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第四〇話 追想 スヴェン 二

 恐怖政治はその後も続き、あいつが八年間で学校を早期卒業したことによってようやく終わりを迎えた。ただ、僕も八年で学校を早期卒業したため、学校に残留した同級生たちのように伸び伸びとした学生生活を謳歌することはできなかった。


 僕が早期卒業の道を選んだのは、ハンター見習いとして父の手伝いをするためだ。あいつの早期卒業理由は、他の早期卒業生たちと同じで、紅炎教の信学校に通うためだろう、と思っていたが、実際は違った。


 なぜかあいつまで僕と同じハンターになっていた。フィールドでいつあいつと出くわすかと思うと、ハンター業に勤しむのがイヤでイヤで仕方なかったけれど、あいつは僕と違って南の森には来ないため、フィールドで見かけることも衝突することもなく、そのうちにあいつのことを考える時間は減っていった。




 家では優しい父も仕事となると一転、凄く厳しくなる。非情に徹する父の指導に僕は耐えた。


 ハンター見習いとしてフィールドを駆け回って二年、僕は徴兵時期を迎えた。


 徴兵前期、父の指導よりは少しだけ緩い教育隊のしごきにもこれまたなんとか耐えた。『徴兵期間で最も辛いのは前期。中期以降は格段に楽になる』という噂を信じていた僕は、無事に前期を終えて中期へ突入したことに心から安堵した。


 結果的にそれはとんだ早合点だった。


 魔法兵科に配属された僕はそこで、綺麗サッパリ忘れていた悪夢、アルバート・ネイゲルを見つけた。あいつの顔を見た瞬間に、僕は在りし日の恐怖を完全に思い出した。


 しかも、単に兵科が同じだっただけではなく、僕は振り分け班まであいつと一緒だった。僕は、どうやっても逃れられない運命という名の鎖にがんじがらめにされていた。


 班の振り分けが確定した後の初顔合わせの際、あいつは徐に僕に近寄ってきた。下僕根性が染み込んでいた僕の口から、反射的に防衛口上が飛びだす。


『僕、“悪い子”じゃないよ』


 それを聞いたあいつが不思議そうな顔で応える。


『個性的な自己紹介だね。私はアルバート・ネイゲル。君の名前は?』


 僕に名前を尋ねるあいつの顔は、とても冗談を言っているようには見えなかった。


 そう、あいつは僕の名前を覚えていなかった。僕はあいつにとって教室に生えた雑木の一本でしかなかった。


 後から何か言われても面倒だと思い、僕は名を名乗った後、学校時代に同じ組だったことを説明した。


『ああ、思い出したよ。あのスヴェン君か。そうか、そうか。君は魔法が得意だったのだな。思わぬことがあるものだ』


 あいつは思い出しついでに最低最悪に感じの悪いことを言う。


 それでも僕は、あいつからの覚えを少しでもめでたくするべく、反発心を無理矢理に捨て去り、理性と恐怖の感情に従って媚び(へつら)う。


『恐れ多くもネイゲルさんと同じ兵科、同じ班になってしまいまして……。何でも言うことを聞くから、だから、“標的”にだけは……』

『ん? 君は何を言っている……。ああ、()()()か。懐かしいな。わざわざそんなことを言ってくるなんて、君は大人しそうに見えて、かなりやんちゃらしい』


 あいつは不躾に僕のことを上から下までジロジロと眺めては嫌味に(わら)う。


『私に害をなすとか、やり過ぎなければ何も心配することはない。せっかく同じ班になったのだ。そんなに肩肘張らずともいいではないか。私のことは、「アール」と呼び捨ててくれ。()()()やろうじゃあないか。なあ、スヴェン?』


 あいつはくつくつと嗤いながら僕に手を伸ばす。


 殴られると思った僕は反射的に目を(つむ)り、頭を防御して身を固くした。


 僕の横面を殴ると思われたあいつの手は、僕の肩にポンと置かれた。あいつの手に、僕は焼き(ごて)のような熱さを感じた。


 ジーンたちが“幹部”に指名された時と同じ手法で奴隷の烙印を押された僕は、自分が生き延びるために他の全てを犠牲にする決意を固めた。もしもあいつに命じられたら、僚兵の装備の破壊だろうと、教官に配膳する食事への毒の混入だろうと、何だってやってやろうと思った。やらなければ僕が死ぬだけだ。




