二百九十 志七郎、武で通じ出会う事
「どぉぉぉおお!」
想定した通りに六手を受けさせ、七手目で相手の竹刀を跳ね上げて、がら空きに成った胴を強かに打ち付ける。
「胴有り! 一本!」
審判を務めて居たポン吉がそう声と手を上げるまで残心を怠らず、蹲踞の姿勢で竹刀を腰へと戻す。
この世界に生きていた頃には何度も繰り返して来た、剣道特有の儀礼では有るが、志七郎に生まれ変わってから初めての事だと言うのに、滞る事無くスムーズに動けたのは、それこそその動作が魂にすら染み付いて居るからなのだろう。
「あ、あはは……君、強いねぇ……。真逆、小学生にも成らない様な子供にこんなあっさり一本取られるなんて……」
多少なりとも腕に覚えが有ったのだろう、面を取りながら引き攣った笑みを浮かべてそう言う彼。
だがその自信は決して驕りの類ではない、隙の無い構えといい、此方の攻め手に対する反応といい、一定以上の実力が無ければ俺の打込みを七合撃も受ける事すら出来ないのは間違いない。
俺やポン吉程では無いにせよ、彼も剣道の範疇では間違いなく実力者と言うに相応しい腕前の持ち主だった。
ただ彼は俺が知る頃から、更に身を入れた修練を積んでいたと言う訳では無い様で、太刀筋の癖や反応等など全くと言って良い程変わっておらず、むしろ運動不足らしいその体で七合撃は保った方と言えるだろう。
「困ったら取り敢えず間合いを取ろうとする癖は、全く治って無いみたいだな。それに身体のキレも随分と落ちてるし、多分腹回りにも幾分か肉が付いてきてるだろ。芝右衛門も、もう少し運動した方が良いんじゃないか?」
その言葉はものの見事に図星を指していたらしく、ポン吉と並ぶもう一人の親友、猯谷芝右衛門は一瞬言葉に詰まり、
「正直、この子が剣十郎だなんて与太話、信じる方がどうかしてる、と思ったけど……。この厭らしい太刀筋といい、厭味ったらしい口ぶりといい……彼奴が化けて出たとしか思えないよ……」
溜息と共に肩を竦めてそう言い放つ。
「化けて出た……って、ちゃんと両足は揃ってるみたいだぜ。代わりに随分とまぁ可愛らしく……はねぇな……ちみっちゃく成っちまったみたいだがな」
幼い頃から切磋琢磨し合った同門の剣士で有る二人には、竹刀を交える事こそが何よりの証明と成る。
そう考えた俺はポン吉に立合いを求めたのだが、それに対して彼は自分では先入観が有り判断が鈍るだろう、と寺から然程離れていない幼い頃から通い慣れた道場へと芝右衛門を呼び出したのだ。
詳しい説明も無く呼ばれたと言うのにホイホイとやって来たのは、彼の営む猫喫茶が定休日だと言う事だけで無く、俺が逝った後も二人の間に深い交友が続いていたと言う事を端的に表わしているのだと思えた。
そして自分が立合った訳でも無いのに、こうして俺が俺で有る事を認める様な言葉を口にするあたり、ポン吉の方も芝右衛門の判断に強い信頼を寄せているのだろう。
三人揃って親友だった筈が、二人の間にだけ流れる友情の様な物に、少々の苛立ちの様な物を覚えるが、詮無い事と飲み込む事が出来ぬ程に子供では無い。
「仏教的に考えりゃ、生まれ変わって当たり前なんだよな……生まれる場所が何処かってのは別として……」
一頻り笑った後急に真顔に成ったポン吉はそんな事を言い放つと、僧侶らしく瞑目合掌し南無阿弥陀仏……と呟いた。
宗教には明るく無い俺では有るが、生まれ変わり――所謂『輪廻転生』が仏教等、インド系の宗教観根付く物で有る事は流石に知ってる。
ポン吉の言に拠れば、罪を犯し地獄へと落ちた者ですら、その刑期を終えれば再び別の世界へと生まれ変わるのだと言う。
ただしその刑期は最も軽い等活地獄ですら約一兆六六五三億年……と呆れる程に長い。
とは言え地獄へと落ちるのは反省すらせず悪逆非道の限りを尽くした者で有り、それ以外の大半は無数に有る何処かの世界に何らかの形で生まれ変わるのが、六道輪廻と言う思想らしい……詳しくは知らないが。
兎角、その考えに則れば、俺があの世界に生まれ変わったと言う事自体は、別段驚く様な事では無く、世界を超えて姿を現した事こそを驚くべきなのだそうだ。
