第二八話 ダニエルの研究室 二
研究室はさながら一宗教の総本山が構える大聖堂のようだった。研究室の真の入り口から伸びる通路を抜けた私たちの眼前には、地下とは思えないほどの鴻大な空間が広がっている。等間隔に規則的に並んだ柱は高く高く聳え立ち、空間の暗さと相まって柱の先はもとより、天井まで見通すことができない。並み居る柱が全て天空の闇に吸い込まれているような不思議な光景だ。上を見上げて見慣れぬものに目を凝らしていると、目眩のあまりに転んでしまいそうになる。
柱は自然が作り上げた幾何学的な構造にも見えるし、気が遠くなるほどの長い年月をかけて築かれた人工物にも見える。この巨大空間そのものも、天井を支える太い柱一本一本も、人間というものの存在のちっぽけさを感じさせる雄大さと迫力がある。それでいながらこの柱は、装飾柱だ、と説明されたら納得してしまうだけの美しさがある。
この地下空間の天井の上には湿地帯が広がっている。そこから水がこの研究室に少量ずつ伝い落ちて来ているのか、それともスレプティ川の流れがこちらにも流入しているのか、あるいは地下からの湧水でもあるのか、床面には薄っすらと水が膜を張っている。
床面はほんの僅かに傾斜がついているらしく水がサラサラと心地よい調べを奏でており、私たちに流れがあることを教えてくれる。
流れの方向は西だろうか。研究室の入り口から、この聖堂のような空間に入ってくるまで、くねくねと曲がりくねった通路を通ってきたため、東西南北の感覚は失っている。
荘厳さすら湛える研究室内は、水の流れる床、居並ぶ柱、見えない天井と、どこまでも同じような配置が続いている。どの方向へ進めば何があるのか分からないが、遠方には何箇所か仄々と明度の高い場所が見える。
アリステルの案内を頼りに私たちは研究室の中を進む。
「ここが“書庫”です」
アリステルが連れてきた場所には、まるで大きい金庫のような、見るからに硬そうな無機質の方形の庫があった。
「却々に厳重な封がされていますね」
まずはフルルが慎重に庫に近寄り、危険な罠がないか探りを入れる。安全が確かめられると、続いてポーラも庫に近寄っては庫の扉を入念に調べる。
「この扉の細工、芸術的な錠かと思いきや水密扉ではありませんか。これもゼロナグラ公が作ったのでしょうか」
「設計者や作成者は不明です。ゼロナグラ公の他の御殿ではこのような構造物を見かけません。これがゼロナグラ公の作かどうかは何とも言えません」
アリステルの説明を聞きながらポーラはシゲシゲと水密扉を観察する。
小妖精には罠の存在を告げる様子が見られない。それに、アリステルたちは一度ここに入ったことがある。特に危険はないはずだ。
満足のいくまで扉を調べるとフルルがひとり扉の前に立ってゆっくりと扉を開ける。
長期間密閉されていた庫には物性瘴気が溜まっていてもおかしくない。物性瘴気は小妖精でも探知できない。そこで、私たちや他のメンバーは庫から距離を取って扉が開かれる様を眺める。
重厚な扉は、その見た目に反し思いの外静かに開いた。開け放たれた入り口から二脚がひとり、庫の中へ入っていく。
内部の安全確認後、エルリックが次々と庫内に入っていき、私たちもそれに続く。
この庫は書物を収めた書庫。本の香りが充満している。ただし、本の古さの割にあまり黴臭くない。外に水が流れているとはとても思えないほど庫内の空気が乾いているせいだろう。書庫の中は移動棚が設置されており、棚には本が整然と並べられている。
ポーラは目に留まった本を棚から抜き取りパラパラと頁をめくると、すぐにつまらなさそうに棚へと戻した。そしてまた新しく本を抜き取っては落胆し、何度か同じことを繰り返す。
私も手近な本を一冊取り、中を見てみる。私の知っている文字はほんの一部で、大半は見たこともない文字が見開きを埋め尽くしていた。どこの頁を捲っても自分では内容を全く理解できない。