 ところが、あいつは案外、僕に無茶な命令を下さなかった。教育隊では、あいつは誰もいじめなかったし、いじめの扇動もしなかった。唯一、僕だけがあいつに粘着され、犠牲者になった。むしろ、僕ひとりが犠牲になることで、他の徴兵新兵全員が無事に徴兵中期を乗り切れた、とも言い換えられる。


 僕はあいつの下僕として、常にあいつの(そば)にいることを強いられた。あいつの何気ない呟き一言ひとことを拾い、それぞれをひとつひとつよいしょしていく。


 僕の仕事はあいつの機嫌取りであり、あいつの機嫌を悪化させることではない。あいつの気に障ることは決してやってはならない。だけど、教官の目がある以上、訓練は真面目に行わなければならない。それに訓練で鍛えるのは、いずれも兵役が終わってハンターに戻った後も使う技能ばかりだ。


 僕は風魔法を()()()練習することにした。


 実は、小さい頃から父の教えを受けていた僕は、学校に通うよりも前から風魔法を習得していた。学校を早期卒業してからのハンター時代の二年間で習得したことにしても別に問題は無かったのだけれど、同じくハンターをやっていたあいつの目に留まってしまうのを嫌気した僕は、徴兵の魔法訓練により、さも新規に技能習得した(てい)を装った。


 結果的にこれはあまり良くない偽装だったかもしれない。


 僕は、新規習得した風魔法の実力を、徐々に徐々に解放していった。僕としては本当にゆっくり成長したように見せかけたつもりだった。


 けれども、思った以上に同期たちの魔法技能の習得速度が遅かったため、僕の風魔法の成長速度は同期一番になってしまった。


 僕は教官から褒められた。


 そして、あいつからは教官以上に褒められた。褒めて褒めて褒めちぎられた。


 偽装が上手くいっていないことに気づいた時には、もう後の祭りで、あいつにこれ以上ないほど注目されてしまっていた。


 僕の風魔法の訓練を、あいつは(まばた)きすらせずに凝視する。教官に見られているより、あいつに見られているほうがよっぽど怖い。




 あいつの監視から逃れたい一心で、ある時、僕は敢えて魔法を暴発させてみた。すると、あいつが即座に僕を問い詰める。


『スヴェン。君は今、わざと魔法を失敗しなかったか?』


 あいつの観察力は教官よりも遥かに高い。僕の魔法失敗が意図的なものであることをひと目で見抜く。ここで下手に言い逃れようとすると、(かえ)って自分の立場を悪化させてしまう。


 僕は言い訳せずに(うなず)いた。


『君はきっと、学校時代からそうだったのだろう。注目されるのを(いと)い、自分の実力を隠している。ある意味では賢い護身方法と言える。高い能力を(ねた)み、因縁をつけてくる奴はどこにでもいる』


 まさに今、因縁をつけられている僕は、黙ってあいつの話を聞く。


『だが、スヴェンは私と同じ班にいる。これがどういうことか分かるだろう? 少しばかり技能があったところで、ひとりでは無力だ。単独であることの欠点は、複数人で協力しあうことにより補える。スヴェンは何も心配せず、実力を発揮すればいい。なあに、もしも問題が起こったら、私も力を出し惜しみしない』


 あいつは不可解な理屈をこねて僕を脅迫する。言われた瞬間はあいつの言葉の意味がよく分からなかったが、それを理解する鍵はあいつの()()にあった。


 新兵教育隊というそれなりに大きな集団の中で、唯一僕だけがあいつの秘密を知っている。だからこそ、あいつが言わんとしたことを正しく解釈できる。


 あいつは魔法訓練中、専ら土魔法を練習している。その技術は、僕の風魔法にやや劣っている。


 でも、僕は知っているんだ。あいつの本当に得意とする魔法が、土属性ではなく火属性だということを……。




 徴兵中期開始から間もない頃、僕らはまだ自分の魔法適性や得意属性を自分でも把握しておらず、色々な属性の魔法に挑戦していた。


 教官の数が新兵に比べて圧倒的に少ない以上、全新兵の魔法練習に教官がつきっきりになることはできない。教官に見られていないところで行使されるあいつの火魔法をその時見ていたのは、僕ただひとりだった。


