千二百六十一『無題』
「……飯蔵」
火元国の政は表向きは京の都の帝を中心として動いて居る事に成っているが、本当に実権を握って居るのは公家では無く武士で有り、幕府の頭領である征異大将軍だ。
そしてそんな彼が政務を行う江戸城の地下には広大な地下迷宮が広がって居る。
其処は西方大陸風に言うならば『ダンジョン』で有り、その言葉の語源通りに上層部には地下牢獄としての機能も存在しているが、深部まで進めば其の他様々な目的の領域が作られて居るのだ。
そんな地下迷宮の奥深く、幕府の重鎮達すら立ち入る事が許されず、将軍が許可を出した極々一握りの者だけが立ち入る事の出来る秘密の部屋で、彼は自分の影として常に護衛して居る忍びの頭領の名を口にする。
「……ここに」
普段は天井裏や床下に忍び姿を見せる事の無いその男だが、この部屋にはそうした隠れる隙間が無い為に、呼ばれたならば顔を見せる必要が有った。
しかし生田目 飯蔵と言う男は、本来ならば此処に入る許可を得た者では無い、正規の許可を取らず此処に敷かれた防衛網や結界等を実力で突破しこの部屋へと入って居るのだ。
何故そんな面倒な事をして居るかと言えば、この部屋は本来ならば征夷大将軍とその直系子孫……将軍位を引き継ぐ可能性が有る者だけが入る資格を有する部屋だからである。
そして此処に入る許可を得ると言うのは、概ね『次期将軍に内定した』と言っても過言では無い。
この部屋に有る様々な記録や宝物に付いては、幕府の重鎮達ならば先祖の日記等を読む事で知る機会が全く無いと言う訳では無いが、直接的に見聞きした者は現在生きている者に限って言えば七代目征異大将軍将軍禿河 光輝ただ一人である。
十年と少し前には次期将軍として見込んだ息子の一人をこの部屋へと連れて来て、将軍位の継承に付いての話をした事も有るが、残念ながら其の者は既に帰らぬ人と成ってしまった。
しかし飯蔵がそうした様に実力でこの部屋へと辿り着く事が出来るならば、此処に有る物を目にする事が絶対に出来ないと言う訳でも無い。
が、ソレは火元国でも上から数えた方が早いであろう実力者が、将軍の後を追いかける形で進んで来たからこそ、辿り着けただけで有ってこの部屋の存在を知らない者が此処へ来る事が出来る可能性は限り無く零に等しいと言える。
何せ義兄弟の盃を交わし兄者と慕う老獪な知恵者にすら、この部屋の事は明かして居ないし、当然ながら其の者が此処へと立ち入った事も無い。
将軍と言う立場はソレこそ箸の上げ下げから便所の中まで常に誰かかしらの目が有り、完全に一人に成ると言う贅沢を感受する事は中々に難しいのだ。
この部屋へと来る際にも迷宮へと降りる入口は勿論、道中の要所要所にも万が一地下迷宮が鬼や妖怪で溢れ将軍が帰る事が出来ない様な状況にならぬ様に、見張り役の者が屯する事に成っている。
故に将軍がこの部屋へと入ったと言う事実だけは、幕府の重鎮達には知られていると言う事だ。
だが彼等は飽く迄も上様が秘密の部屋へと入った可能性を知るだけで、その後に着いて飯蔵が入ったのを知る事は無い。
だからこそ今からする幕府の重鎮達にすら明かす事の出来ない密談にこの場所は最適なのだ。
「兄者が絵図面を描いた例の件、情報は何処まで回す事が出来ておる?」
此処で将軍が兄者と呼んだのは『事悪意に置いて彼に勝る者無し』と謳われ多くの武辺者から忌み嫌われる策謀家である義兄『悪五郎』猪川為五郎の事である。
「小僧個人に縁有り助に入っても不思議は無い者達には確実に、手弁当で陣借りをしてでも士官の道を得ようと言う浪人者達にはとある筋からの噂として、されど市井には漏れ出ぬ様細心の注意を払い展開済みに御座る」
この火元国では例え士官先が見つからず浪人者として生きるとしても、定期的に鬼切りへと出て相応の強さの鬼や妖怪を倒して居れば、町人階級の者達からは『流石は武士!』と認めて貰う事は出来るし、生活にだって困る事は早々ない。
けれども幾ら氣を纏うのが当然の武士階級出身の浪人者とて人間である事に変わりは無く、歳を経れば当たり前に老いて行く。
女房子供を養って子供が一人前に成ったなら、今度は子や孫の世話に成って生きていくのは市井の者ならば当然の事では有るが、武に依って立つ者である武士が『畳の上で死ぬ』のは恥なのだ。
百歩譲ってソレが幕府や将軍家の直臣といわずとも大名家なり旗本家なりの陪臣の立場で、立派に御家を立てた上で子弟に家督を継いで楽隠居の身ならば『武士の本懐を遂げた』と言えなくも無いが、其処らの長屋でくたばったと有れば武士の名折れである。