私では読解不可能の本の内容をポーたんは瞬時に読み解き、私に情報を流す。小妖精の情報によると、私が手に持っているこの本はダニエルが行った実験の結果を書き記しただけのもの。要は実験記録だ。
ダニエル・ゼロナグラは恐るべき大アンデッドであると同時に科学者でもあった。今、私が立っている場所の前に収められた数々の本は、長い時を過ごした科学者が残した実験記録であり貴重な情報には違いない。しかし、ポーたんがいる私であっても有効な使い途はすぐに思い浮かばない。
「中佐はここにある本が読めるのですか?」
ポーラはまた一冊の本を手に取り、中を眺めながらアリステルに尋ねる。
「いえ、僕は読めません」
「前にどなたかが、『遺産の一部は葬り……』と言っていましたね。それはここにあった書物の一部のことですか」
ポーラの視線は不自然にポッカリと開いた棚の空白部に向いている。
そのとおりだ。誰に頼んだのかまでは私も知らないが、この未知の文字で記された大量の情報の中から、アレの製法が書かれた本だけを何とか探し当てて処分したのだ。
ポーラが目を向けている空白の部分はおそらく処分した本が元々収まっていた場所なのだろう。
「賢察のとおりです」
処分に関与したアリステルがポーラの問いに答える。
「それで、残った本の中には我々の役に立ちそうなものがあるのでしょうか?」
「それは僕たちにも何とも言えません。なにせ僕も読めないんですから」
「ラムサスさんの小妖精、ここでは役に立ちそうですね」
ポーラは横目だけを私に向ける。
エルリックの力になりたいとは思っている。だが、ことこの場所においてそれはできない相談だ。
「人間にとってはひとつひとつが脅威となる技術です。ここではお手伝いできません」
エルリックの“お願い”に従ってアリステルは研究室を案内している。その“お願い”は私には無効だ。
研究室がいずれはエルリックの手にする場所である以上、案内すること、中に通すことはやむをえない。しかし、エルリックがダニエルとは別の存在であるならば、書物の内容を説明するべきではない。ここに残された情報は国を滅ぼしうるものであっても、決して救うものではない。ポーたんが私に伝えてくる限りでは、審理の結界陣を安全に使う方法などもなさそうだ。
エルリックがこの本を読み解けない、という点も、エルリックとダニエルは別人、と判断する材料のひとつになる。
ダニエルが行った実験と記録というのは、大半が闇魔法に関するものであり、一部は変性魔法関連だ。アンデッドや吸血種が得意とする闇魔法は人間にとって厄介極まりない技術。エルリックにそんなものは必要ない。立ちはだかる敵を倒すための力は既に十分持っている。
手に汗を握りながらも拒絶の意思を明確に表明すると、緊張感が書庫に漂う。
数秒の沈黙の後、ポーラは、そうですか、と言って本を閉じた。読めない本を棚に戻すと、エルリックは私たちの横を抜けて書庫の外へ出て行った。
「錬金術や化学実験に向いた場所に心当たりはありませんか、ズィーカ中佐?」
開閉に少しばかり時間のかかる水密扉をきっちりと閉め終えると、エルリックは別の場所を案内するように求めてきた。
エルリックが研究室のどんな機能に期待してここを訪れたのか、私たちは分かっていない。分かっているのは、審理の結界陣を安全に使うための魔法を開発する、という漠然とした目的だけだ。
大本命間違いなしと思われた書庫に真っ先に来たのだが、ここでは思うような収穫を得られなかった。エルリックは蔵書に拘泥せず、すぐに思考を切り替えている。
書物の翻訳拒否、という究極に気まずい展開を、私は前もってそれなりに考えていた。最大の懸念事項が最初に済んだのはまずまずの滑り出しではあるものの、肝心の魔法開発とやらの本質が見えてこない。こんな場所でエルリックは何をしたいというのだろう。エルリックが所望する機能を、この研究室は有しているのだろうか。
「実験室に相応しい場所ならあちら側にありますよ」
アリステル曰く、あるらしい。アリステルが再び先導し、また別の方形の庫へと導く。