 あいつの魔法構築は初心者どころか初級者を超え、ありえないほどに早かった。中級者に匹敵する早業から生み出された炎は、出力の変動によって大小変わることも揺らぐこともなく、まるで絵画の世界に存在する炎のようにピタリと安定した形状で一定の輝きを放っていた。


 あいつは僕の視線に気付くと、自分が生み出した豆粒のように小さい炎をギュゥと握り潰す。


『どうやら私は火属性魔法の適性に乏しいようだ。てんで火力が無い。これから努力を積み重ねても、火力を増していけそうには思えない』


 そう言って、ニヤリと(わら)って僕を見た。


 初級者中級者になると少し事情は変わるものの、初心者にとって魔法というのは少し大きく作り上げるよりも、小さく細かく制御することのほうが断然難しい。それもあいつがやったように、極小の炎を安定して作り上げるとなると、難易度は極めて高い。


 あいつが僕の風魔法よりもずっと上の、新兵にあるまじき高度な火魔法の技術を持っているのは確実だった。


 あいつはなぜかそのことを他の皆には隠そうとしている。


 復号器と詠唱律を使った適性判定により、あいつが四属性全てを行使できるのは魔法兵科に所属する全員の知るところになっている。


 どれほどの多くの属性に適性を持っていようとも、珍しいだけで実用性はさして無い。全てを実用水準にまで鍛え上げようとするのは非合理的で、自分が一番得意な属性に限定して練習を続けるべきである。


 これはハンターからすれば常識で、教育隊でも教官が同様のことを再三再四、僕たち新兵に言っている。


 四属性を全て使えるあいつは、ある時教官から尋ねられた。


『どの属性が一番自分に向いていそうだ? 現段階だと、どの属性が一番得意だ?』


 あいつは教官の問いにこう答えた。


『土が一番得意だと思います』


 教官よりもずっと近くで長時間あいつの魔法訓練を見ていた僕は、あいつの返答が嘘っぱちであると分かる。




 あいつは自分の得意属性と実力を隠し、その一方で僕には風魔法の全力を出すように命ずる。あいつの言った、注目を厭う、なる言葉は、僕のことではなく婉曲的に自分のことを指していたのだ。真実が如何にせよ、僕は自分の身を守るため、あいつの発言を深読みすることなく命令を遵守しなければならない。


 殺人事件を扱う小説でも、真実に近づいていいのは探偵役だけ、と決まっている。僕のような端役は真実に近付いた瞬間、真犯人に消されてしまう。真犯人が目の前で嗤っているのだ。たとえ真実が目の前に広がっていたとしても、僕はその真実を直視してはならないのだ。




 その一件以降、僕は全力で魔法訓練をこなした。幼少期からの下積みと、父から受け継いだ才能のおかげか、僕の風魔法は自分でも驚くほど成長した。あいつの監視の目も案外、鞭影(べんえい)になっていたのかもしれない。


 成長そのものは満足が行くものだというのに、僕の劣等感は消えやしない。僕の風魔法は、あいつの土魔法よりは上手いかもしれない。でも、多分あいつの火魔法よりは下手だ。そして僕は魔法以外の技能がそこまで優れていない。


 風魔法だけが得意な僕とは違い、あいつは剣戦闘をやらせても、槍を持たせても、近接格闘術をやらせても、隠密行動をやらせても、あらゆる技能で上位に入っている。あいつには苦手なものがない。


 もしも、魔法だけは誰にも負けない、という自負心を持つことができていたならば、僕はもう少しマシな心境で下僕をやっていられたかもしれない。現実とは残酷なもので、僕はあいつに勝っている部分が何もない。


 実際には全てにおいてあいつに劣っている僕が、周囲からはあいつと比較される。『アルバートとスヴェンが戦ったら、どちらが勝つと思う?』という、悪気のない強さ談義を、通りすがりに耳にすることは数知れない。


