第三二話 演じる者たち 二
調印された条約は無事両国に批准され、戦後処理は少しずつ動き出していった。戦後処理は性格上、地道な作業が多いものの、華々しいものも少数ながらある。選挙はその最たる例と言えよう。ジバクマに復帰した領土の新たな首長を定めるため、ゲダリングとリゼルカの二つの都市における選挙の日程がジバクマ全国に告示された。
終戦に先駆けて施行されていた臨時法は守られ、ゼトラケインから移り住んできたばかりの吸血種たちに対しても選挙権及び被選挙権が与えられた。ジルたち首都組の働きかけにより、二つの都市で一名ずつのドレーナが知事選に名乗りを上げた。ゲルドヴァで出馬したのがレヴァイストス・ヤズマドゥという男性ドレーナ、リゼルカで出馬したのがミダイア・ショテクラプという女性ドレーナである。
立候補させるのであれば政治家として、指導者として有能な人物が適当だ。“仲間”にはそれを見繕う時間がエルリックによって与えられていた。
“愚者”側も候補を擁立したものの、事前予想より格段に減ってしまった甘い蜜を奪い合うことになり、足並みは上手く揃わなかった。“愚者”はいくつかの派閥に分かれて立候補者を擁立し、お互いを潰し合う形となった。
元々ジバクマはヒト型吸血種の少ない土地だった。文化的、政治的な背景がどうこう以前に、寒冷な気候に適応したドレーナやヴィポーストらには温暖なジバクマの気候が好まれないのだ。ただし、生活できない、というほどの環境不適合ではなく、昔はゼトラケインやゴルティアから来訪した吸血種をジバクマの街中で見かけることもさほど珍しくはなかったらしい。私も小さい頃、吸血種をもう少し頻繁に見かけていたような気が何となくする。
吸血種がありふれていた光景は、ゴルティアとの戦争が始まってから失われてしまった。ジバクマ国民は吸血種に対して敵愾心こそ無いけれども、存在自体に馴染みが薄い状態となっている。
選挙には多様な人物が出馬する。党と派閥の期待を背負う中堅、若手の政治家から、理想に燃える無所属新人などの“定番品”に始まり、人生の記念にするための思い出立候補者、売名行為の一環として選挙を利用する商業立候補者、自分の能力や価値を高く勘違いした奇人たち、等など、当選とは無縁の“添え物”が、候補所一覧に飽きずに眺めていられる娯楽誌的側面を追加する。有権者の目にはドレーナが、それら色物候補者と同列の存在にしか映っておらず、ドレーナを台風の目と見做す人間は誰もいなかった。滑り出しは、それなりに興味を示されても警戒はされない適度な注目度、というところである。
さて、長いようで短い選挙期間は計画的に行動しなければならない。立候補したドレーナ二人に公認政党は存在しない。いわゆる無所属出馬というものだ。無所属候補者にとって後援会は、党公認候補者以上に重要になる。この後援会の会長を務めるは国王のジルだ。まともな君主国であれば、統治者であるジルは特定の候補者の支持を公式に表明することができない。ところがジルは形だけ据え付けられた飾りの王だ。それまで国王の存在しなかったジバクマは国王の行動を縛る法律に乏しく、ジルの政治干渉が完全に妨げられる心配はない。“愚者”がジルを無理矢理国王に仕立て上げた際に急造した法律にはいくつも穴があり、その中で分かりやすく開いた巨大な穴を突いてジルは後援会会長に就任したのである。
ただし、ジルがドレーナ二人を応援していることは立候補の届け出を提出した時点から公然の事実となっており、公式に後援を表面してもそこまで大きな衝撃を有権者に与えることはない。選挙日程の前哨戦はそれで十分だ。
“愚者”たちは国王と吸血種の動向に不気味さこそ感じつつも、吸血種に対して過度な警戒は払わない。“愚者”の真の敵は“愚者”内の他派閥の公認候補者、と思わせてこそ、私たちは自由に動きまわれる、というものだ。
“愚者”がドレーナへの警戒が薄いのは、他にも理由がある。吸血種を招き入れる法律を“愚者”に作らせたのはワイルドハントだというのに、そのワイルドハントは条約締結後、選挙に深く首を突っ込んでこない。私の調べたところだと、エルリックが選挙に関して“愚者”に口出ししたのは選挙日程だけだ。
選挙運動というのは規定が多く、選挙日程前の選挙運動は厳しく規制されている。それでも、日程前に後援者として行える有効な活動は数多く存在する。それなのにワイルドハントはドレーナの応援をするどころか人の住む場所にはたまにしか姿を見せず、フィールドに繰り出しては超高額の討伐報酬が約束された剛暴な魔物のハントに明け暮れている。この行動には海千山千の“愚者”も驚きを隠せない。
