七十 志七郎、山を登り穴に潜る事
腰に下げた竹の水筒を呷り喉を潤す。
白石さんの能力でカチカチに凍っていた中の水も、容赦ない夏の陽気で溶け辛うじて冷たいと言える程度になっていた。
峰までは周りにも木々が有り、木陰をそよぐ風に涼を感じることさえ出来たのだが、日が頂点を過ぎた辺りからはむき出しの山肌を歩いている状態である。
拭っても拭っても滝のような汗が流れ落ちていくが、それでも俺は歩みを止めず案内役を努めてくれている猫を追いかけた。
え? 案内役はおタマじゃないのかって?
根子ヶ岳と言う場所には雄山と雌山と呼ばれている二つの頂上があり、五合目以降はそれぞれ女人禁制、男子禁制となっているのだそうだ。
本来が猫又と成るための修行場である、色恋沙汰にかまけて修行を疎かにしない為だという。
俺を先導してくれているのは修行中の猫で、未だ猫又には成れていない『喋り猫』と言う階級の雄だ。
修行中の者は皆『名前を預ける』と言う風習あるそうで、名乗れる名前が無いと峰で紹介された時に言っていたのが印象的だった。
「猪河様、この先にも水を汲める泉はございますが、御方の歩みではいま暫く掛かります。此処で水を飲み切ると後が辛うございますよ」
振り返りながらそういう彼は唯の猫にしか見えないのだが、不思議とその表情は此方を心配していると言うよりは、自信なさ気な様に見える。
「流石にこう暑くては……。まぁ、今飲みきったのは一本目だからまだ後二本あるし大丈夫だ。それよりも君は水を飲まなくても大丈夫かい?」
「お気遣い有難うございます。ですが猫はあまり水を飲まぬ生き物ですから心配御無用にございます」
猫が水を嫌うと言うのはよく聞く話では有るが、それは飽く迄も濡れるのを嫌うと言う事だと思っていたが、どうやらそうでは無いらしい。
前世では猫を飼った事は無いので詳しくは知らないが、暑さ寒さに弱い動物だという印象が有る。
だが、少なくともこの世界の猫達は俺よりも暑さに強い生き物なのだろう、それとも既に半ば妖怪となっているが故の事なのだろうか?
「それよりも、もう少々急ぎませんと日の有る内に頂上へ着けませぬ。途中何箇所か寝泊まり出来る場所もございますが、それは飽く迄も猫の寝床。人間である貴方様が泊まるのは些か辛い物がございましょう」
今居るのは大体七合目辺りで、もう半分以上を登ってきているのだが、ここから先には人が通る為の道は無く、猫達にとっても難所と言っても良い場所が続くらしい。
そんな難所を突破する為に氣を温存し只管歩いて来たのだが、幼いこの身では短いコンパスを一生懸命動かしても高が知れていると言うことだろう。
一応、氣を回復する霊薬は持ってきているが、一郎翁が姿を眩ませて居る現状では氣脈痛を回復する手立ては無いので、正直使いたくは無い。
だが、のんべんだらりと歩んで居て野宿をするのはそれ以上に困った事態である。
「しょうがない、加速しますか……」
軽く屈伸をして、膝の状態を確かめると俺はそう言って足から氣を放った。
飛ぶ様にと言うか、当に跳んで山を駆け登る事数時間、途中跳び過ぎて崖から落ちそうになったりもした物の、なんとかかんとか五体無事で山頂へとやって来た。
正確には本当の山頂まではまだ少しあるのだそうだが、そこは剣先の様に尖った岩の先で何も無いらしい。
流石に結構な高さまで登ってきた所為か、日が傾きかけているためか、風はひんやりと冷たくなってきている。
で、俺の目の前には洞穴と言うか洞窟と言うべきか、岩棚にポッカリと大きな穴が口を開けていた。
この穴が猫又達に君臨する王の住む場所なのだそうだ。
猫の巣穴にしては大分大きいが、それでも大人ならば腰を屈めねば入ることは出来ないだろう、無論今の俺ならば普通に立って入る事も出来る。