 世の中、眼力の無い奴が多すぎる。僕とあいつの間には永遠に埋まることのない大きな格差がある。百回戦ったら、百回僕が負ける。仮に風邪とか怪我とかであいつの体調が最低最悪に悪かったとしても、僕は百回勝ちを譲る。僕はあいつに勝てないし、仮に勝てそうであっても勝ってはならないのだ。


 それなのに、あいつと僕、どちらがひとりの兵として優れているか、気楽な同期は話題に挙げて盛り上がっている。これほど僕を惨めにさせることがあるだろうか。


 僕は自分の心を守るために、教官や同期からの称賛、そして聞こえてくる噂から耳を塞ぎ、ヘコヘコとあいつに(へつら)い続ける。


 そんな僕を見て、スヴェンは偉ぶることがない謙虚な奴だ、と誰かが褒め、また無自覚に僕の心を傷つける。


 僕の鞄持ちはそれなりにあいつのお気に召したようで、あいつはいつも僕に上機嫌に話し掛けてくる。


 一流の鞄持ちに求められるのは、一流の聞き手としての姿勢だ。良い聞き手を演じるため家族について質問したら、これが大失敗だった。あいつは終わりのない妹自慢を僕に披露してくれた。


 一種の狂人であるあいつは、妹の話をしている間だけ、本物の馬鹿になる。この馬鹿になる瞬間が、あいつが最も人並みに近づく時間と言えたのかもしれない。




 長すぎるほど長い徴兵中期が終わって後期に入り、僕はあいつと別の班に配属された。あいつから離れられることに僕は歓喜した。正直な話、妻に結婚の申込みを受け入れてもらえた時より、子供が生まれた時より、この時が一番嬉しかった。人生で最上の喜びを感じた瞬間だった。結婚も初子も、徴兵より大分後の話だ。


 徴兵の話に戻ろう。


 徴兵後期が始まり、物資の運搬に治水作業、住人が誰もいなくなった村の建物や井戸といった()()の修理、復旧等など、戦闘とは縁のない労務に従事する。


 徴兵の前中期は、全てこの後期のためにあり、徴兵後期は前中期よりもずっと長い期間が設定されている。でも、後期は前期の教育隊より肉体疲労がずっと少ない。あいつがいないのだから、精神消耗は言わずもがな。快適な徴兵後期は、あっという間に過ぎていった。




 二年にわたった徴兵の終わりが近付き、皆がソワソワとし始める。頭の中にあるのは故郷へ帰った後の、新成人としての生活のことだ。


 僕も自分の身を守るために気が気ではない。


 新成人の進路は各人様々だ。家業を継げる人間は一握りで、残りは生活をイチから組み立てるべく、親の紹介で勤めに出るとか、王都に行って一旗揚げるとか、地元で日雇い労働者(  ワーカー  )になるとか、将来を語り合っている。


 ワーカーの(いち)形態であるハンターになろうとしている同期も少なくない。ハンター活動は基本単独(ソロ)で行うものではなく、パーティーを組んで行う。パーティーメンバー選びはハンター志望の人間にとって最重要課題であり、同期の中からできるだけ優秀な人間をメンバーに組み入れようと日々、勧誘活動に精を出している。


 あいつの危険性について知っているのはアーチボルクで同じ学級に所属していた人間だけであり、徴兵同期の圧倒的大多数はあいつのことを超優秀な徴兵新兵としか思っていない。


 無知な徴兵同期たちはあいつをパーティーに勧誘し、そして玉砕していった。彼らは勧誘失敗をいたく残念がっていたが、皮肉なことに、彼らは失敗したことで、逆に救われたのだ。


 かくいう僕も風魔法の実力が認められ、色々な人からパーティーに勧誘された。徴兵後期が僕の心の傷を癒やしてくれたおかげか、同期から受けた高評価を素直に喜ぶことができた。


 ただ、僕は徴兵後、再び父と一緒にハントをする、と決まっている。誘ってくれた人には事情を丁寧に説明し、少しだけ申し訳なく思いながら全ての勧誘を断った。


 そう、僕は勧誘を断る大義名分がある。それでも、避けられる危険は避けるべきだ。うっかりあいつからパーティーに誘われることがないように、労務中でも兵営での休憩中でも、あいつがいそうな場所は避けてこそこそと過ごした。大人になってもあいつの下僕だなんて、絶対に御免だ。




