少年、苦行
0.
「一母今日帰ってこないの?」
「なら泊まってっていい?」
こういうことを軽々しく口にする、こっちを全面的に信頼してくれている女の子に、無体を働けるわけがない。すっかり真澄の一件から遊を女の子として見るようになっていた僕は、間違っても手を出さないにと拳を固く握った。たまーに忘れそうになるが、彼女は妹でもなんでもない存在なのだ。
遊が作ってくれた晩ご飯を、皿に盛る。うまそうだ。
二時間スペシャルだというバラエティ番組がついていたが、あまりバラエティは好きではない。食事中にテレビが騒がしいのもあまり好きではないので、さっさと消した。
ようやく落ち着いた室内で、手始めにスープを一口、口に運ぶ。
「うま……」
肉をスプーンで掬いあげて黙々と目の前の幼馴染手製のボルシチを食べる。酸味の効いたサワークリームと相性抜群のさらっとしたスープは、ご飯によくあった。確かに遊に釘を刺されてなかったら、タッパに詰める分まで食っていたかもしれない。我ながら男子高校生というのは恐ろしいほど食べるなと思う。最近、何をしても腹が空く。中学で止まっていた身長が伸び出したことを思うと、まだまだこの食生活は続くんだろう。母さんが食費のエンゲル係数を下げたいと嘆いていたばかりだけど。ちょっと申し訳ない。
あっという間に、皿は空になった。
静かなリビングには慣れたが、やっぱり少し物悲しい。テレビでもつけるか、そこでバラエティ番組を思い出す。この時間帯なら他も似たようなものだ。うん、部屋にでも戻ろう。リビングを抜けて、2階へ上がろうと階段に足をかける。
「……あ」
そこで、2階にはちょうど風呂に入っている存在がいることを思い出した。あの子、僕とはいえ異性が入った湯によく浸かれるよな。危機感とか、ないのかな。……いや、生徒会への印象をみる限り一応あるにはあるんだろう。懐に入れたものへの態度が寛容すぎるだけだ、多分。にしても
「お父さんの洗濯物と一緒にしないでっていう反抗期はもうおわりましたー」
って、それはないと思う。そもそも目をつけるところが違う。反抗期のことを聞いてるんじゃなくて、異性が入った風呂に花も恥じらう女子高生がためらいもなく入るのはどうなんだ。思わずあの時は顔をしかめてしまったけど、彼女は気にもとめていなかった。
その、彼女が、この階上に。思わずもわもわと変な想像をしてしまう。しなるような肢体、薄く赤らんだ頬……ええい、消えろ消えろ!
「あぁ、もう!」
こうなったら皿洗いでもして気を紛らわせるしかない。
1.
もんもんとした雑念を振り払うように皿を磨く、水で流す、を繰り返す単純作業をしていると、気分がだいぶ落ち着いてきた。僕は欲望に打ち勝ったんだ、ほんと良かった。
遊の言っていた話を脳内でもう一度思い出せるくらいには落ち着いた。この世界がゲームとか、遊は死んだ記憶があるとか、ましてや転生だとか、現実味のない話だ。しかも僕はゲームの登場人物で、遊は自分のことをイレギュラーだと言った。新しい情報が多すぎて、どこから手をつけたらいいのか分からない。でも、分かったこともある。遊をゲームの同じく登場人物だという生徒会へ近づけるのだけは、絶対にダメだということと、生徒会と遊の接点は僕だということだ。
遊に学園への入学を進めたのも、彼女を危ない目に合わせているのも僕で、僕が守らなくちゃ遊はあまりにも力がない。
「……問題は多いな」
しばらく対策を考えていると皿洗いも終わってしまった。後ろを振り返ると、遊がソファに座って静かにしているのがわかる。気を使わせてしまったかな。
なんだか今更声をかけるにはどうしたらいいのか分からなくて、隣に少し間を空けて座る。さっき変な想像をしたせいか、遊の顔を素直に見れない。お前は僕を信じてくれているのだというのに不甲斐なくてごめん、遊……!心の中で懺悔していると白湯を手に取った遊がおもむろに息を吐き出した。ほんとごめん、と謝りそうなのをこらえる。
「味、どうだった」
しまった、他のことに気を取られて、一食の恩人に何て無礼をしていたんだ僕は。
「もうほんとうまかった、ごちそうさまでした」
「お粗末でした」
いや、ほんとうまかったよ。慌ててもう一回言うと、ゆるゆる綻んだ遊が可愛かった。それからは何もなかった。別に何もなかった。体が密着したり、ちょっと顔が近づいたりしたけど、僕に下心は微塵もなかったんだ。誓っていい。
僕は、少し目が赤くなっている遊を見た瞬間そういう雑念は吹っ飛んだんだ。それで頭が冷えた。
「やっぱり。カッとなってたんだけど、無理に聞き出したの悪かったと思ってる」
「思ってるなら、これからの生徒会接触回避に全力を尽くして」
淡く笑う遊、無理しているのがバレバレだ。無理させていたのは、十何年と付き合ってきてすこしも違和感に気付いてやれなかった僕だ。
僕が、守るんだ。本日何回目かも分からない決意を、心中で固める。
「分かった」
そして僕は、皿洗いの最中考えていたことを話だした。
2.