仕える主君の無い浪人者が何時までも武士の身分を捨てずに居るのは、食う為では無く誇り高く生きる為だ。
ただ生きるだけならば侍等と言う肩書きは捨て市井で鬼切り者として稼が無くても氣に依る能力の強化と言う極めて便利な異能を使って、武では無く口入屋辺りで大工仕事なり何なりの仕事に着けば命の危険無く老いて行く事は簡単である。
それに町人階級の者からは御浪人様等と敬称を付けて呼ばれたりはするが、正しく武士階級の者からは落伍者が未だいじましく武士の肩書にしがみついて居るだけだと嗤われる事すら有る立場だ。
実際何等かの理由で浪人に成った本人は兎も角、二代三代と士官が叶わず市井の中で町人階級の者達と変わらない生活をして来た子供や孫は、武士と言う立場を捨て楽な生き方に流れる者は決して少なく無い。
ソレでも尚も武士の肩書を捨てないのは『先祖代々の家名と誇りを守る』と言う一点に尽きる者が多いだろう。
ましてや今回の様な『正義の名の下に悪を成敗し正しい御家を立つ上げ直す』為の戦等、天下泰平と言われて久しいこの火元国では、次に何時そんな機会に立ち会えるかも判った物では無い。
戦国と呼ばれた頃ならば兎も角、今の時代は何処の藩でも自国で養える侍を既に上限近く雇入れており、新規の召し抱えが行われるのは大鬼や大妖の災害で複数の家臣を丸っと失った時くらいの物である。
ソレだって基本的には当主と嫡男が共に亡くなったとしても、次男坊や三男坊が言い方は悪いが予備として部屋住みの立場で残されて居たり、娘が居るならば婿養子を関係筋から充てがい既存の御家存続が優先されるのだ。
表向きは町人達から尊称で呼ばれていたとしても影では正規の武士と比べられ軽く見られる事は避けられないが故に、町人に混じって暮らすのは苦渋を舐める様な思いだろう。
其処までしてでも家名を残したい者からすれば、婿養子に入ると言う選択肢は先ず最初に除外される。
と成ると残る手立ては大鬼や大妖を討伐する様な大手柄を上げ名を売って「ウチに士官して下さい」と言わせるか、今回の様な近年稀に見る大戦に参陣し手柄を立てる位しか方法は無い。
そして浪人者達は全員が全員『己が家名を復興する事』に命を賭けて居ると言っても過言では無い者達で、其の為ならば多少ならば卑怯卑劣の汚名を被る事を厭う事は無いだろう。
と成ると浪人者達同士とてこの件に関して噂の共有はそう簡単に為される事は無い筈で、だからこそ『確かな筋からの噂』等と言う不確かな形での情報拡散だと言うのに、不必要な所まで噂が流れて行かぬ様に調整が効く訳だ。
「うむ……先に送り込んだ斥候達からの情報はどうなっておる?」
正式に直訴状が上がって来ている訳でも無い以上は、例え民草が塗炭の苦しみを味わっていると判って居ても、ソレはその藩の内政の問題で有り幕府が容易に嘴を突っ込む訳には行かない。
もしもソレをしてしまえば、件の藩程の悪政では無いにせよ苛政気味の統治を行っている藩は明日は我が身と疑心暗鬼に陥り幕府に牙を剥くやもしれぬ。
下手を打てば幕府打倒を掲げて戦力増強の為に、民草を虐げるような苛税を促す結果にも成りかねない。
「……はっ、潜り込ませた手の者が何名か戻って来て居りませぬ、ソレも下忍だけで無く中忍として相応に経験を積んで来た者もです。戻って来た者に託された情報に依ると古来より仕えて居る者達では無い、明らかな半妖と思しき者達が多数居たとの事です」
生田目 飯蔵の手の者と言う事は幕府御庭番衆の者で、火元国でも上から数えた方が早い腕前の忍術使い達だ、同じ下忍や中忍と言う肩書きだとしても他の忍軍と比べれば間違い無く一段上の実力を持っている。
そんな者達が仲間に情報を託して帰らぬ人と成ったと言う事は、忍術使い同士の戦いでは無く実力有る忍術使いすら仕留める事が出来る者が一定数居ると言う証左と言えるだろう。
そしてソレが半妖だと言うので有れば……
「真の倒幕派が根付いて居たは富田で有ったか……と成ると、今用意してある手札では少々荷が勝ち過ぎるのぅ……もう一枚二枚は鬼札を切る必要が有りそうじゃな。兄者に頼ってばかりでは呆けてしまうからの、此度は儂の方で用意出来る札を切るとするか」
想像していたよりも数段高い難易度の戦に成る事を想定し、彼は自身が持つ最大の切り札とは別の札を手札から出す事を決めたのだった。




