千二百五十四 江戸の治安と人攫いの行く末を考える事
「と、そんな訳で人死は出さずに対処しましたが、実際ソレが正解だったのかどうかは解らないんですよね」
江戸のへと戻った俺は下屋敷に滞在し二泊三日で江戸観光を楽しむ予定だと言う動員された者達と別れ、お連と二人だけで猪山藩屋敷へと帰って来た。
流石に江戸州内まで戻って来れば昼間の表通りでは、然う然う拐かしなんて真似は出来やしないのだ。
コレは逆に言えばお連が一人で裏路地なんかに入れば、強右衛門の手の者が手ぐすねを引いて待ち構えて居ても不思議は無いと言う事でも有る。
一応は家長の同意無く攫って来た子どもなんかを人市で売る様な真似は、御法度として禁じられては居るのだが、法で禁じた位で完全にそうした犯罪が無くなるなら何処の世界も平和で安全な暮らしが出来るだろう。
実際、前世の世界の中でも上位に入る治安の良さを誇って居た日本でも、年間の行方不明者は警察に行方不明者届が出されて居るだけでも毎年十万人に届かない位の数字に成っていた。
その中でどれ程の人数が実際に事件に巻き込まれたのか、それとも本人の意志に依る家出の類なのかを判別する手立ては無かったが、実際に海外の密偵が日本人を拉致していたと言う事実が有る以上は、そうした事例が全く無いとは言い切れない。
ましてや此方の世界は世界樹に依って、前世日本以上に戸籍の管理は行われている物のソレを照会する手段は限られており、公的な人市以外で闇取引される子どもが全く居ないと言う訳では無いのだ。
ちなみに公的に認められた人市で売られて居るのは、借財の形として子ども以外に担保と成る物を用意出来なかった場合なんかに、金貸しから女衒と呼ばれる者へと売られた者達である。
一応、法的には彼等彼女等は奴隷として人身売買される訳では無く、飽く迄も賃金を先払いされて働きに出された者と言う扱いで、その際に貸付られた額面を支払う為の『年季』が定められ、その期間きっちり勤め上げれば後は自由の身となる事が出来るのだ。
この辺の扱いは向こうの世界の江戸でも似た様な物だったと聞いた覚えが有るが、食糧事情の差や霊薬の存在を含めた医療技術の差なんかも有って、向こうでは年季が開けるまで勤めれるのは稀だが、此方では年季開けまで働けるのは割と普通だったりする。
その上で江戸の吉原遊郭や京の都の島原遊郭の妓楼に禿として入り、更に引込と呼ばれる未来の太夫候補に成る事が出来る様な上澄みとも言える立場に成る事が出来れば、下手な大名の姫君より良い生活が出来る事も有り得るのだ。
そして無事に太夫とも成れば大藩の大名や大店の旦那が目玉が飛び出る様な銭を詰んで身請けし、側室に成ったり妻と成って一般社会に戻る事も有り得る。
更に稀有な例で講談話にも成っている一件として、大店の若旦那からの身請け話を蹴って年季が開けるまできっちりと勤め上げ、その後に決して裕福とは言えない町民の鬼切り者の所へと押し掛け女房同然の形で嫁入りした……と言う話も有ったりするらしい。
その講談を語る者に依って多少の味付けがされるのは話の常で、時には町人の男が比べる者も無い程の色男だったとか、時には並の男とは比べる事も出来ぬ程に逸物が大きかったとか、はたまた実はその男は禿河の血を引いていた……と〆る場合もあるそうだ。
そうした稀有な例外は兎も角として、御大名に見初められて側室に入るなんて事に成れば、当然の様にその身元は洗われる事に成る。
その際に真っ当な手段で女衒の所に行った娘なのか、それとも拐かしの様な違法な方法で連れて来られた娘なのかは解かってしまう為に、何処の忘八者でも例えソレがどんなに器量良しだろうが少しでも素性に怪しい所が有れば買う様な事はしないらしい。
ソレは御公儀が認め運営されて居る楼閣に限らず、比較的安い価格帯で春を鬻ぐ岡場所と呼ばれる様な場所でも概ね同じで、万が一にも素性を疑われ捜査の手が入れば見世の主もその家族も一族郎党皆死罪……と、違法な人身売買は可也厳しく取り締まられている。
では攫われた子どもの行き着く先はと言えば……鬼や妖怪に攫われたならば運が良くてその種の繁殖用の孕み袋として扱われたり、妖術に依って同種の存在へと作り変えられたりする事もあるらしい……運が悪ければ当然の如く其奴等の腹に収まる事に成る訳だ。