 徴兵を満了してアーチボルクに戻ってからも、寄せ場ではあいつに見つからないよう、慎重に立ち回った。僕の不安を他所(ヨソ)に、あいつはエヴァとかいう、少し曰くがあるかわりにとんでもなく強いと噂される女性ハンターとパーティーを結成した。


 エヴァにまつわる噂が根も葉もないただの噂ではなかったことが、ほどなくして証明された。あいつはサバスというゴロツキ紛いのハンターに目をつけられた。


 アーチボルクの不良ハンターの中で最も強い男がサバスだ。矮石化蛇(バズィリシュカ)みたいな犯罪者集団と同じく、不良ハンターの代表格たるサバスもまた、善良なハンターにとって危険な存在だ。僕は父から、『サバスとは絶対に関わるな。因縁をつけられても、喧嘩はせずにやり過ごすか、なんとかして逃げろ』と、何度となく言われている。


 サバスは手配師からゴールドクラスと判定されている。しかし、仕事へ取り組む姿勢の悪さゆえのゴールドクラスであり、戦闘力だけならプラチナクラスだ。徴兵明けの新成人は優秀でも基本的にシルバークラスの戦闘力しかない。いかにあいつが異常に優秀といえども、高く見積もってもゴールドクラスだ。あいつはサバスに勝てない。サバスから痛い目に遭わされればいい、と僕は淡い期待を抱いた。


 期待は、ものの見事に砕かれる。サバスは一味ごとあっさりアルバートに倒された。しかも、力負けしたばかりではなく、重い障害まで負わされた。


 ハンター同士、衝突して相手に怪我を負わせるのは、そこまで珍しくない。それでも、軽傷に留めるのが普通で、相手を骨折までさせるのはかなり稀だ。


 あいつがサバスに負わせたのは骨折どころではなかった。あいつは、ハンターとして活動するためにも、人間として日常生活を送るためにも大切な利き手の指を切断しやがった。嘘か真か、性別関係なく、サバス一味全員に性的暴行を加えた、なんて噂まで流れている。長年、あいつと一緒にいた僕が純潔を守っていられたのは、一切歯向かわずに従順に尻尾を振り続けたからだ、と悟り、尻の穴がキュッと(すぼ)まるのを自覚した。


 指を切断するのも性的暴行を加えるのも異常であれば、事後にサバス一味を衛兵に突き出したのもまた異常だ。よほどの事がない限り、ハンター間の問題を衛兵沙汰にしないのは不文律だ。もちろん、その“よほどの事”をサバスであればやりかねないけれど、アルバートによって犯罪を(でっ)ち上げられた可能性は捨てきれない。なにせしがない“不良”に過ぎないサバスと違い、あいつは僕が直接、向かい合った中で最も純粋な“悪”そのものなのだから。


 僕はあいつに関する事情のあれこれや、積もり積もった内心の数々を父に吐露した。父にだけ漏らした心の弱み、内緒の愚痴のつもりだった。


 敢えて口止めなどせずとも、父はそのことを秘密にしてくれると思っていた。


 僕の想いは簡単に裏切られた。


 父はどうもあいつがどれだけ危険な存在かきちんと理解してくれていないようだった。


 アルバートがサバスの罪状を捏造したのかもしれない、という話を、父は知り合いのハンターにボロッと漏らした。こういう陰のある話は話題性が抜群だ。それはものの数日でアーチボルクのハンター大半に広まってしまった。


 不幸中の幸いだったのは、知り合いハンターが僕の名前を出さなかった点だ。話の出処が僕であるとは誰にもバレずに済み、そのうちに噂の勢いは下火になった。噂の最盛期は、本当にどうなることかと、身も心も著しく憔悴させられた。




 とにかく、“不良”は“悪”によって打ちのめされた上で、衛兵に突き出された。“不良”は、事を起こした場所が学校であれば先生に怒られる、街中であれば衛兵に捕まえられる。サバスが衛兵に捕まるのは避けられない未来だったのだと思う。


