百八十八 三家連合、門を潜り見つける事
江戸州最北部、玄武山脈より流れ出る朱玄川の膨大な水量は江戸を縦横無尽に走る数多の水路を満たし流れていく。
それらの流れ着く先に有るのが江戸湾であり、そこへと流れこむ河口付近の大きな中洲に吉原は有るそうだ。
猪の牙にその姿が似ていると言われるその船は、下りの流れと相まって前世の世界の原付きバイク程度の速度は出ているのでは無いだろうか?
少なくとも走る事が規制されている江戸市中を歩いてここまで来るのに比べれば雲泥の差が有っただろう。
あっという間に見えてきたのは、お堀の中に築かれた江戸城の石垣と同じ様に、無数の石を積み上げた土台の上に幾つもの楼閣だった。
「おかしい……」
「ああ。明かりが少なすぎるし……」
未だ日が落ち切らないとはいえ既に辺りは薄暗く成っている、だが吉原へ行った事が有るらしい笹葉と清一殿が言うには、この時分には無数の灯りが煌々と灯され、夕闇に艶めかしく幾つもの楼閣が浮かび上がるのだそうだ。
しかし今は高い位置に数える程度の篝火が灯されているだけで、先日見た我が藩の下屋敷が賭場を開帳している時の方が余程明るかった程である。
「こりゃ、間違いなく何か良くない事が起こっておりますな。鬼二郎程勘働きの良くない拙者でも解り申す」
義二郎兄上が居らず、嫡男同士とは言え年長である仁一郎兄上を立てての事か、桂殿は少々改まった言葉使いでそう口にした。
「……船頭急いでくれ。少しでも早く行きたい」
ただ黙ってそれらを聞いていた兄上が、落ち着いた様子でそう船頭に命じると、
「何が起こってるかは知らねぇが……、急ぐってんなら飛ばして行くぜ? この辺は深けぇ……落ちねぇ様にしっかり掴まってくんな!」
これまでも結構揺れていた様に思えるのだが、どうやらそれでも大分抑えていたらしく、まだ若い船頭が櫓に力を込めると一段加速し、それに伴い気を抜けば腰が浮く程に大きく揺れた。
普段とは違う様子に気付いたのは当然俺達だけでは無く、先行していたらしい船が幾つも速度を落として浮かんで居たが、俺達の乗る船はそれらをどんどん追い抜かす。
無論進路上に他の船が有ったりもするが、どうやらこの船頭は当たりだったらしく、淀みなく櫓を操り最小限の進路変更で他の船を躱して行く。
「あーはっはっは! 何人足りとも俺の前は走らせねぇ!」
何か妙なスイッチでも入ったのか、船頭はそんな叫びを上げながら、更に一段加速させた……当たり、だよな?
死屍累々、船を降りた先に広がっていたのは、そうとしか言えない光景だった。
吉原の洲へは船で直接乗り付ける事は出来ず、対岸から橋を渡る必要があるのだが、その洲へと繋がる唯一の橋と門、そこには何人もの男達がうめき声を上げながら倒れ伏していたのだ。
いや息が有るのは極一部で、既に事切れている者の方が多い……。
これだけの大人数を切り捨てたのであれば、夥しいまでの血が地面を染めていて当然の筈だが、多量の血を流す程の深手を負っているのは更に一部の者だけに見た。
「こりゃひでぇし……」
清一殿が手近な遺体を軽く検める。小さな傷が一つ有るだけの、苦悶の表情を浮かべたまま苦しみ抜いた末に事切れた、そんな姿を目の当たりにし、皮肉の一つも言う事も出来ずそう呟いた。
「……大門が開いておりますな。こりゃ間違いなく妖刀使いが押し込んだのでしょう。最早真当な考えの出来る頭も残ってはおりますまい、早うせねば弾けますぞ」
笹葉の話では悪所とされる吉原の大門は基本的に閉じられており、中に入る際には潜戸を使うのが基本なのだそうだ。
その潜戸の直ぐ横には番所が有りそこに腰の物を預けて始めて中へと入れる、そういう決め事に成っているのだと言う。
ちなみに前世の世界の吉原では刀を預けるのは各見世の受付で、こうして大門で全ての客の得物を預かると言う事は無かった、と何かで読んだ記憶があるのでこの世界独自のルールなのだろう。