こちらの庫も先ほどの書庫と同じく密閉感があるものの、一部には通風孔らしきものがあり、堅牢性は書庫よりも一段劣りそうな印象である。また、先ほどの書庫が黒く鈍い輝きを放っていたのに対し、こちらは煉瓦色だ。落ち着きがある、やや親しみやすい色合いをしている。
入り口を閉ざす水密扉を開けて庫の中へ入ると、そこは確かに実験室だった。室内中央には高さの揃ったいくつもの実験台が並んでいる。台と台の間を走る通路はそれなりに幅があり、実験者の動線が確保されている。移動棚によって空間占有率の凄まじく高かった書庫とは違い、備品による圧迫感がない。
台の下や壁際にはどのように使用するのか見当のつかない様々なガラス器具や装置が鎮座している。実験器具は相当な点数にのぼるというのに、乱雑や雑然といった単語とは無縁で、余裕を持って配置された器具の数々にはむしろ収納の美がある。実験庫の醸し出す独特の美しさと静謐さは、仕える相手を失い、新しい主を探し求める質実剛健の使用人を思わせる。
「あー、ちゃんと排気装置がありますね。精石は……よかった。まだ魔力が残っています」
書庫とは心機一転、エルリックは新居お披露目に招かれた招待客のように楽しそうに実験庫の内部を探索する。この気に召し様なら、設備的には魔法開発に問題なさそうである。それに魔法開発に有用かどうかは無関係に、ポーラの笑顔を見られるのは私としても気分がいい。
エルリックは一通り庫内の設備を確認すると、各々色々な道具をローブの下から引っ張り出して実験台の上に広げ始めた。
経験豊富なアリステルでも魔法開発にはさすがに縁がない。もちろん私も自分で開発したことはもとより、他者が開発する様も見たことがない。新魔法の開発とは、どんな道具を使ってどのような手法で行われるものなのか、期待に胸を躍らせてエルリックの行動に目を凝らす。
するとポーラは唐突にこちらにしかめっ面を向けた。
「ここからは極秘作業です。庫から全員出てください。魔法が完成するまで決して中に入ってはいけません」
私たちは邪魔者として実験庫から追い出されてしまった。魔法開発の場から閉め出された、という事実に気付いた途端、足元に水が流れるだけのだだっ広い、何もない空間に寒々しさを覚える。
「えっ……俺たちずっとこのまま? こんな場所で何をして過ごせって言うのさ……」
「毒壺の下層で放置された時のことを思い出すんですけどー」
「ああ、それも最下層に挑戦した時の話な」
魔法開発が数時間や数日で終わるとは到底思えない。経験則からしても、エルリックはかなりゆったりとした日程を考えていそうなものである。それは即ち、これから私たちが放置される時間が相当に長いということを意味している。
最下層か……。エルリックが最下層に挑戦し始めた時点で毒壺に入ってから四か月以上が経っていた。最下層への侵入口を無理矢理作り、それから半年近く通い詰めた。今更ながらに、よくもまあ飽きずに毎日毎日挑戦したものだ。
ゲダリング奪還作戦という切迫した事態が控えている状況で、毒壺の時ほど悠長に物事を考えてはいないと思うのだが、エルリックの考えは私たちの想像の及ばない奇天烈な場所にあることがしばしばで、私たちは全く安心して任せられない。
毒壺では最終的に一年弱の時間が流れた。この研究室でも魔法が完成して外の世界に舞い戻った頃には一年近く経っていて、ゲダリング戦で取り返しのつかない被害が生じた後だった、などという話は無用だ。
「あ、魚だー」
「え、どこどこ?」
ジバクマの行く末を憂う私の気も知らず、サマンダとラシードは魚に気を取られ始めた。流れている水は床表面に一枚膜を貼った程度の厚みしかない。どれほど深い場所でも足首まで届かない。こんなどこもかしこも浅瀬でしかない水場にでも魚は住み着くらしい。
そういえば何も考えていなかったが、毒壺のように長籠りするのであれば水食料を考えなければならない。
水の確保は問題なさそうだ。足元の水は浅いとはいえ、広いがゆえに総量は計り知れない。空気は多分に湿り気を帯びている。蒸留なり結露なりで飲料水はいくらでも調達できる。