ジバクマにはミスリルクラスのハンターパーティーがひとつしかない。ブラッククラスのライゼンは、東の防衛拠点ミグラージュからおいそれと離れられない。ゴルティア軍に目を光らせていなければならないライゼンが討伐できるのはミグラージュの近くに出現した魔物に限られる。自然、残りのジバクマ全国に出現した強大な魔物の討伐はミスリルクラスのパーティー、レシティッカに依存するわけだが、このレシティッカはダンジョンに挑戦していることが多い。所謂ダンジョン専に近いパーティーなのだ。
強大な魔物限定とはいえ、ジバクマ一国全域の魔物の処理、という重荷をハンターパーティーひとつの肩に背負わせることからして無理な話だ。そしてそのハンターパーティーはフィールドにいる時間が極めて短い。これではどうやっても魔物の討伐が追いつかない。軍がどうこうできるか、というと、専門職ではない軍人は、ハンターと比較して魔物の討伐能力が低い。それに、オルシネーヴァとゴルティアの二正面作戦を強いられていたためにジバクマ軍は未曾有の人手不足の状況であり、とてもではないが強い魔物の対応まで手が回らなかった。
必然的に、強大な魔物が現れた土地をヒトは手放さなければならない。先祖伝来だろうが、土地が肥えていようが、資源豊富だろうが、購入したばかりだろうが、交通の要衝だろうが、レシティッカの手が借りられなければ、そこはヒトの街ではなく、魔物の縄張りになる。
オルシネーヴァとの戦争が終わったとはいえ、軍がヒトの社会を蝕んできた魔物を掃討するにはこれから長い年月を要する。軍隊の世界でも、ハンター界隈でも、ジバクマはミスリルクラス以上の人材を喉から手が出るほど欲していた。
そういう意味では、手がつけられない魔物を次から次へと倒していくワイルドハントの行動はジバクマ国民にとって感涙モノのありがたみがある。だが、“愚者”はこれに高笑いする。
『魔物を討伐する力を誇示して民草から感謝を集めても、それがそっくりそのままドレーナの得票数増加には繋がらない。所詮はアンデッド、人の世の道理を知らない魔物の類に過ぎない。選挙において、ワイルドハントとドレーナは敵ではない』
“愚者”はワイルドハントの行動を、アンデッドなりの選挙の後援と判断した。情報力に欠けた、とても人間的な思考だ。
実際はかなり違う。これはエルリック流の目眩まし、あるいは手練と言える。幻惑魔法に頼らずともエルリックは容易にヒトを惑わし、操って自らの傀儡と化すことができる。
もしもワイルドハントがより直接的な選挙応援を始めるとか、あるいは姿を完全に隠してしまうと、“愚者”はワイルドハントの準公認候補であるドレーナをより強く警戒するだろう。もしかすると、ドレーナの選挙運動の妨害を始めるかもしれない。
それがこうやって“愚者”の目の届く範囲で一見的はずれな行動を取ることで、見事に相手を油断させている。そう、エルリックがやっているのは囮だ。愚者の目を引きつけ、逸らしている。
色物立候補者のドレーナとそれを表立って支援する国王ジル、その横で頓珍漢な支援をするワイルドハント、三者が極めて自然に張った緞帳の裏で私は小妖精を使い続けた。ここまでお膳立てしてもらえれば、何を言われずとも、どう動くべきか分かるというものだ。エルリック仕込みの隠密行動で、選挙の舞台裏を走り続ける。選挙の行われる二都市両方とも、完全に勝つために。ジルが“仲間”へ引き入れた吸血種、レヴァイストスとミダイアの二人の当選を勝ち取るため、寝食を忘れて駆け回り続けた。アリステル班結成以来、最も多忙を極めた、と断言できる仕事量だった。
ジバクマ最北西部の都市ゲダリングで立候補したレヴァイストスと最西端の都市リゼルカで立候補したミダイアは、それぞれどちらもゼトラケインの地方都市で首長、副首長として都市を治めていた実績がある。ゼトラケイン王国南部から“ロレアル共和国”が独立した後は為政者を辞め、ゼトラケイン北部で隠遁生活を送っていた。国家動乱さえなければ、今でも首長職を続けていたと断言できる、安定した都市運営に定評のある人物らだ。国防や都市防衛という面において不安が無いとは言えないが、基本的に為政者に戦闘力は求められない。それに、ドレーナを後援するエルリックが十分な破壊力をゲダリングでデモンストレーションし、今なお魔物の討伐という形で示威活動を続けている。本人の戦闘力や兵学の有無は重要ではない。
ゲダリングでベネリカッターを用いて防壁を破壊し、一騎打ちでオルシネーヴァ最強の剣士ヒレールを倒したという武勇伝は、口伝による高い伝達力でリゼルカの一般民衆にも伝わっている。ゲダリングではエルリックが参戦する前に人的な犠牲がそれなりに出たものの、ある程度犠牲があったからこそ、エルリックの異常な強さが浮き彫りになった。広報活動の一種として高い成果を上げたのだから、こう考えるとゲダリング奪還作戦は無駄ではなかった。
◇◇
