百六十五 志七郎、噂の真相を思い、母の怒りを見る事
「さて……あとはお津母にも少しお話して置かないと行けないわね」
思う存分殴り怒りも収まったのかややすっきりとした表情で、母上はそう言った。
お津母と言うのは役満殿の側室の名前らしい、どうも母上はその彼女と面識が有るらしい。
「痛たたぁ……、ああ……、誰かお津母を呼んできてくれ……ついでに清一と平和もな……」
刃でこそ斬りつけられ無かった物のあれだけの殴打を受け、あちこちに青タンを拵えながらも役満殿は覚束ない足取りでは有るが、直ぐに立ち上がりそう家臣に命じた。
流石は大藩の藩主と言う事か、それとも母上が絶妙な加減で打ち据えた故か……恐らくはその両方なのだろうが、端から見ている分には小さな子供が見れば軽くトラウマにも成り兼ね無い、バイオレンス表現的な意味で十八歳未満お断りな惨状だった。
俺は兎も角、りーちや睦姉上にはちょっと刺激が強すぎるのでは無いかと思ったら、そこは我が猪山藩の面々、心得た物で睦姉上は礼子姉上に、りーちは信三郎兄上がその体で上手く視界を遮っている。
とは言えども、けたたましく上がる打撃音と役満殿の苦痛の声は素通しなので、余り教育に良い物では無いだろう。
信三郎兄上に至っては
「余りにもヤンチャが過ぎると、あの鬼のような折檻が此方にも降ってくるでおじゃる。其方も甥伯母の関係で身内故、気をつけるでおじゃ」
等と飛んでもない事を吹き込んでおり、りーちは父親とよく似た蒼白の表情で首を縦に強く振っている。
俺自身はあんな折檻を受けた覚えは無いのだが、後から信三郎兄上に聞いた所、数年前までは義二郎兄上がああいう風に折檻されるのは日常茶飯事だったそうだ。
とそんな事を考えている間に、屋敷の奥から女中達を引き連れた母上と同年代に見える女と、寝癖だらけのボサボサ頭にだらしなく着崩した着流し姿の青年、それからりーちによく似た、間違いなく姉弟と思える少年が浦殿の先導で姿を見せた。
「なんなんの、こんな庭先まで出てくるなん、えらいしんどいわぁ……」
此方もまぁ、美人と言えば美人なのかも知れないが、分厚く塗った白粉にどぎつい朱色の紅を挿し、その隙間から見える歯はお歯黒で真っ黒に塗られている、ちょっと古い感覚で言う所の美人である。
その言葉の通り気怠そうな雰囲気を漂わせたまま、それでも見目を気にしてかしゃなりしゃなりとした足取りで玄関辺りへとやってきた。
玄関口が女達で一杯に成ってしまった故か、清一、平和の兄弟は少しの間を置いて勝手口から周り込んで来たようだ。
「あらまぁ……随分と楽しい生活を送っている様ですねぇ、こんな昼間からお酒かしら?」
分厚い白粉で顔色は解らないが、あの気怠い様子は酒に酔っている所為らしい。
「あぁ!? わっちが何時何時に呑もうと、おみゃさんにゃ関係ないやんか?」
言いながら何か手寂しい素振りで手を口元へと運ぶ、すると女中の一人が煙管を差し出し、もう一人が丸めた煙草を詰め込んで、更にもう一人が陶器の中の火を差し出した。
「わっちは大藩浅雀の藩主役満様の寵愛を受け尚且つ次期藩主の母となる身、おみゃさんが何処の何方かは知らにゃぁが、たあけらしゅう事でわざわざわっちを呼び出すでにゃあで……」
此方には一切目もくれず、煙管を一息吸い込んでぷかぁっと煙を吐き出す。
「……暫く見ない間に偉そうな口を聞く様になったわねぇ? 義理とはいえ姉に対してその言葉……実家諸共叩き潰して差し上げましょうか?」
その態度に一度は落ち着いたと思われた、母上の怒りのボルテージがあっさりと再度頂点へと急上昇するのが、後ろから見ていてもはっきりと解った。
義理の姉と言われてその意味と相手が誰なのかを理解したらしく、はっとした表情で母上の顔を見て、津母の方は驚きのあまりか手にした煙管を取り落とし
「ひっ! ぼ、『暴君』清姫!? あいえええ!? なんで!? なんでぇ!?」
