1話 民衆のざわめき。
1話 民衆のざわめき。
週明けの月曜朝。
――渋谷サミットの翌日。
『責任は命で取れ』――その一句は、壇上を離れて通勤電車と居酒屋、寺社とモスクと教会、取引所と裏路地にまで沈殿した。
世界は、ゆっくりと、だが確実に軋み始める。
★
――寺の本堂で木魚が止む。
線香の煙が揺れる中、住職が掌を合わせ、低くつぶやく。
「衆生済度とは、己の身を賭して約を果たすこと……『責任を命で取る』は仏心に近い。だが、外から強いられた誓いは誓いと呼べるか」
信徒たちは目を伏せ、静かなざわめきが広がった。
――教会の告解室。
薄暗い木の仕切り越しに、若者が震える声で問う。
「センエースは神……なのでしょうか?」
神父は短い沈黙ののちに答えた。
「いや、かの者は人類に与えられた試練だよ。あるいは、信仰が『誰に向いているか』を映す鏡だろう」
若者の息が止まり、かすかなすすり泣きだけが残った。
――モスクの中庭。講話を終えた学者が輪を作る。
「唯一神の外に神なし――この原則は揺るがぬ。ただ、『殺生の抑止』を説く声を直ちに悪と断ずるのも、学者の態度ではない」
静かな頷きとともに、学生たちが記録用のノートに書きつける。
★
――取引所のフロア。
始値を告げる電子音と罵声が重なり、パネルの数字が点滅する。
「『渋谷リスク指数(SRI)』、寄りでまた跳ねた!」
「一言で為替が三円動くとか、ファンダ死んでる!」
板は薄く、先物は気配のまま固まり、サーキットブレーカーが淡々と仕事をする。
SRIはディーラーが呼んだ俗称にすぎなかったが、その一言が口座残高を吹き飛ばす現実となっていた。
――商店街の八百屋。
白菜の値札は朝から倍に貼り替えられ、店主は汗を拭いながら箱を運ぶ。
「物流が一回止まると戻すの三倍かかるんだよ」
顔なじみの主婦が、買い物かごを抱えたまま小声で返す。
「まるで戦争が起きたみたい」
「まるでっていうか……戦争だよ。いや、戦争以上かな、これは……」
彼の言葉に、通りかかった中学生までもが耳をそばだて、不安げに足を止めた。
★
――市役所・危機対策室。蛍光灯が疲れた顔を青白く照らす。
「……『セン関連相談』窓口、今日も延長です。件数は昨日の倍。毎日パンクしてる。センエースのことなんか聞かれても知らねぇよ!」
「転生文学センエースを読めば、多少は彼のことが分かるけどな」
若い職員の愚痴と雑談がこだまする。
「センが狙うのって軍人と犯罪者と国のトップだけでしょ? 私たちは殺されないよね?」
女性職員たちが、自分たちの安否を確認しあう。
「……『責任の所在』を『下』まで辿られたらどうするの? 私たちの決裁も意思決定の一部だよ。胸糞な害悪って判定されて消されるかも」
会話は冗談めかしていたが、指先は震えていた。
――学校の職員室。校長がプリントを配る。
「……『神判関連のいじめ・差別は禁止』。保護者説明会を追加。まだまだ仕事が多いんだから、パッパといきましょう」
教頭の指示が飛ぶ。
隅の席にすわる若手教師たちがひそひそと、
「――いじめなんて起きるか?」
「センエースを信仰しない子と信仰する子の間で、色々あるんだってさ」
「子供も大人も変わらないってことか……」
ため息が一斉にこぼれた。
★
SNSのタイムラインに、無数の文字が踊る。
〈#救世主ありがとう〉
〈#思想の自由を返せ〉
〈#渋谷リスク〉
〈#神に監視されています〉
相互ミュートと相互ブロック。
『正しさ』は群れの数だけ増殖し、タイムラインは小さな国家に分裂した。
――深夜の歩道橋。配信者がカメラを構える。
「今からセンエースの寝床に凸ります!」
コメントが火花のように弾ける。
〈やめとけw〉
〈行け!〉
〈通報した〉
数分後、配信は途絶えた。センエースは何もしていない。
現場封鎖の要請で、警察と総務省がプラットフォームに停止をかけたのだ。
翌朝、そのチャンネルは当然のようにBANされていた。
――その配信を、八百屋の主人もスマホで眺めていた。
青白い画面に映る停止マークを見つめ、ため息をつく。
「バカなやつだな……けど、これが今の時代か」
その呟きは、寝静まった商店街に吸い込まれていった。
★
――ワンルームの夕食。レトルトの匂い。
同棲カップルの二人が語り合っている。
「センが手を出すのは悪人だけだから、俺たちは大丈夫なんだよ」
テレビを見ながら彼氏が言う。
彼女はスプーンを止める。
「……悪人って、幅の広い言葉じゃない? 上司の命令に従って横領の決済に判を押したら……私も悪人になるんじゃない?」
「それは……違うんじゃないかな……」
「センエースの心一つでしょ。大丈夫なんて思えない」
「君はいつも考えすぎなんだよ」
皿の上のシチューはすっかり冷めていた。
――団地の一室。祖母が孫の髪を撫でながら大事な想いを告げる。
「悪いことしたら上から怒られる。昔からそうだよ。人は神様の目を気にすることで、少しだけマジメになれるんだ」
「……『上』ってどこ?」
祖母は微笑む。
「お空の上」
「センエースは渋谷にいるよ」
祖母は言葉を失い、孫の目を見返すしかなかった。
★
宗教は揺れ、市場は痙攣し、役所は規程を継ぎ足し、裏社会は息を潜め、家庭は食卓で境界線を引き直す。
誰もが薄々感じていた。『為政者の覚悟』という看板の裏で、世界の作法そのものが静かに組み替えられている、と。
渋谷宣言は、もはや事件ではない。
習慣となり、習慣は制度となり、制度は常識へと変わる。
常識が変わったとき、人はそれを『神の時代』と呼ぶだろう。
駅の連絡通路。
夜風が一枚のポスターの端をめくる。黒い太字が現れた。
〈胸糞(神を不快にさせることは)禁忌〉
八百屋の主人が立ち止まり、その文字を見上げる。
昼間よりも濃い疲労が顔に浮かび、手には仕入れ用の空の買い物袋がぶら下がっていた。
「……胸糞ねぇ……センエースさんよぉ……あんたの言いたいことは、俺には難しすぎるぜ。俺は、たまに、信号を無視して横断歩道を渡るんだが……それも、あんたにとっては許せないことなのかなぁ?」
誰に向けるでもなく呟いた声は、夜風にかき消された。
生ぬるい風が、不安を翌日へ引き延ばす。
――霞が関の灯りは、まだ消えない。