誰もが疲労困憊に陥る中、選挙日程が始まった。立候補者が政見を発表し、派閥の公約が公開される。“愚者”側の立候補者たちの政見と公約のなんと素晴らしいことか。輝かしいゲダリングとリゼルカの未来が約束されているかのようだ。少し頭が回るか、ほんのちょっとでも癒着の関係図を把握していれば、憤懣やる方無くなるような欺瞞の嵐も、今は私たちの追い風でしかない。
片や、レヴァイストスとミダイアに目を向けると、政見はともかく、公約がパッとしない。“愚者”側と見比べれば、『その程度は誰でも実現できるだろ……』と、溜め息を衝きたくなるような、良く言えば堅実な、忌憚なく述べれば地味な公約ばかりだ。
日程は、“愚者”側の立候補者たちが圧倒的優勢のまま進んでいった。無所属や新人の候補者たちに大きな注目が集まることはなく、争点は大派閥間での票の奪い合い、というのが選挙予想の大勢を占めていた。
選挙期間中、最大規模の公開討論がゲダリングの中心部で行われる日に、エルリックは何の予告もなく切り札を使った。
討論が既に始まっている大きな会場の片隅に突如、エルリックは音もなく現れる。衆目は立候補者たちの集まる壇上に向いていて、警備の憲兵たち以外は誰もエルリックの存在に気付かない。
エルリックは高い機動力を活かして立候補者たちが討論を交える壇上へ躍り出た。それはあまりにもあっという間の出来事で、エルリックの存在を発見していた憲兵ですら登壇を阻止するために動くことができなかった。
過剰演出ともいえるド派手な登場によって、全ての聴衆が観客へと塗り替えられる。大衆目の中心点にいるエルリックは、背後でうるさくがなりたてる立候補者たちを無視したまま、観客に向かって審理の結界陣の使用を高らかに宣言し、驚異の魔道具の力を解放した。
そう、ジェフも“愚者”も立候補者も後援者も、そしてジバクマ国民も、誰もエルリックが審理の結界陣を持っていることを知らなかった。オルシネーヴァが無自覚に投げた刃は、“愚者”と“愚者”が擁立した立候補者の胸に深々と刺さっていた。刺さった刃は、この日、公衆の面前でエルリックによって捻り抜かれ、致命的な出血を引き起こした。自分の血が大量に流れ出る様を見て初めて、刃を突き立てられていた本人は、もう自身の命が無いことに気付くのだ。
魔道具が作り出す“偽証不可能”の空間が演壇全てを包み込み、混乱が壇上を支配する。立候補者たちは、開いた口が塞がらない、とはどのような光景を指すのか、身をもって説明してくれていた。そのまま放心していてもよさそうなものではあるが、執念と野心、そしてアンデッドの恐怖を知らない蒙昧が立候補者たちの口に再動を命ずる。
「ワイルドハントを引きずり下ろせ!」
「邪悪な魔道具を使わせるな!」
「権力に取り憑かれたアンデッド風情が! 国王も同罪だ!! 全員、選挙法違反で引っ捕らえろ!」
罵声にも似た立候補者の大声が会場警備にあたる憲兵に仕事を命ずる。だが、命じられても憲兵は壇上に登ることすらできない。
壇上に立っているのは万を超す大軍すらも阻むアンデッドだ。しかも、それが瘴気を展開して会場全方面を睥睨している。闘衣無しに瘴気に触れれば人間は即座に死に至る。瘴気で演壇を覆ってしまうだけで、憲兵を含む大半の人間が近寄れない。
会場を占拠したワイルドハントは、壇上で囀る立候補者たちを人ならざる声で一喝して黙らせる。
「黙レ、定命ノ者ドモ」
脅し文句が長くある必要はない。私たちヒトは、生命存続に必要な“おそれ”を持ってこの世に産み落とされる。高い場所では足が竦み、痛みが指先に走れば腕を引き、眩しければ目を瞑る。瘴気を目の前にすれば足は止まり、その元凶に睨まれれば、呼吸すらままならなくなる。それがヒトという脆弱な種族だ。
人生経験により培った自信、借りてきた威勢、連綿と続く人脈、不正を重ねて溜め込んだ財産、無知蒙昧、そのいずれも眼前の原恐怖に抗う矛にはなりえない。たとえどれだけ友好的であっても、エルリックは紛うことなきワイルドハントだ。約束された暴力と確実な死を前にして動けるのは、人間の領域を逸脱するほどの力を持つ歴戦のハンターだけだ。そしてそれはこの討論会場のどこにもいない。
恐怖によってもたらされた静寂の中、アンデッドの声は淡々と要求を告げる。
「コノママ討論ヲ再開セヨ」
恐怖に抗い立候補者のひとりが震える声で叫ぶ。
「こんな討論は無効だ!」
立候補者がなんとか絞り出した一言は、心無いアンデッドには響かないばかりか、壇上で行われている“劇”の意味を理解した観客の心を激しく逆撫でする。
会場の観客のひとりが野次を飛ばす
「黙れ、嘘つきの政治家が。大人しくそこで本当のことだけ喋れ!!」
ワイルドハントの暴力は壇上にこそあれ、観客へは向けられていない。
そうだ。
ワイルドハントの暴力は、これまでただの一度たりともジバクマの善良な国民に向けられたことはない。
