百二十四 志七郎、闇夜の尾行をする事
布団に横たわり、ゆっくりと息をする。
上に掛けているのは四角い掛け布団ではなく、袖の付いた所謂かいまき布団というやつだ。
中にはたっぷりの綿が入って居るらしく、前世に使っていた羽毛布団よりはかなり重いがそれなりに温かく眠れる代物だ。
流石は大名家の寝具と言う事も有ってか、結構な高級品の様で肌触りは前世の物と比べても十分に遜色無いと言える範疇だろう。
そんな中に包まれたまま、俺は寝入ってしまわない様に注意しつつも、起きている事を直ぐ横に居る母上に気取らせ無い様、狸寝入りを決め込んでいた。
だが数えで六歳、満年齢では年末に四歳になったばかりの、このお子様ボディは十分な時間昼寝をしておいたにも係わらず、俺の意思などお構い無しに夢の中へと急速ダイブしそうになる。
深い深い夢の世界から足を引っ張る睡魔に幾度も負けそうになったが、そうしている内に時間も経ち、横で寝ている母上が俺を起こさぬ様、気を払いながら動き出すのを感じた。
ここで俺がそれに反応すれば、母上はきっとそれに気づき外出を取りやめるだろう、ただ単純に母上の動きを……疑惑の行為を止めるだけならばそのほうが簡単だろう。
だがそれでは露呈するのが先延ばしになるだけだろう、人知れずそれを突き止め外部に漏れる前に『これっきりの事』と出来れば、何も無かったで済ませられる筈だ。
取り締まる側だった俺が言うのもアレな話だし、決して認めたくない事では有るが『バレなければ犯罪として成立しない』のだ。
しかし例えバレなくても罪という物はいつか必ず本人だけでは無く、回りを巻き込んでその身を滅ぼす火種になるのだ、とも俺は信じている。
というか、死後の世界が有り死神さんや閻魔様が居る以上、絶対に報いを受けるのだと『知って』いるのだ。
と、そんな事を考えている内に母上が縁側へと続く襖をそっと開き部屋を出て行く。
だからと言って直ぐに動いたりはしない、それをすれば相手に気取られるだけだ。
交番勤務から刑事課に異動してから諸先輩方に叩き込まれた、貼り込みや尾行のノウハウは今でも忘れずにこの小さな頭の中にしっかりと焼き付いて居た。
母上も身支度の一つもせずに出掛ける事は有るまい、今はまだ慌てて動き出すタイミングでは無い。
そのまま身体を動かさず辺りの気配を探る。
氣と言う超常の力が使えるこの身体では、ただ気配を感じると言っても前世の様に漠然とした、なんとなくという物では無い。
氣で強化された聴覚や触覚は些細な振動や空気の流れすらにも敏感に反応し、より明確に人や物の動きが目で見ずとも理解出来るのだ。
そんな感覚に依ると、部屋を出た母上は直ぐ隣の部屋へと移動したようである。
壁越しに感じられる動きから母上が着替えをしているのは間違い無いようだ。
氣を耳に集中すると微かながら衣擦れの音も感じ取れる。
恐らくは身支度が済んだのだろう、それから暫くして母上の気配が再び縁側へと移動した。
俺が大人しく寝ている事を確認する為だろう、寝室の襖を少しだけ開き中を覗きこんだ。
慌てる事無く目をとじ寝たふりを続けると、直ぐに襖が閉まる音がした。
そして一拍を置いて四煌戌が吠え声を上げる、縁側から庭に降りたのだ、きっと今までもこのタイミングで俺は目を覚まして居たのだ。
となれば、急いで追いかけなければ。
俺は直ぐに布団の下から袴を取り出すと、手早くそれを穿き音を立てぬ様用心しながら、縁側へと続く襖を開けた。
「しっ! 静かに……」
吠え声を上げようとする四煌戌に対して、小さなけれども鋭い声でそう命令する。
ここで更に吠え声を上げられては、俺が追いかけているのが母上に気づかれるかも知れない。
無駄吠えの禁止は鬼斬りや狩りに連れて行く上でも必要な躾である、この子達を育て始めてからしっかりと躾けただけ有って、四煌戌は俺の指示通り口を噤んだ。
「静かに追いかけるから、お前達は留守番だ」
