千二百五十九 一日の予定を考え家臣の在り方と来年の抱負を抱く事
さて……朝食を終えたなら今日は何をするべきか、新しく誂えた装備が届くまでは『絶対にやらなきゃ成らない事』は無いんだよな。
お連は母上から姉上達と一緒に『花嫁修業』をさせられる予定だとは聞いているので、彼女を連れて江戸の街へと繰り出す様な事は出来ない……いや、出来なくは無いんだろうが狙われている彼女を不用意に連れ出すべきでは無いだろう。
俺一人で何処かへ行くのも止めた方が良いだろうな。
俺の側付きで俺自身の家臣と言う括りに成っている志麻が居るのだから、遠出では無いとしても出掛けるならば彼を伴って歩くのが武家の子としての筋目と言う物だ。
以前は志麻自身が侍の側に候う者としての自覚も経験も全く足りて居なかったので、下手に外へと連れ出しても恥を晒す可能性が有ると憚られたが、今の彼は御祖父様や大叔父貴の指導できっちり躾られているので伴わないと言う選択肢は無いと言える。
今の志麻を置いて俺一人で出掛けるのは、彼が積み上げてきた努力を踏み躙る侮辱でしか無いからだ。
……その辺の事を全く考えず御祖父様が志麻を連れて来るまで、彼の事を半ば忘れかけて居た事に関しては言い訳の余地は無い。
けれどもだからと言って主君としての義務を完全に怠っていたかと言われたらまた話は変わって来る。
主君の家臣に対する義務ソレは衣食住の面倒をしっかりと見る事……と言ってしまうと犬や猫の様な愛玩動物を飼う様な感覚に成ってしまうが、コレは賃金や領地を与える事で生活する為の糧を得る事が出来る様にすると言う意味合いだ。
要するに前世の世界で会社を経営する社長が、社員を雇用しその仕事の対価として賃金を支払ったり、寮や食堂なんかの福利厚生を整えたりするのと何等変わりは無い。
ただ此方の世界には労働基準法等と言う物は無く、向こうの世界の感覚で十分と言える様な賃金を与えずとも、粗末な物だとしても着る物と飢え死にしない程度の食べる物に寝る場所さえ与えていれば丁稚奉公相手ならば十分だと考えられている。
江戸で暮らす町人階級の子供だと数えで十歳前後に成れば、先ず初陣を経験し度胸を付けた上で、商家なんかに丁稚奉公に上がるのは割とよく有る進路なのだ。
小中学校の義務教育を終える前どころか、小学校を卒業する前にもう就職……と考えると、児童労働の禁止なんかを盛り込んだ『子どもの権利章典』と言う言葉が脳裏を過ぎる。
とは言えソレが国連で採択されたのだって二次大戦戦後の事なので、産業革命以前の文化文明と凡そ同等だろうこの世界には未だ早すぎる概念と言えるかも知れない。
兎角、此方の世界では子供は一つ二つ三つと数えて十を過ぎたら『つ離れ』と言って、一人前では無いが完全にお世話をされるだけの子供でも無いと言う扱いになるのが普通である。
この辺の年齢に対する考え方は当然ながら国や地域に寄っても差は有るが、基本的には生活に余裕が有る富裕層は別として、一般的な庶民の家庭であれば大概の所で大事な労働力として見做されて居る物だ。
此方の世界の中では比較的文化文明の度合いが進んでいると思われるワイズマンシティでも、精霊魔法学会に子供の内から通えるのは比較的裕福な家庭の子だけである。
と言うか学会にも初等教育課程は一応存在しては居るが、普通は私塾の類や軍隊で読み書き計算を覚え、それから精霊魔法と言う『稼げる技能』を身に着ける為に通う者の方が圧倒的に多い。
ワイズマンシティに生まれた平均的な庶民家庭の子供は、多くの場合つ離れするまでは親が稼いだ費用で比較的安い値段で経営している私塾に通い、十を過ぎた辺りで何処かの見世で働ければ良い方で、殆どの男児は冒険者になるか軍隊に入る事になると言う。
勿論冒険者組合も軍隊もつ離れしたばかりの子供を即戦力として考えている訳では無く、冒険者組合の場合にはそうした子供達は町中でのお使いや雑用程度の仕事を与えられ、ソレで稼いだ金銭の中から戦闘やらなんやらの訓練を受けたりするそうだ。
対して軍隊の方はと言えば志願して入った見習い兵士の場合、犯罪を犯し懲役として軍隊に配属される元犯罪者の兵士を率いる隊長に成る為に、元犯罪者に舐められる事の無い様に様々な訓練を受けて一端の兵士に成ると言う。
そうして訓練を受け懲役兵を率いる隊長に成れば、基本的に危険な市外での任務に就く事に成る為、懲役兵部隊の隊長と言うのは軍の中でも選抜された人員である。
対して選に漏れた者は市街地の巡回等の治安任務に就く訳だが、こっちはコッチで犯罪組織の連中なんかを相手に肉弾戦を展開して捕縛しなければ成らない訳で、やはり貧弱なボーヤに任せる事の出来る仕事では無い。
故にワイズマンシティの軍隊に志願し採用されて居る時点で肉体面では既に選抜された人員と言って間違いないだろう。
と成ると市外任務の隊長格に据えられる者は、選抜された人員の中の選抜された人員と言える訳で、そりゃ後に市長を狙う事も出来る出世の道としてあの街の貧困層から一発逆転の目に賭ける者が相応に居るのも理解出来ない話では無い。