ゲルドヴァではただのワーカーとして働いていた。
ワーカーを貪り、産業構造の病巣の中枢として経済の流れを滞らせてきたフラフス社に鉄槌を与えた。
決壊寸前だった毒壺のスタンピードを未然に封じた。
陥落寸前だったレンベルク砦を救い、占領されていたゲダリングの壁を破り、本国復帰への立役者となった。
ワイルドハントの功績を知っているのはジバクマ本領の国民だけではない。オルシネーヴァは占領していたゲダリングで厳しく箝口令を敷いていたが、それでも民衆は草の根レベルで知っている。
ワイルドハントはずっとジバクマの敵と戦ってきた。
そのワイルドハントが壇上に偽証不可能な空間を作り上げ、そのことに文句をつける者がいる。
誰がジバクマの敵か一目瞭然だ。
ひとりが上げた声は二人目の声を呼び、二人の声は十の声を引き出し、十の声はすぐに会場全体の声へと拡大した。演劇を静観するだけだった観客が物言う有権者となってワイルドハントを後押しする。怒号にも近い有権者の声が最高潮となり、敵が青ざめて黙ったところでワイルドハントの一体が手を挙げる。
指揮に従い、有権者が鎮まりを取り戻すと、この瞬間を待ちわびていたかのように、今度は壇上のドレーナ、レヴァイストス・ヤズマドゥが口を開く。
「一般参加の皆さんは公開討論の継続を望んでいます。ワイルドハントの方々も、嘘を望まないだけで、特に公開討論の邪魔をするつもりはないようです。討論の継続に支障はないように思いますが、私以外の立候補者の方々は何かやましいことでもあるのでしょうか?」
レヴァイストスが討論相手ひとりひとりに水を向けるも、立候補者たちは揃って目を背けるばかりで何も答えようとしない。
『やましいことなど何もない』
普段であればそう答えたのだろう。だが、“偽証不可能”となった壇上では、その台詞が口から出てこない。嘘が言えないのであれば黙るしかない。
レヴァイストスが更に質問を重ねていく。
「あなたの陣営が掲げた公約の中で、どれか実現できそうなものはありますか?」
こんな簡単な質問にも、“愚者”公認の立候補者たちは全滅する。“愚者”はあまりにも素晴らしい公約を掲げすぎた。どれくらい素晴らしいかというと、理想的すぎて精霊の力をもってしても実現が難しいほどだ。
『経済的に困窮する戦災孤児を零にする』
とても聞いていて心地のいい公約だ。心の綺麗な人物が語ったのならば、良い目標と褒められる。これを“愚者”に言わせるから嘘になる。戦災孤児の経済援助をまともにするつもりなどホトホトないのだ。こいつらに本気で戦災孤児零を達成させようとしてみろ。戦争で親を失った子供を皆殺しにしてもおかしくない。
『ジバクマ全国の労働者の最低日当を現在の倍にする。その先駆けとして、ゲダリングの賃金を引き上げる』
ゲルドヴァでフラフス社からたんまりと賄賂をもらっていた連中が何を言う。仮に名目上の日当をほんのわずかだけ上げたとしても、戦争特別復興税やら何やらと理由をつけて手取りを半減させるかもしれない。
『税の抜け道をなくし、個人と企業の税負担の割合を見直す』
個人や中小企業の節税手段を封鎖し、大企業が“合法的脱税”をできるようにする気だ。合法的脱税における控除申請の際に必要となる申請料は、一部“愚者”の懐に落ちる寸法になっている。これは事前に調べがついている。
候補者たちも分かっている。公約のほとんどは国民の大多数にとって何の得にもならない。実現する気がない、あるいは実現不可能な公約はまだマシなほうで、当選後、政治家お得意の屁理屈を捏ねくり回して強い者の利益に、弱い国民の不利益となるような政策を執るのが“愚者”なのだ。
実際に政権や自治体運営権を獲ってみたら公約の一部が達成困難と分かった、ではないのだ。こいつらは最初から有権者をカモにする悪意を持って崇高な公約を掲げている。
壇上で行われているのは討論ではなく演劇だ。それと知らずに登壇した候補者たちにもキッチリと配役される。大量の汗を流しながら黙りこくる道化の使命は、観客の笑いを誘うことだ。
選挙の争点になりそうな重要な目玉公約を、道化たちは誰も“実現する気のあるもの”として喋れない。実現しても陣営にデメリットの無さそうな、民衆にとっても興味の薄いマイナー公約だけをぽつりぽつりと挙げていく。そういうマイナー公約ですら完全達成は困難であり、『どれそれのマイナー公約であれば、部分的に達成できる可能性がごく僅かに存在します』と、自らの傷に塩を塗り込むような発言をして、更に観客の怒りを買う。笑いを誘う、という使命を果たせない不出来な道化である。
公約の嘘を暴露した後はご友人の紹介の時間だ。小妖精の能力で全候補者の後援実態は完璧に割れている。