「猫王様がお会い下さるそうです、どうぞ此方へ」
そう、案内役の猫に促され洞窟へと入ると、そこには無数の猫達が二本足で立ち出迎えてくれた。
尻尾が途中から二本に別れている者も居れば、一本のままだったり尻尾の先だけが少しだけ裂けている者も居る。
修行を終えた猫又も、修行中の猫又未満の者もが、俺を猫王の客人として遇してくれて居るらしい。
意外なことに、闇の中でも見通すことが出来る猫達が暮らす穴の中、と言う事で灯りなど無いと思っていたのだが、見える限り至る所に油皿が置かれ火が灯っていた。
「俺のためにわざわざ?」
「いえいえ、火は知恵ある者の象徴で御座います。故に猫王様の権威を示す為、猫王様の居城たる此処では火を欠かさぬのです」
成るほど、言われてみれば、俺のために焚いているならば俺が通る所だけで良いだろう。
だが、分かれ道を行く場合でもちょいと反対側を覗いてみれば、その奥の方までしっかりと灯りで照らされていた。
通り掛かった直ぐ横の油皿は煤で汚れ、使い込まれている様子も見て取れる。
俺に気を使ってと言う事では無いようだ。
ちなみに我が家ではこんなに沢山の灯りを焚く事は、何か特別な理由がない限り無い。
灯火用の油と言うのはそこそこの値段がするものらしく、おいそれとは使えないのだ。
安い油も当然ながら流通しているのだが、そういう物は煙も匂いも酷く、ケチったことがバレバレに成る為、少なくとも武士階級の者が使う事は無いそうだ。
その点、此処の灯りは煙も匂いも無く、かなり高価な油が惜しみなく使われている様に見える。
流石は火元国全ての猫達を統べる猫王である、と人間の俺から見てもそう思えるのだから大したものである。
洞窟の奥、随分と深い所まで潜ったと感じた頃、目の前に美しい装飾の施された襖絵が見えてきた。
金箔の月をすすきの原から見上げる猫、と言った構図の襖絵はこの世界に生まれて見た中でも特に美しく見える。
いや、前世に見たことの有る様々な芸術作品に勝るとも劣らぬ傑作だろう。
きっと電灯や日の光の下で見たならば、ここまで心奪われる事は無かっただろう。
幾重にも灯された火の灯りが、ゆらゆらと揺れる不確かな灯りが、金の月を妖しく彩り、それを見上げる猫の目も同様に揺れる感じが生きているかのような躍動感を感じさせる。
「素晴らしい絵でしょう。これは我が根子ヶ岳に伝わる宝の一つです、江戸城の天井画と同じ『吉野八郎兵衛』の作だそうです」
その名前に聞き覚えは無いが、江戸城の天井画と言われて、天守に有った『禿河家安図』を思い出す。
あの時は描かれている人物の姿格好に気を取られた為か、絵全体を思い浮かべる事は出来ないが、この絵と同じ作者だというならば、もう一度見に行く価値はあるかもしれない。
「さ、猫王様がお待ちです」
案内役の彼がそう言うと同時に絵が二つに割れた。
襖絵なのだから、襖が開けばそうなるのは当然なのだが、月と猫が引き離される様に動くその姿も又美しい……、開く動きまで計算されて描かれているのだろう、コレは本当に宝と呼ぶに相応しい物だ。
開いた襖の奥、そこは上様と謁見したあの広間によく似た作りの部屋で、見れば岩を削っただけの今までとは違い、畳まで敷かれている。
奥の一段高くなった場所に座っているのが猫王なのだろう、その後ろには太刀持ちを務めている猫まで居る。
畳に上る前に足を洗うべきかとも思ったのだが、それらしい桶もたらいも無く、踏み込む事に躊躇していると。
「ニャはは童子の癖に随分と行儀が良いニャ。それともおミヤの仕込みが良いのかニャ?」
とそんな笑い声が直ぐ横から聞こえてきた。
見ればそこには、俺よりも頭ひとつ位は大きな猫又が立っていた。