この門が開けられるのは、医者や一部の大名の様な者が籠に乗ったまま中へと入る時か、もしくは中で火事でも起こった時に限られるのだが、その大門の扉が片方だけ人一人が通る程度に押し開かれたままに成っているのだから尋常な事では無い。
「息がある者に何が有ったか尋ねてみては?」
何処に犯人が潜んでいるとも解らないので、皆から離れる事無くそう提案してみる。
正直な所で言えば、まだ生きている者を助ける事が出来る成らば助けたい、だが義二郎兄上の状態を考えれば解る通り、俺達の手持ちの霊薬では助ける事は出来ないのだ。
「いや、少しでも早く奴を仕留めれば助かる命も有るやも知れぬ。止めを指す時間も惜しい。それにこれだけ死を、血の臭いを纏っていれば力丸が追えぬ訳も無い」
長く苦しませるよりも、いっそ一思に止めを刺してやるのが武士の情け、と言うのがこの世界では一般的な価値観である、その時間すら惜しいと兄上は言った。
「何が起こったかなど後から調べれば良い事、時間を掛ければ掛けただけ、新たな死人が増えるやもしれぬ。お前達はこの門を封鎖、父上と猪山藩に伝令を!」
「家にも伝令を出しておくし。ガキんちょや腰抜け親父は兎も角、若手連中にゃ後詰の一つもさせておくし!」
どうやら桂殿と清一殿も同じ意見の様で、同じ船に同上していた手勢に分乗して後からくる者達への指示を託し、直ぐに此方へと合流し直した。
「こりゃぁ……洒落に成っておりませんな……」
腰の霊刀に手を掛けた笹葉が先頭を買って出て、一歩門を潜った所でそう呟いた。
本来ならば酒と白粉の香り漂う江戸最大の色街が広がっている筈の場所である、だが俺達の目の前には無数の……それこそ見える範囲の者を手当たり次第に切り捨てたとしか思えぬ程に屍が溢れている。
それは今まで表沙汰に成らぬ様、細心の注意を払って犯行を繰り返して来た者とは思えぬ程に荒々しく見境無い凶行であった。
とは言っても辺り構わず片っ端から追いかけて切り捨てたと言う訳でも無い様で、どちらかと言えば道すがら目についた者を斬ったと言う感じで、死体を追えば臭いを辿る必要も無く犯人が何方へと進んでいるのかは一目瞭然だった。
手前から奥へと進んでいく程に死体の傷は深く大きく成っている様で、地面に広がる血の量も多くなり、この辺まで来ると中には輪切りや唐竹割りにされた様な死体すら有る。
死体の列が続く先おそらくはそこが下手人の目的地だったのだろう、一件の揚屋の前には押し留めるか捕えるかしようとしたのだろう、屈強な男達が無残な姿で幾つも転がっていた。
誰もが躊躇する事無く草鞋も脱がずに中へと上がり込んで行く、中でも下手人は無辜の者を片っ端から手に掛けたらしく、外以上に濃密な血の匂いでむせ返りそうに成る。
「居た! 奴だ、間違いない!」
周りの見世に比べれば、然程大きいとは言えない揚屋の奥、二階への階段を上がった先にその男は居た。
元の色すら解らぬ程に返り血に濡れた着物を纏い、怪しげに赤黒い気を放つ刀をだらんとぶら下げたままに男は此方を見る事も無く、目の前に居る女――おそらくはこの見世の遊女だろう――に何やら詰め寄っていた。
「お美月、千人切りは達成できなかった。でも少なくとも百人は斬れたんだ! 君の病を治して上げることは出来なかったけれども……もうダメなんだ……あの小さい奴に顔を見られた……もう逃げられない……だから、一緒に死んで向こうで一緒になろう!」
血に塗れた男はあの惨状を引き起こした者とは思えぬ程に、穏やかで静かな笑みを湛えていた。
「い、嫌よ! 私死ねない! 折角大店の旦那さんが身請けしてくれるって言うのに! なんで、なんでこんな事したのよ! 不治の病だって言ったのに、なんで諦めてくれないのよ!」
だが女が口を開いた時、その表情は驚き、絶望、憤怒、と一瞬の間に移り変わるのだった。




