三百十九 三狸、この世を去る事
「なにちんたら走ってんだよ……さっさと進めやな」
ハンドルを指で叩きながら苛立たしげにポン吉はそう吐き捨てた。
とは言えそんな言葉が口を吐くのも無理無いだろう、駐車場を出てからずっと先導の軽トラは最徐行で走り続けて居るのだ。
しかもちょくちょく信号や横断歩道が有る訳でも無い所で車を止め、暫し待ってからまた走り出すと言う事を繰り返している。
下手をしなくても、コレならばわざわざ車を使わず、歩いて行った方が速いだろう……そんな運転を先行車両がしていれば、気の短い方では無いポン吉でも苛立つのは仕様が無い。
「……どわっとっ!?」
再び走り出したかと思った次の瞬間、慌てた様子でブレーキを踏み込み車が大きく揺れた。
見れば軽トラックが通り過ぎた後ろ、俺達の車の鼻先を道路へと飛び出し横断しようとした猫が居たのだ。
「他の観光客が車で来ない理由が解ったな……」
猫を目当てに来ている客は兎も角、釣り客は荷物も多いだろうし車で来ても不思議では無い筈なのに、同じフェリーに乗り合わせた車は一台も居なかった事に疑問を感じて居たのだ。
その原因がやっと理解が出来た、多分先行の軽トラが今まで何度も止まったのも同じ理由で有る。
慣れない者がこの道を他所と同じ感覚で走れば、猫煎餅を量産する事に成るだろう。
だがソレならばそもそも車の乗り入れを禁止すれば良いと思うのだが、そうしてしまうと今度は島民の生活の足に影響が出かね無い。
法律や条例と言う物は――少なくともこの日本という国に於いては――基本的に万人に平等で無ければ成らない、この島に有る道路の大半は私道では無く公道で有る以上、島民は運転しても良いが、島外の者が運転しては成らない、と言う法を敷く事は出来ないのだ。
とは言え猫好き客は勿論、釣り客とて好き好んで轢死体を作る趣味が有る者はそうそう居ない筈で、居たとしたらそれは釣り客では無い別の何かである。
事前にこの島の事をちゃんと調べて居れば、きっと俺達も車を持ち込もうとは思わなかったに違いない。
地元のバスやタクシーは余程慣れているのか、それとも猫を近づけ無い様な特別な仕掛けがされているのか……兎角『猫の島』として集客している観光地である以上、そんな悲惨なモノを晒す訳には行かない。
特に何の細工が有る訳でもなさそうな軽トラが只管徐行で進んでいるのは、何時何処から猫が飛び出して来ても直ぐに止まれる様にと言う事だろう。
まぁ、俺達がそれに思い至らずアクセルを踏み込むのを止めると言う意味が有るのも、間違いなさそうだが……。
「……ゆっくり行くしかねぇやな。猫の神様に会おうってのに、猫を轢いちまったんじゃぁ、洒落に成らねぇや」
安堵と呆れ、双方の意味合いが篭められた溜息を吐き、ポン吉は改めて慎重にブレーキを緩めるのだった。
それは島のほぼ中央部に『聳える』……と言う程には高く無い、それでも観光客からは『猫富士』と呼ばれている山の、山頂に穿たれた火口の中に有った。
舗装された道路を外れ、砂利を敷いただけの山道を暫く上り、山頂付近に有る車数台が何とか止められる程度の小さな広場で降り、そこから徒歩で数分登れば、目の前に広がる不思議な景色。
山肌の大半は草も碌に生えて居ない砂利と岩だったのに対し、火口の中は丸で別世界で有るかの様に無数の木々が生い茂っていた。
丸で外側の山肌が何者も生きられぬ地獄だとすれば、内側は生命に満ち溢れた極楽浄土と言った風情で有る。
「此処から先は禁足地、現の世に生きる者が濫りに踏み込めば二度と戻れぬ幽世と言われております」
火口の縁、丁度そこから緑の草が地面を覆い始めるその一歩手前で止り、老婆そんな事を口にした。
「此処より先に進む事が出来るのは神使足るお猫様か、若しくは御神体に招かれたお客様だけに御座います。故に私は此処から先ご案内出来ません。が、貴方がたは正しく招かれたお客様ですので、安心してお進み下さいまし。その先で小松様も待って居られます」