対して攫ったのが盗賊団なんかの場合には、子どもの内は内部の雑用係なんかに使って、成長したならば男児で有れば盗賊団の構成員として扱い、女児ならば団員共有の慰み物と言うのが割と定番だと聞いた覚えがある。
他にも街道から大きく外れた場所にある小さな宿場なんかでは、真っ当な方法で人市から買う程の銭は出せないからと、危険を承知で怪しい女衒から女児を買って飯盛り女や湯女として育てる事もあるらしい。
そして一番大きな可能性としては、外つ国へと売りに出されると言う案件である。
火元国から最も近い東方大陸北部を占める鳳凰武侠連合王国は、四年毎に入れ替わる可能性のある三人の王に依って比較的安定した統治が行われては居るが、末端の末端までソレが機能しているとは言い辛い部分もあるらしい。
南部の龍人王国は自国民に関しては様々な面で手厚い保護政策を行っているのだが、他国から来た者に関しては割と適当と言うか何と言うか……扱いが微妙らしく、そうした政策の不備を利用して闇組織の類が平気で買って南方大陸へと転売するのだそうだ。
一応は南方大陸でも違法に奴隷とされた者の人身売買は犯罪では有るのだが、大陸全土が一つの帝国で有りながらも帝位を巡って幾度となく戦乱が繰り返されて来た彼の地では、戦争で捕虜に成った者が奴隷として扱われるのは当然の事とされて居る。
普通は戦争の捕虜も相応の身代金が支払われれば、祖国へと返還されるのが常なのだが、一般の動員兵や逆に敵国から二つ名を着けられた様な英雄が捕虜に成った場合には、前者は身代金の充てが無く後者は高すぎる身代金が着けられる為に奴隷落ちは一定数居るのだ。
そうした事が割と日常的と言えるが故に、出所が怪しい奴隷だからと一々身元を洗う様な事は、冒険者組合の介入でも無い限りは行われないのが普通だと言う。
……なんせ南方大陸では人間以外の種族の者が一人歩きしているだけで、人狩りに遭って奴隷市場で売られるのが未だに合法とか言う修羅の大陸だからなぁ、他の大陸の『人間』でも見た目が違えば亜人扱いされるのが当然なのだそうだ。
いや、世界樹の神々はなんで南方大陸の惨状を放置してるんだよ? と聞きたく成るが、その辺は神々から統治を委任されて居る皇帝が今でも存在している世界でも稀有な場所として、人類側の自主性に任せて居るのだろう……多分。
ちなみに此の世界は古い時代には四つの大陸全てに皇帝が居り、其々が神々の委任を受けて各地を統治していたのだが、東北西の三大陸は様々な理由が有って既に皇帝と言う制度自体が失われている。
では火元国に居る京の都の帝はどう言う経緯で世界樹の神々から統治を委任されたかと言えば、元々は東方大陸の皇帝の系譜だったらしいが大陸から相応に距離が有る火竜列島を統治する為に興した分家筋に当たる……らしい。
その辺の事を鑑みるとワイズマンシティで幅を効かせている犯罪組織の一つであるドン一家の頭領が、その主張通りに鳳人帝国皇帝の子孫だとするならば、京の都の帝と遠い親戚と言う事に成るのだろうか?
……その線で考えると、直接の血縁は無いけれども猪山藩猪川家も帝とは外戚関係にある訳だし、そう言う意味ではミェン一家の頭領であるラウ・ミェン氏とも遠い遠い親戚と言えなくも無いのか?
まぁ『遠くの親戚より近くの他人』なんて言葉も有るし、不確定な事に頭を巡らせても何の意味も無いな。
取り敢えずはお連が出掛ける用事が有る時には、必ず俺か姉上達の誰かに着いて行って貰う様にするのが一番だろう。
「向こうがどんな手札を持っていて、どんな手管を使ってくるのかは、残念ながら俺じゃぁ読み切れませんので、後はお任せします御祖父様」
本当ならこの猪山藩江戸屋敷よりも更に安全性が高いだろうワイズマンシティに有るお花さんの屋敷に送り届けるのが良いのだろうが、義理の娘への花嫁修業は義母の特権と言い張って聞かない母上に押し切られてしまったのだ。
取り敢えず天目山で発注した装備が無事に届くまでは、此方の屋敷に滞在させて母上に付き合わせ、装備が届いたら向こうで慣らし運転をすると言う方向で話は決まってしまった。
……御祖父様ですらソレに反対意見を出せない程の剣幕だったのだから、俺如きでどうこうできる問題では無い。
そんな内心を悟らせない様にしっかりと表情は作って居た筈だが、どうやら御祖父様と俺二人の心が重なり合ってしまったらしく、俺達は似たような表情で深い深い溜め息を一つ吐くのだった。




