二百四十九 志七郎、北へ。その九
人が纏う物とは思えぬ圧倒的な氣を撒き散らしながら、姿を現したのは誰あろう我ら猪河兄弟の祖父で有り猪山藩先代藩主で有った猪河為五郎その人だった。
この千田院と江戸との間には早馬を数頭潰す前提で飛ばしても四刻は掛かるだけの距離が有る。
幾ら兄上の鳩達が並よりも数段速いとは言っても手紙を託して届くまでに一刻を切ると言う事は無い。
尋常な手段で有れば援軍が駆けつけるまでにはどう頑張っても五刻は掛かる計算に成る。
とは言えそれは、何の準備も無くただ駆けつけるだけの時間で有り、そんな強行軍でやって来れば疲労困憊で寧ろ足手纏を増やすだけにしか成らないし、幾ら命には代えられないにせよ費用の面でも負担が掛りすぎだ。
しかし俺達にはそれらを多少なりとも軽減する方策が有った。
鳩便で手紙を届ける時間を圧縮する事が出来ればその分だけでも余裕が生まれる、故に文を持たせた四煌戌を江戸の屋敷へと送還したのだ。
ちなみに実体を持た無い精霊とは違い、霊獣の召喚や送還は術者にも霊獣にとっても負担が大きく今の俺達では一日に一度が限度で有る為、彼らは江戸で休んでいる筈である。
なお屋敷へと送った手紙には、上位妖怪が居る可能性と援軍を乞う旨を認めたのだが、真逆お祖父様が単独でやって来るとは夢にも思っていなかったと言うのが本音だった。
「ワシが来たからには、例え如何なる大鬼大妖で有ろうとも、恐るるに足らず! 天下に聞こえし悪五郎の実力をぉ! いざ、見せつけて!」
そこに居るだけでもその存在に気を払わずに居られない、そんな暴力的なまでの氣を孕んだお祖父様の声が戦場全域に響き渡る。
たったそれだけで士気を失い主君がどれほど声を張り上げても櫛の歯が溢れる様に潰走を始めていた、伊達家臣達の目から怯えが消え、力を取り戻していくのが、目に見えて解った。
だが……
「……やりたい所じゃが、流石に此処までぶっ通しで走った上で大立回りなんざぁ、老い先短い爺にゃぁ酷というもんじゃてなぁ」
長く息を吐きながらそう口にすると、それまでの鬼気迫る様子が嘘の様に氣が抜け落ち、歳相応の老人にしか見えなく成る。
「ちょ! あの爺さん何しに来たのよ! 散々気を持たせて置いてこのオチはちょっと酷いんじゃないの!?」
思わずズッコケそうに成る所を堪えつつ、鉾を振るいながらそう突っ込まれるのも無理は有るまい……。
「御隠居! 御方の冗談に何時迄も付き合える状況ではない! 『猪山の悪意』と恐れられた御方がこの場へと姿を表したのだ、何の策も成しと言う事は無かろう! 謝礼ならば相応に出す! 勿体振らず助けて呉れ!」
殆ど悲鳴にも近い声でそんな事を言ったのは、この場の最高責任者で有る伊達様だった。
「なんじゃ、若いのにだらし無いのぅ。だがお前さんの言う通り何の用意も無く物見遊山に来た訳では無いわ。志七郎よ、コレを仁一郎に渡すのじゃ。そして皆の衆、暫しの間食い止めよ、さすれば其方等の勝ちじゃ!」
懐から一本の瓶を取り出しそれを俺へと放り投げながら、お祖父様はそう吠える。
勝ち筋を示された事で、ほんの少しでは有るが希望を取り戻した千田院の者達が弾幕を張り始める中、飛んできた瓶をつかみ取り兄上の下へと残り少ない氣をかき集めて駆け出した。
「兄上コレを!」
口にコルクの様な物で栓がされた大振りの徳利……四合徳利を抱え兄上に駆け寄る。
特にラベルの様な物は貼られて居らず中身は解らない。
「仁一郎! この状況じゃ、一時的に禁を解く! 呑み干せ! そしてあの犬っころを始末しろ! 志七郎! 直ぐに戻ってこい! 死にたくなければな」
それを兄上が受け取るのを見届けて、お祖父様がそう叫ぶ。