先に進む様促す言葉を投げかけ、丁寧に頭を下げ見送る様子を見せる彼女。
「……芝右衛門は此処で、って一寸! おい!」
それに対して超常現象に慣れた俺やポン吉は兎も角、只人に過ぎない芝右衛門は此処から先に行くべきでは無いだろう、そう思い制止の言葉を口にしようとしたのだが……誰よりも早く踏み込んだのは彼だった。
「ちょ! ばっか野郎! 何が有るかも解らねぇ場所に、碌な能力も持たない奴が頭を切るんじゃねぇよ!」
同じ事を考えて居たらしいポン吉が慌てた様子で声を上げ、俺とほぼ同時に追いかけ緑の大地へと歩を進める。
彼女の言葉通り、其処は間違い無く人の世とは隔絶された別世界であった。
たった一歩踏み込んだだけだというのに空気が違う。
山頂近くまで来ても消える事無く浜風に乗って漂っていた潮の香りが完全に消え、清浄な水と草木の匂いだけが辺りを包み込んでいる。
遠くから聞こえていた潮騒もまた届かず、絶え間なく響く葉擦れとそれに混ざって時折響く水滴が水面に落ち波紋を広げる音。
「どうやらあの人の言葉の通り、簡単には戻れない様だね……」
その突然の変化に驚いたのか、足を止めていた芝右衛門に俺達は労する事無く追いつけたが、彼だけを一人で帰すのは無理の様だ。
何せほんの一歩踏み込んだだけの筈なのに、振り返った後ろは先程までの麓を見下ろす山の上では無く……数多の木々に遮られ遠くを見通す事も出来ぬ様な鬱蒼とした森が広がっていたのだから。
「ったく……こんな状況に成るなら、あの箱背負ってくりゃ良かったな……真っ当な得物を持ってんのは俺だけかよ」
手にした錫杖――それが仕込み刀だと言う事を俺は知っているが――を確かめる様に軽く扱く。
「……別に争う為に来た訳じゃないんだ、それに小松は俺が婆ちゃんから預かった大切な猫だからね。ちゃんと俺が迎えに行かないと」
尋常では無い辺りの雰囲気と、ポン吉の醸し出す剣呑な気配に、気圧された様に一瞬黙るがそれでも譲れぬ物が有ると、腹を括った瞳でそう言い返されれば、俺もポン吉も否と応じる事は出来なかった。
「とは言え、油断は無しだ。ポン吉が先頭、俺が最後尾で後方を警戒する。ダチに護られるのは気分が悪いだろうが……まぁ其処は諦めてくれ」
芝右衛門だって剣道四段を持ち、指南者と成り得るレベルの腕前は有る。
先日手合わせをした時だって多少の衰えは感じたものの、決して『弱い』者と言い切れる程度の実力では無い。
ただしそれは飽く迄も常人としての物差しの範疇の話だ。
得物さえ有れば小鬼や兎鬼程度の相手ならば危なげ無く鬼斬りを成し遂げるだろうが、氣の扱いが前提と成る様な強力な鬼や妖怪を相手にするには少々荷が重い。
面と向かって言う事は無いが、親友と呼んで差し支えない俺達二人に比べ、一人だけ置いて行かれている様なこの状況は、男として面白い筈も無いが、そんな見栄で命を危険に晒すのは……馬鹿の所業だろう。
「分かってるさ。俺は荒事を生業にしてる様な破落戸の類じゃ無く、ただの喫茶店のマスターだからね。危ない真似は専門家に任せるさ……ただまぁ、大切な従業員を迎えに行くのは雇用者の義務……だろう?」
今更に成ってやっと世の常とは違う世界に踏み込んでしまった不安を感じているのか、足が震えて居るのを隠しきれては居ないが、それでも歯を食いしばり男としての挟持を持って応じるその声が森に響き渡る。
すると……
「その意気や良し。軟弱な今の世の男児に有りながら、中々の益荒男振りよ……。来るが良い、適当に追い返そうと思って居たが……話を聞いてやるだけの価値が有りそうで御座るな……」
森の奥から響き渡る、強い力と意思を感じる声が俺達を誘う。
その声は何処か今生での俺の兄――義二郎を思い出させるものだった。