……暴君とはこれはまた随分と物騒な二つ名だが、誰からも否定する様な言葉は出ず、むしろ母上が野火家の出である事を知らなかった様な若手の家臣達の間にも、納得と同情の色が広がっていく。
その様子を見る限りには、母上は浅雀藩に於いて『あの一郎だから仕方が無い』と同等の扱いを受けている様に見えた。
「暴君とはまぁ、随分と懐かしい呼び名ねぇ……。それでも面と向かって言われたのは初めてだわ……、本当に良い度胸してるわね……。役満……こっちも躾が足りない見たいだわねぇ」
母上の視線が既にボロボロの役満殿に向かう、再び激しいバイオレンスが展開されるかと思ったのだが、今度は手を出す事無く深い深い溜息を付くに留まった。
りーちが口にしていた通り周りにチヤホヤされて色々と勘違いした女性、と言うのが津母の方に対する俺の印象である。
彼女達の様子を見る限り、先日母上から聞いた浅雀藩の内情は飽く迄も噂話の範疇で、真実を大分曲解した物だったように思えた。
俺が考えるに、長男である清一殿が特に母親を必要とした時期には、正妻――龍の方と言うらしい――は未だ幼すぎ、母親として振る舞う事など出来ず、家臣達に遠ざけられていたのではなかろうか。
清一殿の養育に付いては役満殿から浦殿当たりに何らかの命令が有ったのだろう。
だが、龍の方に付いては何の指示も無く、良識派である浦殿も正式に主君の妻と成った少女に主君の許可も無く物申すのは不敬と、彼女の教育に付いて口出し出来なかった、と言うのは完全に俺の想像では有るが、恐らくは大きくは間違っていないと思う。
平和殿が龍の方よりも津母の方に懐いたと言うのも、りーちとの年齢差が然程見受けられない事から、物心付いた頃には既に津母の方が江戸へと上がっており、家臣も役満殿も津母の方を正妻とするような態度だった所為だろう。
……うん、母上の言う通り彼女達――特に龍の方――は全く悪く無い、津母の方も主君がそういう扱いをすれば、家臣達がそれに倣うのは当然の事だ。
しかも彼女は武士の娘では無く、息子にすら箱入りの世間知らずと称される程、勘違いしてもソレを是正しようとする者が居なかった。
名目上は養父で有る浦殿は、窘める様な事を言ったかも知れないが、役満殿が彼女を甘やかし付け上がらせたのは想像に難く無い。
それらの状況を動かす為、役満殿に強く出ても角の立たない母上が介入する状況を浦殿は願ったのだろう。
「銅鑼……お前こうなる事を予測して、うちの子に初陣の付き添いを頼んだわね……」
「流石に他藩の者が居れば自重するだろうと思っての事、まさかお構い無しに『死なば諸共の術』を使う様な輩が、刺客として送り込まれるとは思っても居りませなんだ……」
俺の想像を裏付ける様に母上と浦殿がそんな言葉を交わす。
母上が以前言っていた様に、他藩の子を巻き込む様な愚を侵さないだろう、という抑止力を狙ったのが第一で、万が一襲撃が有ったならば母上がこうして介入するだろう、無論並の刺客ならば俺が命を落とす事など無い、そんな期待が有ったようだ。
「何処の手の者かは解らないけれども、室の管理も碌に出来ない馬鹿者が藩主じゃあ、これからも火種は耐えないわねぇ……。それにお龍ちゃんは、正室として他藩との社交の場でも見かけた事無いし……このままじゃ次代も危ないかしら?」
何か円満な解決策でも無いかと、母上は考えこむ表情で一同の者達を見回した。
「解り申した、ワシの誤りが……ソレを是正する為にも、妻とは離縁致す。さすれば次代を巡る争いにも終止符を打つことが出来よう……」
すると役満殿が思い詰めた様な表情でそう口にした。
その言葉が指す妻とは、当然ながら津母の方を指すのだろうと皆が思った筈だ、彼女と別れれば名実共に龍の方だけが妻と言う事になる。
だがそんな期待を裏切る彼の様に、彼の視線が向いているのは、津母の方では無く龍の方に向いていた。
一瞬で般若の如き面構えへと変じた母上が、物言わずその拳でぶん殴ったのは当然の結果だろう。