 社会にとって真に厄介なのは、“不良”ではなく“悪”だ。しかし、“不良”と違い、“悪”というのは、先生からも衛兵からも成敗されない。“悪”の筆頭である犯罪組織、矮石化蛇(バズィリシュカ)がいつまで経っても壊滅しないのは、構成員が強いから、というだけではない。“悪”というものは権力や正義の側に干渉し、時には味方さえさせてしまう。だから、“悪”は滅びない。


 犯罪者が犯罪をはたらくのは、あくまでも闇の中だ。真実は日の目を見ず、表向きは事件など存在しないことになっている。衛兵は“悪”を逮捕しない。壊滅もさせない。法律だって“悪”を裁かない。


 それに、“悪”というのは危険な誘引力や強制力を持っており、それに引き付けられて手下がドンドン増えていく。かくいう僕も学校時代や徴兵中期は“悪”の手下だった。身を守るためには、そうするしかなかった。


 アルバートは矮石化蛇(バズィリシュカ)に劣らない、“悪”の特徴を見事に備えている。新成人としてアーチボルクに戻ってきてからは、まだ手下がいない。でも、それも時間の問題だ。


 あいつにお近付きになりたい、と思っている奴はいくらでもいる。善人に属する人間ですら、あいつの外面に騙されてあいつに好感を抱いていることが珍しくない。


 あいつが自由に動かせる配下を手に入れた日には、またすぐに悪事を始めることだろう。




 さしものあいつでもエヴァには振り回されているのか、しばらくの間、疑似善行を重ねた。そして、ある日、唐突に街からいなくなった。実はエヴァが物凄い悪女で、悪女に騙されて死んだ、とかなら朗報だ、と僕は思った。ところが、少し遅れて街に流れる噂は、僕の願望を否定する。


 あいつは大森林近くに、大物を討伐しに行った、と噂は語っていた。この際、エヴァが悪人でも善人でもどうでもいい。とにかくあいつが強梁(きょうりょう)な魔物に食われて死ねばいいのに。いや、もう何でもいいから一日でも早く死ね、と僕は思った。


 残酷なあいつは、僕の心からの願いを打ち砕く。あいつはシュロハジョニ峡谷で巨大なルドスクシュを仕留め、アーチボルクに帰還した。


 帰還当日、あいつは飢えた目つきで街中を彷徨(うろつ)いていた、という。目撃者多数だから、単なる噂ではなく、実話なのだろう。巨大な魔物を討伐したことで破壊衝動に歯止めが効かなくなり、次の“標的”でも探していたのかもしれない。


 ルドスクシュ討伐から凱旋した翌日、何たることか、僕は寄せ場であいつに見つかってしまった。血に飢えた今のあいつは、いつも以上に危険だ。しかも、寄せ場のハンターたちは僕が発端となって流れた“サバス罪状捏造説”により、相当な悪意ある目をあいつに対して向けている。


 あいつに問い詰められたら、僕は嘘を突き通す自信がない。噂が僕から流れたとバレたら冗談抜きで殺される。


 僕は比喩でもなんでもなく、本当に命懸けで逃げた。周囲を顧みない全力逃走が功を奏したのか、僕は辛くもあいつから逃げ切ることができた。


 そもそも僕が寄せ場であいつに見つかってしまったのは、油断してあいつを見てしまったからだ。あいつは学校時代から視線感知ができていた。だから、あいつとの接触を避けるためには、あいつを直接見てはいけない。


 対象を視認せずに回避する、なんて芸当はフィールドでは難しくとも、寄せ場では案外簡単だ。あいつやエヴァが寄せ場に来ると、必ず寄せ場がザワつく。そのザワつきに耳を傾ければ、あいつの居場所に当たりがつけられる。身を少しだけ低くして顔を俯け、ザワつきから離れることであいつを見ることなく接触を回避できる。僕が編み出した“クソバート・ネイゲル対策、視線感知編”だ。


 フィールドで息を潜めるのはハンターの常とはいえ、ここは街中だ。力のある狂人のせいで、力のない常人の僕は街中でも隠れて生きていかなければならない。世界は残酷で、面倒だ。