「さっき言ったけど、双子はまずほっとこう。んで優と真澄だけど。どっちも付き合いが短いけど、優のほうは、一年間おんなじ委員会で過ごした僕の見解は、頭も切れるしいい奴だからあんまり気にしなくてもいいと思う。ただ単に遊と仲良くなりたいだけなんじゃないかな。それも嫌だって思うなら遊は拒絶していい。多分、優は受け入れてくれるよ」
「副議長さんと一くん仲良かったんだ」
「ちょっとくらいはね。真奈美の幼馴染なわけだし」
「そう」
心底興味なさげに、遊は呟いた。そのまま、きっかり45°首が傾く。無表情だが、きょとんとした顔。なんだ、なんていうか、ちょっと可愛い。
「双子はほっといていいの?」
「あれは真澄が煽らなければ大丈夫だと思うんだよね。たまに話しかけるかもしれないけど、そん時拒絶はやめといたほうがいい。当たり障りなーく喋ってればすぐに飽きるから」
「へぇ」
「真澄はなー。遊のこと絶賛してたし、俺と遊が恋人同士だっていう疑惑をまだ抱えてて、それで突っつきたいんだと思う。双子以上の好奇心の塊だってのは半年の付き合いでも分かるよ。拒絶しても否定しても褒めてもおだてても絡んでくるよ、あいつは。こっちの意図を見透かしてね。もうどうしようもないから、あのさ、しばらく距離をおけばいいかなって、思ってる」
「距離を、おく?」
某然としたような表情の中に、不安が見て取れる。そんな顔するな、って抱きしめたい衝動を必死に抑えた。遊は女子、妹じゃない、守らなきゃいけない子。さぁ、踏ん張るんだ佐伯一!
「そう。今までは国語科研究室に入り浸ってたりもしたけど、それもダメ。図書館に近いし、いつ書庫に忍び込んでるかわかんないから。帰りは送れないから、夜暗くならないうちに帰るようにして」
「うん」
「真澄がそれでも何か言ってきたら、会長とは家が近くて小さい頃たまに遊んでただけだ。変な勘違いは迷惑だからやめてくれってお願いして欲しい。話が分からない奴ではない、と、思う……ただ、一発で聞き分けるような子でもないから、遊には少し迷惑をかけることになると思う。僕のせいだ、ごめんね」
「ほんとだよ」
ぶすっと唇を突き出して、遊は語り始めた。
「副会長、腹黒なんだよ、ゲーム設定だと。2週目からの隠しキャラで、生徒会は後期から入る組。攻略難度は一番高くて、気まぐれ猫」
「僕のイメージもほぼそんな感じだよ。やっぱりゲーム設定は僕の性格とか、彼らの性格とかに影響してきてるのかな」
呟いた何気ない一言だったけど、遊は顔面を蒼白にしてこちらを見つめていた。それから、しばらく何も話さなかったので、僕はその顔を見続けることになった。遊が心中で思っていることを、僕に慮ることはできなかった。




