20話 闇川の逃走。
20話 闇川の逃走。
郊外の貸し別荘を飛び出し、闇川権之助は肺を焼くように息を切らしていた。
ワイシャツは背中に貼りつき、握ったスマホは汗で滑る。
画面には『入金失敗』『取引停止』『口座ロック』の赤字が立て続けに弾け、指はまともに反応しない。
(だめだ……凍結されている。くそ、くそ、くそ……空港だ。まだ手元に現金で二千万ある。これだけ積めばどこでも飛べる。海外に……)
震える指で航空会社のサイトを叩く。
だが『搭乗不可』の警告が躍り、画面は真っ赤に染まった。
予約ボタンは灰色に沈んだまま、何度押しても無反応。
既に手配書が回っている。
絶対に逃がさない気だ。
「センエースの野郎……手を回しやがったな……くそぉ……」
歯を軋ませ、権之助は連絡帳から『闇の番号』を選ぶ。
呼び出し音の後、低い声が応じた。
『――よう、権之助さん。ニュース見たぜ。まあ大変なことになってるな』
「チケットを用意しろ。今すぐだ。現金はある」
『もちろん、あんたの要求に従う。ただ……できれば手渡ししたい。どこで落ち合う? あんた、今どこだ? 心配するな、俺だけはあんたの味方だ』
その響きに、背筋が凍りつく。
それは取引人の調子ではなかった。飢えた獣の、捕食者の声音だった。
「……嘘をつくな。ハンターの声になっているじゃないか……」
通話を切り、闇川は駆け出した。
怒りにまかせてスマホを投げつけたかったが、流石に、この状況でスマホは手放せない。
★
闇川は逃げた。
必死になって。
けれど、民衆は執拗に追いかけてくる。
それも、『自分がどこにいるか』がハッキリわかっているみたいに。
「ど、どうなってやがる……はぁ、はぁ……なんで、俺の居場所が分かるんだ……GPSでも仕込まれてんのか?! ま、まさか……スマホ? そうか、支給端末だ……センエースは財務省にいる……あいつなら庁内ネットから全部抜ける! くそ、なんで気づかなかった!」
そう言いながら、スマホを投げ捨てる。
だが、もう時すでに遅し。
★
「はぁ……はぁ……」
住宅街の路地をぬけて、川沿いの暗がりへ。
スマホは捨てたが、すでに『どの辺にいるか』はバレてしまっている。
賞金目当てて集まってきた大衆の目をかいくぐるのは至難の業。
「いたぞ! 闇川だ!」
「億だ、億! 捕まえたら人生逆転だ!」
「殺すな! 殺したらセンエースにやられる!」
「殺さずに捕まえるって……むずくね? どうやんの?」
「縄持ってこい! 縄!」
四方から声が押し寄せる。
もう足も限界。
逃げるのを諦めた権之助は、震える叫びをあげる。
「ち、ち、近づくなぁああ! じ、じ、自殺するぞ! 俺が死んだら困るだろ!」
群衆は一瞬ためらった。
その隙に、権之助は息を荒げ、口走った。
「くそ……なんで、こんなことに……せっかく、裏風俗のプレミア予約が取れたのに……プレミアは年に一回ぐらいしか予約できないんだぞ……この日をどんだけ待ったと思っている! ちくしょう!」
群衆の目が凍りつく。
それは醜悪すぎる本音だった。
「夢か? これ、夢だよな……そうだ、夢だ……」
夜気を震わせる低いプロペラ音。
頭上に黒い影が現れる。自衛隊の多用途ヘリ――ローターの風圧で砂埃とビニール袋が舞い上がり、群衆の髪と衣服を叩きつけた。
サーチライトが一斉に点り、路地の闇が昼のように白く焼かれる。
逃げ場はなかった。
開いたドアから、黒装備の狙撃手が銃を構える。
狙いは一瞬。発射音は抑えられ、代わりに金属的な「パスッ」という破裂音。
矢のような麻酔弾が闇を裂き、権之助の首筋に突き刺さった。
「……が、はっ……!」
針が入った瞬間、全身の力が抜ける。
膝から崩れ落ち、アスファルトに手を突こうとしたが指先に力が入らない。
瞳は泳ぎ、泡立つ唾液が口端から垂れた。
呼吸は浅く、喉がひゅうひゅうと鳴る。
「目標、沈黙。回収してセンエースのもとへ搬送する」
無線の報告が夜気を裂く。
群衆から歓声が沸いた――だが、それはすぐに不満の叫びにかき消された。
「うわ、ずる!」
「ヘリとか卑怯だろ!」
「麻酔銃か……もっと早くにこのイベント告知してくれてたら、俺も準備できたのに!」
「国に横取りとかマジで納得いかねぇ!」
「返せよ! 俺の一攫千金!」
兵士たちが権之助の身体を両脇から抱え上げると、風圧で地面の砂利が跳ね、民衆は思わず目を細めた。
罵声、羨望、怒声。
混ざり合った熱が、夜の路地を揺らした。