 そんな暗黒のアーチボルクに、ようやく平穏が訪れる。凱旋から数日後、あいつはエヴァと連れ立って王都へと発ち、それきりアーチボルクへは戻ってこなかった。


 王都へ行った数年後、王都からアーチボルクにひとつの情報が流れてきた。何でもそれによると、あいつは外患援助の罪だか何だかで捕らえられ、処刑された、というではないか。ただし、とても残念なのは、本当は死刑になるはずだったところを、減刑嘆願によって両腕切断にしかならなかったところだ。あいつの偽りの善行に助けられた人間が、減刑を嘆願する署名を大量に集めたのだ。


 うわべの良さに救われた、悪運の強い奴だ。忌々しい。


 皮相はいくらでも繕える。大切なのは本質を見抜くこと。あいつの本質は“悪”だ。“悪”が“悪”として生き長らえるためには条件がある。それは、自分の力で揉み消せる程度の犯行で我慢することだ。分不相応な大犯罪に手を染めたとき、“悪”は罰される。拡大を続ける“悪”たるあいつが罪人として裁きを受けるのは、時間の問題だったのだ。


 あんな悪党の減刑を願うなんて、嘆願者たちは何とも憐れで愚かだ。外面を見るばかりで、その下にある人間性を見ようとしないから、まんまと騙されることになる。


 何しろ、あいつの行動の一部を切り取って見てみると、とても優しくて善良で、しかも何をやらせても素晴らしくこなす、理想の優等生だ。あいつを正確に評価するには、大きな視点を持たなければならない。全体を捉えれば、優等生としてのあいつがどれだけ薄っぺらか分かる。綺麗な外面を一枚剥がせば、忌むべき本質が見えてくる。それを小さな視点で観察しているから、あいつに簡単に幻惑されてしまう。


 嘆願者が欺かれているだけの“被害者”なのか、学校時代の僕らのように“共犯者”なのか、僕には知る由もない。ただ、確実なのは、あいつの本質が学校時代と何も変わっておらず、強烈に過ぎる特徴で周囲の人間を惑わし、意のままに動かし、そして“悪”をはたらいた、ということだ。


 そして、それは正義によって討ち果たされた。さすがは王都だ。真の正義が王都にはあった。




 処刑からしばらくして、両腕を失ったあいつは死んだ、という話が流れた。確定している事実なのか、それとも噂の範疇に過ぎないのか、僕は調査していないため分からない。いずれにしろ、アーチボルクの外の話だ。迂闊に藪をつつく必要はない。僕は話を聞くだけで満足し、胸を()で下ろした。


 死亡説が流れるまで、実はそれなりに不安を抱いていた。なにせ、あいつのしぶとさはゴキブリ以上だ。両腕を切り落とすだけでは足りない可能性がある。残った両足でゴルティアまで逃げ込み、口先で聖女を惑わし、欠損修復の回復魔法を受けて両腕を取り戻してしまうかもしれない。


 他にもいくつか、捲土重来のおそれはあった。それら各種の心配が全て、死体が見つかった、という情報によって消失する。いくらあいつでも、両腕を失った状態で死体を捏造はできないはずだ。


 腕がなければ、誰を殺すのも難しいし、魔法もスキルも行使不能だ。


 これであいつがヒトに非ざる者であれば不安が尽きないところだった。広い世の中には口や角から魔法を飛ばす四脚の魔物や、噛み付くことで牙から魔法をかけるヒト型吸血種のドレーナなんて種族もある。


 いかに悪人とはいえ、あいつは一応ヒトの範疇であり、そういう心配は……。あれ、そういえば、ヒトでも魔眼持ちは目から魔法を放つことができたのだった。でも、魔眼持ちなんて超希少だ。僕は生まれてこの方、魔眼を持っているヒトに会ったことがない。あいつがそんなものを持っている可能性は限りなく低いはずだ。


 あいつの父親であるウリトラス・ネイゲルは確かにマディオフ軍の大魔法使いだ。でも、それだけ有名な軍人が魔眼を持っているならば、絶対に大きな噂になっている。


 僕はそんな話を聞いたことがない。魔眼が基本的に生まれに依存する物である以上、あいつが魔眼を持っている可能性は無い。


 僕はそう信じている。でも、あいつだと常軌を逸した手段であらゆる原則を覆しそうで怖くなる。


 恐怖の感情は、次々に恐ろしい妄想を呼び起こす。そういえば、魔眼ではない普通の目でも行使できる魔法がいくつかあるのだった。そのひとつが幻惑魔法だ。


 徴兵中に提示された戦意高揚のコールオブデューティーや、過緊張や恐慌から脱するための鎮静魔法(コーム)は手を使って放つ。幻惑魔法は危険度が高いため、それら二種類以外は教えてもらえない。