「お祖父様、アレは?」
栓を引き抜き喉を鳴らしながら一気に中身を煽るのを尻目に、言われた通りその場を離れお祖父様の下へと戻りそう問いかけた。
「……ありゃぁ、北大陸の山人達が好む火酒じゃ。それも酒精含有率九割五分と言う世界を見渡しても最強と言って過言では無い奴じゃて……」
度数95%って……、しかも酒が何の解決に成るんだ? そう思い口を開きかけたその時だった。
先程までのお祖父様に勝るとも劣らぬ強大で凶悪な氣が、爆発するかのように膨れ上がり立ち昇る。
氣だけでは無い、比較的小柄な兄上の身体が一回り……いや、義二郎兄上の巨体と比べても更に大きく膨れ上がり、纏う着物は弾け飛び、それでも尚巨大化は止まることは無く、最終的には申し訳程度に残った布地が腰回りに残っているだけ、と言う姿に成っていた。
内側から肥大化した筋肉によって皮膚は裂け、全身が流れ出す血で真っ赤に染まったその姿は、完全に人の物では無く鬼のそれにしか見えない。
「我が猪河家は家祖様以前から数多の鬼や妖と契り、その血を取り込んできた。仁一郎は先祖返りなのじゃ、それもとびっきりのな……」
そんな台詞から始まったお祖父様の話に依れば、我が家の子は時折血に宿る化物の力が発現する事が有るのだそうだ。
兄上の身体には家祖八戒の妻で有りおミヤの飼い主だったという鬼の娘の血が色濃く現れて居るのだという。
だがそれは己の意思で自由にコントロール出来る物では無く、鬼の姿を取るだけでも膨大な氣を消費し、それを維持するのにもやはり大きな氣が必要に成り、体格の小柄な兄上は生来氣の生成量が少なく、それが発覚した時には氣を使い果たし死にかけた程らしい。
無論、鬼と成らなければその危険は無いのだが、武勇に依って立つのが武士で有る、切札の類はいくら有っても困りはしない。
それ故に足りない氣を補う為、酒精を氣に変換する錬火業と呼ばれる技術を、お祖父様は兄上に伝授したのだそうだ。
「アヤツは酒で鬼に転ずる者……即ち酒転童子よ。大江山に住み京を荒らし回った稀代の大鬼の血と力を、人の意思で操る稀代の英傑に成り得る男じゃ……」
そう言うお祖父様の口ぶりは決して誇らしい者を語る物では無く、寧ろ苦々しげに吐き捨てる様な物だった。
咆哮を上げ殴り掛かる朱の鬼と化した兄上の一撃は、その危険さを感じ取り即座に飛び退いた剣牙狼を捉える事は無く、強かに地を打ち付けた。
だが隕石でも落ちたかの様な轟音と共に大地を穿ったその一撃は、完全に無駄な物では無い。
数瞬遅れ剣牙狼が着地したその瞬間、狙い澄ました様に地面が弾け飛び、氣が噴水の如く吹き出した。
それその物には大した殺傷力は無かった様で血の一滴すら流れては居なかったが、それでも刃牙狼の身体は高々と宙を舞う。
如何な強力な化物とは言え飛行能力を持たない存在で有れば、空中へと投げ出された状況では丸で無防備だ。
追いかける様に地を蹴った朱の鬼は、踏ん張ることすら出来ぬ筈の空中で理想的な弧を描くアッパーカットで剣牙狼の土手っ腹を打ち抜き、その衝撃で更に上へと飛ばされるよりも速く両の手を組んで振り下ろす。
その巨体が叩きつけられると、辺りには立っている事すら困難な程の地揺れが襲う。
追撃のスタンピングでも仕掛けるつもりだったのだろう、着弾地点へと降り立った兄上だったが、人間ならば間違いなくバラバラに成っているで有ろうそんな衝撃を受けて尚、剣牙狼は大したダメージでは無いと言わんばかりに、即座に身を転がしてそれを躱す。
「ゥゥゥオオオヲヲヲ!」
「グルゥァァァアアア!」
睨み合う一人と一匹は双方ともに鋭い牙を剥き、威嚇の為だろう咆哮を上げる。
決着には未だ時が必要そうだった。