食べ物は当面、魚漬けの生活になるのではないだろうか。魚介類は無毒であっても、とんでもなく臭くて食用に適さない種がままある。美味しいもの、とまで贅沢は言わないが、嘔吐するほど不味くないかどうかは重要な問題である。
「フナムシっぽいのもいるー」
「どれどれ……うっうぅぅ」
研究室の生体を観察していただけのラシードが唐突に苦悶を始めた。
何だろう、ひどく胸騒ぎがする。
「大尉……どうしたんですか?」
「ラムサスは見ないほうがいいと思うよ……」
顔色の優れぬラシードは忠告を残し、足早に私の横を通り過ぎて行った。
どうして見るべきではないのか。一体ラシードは何を目撃したのか。
注意されたことで私の興味は俄然膨れ上がる。ラシードの横にいたサマンダはシレっとしているから、危険性はそこまでないはずだ。この研究室はこれから長く過ごす場所。危険性や安全性については自らの目できちんと確認しておかなければならない。
普段と同じ様子でのほほんと立つサマンダの横に行った私が目にしたのは、力尽きた魚に群がる大量の節足動物という、ゴキブリの大軍に類うこの世の不快の特異点だった。
研究室は毒壺最下層と同じく絶叫区画に変わり果てた。不倶戴天の敵がいると知った私はラシードと力を合わせて互いの背中を守り、不快な敵が私たちに近付かないように神経を尖らせ続けた。
エルリックは数時間で実験庫から出てきた。私たちとの会話に応じるポーラは生返事ばかりで、心ここに在らず、といった様子である。エルリックが庫外へ出てきたのは食事を用意するためだった。
「食事……皆さんに食事を用意しないと……」とボソボソ呟くポーラは、風邪で寝込んだ母親が、熱で朦朧としながらも子供に食事を用意しようとする姿を彷彿とさせる。残念、実際はそんな心温まる話ではない。この変わり者のアンデッドは魔法開発に没頭しながらも、いつもの習慣で私たちに押し食いさせようと身体が無意識に動いているのだ。
しかし、研究室内の浅瀬を探索しても見つかるのは小魚や禁断の節足動物ばかりで十分な食料が集まらない。すると今度は、研究室の外で食料を調達しようとするものの、そこに待ち構えるのは外界との交通を遮断する巨岩だ。岩に進路を阻まれたエルリックはそこでようやく我に返り、現実的な思考を取り戻しては苛立ちをみせるのであった。
苛々アンデッドはその日、押し食い用の食事を用意することを諦めたため、私たちは糧食を齧ることになった。まさか、エルリックはあの不快な節足動物を私たちに食べさせようとはしまいか、と怖れていた私にとって、糧食はなんとも味わい深いものだった。
翌日は全員で研究室の外に出て、丸一日を食料集めに費やした。研究室という鴻大な空間の上に広がる湿地を高速巡回して集めた食料は状態良好なうちに保存食へ加工する予定だ。エルリックは本格的に研究室に籠もるつもりである。御籠もりアンデッドだ。
実験に勤しむため、エルリックは保存食作りを私たちに一任して実験庫に姿を消す。大量の食料と共に庫外に取り残されたアリステル班はこれから保存食の大量生産に取り組まなければならない。私たちだけでなく、エルリックの一部のメンバーも食料を必要としているのだから、これもひとつの分業体制である。
軍の糧食班にしたって、給食作りに『保存食を使う』機会は多くとも、自前で『保存食を作る』機会などそう多くはないのではなかろうか。研究室に運び入れた加工前の大量の食料を見るにつけ、自分がやっていることに疑問を抱いてしまう。エルリックと行動を共にすればするほど自分が軍人らしい軍人から遠ざかるように思う。
保存食作りの副産物として、習得以降全く練習していなかった私の火魔法は無駄に上達することとなった。
◇◇
魔法開発に本格的に取り組んで十日ほどすると、ひとつ目の魔法の原型ができ上がった、とエルリックが告げてきた。進捗順調という好ましい報告のはずなのに、ポーラはなぜか浮かない顔をしている。理由を尋ねても黙して語ろうとしない。
