昔々(4)~現在
全身が悲鳴をあげている。
それなのに、喉の奥に何かを詰め込まれたように、声が出ない。
すくんだ身体を少しでも恐怖の源から離そうと身をよじると、後頭部がズッと音を立てて床を擦った。
私の身体の上に馬乗りになった男が、顔をゆがめて笑う。
「なんだよ、逃げようってのか。本当は喜んでいるんだろ」
そのことばとともに、男の片方の手が喉を圧迫し、もう一方の手が身体をまさぐりはじめる。
むちゃくちゃに振り回した手が男の頭にあたり、次の瞬間、耳元でパシンと乾いた音がはじけ、目に火花が散った。
頬を張られたのだと分かるまでの間に、男の顔色が怒りに赤黒く変わっていった。
「抵抗する気か。裏切り者の汚い血を引く卑しい女のくせに、お袋をうまく丸めこみやがって。おまえなんか、こういうのが似合いなんだよ」
言い放たれたことばを頭がゆっくりと理解する。徐々に、身体から力が抜けていった。恐怖が少しずつ遠のくかわりに、自嘲的な気分が胸をふさぐ。
・・・そう。私のような境遇で、十八になる今日まで、このようなことが身に起こらなかったのは、むしろ幸運と言えるのだろう。
世の中にはもっと・・・
「やっと分かったか」
抵抗がやんだのを合意ととったのか、にやりと笑った男――男は世話になっている叔母の息子、つまり、従兄の一人だった――の顔が近づいて、強引に口づけられた。
唇に歯があたって、口の中にかすかに血の味が広がった。
これから自分の身に起こることなんて、たいしたことじゃない。たいしたことじゃないはずだ、と唱えるように何度も自分に言い聞かせる。
世の中にはもっと、辛い思いをかみしめた人がたくさんいる。
たとえば、身勝手な正義に巻き込まれて命を落とした人だとか。
その無念さに比べれば、私なんかの身にこれから起こることなんて、たいしたことじゃない。
「はっ、タダ飯喰らいめ」
そう、タダ飯喰らいで、裏切り者で、こんな身体に何の価値もない。
こんなことが起こる前から、何となく、分かっていたこと。
私には、誰かと思いあって、時間を忘れて語らうようなときは訪れないんだと。
恋人とやさしい口づけを交わしたり、無垢な顔をして結婚を誓いあったりする日は来ないんだと。
それくらいのことは別に、珍しくもないけれど。
目を固くつむって、もう考えるのを止めようと思ったとき――目の奥に白く小さな花が像を結んで消えて、それからよく知る男の子の悲しげな顔が見えたと思った。
はっと我にかえって身をよじると、あっけなく身体の上にあった嫌な重みがなくなっていた。
「カロル! ねえ、どこにいるの? ちょっとびっくりな話があって早く帰って来たのよぉ」
場違いなほど明るい叔母の声が階下で響いた。立ち上がっていた従兄がチッと舌打ちする。
「お楽しみはまた今度にしてやる。間違っても告げ口しようなんて思うんじゃねえぞ」
私は結局、叔母の「びっくりな話」に一も二もなく飛びついた。
両親を亡くして以来、ずっとこの叔母の家で世話になってきた。小さないとこたちの面倒を見たり、家業の菓子屋を手伝ったりと、賑やかな音があふれる場所で送る毎日は、余計なことを考える必要もないほど慌ただしかった。そしてそれは、私にとってありがたいことだった。
しかし、あの従兄から不穏な気配を感じるようにもなり、なんとか早く、自立できないかと考えていたところだった。
叔母の話によれば、領主様のお屋敷に焼き菓子などを納めに行ったところ、私を名指しで使用人として入らないかと打診があったという。なにぶん突然の話だったから、叔母は最初、かなり警戒したらしい。
あの従兄のことは、この家を出たいと思う一番の理由ではあった。
だが、そうでなくても、領主様のお屋敷で働くなど滅多にできる経験ではない。ある程度の年齢になってお暇をもらったとしても、次の職探しに有利に働く経歴になるに違いないと、私はしごく現実的に考えることができた。
さらに、気のいい叔母が、お屋敷にあがることが決まれば、「支度金」としてまとまった金額が家に落とされることまであっけらかんと口にして、世話になるばかりだった私の心は少しばかり軽くなった。
こうして、叔母夫婦と年下のいとこたち、そして、驚いたことに、気まずげな顔のあの従兄にまで見送られて、私は領主様の屋敷にあがることになった。