レヴァイストスは不正な資金の流れ、党と政治家を支援する企業との癒着の歴史を観客に分かりやすく説明する。有権者に絶対に知られてはない秘密を暴露され、脂汗を流して震えながら、それでも立候補者は反論が一切できない。何しろレヴァイストスは真実しか語っていない。レヴァイストスに反論するには嘘をつくしかない。審理の結界陣で嘘が封じられている以上、立候補者には反論のしようがない。捻り出せるのは自らの潔白を証明する文言ではなく、レヴァイストスに対する悪罵ばかり。レヴァイストスを憎んでやまないのは嘘ではないため、子供の喧嘩のような悪口ばかりは審理の結界陣でも封じ込めない。
だが、それが精一杯の抵抗だ。レヴァイストスの心臓を抉る質問は誰もできない。何しろレヴァイストスという人物のことなど殆ど知らないのだ。ゼトラケイン時代に不正や失政が無かったか問い質そうと試みたところで、得られるものは何もない。長い寿命をもつドレーナは、生まれた時から老い先短いヒトと違い、不正や癒着に塗れずとも財産を構築し、家を守り、そのうえで無難に執政を続けることができる。
この『無難な執政』を長期間継続することがヒトには難しい。短い寿命しか持たないヒトは権力を持つと途端に欲に溺れる。短期間であれば理性を保っていられても、十年、二十年と支配者に近い立場にいて周囲の人間からおだてられ、褒めそやされ、機嫌を伺われ、としていると、次第に勘違いして傲慢になり、不正に手を染めるようになっていく。
ヒトにとっては、過度な搾取を行わず、不正に塗れず、頻繁な政権交代による政治と経済の混乱を招かず、無難であっても長く安定して国や自治体の運営を続けてもらえることは、これ以上ないほどありがたいのだ。
道化の不用意な質問は、長命の吸血種を首長に選出する有益性を逆に有権者に知らしめることになった。返す刃のつもりが、司会代わりに友好的に他己紹介を進めたようなものである。
“愚者”側としても、前もって結界陣を使用することが分かっていれば、嘘は言わずに一方的にこちらを質問攻めにするなど、何らかの対応が取れたであろうが、“愚者”にとって今日の出来事は青天の霹靂なのだ。“愚者”の最大の武器は、相手の思考を麻痺させる嘘を捻りだす脳と、それをペラペラと喋るよく回る舌だ。事情に疎い国民や、判断力に乏しい国民は、“愚者”の武器に容易に仕留められてしまう。その武器二つがどちらも用をなさないのだから、恐れるに足らない。
観客は時に“愚者”の醜い背任行為に怒って物言う有権者に戻りながらも、概ね望ましい観客として立候補者たちの道化っぷりを鑑賞しきった。
エルリックはいつしか審理の結界陣を使用終了していたが、道化はそれに気付かない。気付いたところで、いつまた使用再開されるかと思うと、下手なことは口にできない。壇上には言葉にならない屈辱と怨嗟が充満し、観客席にはかつてない心地よい爽快感が広がったまま、舞台に幕が降りた。
◇◇
ゲダリングよりも後日程となるリゼルカの選挙戦では、ワイルドハントに審理の結界陣の使用をさせまいと一致団結した“愚者”陣営がミダイアの選挙運動をあれやこれやと妨害してきた。ゲダリングでの選挙戦よりもリゼルカの選挙戦のほうが攻防激しいものになる、と私たちは事前に予想していたため、妨害行為への対抗策を入念に練っていた。妨害の大半は未遂のままに頓挫させ、一部は白日の下へ晒した。
選挙運動の妨害は選挙法違反だ。選挙後に法で裁かれることになる。“愚者”は司法を買収して有利な判決を出させるだろうが、選挙への影響はどうやっても免れない。なりふり構わぬ“愚者”の蛮行は選挙の不利を覆すどころか、却ってリゼルカ住民の怒りを買っていた。
アンデッドのワイルドハントが選挙に関心を示している時点で、有権者に与える影響は大きい。そもそもダニエル・ゼロナグラは今でもジバクマ国民の記憶に残っており、アンデッドの君主とか首長というのは一定の人気と需要がある。
アンデッドは人間的な感じ方、物事の考え方をしない存在だ。時に残酷で、時に頑固で、アンデッドの性格的特徴は概してヒトと相容れない、接しづらいものとして作用しがちなのだが、その一方で良く作用することもある。
アンデッドは基本的に決めたことを守る。ヒトと交わした約束を容易には破らない。事実、ダニエルはそうだった。ヒトが作った規則をヒトよりも実直に遵守し、どんな相手にも領主として公平、公正な対応を行った。大企業の経営者や各種公務機関の責任者といった権力者たちから見ても、平民から見ても、同程度の恐ろしさの領主だった、ということだ。ヒトの領主と違い、ダニエルに賄賂を渡しても、ダニエルがその者に便宜を図るとか、不正を見逃すことはない。むしろ、賄賂を違法行為として粛々と処罰する。