更に十日すると、二つ目の魔法の原型ができ上がった、と言っては研究室からの撤収準備を始める。これもまた朗報のはずなのに、ポーラの面持ちはこれまでにまして沈痛なものとなっている。沈み込んでいるのは表情だけではない。一挙手一投足の全てが、今にも胸が押し潰されそう、という感情を雄弁に物語っている。
エルリックは王の間で『失敗すると死ぬ』と言っていたから、新種のアンデッドであっても命を落とすのは怖いのかもしれない。
用済みとなった実験庫にエルリックが封をする前に、私は庫内の様子を窺う。二十日間目一杯稼働していたというのに、中はとても綺麗に片付けられている。備品ひとつひとつが全て寸分違わず元の場所に戻してありそうなくらい美しく整っている。上級のアンデッドは種族の特性として整理整頓好きなのかもしれない。
改めて実験庫を扉で密閉し、私たちはダニエルの研究室を後にする。
開閉と出入りに多大な労力を要する入り口扉代わりの巨岩、中に入ればゴキブリ類似の不快生物がウヨウヨ。食べ物に乏しく、書庫や実験庫から手繰り寄せることのできる技術はどれもこれも危険ときている。この研究室は何人も訪問すべからざる場所である。少なくとも私はもう二度と足を運びたくない。
研究室を後にした私たちはスレプティ川を渡り、今度は名もない森の中に籠もる。そこで説明も何もなく始まったのは、ゴブリンの身体と生命を用いた生体実験だった。それは私にとって異常極まる事態だった。
エルリックは森という名のフィールドを駆けてゴブリンを探し、集団を発見しては一斉に捕らえる。捕獲の手段は捕縛ではなくドミネートだ。捕らえられ、自らの足でエルリックの前に立つゴブリンたちは、身体の自由を奪われていながらもブルブルと震えている。これはおそらくゴブリン自身が感じている恐怖に基づく反応だ。
恐怖に戦くゴブリンにエルリックは、「過剰な感情は実験結果を無用に変動させる」と言って、機械的に鎮静魔法をかける。恐怖の感情をかき消されたゴブリンは、ぼんやりとした顔でエルリックがフィールドに設けた“処置室”に入っていく。
エルリックは処置室の中でゴブリンに何らかの“処置”を施すのだが、研究室において実験庫が立ち入り禁止になったのと同様、ここでも私たちは処置室への出入りを禁じられたため、“処置”の詳細は不明だ。
エルリックの“処置”を受けたゴブリンは、時に生きたまま、時に死体となって私たちの前に戻ってくる。
私たちアリステル班が行うのは“処置”後のゴブリンの解剖だ。死んだゴブリンはそのまま解剖し、生きたゴブリンは殺してから解剖する。
私たちが解剖を完了させると、独特の生臭さが香り立つ、まだ生温かい内臓をポーラや背高はシゲシゲと眺めて処置室に持ち帰る。内臓は処置室で更に細かな肉片に解体され、肉片は最終的に地中に埋められる。
こんなことを来る日も来る日も行い、何体、何十体というゴブリンを解剖した。
エルリックはいつまで経ってもゴブリン解剖の詳しい説明をしてくれない。これが魔法開発に必要な実験のひとつであることは私たちにも分かる。軍医であるアリステルたち三人は、『具体的に何を目的とした実験と解剖なのか?』と疑問を抱くことはあっても、解剖という行為そのものには嫌悪しない。軍医たちにとって解剖とは学びの機会であり、医学発展の礎となる大切なものだ。それも、普段ならばゴブリンではなくヒトの遺体を相手に行っている。
しかし、私にとっては全く違う。このゴブリンたちが生きていた場所は、人間社会を脅かすことのない奥深いフィールドだ。このゴブリンたちは決して殺害必須の駆除対象ではない。魔物とはいえ無害な存在を問答無用で捕らえ、身体の自由を奪い、感情を消し去り、身体を改造し、バラバラにして、最後は食べることもなく捨てる。もしこれが魔法開発とは何の関係もないならば、これは血なまぐさい殺生であり、猟奇的行為であり、犯すべからざる禁忌だ。
