどのように見えるだろうか。そんじょそこらの娼婦よりもよほど向こう見ずな行動に映るかもしれない。
ああ、この方面でこれ以上ウダウダ考えても得られるものは何もない。それに、ポーたんはリリーバーの面々から何ら怪しい“意図”を拾ってこない。
こういう宿に来たから私の思考がそういう方向に傾いてしまっているだけで、新種のアンデッドはその気になれば、宿に来るまでもなくフィールドで私をどうとでもできる。およそ二年の付き合いで、そういう危機を感じたことは一度もない。今更になって心配を始める私のほうが、どうかしている。
もう、過ぎた失敗は完全に忘れ、これから入る部屋が少しでも清潔であるように祈ろう。
ようやく辿り着いた部屋に入ると、リリーバーは誰ひとりとして荷物を下ろさずに言う。
「こういう安宿には、外部寄生虫がとても多く住み着いています」
駆虫アンデッドは物知り顔でそう言うと、快適に休むための環境作りを開始する。
天井から始まり壁、寝具、床と、高い場所から低い場所へ順番に瘴気混じりの熱風を吹き当てては念入りに消毒する。
今日は王都入りしてから、中等度の緊張を強いられる時間が長く続いた。今さっきの宿構造の話にしても、私はそれなりに恐怖を感じた。一転、負の感情が解けると疲れが押し寄せるものである。消毒の余波で私の身体に吹き付けられる温かい風も眠気を急激に高めるのに貢献している。
ああ、瞼がトロンと落ちてきた。一刻も早く床に突っ伏して休みたい。
しかし、まだ我慢だ。
休息を求める怠惰な欲求よりも優先すべきは、ダニやシラミを貰わないように手間を惜しまず安全な寝床を作ることだ。
これら外部寄生虫がもたらすものは、刺された部位の痒みや赤みだけではない。時には命を奪う病すら運んでくる場合がある。外部寄生虫との接触は極力、避けるべきだ。
致命的な病とまではいかなくても、髪の毛などに巣食われてしまうと駆虫は大変だ。何度も繰り返し虫落としをしなければならないし、髪はその度に痛んでしまう。
それら憂慮すべき事態を未然に防げるのだから、就寝前の一仕事に文句があるはずはない。私は黙って立っているだけでいい。必要な作業の全ては床支度アンデッドがやってくれる。
リリーバーは大事な大事な情報魔法使いである私に快適な休息を取らせるべく、こうやって忠実忠実しく働いているのだ。
うむうむ。よきかな、よきかな。
室内の消毒が完了し、ルカが「はい、もう荷物を下ろして休んでもいいですよ」と言う。待ってました、とばかりに重い荷物を置き、装備を外して寝具の中に潜り込む。
ぺたんこだった寝具は熱風の効果で本来持っていたであろう柔らかさと膨らみを少しだけ取り戻している。ただし、鼻につく饐えたような臭いは完全に落ち切っていない。
鼻につくのは脂ぎった男の臭いだけではない。性が放つ特有の臭いは、瘴気と熱風に晒されてなお不快さを失っていない。
でも、眠いから私は寝る。
フカフカ、ホカホカの寝台が私を受け入れてくれた途端に私は意識を手放し、長い王都の初日は終わりとなった。