これは表面上、エルリックにも当てはまる話だ。ゲダリングでもリゼルカでも、エルリックは公式には誰の味方もしていない。ただ“偽証不可能な空間”を演説や討論の場でちらつかせただけだ。法や道義に反した行為さえしていなければ、“愚者”が擁立した候補者はここまで苦しまなかった。嘘をついていたから“愚者”が不利になり、その反作用としてドレーナが相対的に有利になった。
嘘を疎んじ、公平性を重んじる典型的アンデッドの様相をエルリックは呈し、そんなエルリックに楯突くさまを“愚者”は民衆に見せつけた。これは選挙において逆効果にしかならない。
憲兵に根回ししようが、私兵を雇おうがエルリックを力で屈服させられるはずがない。しかし、“愚者”は政治力に長けていても、戦闘力に関する知見に欠けていて、だからこそ無駄と分からずに実力行使を試み、自らの首を絞めることになる。
“愚者”の精一杯の努力の大半は功を奏さず、結局、リゼルカでも審理の結界陣の作用下で公開討論は行われた。“愚者”側の立候補者は、結界陣の使用下でも答弁ができるように準備をしていたため、ゲダリングでの喜劇に比べて少しだけ討論可能であったが、重要な話題に言及できないのは変わらない。自分が厳しい質問に曝されるのを避けるため、ルールを無視して一方的に他候補者を質問攻めにしようとし、その姿勢を司会にも聴衆にも糾弾された。
粘りに粘って時間を稼ぎ、“仲間”が後援する候補者ミダイアの質問時間を削ったところで、焼け石に水だ。ミダイアにほんのちょっと痛いところを突かれるだけで“愚者”側の立候補者は黙ることしかできなくなり、ここでも聴衆の嘲笑の的になるしかなかった。公開討論の名を借りた実質的な公開処刑である。
ゲダリングでもリゼルカでも、結界陣が使用されたのは各一回だけ。選挙演説や公開討論の大半は、審理の結界陣が無い状況で行われたのだが、その一回が二都市の状況を一変させた。“愚者”とその関係者たちがどれだけジバクマという国を食い荒らし、国民を裏切り続けてきたのか、合計二回の討論で大々的に暴露されたのだ。その他の演説でどれだけ綺麗事を並べ立てようと、もはや誰も“愚者”陣営を信じない。
◇◇
公開討論の流れそのままに投票日を迎えた。開票結果だけ見てみれば、“愚者”が複数の派閥に分かれて候補者をそれぞれ擁立したことで票が割れる、という点は全く関係なかった。両都市とも圧倒的多数の得票でドレーナが当選していた。
ゲダリングではレヴァイストスが、リゼルカではミダイアが新知事に就任すると確定した。新しいジバクマの幕開けだ。
◇◇
私たちは首都の都庁、王の間に集合した。もはや恒例となった夜の集会だ。国王のジルに、軍の大将のレネー、アリステル班とエルリックがこの場にいる。エルリックを間近で見るのは私たちも久しぶりだ。討論会場では遠巻きに眺めることしかできなかった。新しい“仲間”のレヴァイストスとミダイアもここに居てくれればよかったのだが、二人とも、もう公式行事以外では就任都市を離れられない。
首都につめているべき賢老院議員のモルテンは各所を飛び回っている。戦後処理で莫大な金が動くうちに一財産を築く気だ。頭の回るモルテンのこと、不正には安易に手を染めないと思いたいが、金銭や利権への執着を考えると不安は尽きない。
ジルがその場に揃った人員を見回して労う。
「選挙が無事に終わって良かったな。それでもやはり、と言うべきか、賢老院の息のかかった奴らがゲダリングとリゼルカで逞しく金稼ぎの術を構築し始めている。まあ、あいつらに都合がいい条例を一方的に作れはしないし、選挙の影響で民衆の目が厳しくなっている。今までのように派手な稼ぎ方はできないだろう」
労われる人員の輪の中心にいるポーラがジルに答える。
「立法府も司法も彼らの手中ですし、まだまだ愚者の天下ですよ」
「こっちに結界陣があることを分かっているのだから、あからさまな悪事は行わないだろう。まともに政治を行ってくれるのであれば、議員も首長も誰がやったっていいんだ」
選挙に大勝してもエルリックは手放しに喜ばない。一方のジルはエルリックほど今後を悲観視していない。はたしてどちらのほうがより正確に未来を見通せているのだろう。
長年腐敗の坩堝に浸かり続けた人間が、権力拡大に躓いてほんの少し儲け損ねたくらいでそう簡単に変わるとは思えない。私の未来予想はどちらかというとジルよりもエルリックに近い。
現に“愚者”は選挙の敗北直後から、敗者なりに金を稼ぎ、街に根を張り巡らさんとしてせっせと動き続けている。人類の敵、ゴキブリのような生命力だ。
とはいえ、せっかく理想に近い形で勝利を収めたことだ。これを機に、都庁にあるジルのこの部屋も国王らしく、もっと豪華に改装すればいいのに。私のこういう考えは俗っぽい、どちらかというと“愚者”的な発想だろうか。
元々は都庁の物置部屋だったこの一室を本拠地として表からは国王が、裏からは“仲間”が真にジバクマを操る。字面だけは、ちょっとした悪役っぽくていい……かな?