 危険度が高く、なおかつ手を使わずに放つ幻惑魔法と聞いて即座に思い浮かぶのが“魅了魔法(チャーム)”だ。これは標的と目を合わせるだけで行使できる。相手の行動をある程度誘導できる魅了魔法(チャーム)に輪をかけて危険なのが、対象のあらゆる行動を操る支配魔法(ドミネート)だ。


 ドミネートは、ヒトにはほとんど使い手のいない、半分アンデッド専用みたいなところがある魔法だ。


 アーチボルクのダンジョン、“墳墓”に通う父さんの友人ハンターが以前、冗談がてら教えてくれたっけ。


『アンデッドのリッチはドミネートが得意で、交戦する時は要注意だ。物理戦闘力はそこまで高くないが、両腕を抑え込んでも目だけで幻惑魔法をかけてくる。注意さえしていれば抵抗(レジスト)はそこまで難しくないから、とにかく追い詰めても油断するなってことだ』


 僕たち親子はハンターといってもフィールド専で、ダンジョンに潜ることはない。フィールドで出くわすアンデッドは大抵弱くて、リッチみたいな強力なアンデッドには滅多に遭遇しない。でも、知識が我が身や仲間の命を助けてくれる世界だから、僕はその人の言葉を忘れずに覚えておいたんだ。


 もし、あいつがドミネートを使えたとしても、僕は驚かない。学校時代も徴兵中期も、僕はずっとあいつの言いなりになっていた。それどころか、あいつの思考を先回りしてあいつの気に召すように動こうと心がけていたくらいだ。


 僕だけではない。同級生や、それこそ先生だってあいつの操り人形だった。魔法介在の有無は、この際重要ではない。あいつは人を惑わし、操る術に長けている、それに間違いはない。


 あいつの危険性は言を()たない。蘇って現世に舞い戻ることなく(くら)く冷たい土の下で瞑目(めいもく)するよう願ってやまない。




 それからまた時が流れ、僕は一廉(ひとかど)のハンターになった。アーチボルクのフィールドでは、僕が一番のハンターだ、と人は言ってくれる。レデズマさんのようなダンジョン専、最上位のハンターたちと同様に、僕たち親子は沢山の人から敬意を表してもらえる。


 ハンターとしての業績が認められ、僕はマディオフを襲った有事に対する“特別対策”の要員として国から召集を受けた。


 魔物を倒すのはハンターの仕事であり責務だ。今回の仕事の依頼主は、国そのもの、ということになる。


 特別対策を担うのは、“特別討伐隊”で、そのメンバーの中には、マディオフのハンターの頂点、ミスリルクラスのバンガン・ベイガーさんや、半引退した“氷の魔術師”ことイオスさんがいる。


 特別討伐隊には他にも錚々(そうそう)たる顔ぶれが並んでいる。


 正直、少しばかり気後れしてしまう。けれども、僕もその一員なんだ。弱気になるな。


 イオスさんはあいつと仲が良かった、という話があるため、やや気がかりではある。でも、他にイオスさんの悪い話は聞かない。聞くのは正義に忠実な人格と壮絶な戦歴ばかりだし、大丈夫だろう。


 仲間を疑う真似ばかりしていると、隊員として功績を挙げるどころか、任務中に命を落とすことになりかねない。僕はもう独りの身ではない。家族のためにも、しっかりと活躍して、無事に帰るんだ。


 弱気と訣別した僕は、愛する家族にしばしの別れを告げて家を出た。有事を解決するまでアーチボルクへ帰ることはおろか、家族との再会もかなわない。


 季節が本格的な夏に向かう中、僕は生まれ育った街を後にした。

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― 新着の感想 ―
[一言] アルバートはクズというかズレてる感じがする。
[一言] アルバートが異常者だという認識が作中人物にもちゃんとあって安心したというか、予想以上だったというか……。
感想一覧
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