解剖に耐性を持たない私だけが誰にも理解されることなく精神力を削られていく。
だが、ポーラ越しに見せるエルリックの苦しみ様は明らかに私以上だった。エルリックは解剖という行為ではなく解剖で得られた結果に苦悩し、恐怖している。エルリックは間違いなく何かの壁にぶつかっていた。
◇◇
研究室脱出後、連日繰り返される奇行について、幾度となく話し合ったことを今日もアリステル班四名で話し合う。
「エルリックは何の魔法を開発しているんだろう?」
「ゴブリンの身体で実験している、ってことは、エルリックはゴブリンのアンデッドなんですかねぇ?」
「違うと思いますよー、大尉。その理屈だと、エルリックが人間の死体から転化したアンデッドだった場合、私たちの前で生きた人間を解剖することになっちゃいますよー。感覚のずれてるエルリックでも、さすがにそんなことはしないと思いまーす」
「俺たちは生きたまま人体実験に使われているけどな」
ラシードが指しているのは魔力硬化症の治療薬のことだ。病に冒されたアリステルだけでなく、私たちも治療薬をかなりの期間、知らぬ間に服用させられていた。最近では丸薬がアリステルに渡されているから、現在の私たちの食事に薬の成分は入っていないものと思われる。ただし、エルリックにそれと確認を取ったことはない。
「それはそれとしてー、結界陣使用の反動で死なないようにする魔法っていうから防御魔法だと思ったんだけどなー」
私も最初、エルリックが開発するのは何らかの防御魔法なのだろうと思っていた。
結界陣がどのような機序で使用者の命を奪うのかは、この場の誰も知らない。これはオルシネーヴァの手引にも書かれていなかった。実際に魔道具が効果を発揮する現場を見ていない身ながら、呪いに近いものなのではないか、と私は推測している。
私であれば呪破の魔法や、防御魔法、そんなところの開発に勤しんでいただろう。けれど、このゴブリン惨殺劇からするに、エルリックは全く違う試みを行っているようだ。
「防御魔法を作っているのであれば、魔法の開発に成功したらゴブリンは実験の過程で死ななくなると思います。しかし、エルリックの反応から察するに、恐らく防御魔法を作っているのではないものと思われます」
私が意見を述べると、ラシードが疑問の表情を浮かべる。
「ごめん、それだけだと意味が分からない。もう少し噛み砕いて言ってくれ、ラムサス」
「ポーラの様子を思い出してください。ゴブリンの死体を見ても、ポーラは落胆する素振りを見せません。ポーラが気落ちする姿を見せるのは、腑分けした内臓を観察した後です」
「あっ、そうかー」
「なるほどな。開発している魔法が死を防ぐためのものなら、ゴブリンが死に至った時点で、魔法は失敗した、と分かる」
エルリックは魔法を開発しているのだから、ダニエルの研究室で作り上げた魔法原型に改良を加えたものを“処置”の過程でゴブリンの身体にかけているはずだ。魔法をかけられたゴブリンは、魔法が成功していようが失敗していようがエルリックか私たちに殺されて死ぬ。
問題となるのはここからで、魔法が上手くいっていればゴブリンの死体に何かが起こる。その起こるべき何かが起こらないからエルリックは苦悩している。
私はそのように考え、自説を班員に説明した。
「死から逃れる魔法ではなく、死した後に蘇る魔法……それを開発しているのではないでしょうか。だからゴブリンの解剖結果を見て落胆している。私はそう思います」
「確かにエルリックは生け捕りに失敗して死なせてしまったゴブリンの死体も回収している。死者蘇生の魔法であれば、その行動にも説明が可能だ」
「死者蘇生かー。でも、死者蘇生は聖女様でも無理って言いますよねー。エルリックの回復魔法は確かに凄いけど、魔力量に頼っているところが大きくて、技術自体はお伽噺レベルじゃないから、死者蘇生はどうだろう、って思うなー」
アリステルに匹敵する一流の回復魔法使い、というだけで十分凄い話ではあるのだが、死者蘇生となると一流程度の技量では全く不足している。