「オルシネーヴァとの国交が再開して、陛下の公務が増えますね」
「あー、くだらん行事だ。オルシネーヴァから頭を垂れてやってくる王族を賓客として迎えないといけないんだろ? 向うだって俺に会う意味など無いことを分かっているだろうに、何とか回避したいものだ」
それは無理ですよ、とアリステルが言うと室内に笑いが広がった。
「国内はボチボチやっていくとして、マディオフはどう動くかな」
「今後もゼトラケインからそれなりの人数の吸血種がジバクマに移ってくるでしょうから、ゼトラケインを滅ぼす前に矛先をこちらに向けてこないか恐ろしくあります」
「地形に阻まれているから、侵攻してくるにはまずオルシネーヴァを通らねばならない。オルシネーヴァがマディオフ軍を素通りさせたとしても、ジバクマに到達するまではそれなりに時間がかかる。行軍の足よりも密使の足のほうがずっと速い。対応は十分可能だ。それに今は要塞化したゲダリングがある。エルリックに壊された防壁を修復し、街にもういくつか改良を加えれば防衛は問題ないさ」
「防衛に重要なゲダリングの防壁は派手に壊してしまいましたから、修復にはお金が相当掛かりそうです。でも、景気は良くなるかもしれません。ジバクマの景気高揚に多大な貢献を果たしてしまいました」
ベネリカッターで壁を壊した本人が景気向上策を打った気で満足気に頷く。こんな感覚のズレたアンデッドに準公認されて私たちはよく選挙に勝てたなあ……。
「あっ……。でも、マディオフはゼトラケインの国土南側半分を東端まで侵略し終えた、と聞きました。リクヴァスからであれば、山脈を越えてジバクマ東部に抜けてこられるのではないですか?」
ズレズレアンデッドがまた聡明ではないことを言いだした。この質問だけでエルリックが本当にジバクマの出身ではなく、各国の動静、勃興、戦況や用兵に疎いのだと分かる。
まず地理的に考えても、リクヴァス方面からマディオフが攻めて来るとは考えにくい。
「マディオフの中心部から考えると、リクヴァスまではかなり距離がある。さらにそこから山脈越えをしようとなると、尋常ではない長く伸び切った補給線を持つことになる。無理して山脈を越えて来たところで、その先にあるのはミグラージュだ。ゴルティアの攻撃を防ぎきっている堅牢な要塞が、マディオフ如きに破られるなどありえない。ライゼン卿もいる」
レネーがマディオフによるリクヴァス経由でのジバクマ侵攻の難しさを簡単に説明する。
ミグラージュは盤石だ。これまでは確かにライゼンへの依存度の高い防衛戦を行ってきた。そうでなければ守りきれなかったからだ。だが、幾度となく攻め込んできたゴルティアの大軍を悉く退け、要塞の強化を繰り返したことで、ここ数年でミグラージュの守りは強固なものになっており、今ではゴルティアがミグラージュに仕掛けてくる頻度は減っている。
ライゼン抜きで北からマディオフ、東からゴルティアに同時攻撃されてしまうと、さしものミグラージュといえど防衛しきるのは難しいが、ライゼンがいる現状では二方面から攻められてもおそらく守りきれる。
何せ対オルシネーヴァとの戦線に軍事力をあまり割かなくてもよくなったのだ。人員、物資、あらゆる戦力を東に集中させられる。しかもここで指す戦力はオルシネーヴァからの義勇兵を含んでいる。昨日の敵はなんとやら、だ。
「では、オルシネーヴァがマディオフに擦り寄っておかしな事を企てなければ比較的動静は安定しそう、というわけですね」
「当面はな」
戦況予測にも希望が持てることをジルに説明されると、ポーラの雰囲気に少し変化が生じた。
多分エルリックはあの話を切り出すんだ。
「マディオフへ行く時期は、もう決めているのですか?」
ポーラが口を開く前にアリステルが問いかけた。
「この国で必要だったことは、大体終わりました。期待どおりになっていないのは一点だけ。思ったよりラシード君とサマンダさんの二人が薬の合成魔法の習得に手間取っていることです。恥ずかしながら、我々は未来を見通す力に劣っています。それでも、魔法に関する事柄だけは、もう少し目が利くと思ったのですが……。時に、サマンダさん。実はもう魔法を使える、ということはないでしょうか?」
「薬の合成魔法って不得意分野だし難しくってー。でも頑張りまーす」
サマンダがそう嘯く。すると、サマンダの発言の“意図”をポーたんが私に伝える。
これは……。私はどうしたらいいのだろう。
「うーん、なんだか怪しいですね。ラムサスさんに聞いてみましょう。サマンダさんは今、嘘をついていませんか?」
それは私を悪者にしかねない、あってはならない質問だ。万物の理に反している。嘘を暴きたければ審理の結界陣を使って自力で確かめればいい。
私の渋い顔を見てエルリックは疑いを確信に変える。
ポーラはイデナの身体をまさぐり、携行品の中から薬の素材を取り出した。背高が土魔法で調剤用の小さな机を作り出す。
「さ、実際のところどうなのか、目の前でやってみてください」
「えー、見られていると緊張して普段よりも集中できないでーす」
「そう言わないで、私の自慢の弟子の実力を全員に見せつけてください」
実演を嫌がるサマンダが、ポーラに諭されて私のほうをちらりと見た。
エルリックと離れ離れになるのが嫌なのかと思いきやそうではなく、私のことを気にしていたようだ。そんなのは気にしないでいい。サマンダのくせに変な気を回す。
私が一回だけ頷くのを見届けると、サマンダは視線を前方に戻し、真剣な表情で机の傍へ身を進めた。
机上の薬包紙に乗せられた、エルリックによって下処理がされた粉末へ両手をかざす。
変性魔法のひとつ、薬剤合成の魔法の光がサマンダの両手から伸びて粉末を包み込む。
魔法には見識の薄いジルも、固唾を呑んでその光景を見守っている。