幸い四煌達も眠たいらしく、特に不満な様子も見せずそのまま小屋の中で丸くなる。
そうしている間にも、提灯の物らしき灯りがスイっと台所の方に動くのが見えた。
きっと勝手口から外へと出るのだろう、そう考えて縁の下に隠しておいた草鞋を履き刀を佩きそれを追いかける。
今夜は月の欠け具合も大きく辺りはかなり暗い、だからと言って灯りを持ったりすれば、追いかけている者が居る事は向こうにも丸解りとなってしまう。
幸い氣で視力を強化すれば全く何も見えないという訳でも無いので、このまま追いかけるしかないだろう。
屋敷の角に身を隠して提灯の行方を追うと、予想通り勝手口の外にある通用門から敷地から出て行く所だった。
通用門は内側から閂が掛けられる様になっているだけで、これが掛かっていれば外からは簡単には開かない、母上はただ戸を閉めただけで閂はそのままに行ってしまったようだ。
という事は、屋敷の中に協力者は居らず、ここから帰ってくる心積もりなのだろう。
同じように音を立てない様、細心の注意を払いながら通用門を抜け戸を閉める。
その時には既に提灯の灯りは大分遠く小さくなり、角を曲がったのだろう不意に視界から消えた。
慌ててそちらに向かって走り、再び角から行方を探る。
はっきり言ってその不格好な追跡は、捜査のイロハを叩き込んでくれた先輩方に見られでもしたら、雷が落ちるでは済まなかっただろう。
だが俺の居た地域は都市部で街灯の無い道は極めて少なく、諸外国での研修でも灯りのない場所へ夜行くのは捜査の最中でもただの自殺行為だと戒められたものだ。
俺の前歴が軍人だったならば兎も角、ただの警察官だったのだから闇夜の尾行など慣れている方がおかしいのだ。
と、心のなかで自己弁護を繰り返しながら、十分な距離を保ちつつ提灯の灯りを追いかけていった。
屋敷の正門前を通り、進んで行先はどうやら郊外の方らしい。
母上は急いで居るのか何時ものゆったりとした歩みでは無く、かなりの早足で歩を進めていく。
江戸市中ならば街と街を区切る場所には防犯用の扉が設けられているのだが、外縁部は大名屋敷が並んで居る為、何か有っても自己責任と言うことか、郊外との区切りには特に何の備えも無い。
此処から先は只管田畑が広がるだけで、あと有るのは各藩の下屋敷と農家の家だけだ。
そしてその時点で母上の行く先に目星が付いた、この道の先にある我が猪山藩の下屋敷、その建物が無数の篝火や提灯で闇の中に煌々と照らしだされていたからだ。
……まさか、母上の相手は中間の松吾郎だろうか?
もし俺の想像通りでそれが明るみに出れば、武士ですらない家臣とも呼べない男に妻を寝取られたと、父上は物笑いの種にされ猪山藩の威信は地に落ちるだろう。
藩の威信云々は置いておいたとしても、俺は今の家族が壊れる事を望んでいない、いやそんなことは無いと思いたい。
だが、俺の考えは他所に母上と思しき提灯は、下屋敷を照らす灯りの中へと消えていった。
……目的地は割れたのだ、前世での捜査ならば単身でこのまま踏み込んだりはしない、まずは一度報告に戻るべき局面だ。
そもそも一人で尾行をする様な事は、スタンドプレイと見做され決してやっては行けない行為と戒められてきた。
しかし仁一郎兄上、せめて義二郎兄上が居れば相談の一つもしたが、こんな事を相談できる相手は今の江戸には居ない、信三郎兄上では子供過ぎると本人に言えば怒られるかも知れないが、流石に今回の件はセンシティブ過ぎるだろう。
意を決し闇に紛れて屋敷の塀へと走りよる、近づいてみれば多くの篝火が焚かれているのは門の回りだけで、回り込めば早々見つかる事は無いだろう。
見張りらしき男達の姿も門の所だけで、外周を見回っている者の姿はない様だ。
塀の高さは一間程、そのまま乗り越えるのは難しいが、氣を使う事の出来る今の俺ならば飛び越えられない高さでは無い。
パン! っと氣が弾ける音がしたが、それを見張りが確認しに来た時には、俺は既に塀の中へと飛び込んでいた。