死者蘇生は超一流でもまだ届かない遥かな高みにある奇跡の御業。この超技術は子供じみた空想でもお伽噺でもない。奇跡の行使者が光臨し世界に衝撃をもたらした記録が、年代まで正確に残っている。ただし、二人の精霊殺しよりも更に昔の話であり、吸血種のような長命種ですら奇跡の目撃者は生存していない。
「他にも気になる点がある。生け捕りにしたゴブリンと死体として回収したゴブリンの数の合計が、解剖したゴブリンの数と合わない。解剖に回るゴブリンの数は生体と死体の合計どころか生体ゴブリンの数よりも少ない」
「開発しているのが防御魔法や呪破の魔法であれば、解剖に回らないゴブリン……つまり、死ななかったゴブリンの数は、魔法に成功して生き残った数、と考えることもできますが――」
「その生き残ったゴブリンをどこかに逃がしている様子もないんだよなぁ……」
エルリックが開発中の魔法の詳細、ゴブリンを解剖する理由、減少するゴブリンの肉体……。日が経つにつれ、謎は解けるどころか数を増していく。私たちを嘲笑う謎の数々に、私たちは唸り声をあげて頭を悩ませる。
考えても分からないのであれば直接本人に聞けばいい、とエルリックに尋ねてみたことがある。すると、ポーラはこのように返事をした。
『我々も知りたいことがあるんですよ。それは研究室の蔵書の内容です。ゼロナグラ公の研究成果を解読して説明してもらえたなら、我々も口が軽くなるでしょうねえ……』
突き付けられた交換条件に、私はすごすごと引き下がるしかなかった。これでは全く等価交換ではない。不平等にも程がある。こんな条件を出されて私が首を縦に振るはずはない。
エルリックはこの条件を等価だと思っている? これで私がエルリックに求めているものが『死者蘇生魔法の詳細な技法』であれば等価と言えるかもしれない。しかし、私が尋ねたのは魔法の技法詳細ではなく魔法の効果だ。二つは重要度が違いすぎて天秤にかけられるものではない。その魔法の効果というのは、そこまで私たちに知られたくないものなのだろうか……。
◇◇
研究室を出て十日ほど経つと、ゴブリンの解剖結果を確認するポーラの表情に変化の兆しが見えた。変わったのは表情だけではい。解剖の内容もまた日々変化が生じている。
最初の頃、私たちはゴブリンの身体を頭の天辺からつま先まで、全身丁寧に腑分けしていた。それがエルリックの指示により段々と四肢の解剖は行わなくなり、内臓も徐々に手を付けなくなっていった。
横隔膜よりも下側の臓器では最後まで観察を続けたのが“膵臓”だった。腹部の内臓は腹膜というペラペラながらそれなりに丈夫な膜に包まれている。膵臓はその腹膜よりも後ろ側に隠れており、腹側から解剖を進めると目視可能になるまでかなりの労力を要する。一言で言うと、膵臓とは身体の奥深い場所に隠された臓器なのだ。
成体ゴブリンは雌雄ともヒトの成人女性よりも小柄であり、大きさ以外の骨格的特徴は男性とも女性とも言い難い独特な作りをしている。顔の造作に関しては、顎部分が人間よりも前方に突き出し、鼻はやや平坦、目は横に長く切れ上がっていて眼球は黒目がち。虹彩の形状はヒトやネコとも異なる奇妙な方形をしている。ヒトの眉毛に相当する構造が存在しない代わりに、顔全体にヒトの顔に生えた産毛以上の太く刺々しい毛が密に生え揃っている。つまりはおよそ人間離れしている。
ヒトとは全く別種の生き物。それが軍人としての私の認識だ。けれどもアリステルたち軍医にとっては違う。人体のみならず、軍馬や軍用犬の肉体を熟知した軍医にとって、ゴブリンとはヒトに酷似した生物のようなのだ。
一対二本の後肢で地に直立し、目は頭部正面という両眼立体視に適当な箇所に配置されている。手は一般的なマカク類と違って拇指対立構造を持ち、肩関節の可動域は異常なまでに広い。脊椎の数は頸から腰までで二四、肋骨の数は左右一二対。犬歯と臼歯の両方を持ち雑食であるにもかかわらず胃の数はひとつであり、それでいて盲腸は短く小さい。