張り詰めた空気の中、優しくどこか温かみのある淡い光が室内を満たしていく。
アリステルはいつもどおりの表情だ。ポーラは慈しむような目でサマンダを見ている。
サマンダの反応と小妖精の“メッセージ”で分かっていたことではあったが、ポーラの様子を見て、『ああ、もうサマンダはできるようになっていたのだ』と改めて確信する。
時間にして一、二分が経った。
サマンダの手から放たれていた弱い光が消えていく。
薬包紙の上には先ほどと変わらない、特徴の無い粉末がひっそりと鎮座している。
そこへ背高が手を伸ばして粉末に成分解析魔法をかける。
サマンダは一歩引いて成否を不安そうに見つめる。
ポーラは髪とローブをふわりと揺らしてくるんとサマンダを振り向くと莞爾して笑う。私たちからすれば見慣れた所作のはずなのに、久しぶりだからか燦然と輝いて見える。ポーラの所作はどれもこれも、イチイチ額縁に入れて取っておきたいくらいの美しい絵になる。
「ちゃんとできたじゃないですか。よく頑張りましたね、サマンダさん」
サマンダがかけた魔法の前後で粉末の見た目は全く変わらない。それでも粉末は見事に治療薬へ変化を遂げていた。
「どうしてそんな悲しそうな顔をするのですか?」
「それはですね……えぇと……」
サマンダは、悲しい、というよりも、いじけたような顔をしている。
「すぐにはジバクマを発ちません。ここの国内情勢は、まだまだ安定とは言い難いですからね。それにジバクマと比べマディオフの冬の寒さはとても厳しいものです。こんな真冬にラムサスさんを連れて行ってしまうと健康を害してしまうかもしれません。そこで、寒さの底を抜けるまでは、微力ながらこの国のお手伝いをしようと思っています」
ポーラは俯くサマンダの肩をやさしくさすった。
「おっ、そうなのか。やってもらいたい案件はいくらでもあるんだ。寒さの底となると二月下旬くらいだな。ああ、時間が無い。効率的に処理してもらうには、どれから頼むべきか」
感慨とか、そういう空気を無視してジルは足早に話を進めていく。
「陛下。お手伝いをします、とは言いましたが、無償で、とは言っていませんよ。何か対価は用意できるのですか?」
「モノが無いことは分かっているだろ。何か俺たちにしてほしいことはないか? そうだ、国籍とかどうだ? ジバクマの国民ではないんだろ? マディオフから戻ってきたら正式にジバクマの国民になって、俺の会社に新しく部署でも設けて、そこから派遣という形で仕事をする。おお、これはかなり名案だ」
それはエルリックへの報酬ではなく、ジルとジルが運営していた会社へのご褒美だ。ジルにとっては実の子供よりも、自分で大きくした会社のほうが手をかけるべき存在なのかもしれない。
「取り敢えずあの研究室ですね。公式には我々のものになっていないあの研究室には、いずれまた足を運ぶ予定です。科学や技術の何たるかを知らない無知な人間に荒されることのないよう、しっかりと管理をお願いします。後は今までどおり国を堅守していただければそれで充分……と言いたいところですが、少し便宜を図ってもらおうかと思います」
エルリックはいくつかジルに頼みごとを始めた。だが、最後までジェダを引き合いに出すことはなかった。
エルリックが大切に想う人間、というのは誰なのだろう。明確な根拠はないものの、私たちが知っている人物のように思われる。
「ああ、忘れていた。イグナスについてはどうする?」
ジルが唐突に私たち“仲間”への罰を思い出し、エルリックに采配を尋ねる。
「イグナスとは何でしょう? そういう固有名持ちの魔物でもいるのでしょうか?」
「はっ。ハンター的な勘違いだな。イグナス・ハイナーは我が軍の少将だ」
エルリックを首都に呼び出した犯人がイグナスであることを、レネーが説明する。
「ああ、そういう話もありましたね……」
ポーラがあからさまに面倒そうな顔をする。どうも、今の今まで私たちに求めていた罰を忘れていたと見える。
思い出したところでエルリックが興味を示すことはなく、イグナスの扱いは私たちに一任された。話を合わせるために考えた罰だからか、それともイグナスが思考を割くに値しない小者だとエルリック独自の調査で既に知っているのか、いずれにしても、呆れるほどの無関心ぶりだ。
さて、ではイグナスはどうするか。“仲間”全員が知ってのとおり、イグナスは無能を絵に描いたような人間だ。私たちとは対立する立場にあるものの、あれでも一応国を憂いて行動している。味方ではないが、かといって敵でもない男である。放置しておいた場合、私たちと利害がぶつかることは多々あるだろう。しかし、無能がゆえに大きな障害にはなりえない。よって危険を冒して暗殺するには値しない。“愚者”とは異種なる馬鹿代表として、これからも国内の馬鹿共の注目を集めていてくれればいい。下手にイグナスを処分して、その後釜に“愚者”の息がかかった有能な人物が据えられても対応に苦慮する。
罰の話はあっさりと終わり、もっと重要度の高い事柄についていくつか話を進めていく。マディオフ行までの二か月弱、エルリックはいくつかの依頼を請け負うことになった。手配師を経由しない直取引案件だ。ミスリルクラス以上のハンターでなければ手掛けられない案件は国内にまだまだわんさかある。半ダンジョン専のハンターパーティーであるレシティッカに期待していても、処遇困難案件は増えていく一方だ。ジルでなくとも、これを機にまとめてそれらを一掃したいと思うのは人の性である。
私たちがエルリックの魔物討伐に付いていっても効率を下げることにしかならない。ならばむしろ、アリステル班はアリステル班にしかできないことをするべきなのは然もありなん。溜まりに溜まっていたアリステル班本来の任務をひとつでも多く片付けることになり、睡眠不足の日々はまだまだ続くと決まってしまった。