「信じて貰えたのは有り難いが……良いのか? 芝右衛門に話しても……」
今更と言えば今更の事かも知れないが、化け物退治を生活の一部としているらしいポン吉に対して、それなりに剣道の腕が立つとは言え芝右衛門は一般人だ。
警察官として社会の裏に通じていた俺ですらも知らなかった闇の世界、そんな物に軽々しく触れて良い筈が無い。
そんな彼を心配する言葉に対して、二人は一度顔を見合わせ……それから腹を抱えて笑い声を上げるのだった。
これから稽古をすると言う大学生グループ――俺達からすれば同じ道場の後輩と言う事に成る者達――が居たので、道場の掃除もせず、会わせたい奴等が居ると言う言葉で次に連れてこられたのは芝右衛門の自宅で有る。
「おやまぁ……、良い歳をしたおっさん二人が昼にもなる前にご帰宅かと思えば……お稚児さんたぁ良い趣味とは言えないねぇ」
庭に面した縁側の有る一室へとやって来た俺達をそんな言葉で迎えたのは、見覚えが有る……気がする猫の一匹だった。
今日は彼の城とも言える猫喫茶は定休日で清掃業者が入って居り、彼らに会う事が出来る場所は此処しか無かったのだそうだ。
「真逆、こんな身近に猫又が居るとは……ね。この分なら苦労無くあの世界へと帰れそうだ」
芝右衛門の営む猫喫茶の所謂『猫店員』の内の一匹なのだろう、それと日常生活を共にしているのであればそれこそ隠す必要は無いのだろう、と得心しそして早くも帰る手立てが見つかったと喜びの言葉が口を突いて出る。
「ああ?! 残念ながら、私等は猫又なんて上等な者じゃぁ無くてね、修行が足りない『猫魔』さね」
自らの尾を見せつけるかの様に振り回しながら、突き放す様な口ぶりでそんな言葉が返って来た。
言葉の通り彼らの尾は一本きりで、二股に裂けている様子は無い。
「猫又を探してはるん? 少なくとも此処等にゃぁ居らしまへんで。つか七十年位前に猫の御山は全部閉まってまったらしいから、それ以降に生まれた猫で猫又に成った者は居らんさかいなぁ……探すんは骨が折れるんちゃいまっか?」
最初に口を開いた明るい茶色の猫だけで無く、三毛もまた猫魔とやらの様だ。
その言に拠れば、この世界にはもう猫又が修行できる場所は無いらしく、新たな猫又が増える事は無く、古くからの猫又達は山奥深い場所に引き篭もったり、人の姿に化けて人に混じって生活していたりする為、その所在を知る者は居ないのだそうだ。
「それでも俺は帰りたい……帰らなきゃ成らないんだ。この世界は俺が生きる場所じゃない……」
きっと……いや絶対、猪河家の……猪山藩の家臣達も、数少ない向こうの友人達だって、俺が帰る事を望んでいる筈だ。
此方では俺は既に俺で無く身元不明の子供に過ぎない、万が一帰れないと言う事体に成れば、二人が保護者と成る事を申し出てくれるだろう、と言う程度には二人を信頼しているが、恐らく未だ独身の彼らをコブ付きにする訳には行かない。
「そうは言ってもねぇ……私達みたいな一山幾らの猫魔じゃぁ、界渡りなんて無茶苦茶な事出来やしないわ……」
猫の裏道を通るだけならば、猫又で有る必要は無く只猫ですら踏み入る事は出来る、だがそうして行けるのはせいぜい自分達の生活圏だけで、ソレを外れれば猫魔ですら迷い、元の場所へと戻る事すら覚束ないのだと言う。
目的地を定めず適当に界渡りをするだけならば、絶対に無理とは言わないが、そんな無茶に付き合う猫は居ないそうだ。
そんな彼等の否定的な言葉に打ちのめされかけたその時だった。
「ちょいとお待ち、お前さん……随分と懐かしい臭いをさせてるじゃないか……」
ただ黙って鼻をひく付かせて居た白黒の猫が、そんな事を言ってニヤリと笑い、
「お前さん、宮古御前の縁者だね……微かにだがあの方の臭いがするよ……。あの方への恩返しに成るなら、この古びた魂すり減らしてでもお前さんの力に成らなきゃねぇ」
そう言うと、二本足で立ち上がり、任せておけと言わんばかりに自らの胸を叩くのだった。