他の生物の身体構造を知れば知るほどヒトの身体とは歪で風変わりなものらしい。その歪な構造をゴブリンもまた持っており、生物として両者は極めて近縁の種ということになる。
人体を知り尽くした軍医のアリステルたちにとってゴブリンの身体とは勝手知ったる我が家の庭のようなものだ。アリステルたちはゴブリンの解剖を始めると、身体の奥底にある膵臓まで割とスイスイ辿り着ける。ところが私は膵臓を覆い隠す生臭い胃や腸に邪魔されてなかなか膵臓まで到達できない。いや、到達できないどころか、自分が腹のどのあたりを弄っているのかすぐに分からなくなり迷子になってしまうため、はっきりいって自分ひとりではゴブリンの解剖を満足にできない。解剖時の私の役目は、軍医三人の中で比較的手先の利かないラシードの解剖を手伝うことくらいである。下手くそのラシードでも私よりはずっと解剖が上手というのは、兵科が違うとはいえ悔しいものだ。くそう……。
ラシードは私とペアでゴブリンを解剖、その間アリステルとサマンダは、各々ひとりで一体のゴブリンを解剖している。
横隔膜よりも上側で観察対象として残ったのは食道だ。食道も胸骨、肋骨、それに肺、気管、心臓を避けた裏にあり、毎度毎度屍血まみれになりながら回収しなければならない。
私たちが苦心して外した食道と授動の末にやっと取り出した膵臓をポーラは感謝もそこそこにとっとと持っていき、短時間だけ観察するとすぐに興味を失う。ポーラの観察が終わったらゴブリンの身体は用済みだ。取り外した食道や膵臓を含め、全身を地中に埋める。解剖以上の肉体労働である埋葬作業は概ねエルリックが行った。ラシードだけは、身体鍛錬にいい、と言って、しばしば埋葬作業に加わっている。筋肉はぶれない。
そのうちに膵臓も観察しなくなり、私たちは解剖作業から解放されてやるべきことが何もなくなってしまった。ただし、私たちがやらない、というだけであり、その後もポーラは必要箇所に限定して解剖を続けているようだった。
現在も観察を継続している部分はおそらく脳と食道。なぜこの二つの観察を必要としているのかは不明である。解剖時に得られた情報から、班内でその理由を推理する。
アリステルたちは口を揃えて食道の異常さを語る。
「ゴブリンたちは全身綺麗なまま息絶えている。これは毒壺上層の魔物たちと同じだ。多分エルリックは瘴気を使ってゴブリンを屠殺したんだ。それなのに、奴らの食道だけは、酸か何らかの薬品で焼かれたかのように共通して荒れ爛れている。あの食道は絶対おかしいですよね、班長?」
ラシードの問い掛けにアリステルが頷いて同意する。
「うん。最初の頃に解剖したゴブリンの食道の粘膜面は単純に荒れているだけだったけど、最後のほうなんかは、癒着して内腔が完全に閉じてしまっていた。あれでは飲み込んだ食物が胃まで落ちていかない。あんな状態で生きていられるわけがないから、元からああいうゴブリンなのではなくて、エルリックが何かをやったのだろう」
「食道を閉塞させることと、結界陣との関連性が全っ然分からないー」
「食道に、押せば生き返るツボでもあるのかなあ。そんでもって、そのツボを押す魔法に失敗すると粘膜が焼け爛れてしまう、とか?」
「違うと思います。魔法の失敗の結果、食道が閉じてしまったのではなく、エルリックはゴブリンの食道を閉じたくて閉じている。これは間違いありません」
ゴブリンの食道を荒らして閉じることと、死のリスクを克服して結界陣を使うこと。この二つの関連性を、いくら考えても見出だせない。軍医であるアリステルたちに分からないことが私に分かるはずもない。
ただ、小妖精がもたらす情報により、食道が閉じられているのは実験失敗の産物ではなく、エルリックの意図にそぐうものであることだけは分かる。
では何のために食道を閉じているのか。これが全く分からない。ポーたんもそれ以上のメッセージを拾ってこない。これもアリステルのよく言う、『目に映るものが真実とは限らない』というやつなのだろうか……。