ただソレはあの都市国家が前世の日本の様に全ての成人した国民全員に平等に選挙権を与えている普通選挙の国では無く、一定の納税額を納めている一等市民にのみ選挙権を与えている制限選挙制度の国では有るが一応は民主主義の国だからこその道と言えるだろう。
ワイズマンシティでは一等市民と二等市民を分けるのは、本人の稼ぎと納税の意思だけらしいので、そもそもとして武家に生まれた者で無ければ政に携わる可能性が限りなく零に等しい火元国とは全く違う訳だ。
兎にも角にも此方の世界は向こうの世界と違って、大人と子供の定義がそもそもとして極めて曖昧なのである。
ソレこそ俺の年齢でも初陣を終え一端の額面を稼いでいるが故にワイズマンシティの基準で言えば一等市民と成る資格を有する者と言えなくも無いし、火元国でも元服の儀式さえ終えれば何時でも成人を名乗っても可笑しく無い訳で有る。
ぶっちゃけて言ってしまえば此方の世界では、独り立ちして生活出来る何等かの技術や技能が有れば……その中には当然の様に武力や暴力も含む……其奴はもう子供では無く一人前の大人として扱われる訳だ。
武家社会では当主が若くして亡くなった場合なんかに、俺よりも幼い男児を無理くり元服させて家督を継がせる事で御家断絶を防ぐ……なんて事は割とよく有る話では有るが、当然そうした場合には実際に家政を動かすのはその後見人となる者だろう。
ただソレが出来るのは基本的に小普請組の様に御家に御役目を賜っていない家だけで、大名家は勿論として旗本格の家でも先祖代々の家業として御役目を持っている家ならば、家業を回せる跡継ぎが居なければ断絶する事になる。
義二郎兄上が婿入りした豹堂の家が当にソレで、子供は瞳義姉上だけで跡継ぎとなる男児が居ない状態で、政敵とのやり取りに失敗し自裁した事で御家断絶に追い込まれた訳だ。
コレが特別な家業の無い小普請組の家だったならば、親戚筋から瞳義姉上に婿養子として同年代の男児を引っ張ってきて割と無理矢理だが御家を存続する事だけは出来ただろう。
けれども豹堂の家は相応の家禄貰い立派な御役目を果たしている家だったが故に逆に没落する事となり、たった二人だけ残った家臣達に守られて彼女は育った訳だ。
と、話は逸れたが俺が志麻に対しては、ちゃんと俺の口座から志麻の鬼切り手形に紐付いた口座へと俸禄として、半年毎に五両が振り込まれる様に手続きはしてある。
子供の小遣い銭と言うには少々大き過ぎる額面では有るが、一人前の大人を雇っていると考えると少ない金額と言えなくも無い。
だが未だ主君である俺が元服前だと言う事も有って、志麻の衣食住は猪山藩が面倒を見ている訳だから、俺から出ている俸禄は丸っと自由にしても問題の無い銭と言う事になる訳だ。
ソレに加えて修行の最中には当然鬼切りに出る事も有っただろうし、その際の討伐報酬や手に入れた素材やら肉類やらも猪山藩猪川家の家訓である『自分の小遣い銭は自分で稼げ』に従い其れ等も志麻自身の物となる。
他所だと基本的には『家臣の物は主君の物、主君の物は主君の物』と言うのが通例で、一部或いは全部を上納するのが普通でその上納の多少が忠義の証となる御家も多いんだとか。
「……こうして考えると猪山藩猪川家が例外なだけで、武家ってのは本当に暴力団と変わんねぇのな」
今日の予定を立てるつもりで一寸志麻の立場を考えただけだったハズが、何故か漏れたのはそんな言葉である。
いや、実際、前世の世界の暴力団家業ってのは、色々と武家社会の在り方を踏襲して来てたんだよな。
組の代紋は武家の家紋に通じる物で有り、ソレを背負う事で組の後ろ盾を使って様々な方法で稼ぎ、その見返りとして身代に有った額面の上納金を組に入れると言う訳だ。
とは言え相応の稼ぎが出来る様になるまでには、部屋住み等と呼ばれる見習いの若い衆時代が有り、その頃は上納金を入れる様な事も無く使い走りなんかをする代わりに小遣いを貰ったりするのである。
……武に依って立つ者と言う武士は、ある意味では暴力に依って立場を築いていた暴力団に通じる物が有る訳だ。
「ああ、そうか……お連と一緒に富田藩を取り返す事に成功したなら、その辺の事も考えないと駄目なんだなぁ……うゎぁ糞面倒臭ぇ」
富田藩骨川家のコレまでの伝統やら家訓やらを何処まで重んじるのか、簒奪と言われない為にもある程度は元のやり方を踏襲する必要が有るんだろうが……まぁ高確率で現当主が色々やらかしているだろうから先ずはその後始末からだろう。
『来年の事を言えば鬼が笑う』等と言う格言も有るが、年末も押し迫って来たこの時期だからこそ、来年の抱負を考えて置くのは決して悪い事では無い筈だ。
そう判断した俺は、今日は一日出歩く事はせず本来の富田藩の政や家訓なんかに付いて、父上や御祖父様から聞いて置く事にするのだった。




